ゴールデンタイム

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梗 概

ゴールデンタイム

主人公、生見美優(ぬくみ みゆ)25歳は、スポーツジムの優秀なインストラクターである。彼女は午前、午後、深夜の2コマずつ、ボクササイズとズンバとパワーヨガを教えていた。ハードな教え方に定評のある彼女のレッスンは人気で、スタジオはいつも生徒たちで溢れていたが、生徒の半数は死者である。死者が生きている人々と一緒にスタジオで汗を流している姿は、どこのジムでも見られるごく普通の光景だ。2080年の現在、人々は死んでもなお健康な肉体を維持し、成仏した死者たちは生前と変わることなくスポーツジムに通い詰めていた。美優の勤めるジムでは、生きている会員を「生会員」、死者の会員を「天上会員」と呼び、天上会員の月々の会費は遺族から支払われる。遺族たちは盆と正月にはジムを訪れて、ご先祖様が元気にフィットネスに励んでいる姿を見て嬉しそうに両手を合わせるのだった。

昔、地球の先進国と呼ばれる国々では健康ブームが起こり、日本もその例にもれず、ジョギングやジム通いをする人々が増えた。その高い健康意識は世代を超えて受け継がれ、人々の生活習慣となり、やがて人類の文化となった。不滅の肉体を実現させたのにはプロテインの研究開発の力が大きかった。人間の筋肉は主にたんぱく質(プロテイン)から成っているが、運動によってこのプロテインが大量に消費されると、筋肉疲労を起こすことになる。そのため運動後すぐにプロテインを補うことが必要とされ、強靭な肉体づくりのためには運動後30分以内に摂取するのが望ましい。この運動後30分のことをスポーツ科学では「ゴールデンタイム」と呼び、この間に体内に入ったプロテインは筋肉を最も効率よく修復するだけでなく、運動前よりも強い肉体へと昇華させることができる。つまり体は、運動、筋肉破壊、回復のプロセスを繰り返すことで強くなる。歴代の研究者たちはこの点に着目し、プロテインを構成するアミノ酸の合成速度を速めることに成功した。これによって「ゴールデンタイム」は5分に短縮され、その間にわずかの疲労さえも体から取り除くことが可能になり、よって人々はより頻繁に運動に励めるようになった。また研究者たちは老化を遅らせる様々な栄養素の開発にも成功し、抗酸化作用を強化したザクロや緑茶、老眼を防ぐアントシアニン強化型ベリー類、一錠で膝関節の動きを一年間スムーズにするヒアルロン酸カプセルなどのおかげで、人々は加齢とともに外見はたとえ衰えても、体内年齢は若さを保っていた。90歳、100歳のお婆さんがウォーキングマシンの上で全速力で40キロ走れるのも当然のことだった。

しかし死は誰にでも訪れる。死とは魂が肉体から離れることを意味した。ある朝、意識がすっとなくなり、心が体を離れていく。残された健康な体は生前の生活習慣を覚えていて、昨日と変わらずジム通いを続ける。それが大往生のあるべき姿だった。世の中には事故や事件や自然災害やテロに巻き込まれて命を落とす人もいて、不幸にも人生を全うできなかった人々は墓地に埋葬された。だからジムの「天上会員」になれることは幸福な死に方をした証であった。「天上会員」には3つの共通した特徴があった。①誰ともコミュニケーションが取れない、喋れない。②両目は瞳孔が開き、顔は無表情である。③24時間営業のスポーツジムに24時間いる。

