ミンフンのみず

梗 概

ミンフンのみず

 人は死んでも意識が失われることはなくて、自由に思考したりものを言ったりすることができるし、肉体は生前と変わらず年を重ねるごとに老いていく。死者は生者の日常と隣り合う場所に存在している。死者が生者と異なるのは、身体が土塊(つちくれ)でできていることだ。そのために死者には食事が必要ないし排泄もしない。睡眠をとる必要もない。
 エロス(生)とタナトス(死)の欲望は人が持つ二大欲求で、これらの欲求を満たすための二つの機能もまた人に備わっている。エロスのそれは〈セックス〉で、タナトスのそれは〈ミンフン〉だ。ミンフンは生者/死者間の交接で、ミンフンへの欲望はセックスへの欲望よりももっと強い。ただし実際に行為に及ぶことは極めて危険だといわれ、町が分断された今ではそのやり方すらもすっかり忘れ去られてしまった。

 それでも、死者とのほんの些細な接触が、忘却されたはずのミンフンへの願望をいとも簡単に呼び覚ます。ワンダの場合もそうだった。ミナミがワンダを問い詰める。「それで? したの?」「してない」「でもしたいの?」「……」「女の子?」「うん」「やっぱ女の子の方がいいんだ?」「や、たまたまだよたぶん」「ねえ。私達もう付き合い初めて十年くらい経つんじゃん? 飽きたの?」「そうじゃないけど」「試してみたいんだ? その子と」「そうじゃないって。俺はその子の姿を遠目に見ただけだし、彼女は本当に一瞬だけ姿を見せて、そしてすぐに消えてしまったんだ」「だから?」「毒に近いかも。昔生牡蠣を食べた時、ほんの一口だけだったのに翌日から猛烈な苦しみに襲われた。今の感じはその時に近い……いやどうだろう、はっきり言ってこの気持ちは言葉じゃ言い表せないよ。とにかく身体の芯の部分が言いようもなくかっと熱くて気が狂いそうなほど苦しいんだ」「ワンダ、確かに相当参ってるんだと思うよ?」「え?」「ほんとにすごい威力だよそれ。ワンダ、元々ちょっと鈍いところあったと思うけど、それでも今みたく私のことを傷つける言葉をまっすぐ口に出したことってこれまでほとんどなかったもん」「ごめん」。数日後ワンダは死者の少女に会いに行く。ミナミもついてくる。ミンフンへの欲望に性別は関係ないから、ミナミも死者の少女に情欲をかきたてられ抜け出せなくなってしまう危険性がある。だからワンダはミナミを止めたが、ミナミは頑なで聞こうとはしない。

 あらゆる町の地下には円形にくりぬいて造られた多重構造の〈累楼(るいろう)〉が隠蔽されている。累楼は生者と死者が安易に接触できぬよう死者を地下へ隔離するための施設だ。ワンダたち生きているものが住む地上は分かたれたレイヤーの最上層に過ぎず、幾層にも重なる町の地下階層は全て死者の世界だ。累楼は死者が住まう共同住居で、独自のルールに基づいて運営されている。死の一年目、死者は地下一階に住む。二年目には地下二階に降りる。以降、三年目は地下三階へ、四年目は地下四階へと、段階的に深いところに降りていく。
 ワンダたちは地下八階で少女と面会する。つまり彼女は八年前の死者ということだ。そして少女は推定十歳にも満たないように見えた。
 ワンダは激しい昂ぶりが自分を突き動かすのを感じた。ミナミもまた同様だった。一歩少女に近づくたびに二人は理性を失い、凄まじい劣情に支配されていった。そばに近寄るなりワンダは少女を抱きしめた。そうして即座に絶頂に達した。熱い液体が自身の内側からこみ上げ、放出されるのがわかった。獣じみた咆哮とともに解き放たれたワンダとミナミ二人の体液が少女の身体を汚した。少女は呟いた。「お母さん」。少女は八年前に生まれることができなかったワンダとミナミの子供だった。
 このときワンダたちが放出した体液は、死者との交接を経験した者たちの間で密かに「涙」という名前で呼ばれるものだ。涙は渇いた土でできた娘の身体を潤すことで束の間の命を与えた。けれども最後には涸れ果ててしまう。身体は水分をすっかり失って土塊へと変わり、そうしてワンダたちは死者になった。一方で、初めて安らいだ表情を浮かべた少女のその土の身体は、二人ぶんの涙の洪水でふやけ、形を崩し、流れて消えた。ワンダとミナミは互いに寄り添い合うようにして地下一階へ向かう。生者でも死者でもなくなってしまった彼らの娘がどこへゆくのか、それは誰も知らない。

文字数:1792

内容に関するアピール

■現実の「死」の概念が持つ絶対性を転覆させる試み
 日本には死者の婚姻を描いた「ムカサリ絵馬」がありますが、この発想の根底にあるのは「死後も子どもは現世と同じように成長していくはずだ」という日本人特有の死生観です。本作ではこの考えを踏まえつつ、死者を「生者と同じ空間、同じ時間の中に存在する隣人」として設定しました。これによってまず現実の死の概念が持つ——例えば「死後の世界」の空想をかきたてるような類いの——神秘性を取り除き、死の絶対性の失効を図りました。
 加えて物語終盤では、「水子の死」を多様な死のバリエーションの中でとりわけ特別なものとして差別化することを提案しました。この着想の足がかりとしては、キリスト教において語られ、ダンテ『神曲』第一篇にも描かれている「辺獄=リンボ」を参照しています。リンボは地獄とも天国とも異なる曖昧な魂たちの死後の世界で、洗礼の済んでいない子どもがここに送られるといいます。生まれることもなく亡くなってしまった水子が辿り着くとすれば、そんな曖昧な場所ではないかと考えました。本作では、水子は生者の世界にも死者の世界にも留まることができず、最後は消え失せてしまいます。どちらの世界にも属さない魂はどこへ向かうのか、あるいはその先にあるのは完全な「無」なのか、それは人の肉体を手放さない限りわからない——絶対性を失効した死の概念の代替となる新たなブラックボックス、いうなれば「現実の死よりも不明瞭・不可解な闇の深淵」を作りだすことで読み手の眩暈を誘いたい——結末部はそのような考えに基づいて決めました。

 

■設定
◇ミンフン
 ミンフン(minghun : 中国語で「冥婚」の意)は生者と死者の交接を表す語。生者にとって死者は強烈な欲望の対象であり、死者にとっての生者もまた同様である。生者は土塊でできた死者を前にすると欲情して水をやりたくなる。死者は生者の水で自らの土塊の身体を潤したくなる。
 交接時に絶頂に達した生者の眼球から流れ出る体液は「涙」と呼ばれる。涙を流すことで生者は快楽を得る。また死者は生者の涙によって渇いた土塊の身体に水分を取り込むことで、大きな充足感と、再び渇いてしまうまでの束の間の命を手に入れる。
 なお行為時には生者は大きなリスクを背負うことになる。快楽に我を忘れて行為を長く続けると、涙が枯渇し全身の水分が失われて、生者もまた土塊の身体を持つ死者へと変わり果てることになる。

