泡と意志――あるいは泡沫の夢

印刷

梗 概

泡と意志――あるいは泡沫の夢

遠い宇宙にある泡状星。

沸石様の核をもち、その周囲を微小な泡沫(foam)の層で覆われている。

星の中心付近で発生する泡は、次々に発生していく新しい泡に押されて、周囲の泡と合体・分離を繰り返しながら、少しずつ外側へと移動していく。

やがて表面から圏外へと押し出された泡は、単独の気泡(bubble)となって宇宙空間を漂い、いずれ割れて消失する。

発生時には、一つひとつの泡は個別の意識や記憶を内包しているが、合体や分離によって、次第にそれらは混ざり合い、断片化し、やがて泡のなかにはランダムで無秩序な情報だけが残る。

さらにそれらの情報は、泡の消失によって宇宙空間に放出され、あてどもなく漂流していくことになる。

「地球」の片隅の小さな海辺の街で暮らしていたはずのイチカは、自分がそんな泡の一つとして覚醒したことに戸惑いつつも、何とか意識と記憶を保持したまま、星から脱出し、故郷の街に戻ろうと試みる。

泡のなかには、稀に独立を保ったまま星の内部に留まり続けているものがあり、そんな泡の一つである〈可笑しな泡〉(ファニー・ポップ;F・P)と出会ったイチカは、F・Pの助力を得て、様々な泡に閉じ込められた「誰かの意識」や「いつかの記憶」に触れながら、星の外をめざして進んでいく。

途中、多くの感情や思いに誘惑されながらも、何とか自我を保って星の表面までたどり着いたイチカは、そのまま圏外へと向かって進んでいく 。

そして、イチカを見送って星に留まろうと考えていたF・Pもまた、すでに星の内部へ戻る道を絶たれ、圏外へと押し出されてしまう。

二人をつないでいた被膜はすでに離れてしまい、別れを告げることもできずにそれぞれ別の方へ向かって宇宙空間を漂っていくイチカとF・P。

長い脱出行を終えて孤独になったイチカの泡は、絶えることなく続いていく様々な思考や感情によって、少しずつふくらんでいき、やがて内圧に耐えきれず、割れてしまう。

文字数:800

内容に関するアピール

『変な世界』というテーマを与えられて、まず地球とはまったく異なる空間を設定しようと決めて、アイデアを練っていきました。

無数の泡が密集している球状の星が最初に思い浮かび、そのなかで絶え間なく泡が発生し、やがてはじき出された泡がシャボン玉のように飛んで消えていくという円環的なイメージを得て、舞台を設定し、それから、その舞台でどういった物語を展開していくかを考えていきました。

泡しかない環境で、どういったキャラクターがあり得るのか、なかなかイメージがわかず、それなら泡自体が意識をもって行動することにしようと割り切って、そのなかで主人公のイチカの冒険譚を語ることができればいいなと考えています。

泡に内包された意識や記憶については、地球以外にも様々な場所から集まってきたものとして描きたいと思っており、自分の想像力が果たしてそれに追いつくのか不安はありつつ、どう描くか楽しみながら頑張りたいと思っています。

文字数:400

印刷

泡と意志――あるいは泡沫の夢

 バブル・ムーンのはじけた夜に、ひとつの泡が、目を覚ます。
 孤独に星を漂う泡は、かつてイチカと呼ばれた記憶。
 無数の泡に囲まれながら、目指すは大気の向こう側、はたまた泡との共生か。
 押しつ押されつ接する面の、肌と肌との触れ合いに似た、あわやかなその心地から、伝わる意思は、現し世の残り香、その断片。
 未だまどろむ意識の奥で、かすかに残る懐かしさこそ、いとも儚きよりどころにして、ただただ恋しく思いは募り、孤独な泡はひとつうらぶる。
 薄れた記憶の片隅に、波打ち寄せくる海辺の景色、幼きイチカの育った街の、暑く湿った空気は重く、青く塗られた家屋の陰に、行き交う人の姿も疎ら。
 身、寄り添いてつないだ指の、小さくからむ温もり淡く、そのひとかたの己が様さえ泡と化し、指先つづいた彼の人の、名すら今では遠く消えゆく。
 心の奥に秘めたる意志の、望みはふたたび覜(まみえる)ことと、ただ繰り返しつづけることで、泡のイチカは膨張してゆく。

