チコとヨハンナの太陽

選評

  1. 【冲方丁:4点】 
    非常に神話的で、読者を違う世界に連れて行きつつちゃんと心情描写で引っ張っていく……という基本ができている。ただ視点人物を2人登場させるときには、片方にとって既知の情報も、もう一方にとっては未知であるように描き分けるべき。カメラを2つ入れるなら、それぞれに死角を作らないと物事が立体的に見えてこない。視点や知識レベルを少しずらすだけで大分違うものになるはず。

    【高塚菜月:3点】
    内容と文体がかみ合っていて、雰囲気もあり、よく書けていると思う。ヨハンナというキャラクターが愛らしく、読んでいるとどんどん好きになった。導入が少しわかりにくいかも。

    【大森望:3点】
    アイデアの良かった梗概からさらにうまく書けているが、今こういうものを書くと「奏で手のヌフレツン」などに影響を受けた酉島伝法フォロワーだと思われてしまう可能性もあるので、そこでどう独自性を出すかが課題になると思う。

    【塩澤快浩(前回講師、オブザーバー)】
    予想以上によく描けていた。地上世界の描写や表現も効いていて、天蓋の外側に出たラストシーンには思わず感動してしまった。ただ、梗概と比べると、天蓋を這う巨大生物である太陽の印象がちょっと弱くなってしまっているので、もう少し長さがあっても良かったかもしれない。天蓋の設定や登場人物ごとの視点をはっきりさせてドラマを足せれば、SFマガジンにも掲載できるレベル。

    ※点数は講師ひとりあたり4点(計12点)を3つの作品に割り振りました。

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梗 概

チコとヨハンナの太陽

 17世紀初頭のヨーロッパ、プラハ郊外の静かな村に「先生」の巨大な城がある。「先生」はそこで太陽の観測を行っている。太陽は透明な寸足らずのイモリに似た体長1kmを超える巨大生物で、天蓋におよそ数百匹が生息しており、腹を赤く光らせ、頭上一面を覆い尽くすピンク色の天蓋の中を時折のたくりながら泳ぐのだ。太陽は天蓋の壁の中から自然発生し、長い時を経て寿命を迎えると収縮し、月を残して消滅するが、その太陽の残骸である月もやがて壁の中に消えてしまう。「先生」の弟子であるチコとヨハンナは他の大勢の弟子たちと共に、数百匹の太陽を識別し月の位置を記録する仕事に就いている。ヨハンナは幼少時に煩った天然痘の影響で目がとても悪く、手が不自由で正統の教育を受けていないが、彼女は驚異的な直感で数百匹のうごめく太陽を識別できる。
 「先生」は貴族の生まれで、五十代とは思えないほど若々しい女だが、かつて決闘で鼻を切り落とされ、黄金の義鼻をつけている。「先生」は城で絶大な権力を握っている。「先生」自身はすでに観測を行わなくなって久しく、弟子に取らせた膨大な太陽の記録を独占し、決して他人に見せず、占星術によって皇帝すらも支配する。弟子たちは互いに何をしているのかも知らされない。絶えず宴が催され、チコやヨハンナは道化と共に食事を取らされる。
 そんな中、事件が起こる。太陽同士が重なり合う極めて珍しい合が起こった後、太陽の一つが体に致命的な傷を負ったのだ。破れた腹からまばゆいばかりに輝く体液がぼたぼたと垂れ、痙攣しながら太陽がゆっくりと東に流されていく。気の遠くなるほどの大昔以来、観測例がない事態だ。太陽の軌道上にある村にチコとヨハンナが赴くと、体液が村中べっとりと染み着いていてまぶしくて仕方がない。
 村人が太陽の胃袋と称するものを持ってくる。それは中に気体が詰まっていて、両手で抱えるほどの大きさでその場に浮かんでいる。表面はねばねばしたもので覆われていて、かすかに鼓動し、試しに棒でつついてみると皮膜が棒を取り込んで、食いついて離れない。それは確かに生物のようだが、まるで似たような生物が思い浮かばない。
 チコは「先生」の書庫で以前読んだ本、あるポーランドの司祭の書いた『天蓋の誕生について』を思い出す。地球は太陽のように天蓋の中で育まれた存在ではないのではないか。元々天蓋とは独立に存在していた地球の上に天蓋が被さったのではないか? そしてヨハンナは太陽が時折天蓋の一カ所に集まり、昼夜と呼ばれる現象を作り出すことに着目する。従来それは太陽が産卵時期を迎えるための準備だと思われてきたが、太陽が無性生殖によってあたかも自然発生的に生まれることと矛盾している。彼女は昼夜の発生原因を、天蓋の西から東への回転とは別に何かしら外部からの力が地球に加わっており、太陽がそれに引きつけられているためではないかと仮定する。
 しかし城に戻った後、食事の席で持ち出されたその説を「先生」は一笑に付する。「先生」にとっては観測記録に裏打ちされた事実こそが重要であり、天蓋で頭上が覆われている以上ヨハンナの説には何も根拠がない。「先生」はヨハンナを執拗になじる。お前の説は持たざる貧乏人の空想、夢に過ぎない。真の理論とは、責任ある者によって集められた観測結果という財産に基づいたものでなければならないのだ。「私の観測記録は貴様には指一本触れさせない。どうしても理論を実証したいのなら、自分の手で集めればいいだろう。その醜く曲がった指と、ぼやけた瞳でな」
 ヨハンナは食事を終え眠りに就こうとしていた「先生」を縛り上げ、鼻の穴から塩化水銀を流し込んで殺す。
 折しも夜が始まろうとしていた。「先生」の観測記録を奪ったヨハンナはチコに別れを告げて去ろうとするが、チコは彼女を制して城の中のある建物に連れて行く。
 何百もの太陽の胃袋が木船にくくりつけられて置いてある。「先生」はこれを皇帝に献上するつもりだったらしい。二人を乗せた木船がゆっくりと浮かび上がる。夜はますます深くなり、頭上には死にかけた太陽が数匹取り残されているだけだ。
 木船はどんどん上昇し、気温が下がっていく。二人とも何も言わない。吐く息が白く、頭が痛い。もうどれだけ時間が経ったのだろうか。とうに食料はない。頭上にはもうじき息を引き取る太陽が弱々しく輝いている。天蓋が今やはっきり見える。それがぎっしりと敷き詰められた太陽の胃袋だと知る。天蓋にぶつかった船はそのままずぶずぶと取り込まれていく。二人は粘液の海の中で必死にもがく。
 外に出る。
 そこで二人が見たのは、頭上一面を覆い無限に広がる星空、変態しガスを噴出し膜を広げ光圧で太陽系外に向けて飛翔する太陽の成体、そして、かつて人類が空を見ることができた時代に「月」と呼んでいた、黄金に輝く美しい円盤だった。足下から水蒸気を含んだ空気が絶えず吹き出す。とても寒い。空気が薄い。薄すぎる。二人とも、もう動けない。だんだん意識が遠くなっていく。
 すると音のない爆発が起き、世界が急に燃えるように輝き出す。
 「太陽」がピンク色の地球の縁から、ゆっくりと昇ってくる。

文字数:2117

内容に関するアピール

 「もし地球が謎の宇宙生物に覆われてしまっていたら」です。
 今回の作品においては、「生物学的世界観」といったものの構築を目指しました。約一万年前に「異星人による、現地惑星の知的生命体の保護発展のための無差別型テラフォーミングシステム」とでも形容すべき生物が太陽圏外から飛来し、上空10キロ辺りで増殖したため、人類が天体を観測することが不可能になった世界、という設定です。
 この宇宙生物は、ヘリウムによって浮遊し光合成を行って大気圧と酸素濃度を調整し空を埋め尽くす風船のような生物と、その生物の隙間を縫って泳ぎ未知のプロセスによる生物発光で地球を照らす幼生、そして別の系外惑星目指して宇宙空間に旅立つ成体の組み合わせのイメージです。もっともこの設定だと惑星大気の組成によっては浮遊できませんので、例えば反重力器官を持った生物、といった設定の方がいっそうまくいくかもしれません。(そのような設定の、浮遊する生物が登場するSF作品も実際に読みました。どちらにしろ、この作品が想定している17世紀の科学知識ではこれらの生物が浮遊できる原理は分からないので、この部分に関する明確な説明は作品には入らない予定です)
 空が見えないことがどのような影響を人類に与えるでしょうか。まず、「暦」という概念が一般的でなくなり、「不変の天上世界」という西洋哲学の思想が成立しなくなるのではと考えました。時間はメジャーで長さを測るように、必要に応じて測るものになるはずです。
 (暦自体は潮汐から導く形でこの世界にも存在します。ただしその原因を天蓋を越えた彼方で起こっている何かの運動であるとする根拠はないはずです。この世界で暦が一般的でない理由として、気温の変化が比較的少なく農業が暦に依存しないため、と考えています)
 また、頭上で自然発生する謎の生物という存在は宗教に対しても大きな影響を与えるのではと考えました。ユダヤ教、キリスト教の伝承が大幅に書き換わり、イブの腹からアダムが生まれ、楽園追放により人類は無性生殖が不可能になり、イエスは男でありながら妊娠し死後神を出産した「神の親」として信仰されている、という設定です。恐らく女性の社会的役割はかなり大きいものになり、多夫多妻制度が一般的に、また倫理的に最も正しい形になるでしょう。
 このような世界において人類はどのようにして宇宙生物の向こう側にある「宇宙」を証明できるのだろうか、ということを考えてみました。例えば地球全体を丸ごと囲って気温を完全にコントロールできるようにしたとしても、コリオリの力によって偏西風は発生しますし、前述のように潮汐も起こります。ヨハンナが着目した昼夜の現象は、もっと単純に季節による日照時間の変化への対応によるものです。
 最終的に物語が見いだすのは我々が自明のものとしている「宇宙」に他なりませんが、それは彼らからはとてつもない驚異に見えるはずです。「センス・オブ・ワンダー」という課題のテーマに対して、我々から見た彼らの世界、彼らが見る我々の世界、二つの角度から答えることができればと思っております。