◇累楼(るいろう)
 累楼は地中を円形にくりぬいて造られた多重構造の版築建築物(※土を建材に用いて強く突き固める方法で構築する工法を「版築」と呼ぶ)で、地上にある生者たちの町の地下に隠された死者たちの共同住居。その運営は独自のルールに基づいてなされている。まず、死を迎えた者は地上の町から地下の累楼へと降りることになる。そして死の一年目は地下一階に住む。二年目は地下二階に住む。三年目は地下三階に、四年目は地下四階に……以降、年毎にさらなる深い階層へと降りていく。
 累楼の歴史は長く、現在ではあらゆる町がこの方式を採用している。町の規模や環境、その他様々な条件によって細かな差異は見られるものの、累楼の一階層は概ね、円の内側を向いて連なる五十前後の部屋によって構成されている。円の中心は吹き抜けになっており、かつてその土地に生きた古い死者たちが掘り進めていった深淵が大口を開けている。各階の移動は東西に一カ所ずつ設置された共同階段で行う。それぞれの階段は一方通行で、西側は地下へ降りるための階段、東側は地上へ上るための階段となっている(これらは日の出、日の入りの方位に従って取り決められている)。各階の階段脇には当該フロアの階数が記されていることがよくあるが、階数の記載は多くの場合、より深部へと潜るたびに減少していく傾向にある。これは、死者が長く間延びした死後の時間の中で生前の世界に対する執着を徐々に失っていくためだろうと考えられている。
 なお、累楼は中国の円形版築建築『福建土楼』を元に着想した。福建土楼は「外に閉じ内に開く」中国の家の思想をもとに造られた大型建造物である。本作では「土楼を逆さにして地中に埋め込む」というアイデアから累楼という架空建造物を作った。

文字数:1749

ミンフンのみず

      

「それで? したの?」
 ミナミがワンダを問いつめる。
「してないよ」
「でもしたいの?」
「……」
「女の子?」
「うん」
「やっぱり女の子がいいんだ?」
「や、たまたまだよ、たぶん」
「ねえ、私たちもう付き合い始めて十年くらいたつんじゃん? 飽きたの?」
「そうじゃないよ」
「でも試したいんだ? その子と」
「俺はその子の姿を遠目に見ただけだし、彼女は本当に一瞬だけ姿を見せただけだって。……それからすぐに消えてしまったんだ」
「だから?」
「毒に近いかも。昔生牡蠣を食べたとき、ほんの一口だけだったのに翌日から猛烈な苦しみに襲われた。今の感じはそのときに近いと思う……いや、どうだろう、はっきり言ってこの気持ちは言葉じゃ言い表せないよ。とにかく身体の芯の部分が言いようもなく、かっと熱くてさ、気が狂いそうなほど苦しいんだ」
「ワンダ、確かに相当参ってるんだと思うよ?」
「え?」
「ほんとにすごい威力だよそれ。ワンダ、元々ちょっと鈍いとこあったと思うけど、それでも今みたく私のこと傷つける言葉を口に出したことって今までほとんどなかったもん」
「待って」
「何」
「傷つけてごめん」
「謝ってほしくなんかない。傷つけてほしくないだけ」
「俺はミナミのことをほんとに心の底から愛してるし——」
「そういう言葉を今使わないで。すごく軽薄に、この場を乗り切るためだけのうすっぺらな言葉ってふうに聞こえるし、そのせいで今までにもらったほんとに優しい言葉たちまで踏みにじられてく感じがして超いやだから」
「でも本当だしこれからもずっと大事にしたいと思ってる」
「……」
「〈ミンフン〉は俺達の関係とは全然別の問題なんだって」
「ああ、そう」
「っていうかミナミだって知ってるはずじゃん」
「わかってるよ。だから別に、浮気だとか裏切りだとか、馬に蹴られて死ねだとか、そんなこと一言も言ってないじゃん」
「ならどうして怒ってるんだよ」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
「怒ってないって! ……聞いてるだけじゃん」
「何を」
「……」
「教えて」
「一人にして」
「え?」
「疲れたから少しだけ一人にして」
「ちょっと待っ——」
「今はこれ以上話したくないし、っていうか話すこともない」
「……わかった。それでいいから、さっきの質問だけ答えて」
「『それでいいから』とかっつって、質問答えろって、矛盾してんじゃん」
「どうして怒ってるんだよ?」
「もういいでしょ。帰るね」
「いや全然よくないって。まだ帰らないで」
「……ああもう」
「お願い、答えて」
「……。……だから何度も聞いてるじゃんか。『したいの?』って、聞いてるんだよ」
「……」
「答えなよ」
「その質問に答えさせて、何の意味があるんだよ?」
「意味あるとか意味ないとかじゃないんだって。『どうして怒ってんのか』とかって、何度も何度もしつこく追求してきたのはワンダの方だよ? だから私も聞き返してんの、『したいの?』って。ワンダがその点を曖昧にしてることが私の怒りに紐づいてるんだって、自分でわかってるからだよ。
 でも本当は私、ワンダの中で変なスイッチが入っちゃってる理由知ってんじゃん。そしてそれは現実にはワンダの本心と関係ないし、つまるところワンダは全然悪くないんじゃん」
「全然、とは思わないけど、でも、そこまで理解してくれてるならどうして責めるんだよ?」
「ワンダの苦しみがほんとは——ワンダが言うように——ワンダ自身のものじゃないってこと、私はそのことよくわかってるよ。けど時間が経てばそのことを冷静に捉えられるようになると思うけど今はちょっと難しいから、だって私今、すごく嫉妬しちゃってるから、だから一人にしてって言ってるんだよ。ちょっと時間空けたら頭の整理がついてぐちゃぐちゃになった気持ちも落ち着くと思うし、そしたら今みたく不毛な喧嘩もしなくて済むって思ってんじゃん」
「……ああ、そっか。よくわかったよ、ごめん」
「だからちがうって。いまさら理解してくれてももう遅いんだって。ねえワンダ、いい? 今私はワンダにけしかけられてしたくもない嫌な質問を繰り返したんだよ? ワンダがしつこいからだよ? 私のこと無理強いしてそんなふうに仕向けといて『答える意味ない』とか、超バカにしてんじゃん」
「バカになんかしてないって……」
「ああ、うん、そうだね、前言撤回する。ワンダは優しいから、私のことバカになんかしない。そしてだから、要するにやっぱ、自覚ないってことなんだって、さっきも言ったけどさ。自覚なく人を傷つけるのってまじタチ悪いよね。だって学びがないもんね。それだからたぶん、これからも繰り返しひどいことをしたり言ったりするんじゃん? ほんとにさ、こっちの身にもなってほしいもんだよね」
「……」
「とにかくもう遅いから。ちゃんと答えてもらわなくちゃもうどうにも立ち行かないよ。ねえ答えて。ワンダはその子と〈ミンフン〉したいんでしょう?」
「ミナミの気持ちはよくわかった」
「だからもう遅いって言ってんの。話聞いてないの? 答えなよ」
「悪かった」
「だから謝ってほしいんじゃないんだって! 答えてって言ってんの!」
「……。……したいんだと思う」
 そのときミナミの眉間に寄った小さなしわはぴくりとも動かなくて、さっきからせわしなく動いていた唇もぴたりと動きを止めてしまい、リアクションは何もなく、もしかして気づいてないだけで何かの拍子にこの世界の時間は止まってしまった?なんて錯覚してしまいそうだ。それでもミナミの苛立ちや悲しみが空気のたっぷりみっちり入った透明の袋みたいな形をとって、二人の間に横たわっているような気がした。この部屋、なんか今、空気薄くない?
「今日は帰るね」
「……送るよ」
「ううん、一人で帰れるから」
 交わす言葉は限りなく色の薄まった水っぽい絵の具みたいになってしまった。薄い空気の中じゃ言葉は生きていけないのかも。
「ごめん」
 さんざん繰り返して古びて意味を宿さなくなってしまった謝罪の言葉は独りよがりというよりも独り言のように響いたし、実際、ワンダの謝罪に対してミナミからは何の返答もなかった。
 ミナミは出て行く。
 投げ出され置き去りになった最後の言葉の余韻はじっとその場にとどまり、突っ立って、ワンダを責める。嘘くさいよお前、ほんとに悪いと思ってんの?
 本当に悪いとは思ってないかもしれない。どうしても実感がわかないのだ。

