きみはかおる

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梗 概

きみはかおる

幽霊がいるかいないかは未だにわかっていないけれども、人はおよそ90日で世界に消化される。小学生の理科の授業、いやあの頃は生活の授業だったろうか、ともかく、人の気配の半減期――いやいや、半減期だなんて小難しい言葉を知ったのは中学生に上がった頃だった――は約30日で、90日も経てばもう生きて居る人間からは知覚出来ない濃度になるのだと教わった。世界にとって人がどれだけのスピードで代謝されていくか。つまり、人の気配が世界に消化されてしまうまでの期間、それが大体90日。

世界に人の気配が残りやすくなってしまったのは俺が生まれる少し前、3回前の夏のオリンピックが決定打だったと小学生の社会の授業で習った。壁新聞も書いたからこれは間違いない、小学五年生の時である。そのオリンピック前から巨大映像投影用のピーなんたら粒子はせっせと世界中に撒き散らされていたのだけれど、あの大会でアイドルグループ108人の姿を夜空に演出するためにせっせと噴射された粒子は、副産物としてアイドルでも何でもない人の気配までそこら中に現像してしまうようになった。いや、正しくは、アイドルでも何でもなかった人が死んだときに、その気配を世界に残してしまうようになったのだ。

中学に上がってからこれを覚えるのにちょっと苦労したのだが、気配というのはその発信者に強く引き寄せられるので、気配の持ち主が生きて居る間は大気に振りまかれたなんたら粒子と結びつきはしない。だが、人が死ぬと、その人の気配はぷつりと肉体から切り離されてしまう。気配というものが何に依るのかというのは未だ研究途中で分かっていないそうなのだがまあとにかく、この時代を生きていく上で分かっていれば良いことは、そこらへんに漂っている気配の持ち主は大体もう死んでいる、ということだ。そこらにもしも生きて居なさそうな気配が見えたなら、それは死人である。そう言う訳で、人の気配の半減期は「死人の寿命」だなんて言い方もされたりする。

それで気配というのがどう残るのかというと、一つは声、もう一つは姿だ。

しかしまあ気配が何かを新しく語るなんてことは無いので、殆どの場合が生前一番よく口にした言葉が残される。だから「結構」だとか「別に」だとか、「なるほど」「たしかに」「とりあえず」、至極どうでも良いようなつぶやきがたまに夜道に転がっている。どれも大した音量では無いので車の走行音にかき消されたりするのだが、殺人事件の現場に残る声というのは大変なものらしい。勿論声も例の粒子のせいで残ってしまっているので、大気が揺れれば声も揺らぐ。しかし生と死の瀬戸際というのはやっぱり気配が濃く刻まれるのか、その場所に粒子が引き止められてしまうらしい。殺そうとする側も馬鹿では無いのでそういう声を残さないように努力するのだが、一度残ってしまった声を薄めるには表徴群分離散布剤――開発された年号は忘れてしまったが、名前は墾田永年私財法的にリズムが良いので今もきっちり覚えて居る――が必要だ。勿論、そんな散布剤は公安が管理しているので一般市民が手に入れられる筈もない。ただ、ヤクザな人だとかマフィアとか、そういう人たちは散布剤を持っているに違いない。でないと東京湾や富士樹海は、阿鼻叫喚の大合唱になっている。とにかく残った誰かの声も、死んでから30日経てば殆ど聞こえなくなる。

声と一緒に姿も気配として残されるのだが、こちらは声よりは少し長く保つ。姿、言ってしまえば死人の姿だけれども、これは基本的にはその人の一番最期の姿で現れる。だが人によってはそれよりも若い姿でも観測されている。この辺の研究は非常に俺も気になるのだけれど、シニア向け雑誌で「20代の気配を残すための10の鉄則」だなんて特集には新興宗教めいたものを感じて引いてしまった。

