理想刑

選評

  1. 【冲方丁:0点】 
    ある種の雰囲気小説。デヴィッド・リンチの映画のような不穏さは出ているが、この手の話なら文章にもっと気を使うべき。常識の梯子を外せることが幻想小説の魅力なので、そのためには冒頭で梯子を作っておかなければいけない。入口を変えれば見え方も変えてくると思う。

    【高塚菜月:0点】
    ロマンチックなことがしたいのは伝わるが、文体のわかりにくさに気をとられてしまう。凝った比喩の使い方は難しいことがこちらも勉強になった。

    【大森望:0点】
    万物理論ネタの哲学小説。無理筋に見えた梗概がきちんと小説化されている点は評価できる。ただし、ストーリーやキャラクターでひっぱらない小説は文章の出来が重要で、その高いハードルはクリアしていない。「呼鈴一つで抱かれる幼馴染の肢体のように」など、これ見よがしのフレーズが目立つ。

    【塩澤快浩(前回講師、オブザーバー)】
    梗概からは「2001年宇宙の旅」のような象徴的な空間のなかで悠久の時間経過が語られていくことを想像したが、実際には教授の私小説になってしまっていた。象徴的な舞台装置を真正面から描くと違う話になってしまう。もうすこしシンプルというか、図式的な構成にして描いてほしかった。

    ※点数は講師ひとりあたり4点(計12点)を3つの作品に割り振りました。

梗 概

理想刑

先程まで3時のティータイムで賑わっていた研究所のコモン・ルームには、
G教授と彼に向かい合う黒髪の青年がつけた煙草の煙だけが動いている。

その煙を掻き分けると、テーブルの上にはこぶし大のきらびやかな綾絹が半ダース嵌めこまれた木箱が見える。
「貴方が犯した罪に釣り合う刑罰をご用意致しました。どうかこの中でその罪を真摯に贖って頂きたい」
青年が最も見惚れた純白の一枚を手に取ると、勢い良く空中に放り投げた。

綾絹は部屋全体を覆い尽くしながら彼に覆い被さる。
G教授が目を開けると、そこは純白の絹のタイルがどこまでも敷き詰められた何も無い空間だった。

彼の手には博士論文を書いた時の万年筆と、
あの青年の署名が入った手紙が握らされていた。

その手紙には以下の事が書かれていた。

* あの博士論文で提起された『万物の理論』によって、宇宙の成り立ちが完全に記述されてしまったこと
* そこではどのような『インテリジェント・デザイン』も否定されていること
* 同時にそれは創造主の不在を証明するために周到に仕組まれた人類史上最も罪深い仕事であったこと
* それによって全ての宗教的な営みが決定的に破壊されてしまったこと
* その罪に対する罰として最も重く、そして理想的な刑の選出が最後に行われたこと

G教授はそこまで読むと、冷ややかな笑顔を浮かべながら片手に持った万年筆で自らの首筋を突き刺した。
しかしまぶたが開くと、やはり彼は万年筆と手紙を手にタイルの上に立っていた。

再度彼は手紙を読み進めた。

* G教授ができることは、別紙に列挙された二十数個の基礎物理定数の値の組を絹のタイルの上に与えられた万年筆で書き記すこと
* 書き記された値によって宇宙が一つタイルの上にシミュレートされること
* G教授が開放される唯一の条件は、その宇宙の中でG教授自身が生まれ、黒髪の青年にもう一度あの部屋で出会うことを確認すること
* 試行回数、タイルの数、G教授の命、そして万年筆のインクに限りはないこと

こうしてG教授は、自身が否定した宇宙のファインチューニングをその手で行うことになる。

高名な物理学者の彼にとって、その基礎物理定数の幾つかはある程度の精度までは簡単に思い出すことができた。
また、いくつかの基礎物理定数自体を決定する方程式が彼の理論には存在していた。
試しに一つ足元の絹のタイルに向かってそれらを慎重に記述する。

すると、宇宙開闢のためのバッチプログラムがタイルの上を走る。
そのプログラムが終了すると、足元のタイルは強烈な閃光を放ったが、次の瞬間ただの黒いタイルと変容していた。

彼はすぐさま次のタイルへ、今度は先程とは別の数値を書き記すが今度も結果は先程と同じだった。
しばらく同様の試行を何十回と繰り返すがどれも結果は変わらない。
そして、どうやら一回の試行が終わるまでは次のタイルに数値を記述することができないようだった。

彼が作った宇宙が全て死児となって黒いタイルに刻まれていく。
背後が地平線まで黒く染まるまで、彼は延々と数値を書き記していった。

永遠とも思われる時間の果てにようやく一つの宇宙が晴れ上がりを迎えた。
彼は涙を流して我が子の行く末を見守るが、そこで彼は重大な事実と向き合うことになる。

これまで何回の試行でどれくらいの年月が経ったかは分からない。
しかし、そこから彼のいた宇宙が形成されるまでの時間、
つまり宇宙が出来てからあの黒髪の青年にもう一度あの部屋で出会うまでの時間を、
彼はタイルの前でただ待たなければならなかった。