美優はスポーツインストラクターのための全国大会で優勝するために、レッスンの合間を縫って自分のためのトレーニングもしていた。大会で優勝すれば「ナショナルトレーナー」の称号が与えられ、職場での年収が格段に上がる。毎日、6コマのレッスンを教え、かつ自分のためのトレーニングもこなす生活は、プロテインを欠かさず摂取しているといえども体力的にきつく、一日が終わる頃には食欲もないほどへとへとになった。そんな日々を続けるうちに、美優は死者たちの強靭な体力と持久力を妬ましく思うようになる。彼らは意識と感覚を亡くしているために疲れ知らずになり、美優のハードな指導にも難なくついてくる。ボクササイズもズンバもパワーヨガも彼らにとっては生前の生活習慣の反復のようなものなのだ。美憂は生きている人間は体力的に不利だと思った。それでも死者の体力を越えたいと思った。笑顔でスタジオに立つ自分が必死に疲れを隠していることを死者たちに見抜かれているのではないかという疑心暗鬼に捉われて、やがて死者たちを疎ましく思うようになった。

ある日、美優のレッスンで事故が起きた。ボクササイズでステップを間違えて足をもつれさせた「生会員」が、隣でジャブを振っていた「天上会員」のパンチをもろに食らい、鼻骨を骨折したのだ。彼の職業がテレビタレントだったことも問題になり、美優の監督責任が問われそうになったが、彼が個人的に美憂を好いていたこともあって追及は免れ、怪我の治療費はジムと遺族側が折半することで折り合いがついた。しかしこの事故がきっかけで生者と死者は共存できないという声がジム内で持ち上がった。これまで「天上会員」に対して密かに抱いていた不満や、死者だと思って黙認してきた様々な苦情が「生会員」から噴き出した。「生会員」はあらゆる言葉で「天上会員」を非難したが、「天上会員」は言葉を持たないために言い返すことができなかった。遺族も現場を見ていないので反論することはできなかった。

騒動は結局、ジムの隣に「天上会員専用」のジムを新設することで決着がついた。一年後、新しいジムが無事に落成した。美憂は全国大会で見事優勝し、晴れて「ナショナルトレーナー」の称号を手にし、カリスマトレーナーとして活躍していた。例のテレビタレントとは鼻骨骨折を機に恋人になり、順調に交際を進めていた。新しいジムのオープン日、スタッフや遺族に手を引かれてぞろぞろと隣のジムに移動させられていく「天上会員」たちを見て、美優は自分でも驚いたことに、死者に対して罪悪感と感謝の念が同時に胸に湧き上がるのを抑えることができなかった。

一か月後、美優はすべてのレッスンを自ら降りると、「天上会員専用」のジムの専任スタッフになることを願い出た。

文字数:2504

内容に関するアピール

「変な世界を設定せよ」という課題を与えられて、私が真っ先に思いついたのは、健康志向の行き着く先にあるかもしれない世界でした。昨今の健康ブームは運動だけでなくスムージーやサプリメント、マイナスイオンなど数限りなくあり、健康志向を揶揄したジョークで、「健康のためなら死んでもいい」というフレーズを聞いたことをきっかけに、ならば死んでも健康であり続ける世界を描こうと思いました。

この作品に登場する死者たち(天上会員)は、映画やドラマに出てくる「ゾンビ」のように恐ろしい姿ではありません。肌の色つやも良く、足腰もしっかりした、いわば若々しくて元気なお年寄りのようなイメージです。この作品の中で設定した死の概念は、肉体に寿命はないけれど、魂には寿命があるというものです。人は長く過ごしたこの世に飽きて、次のステップに昇るべくあの世へと魂が旅立ちます。あるいは、物事の認知能力の限界が訪れて死を迎えます。肉体は不滅でも頭には寿命があるのです。スポーツではよく「体で覚えろ」という言葉を使いますが、つまりダンスのステップもヨガの開脚も体に覚えさせることでマスターできる。頭で考えようとするとむしろ失敗してしまいます。死後の肉体にこの理屈を当てはめたら面白そうだなと思いました。

この作品で他に描きたいことは、高齢者と若者です。死者がアクティヴに過ごすジムで、生きている高齢者は「天上会員」のことをどう思っているのか? インストラクターに象徴される若者は、高齢者と「天上会員」をどのように区別しているのか? 魂が死んでも肉体が死なない世界では、死者に対する畏怖の念はどのような形で現れるのか?などを物語の中で丁寧に描いていくつもりです。

文字数:709

課題提出者一覧