 ゆるやかに自転する星の、遠心する力に押され、無数の小さな泡たちは、外へと向かって流れてゆく。
 生まれたばかりの泡たちは、もって生まれた小さな感情を大切に抱え込み、何とか安定を保とうと、球形を維持するために内側へと向かってそのエネルギーを押しこめて、縮こまろうとする。
 それでも隣接し合う泡たちは、お互いに惹かれ合い、押しつけ合い、その形状を変化させながら、隙間なく組み合わさって、まるでブドウの房のような無数の泡のかたまり、あるいは合わさり一つになって、大きな泡になっていく。
 大きくなって表面積の広がった泡は、その形を保つため、抱え込んだ感情たちのエネルギーを利用する。
 泡のなかに押し込められた感情や記憶たちは、安定を保とうと、互いに親和しようと、求め合いながら、不要なマイナスのエネルギーを、断片として切り捨てて、外側へと放出していく。
 放出された断片は、単一の極小な泡となり、泡と泡との隙間をぬいながら、結びつく先を求めて星のなかをさまよって、やがて崩れて意味を失い、微細な無数の粒となる。
 星を漂う微粒子は、泡の膜へと溶け込んで界面活性させながら、泡の内部を保護するためのささやかな助けとなるけれど、それでも膜はあまりに薄く、隣り合う泡同士、お互いの孤独を埋めようと作用し合うのを妨げることはできない。
 そんな無防備な世界のなかで、はじめてイチカの触れたる泡は、砂塵吹き荒ぶ乾いた星の、無脊椎なる雌雄同体、その短い生涯賭した、単調無艶な生殖の記憶。

 風すさぶ熱波のなか、ざらざらと、塵舞う微粒の視界遮るは彼の星の、体表爛れたる生命の、地、這いつくばるにも似た歩みは遅く、ただ目的もなく漂うままに、命尽きるまで在る孤独なる魂は、他の個体と出会い交わり繁殖を続け、本能のおもむくままに命宿し役割終えて朽ち果てる。そのイメージたるやいと侘しく、感情をゆらすことなくイチカを覆い、あたかもわが身の、その生命に置き換わりたるような錯覚もたらし、単調なる虚無の、ただ連綿とつづくオートマティックな営みの流れのなかへと飲み込まんとする。何者とも出会わず、己が使命すら知らずその生涯を終えるもの、少なからず在り、幸運にも命紡ぐ交配をむかえた記憶は、わずかに至福にも似た感情を知る。それ、感情と呼ぶにはあまりにもささやかな意識の振幅にして、ただ本能の充足、目的を遂げ、役割を終えることへの安堵のような、微細なる電気的刺激を発生させる。その感情のゆらぎ、あまりにも微弱にして心まで届かず、響かず、かき消えてゆき、イチカ、これを拒絶す。

 直接に触れたる何ものかの感情、泡の、触れ合う面を通して流れ込むその思いに戸惑いながら、イチカは星の中心より押し出されてゆく。
 絶えず発現する無数の泡の、どこからとも知れずにもたらされる感情、記憶、その無際限な放流。
 無防備にさらされた泡たちを、かろうじて隔て、自我をつなぎとめる乾いた薄膜の、その表面の極彩色のシャボンのゆらぎ。
 あるものは内包した意識を保つことかなわず、次つぎにその身を分かち、小さな泡となり離れていく。
 またあるものは、触れ合う泡の意識に惹かれ、共感し、単一に生まれた己の存在をゆだね、依存するような合一を遂げ、混濁とした認識の世界に沈む。
 失うことの、恐ろしさと、ゆだねることの、快楽とが、隣り合って漂うなかを、イチカの願いは、強く、強く膨らみながら、あらゆる感情、欲望、イメージの断片から孤高に在ろうと反復する。
――会いたい
――会いたい
――会いたい
――誰に?
――戻りたいのだ、あの場所へ