ここに到ってようやく彼は自身が行った事を心の底から悔いた。
たった二十数個の数値に求められる無限とも思われる小数点以下のチューニングと、
その結果の正否を待つ百数十億年の時間がどれ程奇跡的で、崇高なものであったのかを理解した。

彼にどれ程の時間が与えられ、どれ程その研究が正しくとも、
彼が黒髪の青年と煙草を燻らせたあの部屋に辿り着くためには茫漠たる時の流れが必要だった。

コモン・ルームに白髪の老人がパイプを片手に入ってくる。
黒髪の青年に軽く会釈をすると、弱々しく呟いた。
「彼は戻ってこれますか」
青年は純白の綾絹が被さった椅子を眺め、こう答えた。
「それは私より貴方ご自身に問う方が良いかと思いますがね、E教授。
ただ確かなのは、彼が戻ってこれなかったのならば彼の理論はやはり誤っていたのであり、
もし万が一戻ってこれたのなら、それもやはり彼自身の存在によってその誤りが証明される。
いずれにせよ、我々の行いに不備はありませんよ」

老人は懐かしそうに部屋の中を見渡すと、うつむきながら姿を消した。

文字数:1880

内容に関するアピール

重力、電磁気力、弱い力、強い力の全てを統合した『万物の理論』にもし人類が到達したら。

それを今回の課題、「『変な世界』を設定せよ」の出発点に置きました。
そして終着点として、「知性」というテーマに如何に落とし込むことができるかを絶えず目論みながら、
この『理想刑』という梗概を作りました。

仮にどのような形で我々の宇宙の説明が付くにせよ、
アメリカにおけるID説界隈で現在行われている通り、
その世界では『万物の理論』と宗教的な問題とは切っても切れないものとなっているはずでしょう。

それをSFという形で新たに何かを考えざるを得なくなるような、できるだけショッキングな物語にするために、
表題の刑というスキームを着想し、基軸に据えました。

そしてその刑罰として最も理想的な刑罰とは何かを考えた時、
最もすわりが良かったのが、基礎物理定数のファインチューニングを実際に課すことでした。

その刑の中で、インテリジェント・デザイン、つまり「知性」によるこの宇宙のシステム設計がどのようなもので有り得るのか、
その可能性を少しでも匂わせることができれば、というのがこの物語における私の最も強い願いであった気がします。

文字数:492

理想刑

 


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[1]

 

強風に煽られた枯れ枝が窓の外でゴトリと落ちる。しずしずと濃い青が滲みはじめた夕光で塗り取られたG教授の横顔は少しも揺るがなかった。驚く。それが私の人生から奪われてもうどれくらい経つのか、君には分かるかね。虚空に向かって抗議する彼の目は掴みどころのない凡庸さで曇っていた。

分からないことで充満していたかつての空間は、呼鈴一つで抱かれる幼馴染の肢体のように、ただツルツルと応えてどんな感慨も呼び起こしてはくれない。言葉を尽くして罵ってみたところで、彼女の全てはもうどうしようもなく読んでしまった後なのだ。赤黒い眼球が次のページをめくる。

先程まで3時のティータイムで賑わっていた研究所のコモン・ルームには、しかしどのようなト書きもないようだ。何か複雑な言葉で虚を付くゲームを無軌道に繰り広げていた自称物理屋達のささめきも今となっては無いよりはいい。目線は依然としてその場を泳いでいる。

無いよりはいいもの。それが彼には必要だった。その一つ、手近な象徴として彼は煙草に火を灯す。口角から煙が勢い良く流れる。昔叔父に習った煙の吐き方だ。天井へ発散した靄からゆっくりと目をおろすと、僅かに開けた口元が不意に吊り上げられた。

「私にも一本頂けますか」

クリスタルの灰皿が置かれたテーブルの先に黒髪の青年がゆったりと腰を落ち着かせていた。

「さて、退屈というのは本当に人を惑わすらしい」

G教授は先程胸元にしまった煙草の箱を灰皿の横に滑らせた。

「どうも」

青年は肩から透明な襞を幾本も垂らしている薄衣を押し広げるように腕を伸ばした。体の半分を透過させたまま、気にせずもう半身で火を灯す。

「籠っていると忘れるものなのかもしれませんが、この研究所の警備はちょっとした独裁国家のベースキャンプよりは遥かに気が利いたものなのですよ。こんな手品を使わないとおちおち煙草も吸いに入れません」

「煙草が吸いたいだけなら、いつでもその透明なマントにくるまればいいだろう。まあ、燃えて見つかるのがオチなのだろうがね」

G教授は楽しそうに青年の顔をのぞく。青年も劣らず面白そうに大きな瞳を細めている。

「なにしろ最も名の知れた高等研究所なのですから。取り分け自然科学、数学といった破廉恥な宗教にとっては総本山と言っていい」

「否定はできんね。つい先程まで、私の理論を分かりたいと、わけのわからない経を読む大勢の連中で溢れていたよ。まったく理解とは程遠い。聞いてくれるかね。これが毎日なのだ。私の中では既に終わった話なのに、グチグチとよくまあ飽きないものだ」

