ルラ

選評

  1. 【冲方丁:0点】 
    引きはいいが、何をいちばん印象に残したいのかが弱かった。悲劇と喜劇、どこに読者を連れていこうとしているのか。締めの文章自体は良いので、構成を整理してそれを印象づける工夫を。3万人という設定を提示されると、日用品の一つ一つを誰が作ってどう流通させているのかという点なども疑問が湧くので、そこをカバーできるような生活感の描写があると良かったかもしれない。ギミックとキャラクターを突き詰めて小説らしくする文章を磨いていけばもう一段上にいける作品。

    【高塚菜月:1点】
    読みやすくはあったが、分量がやや長いのと、世界設定のちぐはぐさが気になった。ルラが女性の体に変わらないまま、男同士の恋愛で突き進んでほしかった気もする。

    【大森望:0点】
    日常生活がほぼ描かれていないのでよくわからないが、3万人の街で1万人消えたら食料は余るのでは……など、素朴な疑問が湧く。台詞でストーリーを進めていくスタイルにも抵抗があるが、それでも140枚の枚数を一気に読ませるストーリーテリング力は武器になる(ただし、50枚前後という規定枚数の3倍近い分量はさすがに書きすぎ)。

    ※点数は講師ひとりあたり4点(計12点)を3つの作品に割り振りました。

梗 概

ルラ

世界にはルラという名の神がいる。ルラは神殿で暮らしている。

人間は、ルラに認識され続けなければ存在できない。ルラから忘却された人物は、この世界から消える。だから人間は神殿周辺の神都に集まって暮らしている。

ルラは全知全能ではない。人間より高い知力と体力、超能力を持ち、年を取らないが不死ではない。

ルラが死ねば人類は消滅する。だからルラは神殿で保護されている。

人々は己の存在を守るため、必死でルラに自分をアピールする。商人たちは貢物を、貧乏人は大声で祈祷をする。間接的にでもルラに認識されれば存在の力は得られる。

神殿にいるルラと直接対面できる人間は一握りである。

また全ての人間はルラを愛するように作られており、憎むことは困難だ。

 

砂紋の団という反ルラ組織がある。団は「ルラは人から存在を吸い取る悪魔だ」と主張。だがこれはアピールのための口実だった。彼らは辺境に住み、普通のやり方では神の関心を得られない。そこで抵抗活動により神に存在を認識させようという苦肉の戦略を取った。

が、気の狂った男が団の首領になり、口実が信念に変わる。首領は子どもたちを洗脳、ルラへの憎悪を植え付けた。

そしてルラ暗殺計画が決定する。十六歳の少年クレストが暗殺者として選ばれた。クレストは幼い頃、両親がルラに忘却されたため消滅している。以来首領が父代わりで、ルラへの殺意は十分だ。

 

工作の末、クレストは側男として神殿に入る。側男側女はルラの遊び相手だ。後宮でルラと直接会える。

なんとルラは六歳男児で、クレストの仕事は語義通り遊び相手だった。

ルラはいたずらっ子で、反応が面白いクレストは最高の遊び相手となった。側男側女は皆ルラに仕える幸福に満ち、毎日明るい笑い声が響く。そんな中クレストは内心で憎悪を滾らせていた。

ある時、クレストは隙を突いてルラを短刀で殺そうとした。が、短刀は気付くとルラに握られており「今回だけは見逃してあげる」と言われた。ルラは精神感応でクレストの心を読み、目的を知っていた。

以後、何もなかったかのように日常が続いた。クレストはルラの一番のお気に入りになった。クレストがルラの不意を打つ方法を考えていると、ルラは諦めが悪いとからかった。

 

半年後。

ルラは己の身体を女に変え、十八歳の外見になった。外見を変えた理由は不明だが、クレストは困った。ルラの美しさに魅了されそうだった。

ルラは自分を憎む初めての存在に強い興味を抱いていた。神であるルラに接しながら憎むことができるのは、砂紋の団で洗脳を受けたクレストだけだ。

一方街では大変な事が起こる。以前なら消えない程度の存在感の人間が消え始めていた。ルラの関心がクレストに集中しすぎ、その他大勢に関心がいかなくなったのだ。

 

次々に人間は消えていく。神殿は恐慌に陥ったが、ルラは内陣から出てこなくなる。

その頃、クレストはルラを憎むだけではなくなっていた。憎悪すると同時に、憐憫を感じ始めていた。人類を超越するが故、誰にも理解されないルラが、自分以上に孤独で苦しんでいると知ったからだ。

ある夜、クレストはテレパシーで呼ばれる。クレストは短刀を持って内陣の地下へ行き、ルラと会った。

ルラはクレストの殺意を知っているはずだが、無防備にも二人きりになる。ルラはクレストに、一緒に逃げてほしいと言う。人間の存在を維持するためだけの生活に嫌気が差したのだ。ここにはルラが人知れず作った地下通路があり、外へ出られる。

なぜ自分を連れて行くのかとクレストが問うと、ルラは、自分を憎んでいるからだと答える。神である自分を憎める人間はいない。絶対に自分を憎まない相手など家畜と同じだ。クレストだけが自分を憎める。自分にとって唯一の他者だ。だからクレストが必要だ。

クレストはその唐突な告白に胸を打たれる。

その時爆発が起こる。恐慌に乗じ砂紋の団が攻めてきたのだ。クレストは混乱したまま、ルラと共に地下通路を逃げる。

地下で息を潜める二人。危機の中でクレストは悟る。自分にはルラが必要だ。両親を失ってからというもの、ルラに対する憎悪だけが生きるための力だった。ルラが死んだら生きていく力が消えてしまう。

ルラにその思考を読まれ、「それは愛と同じだ」と笑いながら言われる。

二人は何かに突き動かされるように愛を交わし、共に生きると誓った。

 

夜が明け地上へ出ると、街には誰もいない。昨夜二人の行為が最高潮を迎えた時、ルラはクレスト以外のほぼ全ての人間を瞬間的に完全に忘却した。その時人々は存在を失い消えたのだ。

呆然としていると、ルラは接近する殺意を感取する。そこにはクレストを洗脳した砂紋の団の首領がいた。ルラは昨夜、首領の事だけは認識し続けざるを得なかった。心の境界を突き破ってくる強烈な憎悪を絶えず感じていたからだ。

クレストとルラは無人の街を逃げ、首領がそれを追う。

世界には、命がけでルラを守ろうとする者と、命がけでルラを殺そうとする者の二人しかいなくなった。

文字数:2025

内容に関するアピール

《キャラクター紹介》

【ルラ】

神というだけあり、常軌を逸した美貌の持ち主。最初は六歳の男の子として出てくる。好物は露店で売っている棒付きりんご菓子で、しょっちゅうかじっている。精神感応で全ての人間の醜い部分まで見ているのに、無邪気な六歳児を演じる不気味で超然とした存在。一方、あらゆる人間を超越しているが故に孤独を抱えるという、凡庸な弱さを持つ。

神でありながら、案外欠陥が多い。そのため孤独になったり、恋をしたりする。「超然」と「凡庸」の二面性が特徴のキャラクターだ。

 

【クレスト】

幼い頃、両親をルラに忘却され消される。砂紋の団・首領の洗脳により、「ルラさえ殺せば人類は解放される」と信じ込む。クレストにとってルラは両親の仇であり、人類の敵である。

後宮入り初日、早々にルラのいたずらのターゲットにされ、頭上から水を落とされずぶ濡れになる。当初はルラに対し従順な下僕を演じていたが、暗殺者とバレてからは開き直り、ルラの前では一人称が「俺」になるなど口調が粗暴になる。それがまたルラに気に入られた。

ルラとの関係が深まると愛情が芽生えてしまう。それでも憎悪は消えず、矛盾する感情に苦しむことになる。

 

【砂紋の団・首領】

首領になる以前から、不意に絶叫を上げたり、目に見えぬ何者かと対話したり、と奇行が目立った。ある時「真の神」を幻視し、ルラが悪魔だと告げられる。それ以来、ルラの殺害だけを目的に生きる。

 

《詳細設定》

【神の力】

ルラが人間に存在の力を供給するためには、固有の人物として認識されなければならない。群れとして認識するなどの、曖昧な認識は意味がない。だがルラはその人物の声・創作物・噂などの間接情報からも伝播してくる思念を頼りに固有の人物にまでたどり着ける。一度認識したら、その認識は数週間持続する。そのため、一日のうちに夥しい数の人が消えるなどということは滅多にない。

 

【神都】

人口三万人ほどの都市。これはルラが全員の人間を同時に持続的に認識できる限界の人数だ。人口制限の政策が敷かれているが、違法出産は絶えない。なお、人間は生まれた瞬間に最も強い存在感を放つため、ルラは精神感応で自動的に認識してしまう。

人間はルラの側を離れられないため、移動手段も通信技術も発達していない。中世並みの生活を続けている。

政治は神殿で宰相と大臣が行うが、世襲制で現体制を維持するのみだ。誰もがルラへのアピールに人生の大部分を割くため、現状維持が好まれ革新は歓迎されない。

文字数:1026

ルラ

※[]内はルビ。

 

第一章

 

 

「か、母さん……。そんな……どうして……!」

少年は地面に膝をつき、自失したようにつぶやく。

ついさっきまで母のぬくもりがあった右手を、食い入るように見つめる。そこにもう母の手はなかった。

その代わり、血の泡があった。

ぱち、と。今、それが音を立てて砕ける。

少年の隣、母が立っていた場所にも、泡の群れがある。それはすでに人の形を失い、急速に崩れていった。

「母さん……母さん!」

少年がいくら呼びかけても、母は答えない。なぜなら母はもう消えてしまったのだ。後に残ったのは、この赤く透明な血の泡だけ。

見渡す限り砂と岩、まばらに立つあばら家しかない貧しい風景が広がる。その中で、少年は立ちすくんだ。

雨雲が低く垂れ込めている。

遠雷の音。

ぽつり、ぽつりと雨粒が降ってくる。それが泡の破裂を速めた。

少年はあわてて泡に覆いかぶさり、雨から守ろうとする。今となってはこの血の泡だけが、この世界に母が生きていた痕跡だった。

「くそっ……くそ、くそっ!」

まだ声変わりも済んでいない声で、少年は叫んだ。

消えてしまった。

貧しさに負けずに周囲に幸福を振りまこうと努めた母が、

誰よりも熱心に神[ルラ]を信じ、日々感謝を捧げていた母が、

病を患っても高い薬を買えず、祈ることで病気に抗うことしかできなかった母が、

消えてしまった。

病に殺されたのではない。神[ルラ]から存在を忘却されることによって、この世界から消されたのだ。

「ちくしょおおぉ!」

少年は雨空を振り仰ぎ、吠えた。

「なんで母さんが!? どうしてだよ! 母さんはお前にいつも祈ってただろ? 感謝してただろ! なのに……なのにどうして母さんがっ……! 答えろよルラ!」

少年の問いに、神[ルラ]は何も答えない。

当然だった。神[ルラ]は空の上にはいない。神[ルラ]は神殿にいる。ここからは村五つ分の距離がある。砂と岩に覆われた辺境の地にいる少年の声が、神[ルラ]の元に届くはずがなかった。

「……許さねえ……絶対に許さねえぞ、ルラ……」

稲妻がまたたき、少年の横顔を照らす。歯を食いしばり、目には禍々しい光が宿っていた。

少年の名はクレスト。彼はたった今、子どもであることをやめた。もはやクレストには、己の手を神[ルラ]の血で染める未来しか望むことができなくなった。

――半年後。

七歳になったクレストは、黒装束を身にまとって夜の広場に立っていた。顔には血の涙を流しているかのような、奇妙な朱の化粧がほどこされている。そしてその広場には、同じ装いに身をつつみ、朱の化粧をした人間が五十人近くいる。年齢も性別もばらばらだが、たったひとつ共通していることがあった。それぞれの顔に浮かぶ、神[ルラ]に対する強烈な憎悪と怨嗟である。

集まった者たちはみな、神を憎み、神への反逆を誓った者たちだった。

反逆者たちの前には低い舞台があった。その両端に置かれた照明に今、火がともされた。舞台の中央には、同じように黒装束をまとった男が立っている。ただし、この中でもひときわ異様な雰囲気の男だ。体は大きく屈強だが頬はこけ、左腕と左目がない。残った右目だけが、ぎらぎらと暗い光を宿らせていた。見る者にひたすら陰惨なものを与える男である。

クレストは高揚した顔で、左目のない男を見つめた。この男こそが、神への反逆者たちの指導者で、首領と呼ばれている。

左目のない首領が、不意に叫んだ。

「汝らに問う、怒れる者どもよ! 汝らの神の名はルラか?」

首領のしわがれた野太い声に答えて、闇色に身を染めた反逆者たちが吠えた。

「否! ルラは邪悪なる者! 我ら、〝砂紋の正神〟に仕える者なり!」

続けて、首領は怒鳴る。

「では問う! 汝らの神は何を望んでおられるのか?」

「邪悪なるルラが、正神の下僕によって討ち滅ぼされることを!」

「ならば怒れる者どもよ、砂紋の正神に魂を捧げよ!」

広場が叫喚に満たされる。反逆者たちはみな自分の心臓に手を当て、空に突き上げた。クレストも同胞たちと同じように、叫びながら手を上げる。

神[ルラ]への激しい呪詛が、暗い空に響き渡る。照明の炎が揺れ、怒り狂う者たちの影を踊らせた。

「正神、第一の下僕として告げる!」

首領が言うと、みなが不意に静まった。空気が緊張をはらむ。

「第四十八の下僕、クレスト」

クレストは自分の名を呼ばれ、とまどった。クレストだけではない。全員が、自分たちの同胞の中でもっとも幼い者の名が呼ばれたことに、少なからぬ困惑を覚えているようだ。

クレストは首領の前に進み出ると、片膝をついて頭を垂れる。

首領は低い声で告げる。

「これからお前はいやしい職に身をやつし、欲深き者どもに体を与える。十年後、お前は神殿へ行ってルラに体を売り、引き換えにルラの命を奪う。砂紋の正神はそう告げられた」

クレストは頭を垂れたまま、驚愕に目を見開いた。

つまりは、〝お前が神[ルラ]を殺せ〟と命じられたのだ。

クレストはより深く頭を垂れ、静かに答えた。

「正神の御心のままに」

 

――そして、十年の時が経った。

 

 

人間が築いた唯一の都市、〝神都〟。その中央に神殿は位置している。神殿は、人間がルラのために作った、恐ろしく巨大な建築物だ。

神殿の周囲を巡る石の塀は建物三階ほどの高さがあり、その向こうには小山のように巨大な本殿が見える。本殿の近くには、それを囲うように四つの塔がある。塀に囲われた広大な庭園には、ありとあらゆる美しい花が咲き誇り、木々は美味な果実をみのらせている。その全体が、およそ人間が作ったとは信じがたい壮大な建築物だ。これら、塀の内側にある数々の建物をひっくるめて神殿と呼んでいる。

その塀の一箇所にある西の門が今、解放される。押し寄せていた千人を超える人の群れが、一気に祈祷広場になだれ込んだ。この開門の瞬間、転倒で死ぬ人間が毎回一人はいる。

群れの中の人は様々だ。老いた者もいれば若い者もいる。男もいれば女もいる。美しい者もいれば醜い者もいる。それらの群れは祈祷広場に入ると、本殿に向けて大声を上げ始めた。本殿にはルラがいる。この群れはルラに向けて祈祷しているのだ。

