書禍

印刷

梗 概

書禍

本屋に入るや、店の奥で落ちた本を拾い上げる店主の老婆と目が合った。老婆の頬には大きな傷痕がある。五〇手前でまだヤクザの下働きの俺が言うのも変な話だが、堅気には見えない。
「いらっしゃい。悪いけど残ってるのはこの本だけだよ」
 今やこの国に本はほとんど存在しない。俺が生まれたころ、出版に値しない悪書は燃やされ、流通を禁止され、やがては作ることもできなくなった。
「表現の自由を盾にした差別ってのはたくさんあった。たとえ誰かを救っても表現は必ずどこかで誰かを傷つける。小説も漫画も一緒さ。むしろ物語の皮を被れば平気で差別でも何でも言える分、そっちのほうが性質が悪い。主人公の考えだと言っちまえばそれでおしまい。そんななか、ある作家が刺されたのがきっかけで、誰も物語なんて作らなくなった。傷つけられることにも、傷つけちまうことにも、みんな臆病になってたのさ。だから本はなくなった。それは間違っちゃいなかった。でも本が誰かを傷つける暴力も、本を燃やす暴力も本質はそっくりさ。それなのにあたしらは、悪書をこの世から消すたびに世の中は正しくなるんだと思ってた」
 老婆は手にしていた本を誰も傷つけない本だと言って渡す。全編白紙だった。
「それで、本じゃないなら何の用だい?」
 俺の目的はファミリーが買い取った土地から老婆を追い出すことだったが、老婆はこの本が売れるまでは立ち退かないと言った。俺は白紙本を買うと申し出る。老婆は頑なに拒んだ。
 溜息を吐いて座った俺は店の端に置かれた一冊の別の本に気づく。売り物ではないという本には中身があった。それは子を捨てる母親の物語で、かつて作家だった老婆が書いた本だった。
 背表紙についた血を見て呪いの本かと笑う俺に、老婆はその通りだと言う。
 老婆はその本の刊行間もなく襲われた。犯人の妻は子供を産めず、老婆の本を読んで絶望し命を絶っていた。動機は復讐だった。
「私の小説が誰かの傷になることは分かっていたさ。でも実際に命を奪った事実を目の当たりにして、それ以上書けなくなった。結局はあたしも臆病だったのさ」
 続く報復を恐れた老婆は物語同様に息子を遠ざけた。親に捨てられ施設で育ち、ろくでもない人生を送ってきた俺は老婆を叱責する。だが同時に、捨てられた子供が自分だったのではないかと思い至る。
 俺は傷つけると分かっていながらなぜ書いたのかを問うた。老婆は愚問だと笑った。
「あたしはあたしを救いたかったのさ。だから書かなくちゃならなかった」
 ならば老婆は書き続けるべきだ。だが老婆の利き腕はもう文字を書くほど自由には動かない。老婆は代わりに俺の人生を書いて自分に読ませてくれと言った。そのときは老婆がその本を買い、この店をたたむとも。
「書きな、くそったれな母親にちゃんと恨みを込めて書くんだよ」
「ならまずは、今日のあんたのことを書いてみるよ」
 俺は一冊の白紙本を抱えて店を後にする。