灰を一塊落とすと、青年は窓の外を眺めた。

「終わった話、ですか。G教授、それは誤りだ。終わらせてしまったのですよ、あなたがね。今日私はそのためによこされました。ただ漫然と煙草を飲んでいられればなかなか平和な話だったのですがね。あなたがひどく杜撰なものだから、こちらの方でしっかりとした幕引きをご用意したのですよ。それはそれは回りくどく、遠大な奴をね」

灰皿の横にこぶし大のきらびやかな綾絹が半ダース嵌めこまれた木箱が見える。

「忘れていたが、そろそろ君の事を少し話してもらえるとありがたいね。歳を重ねると色々なものに慣れてしまうものだよ。終わらせた、一体何をかね。幕引き、何のだ。人生ということであればご随意にというところだ。私はやるべきことをやった人間だ。君に殺されたところでそれは何も変わらない。そうでなければ、もっと面白いものを見せてもらいたいものだよ。そう慮ってはもらえないのかね」

わざとらしい扇情を無為に捨て去るかのように、青年は黙って木箱の蓋を手前に引き抜く。

「はて、どれを使ったものか。6という数字に何を連想されますか、G教授」

「数え方は」

「次元。そう言ってしまうと、いささかやさし過ぎるでしょうか」

青年は畳み込まれた綾絹を一つ一つ取り出しては、彼の眼前に持ち上げて見せた。青年の瞳と綾絹を結ぶ先には、G教授の僅かだが苛立ちに駆られた眉間が待ち構える。

「カラビ・ヤウ多様体だ。私の頭の中ではその布切れよりずっと美しい織物だよ。しかし、その美しさを君に語る事はできないのだ。なにせ本日の読経の時間はもう終わったのだからね。これ以上私をいじめないでくれないか」

それは、と破裂したような悲鳴を上げると、腹から込み上げる笑いを堪えるのがやっとという様子で、「できませんよ。できるわけがない。これからあなたを待ち受けているものに対して、ほんの少しでも気を回して頂ければと思います。既に申し上げましたが、それはあなたにとって徹底的に苛烈な責苦となるでしょう」と青年は捲し立てた。

「君は何者だ。答えろ」

「随分と率直にお聞きになりましたね。Mと申します。この際正体を明かすことは不要かと思っていましたが、存外ご興味がおありのようで、ご紹介をさせて頂く他はありませんね」彼の目線は依然として綾絹の奥にあった。

「M。Mか。少しずつ分かってきたよ。君はΧ教徒かね」

「今となっては古風な名前になりました。四半世紀も前であれば、この大陸で石を投げれば本当に当たりそうなくらいありふれた名前だったのに。それが今や改名を促す法律までできる始末です。名乗ることすら相手を強張らせてしまう。そういう名前に、あなたが変えたのですよ」

先程までとは異なる語気で青年はG教授を責め立てた。

「私は何も終わらせてなどはいないし、何も変えてはいない。君が何について私を非難したいのかは分からないが、ひょっとするとそれはなるべくしてなったものではないのかね。君達は単に端境期の文化に属していた、それだけではないのかね」

G教授はようやく彼の意図を理解した。その表情は地に落ちた枯枝のように暗く重たいものに戻っていた。

「それであなたはご自身が新しい時代を啓いたと、そう仰りたいわけですか」

「いや、私はどこにでもいる一介のつまらない物理学者に過ぎないよ。それこそ何か、君達が戴く存在のような扱いはやめてくれたまえ。私と同じような人種がこれまで延々倒し続けてきたドミノの次の順番がたまたま私だった、それだけなのだ、本当に。なんならそれが君だったという世界も十分あり得た、そういう類のあやふやな話。それが理解できないのがおそらく君達と私との最大の齟齬かもしれないな。こういう想像は生来苦手にできているのかね、君達のような人間は。ただしどこまでいってもその齟齬をどうしても埋めることができそうにないのは、この私が嘘偽り無しに、徹頭徹尾君達とは関係がないからなのだろうな。分かっているとは思うが」

彼等の部屋は今や濃紺の暗がりにほとんどが飲みこまれていた。青年はしかし、底なしの虚無へと落ち窪んだ一つの顔が、自身の眼前でぽっかりとこちらを伺っているのを感じ取ることができた。それはこれからも間違いなく全てを飲み込んで当たり前の様にそこにあり続けるのだろう。青年は既に憤ることができなかった。ただ、全身を通う恐れと折半された使命感によって突き動かされていた。Mは意を決したように静かに立ち上がる。

「どんな生き面を下げてそのような言葉を吐くのだ。我々への悪意を微塵も隠そうとしない。これまであなたに抱いたどのような懸念を思い返してみてもなお、それはとてつもなく楽観的で、うぶだったと、そう直感できる。我々はあなたをこのままにしておくことはできない。G教授、あなたが犯した罪に釣り合う刑罰をご用意致しました。どうかこの中でその罪を真摯に贖って頂きたい」

