ラムズフェルドをやっつけろ!

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梗 概

ラムズフェルドをやっつけろ!

2003年5月。小学6年生の澪次はイラク戦争のニュースを見て以来、不登校になった。戦争で人が死ぬことがうまく理解できない上、記者会見で掃討作戦を語るラムズフェルド国防長官の悪魔的な笑みが頭にこべりついてしまい、ラムズフェルドの幻影まで見えるようになった。
 澪次の父は洗濯機コレクターで古い洗濯機を何台も所有。洗濯機置き場には日常使いとは別にもう一台、年代物が置いてある。ラムズフェルドに怯える日々を過ごす澪次は、古い洗濯機を回し、渦を眺めるのが好きだった。しかもラムズフェルドが洗濯機置き場には入ってこないため、そこで寝起きするようになった。

父と母が仕事に出かけたある午後のこと。澪次は母(瀬戸内海沿岸出身)が代々受け継いできたビンテージのブローチ(青銅製)を洗濯機に落としてしまう。洗濯機の渦を見つめていると突然、剣を抱いた少年が顔を出す。少年は自身を安徳天皇と名乗り、壇の浦の合戦の最中、海に身投げし、渦に沈んだらここに出てきたという。剣は三種の神器の一つ、草薙の剣だった。澪次は母と離別して悲しむ安徳をドライヤーで乾かし、カレーパンをあげる。
 途方に暮れる安徳がふとラムズフェルドに気づく。澪次は安徳にラムズフェルドが見えることに驚く。安徳がラムズフェルドに誰何すいかすると、かつてこの家で亡くなったモノマネ芸人の幽霊で、澪次の恐怖心に反応してラムズフェルドに変化してしまったのだという。元の姿に戻りたいが戻り方がわからない。(幻影ではなく幽霊だった。洗濯機置き場で死んだから怖くて入れないことが判明)
 澪次は安徳とラムズフェルドと交流を深めるが、しばらくすると安徳が壇ノ浦に帰りたいと言う。それに対しラムズフェルドが壇ノ浦の歴史を話し、帰るなと言う。だが安徳の覚悟は揺るがない。澪次は自分にできることはないかと安徳に問うが、あるはずないと一笑に付される。子どもながらに戦争当事者の強い思いに胸が苦しくなる澪次。別れを悟った澪次は安徳にゲームボーイアドバンスをプレゼントする。ソフトは「星のカービィ 夢の泉デラックス」(※)

安徳が洗濯機に入る。澪次はせめてもの優しさで手洗いモードで洗濯機を回す。だが安徳はゆっくり回転するだけで向こうに行けない。安徳に怒られて普通モードに変更。安徳は激しく回転し、沈む。
 安徳が戦場に戻ったことに心を痛める澪次はラムズフェルドと戦争について語り合う。遠い国で起きていること、遠い過去で起きたこと。そして当事者と傍観者について。
 ふと置かれたままの草薙の剣をラムズフェルドが見つけ、澪次にこれで自分を斬ってくれとお願いする。(神器で斬られたら元の自分に戻れるかもしれない、もしくは成仏できるかもしれないと期待。)澪次は拒むがラムズフェルドの懇願に負け、勇気を振り絞って斬りまくる。だがラムズフェルドに変化なし。それでも澪次は斬り続ける。もっともっと、とラムズフェルド。
 回り続ける洗濯機から再び安徳が顔を出す。「剣を忘れた」と言いかけるが一心不乱な二人を見て、笑って沈んでいった。

後日。森林公園のベンチで歴史の本を読んでいる澪次。
母美かあびい23年。安徳上皇、崩御。享年52歳」
 澪次は草薙の剣を公園に隠し、大人になったら壇の浦に沈めにいくことをラムズフェルドにだけ聞こえるようにつぶやく。ラムズフェルドが散歩者の犬に吠えられ、舌打ち。

文字数:1394

内容に関するアピール

(※)あきれかえるほど平和な「ぷぷぷらんど」の果てにある、眠りについたものに楽しい夢と安らぎを与える「夢の泉」を、ある日デデデ大王が水遊びをして占領してしまいます。カービィはみんなのお昼寝タイムを取り戻すために冒険の旅に出る、というゲームです。

ウクライナ。ガザ。戦争の傍観者がこれほど共感力を刺激される時代はありません。泣き叫ぶ人たちが他人じゃなくなり、死体が遺体化する。映像であれテキストであれ情報は強烈で、傍観者であるはずなのに戦争との距離が近すぎる。大人の、鎧をまとった心ならなんとかやっていけるけど、子どもの柔らかい心には厳しすぎるレッスンではないでしょうか。そんな思いが核となりました。
「傍観者はもはや視姦者としての罪を贖わなければならない」という脅迫観念のようなものの原形を澪次は感じています。

文字数:353

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渦のをちかた

洗濯機に背中をつけて体育座りをすると、からだがぶるぶる震える。後頭部をつけると目もぶるぶる震える。頭を離すと、ほんのちょっとだけ目がゆらゆらする。耳をすまさなくたって、ザバーン、バシャーンと水が渦をまく音が聞こえてくる。
 ぼくが洗濯機置き場で暮らすようになって二週間。まだまだ新米だけど、なんで今までここを住みかにしなかったのか不思議に思えてくるほど、とっくにここはぼくの王国だ。
 王国には洗濯機がふたつ並んで置いてある。ひとつは最新型の洗濯機で、ママがいつも使うやつ。もうひとつがおもに観賞用のおんぼろ洗濯機。いや、それじゃあパパに悪い。パパはおんぼろ洗濯機あらためレトロ洗濯機のコレクターで、ママにブーブー言われながらも、何年もかけてお気に入りの八台を買い集めた。庭の専用物置には七台がしまわれていて、毎月一台が最新型洗濯機の隣に交代で置かれることになっている。パパは最低でも週に一回は洗濯機にカビが生えないように物置を換気し、乾拭きなんかも欠かさない。ぼくは小学生になったころからそれを手伝うようになったからちょっとした洗濯機博士と自負している——そして子どものくせに話し方が理屈っぽいとママに言われる。広辞苑を読むのが趣味なんだからしょうがないじゃんと思うけど、それ以上に洗濯機の知識を語るパパの話し方がうつったのだ。だから文句はパパに言ってほしい——
 今月最新型の隣の座を勝ちとったのは、全自動型洗濯機のさきがけともいえる、ナショナルの1980年製「うず潮」だ。おじいちゃんバッタみたいなくすんだ緑色がかっこいい。それに機能も抜群。洗濯コースは、すすぎもできる「標準コース」「節約コース」と「洗濯のみ」の三つがあり、水流は「強/木綿・麻」「弱/毛・化せん」で選べる。水位は「低」「中」「高」に「再注入」もある。すすぎは「ためすすぎ」「注水すすぎ」で切り替えも可能だ。