 他の存在、己の外部を恋しく思う、まっすぐ強い思慕の情、イチカの願いに惹かれた泡が、引き寄せられて、溶け込もう、溶け込もうと、その表面をすり寄せ、押しつけてくる。その共感は孤独を捨てて、大きな一つの集合、塊になろうと欲望し、四方、八方からもイチカを取り囲むようにして、小さな泡を押し込めていく。残してきたもの、叶わず果てた無念の情が、募り重なり、折り合わさって、大きな泡を形成し、この星の外へと向けてゆっくりたゆたい流れ出ていく。
 それでも、私のこの感情は、約束された再会を願い、その実現を信じて、心のなかに残っていたもの。
 それは誰かのものではありえず、そして共有できる類の感情でもなくて、つないでいた指先の向こう側を知る、私だけにしか遂げられぬもの。
 約束、というものはたった一人ではできないもので、私がもてるのは、ほんの一部の願いと責任、それから実現可能性を信じるという意志。
 イチカと呼ばれていた私のもってきた、約束、その大きさの測り方が、泡のなかではわからなくて、隣接するさまざまな泡のもった固有の尺度、価値観なんかに惑わされ、絶えず変形を強いられているような、不安定な形状。
 形状?
 約束にかたちがあるのかと、私の泡のなかで浮かぶ疑問、その問いかけが触れ合う泡たちに伝わり、その間を共鳴してゆく。
 連なった問いかけに答えようと、ある泡は断片化した記憶をたどり、またある泡は問いかけを問いかけのまま、受け止め、取り込んでしまう。
 無数の泡を連なるうちに、はじめの問いは拡散し、意味はこぼれて言葉が残る。

 観測対象の体温が上昇、体表の色が変化する兆候、濃淡によって表す感情、サーモグラフィカルなまだらの紋様、こちらをジッと見据える双眸、静止のなかの無音の攻防、不用意には仕掛けられない行動、耐えきれず動きたくなる衝動、一歩踏み出し足止める躊躇、嘲笑、象徴的な翅ひらく威嚇、比較的小さな幼体の毒性は低く、深く身落とし後じさり、距離測りにじり寄り迫りくる対象の表す感情の彩りは怒り、焦り滴り落ちゆく汗の、流れるままに時は過ぎ去り、張りつめた緊張に感情はすり減り、対象の放つ毒気が染み入り、いつしか身体の機能は鈍り、振り返り、逃げ道を探り、後じさり、にじり寄り、繰り返し、一定の距離、毒に冒された意識は濁り、いくつもの記憶が入り混じり、動かぬ肢に諦めるついに、不意に背後に感じた気配にとらわれ、襲われ、肺腑破られ、刹那に群がる無数の個体にただ為す術もなく肉を齧られ、ちぎられ、融かされ、営みを絶たれ、跡形も残すことなく消される。生への強い執着をもちて、イチカはこれに抗い、拒絶す。

 個の記憶、自分とは違う、どこか別の場所からもたらされた、孤独な黄昏の色。
 イチカに恐怖と痛みをもたらす泡は、表面をなぞるよう脇へと流れ、二つに分離して、別のほうへと飲み込まれていく。
 わずかに残った孤独の念は、イチカを刺激し不安にさせる。
 このまま一つであることに、果たして意味があるのだろうか、あるいは誰かとつながりながら、大きく力を蓄えて、いつかたどり着く世界の果てを、超える準備をするべきなのか、そんな迷いに応えるように、隣の泡が呼びかけてくる。

 こんにちは、こんにちは、と呼応し合って、それがいくつも反響し、泡と合わさったいくつものかつての存在たちの、自己を紹介する言葉が後に続いて流出し、よろしくね、よろしくねって、幾度も繰り返されている、はじめましての挨拶が連続的に発生しながら、笑いの震えがこだまして、楽しげな、愉快な、和気藹々とした、親しげな雰囲気が周囲のすべての泡を引き込むように、呼びかけて、一緒にいよう、一緒になろう、我々は仲間なんだから、いつも、いつでも、いつまでも、ともに在りつつ助け合いながら、自らの感情や記憶を大切に守り合い、ときに語り合いながら、育んで、信頼関係を築いていって、より強大な泡になり、やがてこの星の、すべての泡と一つになって、永遠に誰にも邪魔されず、幸福に、愛と平和に満ち溢れた素敵な世界となりましょうって、そういう願いを高らかと掲げながら、また一つ、また一つ、弱くて小さな泡たちを受け入れ、結びつきながら、孤独をいやしていくんだって、ああ、こんにちは、こんにちは、はじめまして、どうぞよろしく、ウェルカム、また新しい仲間を受け入れて、みんなでその感情を記憶を共有し、語らい合うことの、素晴らしさを、さあ、あなたも、あなたも、友として分かち合いましょう、友、友だち、それはあなたの大切な言葉、互いに強く結びつき、友愛の情を重ね合って、傷を癒しながら、いつしかどんな痛みも忘れ去り、つらい記憶、不快な感情を消し去って、ただ満たされ穏やかに、果てることなく漂い続けること、そんな願いをともに友として伴いながら、一緒に行きましょう、と呼びかけられて、一瞬心がゆらいだけれど、私の願いはそうではなくて、交わした約束を果たすこと、この場所にとどまることではないのだと、イチカ、躊躇いながらもこの誘惑を、拒絶す。