文字数:1282

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チコとヨハンナの太陽

 ヨハンナが太陽を数えている。

 太陽を数えるときは一番大きなものから当たりをつける。一番のお気に入りはアンビエル、しっぽがほかの太陽とくらべてとても長い、その代わり手足は不器用でいつも群から遅れている。隣はカカベル、頭でっかちで腹の光もうんと強い。のたくって一匹地平線の果てに消えていくのはラティエルか、それともシャルギエルか。よぼよぼのレリエルはきっと、次の夜でさよならだろうな。

 死んで干からびて、月になってしまったオファニエル、あれが私の最初のお気に入りだった。あそこだ。あの月もすっかり小さくなって、もうじき全部天蓋に吸い込まれて消えてしまう。夜が近いのだ。夜になれば太陽はいっせいに地平線に姿を消し、太陽は数匹しか残らない。

 自分が好きだった太陽が死んでしまうのは、とても悲しいことだ。でも新しい太陽も、代わりに生まれてくる。オファニエルの名前を次ぐのは、おそらく今、西にある、あの大きな卵に違いない。頭上に広がるピンク色の天蓋じゅうを埋め尽くす、半透明の、まったくかわいい太陽たち。しめて三百七十八。

 ヨハンナはとても目が悪い。両目とも極度の近眼だし、左目は複視で見たものなんでも二重に見える。だからこうして左手で、左目を隠しながら、鹿の骨にレンズをはめこんだ眼鏡を持ち、地べたに座り、城壁にもたれ、空を見上げているわけだ。

 右手には蜂蜜をたっぷり塗りたくった黒パン、がちがちで、しかもこれっぽっちしかない。まともな食事にありつけるのは三度の休憩のうち一度だけ、それまでせめてこの天蓋、無限の厚みで地球を包む肉塊を眺めて、気分だけでも腹を満たすしかない。

 腹を満たすために太陽を数え直す。

 だけど今度は数えるのに熱が入りすぎて、パンの上から蜜がこぼれ落ちているのにも、こぼれ落ちた蜜に蟻がたかっているのにも気がつかない。革の靴から黒のズボンに黒の上着には大きな襟、上着の裾から下着を通って首筋から胸元へ下り、へその辺りでばたん、ばたんとようやく気付いて慌てて立ち上がり服をはたいて払い落とす。

 一部始終を見ていた乞食の子供とその家来、口笛を吹いてはやしたてる。

 ぴぃー。

 石を投げれば逃げていく。

 これでヨハンナは天文学に向いていないのだから、まったく、不幸な太陽の下に生まれたとしか言いようがない。幼少時に天然痘を患ったせいで目が悪い。体中をかきむしるヨハンナに手を焼いた母たちは両手をきつく縛り上げ、おかげで左手は関節が硬くこわばって、ものを満足につかめない。ついでに顔はあばただらけ、しょっちゅう熱が出る。

 鐘が一度鳴る。

 残りのパンを慌てて口に押し込む。

 本来時間は自分のものなのに、先生が勝手に時間を決めてしまう城の生活に不満がある者も大勢いるが、島育ちのヨハンナは慣れたものだ。時間を決めるものが何もない陸とは違い、海には潮の満ち引きがある。

 そうだ、潮汐だ。考えなければ。門をくぐり城に入り天文台に向かう先、図書室でヨハンナの足が止まる。小さな窓、薄暗い書庫、きらきら光る埃、先生がこの間取り寄せた新しい本、書いたのは確か、ええと、コペルニクス。

 チコがその本を読んでいる。

 「きみが読んでたから、気になったんだ」

 変な人だ。なにゆえ私が読んでいたら、それが、君の読む理由になるのだ? ヨハンナはぼやけた視界のせいで、他人をにらみつけるように眺めなくてはならない。それでもヨハンナは良く知っている。チコの、貴族の血を引いた端正な顔立ち、ページをめくる白い指、ヨハンナたちと同じ服装、同じ先生の弟子でありながら、太陽とやもりほど印象が違う。

 あばただらけでしかめっ面、他人から眺めた自分を思わずにはいられない。「醜悪そのもの、だろうな」

 「そんなことないさ。きみはきみ自身を悪く取りすぎているんだ。北にかけて、きみは素晴らしい人物だ」

 独り言に返事を返すのはやめて欲しい。にらみつけてやる。チコはいっこうに気に介さず本をめくり、観測記録のノートの余白に何やらペンを走らせる。本を読みながら片手間に人を慰める、おまけに、何度でも強調するが、完璧な容姿。将来、さぞかし大量の妻をめとることになるに違いない。

 何がコペルニクスだ。

 図書室を突っ切り天文台に向かう。コペルニクスなんて、仕事の間の暇つぶしでしかない。楽しくない仕事にぴったりの、楽しくない暇つぶし。それでは一番楽しくないのは? 言わずもがな、楽しくない私の人生。「向いてない、本当に向いてない」

 今度はチコも、何も言わない。


 仕事の話、雇い主の話をしよう。

 皇帝陛下の住まわれるプラハは美しい町だ。この「先生」の巨大な城は、プラハからおよそ5マイル、歩いて行くなら途中で旅行用の大きな砂時計、脈で数えれば一万回も打つほどのものを、二回はひっくり返さなければならない。村から離れた丘の上にあるので太陽の観測にはお誂え向きだ。

 そこから少し遠ざかってみれば、巨大な鏡の据え付けられた太陽灯台がある。太陽灯台は光を集めて、一匹の太陽の目めがけて照射する。光で太陽を釘付けにするのだ。もっともこちらは雨が降れば役立たずだし、夜になれば動ける太陽は全て、地平線の彼方に消えてしまう。砂時計を千回もひっくり返さなければ夜はやってこないが、夜が来るたびに、再び太陽が天頂を通りがかるまで待ち続けなければならない。太陽は自由気ままに動く。

 太陽灯台は前の夜から空っぽである。ここは太陽の観測には向いていないのだ。

 こんな場所に先生が城を構えたのも、全ては皇帝平価の御命令、そして先生自身の名誉欲のためだ。

 チコとは比べものにならない、本物の大貴族の一族にあたる先生は、その財力によって数々の観測機器を発明し、正確無比な天文学を作り上げ、見かけ上天蓋の流れに従ってただ流されているだけに見える未発達の太陽卵が、ある程度自由に活動していることを突き止めた。この研究によって彼女は名声を高め、ヨーロッパ中の著名な天文学者の多くと結婚を果たしたのだ。メストリン、レジオモンタヌス、レイティクス、ラインホルトゥス、トマス・ディッグス、レーズリン、挙げればきりがない、いずれも当代切っての天文学者たちである。かつて人は天蓋に太陽が湧くように、女の腹から自然に産まれ落ちるものだった。だが蛇に唆され禁断の果実を口にしてしまったのだ。以来いつの世でも、夫の数、妻の数こそ権力の証である。先生は世界一の天文学者、すなわち世界一の数学者、占星術師となったのだ。

 以上、砂時計を数万回はひっくり返した昔の話である。だが錬金術の大家でもある先生は、怪しげな化粧と秘薬で壮年を越えなお若々しさを保ち、未だ毎週のようにどこぞの貴族や学者と結婚している。貴族同士の結婚はもちろん、羊皮紙の上に名を連ねるだけの重婚関係に過ぎない。だが幾人かの夫は律儀にも先生のみと関係を持つため城で暮らしており、ひらひらの服装、生気をすべて吸い取られたうつろな顔で、城内をさまよい歩いている。先生は絶好調だ。ただでさえ大きな胸は詰め物のおかげで、まるで七面鳥を抱えているよう。若かりし頃決闘で鼻を失い、黄金の義鼻を軟膏で貼り付けている。鼻には自らの才能を誇示するかのように、対角線目盛りが刻まれている。一部の不心得な領民が先生を魔女と呼んだのも無理はない。もっとも、火炙りになったのはその領民の方だが。

 先生の領民に対する苛烈な仕打ちが問題になり、今、先生は長きにわたって暮らしていたデンマークのヴェーン島を離れ、時の皇帝陛下ルドルフ二世の支援の下、ここボヘミアのベナテクに城を構えているわけである。

 巨大な六分儀の周りで数人の男女が作業をしている。

 おとなの背丈よりはるかに大きい真鍮製の六分儀は動かすたびにぎしぎしと鳴り、回すのも一苦労な重さだが、おかげで太陽の位置を正確に測定することができる。

 「観測機器は」と先生が言っていたのを思い出す。「大きければ大きいほど良い。それだけ目盛りを大量に刻める。同じ1インチの幅の目盛りでも、倍の長さの弧であれば、倍の密度で測定できる。大きさとは正確さだ。分かったか」

 返事は! 大声が耳に張り付いて離れない。

 そして大きさは、必然的に重労働を生む。顔をしかめながら六分儀を回し、ほかの助手に怒鳴られているヨハンナは、確かに、天文学に向いてないといった風情だ。

 別に天文学と、それによる占星術を批判する気はない。観測により太陽の軌道を測定し、過去の情報と付き合わせて何らかの知見を得る。太陽は自由に動く。その自由は、人間の精神の自由に対応している。地上に住まう我々以上に、太陽は精神の自由を発揮している。だから人は自らの太陽によって、自らの理想的な進む道を模索する。