       

 死人が生きている者の手を引くというのは本当だ。セックスより欲望を駆りたてるミンフン。セックスより気持ちいいミンフン。その引力の強さを二人は過去に身をもって知った。
 二月の頭のことだった。その年は例年をはるかに上回る大寒波が押し寄せていた。湖岸道路沿い、守山のなぎさ公園にある早咲きの菜の花畑の中でアラキの死体が見つかる。発見は早朝だった。美しい黄色の花たちは人々の目を引いたけど畑の中に入っていく人はあまりいなくて、理由はもちろん寒いからで、第一発見者は早朝に公園の交通整理をしていた柴田曜一さん(56)。発見時アラキの死体には霜がおりてカチンコチンに固まっていたらしくて、そのために誰も気づかなかったんだけど、実はこのときすでに死後三日が経過していて、そのことがすぐあとでワンダたちの運命にとても大きく作用した。望町(のぞみちょう)の実家に運ばれたアラキの死体は、室内の温かさの中で自然解凍されるにつれて、だんだんと特有のにおいを放ち始める。腐蝕が始まっていたのだ。
 腐り始めの死体はえろいにおいがする。死者が発散するとびきり最高級のフェロモンは生きている人間をくらくらさせる。もしも死人と生きている者が互いを大切に思い合う関係だったりしたら尚更だ。そしてワンダはアラキの親友で、ミナミは当時アラキと別れたばかりだった。
 午後八時から別室で飲み始めた仲間連中は、日付が変わったあたりからしんみりと故人の話を始めて、だんだんと言葉かずが少なくなり、そろそろ寝るのかなとワンダは一度思ったのだけど、それからすぐ、メランコリックな気分を吹き飛ばそうとでもするように大きな歌声。ワンダたちが中学生くらいのときにはやったポップソングが何曲か合唱され、それはだんだんやけくそで調子はずれになって、ほとんど叫び同然になる。
 対岸で狂騒が続く中、死者に寄り添い寝ずの番を担うワンダは新しい線香に火をつけた。いいにおいがすることに気づいたのはそのときだ。それがアラキの死体が発する腐臭だと気づいたときにはもう遅くて、ワンダはすごく興奮してアラキとミンフンしたくてたまらなくなっている。
 そのとき、気配に気づいた。振り返ってワンダは言った。「いつからそこに?」
「気づくの遅いって。ずっといたし」
 開きっぱなしの扉のむこうで廊下におしりをついて、ミナミはじっと中を覗いていた。
「だめだよ」とワンダは言った。自身の欲望は果たしたい、そこにもう自制は効かなかったけど、他者を思いやる理性はまだ辛うじて残っていた。「むこういけ」
 ミナミはワンダの言葉を無視した。四つん這いで敷居をまたぎ、中へ入ってきた。瞳が濡れている、とワンダは気づいた。駄目かも、と思った。
「やらしいにおいがする」ミナミは呟いた。
 甘い蜜に誘われる虫みたいに、ミナミはアラキに引き寄せられていった。くん、と何度かにおいを嗅ぐ仕草を見せた。動物みたいだ、とワンダは思う。だけど同時に、本能を剥きだしにしたミナミの姿はワンダの似姿でもあって——
 ——ワンダは代わりに熱くなっている他者の存在を得たことで、ほんの少しだけ冷静さを取り戻した。そのことに続いて抗うことをすぐに決める。
 ミナミは拒絶の言葉を口にしたけど身体は抵抗しなかった。言葉も嘘だ、とワンダは思った。だからワンダはそのままミナミを死体のそばの畳の上に組み伏せた。廊下のむこう、別室の喧噪はいつの間にか静けさにすり替わっている。だからそのときワンダが聞いたのは、ミナミが繰り返しワンダの名前を呼ぶ声と甘い喘ぎで、あとは自分自身の荒っぽい鼻息だけだった。室内の温度が少し上がったと思った。腐蝕した死者の身体はいいにおいがする。友人の、恋人の、死のかたわらで二人は交わった。そうしてワンダとミナミは互いのための楔になり、互いの身体と心を繋ぎとめあった。

 翌日アラキは火葬によって水分の蒸発を進行させて土塊の身体に生まれ変わる。名実ともに死者になる。生きる人を惹きつけ惑わすその身体に、におい消しのための強いハーブを練りこんで織られた死装束を纏う。フードを目深にかぶり、顔にも同素材の覆いをして全身を隠す。こうして準備を整えると、家族、親類、親しい友人たちの同伴のもと、最寄りの〈楼境〉がある岩戸山へ向かった。
 岩戸山のふもとでワンダたちは少しだけ話した。
「私はまだ生きるから」ミナミが言った。
 それは訣別の言葉であると同時に、かつての恋人へのあらためての別れの言葉だった。アラキは何もいわずに小さくうなずいた。ミナミはすぐにきびすを返し、アラキの前から消えた。それ以上アラキを責めることはしなかったし、そういった素振りの一つも見せなかった。
「あいつが俺を責めないのは、俺が死んだからかな?」わざと軽薄な態度を装って、自嘲的な調子でアラキは言った。
 ださい、とワンダは思った。アラキはずっと前からワンダの親友で、ワンダはアラキの素晴らしい点をいくつも知っていたけど、こんなふうに自尊心を守るために大切なものをさもどうでもいいことのように言う語り口は心底嫌いだった。
 アラキは自殺した。自ら命を絶つことでミナミに選択を迫ったのだ。死者となったアラキについていくか、ワンダと一緒に地上に残るのか——すごく強引なやり方だ、死のにおいをまとってミナミを誘惑しようとした。そんなアラキのやり方に対して、ワンダもまた強引なやりくちでミナミを繋ぎ止めようとした。
 そして最後には、ミナミはワンダを選んだ。
 そうだ、これが最後なのだ。——アラキとの別れの実感がワンダを訪れた。感傷的な気分はまったくといっていいほどなかった。今は敵意の方が勝っていたからだ。いつか今のことを思い出してなつかしく思うときがきたりもするのかな……。
 アラキは楼境の門、二つの大きな標石の間に立って、見送りに来た家族や親類、ワンダたち友人に最後の姿をしばらく晒してみせ、それから山の中へと消える。一度も生きる者の世界を振り返ることのないまま、木々に紛れて見えなくなった。これからアラキは死者の住まう〈累楼〉に入る。地下への階段をおりて、一年目の死者になる。
 あとに残ったワンダとミナミは新しい恋人同士になる。まるで宿命だったみたいにたちどころに燃えあがる。多くの人間関係がそうであるように必ずしも順風満帆ではなくて、いがみ合ったり大きな喧嘩もたくさんしたけど、関係は続いていく。一年、二年、三年目に一度大きな危機が訪れる、だけど関係は終わらず、五年——十年。
 ワンダが死者の娘を見初めたのが十年目のことだ。その告白の日から二週間、ミナミはワンダを無視しつづけた。その間一度もワンダのところへ来なかったし、ワンダがミナミの部屋へ行っても絶対にカギを開けず、ワンダがドアごしに発したたくさんの呼びかけに対しても一度の返事すらしなかった。それ以外の連絡も全部無視、LINEには既読もつかなかった。そして二週間後の金曜の夜、ワンダはミナミの呼び出しを受けて二十一時に近江八幡のスターバックスに行く。ミナミはもう席に座って待っている。ワンダはまっすぐにワンダを見据えるミナミの表情に決意の色を見る。
「会いたければ会っていい。だけど死んだ人にワンダはわたさない」
 ワンダが席に着くなりミナミはそう切り出した。ワンダの手を強く握った。憎い仇にするときのような力がこもっている。
「今度は私がワンダを繋ぎ止める。っていうか、縛りつける。文句ある?」
「あるわけないし」とワンダは言った。
「だよね」とミナミは言う。「ワンダだって最初、めちゃくちゃ強引だったもんね」
 ワンダは苦笑して言う。「ミナミにはアラキより俺の方が絶対似合ってるって思ってたし、気持ちが通じ合ってることもわかってた」
「妄想じゃなくてよかったじゃん。さもなけりゃ危うく強姦罪で捕まるとこだよ」
「古い話だ」
「何? 時効ってこと?」
「じゃなくて。懐かしいってこと。アラキとか」
「……なんか癪」とミナミは呟く。けれどもそれはたぶん大して強い気持ちじゃないし、ミナミの気持ちはもう前を向いているんだとワンダにはわかる。
「ミナミが考えてること、俺もいいと思う」
「あんまり品のいいやり方とは言えないかもだけど。でもきっとまた、もっと好きになれるんじゃん」
 十年前。思うにあのときワンダたちは、「死」にまつわるミンフンへの欲望を、「生」とひもづくセックスの行為によって切断したのだ。あのとき死に手を引かれたのはミナミで、今はワンダの方だった。ミナミが提案し、ワンダが実行に移すことを受け入れたのは、アラキのときの行いを反復すること。セックスでミンフンの欲求を殺す。