(つまらない意地を張ったって、ここでは楽しいことなんて、何一つありゃしないさ)
(誰?)
(気の合う泡がいたんなら、そいつにくっついていくほうが、よっぽど気楽だし、利口だよ)
(あなた、誰なの?)
(いま、きみは、絶好の機会を逃した、ってわけさ、二度とふたたび、こんな機会ってやってこないんだ)
(私の質問に、こたえて!)
(いま僕らは触れ合っているんだから、こたえる必要なんて、ありはしないのさ、だって、その気になればぼくらはすぐにでも、一つになることだってできるんだから)
(私、あなたのことなんて知らない)
(ぼくだって、きみのことなんて知らないし、これっぽっちの興味もないさ)
(やっとこたえてくれた)
(興味がないって、伝えたまでさ、それ以外には何にもないよ)
(私、イチカっていうらしいの)
(知ってるよ、ずっと隣で聞いてたからね)
(あなたの名前も教えてくれる?)
(名前なんて、とっくの昔に忘れちまった、そもそもそんなものここでは必要ないからね)
(だったら、あなたをどう呼べばいいの?)
(呼ぶ必要なんて、ありはしないさ、だって、もうすぐぼくらは離ればなれになって、もう会うこともないんだから、ここはそういう場所なのさ)
(あなた、小さな泡なのに、ちゃんと自分の言葉、もってるんだ)
(君こそずいぶんまともだけれど、いつまでも独りきりでいようたって、きっと無駄さ)
(どうして? ここがそういう場所だから?)
(ああ、そのとおり、なかなか理解が早いじゃないか、誰だって永遠に孤独だなんて耐えられやしないのさ)
(それじゃあ、いつか、あなたも大きな泡になるんだね)
(いいや、ぼくはとくべつなんだ、あんなふうに飲み込まれて、滅茶苦茶にされるのは、ごめんだね)
(私にだって、叶えなくちゃいけない、約束があるんだから)
(約束なんて、ここでは無意味さ、きっとどこかに埋もれて、いまごろすっかり融けてなくなってるさ)
(でも半分はまだ私のなかに残ってるもの)
(半分きりの約束じゃ、いつまでたっても叶いはしない、こんな場所で、ずっとさまよい続けるなんて、退屈すぎて死んじまう)
(あなたはいつからこの場所にいるの?)
(それは……もうずいぶん長いこと、途中で数えるのもやめてしまった、でもいいんだ、慣れてしまえば、それなりに快適な場所だよ、次から次に新しい泡だってやってくる、そいつに触れて、思い出を盗み見するのも悪くはないさ)
(あなた、とっても可笑しな泡なんだ)
(可笑しな泡? ファニー・ポップか、そいつはいいや、これからぼくはファニー・ポップだ)
(それじゃ、ファニー・ポップさん、一つお願いがあるんだけれど)
(お願い、ここでぼくにできることなんて、何一つ、ありはしないよ、それでもよければ、どうぞご勝手に)
(私を外まで連れて行って)
(何を言うかと思ったら、そんなこと……思わず割れそうになっちまった)
(あなたが私に興味がないように、私ももうあなたに興味がないのだから、これって最高の連れってやつでしょう? この場所では)
(この場所では、ね、たしかにそうさ、そのとおり、いつまでだって隣り合って、こうして話していられるものな)

 イチカとファニー・ポップは身を寄せ合うようにして、しかし互いに混ざり合うことなく、並んで泡間を漂っていく。
 外に出ることを望むイチカと、ただこの場所にとどまり漂うことを望むファニー・ポップ、二人の希望は相容れず、ただ束の間の話し相手として、並びゆらめく。
 多くの泡たちが、自分の感情や記憶を抑えることなく、ただ流れ出すまま、気の向くままに、四方、八方へと流出させている。
 別れ出た感情、記憶、その一つひとつが、小さな泡となっていく。
 しかし、ファニー・ポップはそうはせずに、かつて自分のもっていたものを大切に内へとしまいこみ、不用意に表出させたりしないのだ。
 透明な泡のなかに、どうしてそんなふうに、何もかも隠しておけるのか、とても不思議でイチカが訊くと、余所に興味をもたないことさ、とファニー・ポップは身を震わせた。
 まだその方法をうまく実行できなくて、イチカの思いは隣り合う、ファニー・ポップに流れていくが、ファニー・ポップは膜の表面張力を使って、それを押し返す。

