可能性の庭にきみの面影が残る

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可能性の庭にきみの面影が残る

秋葉原にはありとあらゆる“部品”が揃う。電子機器から核の設計図、まだ見ぬ定理の抜粋まで——森羅万象、有形無形から細切れにされた、ただそれだけでは役に立たないあれこれがこの土地には無造作に転がっている。
そんな魔境なら、うっかり人体のひとつくらい組み上がったっておかしくないと考えた僕は、さっそく収集に取り掛かる。髪や指くらいはどうってことはない。臓器もまぁ、収集するにはそれなりに苦労はしない。それらを上手く継ぎ合わせるためのハウツーまで手に入ったのはいいものの、僕の頭を悩ませていたのはその“中身”のことだった。肝心のガワが組み上がっても、それを動かすOSがない。魂の構築は喫緊の問題だった。怪しげな医学書や、降霊術の本を散々に引っ掻き回した末に、僕はひとつの仮説を立てる。
僕はこの秋葉原にすべての断片があると仮定する。あらゆる全ての断片がこの土地にあり、かつてあり、これからあるとする。秋葉原が万事の断片が通過する中継地点であるとするなら、途方もなく遠大な時間軸を通して捉えることでこの秋葉原に記録された情報は完全な形となって現前しうる。氾濫する可能性の庭の中からは、あらゆる可能を成立させる組み合わせを引き摺り出すことができるはずだった。
収集した脳の断片を繋ぎ合わせた演算装置を回し続け、過去と現在と未来の三方向を観測させているうちに、細切れにされた膨大な欠片は有機的に絡み合い、みるみるうちに複雑な可能性世界を構築してゆく。その循環の一部に“それ”を置くと、“それ”は瞬く間に情報と経験を血肉に変え、“それ”はやがて“きみ”へと至る。
文脈を得た情報が絶えずきみの中を流れ、使い古された頭脳の網目に洗い流されなかった情報がこびりつく。次第に網目は汚れ、太り、血脈となっていつしか拍動をはじめる。魂の源流がきみの中を渦巻く。
きみがきみとして完全に近づくごとに、秋葉原には徐々に綻びが生まれはじめた。いまだ存在し得ないはずのものが突如として組み上がり、あったはずのものが解体され、不完全な部品だけがその場に残る。はじめのそれは些細な綻びであったが、いつしかラジオ会館が一夜にして跡形もなく消え去り、その跡地に残された残骸の中から核兵器が忽然と組み上がっていたことによって僕はいよいよ確信を持った。きみを作る過程で拾い集めた可能性によって秋葉原を通過していく事象に捻れが生まれている。可能性を可能に汲み上げたことで、いまここに存在している”可能であったもの”が次第に可能性へと還元されはじめているのだ。
物理法則が解体され、秋葉原を定義する万物が意味を持たない断片的なカケラとなって霧散していく。秩序を失っていく秋葉原の内側で、僕は徐々に魂を固定しつつあるきみの首へと手をかける。きみをここで壊したところで、秋葉原の定義が元に立ち返る保証はない。
きみに触れた指先から自我が解け出して、きみの未熟な魂が僕の内面へと染み込む。きみの未熟な魂と、僕のひとつの魂の境界は曖昧なものになってゆく。秋葉原の解体は進み、着実に僕の喉元まで迫っていた。
きみの魂に触れて、その不完全な輪郭を僕は知る。いまではきみが辿ってきた道筋も、これからの行く末もすべてが自分のことのようにわかった。
僕はきみの辿った道筋を逆回しにするように引き返してゆく。不完全なきみの魂を解体する代わりに、僕は僕の魂を解体することで、分かたれようとする秋葉原の定義をひとつずつ固定していく。可能性は可能性へ戻り、可能は確かな可能となって再構築される。
いつか元通りになった秋葉原のどこかで、きみは継ぎ接ぎの身体で目を覚ます。きみはその出自を知ることはない。だがきみが手に入れることのできなかった魂の欠落に、僕の魂のいち部分が残る。

 

内容に対するアピール

「ありえないを描く」というテーマにおいて強烈に思い出されるのは、野崎まど『死なない生徒殺人事件』における「四角形と五角形の中間の図形」という描写である。こういった現実では到底不可能なものを「あるものだ」として説得しまえることが文章のおそろしさであるように思えるし、それは同時に凄まじいことだと思っている。
着想は、秋葉原を歩いた田舎者の精神が「秋葉原なら人体の一個ぐらい、パーツを集めて組み上がったっておかしくないよなぁ」と考えたことによる。これは実際マジで組み上がるんじゃないかと思っている。

文字数:1795

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