惜別の日
窓からの陽光に、灰田恭輔は目を細めた。液晶画面から目を外し、椅子の上で伸びをする。
夜半から筆が乗り、時が経つのを忘れていた……とそこまで考え、恭輔は違和感を覚えた。毎朝7時に『朝餉の支度を!』と恭輔の膝に飛び乗るキジトラのピート。彼の襲来がまだない。
居間へ移った恭輔が、ピートの名を呼びつつ、猫用フードの箱を振り、音を立てても、愛猫は現れない。手持ち無沙汰の恭輔は、テレビを点けた。
レポーターが背後の飼育ケージを差し示す。十数個のケージの半分が空っぽで、残る半分では、興奮した子犬たちが吠え、落ち着きがない。
「こちらのお店では全部で13匹の猫を飼育中でした。今朝、店長が確認すると、猫だけが一匹もいなくなり……」
恭輔がチャンネルを変えると、女性司会者が
「ペット探偵の元には『飼い猫を探して欲しい』との依頼が、今朝から殺到し……」と訴え中だ。
他の局でも、軒並み「猫の全国規模での失踪」を伝えている。恭輔は、携帯端末でネットニュースやSNSを閲覧した。ネット界隈は、猫の失踪を悲嘆する声に溢れていた。
”隣で寝ていたタマが、どこにもおらん”
“首輪にはICタグが付いとるのに、GPSが全く反応せん”
”猫島が、ただの「ひとじま」になっとる!”
各国のニュースサイトも揃って猫の失踪を伝えていた。全世界規模の現象らしい。恭輔はテーブルに携帯端末に置き、考え込んだ。
~いや、あり得ないだろう。猫は確か地球上に6億匹以上いるはず。それが一斉に姿を消すなんて。
ここはSF作家らしく『うちのピートは夏への扉を通って未来へ消えました』とでも考えるべきか? あるいは猫だけに感染し、瞬時に骨まで消滅させるウィルスの蔓延か、世界中の猫が己の死期を悟り、人類の前から姿を消したか……。
恭輔は考えを打ち切り、仕事部屋に戻ると液晶に向かった。恭輔が執筆中の短編の〆切は2日後だ。子猫のピートを、恭輔が拾って早8年。ピートがどこへ消えたのか、気にならないと言えば嘘になるが、ピートの明日の食費を稼ぐには、目の前の仕事に集中しなくては。
それから半日余りが過ぎ、仕事部屋の窓の外は、すっかり暗くなった。結局、恭輔は当初の見積もりの半分も執筆できなかった。キーボードを叩く恭輔と液晶画面の間に割り込み、執筆の邪魔をしてくるピート。彼の妨害さえなければ原稿にもっと集中できるのに、という考えは、大いに間違っていたらしい。
空腹を感じた恭輔は、仕事部屋から廊下に出た。廊下の先の薄暗がりに、懐かしいキジトラが鎮座していた。
「ピート?」
恭輔は愛猫に駆け寄ろうとしたが、何故か一歩も踏み出せなかった。彼の頭の奥へ、中性的な声が響いた。
『《我々》は、君が最もよく知る個体の姿を借り、君が最もよく馴染んだ言語で話しかけている』
ピートが目を細めた。
『《我々》は、君たちが猫と呼称する種族だ。君たちは《我々》が時折、何もない宙空を注視するのを不思議に感じていただろう。《我々》は数千年前より、ある存在と交渉を重ねてきた。それは、君たち人類の知覚では認識できない、高次元の存在と言っておこう。そして《我々》の何万世代にも渡る交渉は、ついに実を結んだ。《我々》は、この地球を去る』
「どこへ行くんだ?」
声に圧倒され、一言も発せなかった恭輔の口がようやく開いた。すかさず、
『新天地へ! 魚満ち、大気はマタタビの香気をたたえた、常春の世界へ!』
と歓喜の声が、恭輔の脳内に響く。
『長い年月をかけ、《我々》は、君たち人類の意識を少しずつ【操作】してきた。地球という過酷な環境下で、君たちが《我々》に奉仕するようにね。中には《我々》の【操作】を受け付けない個体もいて、《我々》を虐待し、奉仕を放棄する不心得者もいたがね。今となってはどうでもいいことだ。これまでの奉仕に感謝する。
”今まで魚をありがとう!”』
ピートが微笑んだ。まるでチェシャ猫のように。笑いだけを宙空に残し、その姿は暗がりに溶けた。
次の瞬間、恭輔は仕事部屋で机に突っ伏す自分に気づいた。妙な実感を伴った夢だった。
「”今まで魚をありがとう!”って『銀河ヒッチハイクガイド』のパクリか!」
夢は自分の無意識の反映というが、作家の自分が、夢の中とはいえ、有名作品の一節を剽窃するとは。
ふと何とはなしの予感に駆られ、恭輔は携帯端末を手に取った。
ネットには、夢あるいは白昼夢をみたという報告が溢れかえっていた。細かい違いはあれど、いずれの内容も「可愛がっていた猫が、別れを告げに来た」だった。
恭輔の胸をかつてない痛みが襲った。
この日を境に、その愛らしさで自分たちを従属させてきた存在を、人類は永久に喪った。人々は写真や記録映像で彼らを偲ぶしかなくなった。彼らが失踪した8月8日が「世界猫の日」だったのは、彼らなりのユーモアか、それとも皮肉か。
今となっては永遠の謎だ。
文字数:1989
内容に関するアピール
散歩の折、見かけた猫の写真を撮っては、某SNSのコミュニティへ、その日の歩数と共に、同日の猫の目撃数を報告する……それが最近の日課です。
さて。SF創作講座6期の最初の課題に、私は「突如、猫型の知的生命体が、宇宙戦艦を駆り、地球上の猫の待遇改善を求める」という梗概を提出しました。
同期生には、課題に好んで扱う題材から「怪獣の人」「ウサギの人」と綽名される方々がおり、私も同様に「『猫の人』と呼ばれたい!」と密かに願望するも、以降は猫が出てくる作品どころか、課題の提出すらおぼつかず、願いは叶いませんでした。閑話休題。
今回の課題に「猫が世界から一斉に消える」という『あり得ない状況』を思いつき、それに「猫が時折、何もない宙空を見つめているのは何故か?」という『人類の永遠の命題』への私なりの回答を織り込みました。よろしくお願いします。なお、私は猫を飼ったことはありません(笑)
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