       

 朝いちで出発したにもかかわらず到着時刻は正午をまわっていた。楼境を越え獣道を進み、尾根筋をたどって二つの山を越えた。望町の累楼は四方を低い山に囲まれた平地の中心にある。平地を進んでいくと密集していた木々の間隔が広がって日だまりが生まれ始める。明るい日だまりの中に濃緑の苔に覆われた入母屋造の青緑色の屋根が現れる。石造の壁は灰色。柱や扉の縁は紅色。手前を流れる流れの遅いささやかな川には橋がかけられ、川に沿って並べられた赤い風車は大した風もないのにせわしなくくるくる回る。
 死者と再会するのなんて簡単だ。いずれ自分も死んで累楼に入ればいくらでも会えるんだし、そのときには当然ミンフンのリスクだってなくなっている。だから自分たちのように生きている間に累楼を訪ねるような物好きは、そりゃあ少ないだろうと思ってはいたけど……。
「あっれ、なんすかなんすかー、もしかして客? うっわ客!?」
 男のリアクションは予想を超えていた。
「はぁー初めて見たー、信じらんねー、ほんとにいるんすね、累楼訪ねてくる人!」
 いや、さすがに過剰反応だと思うけど……なんだこいつ?
 累楼の番人は二十代半ばくらい? 上半身は灰色のタンクトップ一枚で、アロハっぽい花柄のすこぶる派手なハーフパンツに便所サンダルをつっかけている。色黒の肌、パーマをあてた栗色の髪はツンツンしていて無駄に攻撃的な印象。それなりに長身だけどけっこう猫背だから目の高さはちょうどワンダと同じくらい。死にかけた魚のそれに似た小さな目が、死に際の最後のひとなつっこさをもってワンダたちを捉える。まつげがやたら長い、とワンダは思う。
「や、申し遅れました、俺、ここの番人のコムロっす」番人はバナナの皮をむきながらそう言って、バナナにかぶりつく。それから——よく噛まないで無理に飲み込んだんだろう——「うぼぇ、どぅえほっ、げほォ、るぅえェェ〜」とえずき、「うい〜なんかすんません」と言う。端的に汚い。この午後の陽気にあてられて頭が少し変になっているのか?とワンダは一瞬疑うけど、仮に頭がわいていたとしても入楼申請を滞りなく認可してくれさえすればいいのだ、とすぐに思い直す。物事を簡潔に進めよう——事情を話す。三週間くらい前に地上で出会った死者のこと。
「なるほどっすね、いっすよ!」
 驚くべきスピードでコムロは承認した。それからきらびやかな装飾品に囲まれた部屋の隅の書棚に近づくと、本や書類の中から一冊のファイルを取り出して窓際のテーブルに置く。
「そいじゃとりま確認のサインだけ、いっちょずばっとお願いしますよ〜」
 入楼同意書。コムロはにやつきながら説明する。
「一応俺なんかもこう見えて地方公務員っすからねぇ。こんくらいの仕事はやっとかないと。まあはっきり言ってこんな書類、あってないようなもんっすけどね! つーのも、国の方針で始まりはしたものの、ここんとこは役人も怠慢でねえ、書かせるだけ書かせておいて、受け取りにも来やしない。あんたらみたいなゲストの来訪なんて滅多にないから、書類がかさばって困るってことも別にないんすけどね、ともあれまったく、死者の連中の方がよっぽどしっかりしてるってもんすよ。いっそ国の役人まるごと総入れ替えして、政治はみんな死者に丸投げしちまうってのはどうすかね?なあんて。でへ! あ、なんかすんません、いやぁ〜ちょっとばかししゃべりすぎっすかねえ俺! や、許してくださいよ、なんせ久し振りの来訪者とだべれて、俺ぶっちゃけ今すげー楽しいんすよ!」
 コムロの品のない一人語りを聞きながら、ワンダたちは書面に目を落とす。

・生者が入楼した際に起こりうる危険性について説明を受け、納得したので同意します。
・累楼滞在期間中になんらかのトラブルが発生した際、その一切の解決について、自己の責任でこれを行うことに同意します。