ぼくは「うず潮」から背中を離し、床に寝そべる。この王国の最大の特徴は、その広さにある。ぼくが二、三度寝返りを打てるくらい広いのだ。それもそのはず、パパはあらかじめレトロ洗濯機をここに置くことを考えてこの家を買い、改築したのだ。だからぼくは思うぞんぶん大の字になれる。さっきより弱いけどそのぶん細かい振動が、背中やおしりやふくらはぎに伝わってくる。それをしっかり味わうと、うつ伏せになる。ひとりでにやにやしてしまうのは胸がくすぐったいからだ。
 この王国はすばらしい。だってトイレにだって行けるんだから。洗濯機を背にして左にトイレ、右にお風呂場がある。王国にいさえすれば、生活に困ることはない。布団はキャンプ用の寝袋でじゅうぶんだし、朝ごはんとお昼ごはんはママが仕事に行く前に運んでくれる。洗面台もあるから歯みがきもできる。着替えなんて、脱いだら洗えばいいんだし、干すのだって、窓から太陽の差し込むお風呂場がある。それに、踏み台に乗らないと手が届かないけど、洗濯機の上の戸棚にはバスタオル、替えのパンツや靴下、洋服も入れてある。ゆうゆうじてきって最近おぼえた言葉だけど、まさに今のぼくにぴったりだ。
 ぼくは満足した気分でトイレに入り、まだぼくには大きな便座に座っておしっこをした。そして、ようし、お昼ごはんまで洗濯機の渦をながめてすごすぞと胸をはずませてトイレから出たら、
「うわあ!」
 廊下から洗濯機置き場の入り口に手をかけ、こちらをのぞく悪魔の顔が見えた。
「ラ、ラ、ラムズフェルド!」
 恐怖のあまり思わず洗濯機のかどに背中をぶつけてしまった。ぼくは痛みをこらえながら、震える手でたたんでいた寝袋を広げ、あわてて中にもぐりこんだ。
 バカだった。王国に住んでいるのが当たり前になると、なんで王国に住むことになったのかを忘れてしまう。ぼくはハラハラする胸をなで、寝袋からおそるおそる頭を出し、廊下に目をやった。
「うわあああ!」
 まだいる、まだいるよ!
 ひたいの隅から流れる汗が目尻にしみた。
 大丈夫、心配するな。ラムズフェルドはこの王国には入ってこない。知っている。だからここを住みかにしたんだ。落ち着け落ち着け。こんなときこそ深呼吸だ。
 ようし、もう一度。そうっと廊下を見る。
 ……いない。
 ただそれを確認しただけなのにどっと疲れてしまった。
 ジッパーを足の先まで開けて寝袋から出ると、冷や汗をかいているはずなのに自分の熱気がもわもわとたちのぼってきた。
 後ろで「うず潮」が洗濯を終えるブザーが鳴った。蝉のような声。
 洗濯槽はからっぽだ。
 お風呂場のドアの、半透明のプラスチック板がほのかに光を受けている。
 ぼくは股のあいだでしわしわになった寝袋に目を落とした。
 ぼくはいつになったら学校に行けるんだろう。
 いつになったら、この王国を抜け出せるんだろう。

ラムズフェルド、覚えたての名前。
 とつぜんぼくの前に現れたアメリカの国防長官。
 ぼくは、この2003年という年を大人になっても忘れないだろう。
 ——あれは小学5年生の3学期がもうすぐ終わろうろする3月19日のこと。パパとママと晩ごはんを食べていたとき、テレビニュースでブッシュ大統領という人がイラクという国と戦争することを発表した。次の日から毎晩イラクの街や人の映像が流れるようになった。飛んでいくロケット。爆弾が落ちた街。破壊された建物。武器を持った兵士たち。カメラに向かって泣き叫ぶ、見たこともない服装をしたイラクの人たち。「民間人の犠牲者が……」と冷静に語るアナウンサー。そしてそれらすべてを平気な顔で眺めながら、ブッシュに文句を言ったり、いずれにせよフセインは……と言ったりして、ごはんをもぐもぐ食べるパパとママ。ごちそうさま。ごちそうさま? ぼくたちはふつうにごはんを食べていていいの? なんで人を殺すの? なんで誰も助けないの? 人が死ぬってどういうこと? たくさんのなんでが押し寄せて、わけがわからなくなった。
 そして4月7日、ぼくは6年生の始業式を休んだ。布団から出られなくなったのだ。理由はわからない。自分のなかのなにかがしぼんでしまって、力がはいらない。夕方になってやっと布団から出たけど、歯を磨くのもつらかった。パジャマを脱いで着替えて、リビングのソファでゲームボーイアドバンス「星のカービィ 夢の泉デラックス」をしていたらすこしだけ元気が出て、なんとか晩ごはんのテーブルにつくことができた。
 そこで、悪魔を見た。
 悪魔は、テレビの中にいた。
 ラムズフェルド国防長官という人が記者会見で「バグダットの宮殿のひとつを占領した。掃討作戦はまだまだ続くだろう」と話して、ニターッと笑った。その笑い顔を見て、ぼくは血の気が引いた。すぐに布団に横になって目を閉じたら、さっきのラムズフェルド国防長官の悪魔のような笑みがまぶたの裏にこびりついていた。
 翌朝、汗びっしょりで目が覚めると、夢か幻かラムズフェルド国防長官がぼくを見おろしていた。ぼくはこの世の終わりとばかりに大声で叫んだ。
 だから、ママが飛んでやってきた。
「どうしたの?」
 ママは目を丸くするばかり。
「ラムズフェルド! ラムズフェルド!」
「え? なに?」
「見えないの?」
「なにが?」
「ラムズフェルドだよ!」
 ぼくが指さしてもママはポカンとしている。
 ぼくはベッドのわきでぼくとママに交互にとぼけた顔を向けるラムズフェルドから隠れるように布団のなかにもぐりこんだ。
 頭の近くでベッドが沈むと、布団ごしにそっとママの声がした。
「大丈夫よ。誰もいないから」
 ぼくはそんなこと信じられなくて布団のなかで息をひそめた。
 だけどしばらくママが布団の上から頭をなでてくれたから、がんばって顔を出した。部屋を見渡して、もうラムズフェルドはいない……と安心しかけたら、しまりかけのドアの隙間からやつ特有の尖った肩がちらりと見えた。
「ラ、ラ、ラムズフェルド!」