文字数:1198

内容に関するアピール

ようやくいい話が書けました。

世界をかたちづくっているすべての痛みと願いに祝福を。

文字数:40

印刷

序章

その本屋は、今はもうすっかり廃れた繁華街の一角にある。
 ところどころ塗装が剥げて古びた木の肌を覗かせている扉を俺が押し開けると、錆びた蝶番が泣き声を上げて出迎える。長く滞留し続ける空気にこびりついてしまった埃のにおいのなかに、どういうわけか少しだけ懐かしさを感じさせられるような気がする。
 縦長の店のなかはよく見渡せた。左右の壁に沿う本棚も、本来なら視界を遮るはずの店の真ん中にある書架もがらんどうだ。
「ふざけんな! ババア!」
 淀んだ空気をかき混ぜるように鋭く高い声が店内に響いて、俺は声のほうへと意識を向ける。カウンターの前にはまだ中坊くらいの少年がいて、ちょうど手に持っていた分厚い本を店主の老婆目がけて投げつけたところだった。
 老婆が微動だにせず俺を見たので、少年も俺に気づいたようだった。振り返った少年は俺を見るや威勢を失い、俺の脇を駆け足で通り過ぎて店から出て行った。扉が軋みながら乱暴に閉められ、古びた店全体が少しだけ揺れる。沓摺りから忍び込む外の冷たい風が地面を這っていた。
 老婆はといえば、本が直撃した額を左手で摩っていた。顔は皺だらけで表情に乏しいから、痛がっているのかは分からない。頬には深く抉れたような傷痕が残っていて、五〇手前でヤクザの下っ端の俺が言うのも変な話だが、堅気には見えなかった。
「悪いけど、残ってるのはこいつだけさ」
 意外と滑らかな動きで床に手を伸ばした老婆が本を拾い上げる。本の緋色の表紙には白い糸の刺繍が施されている。舞い上がった埃が、窓から細く差し込んでいる陽光に当てられてよそよそしく光っていた。
「……俺が本なんか読む物好きに見えるか?」
 俺は老婆に凄んでみせる。老婆は涼しい顔で黄ばんだ歯を見せる。
「いいや、見えないね」
「なら訊くんじゃねえよ」
 俺が言うと、老婆は喉の奥で引き攣るような冷たい笑い声を鳴らした。
 今やこの国に本はほとんど存在しない。
 俺が生まれる少し前から、この国で〈浄書運動〉が始まった。犯罪や差別につながりそうな不適切な本は刊行や公開が中止になり、流通を禁じられ、やがては発禁本となって市場から消えた。もちろん俎上に載せられたのは本だけじゃない。映画やイラストも同様だった。やがては新たに本を作ることすら難しくなり、作ろうと思う人間すらだんだんといなくなっていった。
 ほとんど、と言ったのはそれでも本が完全に消えたわけじゃないからだ。作家という職業は限りなくイリーガルになり、本が電子の海ネットの奥深くでひっそりと販売されるだけになっても、人の創作欲はしぶとく細く生き残っている。加えて俺がいま本屋にいるように、〈浄書運動〉を免れた稀有な紙製の本を取り扱う店も数こそ少ないがまだ存在している。
 だがいずれにせよ、書くにも読むにも本は一部のアングラな物好きだけの嗜好品だ。面倒であがりの低い出版業しのぎには、落ち目のヤクザすらも手を出さない。
 俺は店の奥へと進みながら、もう一度からっぽの店内を見回した。一冊しか本のない本屋が商売として成り立つとは思えない。だから俺には、この老婆がが分からない。
 分からないから興味が湧いた。この本屋と老婆が何なのか。きっとそれを知ることが、店をたたませ老婆を追い出す近道だと、俺は漠然と考えていた。
 老婆は棚に分厚い緋色の本を置き、カウンター脇の椅子に腰を下ろす。相変わらず不愛想だが、頬の傷のおかげで角度によっては笑ったように見えなくもないのがかえって不気味でもあった。
「本を探しに来たんじゃないなら、何の用だい?」
「とぼけんな。決まってんだろうが」
 俺は気取られないように一呼吸置き、スーツジャケットの内ポケットから取り出した四つ折りの紙を広げて、カウンターに手のひらごと叩きつけた。木製の古びたカウンターが心なしか軋む音を立てる。
「立ち退きだ、立ち退き。駄々こねて残ってんのはな、このあたりじゃもうてめえだけなんだよ。分かってんだろ」
 老婆はこの話題を拒むように煙草を咥え、オイルライターで火を点けた。ほのかに甘く香る紫煙が俺と老婆のあいだに薄いもやを広げて渦を巻いた。
 この繁華街はリゾート施設建設予定地の中心にある。再三の立ち退き交渉を退けられ続けた結果、困り果てたデベロッパーが俺たちヤクザを頼ってきたということらしい。
「いいか、俺はな、店中ぶっ壊して、てめえを引き摺り出したっていいんだ」
「やってみな。堅気がヤクザに怯えるなんて、一体いつの時代の話だと思ってんだい。脅しの笑顔が引き攣ってるよ」
「……引き攣ってねえよ」