 人々の理想が天蓋を這いずり回っている。

 「私の手と目は理想を捉えるにはほど遠い。元々縁がない学問だ」

 ヨハンナの生まれはアイスランドだ。漁船に売られ、女だとばれて叩き出された先のヴェーン島で先生に拾われたのだ。先生はアストロラーブと呼ばれる青銅の、太陽の高度を測定するために携帯する円盤状の立派な器具を用いて何度もヨハンナの頭を殴ったが、幸いにもヨハンナは数を扱うのが得意だった。ヨハンナは自分の眼鏡を手に入れるまで、ずっと数で空を見ていた。 天蓋にはおよそ数千万もの太陽がひしめいているらしい。そのうち名前がある大きな太陽がおよそ五千、おもに北半球に生息しているものが二千五百三十八、さらにその中で老化して活動をやめた太陽が十三、月が八つ。

 城は一だ。この辺りに一つしかない。一つの城に寝室が三つ、天文台が東西南北の四つ。中庭には痩せた犬が一匹。よく懐いており、時折誰かに棒で叩かれて悲鳴をあげる。家畜小屋、養蜂場、厩舎、中庭を抜けると図書館が一つ、一冊で金貨十枚ほどもする本が何千冊も並んでいる。台所には地下から汲み上げる井戸がしつらえてあり、八人の使用人の詰所がある。向かいは中庭に面して、十五人の夫どもの寝室だ。屋敷には紐が張り巡らされ、どの部屋からでも紐を引っ張ると、鐘が鳴り使用人と夫が飛んでくる。地下に降りると錬金術の工房があり、十六の炉は火を絶やしたことなく赤々と燃えている。さらに進むと先生の本を印刷する印刷機、さらには使用人と助手のための拷問室や監獄まである。

 観察を怠った助手が鎖でつながれている。

 「水をくれえ」

 だがなんと言っても一番活気に溢れているのは食堂だ。先生がまだ目を覚まさぬうちから使用人が入れ替わり立ち替わり、テーブルクロスを替え、料理を作り、今朝近くの村で摘まれたばかりの、野草や牧草、花びらを、床いっぱいに敷き詰める。三度の食事のうち真ん中は、いつも招かれた客人方のための長い宴で、ありがたいことに毎回弟子も何名かは同席を許されることとなり、しこたま麦酒を飲まされ、余興を強要、女は尻を触られ、男は股間を握られ、あちらの先生の席には鉄串の刺さった子牛のロースト、こちらには混ぜものをしたべたべたの肉団子、ぶんぶん唸る蠅、足元で跳ねるきりぎりす、音楽、手拍子、口笛、嘔吐、道化の小人がテーブルの上で踊り、ヨハンナの皿を踏んづける。

 みんな笑う。

 手を洗う。みじめったらしさで胸がつかえそうだ。

 先生が客人のお偉方に話しているのは、最近発明された極めて興味深い時計についてだ。従来の水時計や火時計、砂時計とは異なり機械式で、回転する二本の円柱の間に布を渡し、立てられた針が布に刻まれた目盛りを指す。

 「これは私の脈に合わせて目盛りが一つ進むように設計されているのです。長い間、時の計測は天文学とは関係がないというまことに誤った風潮が主流でした。ですが事件と大要の軌跡を対応させるのに、どうしてその事件の起こった正確な時間を知らずに済ませることができましょうか?」

 お偉方にとって重要なのは占いの結果、そして子牛を冷める前に平らげることだけなので、半分うんざりといった表情だ。

 弟子もうんざりだ。仕事が増えて給金は据え置きだ。先生は観測を行わない。弟子に働かせ、観測記録を取り上げ、皇帝に都合の良い結果を引っ張り出す。誰にも記録は見せない。この城で生まれたものは、犬の糞まで全て先生のものなのだ。

 「我々は天蓋における太陽の位置関係を正確な器具で測定しなければならないことをすでに知っております。私の情熱は今や、正確な時間関係の測定に向けられているのです。皆様、私の天文台はアラビアのものなど問題にもならないほど正確なのですよ。正確な太陽の位置こそが我々の武器であり、その武器によって我々は世界の全てをここにいながらにして知ることができるのです」

 向学心に燃えるチコはこの場で唯一、先生の話に興味津々なのだが、何せ百人以上が食卓につくのだ。遠くて聞き取り辛い。

 「おい。何をしている」

 先生がこちらを見ている。いや、チコではない。

 「ヨハンナ。お前だ、なんだその目つきは」

 客人方を相手にしているときの笑顔はどこに消えてしまったのか。

 「別に。見ていました」

 「なぜ見ていた。貴様には関係のないことだ。浅ましく人の話を聞き漁る、お前は犬か? 犬のまね!」

 ヨハンナは渋々立ち上がり、どこか空中の一点を見つめながら吠えてみせる。

 「わお。あ、あおう。うわおう」

 なかなか上手い。だがこの犬、いったい怒っているのか、それとも悲しくて泣いているのか?

 つられて本物の犬まで、中庭で吠える。

 まだ吠えている。

 「食だ!」

 誰かが叫ぶ。

 弟子たちが粥と肉団子を放り捨てていっせいに窓に向かう。誰もが上を見上げている。客人と夫どもが不安げに先生の様子をうかがう。先生は手を叩き、使用人が盆にカップを乗せて現れる。中には黒色の暖かい液体が入っている。

 珍しい、コーヒーという飲み物だ。

 「なに、私が見るまでもない。弟子が観測するのです」

 二匹の太陽が重なっている。頭上、ほぼ真上。一匹がもう一匹の腹に頭を押しつける格好で、窮屈そうに体を曲げている。やがて皆が見上げている中で、小さな手足を震わせ、完全に重なってしまう。二つの白い光は完全に重なり、サンダルフォンに匹敵するほどの巨大な一つの太陽と化して輝いている。一番の昼のさかりになれば、数百匹の太陽は天蓋のある地点を目指して一度に集まり、天蓋がたわむほどにもなるが、それでも互いに、ここまで重なることはない。

 窓に掛けられていた毛皮が風でばたばた揺れる。

 ひそひそ声と、客がおそるおそるコーヒーをすする音、犬はとうに疲れて鳴きやんでいる。

 どよめきと悲鳴が上がる。

 一匹の太陽が離れた直後、もう一匹が痙攣し光がゆがみ、どろりと光のはらわたが、地上めがけて、上から、降ってくる。


 落下地点の調査にチコが赴くことになったのは不思議なことではない。彼は太陽の視差の測定や錬金術の材料集めのため、何度も旅を経験している。意外だったのは彼がヨハンナを随行者として選んだことだ。先生は何か言いたげだったが、結局渋々承諾する。

 「先生は僕を信頼してるんだ」

 自慢げである。 きっとアストロラーブで殴られたことがないのだろう。

 二匹の馬がとぼとぼと歩く。薄暗い森を抜ける。道が野原を突っ切って続く。きいきい鳴る手車を、大儀そうに老人が押している。青々とした穂を頭につけた大麦畑が地平線のかなたまで続き、風が吹いてざわめきながら波を立てる。水車が回る。石橋を渡る。馬が糞を垂れる。黄金虫がヨハンナの肩に止まり、羽をしまい忘れたままマントの上を所在なさげにうろつき回る。

 指ではじくと飛んでいく。

 チコが尋ねる。「この辺りまで来たことは?」

 ない。

 「先生の使いで頻繁に通るんだ。このまま行けば、はるか彼方にヴィッテンベルク、引き返して城から反対方向に進めばプラハだね。プラハに行ったことは?」

 ない。

 「一度先生の従者としてプラハの城内まで立ち入ったことがある。あそこには皇帝陛下の集められた貴重な収蔵品が納められていて、世界中の珍しいものが揃っているんだ。ぜんまい仕掛けの蜘蛛がごきぶりを捕らえる様子を見たことは?」

 あるわけない。

 「だけど一番不思議なものは、皇帝陛下の部屋などにはきっと、収まりっこない。ぼくたちの頭上にあるこれこそが、まさに驚異そのものなんだ。いや、きっとそれ以上。その驚異が、どこまで続くのか知りたい。それがぼくの夢だ。って言ったらみんな笑った、でも、きみはあの時真剣に聞いてくれた」

 「あの時、とはいつのことだ。おそらくそれは私だけ、冗談を理解できなかっただけだ」

 「同じことだよ」

 全然、同じではないと思う。チコは初めて出会った時のことを覚えているのだろうか? ヨハンナ、と、名前だけを言ってあとはだんまり。同じくらいの若者が、急に助手に加わって、ヨハンナは、何を話したらいいのか、何をしたらいいのか分からなかった。チコは平気だった。使用人の部屋で暖めたミルクを飲みながら、ゆっくり、いろいろな話をしてくれた。まるで自分の方が、とヨハンナはあの時のことを思う。自分の方が、はじめての環境に慣れない新入りみたいだった。きっと熱があったのだ。

 彼の手のひらが、私の額に触れる。

 昔から、こうだったのだ。おせっかいだ。

 ヒバリが鳴く。太陽が震え、頭上を横切る。

 「地上から見ればゆっくりしたものだ。実際には一瞬であの巨体が、何百マイルも移動するのだから、まったく、驚嘆すべき光景だね。コペルニクス先生の新しい説だと」

 それは知っている。彼は雲の流れと天蓋の流れを比較して、天蓋が動いて風を起こし大気を循環させているという従来の説をしりぞけ、天蓋が風によって流されている、そう立証したのだ。天蓋の動きがまったく規則的でないこと、大きく蛇行する場合など。様々な記録結果が、その推論によって裏付けられる。「だが問題がある。彼の記録は精度を欠いたものだし、天蓋の振動、という仮説には納得できない部分も多い。君はどう思う?」

 「ほら」 またもやチコが、得意げだ。 「やっぱり、天文学はきみにぴったりだ。好きなんだ」

 これは好きということではない。たまたま今、成り行きで城で働き、たまたま論じているだけであり、好き、というのはこれとは違ってて、ヨハンナは一生懸命説明するのだけど、なぜ人はそうやって、好きとか、嫌いとかの話に持ち込みたがるのだ?

