丸くて、やわくて、冷たい姉さん

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丸くて、やわくて、冷たい姉さん

 「俺たち運命じゃない?」
 煙とともに吐き出された言葉は、シャンデリアの白い光の中に吸い込まれて消えた。あたしは、甘えるように男の肩に触れながら「そうだね」とにっこり笑う。本当は、誕生日が同じくらいで「運命」なんて言い出す男なんて大嫌いだけれど。
 真っ白なソファーと大きなガラステーブルの置かれたVIPルームはどこもかしこも光が氾濫していてぜんぶニセモノみたいに見えた。甲高い声で笑う女の子たちも、ここぞとばかりに羽目を外そうとする男たちも。
 
 男のグラスに付いた水滴を拭いながら、冷えてゆく指先に姉さんの感触を思い出す。
「ユミちゃん」
 男があたしの肩を抱き寄せて囁く。本当は、姉さんの名前。けれど、ここではあたしの名前。
「シャンパン入れちゃおっか」
 男がさらに強くあたしを抱き寄せる。革張りのソファがあたしのお尻の下で、ぎゅむと小さく鳴いた。男の胸は硬くて恐ろしいほど熱い。姉さんのやわらかさが、冷たさが、泣き出したいほど恋しくなる。あたしが腕の中で「うれしい」と大袈裟にはしゃいでみせると、男は満足げに笑った。
 
 アフターの誘いをどうにか断って、あたしはドレス姿のままタクシーに飛び乗った。今夜の満月は特別にきれい。濃紺の空にまん丸の月が、濡れた水蜜桃のように光っている。姉さんはきっと月と同じくらい、はちきれんばかりに膨らんで、いっそう冷たく冴えわたっているに違いない。一刻も早く姉さんに触れたくて、あたしは自分の身体を強く抱きしめた。
 玄関でヒールをむしり取るように脱ぎ捨てると、そのまま寝室に飛び込む。寝室は、窓から差し込む月の光に満たされて、薄瑠璃色に染まっている。セミダブルのベッドの上に横たわる姉さんが、仄白い光を放つ。透明な水風船のように、はちはちに膨らんだ姉さん。あたしは、脱皮するみたいに、ドレスやストッキングや下着をするすると身体から引き剥がし、素裸になると、姉さんの上に倒れ込んだ。
 薄くつるつるとした膜があたしの皮膚に触れる。この世界のなによりも優しくやわらかな感触。あまりの心地よさに、小さく息を漏らす。膜の中に満ちる透明な液体はひんやりと冷たく、あたしの体重をやわらかく受け止めた。今にもはち切れそうなほど膨らんでいた姉さんは、あたしの身体をいとも容易く、すっぽりと包み込む。熱い素肌が姉さんの冷たさにとろとろと溶かされてゆくような感覚。あたしと姉さんの温度が混ざり合う前の、このひとときがいちばん気持ちいい。あたしは、目を閉じて姉さんの膜越しに聞こえる遠いさざ波のような音に耳を澄ませる。
 
 「お腹のなかで透明なタマゴのまま消えてしまったのよ」
 母は姉さんの話をするとき、必ずこの言葉で始める。けれど、最初は、あたしに嘘をついているんだと思っていた。なぜなら、姉さんは、あたしが生まれた時からずっと、あたしのそばにいたから。母があたしに初めてその話をしてくれた時も、両親があたしを見つめながら姉さんを思い出しているときも、姉さんの消えた日に泣き出す母を慰めているときも、姉さんはあたしと同じ大きさのまん丸の身体を光に透かしながら、いつもあたしの隣にいた。
 10歳までは、両親がいつもあたしにしか話しかけなくても、家に姉さんのモノが一切なくても、あたしは心のどこかで両親も姉さんの存在を知っているんだと信じていた。けれど、あたしがいつもベッドの右端に寄って眠るのを笑われたとき、初めて、姉さんがあたしの世界だけにしか存在しないのだと理解した。
 それ以来、あたしは姉さんをこの世界に留めるために生きている。姉さんの名前を使って、みんなに「ユミちゃん」と呼ばれながら仕事をして、きっと姉さんだったらそうしたであろう柔らかい微笑みを振りまく。時々、お店の女の子と喧嘩して「ユミちゃん嫌い」と怒鳴られる。たまに、男があつい素肌をあたしに押し付けながら、切羽詰まった声で「ユミちゃん愛してる」と囁く。そうやって、姉さんの存在をすこしずつ他の人の人生に、世界に、刻み付けてゆく。
 たまに実家に帰ると、なぜか母がふいに、あたしを「ユミちゃん」と姉の名前で呼ぶことがある。あたしはそれがたまらなくうれしい。母は、すぐに「ミユちゃん」とくしゃくしゃの顔をして言い直してしまうけれど。
 
 あたしは身体を起こして、寝室の窓を開けた。ぬるくてあまい夏の夜風があたしと姉さんを包み込む。あたしがゆっくりと横たわると、姉さんがちいさく震えた気がした。月明かりに照らされた姉さんのなめらかな輪郭が淡くぼんやりと光っている。丸くて、やわくて、冷たい姉さん。水面に身体を沈めるように、あたしはゆっくりと姉さんの中におちてゆく。明日もきっと、あたしが姉さんのようにちゃんと笑えるように、こうしてずっと姉さんと一緒にいられるように、心の中で何度も何度も祈りながら。

文字数:1979

内容に関するアピール

「ありえない」ものとして、生まれてくるはずだった姉さんを書きました。そうしたら、「ありえない」ものを「ある」ようにしようと生きる人の話になりました。いない人になりきって生きるにはどうしたらよいだろうか?と考えて、主人公をホステスにしました。「ありえない」を「ある」に近づけるためには、自分以外の人の認知が必要なんだと思います。なので、主人公は自分が演じる姉さんを嫌われたり、好きになってもらえたりすることで喜びを感じています。
 
また、「ある」ように描く工夫としては、姉さんの手触りの描写を頑張りました。
姉さんのやわらかさや冷たさを感じてもらえたらうれしいです。

文字数:280

課題提出者一覧