「あ、もし内容について質問なんかあればがんがんやっちゃってください! なんでも答えますよ!」
「ここに書いてる『危険』ってのは、具体的にはどんな?」
 ワンダの質問に対して、男は一瞬呆気にとられたみたいな顔をした。
「ええ〜! 知らないんすかもしかして! まじで!? ミンフンっすよ、ミンフン!」
 いや知ってるけど、とワンダは思う。当然知ってる、その言葉も、それを行うことが危険を伴うってことも、社会的な常識と言ってもいいくらいだし知らないはずない。……だけじゃなくて、ワンダたちは過去に危うくその行為をやりかけたこともあるんだし。そんなことを話すとこの男はすごくがっついてねちっこくいろいろな質問をしてきそうな雰囲気なのでワンダはとりあえず余計なことは言わず、「知ってる」とだけ答えた。
 コムロは親愛の情を秘めた目をしてワンダに近づいた。「めちゃめちゃえろいって話っすよね。なんか、アレよか気持ちいいって噂で」
 下品な忍び笑い。ミナミが白けた顔でワンダを睨みつける。え、嘘。今のところ俺が責められることになるようなくだりはぜんぜんなかったと思うんだけど……。
「具体的にはどんな感じ?」ミナミがコムロに訊ねた。
「え、何がっすか?」
「何がって、ミンフンだよ。どんなふうに行為をして、それがどんなふうに危険なのかってことが知りたい」
 確かに「ミンフンは危ないんだ」って話ばかりが先行してしまっていて、その具体的な内容についてはこれまで一度も聞いたことがなかった。
 コムロはしばらく目を見開いた表情で固まっていた。さしづめ「女性にこんな大胆な質問を受けるなんて」みたいな感じで驚いていたんだろう。それからしばらく「うーん」と考えこみ、そのあとで言った。「や、ちょっとわかんないっすねー。ほら俺、バカなんで!」
 期待した俺たちが馬鹿だったかも、と思いながら、ワンダは紙面下部にサインをした。ミナミもそれにならった。「ざす」と言ってコムロは紙を取り上げ、引き出しの中に雑な感じでしまった。それから壁に引っかけられたキャンドルランタンを取り上げ、奥の扉を開けた。
「そいじゃついてきてください。累楼の口へご案内〜」
 意気揚々と扉のむこうに消えた。
「大丈夫なの?」心底心配そうな調子でミナミが言った。
「びっくりするくらい軽いなあいつ」とワンダは言った。
 番人の部屋の奥には細長い廊下があって、左右についた大きな窓から日が射しこんでいる。コムロについて廊下を進む。
「死んだその人とワンダさんってどういう関係だったんすかー?」
 ワンダの名前はワダだしそのことはさっき口頭で伝えたし同意書にも書いたんだけど、コムロはミナミにならってワンダと呼んだ。
「ワンダの浮気相手だよ」ミナミが冷めた感じで答えた。
「ちがくて」ワンダが弁解する。「ぜんぜんちがうし。つーかそもそも——」ミナミを見た。「——だから前も言ったじゃんか、その子を見たのはあの時が初めてなんだって」
「そうだったの?」ミナミはとぼけて言う。
「だからそうなんだよ」ワンダはもう一度コムロを見る。「だからまあ、要するに接点なんかまるでないわけ」
 コムロは興味深そうに目を細めてにやついた。「へえ、それで?」
「それでも何も」ミナミが言葉を受けた。「つまり要するに一目惚れなんだって」
「いや、だから——」
 ——違うんだけど。ワンダは否定しようとしたけど、
「そうなんすかねえ。や、それは違うと思うな」コムロがワンダを遮って言った。
「何よ、あんたに何がわかんの?」
 コムロはミナミの敵意を気にしない。「生者と死者の関係性を、そんなふうに生者同士の関係の典型にあてはめて考えるのはナンセンスってことっすよ。つーのも、生者が死者に感じるミンフンの欲望ってのは、生きてるもん同士の恋愛とか性みたいなものとはてんで質が違うもんみたいっすから。例えるなら……うん、そだな。生きてる俺らにとってそれは、食あたりみたいなもんなんだと思いますよ?」
「生牡蠣にあたるようなもの?」ミナミが聞いた。
「あ、いいっすね! それっすそれ!」
 ミナミは肩をすくめた。
「そもそもね」とコムロは続けた。「死者が何の理由もなく生きてる人の前に姿を現すってことはありえないんすよ」
 日ざしの角度が変わる。廊下が少し薄暗くなった。
「もしワンダさんが死者を見たってんなら、そこには必ず理由があるはずなんすよ。なんせ死者ってのはすこぶる律儀な連中っすからね。規則正しいんだ。それは彼らがみーんなそういう性格だとか、そういうことではなくてですね。死者ってのはつまるところ、そういうもんなんだな。性格じゃなくて、性質だってこと。死者は律儀で、規則に忠実。
 だから、目当ての死者と出会いたいときは闇雲に探しまわったり、闇ん中を隅から隅までひっかき回してもあんまり意味がなくて、大事なのはのんびり構えて待つことっすかね。累楼はもともと生きている人向けに環境調整されてないし、潜れば潜っただけ圧がかかる。水中でじっとしてりゃ窒息してしまうのとおんなじように、長居したらしただけ負担がかかってくる。言ってみりゃあ闇夜の海みたいなもんっすね。んでまあ、累楼が海ならあんたらはさしずめ釣り針だ。けどもし夜の海ん中で視界がすっかり奪われちまっても慌てちゃあいけない。釣り針に目なんて必要ないんでね、ただ魚が食いつくまでじっと待ってりゃそれでいいんだ。
 まあこのあたりのことだけ忘れずにいりゃあ、そのうちにちゃあんと探し当てることができると思いますよ、目当ての人物。つってもまあ、ちょっとでも不安が生まれたら、そんときは深入りせずにいったん地上に引き返すのもありかと思いますけどね。幸い、あんたら二人を泊めるくらいの空間的余裕ならあるし、ぐっすり休んで、翌日もう一度潜るんでもいい。つーかだからさ、さっきも言ったみたく俺は話し相手に飢えてますからね、要はあんたら二人なら大歓迎ってことっすけど」
 饒舌に語るのは前をいく男の背中で、コムロが今どんな表情を浮かべているのかワンダたちにはわからない。本当に最初に出会ったあの気の抜けた男と同一人物なのか、疑わしい気持ちになった。
 長い廊下が終わる。突き当たりに観音開きの黒っぽい木の扉がついている。扉の前まで行って、そこでコムロはようやくワンダたちを振り返る。
「……」
 一瞬、ぞっとして言葉を失った。コムロの顔が真っ黒ののっぺらぼうみたいに見えた。光の角度のせいだ、偶然たまたま影になっているのだとすぐに理解したけど。
 ……落ち着いた方がいい。
 コムロは部屋を出るときにタンクトップの上に羽織ってきたアディダスのジャージのポケットから百円ライターを取り出す。手にしたキャンドルランタンの中のろうそくに火をつける。品のない笑みを浮かべたひとなつっこい顔が光の中に現れた。——死にかけた目をしてはいるけれど。
「注意点を一つ。死者たちは人工の光を極端に嫌うからケータイの電源は切っといてくださいよ」
 ワンダたちは言われた通りにする。「なんかテーマパークのアトラクションみたい」とミナミが言う。余裕ぶっているけどその声はすでに緊張感を持っている、とワンダは思う。
「そいじゃ、中へ入りますんで〜」
 コムロは扉を向こう側へ押し開けた。コムロにつづいて入ると、薄暗い穴ぐらみたいな広間になっている。広間の中心付近には柵がぐるりと円形にめぐらせてあって、柵のむこうには大穴が口を開けている。おおん、と音がする。大男のうなり声みたいな音。それは地の底から吹き上がってくる風の音で、この大穴が累楼の口だった。穴の深さはどのくらいあるのか、まるで見当もつかなかった。
 暗がりの中、客人たちがちゃんとついてきているかとしきりに気にしながら、コムロは柵に沿って右手方向に歩いていった。円周を四分の一ほど進んだ先でコムロが立ち止まったのでワンダたちもそれに従った。柵の一箇所が門扉になっている。コムロは掛け金を外して門扉を開く。開かれた門扉の先には穴の内壁を伝う階段が地下へと続いている。
「ここからおりられますよ」
 コムロはアトラクションの案内人みたいに言った。さっき一瞬見せた陰湿な影みたいな雰囲気はあのときだけですぐになりをひそめてしまった。騙されている気分がする、と、理不尽な疑念が唐突に芽生えてくる。落ち着け、とワンダはもう一度自分に言い聞かせる。そんなのはただの妄想だ、と。
「ようこそ累楼へ」コムロが言った。「思うぞんぶんお楽しみください〜むふふ。ではではっ!」
 ワンダたちは累楼へとおりる。

       