 相手をビビらせるとき、脅し文句と一緒に冷静さを装って笑って見せろというのは、先々月に階段から足を滑らせて死んだ兄貴の教えだ。だが老婆には意味がないらしく、俺は睨みを利かせたまま店内へとまた視線を巡らし、役に立たねえ教えを遺してくれた兄貴を思い出す。上納金あがりをろくに払えず、闘鶏に使い込んじまうような人だったが、愉快で優しい人だった。
 ちなみに俺には、店中をぶっ壊して老婆を引き摺り出すような気概はない。年を取ってから荒事がひどく億劫になってしまった。とはいえ、若いころも血気盛んだったわけじゃなかったから、俺は未だにせいぜい凄んでみるだけのチンピラ止まりなのかもしれない。
「地上げは禁止。携帯もアパートも契約できない。一丁前にえばりくさって凄んでも、ヤクザもんは肩身の狭い弱者なんだ」
「てめえ……」
 老婆は煙と一緒に短く乾いた笑みを吐き出す。前のめりに凄んでいた俺は急に全部が馬鹿らしくなって、本棚に寄りかかる。たしかに俺は飛ばしの携帯を使い、他人の名義で借りたアパートに住んでいる。老婆の言ったことはどれも事実だ。少しでも堅気を恫喝したりしてしまえば、通報されてあっという間に刑務所ムショ行きになる。極道の肩身は狭い。もう潰されて潰されて、圧死する寸前だ。
「ま、あたしだって同じようなもんさ」
 老婆が吐き出した煙の軽さとは裏腹に、言葉には重々しい実感が滲んでいる。
 本屋は〈浄書運動〉が活発になるなかで居場所を失っていった仕事の一つだ。社会に居場所がないという意味で、極道も本屋もそう変わらないのかもしれない。
「冷やかしのクソガキに本を投げつけられて、何やってんだかねぇ」
「だったらこんな店、さっさとたたんじまえって。金も手に入る。短い余生をのんびり暮らすくらいの金にはなるんだろ?」
 脅してダメならと、下手に出てみる。相手のメリットを提示するのは交渉の基本なんだと、やっぱり先々月に階段から落ちて死んだ兄貴が言っていた。
 だがこれも意味がなかった。老婆は俺が言い終えるよりも先に、首を横に振りやがる。
「これは矜持の問題さ。それに本や石を投げられたくらいじゃ死にやしないよ」
 老婆は引き出しから取り出した灰皿に煙草を力いっぱいに押し付けた。折れた煙草から、まだ焦げついていない葉が内臓のようにこぼれた。俺と老婆を遮るもやは晴れ、甘い残り香だけが漂っていた。どこかで嗅いだことがある匂いだったが、どこで嗅いだ匂いなのかは分からなかった。
 俺は確かめるように吸い込んでいた息を、溜息にして吐き出した。手持ち無沙汰を紛らわし、緋色の本を手に取ってみる。本は思っていたよりもはるかに重い。
「これは死ぬだろ、普通に。人はな、階段から落ちたって死ぬんだぞ。こんなの頭に食らったらたまんねえよ」
「そりゃ階段から落ちたら死ぬだろうさ。でもそんな本じゃ死にやしないね」
「まあ確かに、てめえの頭は固そうだけどな」
 俺は軽口を吐きながら固い表紙を捲る。背と本文とつなぐ古いのりが、踏みつけられた枯れ枝のような音を立てた。古びた紙特有の微かに香ばしい匂いが鼻の入口をくすぐった。一枚目の見返しはふちから黄ばんでいて、真ん中のまだ辛うじて白い余白がぼんやりと灯る提灯のように見えた。二枚目を捲り、三枚目を捲る。本の中身は一向に現れない。
「なんだこれ。全部白紙じゃねえか」
 俺は雑に捲り終えた本を置いて老婆を見た。老婆は気に食わないしたり顔で俺を見ていた。
「そいつは誰も傷つけない本なんだよ」
「いや、当たり所が悪けりゃ傷つけないどころか、死ぬって言ってんだろ」
「その話じゃないよ。馬鹿だね。あんた、なんで本がなくなったか知ってんのかい?」
「あ? そりゃああれだろ。〈浄書運動〉とか、差別と犯罪につながる可能性があるとか、そういう感じだろ。って言やぁ差別の代名詞だ。俺だって、そんくれえは知ってんぜ」
 流れる雲が太陽と重なって、店内に薄い影が落ちる。天井から一つ吊り下がるランプシェードの真ん中でオレンジ色の頼りない明かりが揺れている。
「まあ、間違っちゃいないが正しくもないね。エドワルド・コーラルはたしかに慈善家気取りの差別主義者だった。ヤツは書いた本のなかで、デザイナーズベビーと出生前診断を引き合いに出して、親子の幸福のために命の選別を推奨したんだ。でもね、それ以外にだって、女性蔑視にトランスヘイト、エイジズムやルッキズムやレイシズム。差別と差別を書いた本はごまんとあったよ」
「まるで昨日のことみてえな口ぶりだな」
 俺は白紙本を棚の元あった場所へと戻す。背中が少しむず痒かった。老婆は咥えていた二本目の煙草に火を点けた。店内が静かなせいか、葉が燃え、灰へと変わっていく音がやけにはっきりと聞こえた。
