夢潜り
僕が彼女の夢に初めて潜った時、外は酷い雨だった。
コンクリートの巨大な堤防の上に僕たちは立っていて、目の前には灰色の空と今にも襲いかかってきそうな荒波がどこまでも広がっている。
「せっかくお弁当作ってきたのに、これじゃ食べられないわね」
彼女の細々とした声を掻き消すように雨粒が僕たちの傘を打ち立てる。
「車に戻ろう、これじゃクジラなんて現れないよ」
「イヤよ、せっかくここまできたんだもの。絶対に見て帰るんだから」
強風に煽られても微動だにしない彼女を見て、僕も覚悟を決めて海を眺める。
数分もしないうちに、彼女は面倒になって傘を閉じてしまった。
「そんなに濡れたら、風邪ひいちゃうよ」
「どうせもうびしょびしょだし、今更いらないわ」
そう言って雨に打たれる様子は少し楽しそうで、僕も傘を閉じて、二人でしばらく雨の恵みを満喫した。
この世界には、僕たち二人だけ。嵐が去るの待つ間、彼女は合唱曲を歌っていた。小学校で習ったらしいその曲たちを、僕はほとんど知らなかった。
一時間もしないうちに雨は止んで、雨雲を割くように青空が現れた。
僕たちは座って、彼女の握ってきてくれたおにぎりを食べた。
結局クジラは現れないまま、下りの階段を踏み外したところでその夢は終わった。
それから、何度か彼女の夢に潜った。彼女は医者だったり、画家だったり、女子高生だったりした。僕は患者として診察され、彼女のデッサンモデルとなり、人気女子高生バンドの追っかけになったりした。彼女の有り得たかもしれない人生を体験するのは、悪い気持ちはしなかった。雪の日の夜に潜った夢は、僕たちが新しく出会う夢だった。
混雑した電車の中で、吊り革に捕まる僕の前に彼女は座っている。
彼女はどうやら僕を知らないらしいのだけれど、彼女の読んでいる文庫本の革のブックカバーは僕が前にプレゼントしたやつだった。
しばらくして、急に彼女が座席を立って急ぎ足でドアの方へと向かった。お腹を抱えて疼くまる女子高生に駆け寄って「大丈夫?」と声をかける。付いていくように僕も介抱に加わって、そのまま次の駅で降りて救急車に乗るまで見送った。その後、なぜだか僕たちはスーツ姿のまま、平日の昼から居酒屋に向かった。お酒を飲めないはずの彼女は、夢のなかでは大酒豪で、浴びるようにジョッキを空け続けていた。僕は紅く火照った彼女の顔をいつまでも眺めていた。
「率直に申し上げて、病状はかなり悪化しています」
病院からの連絡で呼ばれた僕は、彼女の担当医から彼女について説明を受けていた。
「意識の反応は残念ながら着実に弱まっています。彼女の夢に潜れるのは、体力的にも脳波の反応からもあと一度が限界だと思ってください」
説明が終わると、僕はそのまま彼女の病室へ行って、夢潜りの機械のスイッチを入れた。ヘッドセットを頭につけて、彼女の夢の中に潜るのを待ちながら瞳を閉じた。
僕たちは手漕ぎボートに乗って、公園の池の上に浮かんでいる。
彼女は小学生くらいの幼い女の子になっていて、滝のような蝉時雨の中を、船は少しずつ進んでいく。
水面は太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
「この池、クジラ池っていうみたいだよ」
「クジラ!?クジラが住んでるの?」
彼女が下を見ようと乗り出して、船が傾く。
「いないじゃん」
不満げに、彼女は呟く。
「いないよ、クジラは海にいるんだ。ここにはいない」
「そんなことないわ、絶対いるの」
彼女は、小さい手を一生懸命叩いて、クジラを呼び出そうとし始めた。
「それはコイを呼ぶ時にするやつだよ、クジラじゃない」
諭そうとしても、彼女は叩くのを止めない。
船の返却時間が迫ってくる。僕もダメ元で一緒に手を叩く。
それでも、何も起きなかった。
「ほらね、やっぱり嘘だった」
彼女は膨れっ面をして、そっぽを向いてしまった。僕は苦笑いしながら、彼女と一緒に船を返した。
それから、僕は彼女と一緒にブランコで遊んで、駄菓子屋に寄ってサイダーを買ってあげた。滑り台で遊んでいる姿をみていたら、5時のチャイムが鳴った。
公園の鳩が一斉に飛びだって、気がつくと目の前には大人の彼女がいた。
「とても楽しかった」
彼女は、どこか覚悟を決めているような顔をしていた。
「私、そろそろ限界みたい。色々付き合ってくれて嬉しかったわよ」
「最後にさ、もう一度クジラ、呼んでみようよ」
僕たちは池のそばで、もう一度手を叩いてみる。すると、池の底から大きな黒い影が上がってきて、クジラが目の前に現れて盛大に潮を吹いた。
「君が正解だった」
「ありがとう。クジラも見れたし、もうこれで未練はない」
そう言って、彼女は僕の頬にキスをしてくれた。
「あなたの夢にも、遊びにいっていい?」
「もちろん。いつでも待ってる」
何日か家に篭って泣いた後、僕はクジラ池の公園へといってみることにした。
そこでは、彼女によく似た少女が、元気に走り回っていた。その姿を、僕はしばらく眺めることにした。
文字数:1998
内容に関するアピール
ありえないことを、ありえる形にするにはどうしたらいいのだろうと考えた答えの一つが、夢の世界に入りこむことでした。
梗概と違い実作なので、構成だけでなく文体や表現で改めて自己紹介になるような作品を届けられたらいいなと思いながら書きました。
余談ですが、昔から「夢」という言葉が、なぜ寝ている時に見るお話という意味と、将来の夢と表現するような理想や目標という二つの意味を持っているのかが気になっています。夢は深層心理を映し出す、なんて言われたりしますけれど、きっと今回のお話もその疑問が自分のどこかにあるからこそ思いついたお話なのではと思ったりしました。
答えや何かをご存知の方がいたら、ぜひ教えていただけたら嬉しいです。
文字数:306