 目指す村、ヨハンナが聞いたこともない小さな村はもうすぐだ。先ほど傷ついた太陽はまだ東の高い場所にいる。時々苦しそうにけいれんしながら、そのたびに光る体液がきらきらと落ちていく。あれは血だろうか。死んでしまうのだろうか? 太陽があのように傷ついて死んでしまうのを見たことがない。月になれるのだろうか。

 光る足跡が点々と続いている。

 誰もいない。井戸端につながれたロバが誰かをじっと待っている。

 ロバも光っている。光ったロバがくしゃみをする。

 べたべたした太陽の血は村じゅうあらゆる所にこびりついていて、村じゅうのあらゆるものを光らせている。やっと見つけた女が一人、匙で血をすくって、桶に集めている。

 「これで布を染めたら素敵じゃないかしら?」

 頭がおかしいらしい。

 女が笑いながらふらふら歩いていると開け放してあった家の扉から数人、飛び出してきて素早く女を引きずり込む。何しろ外が光り輝いているので建物の中は本当に、真っ暗だ。チコが名乗りベナテクの城からやって来たことを告げるとありがたく中に案内してくれる。女が持ってきた桶が暗闇で、ぼんやり光って浮いている。よく目をこらせば、テーブルの上に置いてある。

 先ほどの女が尻を叩かれて泣いている。

 牛やら鶏やら羊やら、村じゅうの獣が一階に押し込められ、人間は地下で飯を食い、尻を叩かれる。地下の部屋は村じゅうに張り巡らされ、さながら蟻の巣だ。百人ほどの一家族が暮らす、典型的な小さな農村だ。

 皆は教会に集まっているのだ。

 案内役を買って出た髭面の愛想の良い男に連れられて、年長者とチコが会話している間じゅう、ヨハンナはずっと眼鏡片手に、壁に描かれた画を眺めている。お世辞にも、上手い筆致とは言えない。大昔、人は太陽と同じくひとりでに孕み子を産んだ。イブの腹からアダムが産まれ、二人は追放されたのだ。それ以来妊娠には男女が必要になり、子を孕むのは女のみになった。唯一の例外は神の親となったイエス=キリストであり、そして中央にはキリストの磔刑像、顔は大きくゆがみ、下腹部が大きく膨らんでいる。もしかしたら陣痛に苦しんでいるのかもしれない。反対の壁には死後キリストの墓から生まれた神が、はいはいで去っていく様子もある。それにしても、とヨハンナは思う。いったいイエスは弟子の誰と関係を持ったのだろうか?

 先生の城では、教会に行く時間も自由に与えられていない。宗派こそ違えども教会は教会だ。ここから永遠の北の果てに御座す神まで、複雑な教義の果てに立証された何ものかを経て、きっと何かでつながっているのだ。ヨハンナが連想したのはへその緒だが、おそらくそれとは別の何ものか、でだろう。

 教会に集まった皆が低い声でつぶやいているのは、世界の終わりがどうとか、不吉の前兆がどうとか、つまらないことだ。

 面白いものを見せてやると、先ほどの女が服の袖を引っ張る。

 「あれ」

 いくつもの部屋を抜けて階段を上り着いた先は穀物を貯めておく倉庫で、おそらく教会のそばにあった大きな建物だろう。二階まであり、全て吹き抜けになっている。窓も扉も固く閉ざされていて、何も見えない。女は天井を指しているらしいのだが、当然天井など見えやしない。

 女が桶にひしゃくを突っ込み、中身を振りまく。

 太陽の血が飛び散り、ぱっと明るくなる。

 見上げる。

 眼鏡を放り投げる。悲鳴をあげそうになる。天井一面に、臓物がぶら下がっているのだ。

 「大丈夫、大丈夫。ほら」

 臓物の間から一本の綱が垂れ下がっている。女が綱を引っ張ると、臓物の一つが手元にたぐり寄せられる。

 その予定だったらしい。

 ぴくりとも動かない。

 「そんな、おかしいな。さっきは上手く持って来れたんだけど」

 「くっついたんだ」

 扉が開いて現れたのは、髭面の男とチコだ。二人を見た女は慌ててヨハンナの後ろに隠れる。きっと後でまた尻を叩かれるのだろう、可哀想に。

 「これでさ。血と一緒に落ちてきたんだ、太陽の胃袋に違いねえ」

 「へえ」

 男が綱を上り、臓物の一つを手に絡めて降りてくる。「気をつけないと手を食われちまう」

 見たことがないものだ。大きさは大人の頭ほど、生まれたばかりの子豚のようなピンク色、ねばねばした分泌液を出して、かすかに規則正しく脈を打っている。生きているのだ。試しにヨハンナが触ってみると、表面がまるで指に吸い寄せたように離さない。

 離れない。

 慌てて手を振る。

 外れる。するとそれは地面に落ちず、水の中のくらげのように、ひとりでに空に昇っていく。女がけらけら笑う。

 確かにこれは、太陽に関係あるものに違いない。だが一方、これが、あんな大きな太陽の胃袋だとは思えない。

 「だから奴ら、空の上でほとんど何にも食べてないんだ」

 なるほど。

 ヨハンナと違って、チコはこれを知っているらしい。きっとプラハで見たのだろう。「胃袋というのはただの憶測だよ。太陽に関係している何かというのは分かるけど、正体は不明なんだ。この人の言う通り胃袋とか、はたまた卵とか。ぼくたちは、はらわたと呼んでいるが、おそらくこの一つ一つが、それ自体で生き物なのだと思う」ノートにペンを走らせる。

 男は不満げだ。「なんだい、珍しくもないのか。お宅の先生なら、こういうものを高く買ってくれると思ってたのに」

 「いえ、これは大変貴重なものですよ」いかにも感じよく、チコが笑ってみせる。「お金のことなら心配なく。胃袋一匹につき、金貨五枚でどうです」

 上を見る。ざっと三、四十匹はひしめいてる。

 チコを見る。

 「言ったじゃないか、先生は僕を信頼してるって」

 上着に縫いつけた秘密の袋から金貨がざらざら落ちてくる。

 男は目を丸くするし、女は大はしゃぎだ。扉を開いて駆けて出る。

 私たちみんな大金持ち、本物の小麦でパン焼ける……。


 暗い。

 何を思ったのか、客用のベッドが一つしかない。

 床で寝ようとしたチコに、女が忠告する。「それは絶対、やめた方がいいね。寝ている間に豚が降りてきて、お客さんの頭を踏んづけちゃう」

 笑う。

 笑い事ではない。

 「ところで、だ」この距離ならヨハンナも、相手をにらむ必要がないらしい。「チコはコペルニクスの振動説についてどう考える」

 「うぅん。振動説、か」

 天蓋は回転している。回転によって太陽を運んでいる。コペルニクスによって明らかになったのは、天蓋が少なくとも表面上は、風に流されやすい物体で構成されているということだ。

 「今まで天蓋は無限で丈夫な肉質で形作られていて、太陽は天蓋の表面に張られた膜のようなものの内側で活動していると思われていたわけだよね。天蓋は回転して大気を攪拌させ、一方太陽は膜に守られていてその影響を受けない。だけどコペルニクスの見立てでは、天蓋の表面は今まで思われているよりもずっと軽くて、それ自体が風で動いてしまうようなものだ。膜もない」

 「そうだ。確かに今回の事件の観測結果を見ると、太陽の血は直接下に流れ落ちているのが分かる。もし膜が張られているなら、太陽と膜の間に血だまりが形成されるはずだが、確認できなかった。だがそう考えると、潮汐に連動して天蓋の距離が変化する理由が分からない」

 「従来の説では、天蓋の圧力によって海面が押し込まれて、潮汐ができるというものだった。だけどそれだと理屈が合わない。だからコペルニクスは潮汐と合わせて天蓋が意志により振動していることにしたけど、確かに無理があるように思える。そういうことだね?」

 「まさしくそうだ。考えなければ」

 「ちょっと待って、これを」

 チコが体を起こすと二つ折りした紙にペンを走らせる。

 三重丸。小さな円、大きな円、もっと大きな円。

 「これが地球、海、一番外側が天蓋で、無限に続いている」

 見る。

 「こんな図なら、別に書かなくても良かったのではないか」

 あわてて眼鏡を取り出した甲斐がない。

 「そうかもしれないけど、ほら、分かりやすい」

 外側と真ん中の円を押しつぶしたような、楕円を描き加える。

 「このように天蓋が潰れることによって圧力がかかるはずだった。でもそれが疑わしい、ってことだよね」

 「そうだ。そもそも風で天蓋が動かされるなら、天蓋の回転の複雑さ、流れのずれは決して天蓋の意志によるものではない」

 「うん。天蓋の意志とは別の、自然の意志としてみた方がいい。だけどもしそうであるなら、天蓋が潮汐との関係に限って完全に連動した運動を行っていることの原理も、理由も、分からなくなる」