「当り前だよ。まだボケちゃいない。当事者だったんだから、そりゃよく覚えてるさ」
「……なんとかコーラルって、てめえのことだったのか?」
 老婆は喉の浅い部分で引き攣った笑い声を漏らし、それから呆れたように長く細い溜息を、紫煙と一緒に吐き出した。それがいわゆる嘲笑であることは、言うまでもない。
「あんた、そうとうな馬鹿なのかい。考えなくたって分かるだろ」
「てめえ、口の利き方には気をつけろ?」
「あんただけには言われたかないね」
 目を閉じた老婆は左手のまわりで煙をくゆらせていた。口は一の字を書き、代わりに鼻の穴から煙が漏れ出している。翳って店のなかが少し暗くなっているせいか、煙の白がさっきよりも色濃く映るような気がした。
「それで?」
 俺が言うと、老婆が薄くまぶたを開ける。俺は脇から腕を後ろに回して背中をかいた。
「それでってどれだい」
「本がなくなった理由だよ。間違っちゃいねえが正しくもねえって言ったろ。てめえが訊いてきたんだから白黒つけてくれ。苦手なんだ。そういう煙に巻かれる感じ」
「やっぱり馬鹿だね。あんた、さぞ生きづらいだろうよ」
「うるせえ。説教はお呼びじゃねえよ」
「別に、聞いたって楽しい話じゃないよ」
 老婆はどこかへ逃げ出すための予防線を引くみたいにそう前置きし、また煙草を一口吸った。老婆の声が嗄れているのは、間違いなく煙草のせいだろうなと思いながら、俺はあてもなく漂っていつまでも溶けない煙のように、老婆の次の言葉を待つ。
「……コーラルの一件以来、どんな本でも作品でも、差別に加担すべきじゃないって具合で、大勢の人間が世に出る作品を見張っていた。炎上すれば出版社は謝罪。出版は中止。あたしらは差別を許さず、人権と正しい社会を守ったつもりだった」
「めでてえ話じゃねえか。なのになんで、コロッケの代わりにたわしを食ったみてえな顔してんだよ」
 老婆は丸くした目を俺に向けていた。半開きの口から煙が漏れる。
「……なんだよ」
「まともなこと言うなと思ってさ」
「いい度胸だな、てめえ」
 俺は手の指を鳴らし、左の手のひらを右の拳で叩き、老婆を威圧する。だが叩いたその拳にそれ以上の行先はない。老婆は右手を左手で包んだ奇妙なかっこうのまま静止した俺を、細めた目で眺めていた。
「……あの頃の、ネットで寄せ集まった正しさに酔っていたあたしたちは、まさしくコロッケとたわしの区別すらついちゃいなかったんだよ」
「いや、意味分かんねえよ」
「最初の〈浄書運動〉の中心に、公正さや人権があったことは間違いない。でもそこには嫌悪や同情も混ざってた。社会的な差別と個人的な不愉快の線引きなんて、大抵の人間にゃできちゃいなかったってことさ。だからいつの間にか、公正さから嫌悪感に、運動の原動力がすり替わってたことに誰も気づけなかった」
「じゃあ、本がなくなったのは、差別の道具だったせいじゃねえってことか」
「そもそも何が出版されるべきで、何がそうじゃないかなんて、決められるほど人間は賢くなんてないんだよ。それなのに、あたしたちはその一線を踏み越えて、踏んじゃいけない場所まで踏み荒らしちまった」
 二本目の煙草はいつの間にか、老婆の指のあいだで燃え尽きていた。こうべを垂れるように下を向いていた灰が根元で折れ、カウンターの上で潰れた。老婆はすぐにそれを机のふちから手のひらにとって灰皿に捨てた。だが木目には崩れた灰が詰まっていて、灰が落ちた場所は薄っすらと白く汚れていた。
「……後悔してんのか? だからこんな本屋にこだわってんのか?」
「どうだかね。でもこれだけは断言できる。コーラルの本の出版はされるべきじゃなかった。でも、出版されるべきじゃないことと、実際に出版中止に追い込むことは同じじゃなかった。あたしらはそこを間違えた」
 老婆の話は少し難しかった。そして俺に難しいことはあまりよく分からなかった。
 だがかつて、老婆たちは分からないままでいたから間違えた。それだけは迷子のガキみたいに頼りない老婆の表情が、言葉なく雄弁に、俺に物語っているように感じた。
「まったく皮肉なもんだよ。最後に残ったのが、誰も傷つけないよう、何も選ばなかった本なんだからね。誰も傷つけないのに、誰からも必要とされないんだ」
「そりゃあな。トイレに置いておいてケツ拭く以外に使い道がねえもんよ」
「あんたのなかで、紙はトイレットペーパーと本だけなのかい」
「他になんかあるか?」
「……まあいいさ。聞いたあたしが馬鹿だった。それと、言っておくけどね、あたしゃこいつが売れるまでは店もたたむつもりはないからね」
 ふいに老婆が溢した一言に、俺は内心で拳を握った。実際は開いている右手をすぐに尻ポケットへと滑らせて、擦り切れて縒れた財布から抜いた現金をカウンターへと置いた。
