秘伝漏らすまじ

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秘伝漏らすまじ

安政七年三月三日。早朝から降り始めた季節はずれの雪が江戸城下を白く染めていた。
 午前九時過ぎ、彦根藩邸を出た大老井伊直弼いいなおすけ一行は桜田門にさしかかったところで水戸藩浪士の襲撃を受ける。駕籠の中にいた直弼はよもや一発の銃弾で腰を撃ち抜かれ、直後、駕籠の外から次々と身体を刺し抜かれた。髷を掴まれ駕籠から引き摺り出された直弼は、首に三度の太刀を受け絶命。直弼の首が雪上に転がるまで、ものの数分であった。直弼の首は水戸藩浪士の手によって一旦は持ち去られたが、彦根藩の必死の要請により同日夕刻送り返される。そして藩医岡島玄建の手によって胴体と縫い合わされることとなる。
 これが井伊直弼、最期の一幕である。だがその裏に、尾梶家だけに代々受け継がれる逸話がある。
 玄建は直弼の首と胴体を縫い合わせる前、一縷の望みを託し、首もとを切開し喉仏を抜き取り、そこに舶来品の怪しく光る空色の石片を埋め込んだ。大陸から伝わったという奇術である。縫合を終えて緊張の糸がゆるんだ玄建は、あろうことか雪隠せっちんに立つ。しばらくして居室に戻ると、遺骸が消えていた。その後、藩をあげての大捜索となったが、どこにも見つからない。
 玄建は直弼消失の責を負い、家族もろとも追放の沙汰。後に玄建は自害した。
 史実では、直弼は豪徳寺に埋葬されたことになっている。

 *
 
「編集長、これ聞いてもらえませんか。首相公邸の料理人という男からさっき聞いた話なんですが」
 ライターの松沢がわたしのデスクにやってきた。
「聞かせてみろ」わたしは言った。なんだって聞く、なんだって見る。それが編集部の鉄則だ。
 松沢がICレコーダーを再生すると、透き通った男の声がなめらかに語り始める。
「ねえ記者さん、あなたは首相公邸に秘密の部屋があるのをご存知ですか。実はダイニングルームの南側の一角に古めかしい扉があるんです。昔、首相経験のある人物から聞いたんですが、代々首相に任命されると、まずその扉の鍵を渡されるって話なんです。首相以外は誰もその扉の奥に入ることはできない。首相がそこで何をしているのかも口外してはいけないのだと。わたしがその話を聞けたのも、首相三代にわたって料理長としてお仕えしてきた実績と信頼によるものだと自負しています。お恥ずかしい話、昨日クビになってしまったんですが。実は数ヶ月前、小林首相の目の前でステーキを焼いているときに、ワインで機嫌が良くなった首相が言ったんです。『こんなまずい肉、あそこのゾンビにくれてやれ』って。そしたら坊ちゃんが、いえ、春休みということで二週間だけ滞在してらっしゃったんですが、坊ちゃんが言うんです。『ダメダメ、あいつは安静にしとかないと』って。すると首相は『子どものくせにウマいこと言うじゃないか』と笑うんです。『あいつが安静にしていた試しがない。安静から飛び出すのがあいつの業だ』と」
 そのどこかいたずらっぽい語り口を聞いているうちに、耳の奥深くがざわついてきた。男はそんなわたしを待つわけもなく、言葉を滑らせていく。
「そういや大臣連中がよく言ってたんです。横田のときも黒沼のときも、今の小林のときも、『あの人は首相になって政治が上手くなった。特にアメリカとの付き合いに磨きがかかった。おれたちの知らないブレーンでも雇ってるんじゃないか』と。つい先日、テーブルに料理を並べているときに、ものすごい口論が扉の向こうから聞こえてきたことがあったんです。ほら、いま、埋立が進んでる尖閣諸島に中華街を作る案があるでしょ。尖閣に中華街を作ることで中国の侵攻に歯止めをかけようというやつ。おそらくあれで、誰かと揉めてるんです。もう一人の声は聞こえませんでしたが、首相の反対する声だけがダイニングルームに響き渡って、こりゃあ今夜の食事も荒れるなって、暗い気持ちになったんですよ。え、なんでこんなことを教えるかって? そりゃあもう、クビになったんで。悔しくて悔しくて。キャベツの千切りが雑だなんて、ふざけてるにもほどがある」
 松沢が「このあとはただの愚痴なんで」とICレコーダーを止めた。
「まあ、記事にはならんだろうな」わたしは言いながら、否応なく震える手をデスクの下に隠した。
〈直弼を探せ。それが尾梶家の宿願だ〉
 父の冷徹な顔が浮かんだ。

そのとき編集部のテレビに緊急ニュースが入った。
【首相公邸で調理師の遺体を発見。他殺の可能性】

直感めいたものと同時に、背筋が粟だった。
「松沢、男の首は見たか」
「タートルネックを着ていましたが……」
「髪の毛は」
「キャップをかぶってました」
 全ては料理長のものを奪ったのだろう。
「そいつは井伊……、いや、この事件の犯人だ。どこに行くか訊いたか」
「皇居で日向ぼっこでもしようかなって……」
 わたしは叫びたくなるのをこらえた。
 ふざけやがって。何を企んでいる。
「皇居に行ってくれ。俺は……」
 豪徳寺に行ってみよう、と出かかった言葉を飲み込み、椅子の背にかけていたジャケットを掴んだ。
 お前なんだろう、直弼。必ず見つけ出してやる。尾梶、いや、岡島の名にかけて。

文字数:2090

内容に関するアピール

日本の歴史上、首をはねられた後に胴体と縫い合わされた人って井伊直弼のほかにいないんじゃないでしょうか。その特異な運命(死んだあとですが)に「ありえない」を重ねてみました。今回作品を書いて、直接的に何かを明示するより、間接的なものを積み重ねる方が、「ありえない、ある」を浮かび上がらせることができるのではないかと感じました。また個人的な執念みたいなものが説得力を与えるのではないかとも。

直弼がどうやって彦根藩邸から逃げ去ったのか、どのように首相公邸に居着くことになったのか、これから何を企んでいるのかなど、謎は多々ありますが、二千文字で完結(スッキリ)させるより、小説外に物語が広がっていくワクワク感みたいなものが描ければと思いました。編集長と直弼の関係は、明智小五郎と怪人二十面相や銭形警部とルパン三世のような、永遠のライバルとしてここから続いていくような気がします。

文字数:384

課題提出者一覧