――ふたたび新たな月を迎えられたことを感謝します。どうかあなたの下僕である私に〝存在の力〟をお恵みください。

言葉の細部は違うが、みなこのように祈っている。

富める者たちはこの群れには加わらず、大金を支払って本殿に隣接する四つの塔のそれぞれに入り、そこで祈祷している。さらに富める者は、ルラに貢物を送り、本殿の中にまで立ち入ることが許される。

だが、ルラの顔を見た者はいない。ルラは神殿の奥にいて、決してその中から出てくることはない。

 

ルラは神である。

人間は、ルラから認識され続けなければ〝存在の力〟を得ることができない。

ルラから忘却された途端に、人間は存在の力を失う。存在の力を失った人間は、血の泡となってこの世界から消えるほかない。

だから人々は祈り、貢ぐのだ。顔も知らない神に向けて。

ところが、そうでない者たちもいた。彼ら、彼女らは荒涼とした辺境の地に住み、貧しい生活を送っている。神殿から遠く隔たった場所に住むこの者たちにとって、ルラから存在を認知されることはきわめて困難だ。

そこでこの者たちは、反逆することによってルラに認識されることを選んだ。街で破壊工作や強盗、人さらいや殺人などの犯罪行為をし、犯行声明を出す。そして、ありとあらゆる涜神行為に手を染める。ルラへの憎悪をむき出しに活動することで、ルラは逆に反逆者たちを強く認識せざるを得なくなる。こうして、反逆者たちは存在の力を得る。

黒装束に身を包み、奇妙な朱の化粧をした反逆者たちは、どこからともなく現れ、人々の日常を壊していく。

反逆者たちは、〝砂紋の団〟と自らのことを呼んでいた。

 

 

「あちぃぃ……。蒸し焼きになっちまう」

クレストは気だるげにつぶやく。

狭い牛車の屋形の中で、クレストはだらしない姿勢で壁によりかかっている。色艶やかな帷子は着崩れ、胸の合わせ目がはだけていた。色白の肌に汗が浮かぶ。

母が消えてから十年経ち、彼は十七歳になっていた。背が伸びるにつれ、クレストの中に宿っていた美貌はくっきりとその輪郭を現した。その中性的な顔といい、服装といい、除毛剤で手入れされた体といい、女と見まがうような少年である。何気ない動作も絵になるような、華々しい雰囲気をまとっていた。

そんなクレストが、今にも暑さで溶けそうなだらしない格好をしている。なにしろ今日は猛暑だった。

あきれ返った溜息が、クレストの向かいから聞こえてきた。

「お前……これからルラ様にお目見えするということを分かっておるのだろうな?」

そう言ったのは、堅苦しい官服に身を包んだ、神殿で働く官人だった。

クレストは眉をしかめながら官人の男を見る。ただでさえ狭い牛車の屋形が、この肥え太った官人のせいでもっと狭くなっている。

「わかってるっての」

クレストは生返事を返し、物見から外を見た。

すでに牛車は神殿敷地内の庭園に入っている。辺境の砂岩地帯から来たクレストから見れば、様々な植物の植えられた庭園はまるで天国のようだ。

西の祈祷広場の方からは、人々が祈祷を捧げる声が聞こえた。青空いっぱいに祈りの唱和が広がっている。

目を移し、クレストは本殿の方を見る。あまりにも巨大にそびえる、神殿の中心部。それは補修を繰り返し、神話の時代から今日まで残ってきた建造物だ。そしてその中に棲んでいるのも、やはり神話の時代から生き続けた者である。

あそこにルラがいる。母を奪った仇。砂紋の団の、同胞たちの敵が。

「何をにらみつけておる?」

官人に問われ、クレストは首を振った。

「なんでもねえ」

官人は溜息を吐いた。

「その言葉遣いをなんとかできんのか。ルラ様の前で無礼を働いてみろ。お前を宮男として連れてきたわしまでが信用を失うのだぞ。お前は自分の務めの重大さを分かっておるのであろうな?」

「わかってるって。要はルラ様をアレで満足させりゃいいんだろ?」

「なんと下品な」

官人は頭を抱える。

だが、言ったことは間違っていないはずだ、とクレストは思う。クレストがこれからなろうとしている〝宮男〟とは、後宮[ハレム]でルラに奉仕する者のことだ。つまりは妾である。後宮では、男女問わずルラの妾が集められている。

宮男や宮女の選定にはいろいろなやり方がある。単に美男、美女だから選ばれた者もいれば、男娼あるいは娼婦として評判を得たから選ばれる者もいる。クレストの場合は生まれつきの美貌に加え、男娼として有名になり、ここまでのし上がってきたのだ。

男娼として売られたのは、左目のない首領による宣告があった七歳の時だ。その頃から奴隷商人に仕込まれ、様々な男女に抱かれ、また抱いてきた。おかげで、十七にしてその界隈で知らぬ者はいないほどの性技の達人になっていた。

そして砂紋の団による工作も加わり、ついにルラの宮男として召されることになったのだ。ルラを殺そうと思えば、後宮に入る以外手段はない。なぜなら、ルラと直接に会うことが許されるのは後宮で仕える者だけだからだ。

官人がクレストを見る目には、諦めと期待が入り混じっている。

「……まあ、色々と難があることは承知だが、それでもわしはお前をルラ様に献上したいと思ったのだ。ひょっとしたらだが、ルラ様はお前のような者をお気に召すかもしれん。これまで寵愛を受けた者らも、やはり型破りな跳ねっ返りだったと聞く」

官人の言葉を聞いて、クレストはふっと笑った。

「安心しろよ。絶対にこの俺がルラ様の一番の愛妾になって見せる」

すべてはルラを殺すため。

十年かけて、ようやくここまで来たのだ。絶対に失敗は許されない。

 

牛車は止まり、クレストは降ろされた。歴史を感じさせる建物の中を進んでいく。ひと気のない物静かな通路が続いた。何度も角を折れ、より狭く小さい通路へと進んでいく。空気は涼しく、クレストの額からゆっくりと汗が引いていった。

「まるで迷路みたいだな」

クレストのつぶやきに、官人は小声で答える。

「後宮は隠された場所にあるのだ。黙ってついてこい」

歩き続けると、狭い中庭に出た。その向こうに洞窟があった。

官人は洞窟を指差す。

「あれが入り口だ。ここからはお前一人で行け。わしは入れんのだ」

「あの洞窟みてえなとこを?」

「そうだ。まさかここまで来て引き返すとは言わんだろうな」

「当たり前だろ」

官人はクレストの肩に手を置き、「しっかりやるのだぞ」と言った。

「ああ、世話んなったな」

クレストに軽くうなずいてから、官人は去って行く。

クレストは中庭を横切り、洞窟の入口に立った。深呼吸を一つ。洞窟の中はやたらと暗いが、まさか化け物が出てくるわけでもないだろう。不審なものは感じたものの、クレストは覚悟を決めて洞窟の中に足を踏み入れた。

中は薄暗い。ゆるやかに曲がっているため、すぐに入り口からの光が届かなくなる。手探りで進んでいくしかなかった。

――小僧。

ぴたり、と足を止めた。唐突に呼び止められたのだ。声は洞窟内に反響し、不吉な余韻を残して消えた。まるで頭の中に直接響いてくるような声だった。

あわてて周囲を確認する。近くに人の気配はない。ならば遠くから響いてきた声だろうか。

何者かに、どこからか見られている。だがこちらからはその相手が見えない。その不気味さに背筋が凍る。

声はさらに続けた。

――これからお前は試されるのだ、小僧。〝私〟を愛する者はこの洞窟を通ることができる。

「……なんだって?」

――〝私〟を愛していない者は、全身を引き裂かれて死ぬ。

突然の宣言に、クレストは動揺する。

「誰だよ、あんた」

――ルラだ。

あまりにあっさりと返答される。

動悸が激しくなる。全身を冷たい血が駆ける。ルラを愛していない者はこの洞窟を通れない。つまり、クレストには絶対に無理だ。しかし……

「そんな馬鹿な話があるかよ……」

クレストは小声で自分に言い聞かせる。

その時。背後から何かが迫る音がする。ずり、ずり、ずり、ずり、と、それは近づく。クレストは目眩を覚える。いったい何が近づいて来ればこんな音が出るのだろう。

……まさか、自分が暗殺者だとばれていたのか?

後ろは振り返らなかった。クレストは駆け出す。ざらざらした壁に手を当て、帷子を乱しながら走る。

「くそっ……」

クレストは毒づく。砂紋の団に身を置いた時から死ぬ覚悟はしていたつもりだが、得体の知れない化け物に殺されるのだけはごめんだ。

躓きそうになり、壁の凹凸に皮膚をひっかかれながら、走る。

前方に明るい光が見えてきた。あれが出口だ。そう思った瞬間、接近する音が加速する。

ずりずり、ずりずり、ずりずりずりずり――

音が近づくのと同時に、悪臭が鼻をついた。動物が腐敗したような臭い。

悲鳴を上げそうだった。捕まった瞬間、八つ裂きにされる。出口の光はすぐそこに迫っていた。クレストはそこに向かって飛び込む。

暗さに慣れた目に光が突き刺さる。同時に、何かが足に引っかかった。クレストは派手に転倒する。生温かいものがクレストの後頭部から首筋にかかる。強烈な腐敗臭が鼻をついた。白いどろどろした液体だ。クレストは絶叫し、這いつくばりながら進む。

……が、様子がおかしいことに気づく。しばらくしても、何も襲いかかっては来ない。代わりに笑い声が聞こえた。

クレストは立ち上がり、ふり返った。気弱そうな男が、ずりずり、と砂袋を引きずりながら洞窟から出てくる。男は、気まずそうな顔でクレストを見ている。別に怖がるようなことなど何もない。ただ砂袋を引きずっているだけの音だ。

洞窟の出口には、クレストの足を引っ掛けた紐があり、地面には桶が落ちている。これはいたずらなどでよく使う手法だ。紐に足を引っ掛けると、頭上に設置されていた桶がひっくり返り、その中の液体を下にぶちまけるのだ。

「……なんなんだ、いったい」

前を向くと、そこに子どもがいた。まだ十歳にもならない男の子だ。髪は金色で肌は白い。美しい男の子だった。その子が腹を抱えながら笑っている。

少し冷静になる。徐々に状況が呑み込めてきた。さっきまでの出来事は、この男の子のいたずらだったのではないか。砂袋の男も、あの態度からしてこの子に従っていたとしか思えない。

男の子が、ふうふうと息を整えながら言った。

「あーおもしろかった。……ねえねえ、ほんとに殺されると思った? 平気だよ。その白いの、ただの腐った牛乳だもん」

頭からかぶった白い液体を指差しながら、男の子は言う。

クレストは怒りに歯ぎしりした。

「……随分と手の込んだマネしてくれるじゃねえか」

近づこうと足を踏み出すと、ずぶりと地面が沈み込んだ。脛まで茶色い泥で汚れる。

「ううっ……!」

思わずうめき声を上げる。むわっとする臭いが立ち昇ってきた。その泥は、牛か豚の糞だった。

男の子がまた爆発したように笑い出す。

「このクソガキ!」

クレストが男の子に掴みかかろうとすると、いつの間にかそこにいた別の男が阻んだ。官服に身を包んだ、痩せぎすの男だ。年齢は分からない。顔を白いのっぺりとした仮面で隠していたからだ。

その奇怪な装いに驚き、クレストは思わずたじろぐ。

仮面の男は、男の子の方を向いてため息をひとつ吐いた。

「気は済みましたか、ルラ様」

「る、ルラ様ぁ?」

クレストは素っ頓狂な声を上げる。

気付くと、男の子の背後に人が集まっていた。庭木の陰に隠れていたのだろう。そのどれもが街では滅多に見られないほどの美男美女だった。くすくすと笑っている者もいれば、同情のまなざしでクレストを見る者もいる。どうやら彼ら、彼女らが後宮に仕える宮男、宮女であるらしい。

仮面の男がこちらに向き直った。

「私は侍従長のギレコだ。そしてこのお方が我々の主」

「よろしくね、クレスト」

そう言うと、男の子は膨らんだ袖から出したものをクレストに差し出した。小さな棒の先に真っ赤な飴が刺さっている。街の露店で売っている棒付き飴だ。

クレストはそれを受け取れなかった。自分が汚れているというのもあるが、その赤い飴は母が消えた時の血の泡を連想させた。

「いらないの?」

男の子はつまらなそうに言って、自分でそれを舐める。

クレストはおぞましいものを感じ、呆然とするしかなかった。

とても信じられそうにない。本当にルラはこんな男の子なのだろうか。これも何かのいたずらではないのか……。

愕然とするクレストの顔を、ルラは無邪気に覗き込んだ。目が合う。その瞬間に戦慄が走る。ルラの赤い瞳は、ただの子どものそれではない。すべてを見透かすような光がある。そして、飴をくわえた口元がにんまりと笑う。

「ねえクレスト、君は何をしにここへ来たのかな?」

 

 

「お前はルラ様と遊んでいればそれでいい。それがお前の仕事なのだ。何度も言っているだろう」

仮面の男、侍従長のギレコは言った。

だが、クレストは納得できない。

「だからあのいたずらに我慢しろっておっしゃるんですか?」

ここは〝住舎〟と呼ばれる、宮男宮女が住むための建物だ。その二階の廊下で、二人は話していた。

クレストが後宮に来てはや一ヶ月。到着時に洗礼として腐った牛乳をお見舞いされたが、その後もルラのいたずらは行われた。

寝ている時は鼻の穴に水を流し込まれ、部屋の戸をくぐる時は頭上からタライが落下し、朝食のスープは焼けるほどの辛さに変更された。そして昨晩は男湯の表示を信じて入った風呂場に大勢の女がいて、激しい制裁に合った。おかげで体は生傷だらけだ。

ギレコは言う。

「大したことではないはずだ。お前は男娼を生業としていたのだろう。その苛酷さと比べれば、ルラ様のいたずらなどそよ風のようなものではないのか?」

クレストは煮え切らない顔でうなずく。たしかにギレコの言うとおりではあった。

しかしクレストには不満がある。男娼として名を上げれば後宮に入れるから男娼になったのだ。だから性技には絶対の自信がある。しかし男娼の仕事で得た技能は、ここではまったく役に立たなかった。

だが、本当にクレストが耐えられないのはそこではない。クレストは、ルラの〝悪意のなさ〟が気に食わなかった。クレストは砂紋の団にいた時、ルラは人間を血の泡に変える悪魔だと教えられてきた。そしてその恐怖によって人間を支配している、と。その悪魔が、なぜあんなにも無邪気に遊んでいるのか。

「……ルラ様は、ずっとあのお姿なんですか?」

クレストが尋ねると、ギレコは首を振った。

「いいや。白髪白髭の老爺だったことも、赤ん坊だったこともある。そしてちょうどお前くらいの若い男だったこともな」

クレストは仰天した。

「ルラ様は変身できるんですか?」

ギレコは仮面の奥で目を細めた。笑ったのかもしれない。事実を話したのか、それとも冗談のつもりなのかが分からない。なんだか狐につままれたような感じだった。

ギレコが仮面を外したところは、後宮の誰も見たことがないらしかった。噂ではルラだけが顔を見たことがあるらしい。ふとクレストは、ギレコが仮面を付けている理由を知りたくなった。