「それなら仕方ねえな、この売れ残り、俺が買ってやるよ。これで心置きなく店じまいできんだろ」
「馬鹿言うんじゃないよ。あんたになんか売るわけないだろ」
「は? なんでだよ」
「聞こえなかったのかい? あんたなんかにゃ売らないって言ったんだ。もう話も済んだんだし、とっとと帰んな」
 老婆が語気を強めたせいか、窓が微かに揺れていた。どこからともなく吹いてきた隙間風にさらわれて、カウンターの上の紙幣が床へと落ちる。
「……てめえなぁ、駄々こねられる身分だと思ってんのかよ」
「売るも売らないも、店主のあたし次第に決まってんだろう」
「そんなわけあるかよ。こっちは客だぞ」
「本は読まないんだろ?」
「読む中身なんてねえじゃねえか!」
 思わず声を荒げたが、やはり老婆は微動だにせず、口をへの字に曲げただけだった。俺は捨て台詞のように舌を打ち、老婆を睨み、それから取り出した現金を一円残らず財布へと仕舞った。仕舞いながら、この店をたたむよう老婆を言いくるめる方法を考えた。だが何も思いつかなかった。
 今日何度目か分からない深い溜息を吐いて、俺は壁際に放置されていた踏み台に腰を下ろした。そろそろ立ち続けているのも限界だった。
「なんだい。帰んないのかい」
「帰らねえよ。てめえが出て行くと約束するまでは帰らねえ。それにガキんときから足が悪くてな。長え時間立ってると古い傷が痛むんだ。休憩させろ」
「そりゃ可哀そうにね」
 俺の事情など大して興味もなさそうに老婆は言って、静かに目を閉じた。好き勝手話していたくせに、話し終えればこの有様だ。俺は電子タバコを取り出して、深く息を吸った。吐き出した水蒸気の行く先を目で追うと、カウンターの上の古いレジスターと壁のあいだに、別の本が挟まっているのが目に留まった。白紙本と比べれば装丁はみすぼらしく、俺のほうを向いている背表紙は滲みと日焼けで文字を読むことすらできなかった。
「その本は?」
 電子タバコをしまいながら俺が訊ねると、老婆が細く目を開ける。俺はもう一冊のその古びた本を指差した。
「これかい? これは売り物ですらない。ただの思い出さ」
 肩を竦めた老婆を無視して、俺は身体を乗り出して本を手に取った。老婆は俺を止めようと手を伸ばしたが、俺はその手を払いのけた。老婆の細い腕は、気の抜けた風船のように軽く頼りない。
 胎樹、と題を辛うじて読めた表紙の上半分は赤黒い滲みで変色していた。仕事柄、それが古い血であることはすぐに分かった。俺は背筋に感じた薄ら寒さを誤魔化そうとして、喉の浅いところで笑ってみせる。
「白紙の本の次は呪いの本かよ」
「呪いの本。そうだね、そうかもしれないね」
 俺はページを捲ってみる。血は中にまでしみ込んでいて、張り付いたまま開かないページがある。
「こっちはどんな話なんだ?」
「親子の話だよ。人が人を産み、育てる傲慢への恐れが書いてある」
 恐れ、という言葉が俺の頭の内側でざらついた。あるいはそれはずっと前から、物心ついたときからすでに深く刻みつけられていた古傷を、力任せに引っ掻かれたような感覚でもあった。
「勝手なもんだよな。親ってのは、ガキのことを勝手に産みやがるんだ」
 語気は自然と強まり、口は考えるよりも先に言葉を吐き出す。
「随分と寂しいことを言うね。親が悲しむよ」
「顔も覚えちゃいねえよ。それに向こうだってこっちがどこで何してるか、どうやって生きてるかなんて知らねえだろうよ。俺は施設で育ったんだ。タオルにくるまれて、入口に置き去りにされてたんだと。そんな俺に、悲しむ親がいると思うか?」
 言ってから、俺は笑った。笑うしかなかった。
 俺は親の顔すら知らなかった。施設育ちだというただ一点に向けられる同情に耐えられなかった。どこにいても孤立し、施設出身の悪い先輩に引き込まれるまま、気がついたら極道になっていた。そう生きるほかになかったようにも思うし、もっと何かきっかけさえ掴めていればまったく別の人生を歩めていたような気もする。だがやっぱり、最初から狂った歯車ばかりが押し込められていた俺の人生はなるべくしてこうなったのだと感じられる。
「まったく、クソみてえな人生だよ」
 俺はふと自分の生きてきた道を振り返ってしまったときに見えてしまうあれこれを、こうやってクソみてえだという一言で片づける。そうすることでざらついた過去と現在のディテールを煙に巻く。誰かを傷つけるから廃れていった表現は、俺のなけなしの自尊心を辛うじて守ってくれている。
「クソみてえな人生でも、紛れもないあんたの人生さね。代わりはいない。それに、産んじまった以上、親は子供のことを忘れたりなんかしないよ。顔が分からなくたって、あんたがこの世にいるってことは、誰よりも覚えてるのが親ってもんさ」