 死者の身体は土塊でできている。〈冥晶〉はそんな死者の身体に含まれる細かな石。死者の身体の中で、宿主とともに移動しているときにはそれは何の変哲もなく、他の石と変わらない。こぼれ落ち、特定の場所に位置を定めて動かなくなったときに変化を起こす。
 累楼は、地面も壁面も天井も全部が土で出来ている。丹念に突き固められ、金属のような強度を持った土が、フロア全体に冷ややかな、突き放すような印象を持たせている。それは死者の印象に似ている。その中で地面だけが、死者からこぼれて散らばった冥晶の性質のために光り輝いている。冥晶は周囲の闇を糧にする。自身のまわりに残る僅かな明るさを食べて、淡い鈍色の光を放つのだ。そのために累楼の内部は天地の逆転した夜の世界に見える。糧となり明るさを奪われた地面の色は、落っこちてしまいそうな奈落の底のように真っ暗だ。その中で冥晶は輝く、地上の空に瞬く星空のように光る。だから累楼に踏み込んだ最初のときに「ランタンを持ち歩く意味なんて本当にあるのだろうか」とワンダたちが疑問に感じたのはもっともなことだ。

       †地下一階†

 階段のそばには“1”の文字。死者の住処と聞いてこれまで想像していたものと、累楼の内装は違う。それぞれの部屋から出て共用スペースで時間をつぶすことも多いのかもしれない、中央のフリースペースにはスツールやベンチ、簡易的なソファやテーブルなどが置かれている。土壁には棚が配置されて、様々な装飾品が並び立てられている。——狗奴の頭部を模したガラスの置物、 柳と百禽の羽根でつくられた魔除け(ドリームキャッチャー?)、青鰉の目や卵をもとにつくられたブローチやピアス……等々。中央に空いた大穴の周囲には木製の手すりが備えつけられてあって、うっかり穴へ落下しないための配慮がなされている。手すりには死者の衣装がひっかけられていたり、タオルや雑巾やその他布きれがかけてあったりと案外乱雑で、「死者は規則正しい」というコムロの言葉を早くも疑いたくなるけど、ともあれ色とりどりのそれらは艶やかで美しいといえなくもない。外壁に等間隔に並ぶ扉が死者たちの住居の入り口でこれも木造、一つ一つの扉には、中心に金属製の紋章を据えた中国結びの赤い装飾が飾られていて、これらは家紋のように全部が全部違った形をしていておもしろい。またその配色がフロア全体に色彩の統一感を与えていると感じる。
 累楼を彩るこうした雑多な物品は、すべて地上からの支給品を元につくられている。死者に対して様々な物品を送る非営利団体はどういうわけかどの町でも自然発生するものだ。ここ望町でも数年前から匿名の集団が活動している。彼らは滑車を使って大穴に大きな木箱をおろし、様々な物品を地下へ配給する。あるいは彼らもワンダ同様に死に魅入られているのかもしれないけど、そういった団体に知り合いのいないワンダたちには本当のところはわからない。
 ワンダたちはフロアのぐるりをゆっくりと巡った。死者たちはふいの来訪者を警戒しているのかもしれないし、じっと息を潜めているのかもしれない。気配はあるが、姿も見えずとても静かだ。
「名前とか、わかんないの?」声をひそめてミナミがささやく。「その子の名前。呼びなよ」
 わからない、とワンダは言う。
 おりてきた階段から円状のフロアの直径を引っ張ったちょうど反対あたりに下り階段を見つける。二人はさらに地下へとおりていく。

       †地下二階†

 地上の集合住宅に決まり事があるのと同じように、死者の共同住居である累楼も独自のルールに基づいて運営されている。死者は一年周期で移動を繰り返す。死の一年目、彼らは地下一階に住む。二年目には地下二階におりる。三年目は地下三階に、四年目は地下四階に。だんだん深いところにおりていく。これが累楼のくらしの決まり事。どこの町の累楼に行ってもこれは同じだ。
 つまり累楼で死者を探すときには若い人物ほど見つけやすいということだ。死後の年数のぶんだけ累楼の階層を地下へおりる死者が、現在の年齢数よりも下の階層に住んでいることはありえないからだ。
 このことをふまえてワンダは一定の目算を立てている。一度自分が「これくらい」と定めた階層の限度まで潜ってみて、その間に死者からの接触がなかった場合はコムロの言葉に甘えて一度地上へ戻ることにする。
 地下二階、階段のそばの壁には“2”の文字。
 地下一階と同じ、散りばめられた星々の上に雑然と配置された生活の痕跡たち。異なる点が一つあって、そのことはワンダが口に出す前にミナミが指摘する。「上の階より微妙に暗くない?」
 冥晶の光は地下一階より微弱で、ワンダたちの歩調は自然とゆっくりとしたペースになる。
 物音が聞こえた。人影がふっと、前方数メートル先をよぎった。それでワンダたちは追いかけたけど、軋む音、閉じる音が聞こえて、その音のした場所についたとき二人が見たのは憮然と閉ざされた一つの扉だけだった。
 フロア全体を一通り見て回って、地下への階段を見つけたときにミナミが言う。「少し時間かけすぎだよね」
 そうだな、とワンダも思う。階段をおりてさらに深い場所へいく。

       †地下三階†

 地下三階、階段のそばに“3”の表記。数字は現在の階層を表していると考えて間違いなさそう……。
 フロアの全体が見渡せない。地面に散乱する星が浮かび上がらせるのは自分たちのせいぜい四、五メートル先くらいのもので、それよりも先は闇に溶けている。
 ミナミがワンダの手を握る。ワンダは、ここにいる、と口に出すかわりに握られた手で強く握りかえす。この手を放さない方がいいとワンダは思う。放せばミナミが消えてしまうような気がする。ううん、あるいはそれはミナミじゃなく自分自身かも——無根拠な、気味の悪い予感を強く感じる。
 フロアを一周するのに地下二階よりもさらに多くの時間がかかる。それは密度の濃い闇のせいばかりじゃないってことがだんだんとわかってくる。累楼は末広がりなんだろう。深い場所におりるにつれてフロア面積が拡大していく。途方もなく巨大な生物の腹の中を落っこちていくみたいな心地がする。ろうそくの火は着々と先細っていく。

       †地下四階†

 ほとんど何も見えなくなる。灰の中に点々と残る赤い燃えかすみたいに、自身を光らせることだけで精一杯というふうなかよわい光だけがぽつりぽつりと落ちている。冥晶には今や周囲に明るさを分けあたえるだけの強さがない。壁にランタンの火を近づける。これまで記されていた階数表記がこの階層にはない。
 大穴の底から、おおん、とうなる音がする。すぐ隣にあるミナミの顔が、墨で描いたような黒色の濃淡、そのグラデーションだけでできているみたいに見える。ミナミも同じような感触を得ているのかもしれない、ワンダを確かめる声はか細くて、孤独の不安に包まれている。釣り針は海の中を漂っている。仮に魚が食いついたとしても地上へと引っ張り上げる釣り人はいない。そもそも地上からまっすぐに垂れ下がる一本の糸すらここにはない。それでも釣り針は獲物が餌に食いつくときを待ちわびて、孤立無援で深い底へと沈んでいく。死者からの干渉はまだない。