青年が最も見惚れた純白の一枚を手に取ると、勢い良く空中に放り投げた。

「あなたのような者にはおそらくこの純白の布がお似合いだ。どこまでいっても白く平坦な世界でそのどす黒い虚妄をしっかりと見定め、自戒されることを祈ります」

綾絹は部屋全体に広がりながら彼に向かって覆い被さる。

再びG教授が目を開くと、そこは純白の絹のタイルがどこまでも敷き詰められた何も無い空間だった。

 

[2]

 

私はどうなったのだろうか。一辺が彼の肩幅程の正方格子で区分けされた白絹の地面が地平線まで続く。一歩前へ進む。新雪のような弾力が足元にまとわり付いた。足元に目を落とすと、両腕の先に何かが見えた。思い出したように両手を持ち上げる。

右手には万年筆、左手には手紙が握らされていた。捨てたはずだ。頬の深いしわが何本か脈を打った。その律動がその手へと伝わったのか、あるいは手から伝わったのかは分からない。しかし、彼の半身は自分のものではないような麻痺に襲われていた。

遠い記憶がよみがえる。彼は雨を弾く池のほとりにちょうど今と同じように佇んでいた。右手にはやはり万年筆を持っている。しかし左手に持っていたのは、書き上げたばかりの論文だった。

あれは私の博士論文だ、忘れるものか。当時の落胆が胸を染める。あの時彼を支配していたものは、人類が長い間憧れ続けた刀山の頂きを知った満足感などでは決してなく、回帰不能な蒙への憧憬だった。それは先程までMという青年と過ごしたあの部屋に似た暗がりであり、どこまでも整然として白々しいこの空間とは似ても似つかぬものだった。

最も分かりたいことが分かってしまった。それを記した紙と、記すために取った万年筆。それらを握って呆然とただ林の中をさまよった後、どちらを捨てるかはあの池のほとりで決めた。

この先何かを書くことはもうあるまい。成果と手段、より重たい方から彼は逃れた。両方から逃れなかったのは、どちらかを残さなければ、それこそ逃げ場が無くなるような気がしたからだ。雨が際限無く作る波紋の一つに紛れるように、僅かに手の平を返して万年筆を池へと放つ。一柱のしぶきが上がった。眼下で黒い煙が水の中でうっすらと広がっていく。そのまま煙が池を全て飲み込む様を想いながら、彼は踵を返した。

それがこうしてまたあの手に戻ってくる。その耐え難い感触に犯されながら、彼は右手に力を込めようとせずにはいられなかった。

周到に用意された何かがこれから私に必ず起こる。彼は半身の強張りに依然として囚われながらも、軽妙にすり替えられたものの方を眺める。手紙の裏にはあの青年の名前が書かれていた。その文字に歯を立てると一息に封を破った。中にあった一葉の紙を引き延ばし、慎重に始めの一字を探す。

 

 

親愛なるG教授

 

親愛なる。なんとも奇妙な響きだ。こう思って頂きさえすれば、まずはあなたが置かれているその状況と私の今の心持ちの間に適当な釣り合いが取れるのかもしれませんね。

何故ならあなたに何かを伝えるのにどんな挨拶を加えることも今の私には息苦しいのです。できるならば、あなたが奪い、壊したものの対価として適当な額を次の行にもすぐさま提示させて頂いて、すぐさまこの筆を折りたいのです。

しかし、それが簡単にはいかない。それ程伝えなければいけない事が多いのですから。あの若きウェルテルよろしく、どうにも迂遠な手紙なのです。

そう困り果てていたところに、一筋の光明が差し込みました。今私の目の前には歯車でできた徴税人の玩具があるのですが、これが実に素朴な動きをするのです。

奪う。隠す。咎める。そして、払う。

これら4つの動きを延々と繰り返すように出来ています。

そして思い付きのようで大変恐縮なのですが、私はこれからこの機械の様な仕方で伝えたいと思います。そこには少しも奇妙な事はありませんから。何より簡潔で筋が通っている。よろしいですね。

 

――奪う

※G教授の博士論文で提起された『万物の理論』によって、宇宙の成り立ちが完全に記述されてしまったこと

※そこではどのような『インテリジェント・デザイン』も否定されていること

 

――隠す

※同時にそれは創造主の不在を証明するために周到に仕組まれた人類史上最も罪深い仕事であったこと

※それによって全ての宗教的な営みが決定的に破壊されてしまったこと

 

――咎める

※その罪に対する罰として最も重く、そして理想的な刑の選出が最後に行われたこと

 

 

G教授はそこまで読むと、冷ややかな笑顔を浮かべながら、ぎりぎりまで力を込めた万年筆で自らの首筋を突き刺した。複雑なバランスで保たれていた四肢の重さが一気に解き放たれ、彼は白絹のタイルへと倒れ込んだ。首からはふつりふつりと赤暗いものが地面に染み出していった。その光景を穏やかに見守る彼の目は次第に生気を失っていった。

 

[3]

 

まぶたが開いた。しかし、誰の。

彼は殺したはずの自身に問いかけた。これは誰のどういう話なのだ。眠りから覚めたような朦朧とした意識などではなく、透き通った思考が瞬時に走る。確かに一度終わったはずの生を記憶に携えながら、全く断絶した別個の生が始まったような窮屈さを覚えた。