「ねえねえ、何話しているの?」

呼ばれて振り向くと、いつの間にか欄干にルラが腰掛けている。相変わらず、呆れるほど美しい相貌だ。

驚いてクレストはたずねる。

「いったいどこからいらしたんです?」

近づいてくる気配すらなかった。

クレストの問いに、ルラは黙って下を指差す。この二階の廊下は外に面していて、下には庭がある。つまり、一階の庭からここの欄干まで跳んだらしい。ルラの身体能力は人間よりもずっと高いのだ。

「っていうかどうして敬語なの? いつもなら〝お前どこから湧いてきやがった〟って言うとこなのに。……あ、ギレコの前だからか」

ルラはニヤニヤしながら言った。クレストが言葉遣いについてよくギレコから注意されていることを、ルラは知っていてこう言ったのだ。

(わざとらしく言いやがって、このガキ……)

クレストは怒りをこらえながら言う。

「ところでご用件は」

「棒付き飴がなくなっちゃった。街まで行って買ってきてくれない?」

クレストも最初は驚いたが、ここでは一度後宮に召された者でも外に出て雑用をこなすことがあるらしいのだ。もちろんルラの命令があればだが。

「しかし俺には道が分かりません」

「キーシャと一緒に行けばいいよ。まとめて干し果物も買ってきてもらうから、二人いた方がいいし」

 

ルラの命令に従い、クレストは一ヶ月ぶりに神殿の外へ出た。神殿の付近に築かれた街は、ずばり〝神殿街〟と呼ばれる。神都の中でも一番賑わっている街だ。高級な布で仕立てた服をまとう人が目立つ。うち何人かは神殿で働く官人である。金を持っている人が多い街だ。それだけ、みんながルラのいる神殿の近くで暮らしたがっているということだった。

人で賑わう通りを、クレストは両手に荷物を抱えて歩いていた。

「なにもたもたしてんのよ、新入り! 日が暮れちゃうわ」

通りの先でキーシャという宮女が手を振って急かす。吊り目がちで勝ち気そうな印象の娘だ。小柄な体を派手な赤い帷子に包んでいる。彼女が動く度に、一つにまとめた後ろ髪が尻尾のようにひょこひょこ跳ねた。無論、街ではそうそうお目にかかれない美少女である。

「はやく来なさいって。まだ今日中に回りたいお店二つはあるんだから!」

「なんで俺が荷物持ちしなきゃいけねえんだ……」

クレストは溜息を吐き、小走りにキーシャの元へ行く。

彼はキーシャの買い物に付き合わされていた。服や装飾品、その他もろもろの雑貨。キーシャの物色と散財は止まらない。相当な小遣いをルラからもらっているらしく、湯水のごとく金が流れ出ていく。そして荷物はすべてクレストが運ぶことになった。キーシャに言わせれば「後輩なんだから当然」らしい。

キーシャに追いつくと、クレストは不安を口にする。

「なあ、こんなことしてていいのかよ? ルラ様からは棒付き飴を買ってくるように言われたんだぞ」

「いいのよ。それは遊んで来いって意味なんだから」

キーシャはしれっと言う。

「自分の都合のいいように解釈しすぎだろ……」

「なんか言った?」

「いや」

クレストが首を振ると、相手はむっとした表情でこちらを見た。

「あのね、ルラ様はそんなみみっちいお方じゃないわ。あたしたちはルラ様の所有物だけど、自由なのよ。ちゃんとルラ様のお相手を務めている限りはね。それに、故郷に帰りたくなって後宮を出てった奴もいるし」

非常識だが、驚くには当たらない話に思えた。ルラは自分の権威や、他人を支配することに呆れるほど無頓着だ。ただ毎日、楽しく遊んでいられればそれで満足といった様子に見えた。

「ルラ様って、本当にただの子どもなんだな。最初に見た時はびっくりしたけど」

「ただの子ども? 本気でそう思う?」

「どこからどう見ても子どもだ」

キーシャは首を振った。

「ルラ様がどれだけの重責を負ってるか知らないの? 今こうして街の人たちが消えずに生きてるのだって、ルラ様がみんなのことを覚えておいてくださっているおかげじゃない」

砂紋の団では、それは虚妄だと教えられている。クレストは同意できなかったが、黙って聞いていた。

「後宮にいない間、ルラ様が何してるか知ってる? ずっと本殿で、祈祷する人たちの声をお聞きになってるのよ。その人たちの存在を忘れないように。それだけじゃないわ。その日祈祷していない人たちの分まで、地上に生きる全ての人間の存在を一人ひとり記憶を辿ってお確かめになるの。毎日三万人よ? どれだけ大変なことか、あんただって分かるでしょ」

「……ああ、そうかもな」

「こんなこと、言われなくても分かりなさいよね。あんた、ルラ様に気に入られてるんだし」

「俺が……?」

きょとんとするクレストを置いて、キーシャはすでに次の店へ足を向けていた。忙しない娘である。

キーシャは街で有名人だった。多くの人に呼び止められ、後宮での暮らしやルラの様子について問われる。キーシャは飽きもせずに、いちいち会話に応じる。そして別れ際、みんながルラへの感謝の言葉や喜びの言葉を口にした。キーシャは必ずその言葉をルラに伝えると約束した。

クレストはそんな様子を見ながら、ひそかに首をひねった。

(どうしてみんな、こんなに幸せそうなんだ……?)

人々の満ち足りた笑顔を見る度、憂鬱な気分が積もっていく。クレストは今まで、いわゆる〝普通の世間〟を知らずに生きてきた。故郷は貧しい環境で、母が消えてからは砂紋の団で暮らしていたから、ルラを憎むのは普通のことだった。七歳で首領の命令を受け男娼になった時も、周りは貧しい人々や鬱屈を抱えた人々が多かった。だからこんな幸福な雰囲気に包まれた世界があることを知らなかったのだ。

だがこれは間違っている、とクレストは思う。なぜなら、ルラは人間から存在を奪い取る悪魔なのだから。街の人たちは、それすらも分からず子どものようにルラを信じているだけなのだ。

やはりルラは殺すべきだ。

考えに没頭しながら人混みを歩いていると、どすっと人にぶつかる。擦り切れた生地を身にまとい、フードをかぶった巨漢だった。ふと、その男と目が合う。合ったのは右目だけだ。男に左目はなかった。右目の下に、血の涙を流しているような朱の化粧をしていた。

どくん、と心臓が強く鳴る。

砂紋の団の首領だ。母がいなくなってから、クレストは彼に育てられた。父と言ってもいい存在である。だが、気軽に話せる相手などではなかった。首領は、砂紋の正神の預言者でもあったからだ。

男娼になって以来、会っていなかった。だから十年ぶりに会ったことになる。にもかかわらず、目が合った時の重苦しい感触は以前と同じだ。それどころか首領はより一層、陰惨な空気を滲ませていた。

ぶつかり、すれ違ったのは、ほんの数秒の出来事だ。その瞬間に、スッとクレストの懐に滑り込んできたものがあった。荷物を落としそうになりながらも、クレストはそれをしっかりと受け取る。

首領の唇が小さく動いた。

――砂紋の正神に魂を捧げよ。

声として聞いたのではない。だが、自分がそう言われたのだと直感した。

首領はずっとここで待ち受けていたのだ。後宮の者がこの通りに来るという情報を得て、クレストが来るのをひたすら待ち続けたのだろう。今、この言葉を告げるためだけに。

首領と完全にすれ違った後も、頭がしびれてしばらく動けなかった。

気付くと、目の前にキーシャがいた。両手には袋が抱えられていて、中には棒付き飴と干し果物がたくさん入っている。

「なにぼさっとしてんのよ。帰るわよ」

「ああ」

声をかけられ、ようやく我に返る。あわてて首領から受け取ったものを帷子の内側に隠す。それは鞘に収まった短刀だった。

 

後宮に帰ると、クレストは真っ先に裁縫に取り掛かった。帷子の腰帯で隠れる場所の内側に、外からは分からないように袋を作った。そこに短刀を入れると、常に隠した状態で持ち歩けるようになった。

暗殺の準備が、ようやく整ったのだ。

 

 

十数人の宮男宮女が、広間の中央で卓を囲んで座っていた。卓の上には整然と札が置かれている。ほとんどの者は手札を持っておらず、安堵した表情でくつろいでいる。手札を持っていないのは、すでにこのゲームから上がった者たちだ。卓を挟んで向き合った二人だけが手札とにらめっこをしていた。ルラとクレストである。

最近、後宮では札を使った遊びが流行っている。最初は渋々参加していたクレストだったが、すぐに一番熱くなっている自分に気づいた。そして大抵の場合、クレストを陥れるための巧妙な策略が張りめぐらされていた。結果的に一番熱くなったクレストが一番惨めに負けて、敗者に課せられる罰則を受けることになるのだ。

「はい、またクレストの負けー」

ルラは手札を卓に出しながら言う。

周りの宮男たちが拍手し、指笛を鳴らしてはやし立てた。

「さっすがルラ様!」「鮮やかな札さばき!」「ぃよっ! 卓上の奇術師!」

クレストは札を投げ出して頭を掻きむしった。

「ああっ! なんで負けたんだ? 全然分からねえ」

周りでは宮女たちがくすくす笑っている。何か仕掛けを知っているらしい。

クレストは疑り深い目をルラに向けた。

「さてはルラ様、俺の考えを読んで手札を当ててるんじゃないでしょうね?」

「そうに決まってるじゃない。僕を誰だと思ってるの?」

ルラはそう言って、じぃっと瞳を見つめ返してきた。

思わず言葉に詰まる。

最初にルラと会った時の感覚が蘇った。散々いたずらされた後に、悪寒を覚えさせる視線を送ってきた。あの、全てを見透かすかのようなまなざし。

クレストは首筋が泡立つのを感じる。自分の手札が読まれたということは、帷子の中に隠し持っている短刀まで読まれていてもおかしくないのではないか……。

ルラは突然、大口を開けて笑い出した。

「はははっ! おっかしい顔。クレストってなんでも信じちゃうんだもん」

「嘘かよ……」

額から汗が出るほど緊張した。

周りにいたみんなも一斉に笑い出す。

「ほどほどにしてやってくださいよ、ルラ様。こいつまだ入って来たばっかりなんだし」

横からそう言ったのはキーシャだ。

「そんなこと言って、実はキーシャが一番乗り気じゃない。ところで、今回の罰則はなんだったっけ」

キーシャが罰則を羅列した紙を取り出した。

「えーと……うわっ、これ恐い! 〝ギレコ様のおしりを思いっ切り叩く〟ですって」

クレストはうめいた。仮面の侍従長は、ルラの世話役というだけでなく、宮男宮女のまとめ役にあたる人だ。

「……そんなことしたら、俺はもう後宮にいられなくなるんじゃないか?」

「大丈夫だって。僕も何度か叩いたことあるし」

ルラはしれっとそんなことを言う。

「ルラ様と俺とじゃワケがちがうでしょ」

「ねえクレスト、大事なこと忘れてない? 後宮で一番えらいのって、ギレコなの?」

そう言われると、クレストも逃げるわけにはいかなくなった。

「はいはい分かりましたよ。やりゃいいんだろやりゃあ……」

クレストが立ち上がると、わっと拍手が巻き起こる。

「さすがは期待の新入り!」「男の中の男!」「ぃよっ! 永遠の惨敗王!」

クレストは苦笑した。

「まったくよお……調子のいい奴らだ」

その時、広間に足音が近づいてきた。仮面を付けた細い男が向かってくる。

「お楽しみのところ申し訳ありません、ルラ様。明日、急遽、神都会議開催の申請を宰相から受けましたので――」

みなのまなざしを感じ、クレストは走りだした。

――そして後宮には、数年ぶりにギレコの怒鳴り声が響き渡った。

 

床の上に正座させられ、ギレコの説教を聞きながらも、クレストの頭は別のことを考えている。

ここへ来てからの生活は、毎日が騒がしい。こんなことは生まれてはじめてだ。しかし、それは不快なものではなかった。むしろ、本来の自分に戻ったという気さえする。

だが、そこで慌てて自分の考えを否定する。自分はルラを暗殺するためにここへ来たのだ。すべてはルラに気に入られ、絶好の機会を得るため。今の自分は演技をしているのだ。そう自分に言い聞かせた。周りに合わせて騒いでいても、心は冷たいままにしておかなければならない。でないと、ここの日常に心が呑まれてしまう。

クレストは強く念じる。近いうちに機会が訪れるはずだ、と。そしてルラを殺せば、復讐は遂げられ、団の同胞たちは消滅の恐怖から解放される。

 

ギレコの説教が小一時間続いた後。

クレストは庭の芝に座りこみ、庭石に背をあずけてつぶやいた。

「ひでえ目にあった……」

空を見上げると、もうすっかり闇に染まっている。雲一つない空に、無数の星が散らばっていた。

後ろの方からルラの声がする。

「最高だったよ。本当にやるなんて」

「お前なあ」

「ははは、ごめんごめん。ギレコには僕から謝っとくからさ」

不思議だった。二人でいるとつい〝お前〟などと呼んでいるが、相手は神と崇められている者なのだ。しかしこの呼び方が自然に思えたし、普段ルラ様などと呼んでいる方がよっぽど不自然に感じる。

二人は後宮にいくつもある中庭のうちの一つにいる。小さくて、周囲を壁に囲まれた、目立たない中庭である。クレストはここを見つけた時、騒がしい後宮から離れて一人になれる穴場を見つけたつもりでいた。何度かここに来て一人で過ごしていると、どこからともなくルラが現れるようになった。

虫の音が聞こえ、涼しい風が吹く。

クレストとルラは互いに背を向け合ったまま、心地よい沈黙の中にいた。

その沈黙が、不意に破られる。

「ねえクレスト。君のお母さんってどんな人だった?」

時間が止まった気がした。急に目の前の景色と、音と、温度が遠ざかる。代わりに、耳の奥で鼓動の音がはっきりと聞こえた。

「どうしてそんなこと聞くんだ?」

出した声はかすれていた。

「ちょっと気になってさ」

いや、そうではないはずだ。クレストは問う。

「……どうして俺の母親が死んでるって知ってんだ?」

「いや、知らないけど……もう亡くなってるの?」

「とぼけるなよ。お前は、俺の母親がどんな人〝だった〟か、って聞いたんだ。死んでるって知ってなきゃ、そんな聞き方にならないだろ」

「……。うん、知ってるよ。だって僕は、君のお母さんの存在を覚えてないから」

ルラのその言葉が引き金となった。クレストの脳裏を、数えきれないほどの思い出が駆け巡る。

夜ごとにルラに祈りを捧げていた母の姿。母に手を引かれて神殿の祈祷広場に行ったこと。その帰り道に露店で買ってもらった焼き菓子。家に近づくにつれ、褪せていく景色。

病気でろくに動けなくなってからも、ルラへの祈りだけは欠かさなかった母。やせ衰えたまま信仰を語り、幸福な未来を信じて疑わなかった母……。

しかし、最後には何一つ報われないまま、みじめに血の泡になった。彼女が信じた唯一の者からも忘れられ、クレスト以外の誰からも気づかれないまま、この世界から消えた。

胸がつぶれそうだ。久しぶりの感覚に頭が支配される。それは世界が綺麗ならば綺麗なほど、すべてが壊れてほしいという願いだった。

――ルラは神などではない。

首領の低くしわがれた声が耳元に蘇る。

――ルラは人間に〝存在の力〟を与えてなどいない。ただ人間から存在を奪うのみだ。人間はルラの奴隷に堕ちた。日々存在を消される恐怖に脅かされ、ルラの言いなりになるほかない。

首領は繰り返し、クレストに言った。人間はルラの奴隷である、と。

クレストの体に、小さな手が触れた。背中が温かくなる。ルラが背後から身をあずけてきたのだ。細い手が、おずおずとクレストの腹に回される。

「お母さんがいなくなって、寂しかった?」

――ルラがいる限り、人間は消滅の恐怖から逃れられない。

クレストの耳の奥で、幻の首領の声が、ルラの声よりも近くに響いた。

――ルラは人間に、ルラを愛するよう強制する。憎悪することさえ禁じられている。抵抗する意志はもがれ、媚びへつらうことでルラの許しを得るのみだ。人間は恐怖と感情の枷をはめられた家畜に過ぎん。ルラが存在する限り、人間は不条理に消される恐怖から自由になることはないのだ。

「その後もずっと体を売って暮らしてたんだよね。辛かったね」

「ああ……」

クレストは適当に返しながら、冷静に状況を見た。周囲には自分とルラしかいない。そしてルラは自分と密着し、完全に気を許している。こんな機会は今までになかった。

自分のすべきことが鮮明になっていくのを意識する。帷子の内側に仕込んだ短刀が、熱を帯びるかのように思えた。

試しに頭の中で、その動作を思い描いてみる。襟から手を突っ込み、さり気なく短刀を握る。ふり返って鞘を抜き捨て、ルラの首に刃を突き立てる。

二秒で済む。いや、一秒で。

「僕はずっと気付いてたよ。君が僕を恨んでるってこと」

号令。

――ルラを抹殺して人々を解放せよ!