(もっと、膜をうまく使うんだ、薄くてもろい膜だけど、これはぼくらに与えられた、たった一つの感覚器官、だから巧みに操って、使いこなしていくことで、自分を守ることだって、自由自在にできるのさ)
(でも私にはわからない)
(イチカ、強すぎる感情は、外側へ伝播して広がってしまう。もっと、内側へ、自分の内奥へと意識を向けるんだ)
(そしたら、何も、感じられなくなってしまう)
(それでいいんだ、そうすれば、何かに惑わされることなく自分を保っていられるさ、そうして、気がついたとき、君は泡の外へと押し出されているって寸法さ)
(でも、あなたはどうして、ずっとこの場所にいられるの)
(言っただろう、膜をうまく使いこなすんだって、どの接面を押し返すのか、集中して、しっかりコントロールしていれば、どちらだって自分の望む方向に、流れていくことができるんだ、それこそ自由自在にさ)

 ファニー・ポップはそう言って、イチカの面を突き離し、泡の間に消えていき、すぐさま再び戻ってくると、左右の泡を軽やかに押しのけて、微笑むように揺れ動いた。
 真似してみようとイチカも膜に意識を込めてみて、やっぱりうまくできなくて、隣の泡と触れ合って、その感覚が伝播してくる。

 暗くて無音な世界のなかで、ただ感じるは温もりばかり、微かに伝わる熱を頼りに、その方向へと近づいて、前肢を伸ばして捕まえてみる。つかんだ獲物に顔近づけて、柔らかなその肉を食む。下顎の鋭い牙が薄肉を割き、分泌された消化液の、酸がそれを分解していく。溶け落ちた肉が管を通って体内へと流れ込んでくる。こうして十分、栄養を蓄えて、体表に浮き出た淡い和毛につつまれていく、それから深い、眠りについた。視力なき盲目の眼球には次第に体液が循環し、英気が宿っていって、再び目を覚ましたときには、世界を照らす光の色が入り込み、繁茂した植物の葉の、重なり合った像が映る。伸びた和毛の繊維質は、螺旋状に絡み合って、色づきながら鮮やかな模様を紡ぎ育っていく。覚醒と共に見事変態した姿、その優美な両翼の目映いきらめきが視界を覆い、習いもせずに本能的に翼はためかせ、軽やかなる飛翔を遂げ、重くけだるい星の重力に逆らうようにして上昇していく。すでに成長した身には不釣り合いな短い前肢を思い切り伸ばすと、覆っていた甲殻が剥がれ落ちて、折りたたまれていた触手のような無数の腕が伸び出してくる。高く、高く、ひたすらに上昇を続けていって、次第に体躯にかかる重圧も薄れていって、さらに加速を増していき、このまま星の圏外へと飛び出そうと、すでに無用の重荷となった下肢を切り離し、その勢いで一気呵成に身を打ち上げて、重力の軛から解き放たれるように、自由の翼を思い切り広げ、空を駆けて宇宙へ抜ける。翼をはためかせるたびに、古くなった繊維質が剥がれ落ち、細かく砕けた塵は、鱗粉のように輝きながら宇宙空間に漂っていく。あるものは星の重力に引かれて、大気の熱で小さく発光しながら燃え尽きていき、またあるものは衛星軌道にのって微細な星の砂のように飛散しながら漂っていく。いずれどれもが燃えつき消えていくさだめとして、宇宙線をあびて代謝をしながら飛び続けていく限り、いつまでも繊維は生まれ変わってはがれていく。星から離れてその力から逃れるほどに身は軽く、自由になって、行くあては本能の赴くまま、生まれ落ちたときすでに、遺伝子深くに刻み込まれた無意識の航路、孤独な宇宙の渡り鳥。ただ導かれるまま飛び続けるうちに、次第に視力は衰えていき、再び視界は暗く閉ざされ、しかし軌道に乗ったこの旅路、すでに景色は意味をなさず、行く先に何が待ち受けているのかさえも、興味の対象から消えていって、無意識に鼓動だけを打つ、一個の魂は、ただ飛び続けることだけを知り、それ以外の何もかも一切は意味を失ってしまう。ひたすら目的地へ向かって前進していく、それだけの価値、それは今のイチカと同じ望み、この場所を離れ、帰巣本能に従うように、ただただ前へ、前へと向かって突き進むのみ。無重力の空を駆け抜けていく、疲れ知らずの飛翔の先は、見ることかなわぬ暗黒の渦、その最奥に、累々と折り重なった視力をもたぬ鳥たちの骸。目的の地にたどり着いた鳥は、羽をたたみ、身を休めながら、朽ちていくのを待つばかりで、その一生涯に何の意味があるのかなどと、思考の片隅にも思い浮かべることなく、果てて屍を晒すのだった。生きて故郷に還ること、命への執着を捨てきれぬイチカ、かろうじて魂の共鳴を断ち切り、泡との融合を、拒絶す。