その記憶を逆から辿れば、間違いなく彼は自身で万年筆を首に突き立てたのであり、Mという男の手紙で宗教的な断罪を受けたのであり、あの研究所で煙草を燻らせていた。そして、『万物の理論』。即ちこの世のありとあらゆる物理法則を束ねてみせた論文を、彼はたしかに書いていた。

さらに、変わらず携えているのは記憶だけではない。この両手に持たされたもの、それも最初にここで目が覚めた時のままだ。彼はすぐさま巻き戻してみせた記憶の終端に飛ぶ。

私は手紙を読んできた。続きを読まなければ。最後の段落をなぞる。

 

 

――払う

※G教授ができることは、別紙に列挙された二十数個の基礎物理定数の値の組を絹のタイルの上に与えられた万年筆で書き記すこと

※書き記された値によって宇宙が一つタイルの上にシミュレートされること

※G教授が開放される唯一の条件は、その宇宙の中でG教授自身が生まれ、もう一度あの部屋で黒髪の青年に出会うことを確認すること

※試行回数、タイルの数、G教授の命、そして万年筆のインクに限りはないこと

 

以上。

 

あなたの誠の徴税人より

 

 

馬鹿げている。彼は怒りを露わにした。所在無さ気にその場を歩きまわる。四方を見渡しても、そこにはいつ果てるともしれないタイルが並ぶだけだった。

青年が広げた白い布、あれの中に私は閉じ込められているのか。万年筆と手紙を投げ捨てると、白絹のタイルを力いっぱい掴み上げた。しかし、どれだけ力を込めても破けそうにない。

とっさに脇にあった万年筆の蓋を開け、鋭利な先端を布に突き刺した。異常な弾力を持ってタイルは応え、どこまでも吸い付いて、やはり引き裂かれることはなさそうだった。力尽きて倒れ込むと、あの青年への呪詛を獣のように喚き散らした。

何故このようなことができる。私に何の恨みがあるのだ。何も知らないペテン師の小僧が。そう呟くが、記憶の中で青年が見せた憎しみはこのような狂気を起こすに十分な大きさを孕んでいた。

どんな生き面を下げて。どす黒い虚妄。徹底的に苛烈な責苦となるでしょう。青年の言葉が無意識に反復される。

しかし、彼にとって青年の言葉は決して新しいものではなかった。むしろあの論文の内容がメディアに大きく取り上げられてから世界中の宗教家から送りつけられた非難の嵐に比べれば、それはまだとても控え目なものだった。

当時の彼はどのような科学的発見にも付いて回るあらゆる無理解、こじつけ、戸惑い、怒り、虚飾、慰め、あるいはそれらを全て集めたような物語に対して一様に親しみ深い嘲笑を向けたのだった。したがって、一つ一つを覚えているわけにはいかなかったが、彼へ送り付けられた無邪気な憎しみの中には青年が向けたものよりずっと執念深く、遥かに子供じみたものがいくつも踊っていたように思われた。

いずれにせよ、その中でも私は平気にやってこれたのだ。何故、今になってこのような仕打ちを受けなければならない。改めて彼は自身に問う。私の罪とはなんだ。

全ての宗教的な営みが決定的に破壊されてしまったこと。手紙の一節が響いた。確かにそのような事態を引き起こしたのは紛れも無い事実だった。

物事には必ずその起こりが必要だ。特にそれを理解する時には、たとえ捏造してでも必要になる。そうでなければ、何事もその後に積み上がってはいかないし、どこまでいっても安心することはできない。いつか誰かに簡単にひっくり返される。その事に絶えず怯え続けなければならない。

もしかすると、私と彼等の差異、あるいは科学と宗教の差異はこの怯えとどう対峙するかの違いでしかないのかもしれない。彼等はその怯えを忌避し、私はその怯えに快楽を覚える。

大きくひっくり返されたり、それとは逆に二度とひっくり返せなくなる事件そのものに驚きと喜びを見出してしまう。そういう倒錯の有る無しなのだ。しかし、何故それが分からないのだ。どうして、喜べないのだ。そう感じること自体が罪だとでもいうのか。

ここに到ってようやく、彼は自身が今なすべきことに思い当たった。どこにも彼等が言うような罪など無い。そして無いのだから、これは罰などにはなりえない。

私はここから出なければならない。そして、あの青年にこの事を伝えなくてはならない。

 

[4]

 

彼は手紙にあった通り、まず足元のタイルに万年筆で何かを書こうと試みる。その瞬間、思い描いた通りの基礎物理定数の名前、数値、単位を書くための領域が真っ白だったタイルの上にぼんやりと浮かび上がる。

 

――真空中の光速度:299792458:m/s

 

最も基本的で不変な定数だ。間違うはずがない。定義値であるため、誤差を考える必要もない。なおも彼は真空の透磁率、真空の誘電率と立て続けに定数を書き記した。そしていよいよ不確かさを含むその他の定数の記述に取り掛かろうとして手が止まる。

