100倍速視聴モード

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100倍速視聴モード

「7月20日
普段、フリーで働いている僕は、通勤電車に乗ることがほとんどない。しかし今日は朝の8時から会議がある。中野駅から新宿駅までの中央線の5分間。総武線を使えば、7分だけれども、ちょっと遅れそうだから、中央線に乗らざるを得ない。
僕はぎゅうぎゅうの満員電車に押し込まれた。よし、扉近くに陣取ることができたから、片手は動かせる。僕はほとんど自動ドアに体を押し付けられている状態で、頬が押し付けられそうな状態で、映画を観ることにする。
最近ストリーミング・サービスに実装された「100倍速視聴モード」は本当に便利だ。2時間の映画を1分で鑑賞できる。ゴダールの「ソシアリスム」が予告編で、全編を高速で流していたよな。あれじゃあ、ストーリーはわからない。いや、そもそもゴダールは、等速で観てもわからないか。
僕は再生ボタンを押した。片手持ちだから、シークバーを動かすことはできないけど、100倍速なら問題ない。
1本目は、「パルプ・フィクション」。
タランティーノの初期作を観直そうとしたきっかけは、先週の打ち合わせだ。アニメスタジオを経営している僕は、新作準備のため、プロデューサーとして、監督や、脚本家とプリプロ打ち合わせをしていた。今回のコンセプトは、「世界観で魅せる作品」。そこで監督が「パルプ・フィクション」みたいにしようって言ったんだ。つまり、ストーリー展開に脈絡がなくても、面白く見られる作品。その方が、ありきたりの時間感覚から離れて、世界観そのものに浸ることができるって。
僕はその意見に同調した。そうすれば100倍速視聴されずに済みそうだしな。
ああ、打ち合わせのシーンを思い出していたら、映画は終わってしまった。さすが100倍速モード。どういうテクノロジーなんだ? 「ソシアリスム」とは違って、台詞も全部聴き取れる。字幕には対応していない。さすがに文章を100倍速で読むことはできないから。吹き替えしかないのが不満だね。そう、この最新型ワイヤレスイヤホン。第57世代とかだったかな。それを繋げば、どういう仕組みかわからないけど、人間の認識能力を拡張して、高速で音声を聞き取らせてくれるみたいなんだ。どんどん台詞が頭に入ってくる。
さあ2本目は、お決まり「シン・ゴジラ」だ。毎日欠かさず観る僕のルーティン。当時、早口過ぎて聞き取れないとか、話題になったよな。ああ、庵野さんが、通常の2倍くらいの分量の脚本を、2時間に収まる速さで、役者さん達に読ませたんだっけ? そうだ、その頃の僕は、倍速視聴の是非について、友人と激論を戦わせていた。宮台真司の「崩壊を加速させよ」という本を引用しながら、シネフィルを自認しつつ倍速視聴を肯定する彼のことを否定した。宮台さんは、倍速視聴にはクオリアがないと言っているって。友人は、そもそも時間感覚は人それぞれであって、小説だって、読むのにかかる時間は人によって違うじゃないか、と言っていた。この映画を観ていると、彼のことを思い出す。
ああ、ダメだ! 電車が揺れて、僕の体が、隣に立つ薄着の女性にぶつかってしまった。ムッとした顔で僕を見ているという風でもないけれど。単なるタイミングの問題。でも、痴漢に間違えられたら打ち合わせ時間に間に合わなくなるぞ!
はっ、再生が終わってる! 早く次の作品に進まないと、新宿駅に着くまでに、ノルマをクリアできなくなる。
3本目はこれ! うわ、今度は着信か。電話って本当にイラつくんだよな。人の時間を予告なしに奪う行為! 録音して送れっていうの! なら100倍速で聞けるからさ。
もちろん電車の中で通話に出るなんて、マナー違反はしない。でも、ただ通知を切るだけでも、時間って失われてしまうものだから。
そう、こうやって新宿に向かう電車の中で5本観ることで、僕の気持ちは、なんだろうな、くつろげるんだよ。ああ、少しの間時間を忘れてしまった。3本目に早く移らないと、あれ、ダメだ、MNPしたばかりのこのキャリア、電波が悪いみたいだ。うまく映画が再生されない……中央線は新宿駅に到着をした。」
 
 僕は今日の日記を書き終えるとともに、テレビに映し出された終わりかけの映画を停止しようとする。
「あ、ちょっと待って」
 同居している彼女が僕を制止してきた。
「エンドタイトルなんて省略しちゃえばいいじゃん? どうせ映画館じゃないんだしさ」
「ほら、最後のココ、ココがいいんだから」
 彼女が指差した先には「10000人の人達の合計1000万時間の仕事がこの映画に捧げられています」というようなことが書いてある。僕は素早く計算をして、映画って、500万分の1くらいに時間が圧縮されるもんなんだなって思ってから、彼女に日記の書かれたラップトップを渡す。「ちょっとこの日記、読んでみてよ。今朝僕が体験した5分間をそのまんま味わえるようしているんだ」と言いながら。

文字数:1998

内容に関するアピール

○「フラッシュ・フィクション」という媒体特性の活用
フラッシュ・フィクションは、作者の考える時間感覚とのブレが少ない小説形態であり、「体験としての小説」の究極形態ではないか、と解釈しました。
・テーマ
 上記のコンセプトを発展させ、「コンテンツを味わうのにかける時間」に着目しました。近年「倍速視聴」の是非が議論されていますが、その概念を加速させ、「ありえない」ものとして、SF的な設定として、映画の「100倍視聴モード」をテーマに置いています。
・表現
 「小説を読む実時間」にフォーカスし、「体感する小説」という特徴を活かすために「日記」という文体を選択しています。
 

文字数:281

課題提出者一覧