       †地下五階†

 ふっ、と。
 微妙に頼りないながらもワンダたちの心を支えていたランタンの火が唐突に消える。
 ミナミが恐慌状態に陥る。もういや、帰りたい、ここから出して。呪詛のように唱える。ワンダはミナミの両脇に腕を通した。まな板の上の鯉みたいにじたばた暴れるミナミを支えた。ミナミの言葉は本当の酩酊のようにだんだん支離滅裂になる。大丈夫だから、落ち着いて、わかったそろそろいったん地上に戻ろう——ワンダはしきりに声をかける。
 ミナミの全身からくったりと力が抜け、その場に崩れ落ちてしまう。しばらくミナミの背中をさすりながら隣に寄り添っていた。ミナミの呼吸が安定してくる。ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
「今、地下何階だっけ?」平静を取り戻した、けれども少し疲れた声でミナミが言う。
「五階だと思う」
 おそらく、たぶん。
「ありがとう、ごめんねワンダ。もう大丈夫」
 また歩き始める。
 吹き上げる風の音が聞こえる。共振するみたいに地面の小石が震える音が風音に混じる。
 地下へおりる階段を手探りで見つけた。
 足を踏み外さないようにゆっくりと階段を下りながら、ミナミが言う。「さっきね」
「うん」
「私が消したの、ろうそくの火」
「うん」
「『ふっ』てした。もしかしてわかってた?」
「そうだと思ってた」
「引き返す口実が欲しかったの。この気持ち、わかる?」
「うん、わかるよ」
「すごく怖くて。でもやっぱりこのままおりていく。そっちの方がいいと思うから」
「俺もそう思う。いけるところまでいこう」
「迷惑かけてごめんね」
「ううん。全然そんなことない」
 それは本当のことだ。火があってもなくてもここまでおりるともうあまり関係がない。

       †地下六階†

 隣にいるミナミの身体の輪郭さえわからない。二人の間に固形の遮蔽物があって視界を遮っているように感じる。あまりにも深い闇は物質的な重量感を持つもののように錯覚されるものなのだと知る。自分自身すらわからなくなりそう、とワンダは危惧する。自身の実在を確かめようと思う。手のひらで頬を触ろうとする。
「……」
 よく、わからなかった。

 暑いような気がしたけど、もしかしたら寒いのかもしれなかったし、疲れているような気がしたけど、疲労をためこむための身体を自分が所有しているという実感はあまりにも薄い。いくら闇雲にふらふらと歩いてもいっこうに壁に突き当たらない。このフロアはとても広大だ。地下何階だった?——忘れた。
 さまよう。

 ???
 ——そういえば。
 俺はいつから、ここにいるんだ?

 ——ミナミ。
 そばにいる?
 (冷たい手の感触だけが唯一それだけが二人を今も繋ぎ合わせている。あまりにも頼りないけどないよりはよほどいいすぐにとぎれそうなつながり。)

 ——おおん。
 ——かたかたかたかたかたかた……。
 有機的な仮面をかぶった無機物たちのコール・アンド・レスポンス。冥晶は暗闇の中で静止したときだけ輝きを放つ。風のうなりに震えあがり音をたてる石たちの中に、輝きを持つものはない。

 いつのまにか誰かがすぐそばに立っている。
 肩を並べるミナミの気配すら感じ取れないのに、そのことがわかった。存在感の質が違うのだ、となんとなく思った。そんな異様な印象に遅れて、甘く狂おしい気持ちが新しい命のようにこんこんと生まれ始める。
 誰かの手のひらが、ミナミの手を握るワンダの手の甲に触れた。温度のない手だった。ハリもツヤもない手だった。
 その手は土の質感を持っている。その手に触れられることはワンダたちに大きな悦びを与えた。
 だから二人は恋人の手を放し、土塊の手を取った。
 二人の手を、死者が引いた。

       †地下七階†

 死者に導かれて歩く。恍惚の中にいる。暗闇の不安も今はない。そんなものは取るに足らない。むかう先が死の淵であろうと構わない。
 ああいいにおいがする、摘みたい、手折りたい、滅茶苦茶に辱めたい。猛る気持ちを抑え込む。最高のご馳走は一番最後までとっておかなくちゃな。
 死者の出迎え以降ワンダとミナミは互いに一言も口を利いていない。視界は黒一色に塗りたくられて姿も見えないし、ここでは生きる者は死者ほどにはっきりとした存在感を持たないから確証は持てない、だけど死者の反対の手はたぶんミナミと繋がっているはずだ。
 死者が足を止めたからワンダも遅れてそれに倣う。死者は手をほどいた。かすかな寂しさが生まれて、すぐに肥え太って大きな寂しさになる。焦燥も高まる。触れ合っていない不安に思わず声が漏れそうにすらなる。けれどもすぐに、救いのように死者の手がワンダにふれる。腰のあたりをそっと押された。されるままに前へ踏み出した。伸ばしたワンダの指先が、死者の官能的な感触とは異なる何かにふれた。
 ひややかな鉄の質感。少し間を置いて扉だと気づいた。死者の住処。
「入れってこと?」ワンダは闇の中に言葉を投げ出すみたいに訊ねる。
 返答はない。死者はただ静かにワンダの動向をうかがっているようだった。ワンダは意を決して扉を押す。痛みを伴うみたいな音をたてて扉は軋んだ。
 直後生まれた隙間、扉の向こうから漏れ出した光の眩さにワンダは思わず目を閉じる。
 死者がまた後ろからワンダをすっと押した。ワンダは眩しさに目をつむったままでその部屋に踏み込んだ。足の裏に何か柔らかな感触が触れた。そのことに気づいたが、死者に後押しされるままに踏み込むと同時に、くくり、ぱきり、と音がする。自身の足が何かを折り、踏みつけにしたのだとわかった。後方で扉の閉まる音がする。

       

 本当は、眩しさはさして大したものではなかったのだ。ここまでの暗さに目が慣れきっていたから、僅かな明度の上昇を過剰な眩しさと錯覚してしまった。だんだんと目が慣れていった。地上の明け方くらいの明るさだった。ゆっくり目を開けた。身につけた衣装を剥がれていくように、死者の住処が露わになる。
 ここでは絨毯状の星々が輝きを取り戻していた。死者の部屋は逆転の星空の上空にある。土は外の地面のように周到に突き固められてはいない。室内の土はやわらかい。
 土の空に花が咲いている。でこぼことした星空の中に、無数の黄色の花が咲いている。それらはあまりにも頼りなくて弱々しい、今にも自重を支えきらずに倒れてしまいそうな茎ばかりに見えた。足りないものは水と光と養分だ。それらを欠きながら辛うじて発生した累楼の花たち、その姿は美しさからはほど遠い。
 花の中を歩く死者は優しい心を持っている。無闇に花を折らないようにおそるおそる、バレエダンサーがステップを踏むみたいにつま先だちで歩く。ワンダは探し求めた死者を初めて間近で見た。気づけばミナミもワンダのすぐ隣にいて、同じように死者のステップを見ていた。
 ワンダが探していた少女。ワンダがどうしてもミンフンしたい少女。ふわふわやわらかそうな長い髪を揺らして少女は花の中踊る。伏せられていた長いまつげがいっせいに天井を向く。あどけない瞳がワンダたちをじっと見た。
 彼女は七年前の死者、ワンダとミナミの関係、三年目の悲しみ。
 踏みつけられて簡単に折れてしまう花のように、二人ぶんの決意が折れる音がした——
「ワンダ、どうする」
「どうするって」
「やっぱやめる?」
「やめない。俺はミナミを裏切らないよ」
「無理してるんだったら必要ないから。わかってる? 私は、私に優しくしてほしいわけじゃなくて、ワンダに正直でいてほしいだけなんだよ?」
「今更いわれなくたってわかってるよ」
「ほんとに?」
「まだ疑ってんの?」
「っていうか」
「信じてよ」
「ううん、そうじゃなくて」
「え?」
「ううん」
「うん」
「……」
「そうだよね」
「あ……」
「そうしよっか。……だって我慢できないもん」
「うん……」