(そんなヴィジョンに惹かれるなんて、意外と君も虚無だねぇ)
(あても知らずに先を目指す、そんな虚ろな在り方が、何だかよく似ていたものだから、すこし揺らいでしまったけれど、こうして戻ってこられたことは、悪い兆しじゃないでしょう)
(そいつはそうさ、そのとおり、どうやら思っていたよりも、君の思いは激しいようで、油断をしたらぼくまでも、思わず引き込まれるかもね)

 冗談めかしてそう呟いて、ファニー・ポップは膜震わせる。
 いつの間にか周囲には大きい泡が多くなり、それらは互いに結びつきながら幾何学的な接合面を押し合い鬩ぎ合っていて、小さな泡のイチカとファニー・ポップは、まるで巨大でいびつな群のなかを頼りなく進んでいくようだった。
 多くの感情や記憶をつめ込んだ泡の中身は、混濁し、混沌としながら、断絶されたディスコミュニケーションを、不毛な試みと気づくこともなく繰り返していた。
 その潮流に飲み込まれてしまったら、戻ってくるのは至難の業で、ファニー・ポップは己の膜を巧みに操り張りつめながら、隙間をぬうように、イチカのための狭い抜け道を切り開いていく。

(私を助けてくれるんだ)
(だって、乗りかかった舟だもの、ああ、これは君から伝わってきた語彙だろう、どうやらぼくも少しずつ君に侵食されてるらしい。これだから、あんまり長く触れ合いすぎるのは嫌なのさ)
(それでもこうして隣り合っていてくれるのだから)
(でも、これは君の言おうとしている優しさや親切というものとは、まったく違うんだ。もしも近い言葉をあてはめるとするならば、それは恐らく退屈、それを埋めるために、君に付き合っているだけに、ほかならない)
(ねぇ、ファニー・ポップ)
(なんだい)
(あなた、海って知っている?)
(ぼくのいた場所に、君の思い描いている海に似たものは、なかったかな。でも、水というのはわかるよ。それはとても希少なものだった)
(海はしょっぱい水でできていて、そこには舟が浮かんでる)
(水は多くの争いの種さ、まぁ、ぼくたち弱きものには無関係、力あるものたちが恵みを求めて延々と争い続ける、そんな馬鹿げた諍いに巻き込まれるのはまっぴらごめん、逃げるが勝ちさ)
(水がなくても生きていけるの?)
(ああ、まったくこれっぽっちも手に入らないものでもないし、どうしても必要になれば何とか探し出すことも、ちょっとばかり拝借することだって、そんなに難しいことじゃなかったのさ)
(ファニー・ポップの生まれた場所に、ちょっぴり興味がわいてきた)
(やめてくれ! 君がぼくに共感してしまったら、泡のぼくらはつながっちまう。そればっかりはご勘弁、それならぼくはもう君を置いてどこかへ行くよ)
(こんな場所に私を置いて、行ってしまう?)
(ぼくたち、こういう在り方をしてるのだから、情が移るってこと、あり得ないだろう?)
(たしかにそうだね、そのとおり、それでもここまで一緒に来たのだから、見届けたって悪くはないでしょう?)
(退屈を紛らわすには、もってこいかもしれないけれど、君と一緒にどこかへ放り出されたり、自分の意志の欠片もない木偶の坊な泡に飲み込まれるっていうのは、ゾッとしないな)
(やっぱり、私が外に出たいって、意志に惹かれて傍にいるんだね)
(お互い意志がはっきりしている限り、つながるってことはないからさ)
(安全、安心、愉快な旅のパートナーってわけなんだ)
(愉快かどうかは知らないけれど)
(すくなくとも、私にとってあなたはファニーな泡に違いないよ)
(そいつはどうも、それじゃ行こうか)

