セイダクアワセ

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セイダクアワセ

 奥の部屋に続くドアをあけるとビジネスマナーの思念体が横たわっており、うわごとのように「させていただく」「させていただく」と呟いていた。声量のわりによく通るいい声だった。
 こちらに気づくと立ち上がり、十五度、三十度、四十五度の角度でお辞儀をし、ゆったりとした足取りで室内を一周した。寝転んだままため息をついた。それから、振り返り、振り返らず、小首をかしげ、微動だにせず、顔のない顔で微笑むと、真顔で破顔した。そっと人差し指を立てたが、その人差し指は中指であり薬指でもあって、同時に、思念体には指なんてないのだった。さて、とそれは言った∧言わなかった。なんにせよ、美声は脳内に直接響いた。いくつかの言葉は重なり合って届けられたが、整理してみれば次のような内容になった。
 ――ビジネスマナーの世界において、あらゆる現実は等価に存在します。
 ――わたしたちはこれを「清濁合わせ呑む」と言ったりします。
 ――今日はこれだけ覚えてかえってください。
 少なくともかえることはできるのだと、この部屋にきてから初めての安堵を覚えた。
 ――みなさまご存知のように、現代人は複数の現実を生きています。締切の向こう側には本当の締切があり、本当の締切を越えてしまえば、そこには逆に、いつでも大丈夫な世界が広がっている。
 なるほどですね。わたしは頷いた。入ってきたドアが音もなく閉まり、ぱちんと割れた。ドアたちは三々五々、岸辺に向かって駆けていく。甲高いはしゃぎ声が、波の音とこだましながら遠ざかる。胸の奥に、青ざめたような気持ちがにじむ。部屋のドアが閉まる音で我に返った。
 ――納期と予算と信用と、そのほか、さまざまな要素が干渉し合うなかで、白は黒になり、黒は白になる。
 ここだけの話、と、少しだけトーンを落として、声は続く。どっちでもいいんですよ、本当は。目の前の顔は、いろんなニュアンスの笑顔を多面的に展開してから、ゆっくりと無に収束した。
 それは欺瞞ではあるまいか。
 ――とんでもございません。可能性は現実の後ろ姿。正面から背中が見えないからといって、それが存在しないことにはならないでしょう。
 ほらほら、これがわたくしの後ろ姿です。マナーはそう続け、袂からひとふさの葡萄を取り出してみせた。果実からこぼれ落ちた朝露が、てんてんと、床に濃いシミをつくった。シミたちはしばらく床にへばりつき息を殺していたが、やがて起き上がり、横一列に並ぶと、使命感に満ちた足取りで森へかえっていった。シミたちを見送りながら、自分の喉がひどく渇いていることに気がついた。唇を舐めるのはビジネスマナーに反するだろうか。そんな心配をしているけれど、自分は喉も唇も持っていないことも、もう、知っていた。
 マナーと目が合った。黒目がちの瞳にはいくぶんの圧がある。
 おかえりなさい、とそれは言った。幾通りものわたしたちが室内でさんざめき、思い思いのただいまを伝えた。波の音が近づいてくる。

文字数:1220

内容に関するアピール

ビジネスマナー原則その一「名刺交換」

名刺交換の際は、相手の名刺よりも下に差し出すことで謙虚さを表現することができます。この際、謙虚さの争奪戦が勃発し、己の名刺を下へ下へとギリギリのラインまで下げ続ける局面に陥ることがあります。名刺位置の下方修正が行われるたびに、「名刺が交換されえた過去」のパスが発生します。双方が謙虚であることに対し貪欲で、グラウンドゼロ地点に到達しても名刺が交換できなかった場合は、世界線を移動してからやり直してください。

ビジネスマナー原則その二「電話対応」

オーセンティックなビジネスの場においては、呼び出し音が鳴ってから三コール以内で電話に出る必要があります。一コールで出てしまったり、四コールを超えてしまった場合は、世界線を移動してからやり直してください。

ビジネスマナー原則その三「訪問時の服装」

クライアントの会社を訪問する際、冬場であれば、ビルに入館する前にコートを脱いでおきましょう。気候変動の激しい現代ですから、防寒具を失ったことで凍死してしまうかもしれません。そんなときは、世界線を移動してからやり直してください。

文字数:473

課題提出者一覧