 「それに天蓋が風で動かされるなら、天蓋の膨らみ方と満潮、縮み方と干潮もまた、風の影響を受けてもおかしくない。天蓋のゆがみが風によって動かされる、もしくは潮汐もそれに合わせて風で動かされる。あるいは天蓋のゆがみだけが風で動かされ、潮汐との間にずれが生じる。これらのいずれの現象も発見されたという報告はない」

 「うぅん」

 ヨハンナの目の前でチコが考えている。図を見ている。こんな図を見て何が分かるというのだろうか。三つの輪。

 だいたいこれでは海が深すぎるし、どこが空間でどこが質料を持つのか分からない。

 円。

 「ん……」

 ヨハンナが紙を裏返しにして図を描いてみる。

 三重丸。

 もしかして。

 「分かったかもしれない」

 「何が? これで? 全く同じじゃないか」

 「いや、そうではない。そういうことではない。まさにこの図の通りなのだ。地球があり、海があり、そして天蓋、これだ」

 指で一番外側の線を押さえる。

 「天蓋とは線なのだ。つまり、無限の厚さなどではない、薄いものなのだ」

 ふたつの巨大な弧を、三重丸を挟み込むように描く。

 「風の影響を受けない外側から、天蓋を貫くようにして海にまで力が及んでいるのだ。ちょうど磁石のような力だ。これだ、これで全て説明できる」

 「あぁ……」

 「コペルニクスの説は、おそらく彼自身が想定していること以上の意見を言っているのだ。そもそも天蓋に風を起こす力がなく、風で動かされるような軽いものなら、それは、ほとんど厚みがないということではないか。少なくとも一部の神学者が主張しているような、無限の厚みではないことは確かだ。無限の厚みがあるものが風に動かされるなんて、理屈に合わない」

 「なるほど。ちょっと待って、ええと。つまり君は、コペルニクスの説から、天蓋の外側の世界があることが証明できる、て言いたいのか」チコは仰向けになり、目を閉じる。「なるほど。なるほど、面白いね」

 「それがどんな世界かも分かる」

 飛び起きる。「え?」

 「昼夜が起こるのは外の世界のためだ」

 「昼夜」チコが繰り返す。

 「いったい何によって太陽は動かされるのか」ヨハンナは断言してみせる。「それは光だ」

 「光? なぜ?」

 「目だよ。太陽が地上の光に反応してとどまることがあるのは知られている。太陽灯台はその原理を応用して作られたものだ。では、なぜ、太陽は目を頭の中心に一つしか持っていないのか」

 「……」

 「太陽の目がほかの生物と同じ、二つ、いや、もしかしてそれ以上あったとしたら。一つが天蓋の内側、他が外側。夜は外側の目が光に反応することによって起こる。そして天蓋を動かし、海面を押し下げている磁力に似たものもおそらく同じものだ。天蓋の向こう側には光る磁石がある」

 「きみは……いったい、どうやってそんな突拍子もないことを、思いついたんだ?」

 「今、急に思いついたわけではない。太陽があれだけ気まぐれに動いているのに、私たちの体は規則的に脈を打ち、海は正しく満ち引きする。ずっと気になっていたのだ。もしかしたら私たちの世界は、それほど気まぐれではないのではないか。だがそれは言葉にならずに、ずっと眠っていた。私の発想に確証があると思えたのは、聞いてくれた君のおかげだ。君のおかげで、外の世界という発想を思い出した」

 「思い出した?」

 「母のひとりが教えてくれた」

 左手をじっと見つめて、右手で不器用に広げようとしてみせる。

 「私の家族は島で漁船相手に薬草を売って暮らしていた。母は大勢いたが、私の世話をして、一番良くしてくれたのはあの母だった。きっと私を産んだのはあの母だったのだろう。魔女だと言われ、処刑されてしまった。子供の頃の私に教えてくれたことがある。私は幼かった。眠れなかった。外では犬がひっきりなしに吠えていて、私はとても怯えていた。私には犬が、なんだか家の中にいる自分に向かって吠えたてているような気がしたんだ。大勢の母がおもちゃをくれたり、叱ったり、歌を歌った。最後にその母が私を抱きしめて、こう言った。ヨハンナ、心配するのはおよし、犬はこっちなんか見ていない、と」

 微笑む。

 「チコ、犬は天蓋の向こうにある何かを見て吠えるんだ」


 開口一番、これだ。

 先生に話す必要などなかったのだ。

 確かにヨハンナもチコの提案には賛成している。大量の胃袋を土産に帰る道すがら、二人は議論を重ね、チコが言いだし、ヨハンナも最終的には賛成したのだ。豪勢な二食目の宴に比べたら、客のいない三食目は静かなものだ。道化も、音楽もなし。

 ミルクと、相変わらず固いパン。小さく切り刻まれた、香草の控えめな香りがする鳥のもも肉。

 「そのような訳の分からぬ力を持ち出す必要はない。単に規則的な力を想定するなら、心臓の鼓動や脈のようなものを想定すれば良い。昼夜の現象や天蓋の動きは、太陽の心臓が規則的に動くように、もともと太陽や天蓋の性質に組み込まれているだけのことだ。外からの不合理な力を考える必要はない」

 「失礼ですが」とチコ。「そのような想定をすることこそ、不合理だと思います。確かに外の世界が光に満ちていて、太陽や天蓋を操っている、という考え自体は突拍子もないものです。ですが、風が吹き、昼夜が起こるのは、ある種の傾きのようなものを想定するのが一番合理的だと思うのです」

 「傾き?」

 「そうです。実際に傾いている訳ではありません。桶の中に入っている水が、桶を傾ければ桶の縁からこぼれ落ちるように、何らかの、私たちには分からない力で、太陽は偏るのではないか。私たちはそう考えて」

 「馬鹿げてる」

 「話を聞いてください」

 立ち上がったヨハンナが皿に置いた肉めがけ、遠慮がちにこっそりと、四方八方から手が伸びる。

 先生が眉をひそめる。チコが驚いた顔でヨハンナを見る。まさかヨハンナ本人が、先生と話すとは思っても見なかったのだ。

 「記録を精査すればはっきり分かることです。太陽の軌道と太陽卵の間に因果関係がないこと、天蓋の収縮と潮汐の関係、私たちの世界の外側があることを立証できれば、それはコペルニクスの説の正しさを立証することにもなる、なります」

 「そもそもコペルニクスはでたらめだ。奴の観測記録は間違いだらけで話にならん。奴はこの地球が天蓋の中から生まれたのではなく、天蓋がこの地球に後から被さったと主張しているが、どうやってそんなことが成し得るのか何も考えてはおらん。机上の空論なのだ。それに球状の大地に我々が留まっていられるのは天蓋の圧のためで、天蓋が外れれば世界は闇に包まれ我々は闇の中に投げ出されてしまう。天蓋がなくなる時は世界の終わりだ。我々が生きている間は天蓋の外を知ることはないのだ。覚えているぞ、お前は確かルター派だったな? 聖書にはどう書いてある」

 「確かに聖書にもそうあります。天のしるしが永遠の北を指す、そこに神が御座すことを、だが、ですがあの、天蓋の外を見ることができずとも、天蓋の外を推測することは可能では、です、可能なはずです。それは別に神の予定と矛盾するものではなく、あの、私たちの知恵をもって、なぜなら私たちは神から」

 「いつからお前は神学者になった? お前は神学者でも、天文学者でもない。ただの助手だ」

 「助手でも、正しいものは正しい。です」

 「ほお。つまり、私は間違っている、と」

 「違う、違います。ただその、分からないという話です」

 「分からない。それはそうだ、お前は何も知らないんだから。知らないからそんな無責任なことをほざいて、言うだけで何か新しいことを成し遂げた気になっている。お前の話は、ただの夢だ。出来損ないの預言者気取り、魔女気取り。何でお前は夢を見ていられるのだ? それはお前が貧乏人だからだ。貧乏な助手風情、私と同じ食卓について対等な気でいるが、私の観測器具を使い、私に食わせてもらっている寄生虫、財産もないくせに私のものを自分のものと勘違いしている。分かるか? 財産を持つ、管理する、それには責任が伴う。私の富と名声はその責任の結果、生まれたものだ。私は先祖から責任を引き継いできたし、その資格がある。お前の夢は資格がない者の、無責任の産物だ。記録がない、財産がない、私の財産をつまみ食いして無責任に言いたいことを言って満足する、だがそれは夢だ。目が覚めれば消えてしまう。私の名は私の記録と共に、世界が終わるまで永遠に地上に残る。お前は何だ? 誰にも知られず死ぬだけの、名前もない私の部品だ。お前は消える」

 沈黙。

 「消えろ、と言ってるんだ。食事は終わりだ。おおかたチコを唆したんだろ、私の記録を使わせるように、と。ふざけるな。私の記録は誰にも、生きてる間は使わせない。どうしても自分の説を実証したいなら、自分で記録を集めるんだ。その醜い指と、濁った瞳でな。それとも私と結婚するか? 私の夫どもの誰かと結ばれれば、お前も家族だ。相続にありつけるかもな。誰がいい?」

 沈黙。

 「失礼します」

 ヨハンナが椅子を引いて出口に向かう。あわててチコが立ち上がる。

 「チコ、座れ。いや、座るな、こっちに来い」

 椅子に座った先生は、やって来たチコに自分の腿を指す。

 「ここに座れ。食べさせてやろう、ほら」

 扉が閉められたので、そこから先は分からない。

 知りたくもない。

 いや、考えれば良かったのだ。分かりそうなものだ。チコが先生を尊敬していること、先生がチコを信頼していること、考えればすぐ分かることだ。天蓋の収縮周期を考えるより、よっぽど簡単で誰でも観測可能、どこまで私は、目が悪いんだ?