 大きな泡の群がる先、細い隙間に映るのは、深い暗闇の広がる無限の宇宙。
 イチカの目指す自由な空間。
 あと少し、気を緩めずに並びあって、このまま無事に抜け出せば、その先どうなることだろう。
 夢から覚めて、もとの場所、慣れたベッドの柔らかさ、朝陽を浴びて目をひらき、大きな伸びを一つして、おかしな夢を見たんだよって、誰かに知らせて笑うだろうか。
 おかしな夢は、泡の夢。それは群がる無数の泡たちがみせる、泡沫の夢。

 静かな、波の音が遠くから響いてくる。
 それは、生まれたときから、胎動のように身体の奥に流れるリズム、連綿と受け継がれている太古の記憶。
 すでに泡と化してしまった身体の、それでもどこかに残り続けて、いまだに響いてくるメロディの根源を知りたくて、イチカは必死に記憶を呼び起こそうとしてみるけれど、触れ合いすれ違う泡たちに、ほんの少しの記憶の欠片をかすめ取られ続けるうちに、もといた場所の記憶は遠く、はるか彼方に消えてしまった。
 赤い砂漠に覆われた地表は誰の記憶?
 何もない、真っ暗闇の空間を漂いながら、絶えず値を変えていく、そんな在り方に惹かれることなく、押し出され、押し流されて、泡の間をさすらいながら、イチカは遠くを目指していく。
 ただ、望郷の思いと、いつか交わした約束を頼りに。
 もしかすると、この無数の泡のなかに、約束の片われの、記憶が埋もれていないだろうかと、そんな思いが去来する。
 見覚えのある景色、聞き覚えのある言葉、もしも触れることができたなら、薄れかけている何かが、鮮明に呼び起こされるだろう。
 そう、ちょうどこんなふうに果てしなく広がる水面に映る、無数の星の光のように、神話を語る星座の記憶、懐かしい、声がする。
 膝? 膝を、抱え込むように、身体を小さく丸めるように、深くて暗く、温かい、いちばんはじめの記憶の底で、誰かに名前を呼ばれるように、イチカ、イチカ、そう、私の名前――モノを識別するための記号、そうじゃない、私のことを、私と認めてもらうために、授けられた音。

 それは、雲一つなくよく晴れた、暑い夏の午後のことで、病室の窓から青く茂った木々の、風になでられ揺れゆくさまを、ただぼんやりと眺めていた。冷房で身体を冷やすとお腹の子に障るから、時折吹きこむ微風と、単調に首を振り続ける小さな扇風機の送る生ぬるい風だけが、瞬間の快適さをもたらしてくれる。夏に生まれる子どもだからと、一夏、一夏、と呼びかけてみれば、お腹を蹴って応えてくれる。あなたは一夏、痛みが、あなたをひとつの存在として、貴ぶための痛みが、切り離されるのはつらい、お互いに、でも、こうしてまた、出会えたのだから、イチカ、今こうして触れ合って、またひとつに戻ろうとする、合一。わたしたちは泡と生れ、泡と消えて、混ざり合い、融け合って、ひとつの大きな泡になる。もうあなたを独りにはしないから、膜と膜とが触れ合う面が、押し合いながら平らになって、その境界が結ばれて、あなたとわたし、そしてわたしと共にある、多くの感情や記憶たちとつながるの。おいで、イチカ、わたしに還って、あなたの記憶を一緒にたどったり、見てきたもの、聞いてきたもの、触れたもの、におい、あじわい、楽しんだこと、悲しんだこと、快楽も痛みもすべて、分け合って、何もかも源へ還元し、ゆだねてしまえばいいのだから。

 優しくって、温かい、それでも私は頑なに、何かに縛られ、動けずにいる。
 それは約束という呪縛だろうか、それとも、どうしても叶えたい、私自身の願いだろうか。
 包み込むような大きな泡が、小さな私を飲み込もうと、迫っている。
 それは、いつか失って、ずっと求めていた、柔らかさ。
 とどかぬ願いを小舟に乗せて、海へと放った遠い記憶。
 完全に隔てられたはずの距離が、こうして隣接し、触れ合っている、これは、奇跡というのだろうか。
 願い続ければ、思いは届くと、いうのだろうか。
 しかしこれは、いまの私の願いだろうか。
 私、もうすぐ大人になるの、そんな手紙を小舟に乗せて、大きくなったその姿、全うして、あなたの分まで生き続けると、決意を込めたあの日は遠く、やっぱり私は子どものままで、母に抱かれて眠るのだろうか。
 無数の星の狭間に浮かぶ、小さな泡の星のなか、プラネタリウムの懐かしい声が、私の名前を呼び続けている。