首領の幻が怒鳴った。

手が自動的に懐に入れられる。短刀をつかむ。同時に立ち上がる。触れていたルラの手が振りほどかれるが、構わず振り向く。短刀の鞘を抜き捨て――

体が、急に止まった。

全身がしびれたように動かない。

短刀を相手に向けているのはクレストではない。

ルラがにんまりと笑みを浮かべ、鋭い切っ先をこちらに向けていた。月の光を受けた刃が、鈍く光っている。

クレストは目を見開き、絶句する。いったい何が起こったのだろう。

自分の手を確認し、愕然とした。握っているのは短刀の鞘だけだ。身はいつの間にかルラに抜かれていたらしい。後ろから手を回された時だろう。

自分の不注意を呪うよりも、ルラの目に恐怖する。その赤い目は、本当に何もかもを見透かしていた。

「この短刀の前の持ち主がどんな人か、当ててあげようか?」

ルラはいたずらっぽい目で言う。

「きっと見てるだけで気が滅入るくらい、不細工な男だよね。いっつも黒い服を着て、夜な夜な怪しい集会を開く。〝魂を捧げよ!〟とか言っちゃって。それでもってその男には、左腕と左目がないんだよ」

「…………」

「不思議そうな顔してるね? 実はねえ、そいつの左腕と左目を奪ったのは僕なんだよ」

ルラは短刀を下ろすと、その刃でこつこつと庭石を叩いた。

「あいつも僕のことを本気で憎んで、殺そうとしてきた。それを返り討ちにしてやったんだよ。三十年くらい前のことかな? あいつはまだ懲りないね。感心するよ。君は似てるよね、あいつと」

ルラは人差し指をクレストの腹に押しあて、冷徹な笑顔でこちらを見上げてくる。クレストはおぞましさに身震いした。

「もちろん君はあんな不細工じゃないけどさ。〝本気で〟僕のこと憎んでる。ちょっとくらい僕を憎んでたって、殺そうとしてくる奴なんかいないんだよ。だって、人間は神を愛するように作られてるからね。どんな暗殺者でも実際の僕を前にしたら、罪悪感で泣き出して勝手に懺悔しちゃうの。そういう奴を何人も見てきた」

ルラの人差し指が、腹、みぞおち、胸、首元となぞっていく。ぞわぞわと鳥肌が立つのを感じる。すぐにでも逃げ出したいのに、恐怖の金縛りで身動きが取れない。

「だけど君にとっての神は僕じゃない。君は自分の母親を神として崇め、信仰してたんだ。だけど君の神は殺された。この僕にね。だから君は僕を憎むことができる。……おもしろいよ、クレスト。君はおもしろい……!」

ルラは真っ赤な目を爛々と輝かせて言う。

クレストは悟った。ルラが人の思考を読むことができるというのは、はったりなどではない。事実だったのだ。

こめかみから汗が流れ落ちていく。

「それで、お前は俺をどうする」

クレストは何もかも捨てる気持ちで尋ねた。

ルラは短刀の背を自分の唇に当てながら、悩む仕草をする。

「うーん、そうだなあ。とりあえずこの短刀は没収。それから、明日も札遊びに参加すること」

それだけ言うと、ルラはクレストから離れた。

「…………それだけか?」

「うん。僕はもう行くよ。あまり遅いとギレコがうるさいから」

クレストは拍子抜けを通り越して、憤りさえ感じる。

「ちょっと待てよ……お前、ふざけているのか?」

「ふざけてないよ。だってすべて知った上で君を後宮に入れたんだし。僕を殺すつもりならご自由にどうぞ。うまくいきっこないけどね」

唖然とするクレストを置き去りに、ルラは去って行く。

静かな中庭に、クレストはたたずんでいた。と、足の力が抜けてへたり込んでしまう。ルラと対峙している間中、もう動かなくなるほど全身が緊張していたのだと分かる。

握りこぶしをつくり、思い切り地面に叩きつける。

「くそっ……話にならねえじゃねえか……!」

暗殺以前に、自分がルラにとって脅威でさえないことを知る。

血の色の瞳で射抜かれた時、クレストの目には、ルラが完全な悪魔として映った。

 

第二章

 

 

灰色の雲の底から、ひらり、ひらりと雪が舞い降りる。神殿の塀の上に、塔の尖った屋根に、庭園の芝と木々に、本殿の壮麗な屋根に、純粋な白が積もっていく。

降雪の準備のなかった神都は混乱をきたしていた。なんでも、雪が降るのは三十年ぶりのことらしい。雪のせいで物の流れが悪くなっている。作物も駄目になるかもしれない。

そんなこととは無関係に、後宮では歓声が響く。宮男宮女たちは庭に出て、雪で作った玉を投げ合っていた。

クレストは縁側に寝そべって、その様子を眺めている。時折吹き込む風に首をすくめた。

「うおっ、さみさみ……」

クレストが後宮に来てから、およそ半年が経とうとしている。暗殺未遂をした晩の次の日からは、何ごともなかったかのような日常が続いた。クレストがルラを暗殺しようとしていた事実さえも、消失してしまったかのようだった。その代わりクレストがルラの一番のお気に入りだということは、後宮の誰もが知る事実となった。あっという間に月日は経ち、寒い季節になってしまった。

大きな欠伸を漏らしながら、クレストは雪遊びに興じるルラを眺める。

肩まである艶やかな金髪を乱し、明るい悲鳴を上げながら駆ける。長いまつ毛とぷっくりした唇、胸には柔らかな膨らみがある。厚手の衣が翻るたび、肉感的な太腿がちらりと覗いた。少女にしては大柄な方で、クレストと同じくらいの身長がある。

どすん、と耳元で足が踏み鳴らされ、クレストはぎくりとした。

「なぁにじろじろ見てんのよ、クレスト」

頭上から声をかけられる。そこには目を吊り上げたキーシャがいた。もっとも、目が吊り上がっているのはいつものことで、怒っているのでもなさそうだ。むしろキーシャは、にやっと笑みを漏らして見せた。

「最近男どもがそわそわしてるわ。ルラ様がとぉっても色っぽくなられたから」

「なあ、あいつはどんな魔法を使ったんだ? いきなり女になったりして」

「珍しいことじゃないわ。ルラ様はあたしたちと違って、自分の性別や年齢も自在に変えられるんだもの。でも最近はずっと子どものお姿でいらっしゃったから、久しぶりね」

「ふうん……」

ルラの姿が変わるところを見るのは、これがはじめてだった。それも徐々に変わるのでなく、一週間ほど前のある日、いきなりあの姿に変わっていたのだ。以前にギレコがそんなことを匂わせていたが、まさか本当だとは思わなかった。

「あんたは最近、ルラ様としゃべらなくなったわね。そうやって遠くから見てるだけで。気後れしてるわけ?」

キーシャはおかしそうに聞いてくる。

「はっ……まさか」

クレストはそう答えながら、内心では動揺していた。

クレストは本来、性的なもの全般に対して無感動だった。男娼をはじめた時期が早すぎて、自分を童貞と認識していた時代がない。客からは美しい少年少女が淫行している様子を眺めたいという要望も多く、同業者の美しい男女と交わったことも数知れない。そんなことを繰り返しているうちに、何を見ても心が動かなくなっていた。

だが、ルラはあらゆる魅力において、人間の男女を軽く超えている。まるで自分の欲望が具現化したような姿だった。

「へえ、あんたでもそんな顔することあるのね」

楽しそうに言うと、キーシャは隣に座ってきた。クレストも身を起こし、座り直す。

「ねえ、どうしてルラ様は女のお姿に変わったんだと思う?」

「どうせ何かの気まぐれだろ。あんな奴の考えなんて、想像するだけ無駄だ…………いてっ!」

いきなりキーシャが腕をつねってきた。

「なにすんだよ!」

「あんたが馬鹿すぎるからよ。理由がないわけないでしょうが」

そう言われても意味がわからず、クレストは目をぱちくりさせるしかない。

「しょうがない……、ヒントをあげるわね」

「は? ヒント?」

キーシャの目が珍しく乙女らしい輝きを帯びている。

もちろん、キーシャはクレストが暗殺者であることなど知らない。だからクレストとルラが普通に仲良く接しているように見えるのは仕方がない。だが、それを抜きにしてもキーシャは明らかに何かを勘違いしている、とクレストは思った。

キーシャは人差し指を立てて、ヒントとやらを言う。

「ギレコ様の仮面の話。あの仮面の下、どうなってると思う?」

あまりにも虚を突く質問だった。しかし言われてみれば気になるのもたしかだ。半年も経ったので、あの仮面にすっかり慣れてしまっていた。

「さあ……考えたこともなかった」

「人から聞いた話なんだけどね、あの下にはひどい火傷があるんだって」

「だから仮面で隠してるってことか。ま、ありそうな話だな」

キーシャは真剣な表情でクレストに顔を近づけ、ささやき声で言った。

「実はね、その火傷をつくったのがルラ様なの……って言ったら信じる?」

クレストも釣られて声を低める。

「……なんだそりゃ。それも人づてに聞いた噂か?」

「そうだけど、あたしは本当なんじゃないかって気がする。昔、ギレコ様も宮男としてルラ様に仕えていたんだって」

「侍従長が?」

初耳だった。宮男だった頃のギレコも、ルラからいたずらを仕掛けられたりしたのだろうか。にわかには想像できない。

「その時、ルラ様とギレコ様はとっても親密で、本物の恋人か夫婦みたいだったって話よ。その頃もルラ様は女のお姿だったらしいわ。今と同じようにね」

「ははあ、あの侍従長も男の性には勝てなかったんだな…………いたっ!」

クレストはまた腕をつねられた。

「茶化さないで聞きなさいよ。……いい? ルラ様は神と崇められているお方よ。普通の恋愛なんてきっとできない。だからこうして後宮を持っているの。そんなルラ様が恋人を作ったのよ。それってどういうこと?」

「どういうことって……」

クレストにはうまく想像できない。ルラは女の姿になっても子どものように振る舞っている。あんなルラが恋人を作ったりするのだろうか。

キーシャは続ける。

「けどその関係は破局を迎えたのよ。止むに止まれぬ〝何か〟があって、ルラ様は相手の顔に煮えたぎる湯をかけた……。ルラ様なはぜそんなことをしたのかしら?」

クレストは言葉に詰まる。頭の中には、二つのルラの姿があった。一つは、今がそうであるように、無邪気に遊んで笑っている子どもみたいなルラ。そしてもう一つは、クレストが暗殺を仕掛けた夜、すべてを見透かす瞳でクレストを震え上がらせたルラだ。

「……分からねえ。俺にはさっぱり」

「あたしにもさっぱりだわ」

クレストはがくっと頭を落とした。

「あのなあ、お前が何か意味深なことを言って、ヒントとか言うから聞いてたんだぞ。それなのに、結論がさっぱり分からないってどういうことだよ」

キーシャは神妙にうなずき、言う。

「たしかに、よけいややこしくしちゃったみたいね。けど、これだけは言っておくわ。あんたはちゃんとルラ様のことを見て、いろいろ想像して、分かってあげようとしなさい。ルラ様がどんなことをお考えなのか、ルラ様がどんなことで苦しまれているのか」

「苦しんでるって、あいつが?」

「そうよ。だってルラ様はいつも一人ぼっちじゃない」

クレストは腕組みしてうなった。話せば話すほど頭がこんがらがってくる。

「そこまで言うなら、お前がいろいろ考えればいいじゃねえか。どうして俺にそんな無理難題を頼むんだ?」

「そんなの決まってるじゃない。あんたとルラ様の間には、〝何か〟あるからよ」

〝何か〟とはなんだろう。それはルラがクレストの母を消し、クレストがルラを憎んでいる、ということだろうか。

「クレストー!」

透明な少女の声が呼んだ。向こうでルラが手を振っている。

庭では、ルラ以外の全員が雪まみれになって倒れていた。雪遊びはルラの圧勝のようだ。

「いくよーっ!」

ルラが振りかぶり、何かを投げてきた。放物線など描かず、豪速球の雪の玉が直進してくる。クレストの腹にぶつかり、砕け散った。

「ぐはっ」

軽く殴られたくらいの衝撃。

ルラはけたけたと笑いながら駆け去った。

「なにしやがる!」

クレストが怒鳴り、立ち上がる。はらり、と何かが落ちた。なんだろう、とクレストは拾い上げる。雪にまみれた小さな紫の布切れだ。ルラが投げた雪の玉の中に入っていたらしい。

キーシャが大声を上げる。

「ああっ! これは!」

「なんだ?」

「ルラ様からお呼びがかかったってことよ!」

「珍しくもないだろ。しょっちゅう一緒にいるんだから」

「ちがうわよ。ここがどこか忘れたの? これを受け取った人は、その日の夜から次の朝まで、ルラ様のお部屋で二人きりで過ごすの!」

「それって――」

クレストの言葉をさえぎって、キーシャは頬を両手ではさんで悲鳴を上げた。

「いやーっ! こんなことってあるのかしら? ルラ様とクレストが? この間までじゃれ合ってただけだったのに? いきなりそんな関係に……。全っ然想像できない!」

「なあキーシャ……とりあえず落ち着いてくれ」

キーシャが騒いでいると、他の者たちも集まってきた。紫の布を代わる代わる見て、感嘆と羨望の声を上げる。ルラが布で誘うしきたりは誰もが知っていたが、紫の布を実際に見た者は誰ひとりとしていなかった。この布のしきたりは、半ば伝説化したものだったらしい。

「いい? クレスト。ルラ様がこんなことをなさるなんて、滅多にないことよ」

キーシャは真剣な表情で言った。

「しっかりやんなさい。それと〝あたしがさっき話したこと〟、よぉく肝に銘じておくように」

――ルラが女になった理由。ギレコの顔の火傷について。ルラの気持ち、苦悩と孤独……。

クレストの手にはあまることばかりだ。

それだけではなく、暗殺者としての使命もある。いったいどうしろと言うのだ。

「ああ……分かったよ」

何も分からないまま、ともかくクレストはうなずいた。

 

 