それから三日間はほんとうに地獄だった。ラムズフェルドと同居するんだからそりゃあそうだ。それにラムズフェルドはぼくにしか見えない。パパもママも、朝ごはんを食べているときにラムズフェルドがソファに座っていることを知らない。お昼にキッチンをうろうろしたり、玄関でぼーっと膝を抱えて座っていたり、ベランダでズボンのポケットに手をつっこんで空を見上げていたりするのを知らない。晩ごはんのときなんて、パパのうしろで腕組みして、その日の献立に目を走らせては、深くうなずいたりしているのだ。
 でも四日目にしてラムズフェルドが洗濯機置き場にだけは入ってこないことを発見した。ぼくは寝袋とゲームボーイアドバンスと広辞苑と6年生の教科書をそこに持ってきて住むようになった。だけどそうすると、もう出られなくなった。8時半にはパパが、8時45分にはママが仕事に出かける。ふたりともぼくが学校に行けなくなったことや、洗濯機置き場で暮らすようになったことを怒ったり、説教したりしない。はっきりいって、なんでなんだろうと思う。ぼくだってわけがわからないのに。今日はお昼ごはんにカレーパンと焼きそばパンをママに用意してもらった。洗面台のシンクの下の戸棚にしまってある。ぼくはそれを思い出すと、すこしだけ勇気が出た。
 立ち上がり、深呼吸する。そして廊下の外におそるおそる首をのばす。開いたドアの奥にリビングの茶色いテーブルが見える。そのまた向こうにベランダが見える。そこにスーツ姿の背中がある。
 鳥肌がたった。
 だけど落ち着け、やつは遠い。
 首をひっこめ、胸をなでる。
 目をつむっても思い描けてしまうラムズフェルド。背はそんなに高くないのに、レゴブロックみたいなカクカクしたからだをしている。灰色の髪の毛をななめになでつけ、スーツの肩が異様に尖っていて、メガネの奥の目はくぼんでいるから、いつも深い陰ができている。悪魔のしるしにちがいない。
 ぼくは心を落ち着かせるため、もう一度洗濯機をまわすことにした。洗濯コースはすすぎのない「洗濯のみ」。水流は「強/木綿・麻」。水位は「高」にセット。水がジャバジャバと洗濯槽に流れ出す。レトロ洗濯機はなにがいいって、ふたを開けてまわせることだ。ずっと渦を見ていられる。
 洗濯槽にたまる水をながめていると、目のすみでなにかがキラッとまたたいた。ママはきちんと洗濯して出かけたはずなのに、お風呂場のドアの横の脱衣かごにはまだまだ洗濯物が山盛りになっていて、そのてっぺんになにやら鈍く光るものがある。
 ママのブローチだ。ママが昨日小学校の同窓会に着ていったワンピースからブローチを外し忘れたらしい。ぼくはワンピースから丁寧にピンを外し、ブローチを手のひらにのせた。桜のかたちをした青いような緑のような不思議な色をした金属製のブローチ。ぼくはブローチをたっぷりながめてから握りしめ、渦を巻きはじめた洗濯機に両手をかけ、渦を覗きこんだ。
 そして、やってはいけないことをやってしまった。鼻がむずむずして、くしゃみをした勢いでブローチを洗濯槽の中に落としてしまったのだ。
「やばっ!」
 身を乗り出して手を伸ばしてみたけど、底には届かない。
 ブローチがカッカッカッと洗濯槽に当たる音がする。
 するとどうしたことか、そのたびごとに水がチカッチカッとちいさく光る。
 いやいや、そんなわけない。そんなことよりも早く取りださないとブローチが壊れてしまうかもしれない。だけどどうしていいかわからず洗濯機の前で右へ左へウロウロしていると、昨日ママが同窓会に出かける前に鏡の前でウキウキしながらブローチのことを話していたのを思い出した。
〈久しぶりだなー、このブローチつけるの。これね、おばあちゃんからもらったの。澪次、このブローチ見るの初めてでしょ? これはうちの実家に代々伝わるものなんだ。ママの実家、下関でしょ。もう何百年も前らしいんだけど、漁師さんが、ある日海から網を上げたら、この珍しい色した金属がはいってたんだって。それをおばあちゃんのご先祖さんがもらって、何代も宝物にして受け継いできたらしいの。でも置き物にしておくだけじゃもったいないからって、おばあちゃんが近所の金属加工所の職人さんに頼んで桜のブローチにしてもらったの。でね、ここからがすごいのよ。職人さんが、見たことない材質だなって不思議に思って、ブローチに作り変える前に知り合いの大学の先生に材質を調べてもらったんだって。そしたらなんと! 95%以上が青銅なんだけど、残りの数%は地球にはない未知の鉱物だったんだって。隕石から取り出した物質を混ぜたんじゃないかって。しかも千年以上も昔のものらしいって。すごくない? 先生はその金属を引き取りたいって言ってきたんだけど、おばあちゃんは大切なものだから娘に受け継ぎたいってブローチにしたの。カッコいいよね、おばあちゃん。マジで誇りだわ〉
 はっきりと一言一句、思い出した。
 だから百倍焦ってきた。
 ブローチが洗濯槽でカタカタいってる。
 どうしよう、どうしよう。
 渦がビカビカ光る。
 あっひらめいた! 洗濯機をとめればいいんだ!
 あわててつまみを「切」にまわす。だけど、なんで? 洗濯機はとまらない。つまみをもう一回転させて、「切」でとめる。でも洗濯機はまわりつづける。水位が「高」よりも高くなり、渦が見たこともないほど強く、大きくなり出した。
 渦がうねる。渦がはねる。渦が暴れる。
 バシャアンと飛沫しぶきが顔にかかった。
 うそっ、海みたいな味がする。どういうこと?
 そのとき、洗濯槽の渦巻く水が金色に輝いて勢いよく水柱を上げた。
 戸棚の底がびしょびしょになった。
 ぼくもびしょびしょになった。
 顔にかかった水滴をぬぐうと、
「うわあああ!」
 金色の渦のなかから手が伸びている。
 もがき苦しむちいさな手。ぼくはとっさにその手をつかんで、引っぱった。
 子どもの顔が出てきた。はげしくせきこみ、息がひきつっている。
 ぼくはその細い腕を両手で抱えて、洗濯機の外へとひきずりだした。