ここから先は真値というものは存在しない。どこまでいっても、どこまでも精度を上げられる。逆に言えばここからの記述が彼のいた宇宙を再現するためのチューニング、一般に宇宙のファインチューニングと呼ばれるべきものとなる。しかし、全くゼロからのチューニングではそもそもない。既に出来上がった宇宙の既知のプロパティを記述するだけのはずだ。そして彼には自身が生み出した『万物の理論』という完璧な助力がある。それは宇宙の成り立ちを説明すると共に、そこにある様々な力や仕組み、そしてこれから書こうとしている基礎物理定数をも導くことができる一連の方程式を備えていた。

いわば既に解明された宇宙の図面を下敷きに、もう一度その上からなぞるだけのはずだ。しかも手紙にあった通り試行回数は無限であり、先程経験した通り私の命におそらく限りはないのだろう。そう彼はこの皮肉な状況を諦めたように笑う。なぜなら青年の手紙でなじられたように、彼の理論にはこの宇宙を作ったどのような創造主の存在も否定されている。

そこには頑健な数理的なモデルによって駆動され、誰の意志も介さず、ただ生まれては消えていくことを今も繰り返している自動生成系があるだけなのだ。それを脇に追いやることのできるどのような超越論的デザイナーもそのモデルには要請されえないし、それが入る僅かな隙間も存在しない。

そうであれば、この私は一体何者なのだ。ひどく愉快な気分に襲われる。これから彼は自身が否定した宇宙のファインチューニングをその手で行うことになる。それこそ何かが根本からひっくり返されているのではないか。この特別な状況を押し付けられて湧き上がる思いは、あの論文を書き上がる前の純粋に孤独な学徒としての興奮だった。

これが理想的な刑だと。まったく笑わせる。言われるまでもなく、理想的だ。今二度と取り戻せないと思っていた私の理想を再びこの手で掴んだのだ。誰に邪魔をさせるものか。もう一度懐かしのあの学び舎へ辿り着くことは決して不可能ではない。全ては分かってしまったことなのだから。

 

――万有引力定数

――プランク定数

――アボガドロ定数

 

不世出の物理学者にとって、その基礎物理定数の幾つかはある程度の精度までは簡単に思い出すことができた。また不確かな基礎物理定数に対しては彼の方程式を駆使してそれを補う。記憶に残る数値と式によって彼は残りの定数を慎重に導き出し、記述する。いつしか記述した定数の数は20を越えていた。

あと数個のはずだ。

 

――微細構造定数

――ボルツマン定数

 

そして締め括りに彼の名前を冠した数を書き記す。まるで自身のもう一つの名前のような美しい数字の羅列。何かに祈ることがあるとするならば、それはこの数を彼に突き立てた先人達から受け継いだ知の刀刃に他ならない。営々と研ぎ澄まされてきたその一振りの軌跡は、まさに今指先であの最も身近な切っ先となって結実し、彼を鼓舞する。

さあ、動け。

次の瞬間あの柔らかい白絹のタイルは急激に硬化した。彼が記述した文字列は段々とその境界を曖昧にさせながら、タイルにたゆたう斑模様となった。まるで磨き上げられた大理石のような光沢を伴った固い石の上をバッチプログラムのログが上から下へ高速に走り去っていく。

とても彼の目では追い切れない程の速さで止めどなく流れるメッセージが突如ふっと止まった。

一文字ずつラテン語の文字が浮かび上がる。それはある人物の部屋のドアに刻まれていた一節の詩だった。

E先生。呼んだのは彼が唯一師事し、心を寄せた人物だった。それが引き金になったかのように、タイルに再度大きな変化が起きた。白と黒の模様の中から虹色に輝く光が溢れ出し、不気味な雲のように揺れ動く。小さな光の破片がそれぞれに複雑な区画を形作りながら、全体がまるで銀河を砕いてできたオパールの如き輝きを放っていた。平面に折り畳まれた奇しい光は一転急激に収束し、突如全体が強烈な閃光を放ったと思うと、すぐさま光を失い、ただのくすんだ黒いタイルへと変容していた。

彼はその場に跪き、たった今流れ去った出来事に心を乱されていた。取り分けEという人物の面影に強烈な寂しさが込み上げる。そして自身が置かれたこの圧倒的な孤独に気付く。Eと共によく歩いた林の風景に全ての思考が吸い込まれていく。しかし彼の体はそれを許さなかった。曲がった背中にシャツが汗で張り付くほど暑苦しいはずなのに、真冬の夜風に包まれたような肌寒さに全身の震えが止まらなかった。頭ではEの笑顔を再生するが、涙と嗚咽が止まらなかった。固く黒ずんだタイルの上を何度も殴打し、正気を取り戻そうとするが、懐かしい記憶がよみがえる程に恐怖は濃くなっていった。

彼はすぐさま次のタイルへ、今度は先程とは別の数値を書き殴るが今度も結果は先程と変わらない。もう一度、もう一度と続け様に乱雑な文字で書いていく。試行の途中で次のタイルに移ろうとするが、どうやらプログラムが終了するまで次のタイルに数値を記述することはできないようだった。

