夕暮れの空に漂う

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夕暮れの空に漂う

今日、小惑星が地球を掠めるという。

小惑星どころか雲ひとつない午後、古びた団地の黴臭い階段に、中年の男が座っていた。日が傾くといち早く影が伸びるその場所は、湿った空気を好む風にはお決まりの散歩道である。
男は酒瓶を手に、じっと空を睨んでいる。

人の子らが周りを囲んでいた。彼らはいつでも刺激に飢えている。それが台風でも見知らぬ男でも、好奇心を刺激されれば何にでも飛びつく。もっとも、今まさに輪に加わらんとする私が言えた義理ではないのだが。

「君たちは来世を信じるか?」
男がアルコール臭い息を吐いた。その妙に熱のこもった眼差しをよそに、なにそれ、つまんない、と子らが口々に不満を露わにする。
「来世っていうのは、次の世界のことだ。要するに、生まれ変わりを信じるか?」
「なんでもいいの?」
「なんでもというわけではないが、まあ……そうだな」
男の言葉に子らがわっとはしゃいだ。恐竜、お菓子屋さん、仮面ライダー、エジソン、魔法使い、総理大臣……。次から次へと、よくもまあ浮かんでくるものだ。
「違う、そういうことじゃない。なりたいものじゃない。……いいか、おじさんはな。君たちのために言ってるんだよ。その時が来ても、来世を信じていれば少しは気が楽だろう?」
「意味、分かんない」
体の大きな少年が男に食ってかかった。
そうだそうだ、と抗議の声が上がる。それもそうだろう。この子らはついこのあいだ生まれたばかりのようなものだ。生まれ変わりだの来世だの、そんな遠い先の話は退屈もいいところに決まっている。
「まあ聞け、なんでこんな話をしたかと言うとな」
男は言葉を止めると、すう、と息を吸った。それから緊張した面持ちでひとりひとりの顔を見回し、言った。
「おじさんは、前世、空だったんだよ」
しん、と子らが静まり返った。突拍子もない告白は春の緩んだ空気によく馴染んだ。そんな空気を知ってか知らずか、そ、ら、と男がゆっくり繰り返す。漣のように子らの肩が揺れ出した。
「そら?」
そらって、あのそら? と、眼鏡をかけた少年が人差し指を立てた。
「そうだ。その空だ。スカイだ」
口を真一文字に引き結び、いたって真剣だと示すように男が深く頷く。一人が我慢の限界を迎えると、子らは一斉に笑い声をあげた。
「じゃあさー、雲は?」
「俺の一部、まあ、毛みたいなもんだ」
「雨は? 雪は?」
「悲しくなったら雨が降ったし、怒ったら雷が落ちることもある。お前たちだって叱られたら泣くだろ」
「泣かねーし。おっさん、空の証拠出せよ」
「証拠は……」
男が口ごもった。そんなものあろうはずもないのだが、子らは残酷だ。すぐに「しょーこ! しょーこ!」の大合唱がはじまった。大人を言いくるめることほど楽しいことはない年頃なのだ。
「というか、前世ってことは、空のおじさんは死んだの?」
歓声の合間、するりと眼鏡の少年が尋ねた。男がほっとしたような目で少年を見る。
「ああ。それが問題なんだ」
「どうして死んだの?」
「嫁と喧嘩してな」
「嫁って?」
「地球」
地球とは大きく出たものだ。私は呆れを通り越して感心していた。自分が空で、奥さんが地球。なんてスケールだろう。
「どうして喧嘩したの?」
顔を伏せ、ボソボソと言い淀む男を、子らが囃し立てる。
「近くを通った流れ星に見惚れて……。それで、嫁さんを怒らせちまった」
「それって浮気じゃん!」
女の子が叫んだ。別の子がサイテー、と吐き捨てる。男は小さく背を丸めた。その姿は浮気を責められる父親そのものだ。
「ああ、そうだ。謝ったんだが、嫁さん、怒って噴火して。もの凄い大噴火だったから、火山灰やら何やらで一気に覆われて、それでお終い。俺は本当にバカで……」
だんだんと男の声が尻すぼみになっていく。今にも泣きそうだな、と思っていると、本当にぽろりと涙までこぼしてしまった。
大の男の情けない涙に、子らは手を叩いて喜んでいる。浮気、浮気、と拍子をつけて男の周りを走り回る子までいる。
「そういえば、なんで来世のことを聞いたの?」
眼鏡の少年が尋ねた。
「そう、だからそれだよ。さっきニュースを見て思い出した。今日、最接近するっていう小惑星が、あの日のあの子にそっくりだったんだ。つまり、この空が前世の俺なら、すぐ近いうちに」
唾を飛ばす男の言葉を遮って、誰かがわあっと叫んだ。
「鬼ババが来た!」
暗くなる前に帰れ、と肩を怒らせた女性が近づいてくる。
途端に子らが散り散りになった。
歓声をあげ、楽しげに自転車で去っていく。

名残惜しいが、お開きのようだ。
よろよろと立ち上がる男を尻目に、私も天へと駆け上った。巻き込まれた木の葉や羽虫が渦を描く。団地が、町が、あっという間に小さくなっていった。海へと出ながら、記憶を巡らせる。噴火するとしたらあの山か、それとも。
久しぶりに面白い話を聞いた。
来世があれば、私も人に生まれ変わることがあるだろうか。
その時、風であったことを覚えていると良いが。

文字数:2000

内容に関するアピール

科学の発展した未来ではタイムワープも当たり前かもしれません。今の私たちの生活も大昔の人からすれば十分「ありえない」ものだと思います。

そこで本題材の自己条件として、過去と未来、どの地点の人間が読んでも「ありえない」と感じるであろうこと、というテーマを設定することにしました。
子どもに馬鹿にされる中年男性が、かつて自分は空という圧倒的に雄大な空間そのものであったのだと嘯く。この壮大で荒唐無稽なギャップの中に自分なりの「ありえない」を表現してみました。

また、最後部では語り手が風であることを明かします。妄言に過ぎなかった男の主張に、もしかしたら、と思わせる部分を生むことができれば、読者の「ありえない」を「ある」に変えたことになるのではないか。その上で、二千字という制限の中、爽やかな読後感と、できたら世界の可能性の広がりを持たせたい。
そうした意図と挑戦をもって、このような作品となりました。

文字数:394

課題提出者一覧