びしょぬれになった王国の床に、ひとりの子どもがうつ伏せで倒れている。
「大丈夫?」
 聞いてみたけど、まだ息がつらそうで、返事がない。
 白い豪華な着物を着たその子は、長い髪を真ん中で分け、耳のそばで小さなきゅうりみたいに束ねている。「まんが日本の歴史」で見た邪馬台国の人みたいな髪型だ。片方の手で白い布に巻かれたなにか長いものを大事そうに抱いている。ちっちゃい鼻、ぷにぷにのまぶた、ちょっと赤いほっぺた。その子の顔をじっと見ていると、ぼくよりも若そうだなと思った。
 子どもがうっすらと目を開けた。
「ここが浄土か……」
 うつろな目がぼくをとらえる。
「ん? ぼくんちだよ」
「そちはだれじゃ」
「ぼくは澪次。きみは?」
「安徳じゃ」
「あんとく」
 変わった名前だなとぼくは思った。
 安徳は手をついて身を起こした。
「波の下にも都があるとばあやが言ったのはたしかであったか」
「みやこ? え、ここ田無だよ」
「たなし?」
「たなしのみやこ、か」
「ちがうよ、東京都田無市」
「なんじゃそれは」
 おとなびた言葉づかいとはうらはらに幼い声をした安徳は、心配そうに瞳を揺らした。

ここが浄土ではなく、田無のぼくんちであること、そして洗濯機置き場であることを説明すると、安徳は疲れきった顔にかなしみの色を浮かべた。
 いつのまにか洗濯機がとまっていることに気づいたぼくは踏み台にのぼり、洗濯槽からママのブローチを取り出した——さっきはなんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう——ブローチに顔を近づけて細かく見たけど、欠けたところや傷ついたところはなさそうだ。ぼくはブローチをズボンのポケットに入れて、洗濯機の上の戸棚から二枚バスタオルを取り出し、一枚を安徳にわたし、もう一枚で戸棚の底や洗濯機、床や壁を拭いては、お風呂場で何度もしぼった。その間、安徳はちょっとずつ心とからだが落ち着いてきたようだった——というかぼくもだけど——
「壇ノ浦の海に身を投げたのじゃ」
 そういって話し始める安徳の言葉がぼくには信じられなかった。だけど洗濯機から出てきたこと自体がおかしいのだから、ただ黙ってうなずくしかできなかった。安徳の話はこうだ。
 ——寿永四年三月二四日、壇ノ浦の海で平氏と源氏が大きな戦を繰り広げた。海戦に長けた平氏は当初優勢だったけれど、潮の流れが反転したことで源氏の大将・源義経が一気に猛勢をかけ、平氏の船隊は総崩れ。敗北を悟った平氏側の武将や女性たちが次々と海に身を投げだした。安徳はその光景を御簾の隙間からただ震えて見ていたという。そして安徳は祖母の平時子に手を引かれ、船首に立つ。「そなたは天皇。これを持っていかれよ」と三種の神器のひとつ草薙の剣を手渡され、その背を抱かれる。「阿弥陀の浄土にまいりましょう。波の下にも都はございます」祖母が耳元で囁く。そして祖母は安徳を抱きしめたまま海に飛び込む。大きな渦に巻き込まれる。祖母が背中から離れる。ひとり海の底に沈んでいったら、ここに出た。
「おばあちゃんは、ここにはいないよ」
 ぼくが伝えると安徳は肩を落とした。
「そうか」
 バスタオルを肩にかけた安徳のからだが震えている。
「さむい? シャワー浴びる?」
 ぼくは安徳の手を取って立ち上がった。
「使い方、教えてあげる」