夜が後宮を覆った。

クレストは胸に苦しさが鬱積していくのを感じながら、そこに立っていた。

ここは神殿のもっとも奥深くにある部屋。本陣と呼ばれる、ルラの私室だ。

クレストの前に、青白い薄絹の幕が揺れている。それは天上から床まで垂れ下がっている。そして薄絹の上には、向こうから当てられた照明によって、裸の少女の影が映っている。目を凝らせば、薄絹の向こうの実体まで見えそうだ。

クレストは欲望に胸がうずいた。それは快いものではなかった。

「どう? この趣向は気に入ってくれた? 準備にすごく時間がかかったんだけど」

いたずらっぽい声。

「お前さ……こんなふうに人をたぶらかして面白いか?」

「ふふ……声が震えてるよ。はやくこっちに来ないの?」

今すぐ薄絹を引き裂いて進みたいという衝動に抗い、クレストは立ち止まっている。もはやなぜ自分がここにいるのかもよく分からない。単にルラから誘われたからなのか、今朝キーシャにあんなことを言われたからなのか。

一番大きな目的は暗殺だ。しかしクレストは今、得物を持っていない。短刀の入手がうまくいったのは最初だけで、危険物を後宮に持ち込むことはかなり難しい。今殺すなら素手でやるしかない。だがそれは危険が大きすぎる。と言うより、不可能だ。

少女の影が口に手を当てて揺れた。ルラがくすくすと笑ったのだ。

しまった、とクレストは思う。この思考もすべてルラには読まれている。何を考えても読まれる。ならば何も考えずに暗殺を実行するしかない。だが、そんなことは不可能だ……。

「ちゃんと短刀も用意しておいたよ。クレストのためにね。いいからこっちに来てごらん」

どうにでもなれと思い、クレストは薄絹をめくって進んだ。

すると、ルラの姿は現れず、次の薄絹の幕が現れた。さっきは幕が二重になっていたのだ。一枚減ったせいで、幕の向こうにルラの雪のように白い身体がうっすらと見える。華奢なようでもあり、肉感的な膨らみも備えている。純潔さと妖艶さの混交した、あまりに生々しい少女の肉体。それがクレストを誘っている。

欲望が目眩を起こし、視界が歪むほどだった。こんな感覚は初めてだ。

「刀はどこだ」

動揺を悟られまいと、クレストは早口に言う。

「ほら、そこ」

ルラが指さしながら言う。

クレストの横には、腰の高さほどの小さな木の台があった。その上に、首領の短刀が置かれている。刃には布が巻きつけられていた。

クレストは短刀を握り、布をほどく。刃が鋭利に輝いた。

「今なら私を殺せるよ。ここには君と二人だけ。誰も邪魔はしない」

しかしそれでもなお、クレストは確信を持てない。ルラには思考を読む力がある。純粋な体の力でも、あらゆる人間を上回る。たとえこちらが得物を持っていても、真っ向から戦って勝てる相手だろうか。

「抵抗しないよ、私は。今夜だけは君の言うとおりにするから」

「俺の言うとおりに……?」

「そう。ひとつだけ言うことを聞いてあげるってこと。クレストは、私をどうしたい?」

薄い幕の向こうで、ルラは唇を人差し指で触れながら言った。

「殺したいの? それとも、抱きたい?」

クレストはわずかにうなり、そして黙る。クレストは、なぜルラが女の姿になったのかが分かった気がした。それは、他ならぬ自分を籠絡するためだろう。

さらさらと、薄絹の揺れる音が聞こえる。部屋の外側には虚無が広がっているのかと思うほど、世界は静かだった。

クレストは目を閉じ、自分の呼吸に耳を傾ける。以前は首領が彼に語りかけ、取るべき行動を示した。だが今や、首領の存在はあまりに遠く思える。

その代わり、別の少女の声がクレストの頭の中に響いた。

――あんたはちゃんとルラ様のことを見て、いろいろ想像して、分かってあげようとしなさい。ルラ様がどんなことをお考えなのか、ルラ様がどんなことで苦しまれているのか。

それが、キーシャがクレストに示した〝ヒント〟だった。

その時、クレストは直感する。ルラは単に自分を籠絡しようとしているのではない、と。それだけが目的ならば、何のためにここに短刀が用意されたのかが分からない。そうではなく、ルラは試そうとしているのだ。だが、自分の何を試そうとしているのだろう。それがクレストには分からない。

「決まった?」

ルラがたずねる。

「ああ」

クレストは短刀を床に落とす。それが答えだった。

ルラの満足そうな、だがどこか幻滅したような、ため息が聞こえた。

「そっか……やっぱりクレストも私の〝夢の中の人〟だったんだね。いいよ、こっちに来て――」

しかしその直後に、ルラの声は不審そうなものに変わる。クレストの思考を読み取ったのだろう。

「いや、ちがう……君は私を抱く気もないみたい……だったら、なぜ」

「ルラ」

クレストは決然と、はじめてルラをそう呼んだ。

「俺の望みは、お前の〝本心〟を知ることだ。どうしてこんなことをするんだ? 暗殺者の俺を近くに置いて、いったいどうしようっていうんだ? お前は、俺の何を試そうとしてるんだ? 教えてくれよ、ルラ」

幕の向こう側で、ルラが息を呑むのが分かった。

クレストは重ねて問う。

「お前は本当に神なのか? それとも人間から存在を奪う悪魔か? いや……」

クレストは畳みかけるように、自分でも理解できないまま口走った。

「本当は、お前はただの人間なんじゃないのか? 単に人間を超える力を持っちまっただけの」

ルラは何も答えなかった。ただ虚脱したように立ち、幕の向こうからこちらを見つめるだけだ。

「……俺はお前の本心を知らなくちゃいけない。その後じゃないと、お前を殺すべきかどうかが分からねえ」

クレストはルラに背を向け、歩き出す。自分のすべきことが、ようやく分かった。

「本当のことを言う気になったら、もう一度俺を呼べよ。その時はちゃんと聞いてやる。その代わり俺は、お前のお遊びにこれ以上付き合うつもりはねえ」

そう言い捨てると、クレストは扉を押し開け、本陣を後にした。

 

 

朝になると、屋根の縁に氷柱ができていた。寒い日が続く。

後宮の者たちはみな、浮かない顔で暇を持て余していた。ルラが本陣から出てこないのだ。キーシャは、クレストとルラの間に何かがあったことに勘づいたようだが、問いただしてくるようなことはせず、そっとしておいてくれた。

クレストは縁側に寝そべり、流れる雲を眺めながらぼうっとしていた。昨夜の出来事が頭から離れない。

「クレスト」

不意に名前を呼ばれる。起き上がると、そこに仮面の男がいた。

「ついて来い。話がある」

クレストはギレコに連れられ、入ったことのない本殿に足を踏み入れた。天上の高い、広い通路を通り、大きな扉の前で立ち止まる。ギレコが扉をノックした。

「入りたまえ」

扉の向こうからの声を聞いた後で、ギレコは扉を押し開けた。

そこは大会議室と呼ばれ、神都の政治に関する会議が行われる場所だった。正面の壁に、神都の紋章が織り込まれたタペストリーが堂々と掲げられている。その手前に重厚な木の机が並んでおり、十人くらいの人間が座っていた。男女の割合は半々くらいだが、漂わせている厳しい雰囲気は同じだ。そしてみな布の冠をかぶり、衣の胸元に地位を表す金の刺繍を縫いこんでいた。

中央にいるのが宰相で、その左右に座っているのが各省の大臣であることは、政治に無知なクレストでも想像がつく。

高位の者たちは、クレストを見てにわかに嘆声を上げる。

「この少年がそうなのか」

宰相がギレコに問うた。

「間違いありません、閣下」

ギレコがうなずくと、大臣たちは口々にささやき合う。

「たしかに美しい少年だ」「しかし、あのルラ様がこんな子どもに?」「……何かよくない事情があるのではないのかね」「邪推では?」

クレストは不安になり、ギレコを見る。

「あの、侍従長どの、これはどういうことなんですか……?」

嫌な想像がクレストの頭に浮かんだ。自分がルラの暗殺者だということが、ばれたのではないか……。

宰相がギレコに視線を送る。

「まだ言っていなかったのかね? 君の口から説明するのがよかろう」

「はい、閣下……」

ギレコはいかにも気の進まない様子で、クレストの方を向いた。

「いいか、クレスト。今から話すことは、ここにおられる方々の熟議のすえ、すでに決まったことなのだ。よってお前に意見することは許されない」

「……決まったって、何がです?」

「その前に言っておく必要がある。昨夜、神都では千人の人間が血の泡となって消えた」

「せ、千人……!?」

その異常な数字に、クレストは愕然とする。町が一つ消えた程度の人数だ。神都の全人口が三万人であることを考えると、この数字がどれほど異様か分かる。

「異例の大規模な消滅ではある。だが、一度に大勢の消滅が起こることはこれまでも稀にあった。それは、ルラ様のご関心が一人の人間に偏ることが原因だ」

ギレコは淡々と続ける。

「お前も知っていることだが、人間が生きるためにはルラ様から絶えず存在を認められている必要がある。そうしなければ〝存在の力〟は得られないのだからな。故にルラ様は、すべての人間に均等にご関心を配られなければならない。誰か一人にご関心が偏ると、他の人間の存在が忘れられ、存在の力が行き渡らなくなってしまう」

クレストは、そこにいる者の視線が痛いほど自分に集まっているのを意識する。

「クレスト、昨夜お前がルラ様から招かれたことを我々は知っている。ルラ様はお前をお気に召したのだ。あってはならないほどに、な。お前がここにいる限りは、ルラ様のご関心は偏り続け、やがては神都を滅ぼすだろう」

神都の外に人間はいない。人間は誰しも、ルラから離れて暮らせないからだ。つまり、神都が滅ぶということは、人間が滅ぶということだ。

クレストは混乱する。昨夜の出来事は、たしかに異様だった。しかし薄絹を挟んで会話をしただけだ。それだけで千人の人間が消えた。それほどまでに、ルラのクレストに対する関心は強いものなのか。

クレストの肩に、ギレコの痩せた手がそっと置かれる。

「いいか、クレスト。お前は今すぐここを出て行け。後の生活は我々が保証しよう。ただしルラ様には、クレストが自らの意志で出ていったと報告し、納得していただく」

拒否する権利は、クレストにはなかった。何の結論も出せないまま後宮を去るのかと思うと、気分が暗くなる。だがどう考えても、ルラの〝本心〟を理解するために血の泡となる人間を増やすより、素直に立ち去って多くの人間を生かす方が正しいように思えた。

クレストがうなずこうとした――その時。

「――誰の許可を得てそんなことをしている」

その声は扉の向こうから響いた。力強く傲慢な、神々しささえ感じさせる少女の声。

だん! と大きな音を立て、大会議室の扉が開いた。

そこに立っている人物が、そら恐ろしい光を放っているかのように見える。鮮やかな金の髪と、憤怒に灼熱する赤い瞳。ルラは威圧的な足取りで歩み、大会議室の中央に立つ。

宰相と大臣たちがにわかに慌て、怯えだす。

「ルラ様、これには訳が」「どうかお気を乱さず」「お許しください、ルラ様」

「だまれっ!」

ルラが足を踏み鳴らすと、ズン、と床が激しく揺れた。クレストは転びそうになる。びりびりと壁が振動し、窓硝子に罅が入る。大きなタペストリーがずり落ちて曲がる。ひい、と悲鳴が上がった。

「私に隠れてこそこそと泥棒まがいのことを。クレストは私のものだ。誰が貴様らなぞにくれてやると言った。答えろ、ギレコ!」

クレストは以前とは違った意味で、ルラに震え上がる。だが怒りに上気した彼女の顔は、この世のものとは思えないほど美しかった。

さすがのギレコも、ややたじろいだ。

「この件についてルラ様に申し上げなかったことは、弁解のしようもございません。しかしながら、街では千人の命が消えました」

「知っている。だが、それとクレストとは関係がない」

「関係ない? ではなぜ」

「それは私にも分からない。原因については今後も調べる必要があろう」

ギレコは首を振った。

「そんな言い分が通るとお思いですか。畏くも長い間あなたに仕えてきた私には分かるのです。クレストがこの件の原因であることくらいは」

「どうしてもクレストを私から奪うと言うか」

「譲りません。たとえ不敬の咎を受けることになろうとも」

ルラはぎろりとギレコを睨みつけた。

「貴様、死ぬ覚悟があるのだな」

「はい」

ギレコも逃げずに、ルラと正面から対峙する。

ルラは懐に手を入れ、短刀を取り出した。刃をギレコに向ける。

それはルラがクレストから没収した、暗殺のための短刀だった。

宰相と大臣たちが悲鳴を上げる。

「おい、よせよ!」

クレストは止めに入ろうと、ルラの腕を掴みにかかる。が、ルラは虫をどけるほどの動作で、クレストを強く弾き飛ばした。床に転倒する。

ルラとギレコが睨み合う。ギレコの方も、動じない構えだ。

ルラは不敵な笑みを浮かべると、刃の先を自分の方へ向ける。

そして、ずぶり、と。ためらうことなく自分の心臓を突き刺す。一気に血が溢れ、床の絨毯を濡らしていく。ルラは声も上げず、堂々と立ったままだ。

一層大きな悲鳴が上がる。狼狽したギレコが、ルラの手を短刀から引きはがそうとする。だが、ルラはかたくなに手を離さない。

大臣たちが喚き立てる。

「なんということを!」「ルラ様が崩御されれば人間はみな消えるぞ!」

ルラは少しも苦痛の色を見せず、胸に刺した短刀をえぐるように動かした。血は激しく吹き出し、ギレコの仮面が赤く染められる。

「これでも……これでもクレストを奪うのか。ギレコ」

クレストは愕然とした。ルラはいったいなぜこんなことをしているのだろう。どうしてそこまで自分に執着するのだろう。

ギレコは聞いたこともない声で叫んだ。

「いいえ! 奪いません! ですから、どうか……!」

「本当だな……」

「誓います! ですから!」

どさり、とルラが倒れる。

ギレコは走って大会議室から出ると、怒鳴り声を上げた。

「医師を呼べ!」

あっけに取られていたクレストが、ようやく動いた。すぐにルラに駆け寄ると、自分が何をしているのかも分からないまま、血に濡れたルラの頬に触れた。柔らかく、温かかった。

「馬鹿野郎……お前、何やってんだよ」

ルラは血の気の失せた顔でクレストを見た。ここにいる誰よりも、ルラが困惑の表情を浮かべている。まるで自分が何をしたのかが分からないとでも言うように。それから取りつくろうように、いたずらっ子の笑みを浮かべた。

クレストは自分の胸に問いかける。いったい、自分はルラをどう思っているのだろう。

つい先日まで、ルラを殺そうと思っていた。ルラと親しくしていたのは、ルラに取り入るための手段だと思っていた。だが、今重傷を負ったルラを目の前にして、クレストはまったく違うことを考えている。

毎日のようにいたずらを仕掛けられ、ルラを追いかけ回していたこと。乗り気になれない遊びにも無理やり参加させられ、結局はクレストが一番熱くなってしまったこと。そして惨敗の結果おそいかかってくる、地獄のような罰則。だが、なぜか笑っていた。