 好きとか嫌いとか、そんな話に巻き込まれるのは、嫌ではなかったのか。

 嫌だ。

 なぜならそんなの関係ない、私と関係ない、太陽の動きと天蓋とも、ぜんぜん関係ないはずだ。私とは関係ない世界の話が、何でいつの間に、関係ある話になってしまっているのだ? 何で私は、嫌なんだ? みんな好きな人とつきあい、みんなが家族になって一つにつながる。素晴らしいことだ。先生とチコが家族になって、ほら、お似合いじゃないか。そして私も誰かとつながって先生と家族になればいい。そうすればチコとも家族になる。

 ほら。

 叩きつける。

 憎い。

 触るな。

 薄暗い。

 顔を上げる。夜が、始まったのか。

 眼鏡と、外れたレンズを拾う。ひびが入ってないか確認する。

 離れに戻る。助手が押し込まれている、城のはずれの小さな小屋だ。常に誰かが観測を行う。助手の人数はきっかり十三人、その内既婚者は八人、その八人の家族を含めれば百人を越え、家族同士で非常に複雑な重婚関係が成立している。離れは寝室が一つきり、ベッドは百を越える。

 部屋の隅には十人もの人が一度に眠れる巨大なベッドがいくつもある。その大きさはまさに地球における天蓋に匹敵する。新しい命がここで生まれるのだ。

 ひそひそ声が聞こえる。

 「なあ、考えてくれよ、もう少し金が欲しいんだ、貸してくれよ」

 「何言ってんの、あんたこの次の生理までに返すって約束したじゃない。あれどうなってんのよ?」

 「これだから女は嫌だよ。なんでこんなに時間にうるさいんだ」

 喧嘩の時間があり、愛の時間がある。楽園追放以来の神の罰。

 罰がうるさい。

 うるさい。

 部屋の隅に一番近い自分のベッドの上で、壁を向いて、体を丸めている。敷き布団から飛び出た藁が、体を刺す。

 「ヨハンナ」

 チコ、帰ったのか。食事は、楽しかったか?

 「すまない」

 なにゆえ謝るのだ? 君は私のためを思って、何もかも、やってくれたのだ。それ位、社交に疎い私にも理解できる。

 「先生にはぼくから謝罪して、もう一度、話を聞いてもらうことにする。きみが正しいんだ。君は評価されるべきだ」

 「チコ」

 顔を上げて、チコの顔を見る。

 何か言おうと思う。

 特に何もない。

 「夜を見てくる」

 起き上がり、離れを去る。

 離れから納屋に向かい、扉を開き、入り、出る。屋敷に入り、使用人室に入る。使用人に挨拶をしながら突き当たりのドアを開く。誰もいない使用人室の寝室に入り、突き当たりの板を外す。六つの鐘がロープに結わえられている。ロープの一本を慎重に外し、結わえ直し、板を戻す。鍵を一つ取る。使用人室を通り廊下に出る。食堂はもう、誰もいない。扉が開き、使用人が出てきてヨハンナに軽く会釈する。食堂から図書館に向かい、地下への階段を進む。階段を下りた手前のドアを開ける。錬金術の工房。十六の炉は常に絶やされることなく赤々と燃えている。助手の女が一人だけ、半分眠りながら火にかけられた何かを見張っている。ヨハンナはそちらに向かい、挨拶し、話し、金を払う。金を受け取った女が反対側の棚に向かう。ヨハンナがテーブルの上に置かれたガラス瓶の中、一つだけある鉄の瓶を左手の中に隠そうとして、落とす。女が戻ってくる。誰もいない。瓶をポケットにしまいこみ階段を上っている。ますます暗くなった廊下には人一人いない。外に出る。中庭には、先生が飼っていた大角鹿の死体が横たわっている。首の骨が折れている。蛆が湧いている。夫どもがぶらんこに乗って遊んでいる。大きな楡の木から張り出した枝にロープが結わえられていてふらふらと揺れながら夫どもがヨハンナを見つけて何やら低い声で囁きあい、密やかな笑みを浮かべる。人数を数える。先生の寝室には窓ガラスがはめてある。夫どもの寝室はガラスがなく、風除けの毛皮が垂らしてある。毛皮をめくって人数を数える。もう一度中に入る。先生の寝室にたどり着く。寝室には次の言葉が掲げられている。

富や力ではなく、

知恵のみが不滅である

 鍵を回すと扉が開く。

 「先生、お休みのところ、申し訳ございません。一人っきりで、無防備で、まことに申し訳ございませんが」

 どん。

 部屋の隅に書き物机を見つけて、机の端に、勢いよく瓶を置く。先生は錬金術に詳しい、だから鉄の瓶の中身はすぐ分かる。

 水銀だ。

 ロープで両開きのドアノブをぐるぐる巻きにする。

 ようやく事態を呑み込んだらしい。

 先生がベッド脇にぶら下がった紐を引く。何度も引く。紐は屋敷じゅうに張り巡らされており、どの部屋からでも、使用人の詰所にある鐘を鳴らして使用人を呼べるようになっているのだ。

 ということは、鐘が鳴らないなら、呼べない。

 「もしかして、これを鳴らしたいのでは」

 ヨハンナが右手に持っている鐘を先生に見せる。

 鐘で先生の顔を思い切り殴る。

 上手い具合に、大声で助けを呼ぼうとするところだったらしい。口を開けていたので、舌を噛んでしまったようだ。真っ黒な熊の毛皮の上にぼたぼたと血が垂れる。膝をつき、口を手で押さえると喉に生ぬるい血が流れてくるのだろう、はげしくせき込んでいる。

 ちょうど殴りやすい位置に先生の後頭部がある。

 二度目。

 すると倒れる。倒れたまま起きあがらない。死んでしまったわけでもあるまいし、どうやら気絶したらしい。

 苦労してベッドまで引き上げ、ロープで両腕、両足を縛りつける。もう一枚裂いて、今度は口に押し込む。さすがに目が覚めて指を噛もうとするので、二、三回殴る。

 ようやく大人しくなる。猿ぐつわをかませて準備完了だ。

 机の上の水差しを手に取り、先生に注ぐ。

 目が開く。

 「先生、先生? ヨハンナです。私が何をしに来たか、分かりますか」

 くぐもった叫び声。必死に体を動かそうとしている。よく分かってるみたいだ。化粧を落とした目尻にはしわが見えるし、自慢の美しい黄金の鼻は、ゆがみ、斜めになって膏薬で顔に張り付いている。右手でやさしくつまみ、ゆっくりと顔から引きはがす。

 そぎ落とされた鼻筋はでこぼこで、鼻の穴が正面から丸見えだ。

 変な顔。

 「先生、私は錬金術にはまるで疎いのですが、少しばかり聞いたことがあります。水銀とはなんでも、少し飲む分にはお通じなどが良くなる薬らしいですが、大量に飲むと、水銀の重みで、腸がずたずたに破けて、腹痛で苦しみながら死んでいくそうではないですか」

 腸がずたずたに破けて、腹痛で苦しみながら死んでいく。

 「先生の死に方にはぴったりではないですか?」

 先生がなにやらうんうん唸っている。あきれたものだ。あれだけ生きていて、名声も手に入れて、財産もある、この上まだ生きようなどとは? くるりと背を向けヨハンナは、水銀の瓶を手に取ると、右手で押さえ、左手でふたを、でも、ヨハンナは自分の手が、どうしようもなく震えているのに初めて気付く。

 不自由な左手が、瓶を倒す。

 机の上に銀色のしみが広がる。

 瓶を起こしてのぞき込む。半分も残ってない。これで人は死ねるのだろうか?

 実験しなくてはならない。

 右手で瓶を持つ。ずっしり重い、それを口に付けて含む。

 瓶を置く。

 歩く。

 叫び声がいっそう大きくなる。目に涙を浮かべ、ああ、やはり人間なのだ。私と同じなのだ。だからこんなことをしてやれば、きっと恐ろしいに違いない。

 先生の顔を両手で押さえつけ、鼻の穴に口付けする。

 ごぼごぼと音を立てて水銀が、先生の体の中に入っていく。せき込む。暴れる、痙攣する。それでもヨハンナは先生を強く押さえて離さない。最後の一滴まで、口の中の液体を流し込む。

 再び机の上の瓶を取り、口に含んで流し込む。

 三度繰り返す。

 「おやすみなさい、先生」


 ヨハンナが歩く。暗い森を目指して歩く。夜がはっきりと訪れつつある。頭上をのたのた太陽が移動していく。もう天蓋には動ける太陽は、数匹しか残されていない。まるで何事もなかったように、いつもの夜が始まろうとしている。

 「ヨハンナ、探してた」

 裏手の門の前にチコが、ろうそくを持って立っている。

 「それ、どうしたんだ」

 ヨハンナの口の端から、銀の筋が垂れて、光っている。

 何でもない。

 拭く。

 「こっちへ」

 まるで歩かないヨハンナの腕を取る。

 一人で歩ける。ふりほどく。

 チコが向かったのは離れのさらに先にある。工事中に打ち捨てられた天文台、壁は崩れかけ屋根板が上に乗っている。普段は立ち入り禁止で錠がかけられている。

 チコが鍵を入れて回すと難なく開く。

 扉を開く。がちょうが二羽、ふらふらとさまよい出てきて、薄暗い空を見て不安そうに一声、があ。と鳴く。

 中に船がある。

 船が揺れている。

 宙に浮いている。

 船の四隅には鎖が取り付けられ、ぴんと張りつめられた鎖は上方に伸び、その先には例のあの、太陽のはらわたと呼んだものが、何百と絡まり合い、鎖に食らいついて船を持ち上げているのだ。