たっぷり海水が染み込んだ着物はずっしりと重い。
 ぼくは安徳がシャワーを浴びているあいにだ、安徳の着物を洗濯しようと思った。光沢のある白い着物を大きめの洗濯ネットに入れて、洗濯槽にそっと置く。もちろん洗剤はおしゃれ着洗いの「アクロン」だ。水位は「高」、すすぎは「注水すすぎ」にセットし、「標準コース」につまみを回す。もう絶対にブローチを落とさないようにポケットを触って確認。水がジャバジャバと溜まりはじめる音にまぎれて、お風呂場から安徳の声がした。
「ここは進んでおるのう。なんとあたたかい」
「よかった。これで風邪ひかないね」
 ぼくすこしだけ安心した。ゆっくり疲れとかなしみを癒してほしい。そんなふうに思っていると、お風呂場からすすり泣く声が聞こえてきた。
「母とも別れた。母も海に身を投げたであろう」
 安徳はまだ八歳だという。平氏だとか源氏だとかよく知らないけど、おとなたちが戦をしたせいで海に身投げをすることになった。もしこの洗濯機から出てこなければ死んでいた。そう思うとぼくは胸が苦しくなった。
 ちょうど一週間ほど前に暇つぶしで読んでいた6年生の社会の教科書に壇ノ浦の戦いのことが書いてあった。たしか鎌倉幕府ができる前だから、1192年のちょっと前。ということは安徳はおよそ800年前からやってきたということだ。壇ノ浦の海のうず潮から、パパのレトロ洗濯機「うず潮」へと。ママのブローチがなにか特別な役目を果たしたのかもしれない。下関の海から出てきた未知の素材が混じった金属……、そういや洗濯槽も光ったよな。
 洗濯機の前でもの思いにふけっていたら、洗濯が終わるブザーが鳴った。それと同じタイミングで風呂場のドアが開いて、安徳の手が伸びてきた。
「さきほどのふかふかの布を」
 ぼくは戸棚から新しいバスタオルを出して、安徳に手渡した。そして自分のTシャツと半ズボンとパンツをドアの前に置いた。
 ぼくの服に着替えた安徳が長い髪をバスタオルでふきながら出てくると、
「おお、もうおひとかた、いらっしゃったか」と廊下に目をやった。
 ぼくもつられてそっちを見た。
 入り口でこちらを覗く顔。きらりと光るメガネ。その奥で深い闇をたたえた目。
「ラ、ラ、ラムズフェルド!」
 ぼくは悪魔にふたたび絶叫した。