あれがすべて、ルラの暗殺を達成するための演技だったというのか。

いや、そんなはずがない。

「死ぬな」

と、クレストはつぶやいてしまった。自分のこれまでの人生を否定する言葉を。

「死ぬなよ、ルラ……」

クレストの顔を、ルラは不思議そうに見つめていた。

大きな足音を立てて、医師たちが大会議室に入ってくる。クレストは邪魔だと押しのけられ、ルラの処置が始まった。

クレストは片隅に立ったまま、血を流しながら横たわるルラを見ていた。

ルラと少し離れたところに、虚脱して膝をつくギレコの姿があった。無表情の仮面を付けたまま、全身を小さく震わせている。その姿を見た瞬間に、クレストは知った。キーシャの話では、ギレコとルラは昔、恋人のような関係だったと言う。それはただの噂などではなく、本当のことなのだ。

――だって、ルラ様はいつも一人ぼっちじゃない。

キーシャの言葉が、なぜか脳裏によみがえる。

いくら考えてもルラの気持ちが分からず、クレストはただ立ち尽くすしかなかった。

 

そしてクレストは、後になって知ることになる。

この瞬間、神都では一万人の人間が血の泡となって消えていたのだった。

 

 

神都で一万人が消滅した一週間後。

神殿の凍てついた門の前に、見渡すかぎりの人々が集まっている。人々の群れは嘆き、声を上げて悲しみを訴えている。この騒ぎは、連日にわたって続いている。

みな、近親の者が消された人々だった。もちろん、人間が血の泡となって消えることは珍しくない。だが、これほど大規模な人間の消滅が起こって、人々の間には大きな困惑と悲嘆が広がっていた。

しかし驚くべきことに、その中にルラに対する怒りや憎悪、呪詛は含まれていない。なぜなら、誰もがルラを愛していたからだ。哀れなほどにルラを信じ切り、頼り切っている。そのことに対して、誰も疑いを持つ者はいなかった。

むしろ人々の怒りは、神殿の官人や統治者たちに向かっていた。どれほどルラに会いたいと懇願しても、神殿の門を開けようとはしない。人々の間で神殿に対する疑念が広がった。ルラが狡猾な官人に陥れられ、窮地に追い込まれているのではないか、などという虚妄さえまことしやかに語られた。

だがこの人々も、ある意味では行儀のいい集団だった。主に朝から昼に活動して、夕方になると帰っていくのだ。つまりそれは、普段の祈祷の時間だった。人々は疑念を抱いてはいたが、ルラの名の下に敷かれた規則には則っていたのだ。

 

クレストとキーシャは、両側を土壁に挟まれた通路を進んでいく。人々の上げる悲嘆の声が、二人の耳にも届いた。

「知らなかったぞ。こんな秘密の通路があるなんて」

クレストはつぶやく。

「ここだけじゃないわ。いざという時のために、地下にも通路があるらしいの。絶対に見つからないように隠されてるんだけどね」

もう普通のやり方で神殿の外に出ることはできない。そんなことをすれば人々の群れに捕まり、大変なことになるだろう。だから二人は、秘密の出入り口を使ってこの隠し通路を進んでいる。

「なあキーシャ。本当にあの菓子屋、まだやってると思うか?」

クレストは問いかける。神殿街の、棒付き飴を売っているあの露店に行くことが二人の目的だった。

「さあね。そればっかりは行ってみなくちゃ分からないわ」

キーシャは首を振って答えた。

街は大混乱に陥っていた。神殿にまでそれは広がった。

ルラが自らの心臓を貫いてから一週間が経つ。ルラは人間ではあり得ない回復能力で、あのことがあった次の日には完全に回復していたらしい。だが、ルラは私室である本陣に引きこもったまま、出てこなくなってしまった。そうなると、誰もルラを引っ張りだすことはできない。どれほど高位にあっても、ルラからの呼びかけなく本陣に近づくことは禁じられているからだ。

その間も、街では次々と人が消えていった。ルラがなぜ本陣から出て来なくなったのかは、誰にもわからない。クレストはどうしていいか分からず、途方に暮れるしかなかった。

そんな時、キーシャがクレストを誘ったのだ。一緒に棒付き飴を買いに行かないか、と。たしかにこのところ買い出しに出ていないから、ルラはずっと棒付き飴を食べられていないはずだ。

馬鹿げた提案にも思える。だが、他に何かやれることがあるとも思えない。クレストはキーシャの誘いに乗って、今この通路を進んでいる。

秘密の通路は、とある空き家の庭につながっていた。二人はそこを通り抜ける。空き家から出てしばらく道を進んでいくと、神殿街の大通りに出た。だが、その様子は以前とは様変わりしている。

以前は多くの人で賑わい、道行く人は口々にルラへの感謝と喜びの言葉を言った。だが、今通りにそんな者はいない。そこは閑散とし、荒涼とした風景が広がっていた。飢え、痩せさらばえた年寄りや子どもが、道の隅で縮こまっている。遠くで若い者たちの一団が怒鳴り、殴りあうのが見える。

クレストは不思議に思う。あれだけ大規模な消滅が起こった後でも、この人たちは生きている。ということは、ルラはまだこの人たちの存在を覚えているのだ。

荒んだ通りを進み、菓子屋に到着する。店は開いていて、その前の椅子に店主が座っていた。頭の禿げあがった、無骨な体の老人である。この店には何度も来たため、クレストはもう顔見知りになっていた。

店主はぼんやりした顔を上げ、クレストとキーシャを見た。いつものぶっきらぼうな調子で言う。

「ああ、あんたたちか。悪いけど、もう棒付き飴の入荷はないよ」

見れば分かる。どの台にも、商品はひとつとして置いていないのだから。

「お得意先も、仲のいい奴もほとんど消えちまった。妻も、もう消えた。長いことルラ様には贔屓にしていただいたが、もう店じまいだ」

「あんたは、ルラ様のことをどう思う?」

クレストは止むに止まれぬ思いに駆られ、言った。

「憎いと思わないか? ここまでルラ様にめちゃくちゃにされて、恨まないのか?」

キーシャが慌てて口をはさむ。

「ちょっとクレスト――」

「いいや」

店主は首を振った。

「わしらなんかより、ルラ様の方がよっぽど苦しんでおられるんだ。わしにはそんな気がしてね……。あんたたちはもっと近くでルラ様を見ているんだろう? なら、分かるはずだ」

「だったら、あの棒付き飴をもう一度売ってくれ!」

クレストは、自分でも支離滅裂と知りつつそう叫んでいた。

「あの飴があれば、ルラはもう一度この街が好きになるかもしれない。この街の人々にルラの関心が向けば、これ以上人が消えなくて済むはずなんだ」

だが、クレストの訴えは店主の耳に届いていないようだ。店主は静かにうなだれ、何も言わない。

ぐにゃり、と、店主の形が歪む。次の瞬間には、店主は幻のように消え、代わりに赤い泡の群れがあった。椅子の上でみるみる形が崩れ、地面に広がる。ぱちり、ぱちりと、泡が弾けていく。血の匂いがあたりに漂う。

キーシャは小さく悲鳴を上げる。クレストは悔しさに舌打ちをした。

「くそっ、あの馬鹿……! 自分の好きなものまで忘れてどうすんだよ」

キーシャは力なく地面にへたり込み、両手で顔を覆った。

「……どうして……。あたしたちじゃ駄目だったってことなの? ルラ様はそんなにも孤独だったの……?」

キーシャの肩が震え、嗚咽が聞こえた。

「いや……消えたくない……あたし、消えたくないよ。クレスト……」

クレストはしゃがみ込み、キーシャの震える背中をさすった。

「消えるもんか。キーシャ、あいつとあんなに仲良かったんだから」

と、赤ん坊の泣き声が二人の耳に届く。振り返ると、通りの向かいに赤ん坊を抱えた女が座り込んでいた。女は腕を揺らしながら赤ん坊をあやしている。

その姿を見て、キーシャの涙に濡れた頬が自然に緩んだ。

クレストも釣られて微笑む。

「不思議だな。なんで赤ん坊は消えないんだろう。まだ一度もあいつから存在を認められてないだろうに」

キーシャが答えた。

「人間は、生まれた瞬間に一番強く存在感を放つんだって。どれだけ離れていても、ルラ様はその存在を感じることができる。だから生まれてから五年くらいは祈祷しなくても平気なの」

「存在感か……」

たしかに、存在感でも感じ取れなければ、三万人の人間を生かし続けることなど不可能だったはずだ。クレストはルラが思考を読めることも知っていたので、さほど驚きは感じなかった。ルラには、人間の精神や感情といった、目には見えないものが感じられるのだろう。

そういえば、クレストはずっと奇妙に思っていたことがあった。男娼になった時から、彼はルラへの抵抗活動もしなければ、ルラへの祈祷もしていなかったのだ。普通なら存在を忘れられてもおかしくはないが、クレストが泡になってしまうことはなかった。その理由が、今ようやく理解できる。

クレストは特殊な存在感を放ち続けていたのだ。何しろ、ルラを殺すことを目的に生きていたのだから。皮肉にも、ルラへの強い憎悪がクレストの存在感を特異にし、クレストを生かし続けていたのだろう。

おそらく首領もそうなのだろう、とクレストは思った。あれだけ盲目的にルラを憎んでいるのだから、クレスト以上に強く特異な存在感を持っているのだろう。

「なに考えこんでるの?」

キーシャが首をかしげる。クレストは首を振った。

「もう後宮に帰ろう。あいつが本陣から出てきた時、俺たちがいなかったら退屈させちまう」

「そうね」

二人は立ち上がり、神殿に足を向けた。

 

 

夕日が静まり返った神殿街を照らし、その陰影を深く刻んでいく。

閑散とした通りを、神殿に向かって進む一団の影があった。黒装束に血の化粧。同じ装いの人々が、三百人ほど固まって歩いている。

その先頭を歩くのは、左目と左腕のない男である。砂紋の団の首領を務めるその男の肉体は、相変わらず壮健だった。首領の右腕には、奇怪なものが握られている。それは小柄な人間くらいの大きさがある、歪な鉄の塊だった。その鉄塊から、いくつも尖った刺が突き出している。

「ついに時は満ちた……」

首領は低く満足げにつぶやく。クレストは当初の計画とは違う動きを見せたが、結果的に物事はいい方向へ動いた。神殿は大混乱に陥っている。神殿の防御を突き崩せる瞬間があるとすれば、今しかない。この手でルラを滅ぼす時も間近に迫っている。

首領は右腕だけで鉄塊を持ち上げ、軽々と肩に担ぎあげた。

ザザ、と足音がして、首領の前に制服に身を包んだ五人の男が現れる。神殿街を守る憲兵たちであった。

「砂紋の団だな!? これ以上は行かせん。ここで止まれ」

憲兵は腰から刀を抜き、低く構えた。

「ふん」

首領はつまらなそうに鼻を鳴らす。

と、その直後。巨体が信じがたい速度で一歩踏み込んだ。憲兵との間が瞬時に縮まる。首領の腕が動き、鉄塊が横薙ぎに振るわれる。二人の憲兵がまとめて払われる。一人は鉄塊から突き出た刺に頭を貫かれ、もう一人は腰が横にがくんと折れ曲がる。二つの肉体は、大量の血を振りまきながら通りの壁にたたきつけられた。

さらに切れ目ない動作で、鉄塊を振り下ろす。頭から叩き潰された憲兵は、原型を留めぬほどに粉砕される。

「おのれっ!」

残った二人の憲兵が駆ける。首領を両脇から挟み撃ちにしようとしている。が、次の瞬間、音もなく矢が飛来する。二人とも胸を貫かれ、倒れた。首領の背後では、黒装束の女二人が無表情に弓を下ろす。

首領は鉄塊を軽く振り下ろして血と肉片を払い、ふたたび歩み始めた。少しも息が上がっていない。その姿はあまりに人間離れしている。返り血に濡れた醜い顔が、不気味な高揚の笑みを浮かべた。

「待ち遠しい……待ち遠しいぞ、ルラ。お前がこの私に屈服する時が……」

今や首領の胸には、砂紋の正神に対する信仰も、悪魔ルラから人間を解放するという使命感もなかった。ただ純粋な怨念と憎悪への陶酔が、甘美なまでにどす黒く首領の胸を染め上げていくのだった。

 

また夜がやってきた。

クレストは一人、中庭にたたずむ。あの晩、ルラを暗殺しようとして失敗した庭だ。

待っていれば、ひょっこりとルラが現れるのではないかという気がした。だが、いつまで待っても現れない。

神殿の騒然とした様子が、ここまで伝わってくる。どうやら神殿に仕える人間の中にも、消滅する者が現れたらしい。宮男宮女たちはすっかり怯え、みんなで固まっていた。だがクレストはその中に加わる気が起きない。ルラの異変が自分のせいだと思うと、後ろめたさに息が詰まるのだ。

不意に背後から足音が近づく。

「ルラ?」

振り向くと、そこに立っていたのはルラではなかった。仮面の侍従長が、闇の中から浮かびあがるようにこちらへ歩いてきた。

「逆賊どもが門に押しかけている。砂紋の団を知っているか?」

クレストはうなだれた。

「はい……」

「衛兵たちが応戦しているが、奴らは奇怪な武器と爆弾を持っているようだ。大規模な消滅の騒動で、今神殿の防御は相当手薄になっている。砂紋の団がここへ攻め込んで来るのも時間の問題だろう。あるいは、その前に全てが泡となって消えるか」

「俺のせいでしょうか……俺が悪かったんでしょうか……? 侍従長どの」

ギレコは首を振った。

「浅はかだったのは私だ。お前をルラ様から遠ざければ、街の者たちの命は守れると思っていた。だが、そんなことをしても意味はなかっただろう。たとえお前が遠くへ行っても、ルラ様はお前のことを考え続けたはずだ。それほどまでに、ルラ様の思いは強い。この惨事は、どちらにせよ起こったことなのだ」

ギレコの身も蓋もない答えに、クレストは途方に暮れる。いったいどうして、ルラはそれほどまでに自分に関心を持つようになってしまったのか。何が原因だったのか。

「俺はいったいどうすれば……?」

ギレコは返答の代わりに、別の言葉をよこしてきた。

「お前は、ルラ様を憎んでいたそうだな」

ルラがギレコにそう伝えたのかもしれない。宮男としてあるまじきことだが、今のクレストには何もかもがどうでもよく思えた。

「はい」

クレストはうなだれたまま返す。

「ルラ様を憎むことができるのはお前くらいのものだろう。どれほど怒り狂った人間でも、実際にルラ様を前にすれば一瞬にして改悛する。砂紋の団の者であっても、そうに違いないのだ。だが、お前は違ったのだな」

それはルラからも聞かされた言葉だ。

クレストの頭の中に、思わぬ考えが閃いた。

ギレコの仮面、その下に隠された火傷。

クレストは驚きに目を見開き、顔を上げた。

「本当だったんですね……ルラ様があなたの顔に火傷を負わせたっていう噂は」

ギレコはうなずきこそ返さなかったが、無言のうちに肯定していることは明らかだった。

今になってようやく、クレストはルラの心がほんの少しだけ分かった。なぜルラは恋人のように親密だったギレコの顔に熱湯をかけたのか。なぜルラはクレストという暗殺者をそばに置き、自分を殺せるかどうか試すような真似をしたのか。その二つは同じ目的にもとづいているように思える。

その時だった。

ごごおぉん――と、空を震わせる衝撃音が響いた。

クレストとギレコは、はっと顔を見合わせる。

「侍従長どの、今のは」

「門だ!」

走りだすギレコの後を追い、クレストも駆けた。狭い小道を抜け、別の庭に出る。そこは小高い丘になっていて、神殿の庭園がよく見渡せる。その先の門でオレンジ色の炎が上がり、もうもうと煙が立ち上っていた。門の破損部から、続々と影のような人々が駆け込んでくる。