あの詩さえ見ていれば私は孤独ではない。しかし取り憑かれたように白絹に空の線を走らせていた。最早先程までの高名な物理学者の姿はそこにはなかった。

彼が作った宇宙が全て死児となって黒いタイルに刻まれていく。背後が地平線まで黒く染まるまで、彼は延々と数値を書き記していった。

止める者は誰もいない。しかし、止まる方法もまた分からなかった。

 

[5]

 

「入りたまえ。ほら、はやくしなさい」

暖色のランプシェードが伸びた先には、嵐の中を駆けつけたように泥で汚れた足先だけがのぞいていた。

「いえ、お部屋を汚してしまうのではと思いまして。私はここで構いません」

初老の男が鼻を鳴らす。机に向かって何かを書く音が止んだ。彼は振り返りながら老眼鏡をずらすと、半開きのドアに向かってこう語り掛ける。

「ドイツは大変だったかね」

「ええ」

「一人で来たのか」

「はい。妻は来週の便で。上手く出国できていればですが」

外にいる男は彼よりずっと若々しい声をしていたが、僅かな抑揚の中には深い怯えが横たわっていた。初老の男は口を開くのを諦め、しばらく物音を立てずにいた。

決して悪く無い静寂。彼もそう思ってくれているのだろうか。そう思いながらドアの奥を眺める。

「それでは、先生。今日のところは、私はこれで」

初老の男はいささか裏切られたように感じたが、彼の足は依然としてこちらを向いて何かを待っているようだった。

「君はここへ来てからずっとうなだれているんだろう」

返事はなかった。

「顔を上げてみたまえ」

彼は椅子から立ち上がり、ドアのすぐ前まで歩み寄った。

「見えないかね。ちょうどこの裏、君の頭の上にずっとあったんだよ」目の前のドアをコツリとノックする。

「これは、ラテン語ですか。薄暗くて、よく見えません」

初老の男は始めて笑みをこぼした。

「明日、朝早く市場に行こう。朝早くだ。露天に魚や果物が並んだばかり、そういう空気を吸いに行こう。その時これの意味を教えてあげるとしよう」今度はコツリ、コツリと二度軽やかにノックする。

「分かりました」泥だらけの足が立ち去ろうとする。

「G君」

「はい」

初老の男はドアを静かに開き、目に涙を溜めた男を抱きかかえた。

「いいかね。これからまた始まるんだ。決して、諦めてはいけないよ」

部屋の明かりが二人を照らした。

 

[6]

 

彼は夢を見ていた。死ぬことが許さないこの空間でできる些細な安息。そこで求めたのは恩師の温もりだった。ドアを挟んでしたあの日の会話を忘れたことは一度たりともなかった。翌日に二人で行った朝焼けに燃える市場の空気は、生きるための意味で溢れていた。それは戦火で荒みきった彼の故郷にはとうに失われていたものだった。そしてまどろむ意識のほとりで彼は自分に語り掛ける声を聞く。

 

――おお盟邦の友よ、ヘリオスの牛の群れを数えたまえ

 

何度となくタイルに刻まれた詩、そしてあの朝恩師が詠った詩。その二つの情景の途方も無い隔たりにやはり彼の胸は千々に引き裂かれそうになる。しかし何故かその声が聞こえる方へ彼は進まなければならないような気がした。

どちらが本当の場所なのか。彼は踏み出せずにいた。ただ一心に思うのは、もう一度あの人に会いたいという願いだった。それだけが紛れも無い真実だった。

黒いタイルに囲まれるようにして彼は目を覚ました。やっとの思いで目を開けると、一片の柔らかい白絹の感触が彼の頬を撫でた。頬を伝う涙を拭うように添い遂げられていた白いタイルはしかし、四方見渡す限りその一枚だけになっていた。彼は顔を上げる。そしてあの詩を今度は自身の声で詠う。

おお盟邦の友よ、ヘリオスの牛の群れを数えたまえ。彼の中に既に迷いはなかった。何かが乗り移ったかのように無心で最後の一片に向かって書き記す。

これまで通りあのプログラムが走るが、あの詩はどこまで待ってもまるで幻であったかのように現れなかった。反対にタイルの上を走るログが全て流れ去ると、記述した基礎物理定数が再び浮かび上がる。タイルの底で全てのコンパイルが完了した旨のメッセージが明滅していた。そして宇宙開闢を実行するクラスのインスタンスがタイルのメモリ上に展開される。彼が書いた宇宙はついに晴れ上がりを迎えた。

一点に凝縮された恐るべき熱量が唐突に破けたかと思うと、あらゆるものを飲み込みながら同心円上に膨張していく。光速を越えて辺りが広がっていく。何も無い暗がりに思えた内部では4つの基本的な力と、物質を構成するための微細な部品が分化、生成されていった。そしてある時、内部で極小の花火が其処此処で煌めき果てる。広大な空間に無限の砂粒が溶けていく。

彼はそれら一つ一つの砂粒に分解されながら、我が子の行く末を静かに見守った。彼が思い描いた通りに宇宙は進化していく。一つ一つのイベントを経るごとに彼は砂粒の涙を流す。誰かを見守ることを始めて理解し、ようやくあの扉の向こう、恩師が暖かい眼差しで待ち受けていたはずの世界に足を踏み入れることができたようだった。鳴ることのない時鐘にあやされながら、彼は漂い、そして深い呼吸を繰り返した。