 
「澪次、澪次、大丈夫か」
 安徳に頬を叩かれて目が覚めると、ラムズフェルドが洗濯機置き場の入り口の廊下に正座していた。なんだかしおらしく、ちぢこまっている。
「なんとひよわな」
 安徳の言葉にすこしムッとしたけど、ラムズフェルドがいることにからだがこわばった。
「この御仁は、おまえに害なす者ではないようじゃぞ」
 いや、そんなこといわれても無理無理。
 安徳は「うず潮」の前にあぐらをかいているので、ぼくは最新型洗濯機の前に這っていって体育座りした。
「おまえが気を失っておるあいだに、この者の素性をあらかた聞いた」
「え、そうなの?」
「このものは幽霊じゃ」
 安徳の言葉をついで、ラムズフェルドが話しはじめた。
「そうなんです、ぼっちゃん。わたしはラムズフェルド国防長官ではありません。実は、澪次ぼっちゃんたちがこの家に住む前に、ここに住んでいたものなんです。生前はモノマネ芸人をしておりまして、主にパブや劇場に出ており、テレビにも少々。ですが十年前のある日、ここで心臓発作で倒れてしまいました。いつ頃からかわたしは浮遊霊になり、腐りゆく自分の死体を見つめて暮らすようになり……。妻は商社に勤めていましたが、運悪く海外に出張中。わたしを見つけたのが二週間後でした。そのときのわたしの体は、もう目も当てられないありさまで……それがトラウマになってしまい、二度とここへは入れないからだになってしまったのです」
「幽霊……」
 ほんとうならそれも怖いはずなのに、なぜかホッとしている自分がいた。
「なんでラムズフェルドのかっこうしてるの?」
「幽霊の特性でしょうか、自分でもわからないのですが、ぼっちゃんの恐怖心に無意識に反応してしまい、ラムズフェルドに変化してしまったのです。モノマネ芸人だったから、そうなっちゃったんですかねえ。それまでは誰にも見えなかったのに、ラムズフェルドになったとたん、ぼっちゃんにだけ見えるようになって。わたしもどうしていいものかわからず……」
「なんで今まで話しかけてくれなかったの?」
「だって、話しかけたらもっと怖がるでしょう」
 ぼくはぐうの音も出なかった。
「おまえの心配をしていたらすこし元気が出てきた」
 安徳がやさしい目でぼくを見た。「自分のことを考えなくてよいからな」そういってちいさく笑った。
 でも、やせ我慢をしている、自分を励まそうとしているんだとぼくは思った。壇ノ浦では、矢がいっぱい飛んできたり、刀で斬り合ったりしている。たくさんの人が死んでいるはずだ。それに安徳はさっき泣いていた。見てきたもの、経験してきたこと、ぜんぶつらいに決まってる。お母さんともおばあちゃんとも別れたんだ。
ちんも幽霊を見るのは初めてじゃ」
 安徳がいう。
「子どもにだけ見えるのでしょうか」
 ラムズフェルドが頭をななめにして腕を組んだ。
「いや、朕は壇ノ浦で生と死のはざまを見た。朕もほんとうなら一度死んだ身じゃ」
 そういって安徳は目の焦点をゆるめた。
 ぼくは胸がチクっとした。安徳のうつろな目の先で、痛みがちょっと動いたような気がしたからだ。これまでテレビの向こうイラクの映像に胸がくしゃくしゃするだけだったのが、今ぼくは安徳と話をしている。遠い国で起きていることと遠い昔に起きたことは、なにも変わらない。そんなふうに思えた。
「あのう、もしやそちらは」
 ラムズフェルドが白い布に巻かれたものを指さした。
「ああ、草薙の剣じゃ」
「見せていただけませんか」
「よいぞ」
 そういって安徳はするすると布を解き、剣を立てた。
 むっくりと幅広で厚みがあり、図鑑で見たことのある菖蒲の葉のように先の細まった剣が出てきた。長さは、身長152センチのぼくの腰よりもちょっと高いくらい。だから80センチ前後かな。手に持つところが魚の背骨みたいに、三つ四つ節立っている。はっきりいってかっこいい——でもそれ以上に驚いたのは、その色つやがママのブローチとまったく同じだったことだ。でもそんなこと言えるわけがない——
「なんと神々しい」
 正座したラムズフェルドがうやうやしく両手をついて半身をかがめた。
「こういうの好きなの?」
「当然。失われた神器をこの目で見る日が来るとは、もう死んでもいい」
「死んでるよ」「死んでおる」
 ぼくと安徳がハモって、ぼくたちは初めて笑った。
 と思ったら安徳のお腹がぎゅうっと鳴った。
「おなかすいてる? カレーパン食べる?」
「なんじゃそれは」
「ぜったいおいしいよ」
 ぼくは洗面台の下の戸棚から、カレーパンと焼きそばパンがひとつずつ乗っている皿からサランラップをはがして安徳に差し出した。
「こっちの丸いのがカレーパン。小麦粉でできたパンっていう生地の中にカレーが入っていて、油で揚げてるの」
「小麦とな。悪くない。でもカレーとはなんじゃ」
「インドの食べ物だよ」
「インドとな?」
「天竺と思っていただければ」
 ラムズフェルドがすかさず答える。
「なんと、天竺の食べ物か。だが油を灯りだけでなく、食べ物にも使うとはなんとも珍妙な」
 安徳がしげしげとカレーパンに目をこらす。
 一口かじる。
 いぶかしげに眉をゆがめる。
 目をみはり、もう一口かじる。
 そしてもう一口、今度は大きくほおばる。
 もう一口。咀嚼がとまらない。
 鼻息が荒くなる。
 かじる、かじる、噛む、噛む。
 苦しそうに胸をドンドン叩く。
 のみこみ、しばし茫然。
 安徳は目をパチパチさせ、首を横に振りながら、いっきに言葉を紡ぎだした。
「なんたる美味じゃ。まるでもみじの枯葉を踏みしだくような生地の香ばしさ。噛めば噛むほど口に甘みがひろがり、かと思えば、カレーなるもののまったりと深い味わい。舌が千手観音の御手にくすぐられるようであり、この身ごと金色のしとねに沈み込んでいくようじゃ。おお、なんと! けものの味わいも立ちのぼる! なんたる背徳。なんたる躍動。朕の血肉が踊っておる。それに鼻の奥をくすぐるこの複雑な香りはなんじゃ。朕はもはや薬師如来の微笑みを見たぞ」
「安徳、食レポうま!」
 ぼくは驚いた。でもそれ以上に嬉しくて、「焼きそばパンも食べる? 半分こしよ」といって、「これ使っていい?」草薙の剣を持ち上げた。右手を柄に、左手を剣先に添え、焼きそばパンを二つに切った。
 安徳は焼きそばパンの片割れを手に取り、
「おまえ、けっこうやるのう」とちょっと引きぎみにいった。
 ラムズフェルドも顔がひきつっている。
「ダメだった?」
「ダメに決まっておろう」
 安徳があっけに取られた顔をした。
 そのうらで洗濯機のブザーが鳴った。しっかり脱水まで終わったみたいだ。ぼくは「うず潮」の前に座っている安徳によけてもらい、踏み台を使って洗濯物を取り出した。よし、お風呂場の窓からいい光が注ぎ込んでいる。ぼくはお風呂場に物干しスタンドを立て、安徳の着物を干した。


 
「ジャンプ! ジャンプ!」
 ぼくは安徳が操作するゲームボーイアドバンスを覗きこんでいる。安徳はカービィがジャンプするたびに肩を上げたり、膝をビクッとさせている。
「あー死んじゃった」
 ぼくがいうと安徳は難しそうな顔をした。
「でも本当に死んでるわけじゃないから安心して。これはゲームだから」
「現実に起きていることではないということか」
「そう、これは『星のカービィ 夢の泉デラックス』っていうゲーム。あきれかえるほど平和なプププランドってところがあって、プププランドの果てに夢の泉という夢が湧くとことがあるの。夢の泉にはすべてのいきものたちの夢と希望が集まっていて、眠りについたいきものに楽しい夢と安らぎを与えるの。でもある日とつぜん夢の泉をデデデだいおうが占領しちゃうんだ。だからカービィはみんなの楽しいお昼寝タイムを取り戻すために冒険の旅に出るんだよ」
「なんでデデデだいおうは占領してしまうのじゃ」
「水浴びして遊んでるの」
「許せん」
 安徳の顔に真剣なまなざしが宿った。
「もう一度やろう」
 安徳のカービィが敵を吸い込み、敵を星にして吐き出す。Bボタンの使い方に慣れてきたようだ。だけど意味なくカービィはスライディングを繰り返す。しゃがんでAボタンを押すのにハマっちゃったみたいだ。でもすぐに敵にぶつかってしまい、死んでしまう。
「もう一回、もう一回じゃ」
 安徳は何十回とチャレンジするが、レベル1のベジタブルバレーをいつまで経っても攻略できない。ぼくは見るのにちょっと飽きてきて、聞いていいかどうかわからないことを聞いてみることにした。
「ねえ、安徳」
「なんじゃ」
「実はいまね、壇ノ浦で戦をしてるみたいに、イラクってところでも戦争してるんだ。遠い国なんだけど」
「ほう」
「どうしたらいいの?」
「おまえがか?」
「うん」
「おまえがすることなどなにもないであろう。戦は当人同士がすることじゃ」
 カービィが星を吐き出し、ブロックを破壊する。
「巻きこまれないだけありがたいと思え」
 安徳はゲームの途中なのにゲームボーイアドバンスを床に置いた。「こんなことをしている場合ではなかった」
「え?」
「ここは浄土ではないのであろう」
「うん」
「朕は死んではおらぬのだろう」
「うん」
「帰らねばならない」
 そういった安徳は、ハックション! と大きなくしゃみをした。
「髪の毛濡れたままだったね。ドライヤーで乾かしてあげるよ」

