閉区間[26,27]

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閉区間[26,27]

機械の唸りで目が覚める。体は寝袋の中でじっとりと汗ばんでいる。湿度が高いようだった。寝返りを打つ。鼻先が振動する壁に触れる。ひやりと、水滴の感触。僕は舌を伸ばして渇きを癒す。壁の向こうでワイヤーが微かに軋む音がする。

寝返りを打つと、反対側の壁はすぐ目の前にある。銀色の金属が薄闇越しに僕の顔を反射する。スーツケースと壁で挟んでいるポカリスエットのペットボトルを手にとると、寝袋を着たままあぐらをかいて、ちゃぷりと揺れる温い液体を飲み干した。今日の最初のタスクが決まる。水分の確保だ。天井裏にまだ備蓄があるものの、あるに越したことはない。

その間じゅうずっと、かすかな光が明滅を繰り返していた。秒針のように規則正しいリズムは、タグホイヤーの秒針と照らし合わせると実際のところ1秒ごとの感覚であることがわかっている。壊すべきか悩んだが、デメリットの方が大きいと判断した。2メートル四方の空間では無視のしようがないこの数字は、分かりやすく残された希望でもあったからだ。

見上げた電光パネルの数字は、今日も26から変わっていなかった。
エレベータに乗り続けて、今日で1ヵ月が経つ。

「変わらないってことは、悪化もしていないってことだ!」

明るく言い、自分を奮い立たせる。
寝袋から出て立ち上がり、天井のパネルを外して、蛍光灯をソケットに嵌めなおした。落ち着いた蛍光色の明かりが室内を満たす。

這い出た寝袋を丁寧に畳んで、寝室スペースにまとめる。四畳半にも満たないこの『部屋』が、今の僕の生活基盤。だからこそ、少しでも快適な空間にするよう心がけているのだ。エレベータのドアを正面に、左側全体が寝室スぺース、右手前が衣服置き場。右奥が書斎兼、物置だ。スーツケースを机替わりに、読書をしたり書き物をしたりできる。

衣服スペースには、仕事着、部屋着、下着類を、それぞれレジ袋に入れてまとめている。正面から見て一番左側が仕事着だ。重し替わりのMacbook Airをどけて、袋からシャツとスラックス、ジャケットを取り出して着替える。iphoneはスーツケースの奥底が定位置だ。最初は不便に思えたが、一種のデジタル・デトックスだと考えるようにしてからは悪くなかった。感性がクリアになり、日常の一つ一つのささやかな出来事に幸せを感じられるようなったのだ。クライアントと連絡が取れないことだけが心残りだが、今それを考えても仕方がない。まずは目の前の課題を考えよう。

スーツケースを開き、ブルーシートを取り出して広げる。それを四隅の荷物にかぶせてから、エレベータのドアの隙間に指をねじ込んで開く。ふっと室内の気圧が下がったのが分かり、次の瞬間、細かな水滴が風と共に吹き込んでくる。まるで牛乳の中にいるように、あたりは霧で満たされている。

ドライスモークじみた濃い霧は、滝のように上から下へと流れていく。こうしてみると、けっこうなスピードで上っているなと改めて思う。高層マンションのスピードは分速120メートルと聞いたことがあるから、秒速に直すと2メートル。ちなみに時速だと7.2㎞で、その速度で1ヵ月上り続けているということは、僕は今現在、上空5256kmにいる計算だ。

「僕は」ではなく「僕たちは」か。

箱が揺れ、ワイヤーが悲鳴を上げる。共鳴するように、四方から甲高い音が鳴った。
霧の滝を透かして、いくつもの影が浮かぶ。糸のようなワイヤーと、そこに連なるようにぶら下がっている沢山の直方体のシルエット。ちょうどチェス盤のように、僕のいるエレベータを取り囲んで、上下左右入れ違いに、無数のエレベータが並走していた。見渡す限りずっと。

最初の3日は、仮説の立案と検討に費やした。

パネルのボタンを色んな順番で押してみたらよいのではないか。
特定の時間に何らかの事象が起きるのではないか。
ここから思い切って飛び降りてみるのはどうだ?

しかし、それらの結果はいずれも思わしくなかった。結果として、生活維持のニーズと照らし合わせた仮説にすがることにする。つまり、「この無数のエレベータのどこかに、状況を打開する鍵があるのではないか?」という仮説だ。そのほかに有効な仮説と検証手段を思いつかない以上、当面はこの方向性で進めていくしかない。

対角、斜め下を並走するエレベータに走り幅跳びの要領で飛び移る。けっこうな音がしてエレベータが揺れるが、箱の中から声は聞こえない。この場所は「検証済み」だから当然だ。天井パネルを外して中に入り、がらんどうの室内に入ってからまたドアを開け、次のエレベータへ。繰り返した何度目かの着地で、箱の中から大きな悲鳴が上がる。中年女性の声だ。

口元がほころぶ。
人との関わりはやはリ救いだ。

不思議なことに、このエレベータで出会う他人はみな、ここに迷い込んだ直後なのだった。
僕は衣服入れ代わりに使っていた成城石井のレジ袋を思い出す。
彼女は買い物帰りだろうか?

笑顔は営業の基本。明るく朗らかな態度が、人の心を開く。

さあ、
今日も検証をはじめよう。

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