「くだらねえ。何を根拠に、んなアホみてえなことを言ってんだよ」
 俺は沸々と煮えるやり場のない苛立ちを、カウンターへ叩きつけるように置いた血濡れの本にぶつけた。
 老婆は煙草を咥える。しかしオイルライターは何度こすっても火がつかなかった。老婆は紫煙の代わりに深い溜息を吐いた。こぼれた吐息は無色透明で、俺には見えなかった。
「昔、まだ本があったころ、ある作家がいてね。作家としてはそれなりだったが、人としては問題がある女だった。そいつは執筆に詰まると、毎日のように男を替えて遊んだもんさ。酒を飲み、服を脱ぎ、気がついたときには妊娠してた。当然、誰の子かなんて分からない。そもそも連絡先や名前すら知らない男が大半だったからね」
「最低だな。赤ん坊が哀れすぎる」
「そうだろうね。だけどそいつもひどく焦ったもんさ。いや、怖くなった。そう、怖かったんだ。人が人を育てることがたまらくね」
「勝手に作っておいて、半端なこと抜かしてんじゃねえよ。……反吐が出る」
 目から火が出たように熱くなった俺は、立ち上がり、老婆の胸座を掴んでいた。
 今ならば、店を破壊し、老婆を外へ引き摺り出すことができそうな気がした。老婆も抵抗しなかった。俺は老婆を見下ろし、老婆もまた俺を見ていた。俺は老婆から手を離した。
「悪い。あんたの話じゃなかったな……」
「まぁ、そうだね。でも、あんたの怒りは真っ当だよ」
 老婆は縒れたシャツの襟を整えていた。俺は老婆を見ることができず、踏み台の上に再び腰を下ろしたまま、磨り減った革靴のつま先に視線を落として深呼吸をする。
「その作家はね、人であるのと同じくらい作家だったんだ。だから悩んで恐れて、その末に子供を産んで、作品を書いた。それがこの本さ」
 ふいに言葉が途切れたから、俺は視線を上げる。老婆は血濡れの本を手に取り、その赤黒い滲みを撫でていた。それは脆く崩れ去りそうな存在を、恐る恐る確かめずにはいられないというような手つきだった。
「書かずにはいられなかった。この本は作家自身にとって生きていくために必要な物語だった。決意でもあった。だけどこの本が出てすぐに、その作家は息子を抱いて歩いているところを襲われた。ナイフで切りつけられ、ありったけの呪詛を浴びせられた」
「それが、さっき言ってた事件か?」
「案外ちゃんと聞いてるじゃないか」
 茶化すように笑った老婆は血濡れの本をもとあったレジスターの横へと戻した。そして空いた手を頬に添え、深く刻みつけられた傷痕を覆う。大して注視もしていないのに、その痩せた指先が小さく震えていることに、俺は目ざとく気づいてしまう。頬の傷はきっと、かつて呪詛といっしょに刻み付けられた傷だった。
「襲ってきた男の妻は、事件の少し前に自殺していた。妻が若いときに子供を堕ろしていたことが原因で二人のあいだには子供ができなかったそうだ。妻の遺体の横には、そのことを悔やむ遺書とこの本が置いてあったらしい」
「……ただの逆恨みじゃねえか」
「もちろん自殺の直接的な原因がこの本だったのかなんてことは、本人にしか分からない。でもそうじゃないことだって、誰にも証明できない。否定できない以上、この本にも書いた作家にも非がないとは言い切れないってことさ。
 それにね、読んだ誰かが傷つくことも、当時の世間がどういう反応を示すかも、薄々だけど分かってたんだ。それでも書いた。必要だったからね。でも、けっきょくのところね、どれだけ人様を傷つけることに厚顔無恥になれても、傷つけられる誰かのことを正しく想像できてなかったんだ。敵意と刃を向けられて、自分がしでかしたことの大きさに気づかされたんだろうね。その作家は、また危険が及ぶことを恐れて息子を遠ざけ、自分自身は筆を折った」
 俺はうなだれながら、額の前で組んだ手に力を込めた。関節が軋んだ。静かに深呼吸をした。苛立ちをなだめる必要があった。しかし俺は収まりきらないままに顔を上げた。わずかに眇められた老婆の目に、施設で暮らしていたころの俺が映って見えた。
「息子を、捨てたのかよ」
「そうだね。捨てたよ」
 鋭い石で水面を叩いたような声だった。
「何を言っても息子を捨てたことに変わりはない。でも息子の人生を考えたら、そんな業にまみれた母親なんかと一緒にいるべきじゃない。だからその作家も、それだけはきっと後悔しちゃいないさ」
「迎えに、迎えには行ってやんなかったのか」
「行こうと思ったさ、何度もね。だけどどの面下げて迎えに行けって言うんだい」
「ガキは、待ってたんじゃねえのか」
「そうだとしても行けるわけがない。こんな顔で、母親の顔を見るたび、事件を思い出させちまう。向けられた悪意の記憶を呼び起こしちまう。もちろん一緒にいたってそうはならなかったかもしれない。でも、その可能性を少しでも考えちまったら、行けなかったんだよ」