鏡の前で乾いた髪をふたつに分け両耳の上で縛った安徳は、まだ湿っている着物をふたたび着こんだ。そして踏み台にのり、「うず潮」に入りこみ、洗濯槽から顔だけ出した状態でぼくとラムズフェルドを説得しにかかった。
「朕は帰りたいのじゃ」
「向こうは戦してるんでしょ? 帰ったら死んじゃうよ」
 ぼくの言葉にラムズフェルドも乗ってくる。
「あちらは危険です。実は、こんなこと申し上げたくないのですが、安徳天皇は壇ノ浦の海でお亡くなりになるのが史実でございます。もしお帰りになれば、もう一度その運命に巻き込まれるおそれが……」
「よい。戻りたいのじゃ」
「でも」
「戻りたい」
「でも」
「朕の人生をなんとこころえる!」
 安徳が押し問答をピシャリと断ち切った。
「それに、ここで元気をもらった。簡単には死なん」
 安徳がまっすぐぼくを見つめる。ぼくは安徳から伝わってくるなにかに胸が震えた。
「そもそもおまえはなんでこんなところで暮らしておるのじゃ。よもや人の住むところではあるまい」
「ぼくは……ラムズフェルドが、そのう、怖くて……」
「いまも怖いか」
「すこしだけ」
「もう怖がることはないですよ」
 ラムズフェルドの声が後ろからした。
「でもここを出ても、ぼくは学校に行けないから」
「学校とな」
「子どもがみんなで勉強を習うところです」
 ラムズフェルドが補足する。
「なにゆえ行けぬ」
「わかんない」
「どういうことじゃ」
「なんか、からだに力がはいらない」
 久しぶりに自分の不甲斐なさを突きつけられた。
「カレーパンを食べれば、力も湧くであろう」
「え?」
「信じよ。カレーパンはすごい」
 ぼくは、しょっちゅう食べてるけど……とは言い出せず、でも安徳が言うんだったらもしかしたらそうかもしれないと思った。
「どうしたら戻れる?」
 安徳の質問にぼくはすこしためらい、
「たぶんこのブローチを入れて洗濯機をまわせば」と答えた。
「では頼む」
 ぼくはしぶしぶブローチを安徳に手渡した。そして洗濯コースを「標準」、水位を「高」、すすぎを「注水すすぎ」にセットし、でもあまり激しい渦にするのはかわいそうだと思い、水流は「弱/毛・化せん」でいくことにした。
 水がジャージャー流れ出す。
「あ、ちょっと待って」
 ぼくは洗面台の下の戸棚を開け、パパとママとぼくの予備の歯ブラシが6、7本入ったジップロックをつかみ、逆さまにして歯ブラシを取り出した。そしてジップロックにゲームボーイアドバンスを入れてしっかり封をした。
「これ、向こうでクリアしてよ」
「おお、ありがたい。戦が終わったら必ずやるぞ」
「安徳の住む世界がプププランドみたいになるといいね」
「どういう意味じゃ」
「あきれかえるほど平和になるといいねってこと」
 安徳にどう映っているかわからないけど、ぼくは精一杯の笑顔をつくってみせた。
 水が溜まると、安徳がぐるんと右に、ぐるんと左にまわりはじめた。洗濯機の前に立ったぼくは、その回転ごとに安徳と目が合った。20回、30回、40回……、だけど安徳はいっこうに沈んでいかず、水も光る気配がない。目が合うたびに安徳の顔が怒ってくるのがわかる。安徳が回転しながら、
「澪次、どうなっておる!」と声を荒らげた。
「ごめん、弱じゃダメだったかな」
 ぼくは焦って水流のスイッチを「強/木綿・麻」に変えた。するとモーター音がひときわ大きくなり、渦の勢いも強くなった。
「うわわわわ」
 安徳が唇を震わせる。
「これじゃ、この感覚じゃ」
 激しく右へ左へ回転する安徳。
 水が光りはじめる。
 安徳が徐々に沈んでいく。
「ではさらば」
 そういって安徳は口いっぱいに空気を吸った。
「じゃあね! 元気でね」
「ご達者で!」
 ラムズフェルドも廊下から声を張り上げた。
 安徳の顎が沈むと、すぐに頭の先も渦の中に消えていった。