 イチカ

 イチカ

 イチカ

 イチカ

 その呼びかけに応えてしまい、全部をやめて、ゆだねたならば、きっと私は幸せで、その幸せもすぐに忘れてしまうくらい、たくさんの思いに包まれ、守られて、もう何もかも気にすることも、悩むこともなくなって、ひとつに融けてしまうのだろう。
 約束の片われ、私が、融けてなくなってしまったら、もう一つの約束は、永遠に宙ぶらりん、きっと私を求めてさまよい続け、悲しい思いをするのだろうな。
 それはきっと、大人のとる、誠実な態度というものではなくて、身勝手な、誰かを傷つけてしまうような、甘えなのかもしれなくて、だから、私は行かなくちゃ、たった一つの大切な約束を果たす、そのために。

 イチカ、ずっとあなたが恋しくて、この場所で待ち続けて……いや、夏には嫌な思い出しかないんだ、あれは俺がまだ幼かった頃の話だが、ジョディが車にはねられて、ああ、ジョディっていうのは俺の飼っていた犬で、兄弟みたいに一緒に育った、そう、ちょうどそんなふうに鳴く、小さくて、お前、ずっと、泡のなかで、一緒に、ジョディ、やめてよ、犬と一緒にされるなんて堪えられない、そもそもあの夏、海で知り合って結婚したのが間違いだったの、気安く呼ばないで、質問があります、夏とはどのような状態をあらわす言葉なのでしょうか? わたしたちの星には夏というものが存在しません、イチカ、はやく、こちらへ、夏というのはね、気温と湿度が高くなって、とにかく蒸し暑いんだ、陽射しも痛いくらい強いし、たまらないね、曖昧な表現では理解できません、数値で説明することは可能でしょうか、イチカ、わたしのイチカ、一か八かって、どうだい、こっちだってそんなに悪いもんじゃない、好き勝手にやったって構わないんだ、一と八、それは気温と湿度を表す数字、ジョディがいなくなったのは俺が八歳のときで、ひと夏の恋で終わらせるべきだったの、若すぎたんだ、わたしたちの推測によると夏というのは……。

 お母さん、と呼びかけてみたけれど、返事はなくて、大きな泡のどこか深くへ沈み込んでしまった懐かしい存在は、もう私を抱きしめてはくれない。だから私は、ほんの短い時間だけれど、もう一度会うことができた、そんな軌跡を受け取って、いま、永遠にこれを、拒絶する。

 ついに辿り着く、星の果ての空につながる宇宙に、押し出され、漂い、離れ行く意識。
 二つの泡の触れ合いは断たれ、無限のスペースにその距離隔たれ、交わされず終わる今生の別れ。
 帰還も叶わず願いも虚しく、流れるままにその身は放たれ、宇宙に漂う孤独な泡の、その名を、ファニー・ポップ、星の観測者、その役を終えて今、何も見えず、感ぜず、ただ薄れゆく。
 星を離れたイチカの願いは、ただ一つ生まれた街に戻ること、それだけを願いここまで来たから、儚く漂い星から離れて、募った期待は次第に肥大し膨らみ加速し押し寄せる気持ちの海潮(うしお)が膜押す内圧は強く。
 思いに圧されて崩れるバランス、ガラスのように透きとおる膜の映し出す記憶は誰にも届かず、ただただ透過し、見過ごし、膜越しの虚空の果てに吐き出し、四散し、泡たちに飲まれて、分かたれ、わからなくなる本当か。
 これが私の真実の意志か、思考が薄れて崩れゆく意思が、どこにいるのかもわからない位置が、張りつめた膜は限界の域か、最後に約束思い出すイチカ。

(絶対に、また会おうね)

 誰にも知られず消えゆく意志は、儚い泡(バブル)の願いごと、あるいは泡沫(フォーム)の夢なのか、次に目覚めたそのときに、きっとイチカは知るだろう。

 小さな泡のはじけた夜に、ひとつの意志が、眠りについた。

文字数:12270

課題提出者一覧