梗 概
In Our Room
美禄からメッセージが届いたのは、世界が終わる8時間前だった。
通常は何千年と徐々に進行するはずの地磁気が一瞬で逆転する。そして超高温のプラズマが発生して地上を焼き尽くす。
そんな世界の終わりが知らされたのは36時間前で、パニックになる余裕すら人類には与えられなかった。いつもの週末と同じように家族とすごす以外の選択肢は私にはなかった。幸いライフラインもインターネットも何不自由なく機能していて、息子は大好きなアニメを夢中で見ている。夫は友人たちとウェブカメラを繋ぎ最後の飲み会を楽しんでいる。私はといえばパンを焼いたり、独身以来の煙草を吸っていた。
私たちの庭に、私たちの部屋。愛する息子に、愛する夫。悪くない人生だった。
美禄は大学時代の恋人だった。彼女と別れて、今の夫に拾われた。あれから十年。何度かやりとりしたけれど、美禄からメッセージを送ってくれたのは初めてだった。
”やっほ。時間がないから手短に。セカンドボディで待ってる”
セカンドボディ。時代の徒花となった数多の仮想現実サービスのひとつで、血圧や脈拍といった生体情報を反映したアバターが作れるのが売りだった。ライト勢はウェアラブルデバイスで済ましたけれど、私や美禄みたいなガチ勢は埋め込んだ。頭皮を裂いて、頭蓋骨に直接チップを。そうすることでアバターはより鮮明にふたりを反映した。
ゴーグルを装着して、私たちの部屋にログインする。IDもパスワードも忘れるはずなかった。私たちの分身は私たちと同じ時間の流れを生きて、老けて、朽ちていた。「ねえ、そんなことより」と近況を話しまくる私を美禄が黙らせ、「時間表示が変なの」と耳打ちする。現実と同期しているはずの仮想空間の時刻が確かにズレている。「地磁気逆転が脳波に影響を与えているんだと思う」と興奮した口調であっちの美禄が続ける、「何分ぐらいこっちにいた気がする?」。
「30分くらい?」とゴーグルを外すと、現実では10分しか経っていない。こっちの美禄から”びっくりしたでしょ”とメッセージが届いていた。
パンが焼き上がるのを待って、息子と夫がお昼寝するのを待って、再度ゴーグルをつける。あっちとこっちを流れる時間のズレはどんどん拡大しているようだった。「地磁気が逆転する瞬間、この部屋の時間は永遠の長さまで引き延ばされる」と私たちは確信する。「じゃあまた」と美禄がログアウトして、私ひとりが部屋に取り残された。
世界が終わる瞬間、あるいは永遠に、目に焼き付けたい風景を私は考える。それはどちらの部屋だろう?そもそも、はたして美禄も来てくれるのだろうか?
ふかふかのパンを切って、紅茶を淹れる。息子と夫は抱き合って眠っている。私はふたりを深く愛している。
世界が終わるときに、私はなにを選ぶんだろう。愛だろうか?あったはずの人生だろうか?
なんだか合格発表みたいでわくわくしてしまう。
一気に紅茶を飲みほして煙草に火をつける。ゴーグルを片手に、私は世界の終わりを待ち焦がれている。
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