安徳が草薙の剣を忘れて帰ったことに気づいたのはラムズフェルドだった。
 どうしよう、まだ間に合うかな、とぼくはいって洗濯機のなかに入れようとしたら、
「待ってください。ぼっちゃん」とラムズフェルドがぼくを止めた。「わたしをその剣で斬ってくれませんか」
「え、どういうこと?」
「神器で斬られたら、わたしは成仏できるかもしれません」
「そんなことできないよ」
「わたしは幽霊。斬っても血は出ませんし、痛みも感じません、たぶん」
「たぶん?」
「お願いします!」
 ぼくはとてつもなく考え込んだ。
「じゃあ、廊下じゃせまくて剣を振れないから、こっち来て」
「え? そっちに入るのですか。無理無理無理」
「だったらぼくも無理だよ」
「わかりました、わかりました」
 ラムズフェルドはそういって、いかめしい顔に力を込めて一歩踏みこんだ。
「お、なんとか」
 冷や汗など出ていないのに額を手の甲で拭いて、メガネを直した。
「せっかくだから、ここに座っていいですか」
 ラムズフェルドはさっきまで安徳が座っていた「うず潮」の前に正座した。
「じゃあいくよ」
 ぼくは草薙の剣を振り上げ、ラムズフェルドを斜めに斬り落とす。だけど残念ながら剣はその体をすり抜けた。
「もう一度お願いします」
 ラムズフェルドが目を閉じる。
 バサっと切り落とす。なんの手応えもなく、剣は空を切る。
「もう一度!」とラムズフェルド。
「よしいくぞ!」とぼく。
 でも何度やってもラムズフェルドはラムズフェルドのままで、ぼくは突き刺したり、縦に斬ったり横に斬ったり、ノコギリで切るようにラムズフェルドの肩のあたりをギコギコしたりしたが、草薙の剣はラムズフェルドをすり抜けるばかり。
 そのとき、ふいに洗濯機から声がした。
「ぐざ! ごぼ! ぐざなぎの! ごぼごぼ! づるぎ! ばずれだ!」
「うわーやっぱり! ごめん!」
 ぼくは慌ててラムズフェルドのわきから草薙の剣を洗濯機の中に入れた。
 安徳の手が剣をたしかににぎり、再び沈んでいった。

からっぽの洗濯機が脱水までしっかり終えて、ブザーを鳴らした。
 急におとずれた静けさに、ぼくはせつなくなった。
「ねえ、安徳はなんで帰ったんだろう」
「わたしたちにはわからない思いがあるんですよ」
「死ぬかもしれないのに」
「そうならないようにがんばるでしょう」
「でも死んだらどうするの?」
「どうするのっていわれても」
「死んじゃうかもしれないんだよ」
「安徳天皇は死にませんよ」
「死んだら人ってどうなるの?」
「ぼっちゃん……もしかしたら、死ぬのが怖いのでは?」
「え?」
「戦争が起きて、死ぬってことがとつぜん目の前に現れて、怖くなったのでは?」
「そうなの?」
「死んだ身から言わせてもらうと、もう精一杯生きるっきゃないですよ」
 自分でもわからないことをラムズフェルドにわかるわけなんかない。でもその励ましが妙に嬉しかった。それに安徳と会って、胸に温かい以上の、なにか熱いものをもらったような気がする。
「ところでラムズフェルドって、なんでぼくのことをぼっちゃんって呼ぶの」
「執事プレイです。怖くないでしょ?」
 ラムズフェルドの闇をたたえたメガネの奥の目尻が優しくさがった。
「ねえ、一緒に出かけようよ」
 勇気をふりしぼっていうと、ちょっと声がうわずってしまった。

歩いて十五分の駅前の本屋に行って「まんが 平家物語」を買った。安徳のことを調べようと思っても、パソコンはパパの部屋にしかないし、ぼくは携帯も持ってない。ぼくはお年玉の一部を入れていた貯金箱からお金を出して、久しぶりに街に出た。当たり前だけどなにひとつ変わっていなくて、まるで昨日も普通に歩いていたみたいな気分だった。
 家の近くの森林公園のベンチに座って、本を開いた。ラムズフェルドもからだをくっつけるように隣に座り、ページを覗きこんだ。

——ぼくは一気に読み通して、本を閉じた。手にびっしょり汗をかいていた。
 安徳は祖母の平時子に抱かれて壇ノ浦の海に身投げした。そこまでは同じだった。だけどそこから奇跡が起きた。
 安徳は渦に巻かれて沈んでいったかに見えたが、神のみわざか、しばらくのちに渦が光り、渦の中心から太い水柱が立ち、飛び出してきたという。しかしかなしいかな、安徳はふたたび渦に巻かれ沈んでいく。と思った矢先、もう一度水柱が立ち、安徳が飛び出てきた。そして源義経が渦のそとで溺れかけている安徳を熊手で引き上げた。残念ながら草薙の剣は、溺れかけているときに手を放してしまったという。だがそこで伝説も生まれた。神器が身をていして幼い天皇を護ったのだと……。
 戦は源氏の勝利となり、平家は滅亡。安徳は、おなじく身投げしたのちに源氏方に引き上げられた母・平徳子とともに出家し、京の大原・寂光院でつましく暮らした。病のため十六歳で崩御。

ラムズフェルドの顔を見ると、目が潤んでいた。
「え、幽霊も泣くの?」
 ぼくはひそひそ声で話しかけた。
「わたしにだってわからないですよ」
 ラムズフェルドは鼻をすすった。
 もう一度、本を開く。巻末に平氏と源氏の有名な人たちの和歌がいくつか収録されているのだ。出家した安徳天皇が詠んだ和歌もふたつ紹介されていた。

枯れもみじ 踏めば薬師の 匂い立つ 踊るけものも 甘きしとねに

契りきな 星の華美衣に 夜ふけぬ 渦のをちかた 袖をしぼらむ

なんとなくわかる気がするけど、わからない言葉もいっぱいある。何度も読み返していると、隣でラムズフェルドが嗚咽しはじめた。
 そのとき目の前をゴールデンレトリバーを連れたおじいさんが通りがかった。舌を出して歩くゴールデンレトリバーが立ち止まり、ぼく、ではなく、ぼく以外に見えないはずのラムズフェルドの足元をくんくん嗅いでいる。ラムズフェルドはそれに気づかず、両手で顔をおおって、おいおい泣いている。ゴールデンレトリバーがラムズフェルドを見上げて、ワン! と野太く吠えた。からだをビクッと震わせたラムズフェルドは、くしゃくしゃに泣きはらした顔でゴールデンレトリバーをまじまじと見つめると、腹立たしげに大きく舌打ちした。
 おじいさんがごめんね、とぼくに向かって一言。
 いえいえ、とぼく。
「カレーパン買って帰ろ」
 ぼくは笑いをこらえながら、本を抱きしめ立ち上がった。

文字数:15908

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