 ——ぼきり。

「……私もしたいよ」
「だよね」
 大人たちは欲望に屈服した。

 幼い少女は不安げに眉をひそめ、身体をこわばらせて、身動きもとれずにじっと突っ立っている。その怯えた姿が、劣情を強く刺激した。欲情に濡れた四つの眼球が少女を捉えた。二人の生きる人の虜になった死者、その年齢は外見から察するに十歳にも満たない。いたいけで無垢な子どもをこれから犯すのだ……少女に一歩、また一歩と近づくたび、背徳的な昂奮が理性の檻を散々に打ち壊していく。制御のきかない激しい情欲がワンダたちをすっかり支配してしまう。
 ワンダの手が少女の頬に触れる。ミナミは腰をかがめて、華奢な少女の腰に両腕を回し、逃すものかと強く強く抱いた。セックスより欲望を駆りたてるミンフン。セックスより気持ちいいミンフン。やり方を知らない、と思っていた。そんなことはない、そんな思い込みなんてまるきりお笑いぐさだ。ミンフンはもともと、極めて原始的で本能的な行為なのだ。あらゆる人の遺伝子に、そのやり方はしっかりと刷りこまれている。行為のための機会に恵まれさえすれば、眠っていた本能が勝手に目を覚ます。
 たまらなく愛おしいと感じた。そうして彼らは死者の花を摘んだ。大人二人がかりで、かよわい子どもの身体をしたたかに陵辱した。事が進めば進んだだけ心は一つになっていく。ワンダはかつてなかった強い実感を得ている。ミナミと繋がっている、そのことを感じる——少女を中間に介して。
 いたいけな、無垢な死者の少女の身体を夢中でむさぼる。オーガスムに達するまでに大した時間はかからない。口からは自然と、獣じみた咆哮が漏れ出した。絶頂に達するとともに、熱くたぎった体液が自身の身体の内側から吐き出される初めての感覚がワンダを驚愕させる。未知の快感に大いに心をかき乱されながら、同時に極限のカタルシスに気を失ってしまいそうなくらい陶酔した。ワンダたちの愛液が清廉潔白な少女の肉体を汚す。
 気づけば少女は恍惚の表情を浮かべている。あ、気持ちよさそう……。官能に溺れているのだ、とわかった。子どものそれとは思えない少女の表情が、無理矢理犯されているにもかかわらず全身で快楽を受け止めようとする貪欲な姿勢が、ワンダたちの欲望をさらに煽りたてる。止まらない、と思った。何度も何度もひっきりなしに絶頂は訪れる。天井破りの快感とともに吐き出される体液が死者を穢すその背徳的な光景にますます情欲を昂ぶらせながら、
「今わかった」ワンダは言った。
「うん。そうだったんだね」ミナミは言った。
 二人は死者の身体を、それまでよりもさらに強く、壊れてしまいそうなくらいに、強く、強く抱きしめた。褐色に近かった肌はいつのまにか、うっすらと美しい桃色に変色し始めていた。
 失った命を取り戻しているんだ、とワンダにはわかった。それは束の間のものかもしれなかった。死者の肉体は最後にはまた渇き、土へと戻ってしまうに違いなかった。
 それでもいい、と思った。ほんの短い間であっても、たとえそれが一瞬のことであっても構わない、この子に命を分け与えてやりたいとワンダは望む。たとえその代償に、自分自身の命を投げ出すことになったとしてもだ。それでもこの望みを果たしたい。
 少女は二人にすがりつき、だらだらと節操なく流れ出してくる二人の透明な液体をせき止めようとする。けれどもその努力は報われない。愛液は少女が必死になればなるほどかえって溢れ出してくるのだった。流れ出る液体を押さえこもうとあてがわれた少女の手はワンダたちの体液のみずを吸い込んでしまう。吸い込まれた水は少女の全身に浸透する。そうして身体をめぐるみずにより少女は命を与えられていく。
「おかあさん」と少女は言った。
 ここは累楼の地下階で、少女は七年前の死者。そして彼女は七歳になる。彼女はワンダたちの子どもだった。遠い日に流れたのだ——彼女は水子だった。ワンダたちは、決して生きては出会えないはずだった自分たちの子どもに思いがけず再会し、そしてミンフンによって生を与えた。
 お互いが生きる者同士として対面していられるのは一瞬のことになるだろうとわかった。それでもいい、とワンダたちは思った。それでも自分たちの娘を文字通りの孤独の淵から解き放つことができるのなら構わないと思った。だから二人はとめどなく眼球からこぼれおちる体液を流れ出るままにした。そのことが自分たちの命を脅かすことになるとうすうす気づいていたけれど、留めるつもりはなかった。
 だから最後には、ワンダたちの体液は完璧に排出されつくしてすっかり涸れてしまう。水分を失った身体は土塊に変わる。そうしてワンダたちは死者になる。
 少女は安らいだ表情を浮かべた。死者となった親たちに釣られてのことだった。それからほどなくして、二人ぶんの涙の洪水でふやけた土塊の身体は形を崩して流れて消える。

       

 累楼地下十階の男は近隣の死者たちの間で囁かれはじめた噂に強く興味を引かれる。自室を出て上の階層にのぼった。地下七階に。一つの扉の前に近隣の階層の居住者たちが集まっていた。男は知人を見つけて話しかける。もともと人付き合いが得意な方ではなかったけど、十年も累楼にいれば近接するフロアに気のおけない友人の何人かくらいはできる。
 知人が男に伝える。滅多に起こらないことが起きたのだ、という。
「〈消失〉か?」男は訊ねた。
「そうだ」と知人は言った。「あ、おい、ちょっと待ちなよ……」
 他にも男の行動に気づいた何人かの住人たちがどよめいたけど、男は彼らを振り返りもせず、足も止めない。〈消失〉の起きた部屋に踏み込んだ。そこは地面が柔らかく、しっとりと水気を含んでいる。そうやって整えられた室内全体に、無数の黄水仙が咲いていた。
 ミンフンのときに生きている人が流す液体は、死者たちの間では「涙」と呼ばれている。ミンフンのみずは生命のみず。おそらくこの部屋の居住者は、ミンフンのみずによって土塊の容器から解き放たれ、自らもみずとなって地面の土に染みこみ、黄色の花を育てたんだろう。
 累楼には喜びも悲しみもない。死者の世界に葛藤はなく、いつまで続くかも知れない長い長い旅の同行者として、安心だけがずっと彼らに寄り添い続ける。それはそうなんだけど——ふと、疑問が胸をよぎった——仮にもし自分が、今も生きて不安定に変動する「心」という厄介物を持ち続けていたなら、今回のできごとに対して何を思うだろう? 感銘を受けるか? あるいは悲しみに暮れる? あるいは彼らの不器用さに呆れるかもしれない。……それとも、結局やっぱり嫉妬するのかな。
 想像することは困難だ、と彼は思う。そのためにはあまりにも長い年月を死者として過ごしてきてしまったし、根本的に、想像力を働かせることに対する興味自体がすっかり薄れてしまっている。だからすぐに考えることをやめてしまった。
 そして男は〈彼ら〉のことを考え始める。地上からやってきた若い夫婦のこと。累楼で死者になった彼らについては、多くの人が証言してくれた。互いに寄り添いあうようにして地下一階へとむかう二人の姿を、何人もの住人が目にしていた。もちろんそうだろう、死者はいつでも常に規則正しい。
 久しぶりに顔を合わせてみよう。彼らの「その後」の話をゆっくり聞かせてもらうのも悪くないかもしれないな。もしくはここの先輩として、死者のくらしの要点なんかを話してやってもいい。——そんなことを考えながら、生きる者たちの世界にほど近い地下一階を目指して、アラキは階段をのぼりはじめた。

文字数:20452

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