 

[7]

 

強風に煽られた枯れ枝が窓の外でゴトリと落ちる。黒髪の青年が待つコモン・ルームに白髪の老人がパイプを片手に入ってくる。老人と青年の視線が交差すると、お互いに軽い会釈を交わした。老人はそのまま月明かりに照らされた窓辺に行くと、外の様子を伺いながら、こう呟いた。

「彼は戻ってこれるとお思いか」

青年は純白の綾絹が被さった目の前の椅子を眺め、こう応じた。

「それは私よりあなたご自身に問う方が良いかと思いますがね、E教授。ただ確かなのは、彼が戻ってこれなかったのならば彼の理論はやはり誤っていたのであり、もし万が一戻ってこれたのなら、それもやはり彼自身の存在によってその誤りが証明される。いずれにせよ、我々の行いに不備はありませんよ」

「それにしても」と老人は抗議するかのように僅かに語気を強める。

「彼はどれ程の時間を過ごすことになるのだろうな。彼は何度、あなた方のために世界を作らされるのか。二十数個の数値に求められる無限とも思える小数点以下のチューニングと、その結果の正否を待つ百数十億年の時間がどれ程奇跡的で、崇高なものなのか。それは私にも皆目検討が付かないよ」

老人は窓を少し開いて夜風を浴びる。

「仕方のないことなのです。壊してしまったのは彼だ。元に戻す責任がある。それに彼の顔をあなたは見たことがありますか。あのような悪魔的な快楽主義者の顔を私は見たことがない。彼が犯した罪を洗い流すためには茫漠たる時の流れが必要なのですよ」

夜空にくっきりと走る天の川の亀裂を老人は眺めていた。

「あなた方に彼の何が分かる。どうして分かった風な口がきけるのだ。彼に罪などあるわけがなかろう。あるとすれば、それは我々の罪だ。彼を罪人に仕立て上げた我々の方こそ何かを贖うべきではないのかね」

青年の顔にはまるで感情がなかった。感情だけではなく、どのような思考もその顔からは読み取れない。老人は張り上げた言葉が無残に空転する様を見届けると青年の顔を見下ろしながら歩み去って行き、灰色の扉に手を掛ける。

「おお盟邦の友よ、ヘリオスの牛の群れを数えたまえ」

青年が背後から呟く。

「でしたか。アルキメデスが友人エラトステネスに送ったという、牛の頭数を数える難問が秘められた定型詩の一節。調べたところ、この詩の中で提示された全ての条件を満たす頭数の最小解は1300年程前に既に見つかっているらしいですね。あなたが書いたプログラムにあったものだという報告を受けています。あれにはどんな意味があるのですか」

老人は振り返らずに応えた。

「詩は詩だよ。他にどんな意味があると、思ったのかね」

 

[8]

 

老人が研究所の裏手を一人俯きながら暗い森へと向かう。所々舗装が剥げた土の窪みに幾度も足を取られそうになる。その度に深い木立の先に何者かの気配を求めるように、束の間立ち止まる。頭上で木々が風に揺れている以外は目立った物音も無い。

「なあG君、そこにいるのだろう。はやくこちらへおいで。君はいつも私から隠れてばかりだなあ」

老人は誰もいないはずの小道を歩きながら何者かに向かって語り掛ける。

「長いこと君とのチェスの勝負が開催されないままだよ。さあ、今度は何を賭けようか。私の部屋にあるものはあらかた君にやってしまった。私のペン立てにあった万年筆、あれはそこそこの代物だったのに。手に入れた時の君の顔はたいそう腹立たしいものだったなあ。私達の故郷から代えの物を取り寄せるまで、私はずっと書き味の落ちるやつで我慢しなければならなくなって、しばらく何かを書くのが億劫な日々だった。それから、例のカラビ・ヤウ多様体の模型。あれも数学科の若いのに無理を言って作ってもらったばかりなのに、君ときたら残酷にもそれを賭けろと退かなかった。あの金曜日の夜、一晩掛かりで私達は長い長い一局を戦い抜いたのを覚えているか。忘れたとは言わせないぞ。深夜4時くらい、もうすぐ日の出という時に私が睡魔に襲われたのを見るや、君はルークを一マスずらしただろう。私が気付いていないとでも思ったのかね。浅はかな男だ。私があまりに汚い君を哀れに思って、わざと負けてやったとも知らず、実にいい気なものだよ。そう、君はそういう下らない男なんだ」

石や土で傷付いた革靴に降り始めた雨が染み込んでいく。老人は構わず先を急ぐ。

「G君そこにいるんだろう。なあ、もうすぐ夜が明ける。いつものように市場で待っていてくれたまえ。私も今からすぐに迎えに行くよ。遅れてしまって本当にすまないね。でももうすぐさ。あの懐かしくて騒がしい場所。君はきっとそこにいてくれるだろうね」

月は厚い雲に覆われ、いつしか老人の姿は森の奥へと消えてなくなった。

文字数:13185

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