 「ぼくは先生から、これを集めるように仰せつかっていた。あれは全部生きていて、太陽の光を与えてやるだけでいいんだ。この空飛ぶ船を皇帝陛下に献上するつもりだった」

 船を触るときしんで音がする。

 「ぼくはここを去るよ。これを使って」

 それはまた、ずいぶん唐突な話だ。

 「ぼくは先生を尊敬していた、だけど、先生はぼくのことをまるで理解していなかった。先生はそういう人だったんだ、誰のことも理解しようとしない人だ。そしてぼくは君にまで嫌われてしまった、でも仕方ない。それだけのことをしてしまったんだ。ここに未練はないし、ほかに行く場所もない」

 ヨハンナは別に、そこまで気にしていない。気にしていたかもしれないが、だいたい、もう済んでしまった話だ。

 「ありがとう、でも、もう遅いんだ」船の中に置いてある、一冊の本を渡してみせる。「観測記録をまとめたものだ。先生のものだけど、ぼくが記録した、ぼくの記録だ。盗んだ。先生が真実を隠そうとしても、世界は何が正しいかをはっきり見せる、ぼくは、毎日嫌でも目にしなきゃならない。ぼくは知ってるんだ。きみが教えてくれた。なのに知らないふりをする、そんなのは耐えられない。この船を使えば、きっともっと近くで太陽を観測できる」

 降りる手段は分からない。どこまで昇るのかも分からない。そうチコは説明する。もともとガチョウで実験するつもりだったのだ。チコはガチョウになるつもりなのか? 信じられない、やめた方がいい。でもやっぱりチコは、ありがとう、としか言わない。

 「記録と鍵を盗んだんだ。もう、ここには戻れない。無事に戻って来れたとしても、一生お尋ね者だ。でも、やってしまいたい。その結果、命を落とすことになっても」

 最後の言葉を吐き出して、もう一度、息を吸って、吐く。「そうだ、死ぬかもしれない」

 「なるほど。君は死ぬ気なのか。私に嫌われたから? 馬鹿じゃないか、君は」笑ってしまう。「だが奇遇だな。私もちょうど、死ぬ気だったところだ。悪いが席を替わってくれ」

 本を返す。

 今度はヨハンナが大きく息を吐く。「先生を殺してみた。でも無理だった、怯える先生に水銀を飲ませていたら、私は、途中で満足してしまったんだ。だからといって私のやってしまったことが、どうにかなるものでもないが」

 「どうして」

 「君に教えたい話じゃないな。とにかく私の方がよっぽど、死ぬ資格がある。替わってくれ」

 「ヨハンナ。きみは誤解している」本を渡す。「この船は二人でも乗れる」

 「鍵も記録も私が盗んだことにすればいい。君は何もしていないんだ、私に付き合うことはない」

 「そうかもしれない。ぼくは何もしていない。そしてこれから、する」両手を広げる。「ぼくは一番近くで太陽を見る。もしかしたら、太陽に触れられるかもしれない。どこまで上がるか分からないんだ。ぼくはこの世界を、きみやコペルニクスみたいにひっくり返したい。この船でひっくり返すんだ。きみは先生を殺そうとした。だけどぼくは、世界を終わらせる」

 「はあ。やっぱり馬鹿じゃないか?」

 「ぼくを馬鹿にしたのはきみだ」

 「こんなことになるなんて思ってない。私は先生に拾われて、仕方なく知識を身につけただけだ。太陽や、夜や、世界のことなんて本当はどうでもいい。世界にはきみが思うような、死んでも手に入れたいほどの真実なんて絶対ない。人を動かすのはもっと、その、下らない諍いだ。先生の根拠のない邪推も、そう考えれば正しいものだ」

 「きみはそう思ってない」

 「何を言っ」

 「思ってない」

 チコが右手を伸ばす。本を引っ張る。ヨハンナは自分が、いつの間にかチコの観測記録を、両手でしっかり抱えていることに気づく。なおも引っ張られる。戸惑いながら右手を、そして左手を本から放す。

 本を受け取ったチコの反対の手が、ヨハンナの空いた左手を握りしめる。

 「きみはそんなこと、思ってない」

 強く握りしめる。


 木の板をかぶせただけの天井は、鎖を引くと、簡単に開く。ぶら下がっていた何十という砂袋を外していく。最後の一つを落としたときには、船はもう、城の高さを超えている。

 戻れない。

 ふたりが出発する方向には、今、太陽はない。太陽がない方向など、誰も観測などしない。

 中庭の犬は、ふたりを見ているだろうか? この高さでは、こう暗くては、何も分からない。

 船は順調に高度を上げる。城があっという間に小さくなる。夜はますます深くなり、下の景色はほとんど何も見えない。ぎいぎい軋む船に穴があいたら、そこで終わりだ。

 船の下には人々の灯した火が点のように小さく見える。夜になれば火を燃やし、爆竹を鳴らすのだ。祭りだ。

 「私は天文学に興味がなかったというのは、本心なのかもしれない」ヨハンナが口を開く。「天文学はこの世界の理を明らかにする学問だ。でも私は、この世界でなく、別の世界を知りたかったのかもしれない。私は世界の外から、上から、遠くから、私たちを眺めてみたかったんだ。どう見えるだろう? きっとさぞかし下らないことで大騒ぎしてる、つまらない連中だと思うだろうな」

 ぼそりと付け加える。「つまらなく見えて欲しいんだ」

 それからチコが、プラハで聞いた出来事について話して聞かせる。さる貴族の令嬢が、破廉恥にも夫の一人を独占せんと、馬車に乗せ、国境まで逃げたのだ。結局馬車は国境を越えることがなかった。夫の妻たちに雇われた兵どもが次々と火矢を放ち、馬車はひっくり返り、炎上し、二人は国境の手前で焼け死んでしまったのだ。確かにつまらない連中の、何も心温まらない話だった。

 水に浮かべるわけではないから、船には排水のための穴がいくつも空いている。用を足す。きらきらと落ちていく。

 りんごをかじる。

 かじるりんごがなくなる。

 眠る。

 目覚める。

 寒い。

 船が激しくきしんでいる。恐ろしいほど風が吹く。少し明るくなったような気がする。

 べたべたする。

 視界が悪い。粘液に包まれているのだ。はらわたから分泌される透明のねばねばは、今やひとつひとつが頭ほどの大きさの泡となり、鎖を伝い、とめどなく流れだし、船の中に入り込み、船を包み、次々とこぼれ落ちていく。船じゅう、巨大な泡だらけだ。しかも次から次へと降り注ぎ、やむことがない。

 ごぼごぼと排水溝が音を立てている。船が壊れてしまう。

 「鎖に体を縛ろう」

 それぞれ一本ずつ鎖を選ぶ。ヨハンナの動かない左手で体を縛るのは一苦労だが、ここまで来て、泡まみれでただ落ちるのも癪だ。

 「まるで太陽に捧げる生け贄だな。それとも火炙りにされる魔女か」

 頭上に粘液の泡が容赦なく降り注ぐ。あっという間にふたりとも、どろどろだ。

 「船が壊れるのが先か、それとも泡に溺れ、はらわたに取り込まれてしまうのだろうか」

 「さあ。どっちにしろ、この粘液がなければ命はないよ。今やアルプスの山々より高い場所を飛んでいるんだ、凍死してしまう」

 はらわたは地上にあった時よりはるかに巨大に膨れ上がり、ますます活発に活動している。はらわたが呼吸し、泡を吹いているのだ。

 「光だ」まさしく、チコの言う通りだろう。「太陽に近づいて光を受けて、はらわたの活動が活発になってるんだ」

 太陽に近づいているのが分かる。苦労して上下を見渡すと雲がはるか下に見える。夜はすっかり更け、動ける太陽は次々地平線のかなたに消えていったのだろう、今や太陽は天蓋上に数匹しか残されていない。だがそのうちの一匹が、西から流されこちらに近づいてくるのだ。だから明るくなったように感じたのだ。

 今や太陽は、泡越しにおぼろげに、巨大な姿を露わにしている。

 地上から見れば平坦な天蓋に平らな太陽が張り付いているように見えるが、実際には、たわんだ天蓋から今にも垂れ落ちそうに、表面にくっついている。今まで太陽が落ちたなど聞いたことがないから、これでも、見た目よりは安定しているのか、太陽自体に、はらわたのような浮力があるのだろうか。四本の指、一つしかない眼球、いずれもはっきり確認できる。そして頭の大部分は天蓋に埋もれて見えていない。ヨハンナの仮説通りかもしれない。腹部には光球を抱えており、それが液体なのは例の事件ではっきりした通りだが、半透明の身体、その首筋に赤い血管が観測できる。つまりあれは血ではない、別の液体だ。

 見たこと全てを、チコは観測記録の最後のページに書き加える。そして本を閉じると、署名し、勢いをつけて腕を振り下に向かって投げ捨てる。本は泡を振り切って不格好な蛾のようにはためきながら緑の大地へ落ちていく。誰か本を拾う者が現れるのだろうか。そして、この途方もない真実、ほら話を誰が信じるのだろうか?