 俺はそれ以上何も言えなかった。行けなかった。そう言う老婆の表情が歪んで見えるのは皺のせいではなくって、声が掠れているのも煙草のせいではなかった。
「……やっぱり、勝手だよ」
 薄く引き延ばされていく沈黙の膜をやぶって、俺は辛うじてそう、呟いた。
「ああ、全くだ。誰が見たって勝手で、最低な母親だ。弁解の余地なんかない。でもね、その作家は一日たりとも、息子の存在を忘れたことなんてなかったよ。それだけは本当だ」
 店内に広がる沈黙の隙間で、窓を叩く微かな音が聞こえた。見れば一つまた一つと、窓に水滴がついた。空はいつの間にか黒ずんで、煙のような雨を静かに降らせていく。
「……そんなのは愛情でもなんでもねえ。ただの罪悪感だろ」
「分かってる。今更愛してるなんて言うつもりは欠片もないさ」
 当たり前だと、俺は噛み締めた奥歯のさらに奥のほうで吐き捨てる。
 俺をくるんでいたタオルには俺の名前と必ず迎えに来ますと書かれたメモが一緒になっていたらしい。だが施設を出る一八歳になっても、母親からの連絡はなかった。
 別に待ち続けていたわけじゃない。母親を探しに施設から脱走したこともあったが、一五、六になるころには酒や女を覚えて、仲間とつるみ、もういろんなことがどうでもよくなっていた。だがそれすらも、母親に捨てられた事実を紛らわすための陳腐で虚しく浅はかな抵抗だったのかもしれない。
「なあ、一ついいか?」
「なんだい、改まって。何度も言うけどあたしは出てかないよ」
「そうじゃねえよ。いや、追い出さなきゃなんねえのはそうなんだがよ」
 俺は髪をかき、もう一度取り出した電子タバコを咥えて深く息を吸う。メンソールの妙に爽やかなフレーバーがいつもより舌に辛かった。
「あんたの……じゃなくて、その作家の、そいつの人生には一体何が残ったんだ?」
 老婆は眉を歪め、色の悪い唇を浅く噛んだ。ゆっくり息を吸って、さらにゆっくり息を吐いて、窓にしがみついている雨粒を眺めていた。
「結果的にガキを危険に晒すようなもんを書いて、ガキまで手放して、書くことも止めて、その人生には何が残んだよ。あんた、それでいいのかよ」
「ヤクザが偉そうに説教かい? 笑わせるんじゃないよ。ならあんたはその人生で、一体何が残せるって言うんだい」
 返す言葉がなかった。拳銃ハジキよりも遥かに痛烈に、老婆の言葉が俺の五〇年を抉っていた。
「……そういや、俺たちゃ、似た者同士だったな」
「誰も彼も、いつも正しくまっとうにやってけるわけじゃないんだよ」
 分かっていた。
 俺の人生がクソなのは、親に捨てられたからじゃない。俺が選んだことと選ばなかったことの結果でしかない。たとえば社会が優しさや友愛を選び、多くの本を捨てたように。
 でもね、と老婆は言葉を継いだ。
「正しかろうが、間違おうが、あんたはあんたさ。あんたが歩いた道には、他の誰でもないあんただけの物語があるもんだ」
「ねえよ、んなもん。どこにでもある、クソみたいな人生だ」
「どこにでもあるもんかい。胸座を掴んで怒ってみせたあんたは、クソよりかは少しましに見えたよ」
「うるせえな」
 歯がゆさに頭をかいた。老婆の吐いた息が店内に落ちた。それは床に落ちると無数に砕け、店内のあちこちに滲みをつくっていくようだった。やがて老婆は重い腰を上げ、窓のほうまで歩いていった。雨が止んだのか、少し明るさを取り戻した空を切り取る窓からは、さっきよりも朧げなぶんだけ優しい、微かな光が差している。
「……今日はまったく、愉快な日だよ」
「何を言い出すかと思えば、やっぱりボケてんじゃねえか。どこが愉快なんだよ」
「なあ、もしあたしが出てかなかったら、あんたはどうなるんだい?」
「さあな。若頭にどやされるのは間違いねえだろうな。殺されるってことはねえだろうが、指くらいなら詰められるかもしれねえな。なんだよ、同情で出てってくれる気にでもなったのか?」
 少し話を盛った。けじめだなんだと理由をつけて指を詰めるのは、大昔のヤクザのすることだ。少なくともうちの若頭なら、汚ねえから指なんか詰めんなと眉を顰めることだろう。
「あんたは救いようのない大馬鹿だね。この本が売れるまでは出て行かないって言ってるだろう」
「だったら何で聞いたんだよ。てかな、俺に売れって言ってんだろ。いいじゃねえか、誰も傷つけねえ本。極道が買ってくんだから、ユーモアもある」
「確かにそうかもね。でもあたしは期待してんのさ。この本で、ちゃんと救われる人間がいるんだってこと。そうじゃなきゃ、本当に何にも残らなくなっちまう」
 老婆はもう一度、次は呆れたと言わんばかりの溜息を吐き、それから俺が店に来てから初めて右手を掲げてみせる。その手は、人差し指と中指の第二関節から先がなかった。手のひらには生命線を切り刻むように傷痕が刻み付けられていた。