そんな姿=死人は、声と違ってふらふらと動き回る――ように見える。これは、動き回る姿が気配として残ってしまっているだけだし、動いていくのは粒子が風で流されているからなのだ。そしてその姿は気配であるので、物体のように触れられるわけではない。ただ、こうしたうすぼんやりした気配=死人がそこらへんにふらふらしているというのは道路交通的には危ないので、やっぱり公安が散布剤を撒いて道路に死人が流れるのを防いでいる。勿論、病院や高齢者介護施設なんかも放っておくと死人で溢れてしまうので、散布剤が空調に混じっている。だから俺も死人を見たことは一度だけだ。田舎のおじいちゃんの家の近くで、30代くらいのスーツ姿の女性の死人が沢の奥のバス停へ駆け足で向かっていくのを小学三年生の夏に見たっきりで、それから今日まで一人も出会わなかった。

ちなみによっぽどのスター、つまりはオーラがあるだとか存在感がすごいと言われる人物になると生きて居ても気配を残せるらしいのだが、そういうスターの気配は事務所がせっせと散布剤を撒いていくので一般大気には残らないという。しかしまあ生きて居るうちに残る気配というのは、言ってしまえば生霊とあまり変わらないんじゃないだろうか。

それから、感度の良い、「シャーマン」と呼ばれるような人は90日を超えて薄まりきった人間でも聞こえるし見えると言うが、それも眉唾ものだ。家族だとか、何がしかの縁があったりするとどうしても念入りにその人の痕跡を追おうとするから、長く気配を感知したりもするのかもしれないが、幻想と区別がつかなくなっている場合が多いらしいし、実際殆どそっちだと思う。死人は新しく何かを語るわけではないし、その姿だってじっと眺めたあとに瞼に残る残像とそう変わるものではない。聞こえて、見えたところで自分を殺した犯人を示すわけでも、この先の未来を告げるわけでも、中間考査の答を教えてくれる訳でも無い。ただの気配、色の付いた空気とそう変わらない。

そう思って居たのだけれども。

 

***

 

この春から大学の経済学部に進学したばかりの片木 丈(へぎ じょう)は、ゴールデンウィーク期間に実家に帰省後戻った一人暮らしの部屋の中で、見知らぬ死人が居るのを見つける。窓も扉も閉めて出て行ったのに何故死人がいるのだと、真新しく見えた部屋だったがもしや事故物件だったのかと憤慨する片木だが、よくよく覗きこんだ死人の顔が高校生に上がるくらいの年の美人であったがために、約90日観察しようと決めて親にも大家にも連絡しないことにした。

出来るだけ空気を動かさないように気を付けながら、片木は死人との同棲を始める。1K八畳の片木の部屋の中で、死人はいつも窓の傍に足を伸ばして、壁に少し凭れるような姿勢で座っている。勿論死人の服装が変わるわけもないので、いつだってナイキの灰色のパーカーに紺色のジャージ姿である。顔立ちが整っているだけに服装が残念だが、死んでいるから着替えることもない。何も声は聞こえないが、何か言ってはくれないものか。なぜ死人はジャージ姿なのか。悲しげな表情をしているわけでは無いけれど、せめてもう少し笑ってくれたら嬉しいのにと考えて片木は死人の人生を勝手に妄想する。

 

段々と片木の妄想は進んでいき、同棲一週間目には死人に「かおる」という名前を付ける。「かおる」は片木の中で神格化されていき、片木は「かおる」が薄らいでいくことを恐れる。60日を超えて薄まり始める「かおる」に焦った片木は、必死に「かおる」の存在を部屋に繋ぎとめようと試行錯誤する。そして70日が超えた頃、片木は「かおる」の姿が前よりも確かなものになっていることを確信する。自分にはもしかするとシャーマンの素養があるのではないか。神学部に転科するべきか、恐山に行ってみるか。「かおる」の微笑みを眺めながら片木はシャーマンの年収について調べ始める。

 

ゴールデンウィークからとうに90日が過ぎた9月の終わり。電話は寄越すものの、大学生の長い夏季休暇に入ってもお盆になっても実家に戻ってこなかった片木を心配した片木の妹が兄の部屋に様子を見に行くと、実家で散らかし放題だった兄の部屋からは全く想像出来ないほど片付いた中に花やアクセサリーがあるのを見つける。妹は、兄に恋人が出来たものと思い微笑みながらそっと部屋を出て行った。

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