 ますます寒くなる。それに頭痛、耳鳴りもする。

 「熱があるのだろうか」

 「いや、ぼくも同じだ。寒いし、頭が痛い。なんだか息苦しい感じがする」向かい合わせの鎖からチコが叫ぶ。「高い山に登った者と同じ症状だよ。粘液があるから、この程度で大丈夫なんだ」

 こんなことなら、背中合わせに一本の鎖で縛っておくべきだった。急に心細くなる。

 チコの手が。

 頭を振る。

 とても疲れているのだ。「プラハに高い山などないのに、知ってるのか」

 「きっと天蓋はぼくらを守る存在なんだ。たとえば、きみの話した外の世界に満ちている光は、もしかしたらとても強いものかもしれない。ぼくらが耐えられないような」

 「太陽の光のように冷たいのではなく、逆に炎のような熱を伴う光なのかもしれない。あらゆる生き物は光の中で燃え尽きて死ぬわけだ」

 「うん。死ぬんだ」

 もはや太陽は眼前に迫り、視界の半分以上覆っている。天蓋と太陽の境目までくっきりと観察できる。

 「眼鏡が取れない」最期の光景なのに。「ベルトに挟んだままだ」

 「砂みたいだ」チコが伝える。「はらわたと同じだ。天蓋は、数え切れないほどのはらわたで、できてるんだ」

 船が揺れ、鎖がちりちりと鳴る。

 天蓋にぶつかったのだ。

 上を見上げる。船のはらわたで頭上が完全に隠れて何も見えない。そして西には巨大な太陽、もはや死にかけていて地上からは弱々しい光にしか見えないだろう、だが間近にあってじゅうぶん明るい。

 「おそらくこのまま、船を吊していたはらわたと天蓋を形作るはらわたが同化するのだろう」

 そこから先は?

 「分からない」ヨハンナは頭上を見上げる。「何も分かるわけがない」

 全くその通りだ。だからいったん止まった船がゆっくりと天蓋に近づき始め、頭上のはらわたと船との距離がどんどん縮まっても、予測はできなかったにせよ、あり得る展開なのだ。

 「どうなってるんだろう。もう天蓋に達して、これ以上持ち上がるわけないのに」

 「船が持ち上がってるのではない。天蓋が下がっている。太陽だ」太陽はどんどんこちらに向かってくる。「太陽の重みで天蓋が垂れ下がっている、それゆえ天蓋の波がこちらに押し寄せるように見えるのだ」

 確かに太陽は今や、船より下の高度に位置している。ピンクの壁がじわじわとこちらに向かって迫ってくる。数フィートもない。粘液越しに巨大な目玉がこちらを見ているのがはっきり、いや、見ているわけがないのだが、そう感じてしまうのだ。

 「船が壁に押し潰されて下に落ちるか、ぼくらも太陽みたいに天井に取り込まれて身動きできずに死ぬか、船をつり下げているはらわたがうまい具合に壁を乗り越えてくれるか。三番目がいいけど、たぶん僕は一番最初の」

 予想が正しくなると思うね、とチコは言おうとしたのだろう。

 太陽が右手を動かす。

 右手に合わせて天井がうねり、はらわたの壁が船をあっという間に飲み込む。


 ピンクの海の上を小船が漂っている。

 船がきしむ音が聞こえる。ふたりの人間が船の傍らにうつぶせで倒れている。

 ぶくり、と泡が立ち上る。ピンクのはらわたの間から、空気の泡が沸騰する湯のように次々と湧いて出てきて消える。それにどこからか空気の漏れる、しゅうしゅうという音も聞こえてくる。

 目覚める。

 ふたりはねばつく液体を体からこそぎ落としながら立ち上がる。鎖はどこにもない。足元のはらわたは硬く締まっていて、ぴったりと、隙間なく閉じられている。夜だ。闇に包まれている。遠くに灯が見える。

 灯が続いてる。

 灯だ。

 息をのむ。ふたりの頭上にも、どこまでも、数え切れないほどの灯がある。またたき、きらめき、気の遠くなるようなはるかかなたに違いない場所で爆竹もなく、祭りもなく、静かに、空気のように冷たく燃えていても、でも、ものが燃えるようなはかなさがなく、小さくともあんなに確かに光っている。そしてその中央には、まるで太陽が体液を流し尽くしたかのような、広大な白い光の道が突っ切っているのだ。街道がまるまる皇帝陛下の死を悼む葬列で満たされているような、だけどあれは葬列の光ではない、もっと優しい、永久に続くかのような白い光だ。

 まるでふたりが、さかさまになってしまったみたいだ。だけどここは元の場所ではないし、粘液は下に落ちていく。天蓋の外なのだ。天蓋の外には、別の世界が、別の人々の世界が、あんな遠くに、ひとりひとり生きていて、それがきっと無限に広がっているのだ。

 地表から一本の巨大な花のつぼみが突き出している。昼顔に似た形のつぼみは真っ白で、ほんのり色づいた頂点をかたく閉じたまま、だが生きるもの特有のなめらかな曲線で自らを包みこみ、空にまっすぐ頂を向けている。

 粘液に足をとられながらそちらに向かってみる。寒さはいくらか和らいだ気がする。ただ以前よりさらに、空気が薄くなっているようだ。足取りが重い。そしてなかなか近づけない。

 巨大なのだ。周囲に何もないので距離がつかめなかったが、あれは、とてつもなく巨大で、確かに近づいてはいても近づくことがままならないほど遠くにあるのだ。しかもふたりが眺めている前で、その巨大なつぼみはますます成長し高くなっていく。

 つぼみの土台に小さくなった太陽が確認できる。

 太陽は死ぬのではないのだ。月という抜け殻を残して、天蓋の裏で、花を咲かせようとしている。そうに違いない。

 だが、花は、ここで咲くのではない。

 地面が震えているのに気付く。つぼみは今や付け根まで露出し、ひからびた太陽の目だけがなんの表情もなく光を待っている。やがて付け根が光り、つぼみの付け根から白煙が立ち上ったかと思うと、ふたりが見ている前で、白いガスを吹きつけ地面をそっと蹴りだすようにゆっくりと、いや、すさまじい勢いで頭上高く向かって空を上りだす。

 音がやってきてふたりを撃つ。

 轟音。

 立っていられないほど地面が揺れ、すさまじい突風が吹きつける。

 もうもうと白煙を吹きながら、太陽の成体が昇っていく。太陽が空に一筋の曲がりくねった白線を描く、煙が空気に溶けて消えていく。その向こう、もっと信じられないものをふたりが見る。

 闇に光の穴が空いている。

 金色の円盤が宙に浮いている。今まで見たどのような光とも異なる、くっきりと浮き出したような、何も照らさずただ自らを闇から峻別するために光る、非現実的な円が、飛び去った太陽の影から姿を現し、地平線のぎりぎりで、宙に浮かんで静止しているのだ。まるで数学の概念から抜け出したような、完璧な円形。その光は濃淡があり、しみがある。はるか遠く、だがおそらくは空に散らばる灯の手前、あちらの世界とこちらの世界の境目を司るような円盤、あれは円盤なのだろうか、それとも、もしかして、この地球と同じような球なのか? ふたりには分からない。だが分からなくても理解できる。かつて地球が天蓋に覆われる前に、ふたりの遠い先祖たちが頭上に見た、月とは、あのことなのだ。

 あれが本当の月だ。

 天高く昇っていった太陽が、花を開いているのに気付く。

 天蓋と同じ色のピンクの花が空中で静かに開いていく。はるか高みに飛び去ったはずなのに、この目ではっきり捉えることができるほど巨大なのだ。天蓋を切り取ったような湾曲した円形の花、その中心にかすかに一つの黒い眼球が、かつて今まで自分が生きていた地球を、そしてそこで自分を見上げている、たった二人の人間を見ている、きっと今度は気付いている。

 これからあの太陽は、光を受けながら、あの空を埋め尽くす灯の一つへ向かっていくのだ。今まで死んだ何万という太陽は、そうしてきたのだ。それがどんなに長い道のりになろうとも、きっと太陽はいつか、こことは別の、どこかの灯にたどり着く。かつて地球に彼らがたどり着いたようにたどり着く、きっとそうなのだ。

 いつの間に月が高度を下げ、地平線に消えている。

 ふたりには見えている。

 月が沈んだ反対側、東の地平線が輝いている。遠くで何かが燃えている。地平線を炎がなめるように、ふちの部分がほんのり色づいている。天蓋のように艶やかな桃色でありながら天蓋とは違う、あれは光の色だ、遠ざかるにつれ藍色に、やがて闇に混じり消えてしまう色。光を発するものがどこにも見えず、ただ地平線だけが遠くの山火事のように、煙もなく、音もなく、ますます強く、光が近づいてくる。地平線の果てから光を司る何かがやってくる。

 来る。

 光が爆発する。

 ふたりを強烈な光が刺し貫く。光が地平線から這い上がってくる。ふたりが今まで見たどんな太陽よりも強く、静かに、まるで生きてるようにほのかに熱を帯びた光が夜を切り裂くように、炎の赤を従えて、あんなに小さい光球が今や全てをなめ尽くし、世界を光で満たして入れ替えようとしている。ふたりは立ち尽くす。ふたりも、何もかも、輝いている。闇が天を覆っているのに、光が溢れているのだ。見渡す限りピンクの大地、大地をうっすらと覆う青いベール、はるか遠くにかすかに見える太陽のつぼみ、目が痛い、涙が出る。粘液から露出した肌を光がちりちりと焼いていくのを感じる。目を向けることもできないほど強烈な光で輝く、今まで見た太陽と何もかもが異なる太陽が、だがあれは確かに太陽だ、手足もない、天蓋もないのに空間に浮かび、しかし、たった一つの太陽が全てを照らし尽くしてしまうなどということがあり得るのだろうか? 光が闇と共にありながら、なおこの広大な世界を照らし尽くすなど?

 考えなければ、とヨハンナは思う。

 眼鏡を取り出す。

 ふたりは照らされている。

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