「あたしはもうこの通り、目も悪いし、利き手だって不自由だ。情けないことに、何かを書こうと思うと手が震えちまう。だから、これは単なる思いつきなんだけどね、あんたが代わりにこの白紙を埋めておくれよ」
「白紙を埋める?」
「この本に、あんたが生きて、見て聞いて考えてきたことを書いてくれって言ってんだよ」
 それはつまり、本を書けということだった。
 理解した俺は思わず声を上げて笑った。広く出版するのが難しいのであって、本を書くこと自体に罪はない。だが老婆の申し出はあまりに突拍子がなく、どうしようもなく荒唐無稽だった。俺が本を書く? 書けるはずがない。小学校の作文すら、俺はまともに書いたことがないのに。
「めんどくせえ。んなことして俺に何の得があるんだよ」
「あんたが書き上げたら、そんときゃあたしがこの本を買うよ。それで完売。在庫がなくなりゃ店もおしまいだ」
 俺は思わずカウンターの上に投げ出されたままになっている白紙本を見た。それなりに分厚い本だが、ろくでもないとはいえ曲がりなりにも五〇年ある人生を書くならば、そう時間はかからないような気もした。
「あんた今、それなら悪くないなって思っただろう」
「うるせえな。だいたいなんで俺なんだよ。さっきのガキだってよかったんじゃねえか?」
「店主はあたしだよ。だから決めるのはあたしだ。たまたま、あんたのクソみたいな人生ってやつを、少し読んでみたくなったのさ」
「読んだって後悔するだけだぞ」
「しないね。あたしたちはたぶん、自分を傷つけたり刺したりするような本をもっと読むべきだったんだ」
「なんで傷つく前提なんだよ」
 老婆は嗄れ声で楽しそうに笑った。俺も釣られて思わず笑ってしまった。地上げにきたはずが、いつの間にか老婆のペースに乗せられているような気がした。
 だが目的は果たしつつある。まだ少し時間はかかるが、あとは俺次第だった。
「それじゃあ、俺はそろそろ帰るよ。早く書いて、あんたを追い出さねえといけねえ。いつ死んじまうかも分かんねえしよ」
「生意気言うんじゃないよ。それに死んだら死んだで店はつぶれるんだから、あんたらはそれで満足だろう」
「たしかにな。だがな、極道ってのは、結んだ約束は破らねえんだ。だからあんたは首洗って待ってりゃいい。すぐに書き上げてきてやるよ」
「律儀なもんだね。楽しみにしてるよ」
 俺は立ち上がり、老婆から白紙本を受け取った。精緻な装丁の一冊は、ついさっき手にしたときよりもさらに重く感じられた。
「変に気負う必要はない。クソったれな母親に、恨みをぶつけてやればいいんだ」
「余計なお世話なんだよ。……だが、まあ、まずは今日のあんたのことから書いてみることにすっかな」
「書き出しは?」
「は?」
「書き出しだよ。何事も最初が肝心なんだ」
「そういうもんなのか。そうだな……」
 俺は真剣に考えこんだ。五分か、一〇分か。まるでこれまで何も考えずに言葉を使っていたことが暴かれるように、俺の手元にあったはずの言葉がほどけ、他人の顔になって離れていく。
「真面目だね。あんた馬鹿だけど、いい男だよ」
「うるせえ、気が散る」
 俺はまた考えた。老婆も黙っていた。俺が何かを見つけるまで、じっと辛抱強く待っていた。
「……じゃあ、そうだな、『その本屋は、今はもうすっかり廃れた繁華街の一角にある。』とかどうよ」
「まあ、よくはないが悪くもないね。でも『すっかり廃れた』は余計だよ」
 老婆は俺から視線を逸らす。だが背けられる間際、口の端がわずかに吊り上がっているのだけが見えた。
「何にやついてんだよ」
「にやついてなんかないよ。ほら、さっさと帰んな。今日はもう店じまいだ」
「勝手な奴だな。どうせ誰も来ねえんだから、さっさと閉めとけ」
 老婆は俺を追い払うように手を振り、俺は舌打ちをして踵を返す。
「なあ、最後に一つ、あたしからも聞いていいかい?」
「なんだよ」
 俺は店の扉へ向かう足を止めて老婆を振り返る。
「……あんた、名前は何て言うんだい」
「ああ、名前。名前か……。そういやぁ、この本屋と同じだよ」
「そうかい……。そいつは奇遇だね」
「まったくだ。おかげで無駄に長居しちまった」
 俺は向き直り、店を出た。老婆の表情は確認しなかった。来たときと同じように、錆びた蝶番が泣いていた。
 雨は止んでいるが、まだ風は冷たい。俺は本を抱え、濡れたアスファルトの上を歩いていく。前に進むたび、足の古傷が疼くように痛む。
 だが悪い気はしない。
 俺は今日、痛みもまた人を救うことがあると知ったばかりだ。

――無題の本より、冒頭を抜粋

文字数:13576

課題提出者一覧