「砂紋の団……!」

クレストはかつての同胞たちを見て、以前のように仲間だとは思えないことに気づく。

「ついに来たな」

だが、神殿の兵士たちも簡単には逆賊たちを入れない。懸命に応戦し、敵を食い止めている。

庭園を見下ろす二人の背後から、複数の足音が近づいてきた。

振り返ると、艶やかな衣に身を包んだ宮男宮女の一団が、手に木や竹の棒切れを持って立っている。目には強い決意がみなぎっており、クレストは気圧される。

「どうしたというのだ」

ギレコが問うと、先頭にいたキーシャが答える。

「ただ見てるだけというわけにはいきません。あたしたちも戦います」

ギレコは唖然とした。そして、くっ、と小さく息を漏らす。

「くははははっ!」

突然大声で笑い出した侍従長を前に、今度は宮男宮女らが唖然とする番だった。

ギレコは息を整えると、言った。

「お前たちの覚悟はよく分かった。とは言え、その装備ではいささか心許ない。武器庫を開けよう。本殿の裏へ向かうぞ」

ギレコが言って歩き出すと、宮男宮女らは上気した顔で駆けて行った

「よし、俺も……」

「駄目よ」

クレストがその一団に加わろうとすると、その場に残ったキーシャに阻まれる。

真っ直ぐな視線をこちらに向けたまま、言う。

「あんたはルラ様のお側にいなきゃ駄目。だって、今それができるのはあんただけじゃない」

「けどよ……。俺はもうあいつと会うべきじゃないんだ」

クレストは思う。今自分とルラが会ってしまったら、もっと多くの人間が消滅するのではないか。

「それよりあんたはどうしたいの? このままルラ様と会えなくてもいいの?」

キーシャに鋭く問われ、クレストはぎくりとする。そう言われると、うなずくことができない。本当は今すぐルラに会いたいくらいだった。何もかもがこのままでは嫌だ。

クレストが何も言葉にできずにいると、キーシャは丁寧に言葉を紡ぎだした。

「じっくり考えてやっと分かったわ。きっと大事なのは、多くの人間が生き延びることよりも、ルラ様一人が幸せになることなのよ」

クレストは絶句する。いったいどんなふうに考えればそんな結論が出るのだろう。

クレストの顔を見て、キーシャはふっと笑った。

「もしもの話よ? ルラ様が不幸のあまり生きていけなくなったら、その瞬間に人間はみんな消えちゃうわ。だけど、もしルラ様が幸せだったら、たとえ生きている人間がたった一人だったとしても、そこからはじめることができる。ルラ様が男にも女にもなれるのは、そのためなんじゃないかしら?」

キーシャの言葉に、クレストは胸が苦しくなる。数時間前は消えたくないと泣いていたキーシャだ。そんな彼女が、強がりか、ふっ切れたのか、少しも弱さを見せずにそんなことを言ってのけた。自分も消えていいのだと。

「でも、そしたらみんなは……」

「馬鹿ね。もしもの話って言ったでしょ? みんな消えるなんてことあるわけないわ。少なくともあたしは消えない。後宮のみんなも、ギレコ様もね。みんなルラ様の大事な妾だもの。だからまた会えるわ」

クレストはキーシャの目を見つめ、その本意を探る。キーシャは心底からそう言っているのか。

「本当に、また会えるんだな」

キーシャは胸をそらして言う。

「そうよ。あったりまえじゃない。……だから約束して。あんたは必ずルラ様のことを幸せにするって」

クレストにはまだ分からない。ルラは自分に会いたいと思っているのだろうか。ルラを幸せにしなければならないと言うが、それができるのは果たして自分なのだろうか。何も分からない。だが……

クレストは腹をくくり、うなずく。

「分かった。俺はあいつのところに行くよ。本陣から引っ張りだしてやる。それまで生きててくれよ、キーシャ」

キーシャはにっこりと笑った。

「その意気よ! それじゃ、また後でね」

クレストはキーシャと別れ、ルラのいる本陣に向けて走りだした。

 

 

クレストは複雑に入り組んだ廊下を走りぬける。戦闘の騒音が背後で少しずつ大きくなるのを感じながら、一度も振り返らずに進んだ。そうしてふたたび本陣の前に立つ。一度来ただけなのに、不思議と迷わずに来られた。この扉の向こうにルラがいるはずだ。

「ルラ、いるんだろ? 入るぞ」

扉を開け、本陣に足を踏み入れる。

そこに広がっていた光景に、クレストは愕然とする。

壁、床、柱、そのすべてにびっしりと文字が敷きつめられている。以前来た時、こんな文字はなかったはずだ。いったいどれほどの文字があるのか、見当も付かない。よく見ると、そのすべてが人間の名前だった。

文字の群れの中央に、ルラはいた。相変わらず、常軌を逸した美貌の少女だ。だがその透明な赤い瞳も今は虚ろで、色の失せた唇はぶつぶつと何か唱えている。クレストは、ルラが床の文字を読み上げているのだと気づく。つまり、人名を唱えているのだと。この細かい文字が、すべてこの都市に住む人間の名前なのだ。

ここに至って、クレストはようやく思い知る。ルラはこれだけの数の人間の存在を、片時も忘れずに認識し続けていたのだ。それがどんな種類の苦痛なのか、クレストには想像さえできない。

そしてルラはこれ以上人間を消すまいと、こんなにも必死に無数の名を己の意識に刻み込もうとしている。それは、いつも飄々としていたルラの姿からは考えられないものだった。

「おい、大丈夫かよ」

見ていられず、クレストが駆け寄ろうとする。

「来るなっ!」

ルラが突然、怒鳴った。

クレストはぴたりと止まる。

ルラは肩を落としてうなだれたまま立ち、こちらに体を向ける。

「どうして僕にあんなこと言ったんだよ、クレスト。〝本心を見せろ〟なんて。僕はもう何も考えられない……」

ルラは少女の声のまま、男の子だった時のしゃべり方に戻っていた。クレストには、なんとなくそれがルラの本来の姿のように思える。

「俺は知りたかったんだよ。お前が何者で、何を考えてるのか」

クレストは迷わずに告げた。

「お前がどんな苦しみを抱えてるのか、知りたいんだ」

それはキーシャとギレコが教えてくれたことだ。そして、クレスト自身が知らず知らずのうちに望んでいたことでもある。

だが、ルラは答えてくれない。頑なに沈黙したまま、うなだれている。

クレストはもう一歩踏み込む決意をする。

「俺はやっと分かったんだ、ルラ。お前はずっと、自分を憎む存在を求めてたんだな。暗殺者の俺を近くに置いたのは、そのためだったんだろ。侍従長の顔に火傷を負わせたのだって、自分に憎しみを向けさせるためだったんじゃないのか」

「だけど、ギレコは僕を憎まなかったよ。ただ哀れんだだけさ」

ルラは忌々しそうな声で言う。

やっぱりそうだったのか、とクレストは思った。キーシャの話では、若い頃のギレコとルラは恋人のように親密だったという。だがルラは、それでは満足しなかったのだ。そしてギレコに、自分を憎むことを求め、そのためだけに火傷を負わせたのだ。

「どうしてだよ……なんでそんなに自分を憎む存在を求めるんだ?」

ルラはゆっくりと頭をもたげ、焦点の合わない赤い瞳でクレストを見つめる。

「ずっと、この世界は僕の夢なんじゃないかって思ってた」

「夢……?」

ルラは疲れきったような冷笑を口もとに浮かべる。

「馬鹿げてるって思う? だけど馬鹿げてるのはこの世界だ。みんな僕のことを好きで、信じきってるんだよ。誰も心底から僕を憎むことはできない。……みんな、夢の中の登場人物だから」

「本気でそんなこと言ってんのかよ」

「だったら違うって言い切れるの? たしかに一緒にいて話している間、その人はそこにいる。だけど、僕がその人の存在を忘れた瞬間に消えちゃうんだよ。そして僕がこの世界からいなくなった瞬間に、すべての人間が消えちゃう……。これが本当に夢の中じゃないって言い切れるの?」

クレストはすぐに返答することができなかった。もちろんクレストは、自ら思考し、行動しているつもりでいる。だが、その思考はルラに読まれてしまう。すべてがルラの頭の中で起こっていることだとしたら、どうだろう。ルラを憎めないことも、思考が読まれることも、自分たちがルラの一部だからではないのか。

すべての人間は、ルラの夢の中の登場人物なのだろうか。

だが、クレストはその考えを否定した。ルラも以前までは、本気でそう信じていたのかもしれない。だが――

「そうじゃないってことに、お前は気付いたんだろ?」

「…………」

ルラは何かを諦めたように、力なくまぶたを閉じた。

「……クレストは僕を前にしても、僕を憎み続けることができた。……いや、憎むだけならあの首領と同じだ。君はそれだけじゃなかった。……分からないんだ。君が何を考えてるのか、僕にはもう知ることができない」

ルラはまぶたを開き、赤い瞳をクレストに向ける。だが、そこにはもうすべてを見透かすような力は宿っていない。

「あの晩だよ、クレスト。君に本心を問われた時から、君の思考が読めない。他のみんなの考えは手に取るように分かるのに、君だけが……。あの日から僕は、もう君のことしか考えられない」

クレストは、ルラの放った言葉の一つ一つの重みを感じ取り、受け止めようとする。

長い沈黙の後に、クレストは問いかける。

「お前は、どうしたい?」

ルラの目に困惑が浮かぶ。

「どうしたい、って……。いきなりそんなこと聞かれても分からないよ」

「でも考えてくれ。俺はキーシャと約束しちまったんだよ。ルラを幸せにするって」

クレストの真剣な訴えに、ルラは少なからず心動かされたようだ。しかし、ルラは憂鬱そうな表情のままだった。

「幸せになんて、無理だよ。だけど、僕は――」

不意に、ルラの両目から涙がこぼれ落ちる。

「僕はもう、ここには居たくないよ……」

ルラは手で涙をぬぐった。それでも涙はすぐにあふれてくる。

「みんなが僕に優しくて、大切にしてくれる……。だけど、そんなのは操り人形と同じだよ。僕はここが嫌でたまらない……ここにいると心が腐っていく。何もかも投げ出して逃げたいんだ。最低だよ、僕って……!」

クレストは驚きに打たれる。まさか、ルラがここまで思い詰めていたとは思わなかった。ルラは泣き濡れた目を上げ、クレストを窺う。

「僕は本心を言ったよ。君はどうするの?」

クレストはルラの元へ歩き、その手を取った。

「お前と一緒に逃げる。来い」

ルラは目を見開いた。

「本気で言ってるの? だって僕がこの都から出ていったら――」

「みんなが消えちまうって? けどな、本当に大事なのは多くの人間を生かすことより、お前一人が幸せになることなんだ」

俺はなんて馬鹿なのだろう、とクレストは思う。答えはすべて、キーシャに先回りして教えてもらっていた。自分一人では、とてもこんな結論は出せなかった。

「キーシャの奴が言ってたぞ。ルラが不幸のあまり生きていけなくなったら、人間は滅ぶ。だけどルラが幸せだったら、たとえ数少なくても人間は生き延びられる。だから俺は、お前が幸せになる道を選ぶ」

はっきりとそう言い切ってから、クレストは頭を掻いた。

「……なんてこと望んでんのは俺とキーシャくらいで、誰も許しちゃくれないだろう。けど、俺はもう決めちまった。第一、ここからどれだけ離れたって、お前が後宮のみんなや侍従長のことを忘れるとは思えねえしな。それだけいれば十分だろ」

あまりの暴論にルラは口をあんぐりと開け、そして笑い出した。涙と笑顔で顔がぐちゃぐちゃだ。

「……そっか。じゃあ君に付いて行けば、僕は幸せになれるんだね?」

「当然だろ。俺を誰だと思ってやがる」

クレストはわざとらしく胸をそらして言う。ルラはおかしそうに笑った。

「君を信じるよ。僕を連れてって」

「よしきた。急がねえと砂紋の団が来ちまう」

クレストが内陣の出口へ行こうとすると、ルラが呼び止める。

「待って。こっちに隠し通路があるんだった」

ルラは部屋の中央へ行く。そこには大きなベッドがあった。ルラはその下に手をかけると、信じられない怪力で持ち上げてどける。その下に隠し通路の入り口が現れた。

ルラはベッドを放り投げ、手を払いながら言う。

「ほらね?」

クレストは顔を手で覆う。

「自信なくすよな、まったく……」

これから先は、クレストが全面的にルラの足を引っぱることになりそうだ。

その時、上方で衝撃音が響く。部屋が激しく揺すぶられ、クレストはよろめいた。頭上から、巨大な塊が落下してくる。爆破により壊れた天井の破片だ。それがルラに降り注ぐ。

「ルラ、よけろ!」

クレストが叫ぶ。だが、ルラの回避は間に合わなかった。そこには瓦礫の山ができ、血が周囲に飛び散った。

「そ、そんな……」

クレストが駆け寄る。折り重なる瓦礫の中から、血に濡れた白い手が伸びていた。一つ瓦礫をどかすと、ルラの横顔が見える。目は開いているが虚ろだ。

「ルラ! おい、しっかりしろ!」

呼びかけても反応しない。

その時――ズン、と。クレストの背後に何かが降り立つ。とっさに振り向いた。血まみれの黒装束に身を包んだ巨漢。そいつが天井から飛び降りてきたのだ。

そいつの顔が持ち上がり、狂気をたたえた右目がクレストを見た。

「首領……」

クレストは全身が慄くのを感じる。

首領がまっすぐに立つと、クレストはほんの子どもにしか見えなくなる。首領は右腕に、とてつもなく凶悪な鉄塊の武器をぶら下げていた。鉄塊から突き出た刺に、いくつもの赤黒い肉片が突き刺さっている。

「愚か者よ。お前はルラの奴隷に堕ちたか」

クレストはルラを庇うように立ちながら、首領と対峙する。いったいどうすれば、この人間離れした男からルラを守れるのだろう。

「死ぬがいい」

ぶおん、と、首領が大きく鉄塊を振りかぶる。クレストは目を閉じ、ルラの手を握った。

と、ふたたび頭上から何かが降りてくる気配。それはクレストの前に、がしゃんと音を立てて着地する。

目を開けると、鎧を着た男の背中があった。鎧の男は、全身の七割が隠れるほど大きな盾と、長い槍で武装している。

首領の鉄塊が振り下ろされる。男の盾が、その攻撃を弾いた。すかさず鎧の男は槍を突き出す。首領は後ろに跳びすさり、回避した。

さらに続々と、頭上から鎧を着た兵士が降りてくる。兵士たちは首領と槍の男の間を埋め、壁のように立ちはだかった。

首領は低く吠える。

「小癪な!」

振り回された鉄塊は、兵士たちの盾によって防がれる。が、力で圧倒しているのは首領の方だ。

呆けたように見ていると、槍の男が振り向いてクレストに言った。

「何をしている! はやく脱出しろ」

クレストはその声に聞き覚えがある。

「侍従長どの!?」

兜で顔を隠したギレコは、盾と槍をその場に置き、ルラの上の瓦礫を手早くどかす。クレストも手伝った。ルラの姿が現れるにつれ、身体の致命的な傷が明らかになる。胸から下がほとんど潰され、形を失っていた。

言葉を失うクレストに、ギレコは言った。

「大丈夫だ。ルラ様はこの程度では死なない。我々が消えていないのだから、意識も途切れていないようだ」

そう言うと、ギレコはベッドの残骸から布切れを取り、帯状に引き裂いた。その帯をルラの脇の下に通す。交差させるようにして、がっちりとルラに結びつけた。その間もルラは無反応で、何が起きているのかも理解していない様子だ。止血かと思ったが、どうやら違う。ギレコは帯のあまった部分をクレストに渡した。

