虫のしらせ

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梗 概

虫のしらせ

2210年、惑星アペイリアの採掘コロニーは宇宙開発史に残る最大規模のパンデミックにより炭鉱作業従事者・研究者合わせて1203名が置き去りのまま閉鎖された。28年後の2238年、閉鎖されたはずのアペイリアより救難信号が届く。パンデミックにより心身に異常をきたした人々の手によって通信・遠隔操作は一切が打ち切られ、今では廃墟となったはずのアペイリアに8名の調査チームが潜入する。主人公は新人隊員Kである。本作はKの一人称視点「私」により語られる。

 

アペイリアは表面を厚い雲に包まれ、地表は凍りついた揮発性鉱物油で覆われている。風速80メートルを越える激しいブリザードが吹き荒れており、電気は風力発電でまかなわれているが食糧自給率は0%の不毛の地だ。

 

潜入した調査チームが採掘コロニー内で目にしたのは、パンデミックを生き延び生活している人々の姿だった。彼らの様子はどこかおかしい。話し方が単調で個性のようなものが感じられない。彼らの仕事は徹底的に分業されていた。重要な資源であるアペイリアの鉱物油の採掘作業に没頭する者、コロニー内で生まれた子供の世話をする者、ただただ生殖だけを繰り返す者。彼らの暮らしは奇妙で不平等なものに見えた。調査チームの間では、27年前のパンデミックは従事者達の単なる一斉蜂起だったのでは、という意見も出る。

 

彼らを観察している内に奇妙なことが起こり始める。彼らの内の一人にしかしていない会話を他の人々までもが把握している。それが施設内で同時多発的に起こったのだ。調査チームは彼らの社会が言語を使わない特殊なコミュニケーションで成り立っていることに気付く。その奇妙な現象はやがてチーム内でも見られるようになる。Kはチームメイトの心の声が聴こえるようになり、知るはずのない記憶が混ざり、自我と他者の境界が曖昧になる。それとともにKの一人称も「私」から「我々」に、「彼・彼女ら」が「我々」にと変化していく。そうかと思えば語りはKのものではなく、いつの間にか別の人物の視点に切り替わる。やがてチームも「我々」に取り込まれ、コロニーの人々と同じ行動をとるようになる。チームは当初の任務を忘れコロニーの暮らしに染まっていった。

かろうじて自我を取り戻したKは、28年前に感染し、研究所内で寿命をまっとうした植物・鉱物学者イワンコフ博士による感染初期の手記を発見した。28年前のパンデミックの正体は、採掘していた鉱物資源が揮発することにより引き起こされた未知の感染症だった。感染した人間は「我々」という目に見えぬ存在に意識を乗っ取られ、思考を操られてしまう。Kは残された手掛かりから感染を食い止める方法を探す。博士の研究室には「It isn’t bee.」という殴り書きと、ドッグイヤーされた昆虫図鑑が残されていた。Kは「我々」の生態が「蜂」と似ていることに気付く。

 

Kは蜂の生態を調べあげた。「分業制のカーストがあり、利他的行動をとる」などまさにコロニー内で行われている社会行動に当てはまった。ではなぜ博士は「It isn’t bee.(蜂ではない)」と書き残したのか。

 

蜂の生態を把握したKは、どこかに感染源である女王蜂がいるはずだとコロニー内を探し回る。ついに採掘現場に鉱物の塊でできた巣を発見し、女王蜂を見つける。洗脳を解くために彼女を殺そうとするが、女王蜂の口から「我々」の真実が語られる。

 

この私は確かに女王蜂ではあるが、「我々」とは「私」のことではなく、巣そのもののことである。そもそも「我々」には「個体」という概念がなく、通奏低音のような連続した「集合的無意識」しかもたない。代替可能な女王蜂という個体を殺したところでこの巣の支配は終わらない、と。

 

意識のみの存在である「我々」は、コロニー拡大のために外から新たに人々を呼び込もうとしていた。アペイリアから送られてきた救難信号は罠だったのだ。「私」は真実を伝えるため、自我が残る内に必死で救難信号を送る。しかしKはそれが「私」の意志なのか「我々」の意志なのか確信がもてなかった。もしかしたらこの行動自体も、新たに人を呼び込みコロニーを拡大するための「我々」の策略なのかもしれない。

 

 

アピール

 

ミツバチの社会が、一匹の女王蜂と多数の働き蜂、雄蜂から構成されていることは、誰もが知っていることです。

ミツバチは天敵であるスズメバチに巣を襲われると、それまで大事に育ててきた幼虫を自ら捕食してしまいます。外敵に奪われるよりも自身の栄養にまわした方が効率的であるという考えからです。このようにミツバチやシロアリ、アブラムシに代表される「社会性昆虫」たちは私たちとは違った原理原則で動いています。

彼らの社会はカーストによる分業が徹底しています。よく知られているように働き蜂はすべてが雌であり、卵巣をもつにも関わらず退化しており、コロニーで生殖を行うのは一匹の女王蜂のみです。働き蜂には個体の遺伝子を遺したい、という多くの生物にごく一般的にみられる本能がありません。彼らのような、自らを犠牲にして他者を助ける行動を「利他的行動」と呼びますが、彼らがなぜこのような行動をとるのかは諸説あります。社会生物学の分野では「種の保存のため」というわかりやすいフレーズで言い表される「群選択説」が有力でしたが、その形質がなぜ受け継がれていくのかは長年の謎とされてきました。1964年ウィリアム・ドナルド・ハミルトンが提唱した「血縁淘汰説」では社会性昆虫による利他的行動は遺伝子に起因すると発表され、また1973年にジョン・メイナード=スミスによる「ESS理論」では、血縁淘汰説にゲーム理論を導入し、個体が利他的行動を行うことでコロニー全体の生存確率が高まるとされています。このように社会性昆虫の生態は様々な角度から語られていますが現在もすべてが解明されたわけではありません。

本作ではミツバチの「個体による利己的行動がない集団」から「個体差がなく、集合的無意識をもつ未知の感染症」という着想をえました。ありふれたパンデミックものですが、本作の感染症は明確な体をもたない意識のみの存在であり、思考や登場人物の語りまでをも乗っ取るという形で主人公たちに寄生します。ユングの「集合的無意識」を体現した集団と対峙した時、「個性化」された人間たちは一体どう抗うのか。他者と自我の境界が崩壊するまでの葛藤を描ければと思います。

また2015年のオーストラリア映画『インフィニ』から大きく影響を受けていることを明記しておきます。

 

 

【参考資料】

『インフィニ』(シェーン・アビス、2015年、オーストラリア映画)

『パラサイト・クリーチャーズ』(マーヴィン・クレン、2013年、オーストラリア映画)

『ダーケストアワー 消滅』(クリス・ゴラック、2011年、アメリカ映画)

『人間まがい』(ジョー・ペゴス、2013年、アメリカ映画)

『沈黙の惑星』(フィリップ・ハドソン、2008年、アメリカ映画)

『テラフォーマーズ』(作:貴家悠、画:橘賢一、集英社)

『虫のはなし』(梅谷献二編著、技報堂出版、1985年)

『動物の社会行動』(遺伝学普及会、2003年)

 

 

 

 

 

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