「自分に結びつけろ」

ギレコの意図を理解する。すぐ横にある地下通路への入り口は、垂直の穴だ。据え付けられた梯子を使って、そこを降りなければならない。その際、ルラの体をクレストの体に固定しておかないと危ない。

ギレコに手伝われ、クレストはルラを背負う形で帯を結びつけた。

ギレコは早口に言う。

「お前が行ってから、我々はこの入り口を塞がねばならん。もう神殿のことは考えなくていい。ルラ様をお守りすることだけを考えろ」

クレストはキーシャや後宮のみんなの無事について尋ねたかった。だが、そんな時間はない。すぐ向こうでは戦闘が行われている。怒り狂って鉄塊を振り回す首領を前に、十人ほどもいた兵士たちが一人また一人と倒れていく。

いくつもの言葉を呑み込み、クレストは一つうなずいた。

「分かりました」

ギレコもうなずき返す。

「ならばはやく行け。そしてその方が目覚めたらお伝えするのだ、〝愛している〟と」

クレストははっとして、ギレコの兜に隠された目を見た。

「必ず伝えます」

短く答えると、クレストはすぐさま穴の横に取り付けられた梯子に足をかけ、穴を下り始めた。地面に降りると、光はわずかに頭上から注ぐだけだ。ルラを慎重に背負ったまま、クレストは暗い道を進んでいく。

少し行くと、石の台にランタンと火打ち石が置かれていた。クレストはそれ取り、さらに手探りで進む。

背後で何かが激しく落下する音がする。振り返ると土埃が舞っていた。誰も追ってこないところを見ると、どうやらギレコは入り口を塞ぐのに成功したらしい。

「う……うぅ……」

ルラがうめく。

「痛むか」

クレストは暗闇の立ち込める前方をにらみながら言った。

「俺たちはどんな手段を使っても生き延びなくちゃならない。もう後戻りはできねえぞ、ルラ」

 

 

おぼろげな火の灯ったランタンを片手に、クレストは闇の中を進んでいく。何時間も休まずに歩きつづける。そして行き止まりに突き当たった。正確には錆びた鉄の扉が現れたのだが、開ける鍵がないのだから行き止まりと同じだ。

クレストはランタンを置くと、背負っていたルラを丁寧に地面に横たえる。その体は、もうほとんど完全に再生していた。潰れていた部分は膨らみと血色を取り戻し、到底ついさっきまで重傷だったとは思えない。流れ出た血は吸収されるらしく、肌も綺麗な白さを取り戻していた。

ちょろちょろと水音が聞こえる。すぐ近くからだ。ランタンを持って行くと、近くに水の溜まっているところがあった。見たところ透明な水だ。試しにひと口飲むと、止まらずがぶ飲みしてしまった。

手で水をすくい、ルラの元に持っていく。

「喉かわいてないか? 水飲ませるぞ」

ルラの口に、少しずつ慎重に水を流し込んでいく。舌が動き、喉が動いた。

「ん……」

小さくうめき、ルラが目を開く。

「気付いたか?」

「ここは?」

「地下通路だ。行き止まりになっちまった」

クレストは鉄の扉を指さして言う。

ルラはゆっくりと体を起こし、扉を見た。

「朝になったら僕が開けるよ」

「なんだ。鍵持ってたのか」

「ちがうよ。力づくでさ」

「なるほどな」

「もうちょっと休まないと力が出ない。……ねえ、寄りかかるものがほしいんだけど」

ルラが一人で立ち上がれなかったため、クレストは肩を貸した。壁際にルラを寄せ、そこに背をもたせかけるように座らせる。クレストが離れようとすると、袖を引っ張られて引き止められる。寄り添ったまま座ると、触れ合った部分からルラの体温を感じた。

「ねえ、クレスト。ギレコは大丈夫かな?」

ルラは声を震わせて聞く。

クレストは暗澹としたものに捕らえられる。首領の前に続々と倒れていく兵士たちと、遺言めいたことを口にしたギレコの姿が思い出された。

「生き延びられるかな……?」

「それは……」

ギレコは、おそらく生き延びようと思っていない。自分を犠牲にすることでルラを生かそうとしていた。だが、そんなことを口にするわけにはいかない。

ルラが小さく嗚咽する。自分を抱きしめるように回された手が、凍えるように震えた。

「ギレコが死んだらどうしよう。ああ……最低だ、僕は。さっきは何もかも捨てて逃げたいって言ったのに……それなのに今は――」

クレストはその先を言わせまいと、ルラの体を引き寄せる。強い力で抱きしめた。そして、ルラの耳元でささやく。

「聞いてくれ、ルラ。ある人からお前に伝えるように頼まれてる言葉があるんだ」

クレストは深く目を閉じながら告げた。

「〝愛している〟」

声に出してみてクレストはようやく思い知った。これは、他でもない自分の気持ちなのだと。

ルラが息を呑む。顎を伝って落ちた涙が、クレストの肩を温かく濡らした。

ルラが肩から顔を離し、正面からクレストの目を見つめる。

「僕もだよ。僕もずっと君のことを……」

だが、〝君〟とは誰のことだろう。ルラは誰にこの言葉を言っているのだろうか。その瞳は、いったい誰を見ているのか……。その疑問がクレストの胸を狂おしく焦がした。

その苦しさから逃げるように、クレストはルラに唇を重ねる。それはあまりに唐突で、乱暴でさえあった。ところが相手は拒むどころか、より深く求めてくる。ルラも同じ苦しさを抱えているのだ。その苦しさから逃げたがっている、とクレストは気付く。この瞬間に、すべてを忘れようとしている。

こんなことをしてはいけない。その思いに反してクレストは、ルラの体の熱と、豊かな柔らかさと、何かを願うような息遣いで頭がいっぱいになっていた。ルラの腕も、クレストの体をより強く自分の方へ引き寄せようとする。熱っぽい吐息が二人の間で混ざる。二人は重なりあって身を横たえた。

長く見つめ合い、ためらう瞬間があった。自分たちは、途方もない罪を犯そうとしているのではないだろうか。この先に進んだら、取り返しの付かないことになるのではないだろうか。そんな予感が頭をよぎる。

だが、もはや二人とも止める術を知らなかった。

頑なに閉ざされていた二人の口が開き、ふたたび互いを求め合った。

 

ギレコはよろめくように中庭を進んでいく。芝にはいくつも死体が倒れていた。庭木が激しく燃え上がっている。

ルラとクレストを脱出させた後、地下通路はうまい具合に塞ぐことができた。首領はそうと分かると、怒り狂ったように内陣を飛び出し、ルラの先回りをしようと盲滅法に走りだした。ギレコはその後を追い、よろよろと進んだ。途中で首領を見失ってしまった。

向こうでは、砂紋の団と神殿の兵士が激しく打ち合っている。叫び声と鉄の鳴る音。

前方から、黒装束を翻して駆けてくる者がいる。視線はぶれ、低く吠えながら剣を振りかぶる。ギレコはすでに盾も槍もどこかで失っており、立ち尽くすしかなかった。だが黒装束は、ギレコに斬りかかる直前で泡になって消える。支えを失った剣と装束がその場に落ちた。

同時に、戦場で悲鳴が上がる。打ち合っていた者たちが、一斉に血の泡になっていく。もう戦闘どころではなかった。中庭は阿鼻叫喚で埋め尽くされる。

「助けてくれ!」「い、いやだ……消えたくない!」

神殿の兵士が一人、芝の上を這い進みながら叫ぶ。

「なぜ、なぜこんなことに……! どうか消さないでください、ルラ様ああぁぁ――」

断末魔は、肉体ごと掻き消えた。

ギレコはその光景を見て口を歪める。

「ふ……ふはは……」

自然と笑い声が漏れた。恐怖に気が狂ったのではない。単に愉快だったのだ。

「これでいい……こうなるべきだったのだ。そうだろう、救世主ルラよ。……我ら人間はかつて巨大な罪を犯し、正神の手で血の泡となる呪いをかけられた。あなたが呪いから救ってくださらなかったなら、我々は元々ここに存在していない。ルラ様、あなたのおかげで我々はいい夢が見られた。……だが、我々はいささかあなたに犠牲を強い過ぎたようだ……」

そして、その時が来た。

凪が訪れたかのように、周りが静寂に包まれる。声を発する者はどこにもいない。戦闘は夢のように消えた。

後には、そこここに血の泡が弾けているだけだった。

それでもまだ、自分は存在している。そのことにギレコは驚いた。

ぼんやりと立っていると、ギレコは視界の隅に動くものを捉えた。これだけの消滅があった後にも、消えずに残った者だ。ギレコは駆け寄り、武装したその娘を抱き起こした。

「キーシャか」

「ギレコ、様。……生きて、らっしゃったんですね」

その声はかすれていた。腹には矢が刺さり、どくどくと血があふれている。

「る、ルラ様、は?」

「案ずるな。クレストとともに逃げた」

キーシャがほほ笑み、そして力尽きたようにぐったりとした。

「よかった……ルラ様、幸せに――」

その先が口にされることはなかった。ギレコの手の中で、キーシャは血の泡に変わっていた。

ギレコは自分の両手を見つめたまま、動かなかった。こみ上げてくる名付けようのない感情をそのままに、一人の娘の存在が終わったことを感じ続けた。そして、それでもなお、これでよかったのだ、と彼は思った。

ギレコの前に、大きな足が踏み出される。

何気なく見上げると、血塗れの首領がいた。ぎらぎらと光る隻眼が、ギレコを見下ろしている。

「どこだ……ルラは、どこにいる」

「お前なぞにルラ様は殺せん」

首領が鉄塊を振り上げる。避けることなどできなかった。ギレコの頭に、強く鉄塊が打ち下ろされた。

 

10

 

クレストは暗闇の中で目を覚ました。地面に火の消えたランタンが置かれている。

すぐに自分が裸であることに気付いた。そして、隣には裸のルラが横たわっている。目はぱっちりと開いていた。

「起きた?」

クレストはびっくりして身を引く。

「おどかすなよ……。先に起きてたのか?」

「ううん。僕は眠ったことないから」

「ああ、そうだったな」

もしルラが眠ったら、人間は消えてしまう。

クレストは深呼吸をした。今が何時かは分からないが、おそらく夜は明けた。昨夜起こったことがまざまざと思い出される。砂紋の団の侵攻、戦う首領とギレコ、内陣からの脱出、そしてその後のこと……。

クレストは頭を抱えた。

「なんてことだ。やっちまった……」

「もう終わってしまったことだよ」

ルラに冷淡な声で言われて、クレストはうなずくしかなかった。

二人は昨夜見つけた水場に行き、体を洗った。それから衣を身につけ直し、出口の扉の前に立った。ルラがその扉の真ん中に手のひらを置く。

「いきなり開けちまって平気かよ。どこにつながってるんだ?」

「……さあ。この地下通路ができたの、もう千年も昔のことだから」

ルラが覚えていないのも無理はない。

「気をつけろよ。待ち伏せの兵がいるかもしれない」

「そんなのいないよ。きっと」

ルラが急に暗い声を出したので、クレストはいぶかしんだ。そういえばルラは今日になって様子が変わった。何か引っかかることでもあるのだろうか。

ルラは腕に力をこめ、扉を押す。がこん、と扉は大きく歪み、向こう側に倒れた。朝の光が差してくる。クレストは眩しさに手をかざした。ルラの言うとおり、待ち伏せなどいない。

「相変わらずの馬鹿力だな……」

「でも今日はこれでおしまい。疲れちゃった」

ルラは座りこみながら言う。まだ本調子ではないらしい。

扉は浅い谷の底に面していた。目の前を小さな川が流れている。少し休憩した後で、二人は谷を登りはじめた。クレストは、思いのほか消耗していたルラを助けながら登る。そうして二人は平野に出た。

すぐ近くに民家の立ち並ぶ町がある。それより上に目を移すと、大きくそびえる神殿が見える。ここからは遠いが、それでも神殿が破損していることは窺えた。

「静かだな……」

クレストはつぶやく。本当なら、今すぐにルラを連れてここを離れるべきだ。だがそんな切迫感も沸かない。あまりにも静かすぎるのだ。もちろん、昨夜の出来事でかなりの人数が消滅したことは予想していたのだが……。

ルラが突然、走りだした。クレストがあっけに取られているうちに、町に入り込んでしまう。

「おい、待てよ!」

クレストは後を追いながら、動悸が激しくなるのを感じる。

昨夜、ルラと体を交わす直前に、頭をよぎった考えがあった。自分たちは途方もない罪を犯そうとしているのではないか、という予感だ。だが、それはすぐに意識から消してしまった。

「誰か!」

ルラは家々の間を駆けながら叫ぶ。

「誰かいないの!?」

ルラの声はがらんどうの町に虚しく響くだけだ。

クレストはあたりを見回しながら走る。

風に舞う紙切れ。紐に吊るされた洗濯物。飼い主を待つ犬。道端に転がったボール。鉢に小さく咲いた花。

そのどれもが、人間の生活の断片である。しかし、どこにも人間はいない。

道の先で、ルラが虚脱して座り込んだ。クレストはその後ろに立つ。

「みんな消えちゃったよ、クレスト……」

クレストはルラの隣に膝をつき、肩を抱いた。

「お前は悪くない」

こうなることは分かっていた。昨夜の、あのためらいの瞬間に。しかし、あの瞬間には自分が犯すことになる罪がどれほどのものなのか、正確に理解していなかった。

あの時、どちらかが思い留まればよかった。そして責任は、思い留まれなかったクレストにある。

「誰の存在も感じられないんだ……。ギレコもいない。キーシャも……」

キーシャという名前に、クレストは胸を掻きむしられる。彼女とはまた会えると思っていた。再会を約束した。だが、キーシャを消したのは他ならぬ自分だ。

「……俺とお前だけなのか? この世界に今も生きてるのは」

ルラは小さく首を振った。だが、その顔にはより深い絶望がにじんでいる。

その時、奇妙な音がクレストの耳に届いた。ずず、ずず、と何か重い物を引きずるような音だ。

「君だけじゃないよ。もう一人いる……」

ずず、ずず、ずず――

音は後方から聞こえる。こちらに近づいて来る。同時に血と泥の臭いがただよってきた。

クレストはふり返る。

そいつは、鉄の塊を引きずりながら歩いてきた。

その男は、すべての人間が消滅する中にあっても、煮えたぎる感情のみによって己の存在感を保ち続けた。その男は、憎しみだけを支えに、片時もルラから忘却されることを許さなかった。

恐怖に足がすくむ前に、ルラを守らなければ、と思った。クレストはルラの手を引き、立ち上がらせる。

それを合図にしたように、男が咆哮する。引きずっていた鉄塊を肩に担ぎあげた。地面を振動させながら、こちらへ突進してくる。

二人は弾かれたように走りだす。

クレストは、強くルラの手を握りしめる。

こんなところでやられるわけにはいかない。キーシャとギレコの顔が脳裏に浮かぶ。まだ果たしていない約束が、クレストにはあった。ルラを幸せにすることだ。それを達成するまでは、倒れるわけにはいかない。

その思いが伝わったのかは分からない。ルラも手を握り返してきた。

咆哮する男に追われながら、二人は誰もいない町を駆け抜ける。

クレストは、決してこの手を離すまいと誓った。

文字数:45222

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