回転木馬は涙をこぼ

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梗 概

回転木馬は涙をこぼ

ある夜更け、かおるは百貨店の屋上にある塔屋の扉前にいる。エレベーターは動かないが、屋上で煙草を吸おうと思い立ったのだ。扉は施錠されて開かない。隙間から覗くと、誰かが柵を乗り越えようとしている。小学生くらいの子どもだった。かおるが声をあげそうになると、子どもに音もなく近寄って引き留める人影がある。こどもは驚き、おばあ、と叫んで飛びついた。

二人は扉の前で話しはじめる。子どもは語る。母親はもともといないし、唯一の味方だったおばあも亡くなり、父は理解を示さない。学校では話が合わない。空を見上げると、よくおばあと一緒に来ていたこの屋上遊園地に光が見えた。天使がいるかと思って来てみたら何もなくて、希望を失った。
 
 おばあは語る。あなたはそのままでいいし、いつか周囲が変わって受け入れられる時が来る。それに私は、いつだってあなたを見守っている。
 子どもは小さく頷くと、相手の手を取って屋上遊園地を歩き回る。足音が響く。二人は静止した回転木馬に乗り、思い出話をしているようだ。
 空が白みはじめ、子どもは屋上扉を開け放つ。開かないと思ったのはかおるの思い込みだったのか。子どもは物陰に潜んでいたかおるに気づかずに階段を降りて姿を消した。子どもの横顔を見たかおるははっとする。

子どもは過去のかおるだった。二十年前のあの日、かおるは終業間際の百貨店に隠れ、夜中に屋上遊園地に向かい、死んだはずのおばあと再会し、自死を思いとどまった。いつしか、そのままでいいというおばあの言葉を忘れ、過去を忘れて強くなりたいという気持ちに心が覆われ、社会的に成功する過程で自分自身を押し殺した。
 かおるの勤務先は、百貨店を壊して別の建物にすべく、かおるを視察によこしていた。今までは仕事で感情は動かなかったし、動かしてはいけないと思っていた。しかし今は、この場所が消えると思うと胸が痛む。
 
 この扉は、夜になると違う時代につながるのだろうか。そう考えていると、人影が近づいてきた。かおるはおばあ、と声をあげ、扉を開け放った。そこは光に包まれた小さな遊園地だった。目も眩む明かりの中で、相手の顔は逆光で見えない。
 相手は語る。聞いて。ここには泣いている回転木馬が一頭いるけれど、そのままの姿で愛されて残された。今のあなたは、昔の自分と今の自分、どちらも受け入れられるはず。この場所は、あなたとたくさんの人の過去が留まっている。だから残してあげて。かおるは深く頷く。

光が差し込むと、相手の姿は透き通り、天使のように見えた。背景には、見たことのない高層ビルの乱立する街が見える。幻のような情景は、眩しい日光と共に、見慣れた光景に切り替わった。
 朝日の中、涙を零す回転木馬の顔が見えた。かおるは思い返す。あの馬が、泣きぬれて美しいと思ったのは自分だった。そして、あの人影はおばあではなく、未来の自分であることを悟る。

文字数:1188

内容に関するアピール

周囲の基準とはどこか外れた子ども時代を送った主人公が、気づかないうちに周囲の期待する役割に適応し、忘れようとしていた自分自身を思い出す話を書きたいと思いました。
 ただ、主人公が努力して積み上げてきたものを否定するのもおかしいように思ったので、大人になった今はどちらも大切にできるという方向にしたいと思っています。

「おばあ」だと思った相手が未来の自分だと分かる部分ははっきり書かず、回転木馬が泣いていると見なしていたのは過去の自分だった、と気づいたころまでにするつもりでおります。

作中、主人公はずっと百貨店の屋上にある塔屋の扉前にいて、未来の世界に足を踏み入れることはありません。ラストは、話の後の現実で主人公が前に進んでいく、という結末をにおわせるように書こうと思います。

文字数:336

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回転木馬は涙をこぼ

扉に嵌め込まれた磨り硝子は、雨の縞と圧し潰された虫の死骸で汚れていた。
 廃業したこの建物にふさわしく緑青の浮いたドアノブに触れると、ぶよのように細かな塵が薄暗がりで舞い散った。思いきり力を込めて回すと、ぎぎい、という軋んだ音と共に、扉は少しずつ開いていった。
 ほっそりとした隙間から秋口の冷気が入り込み、わたしの肌を撫でていく。目を眇めると深い夜が訪れていた。夜の帳にくるみ込まれた屋上の景色は判然としない。見上げれば、満月なのか月は橙色の果実のようだ。星々はそんなにはっきり見えないが、目の奥で針のような光がひそやかに瞬く。
 目が慣れると、朧気ながら周囲が見えてきた。十組乗ったらもういっぱいになる観覧車、銀色の輝きがわずかに残る機関車、花柄に過去の華やかさが漂うティーカップ。朽ちかけた看板の飾り文字は、かろうじて、屋上遊園地と読める。ペンキの剥げ落ちた掲示板には、引きちぎれて風雨に変色したポスターがひらりと揺れていた。
 遊園地の入り口近く、頂上に玉の飾りを戴いているのはメリーゴーラウンドの屋根だ。屋根の下では柱の鏡が青ざめた光を乱反射し、装飾された木馬たちがわずかに上下しながらおいでおいでと誘ってくる。
 思わず扉を大きく開けて足を踏み出そうかと思ったけれど、ふと、音が聞こえた。革靴でコンクリートを歩く時の、硬くて乾いた音だった。慌てて扉を半ば閉じて覗くと、夜に慣れてきた私の目に、小さな人影が入った。暗くて顔が見えづらい上、目深にキャップをかぶっている。ランドセルは背負っていないが、シルエットからして子どもだろう。
 その人物は、きょろきょろと見渡しながら遊園地の入り口を過ぎ、屋上全体をぐるりと巡る背の高い壁に沿って歩いた。暫くの後、首を傾げて立ちどまり、そのまま暗がりを見つめている。ギュイ、ギュイ、鳥の声が奇妙に響きわたった。
 子どもはくるりと方向を変えると、壁に向かってまっすぐ歩いた。見れば、壁の一部が壊れて穴があいていた。子どもは小さな体をこごめ、穴をぬけようとしている。その先には隙間だらけの頼りない柵があり、傍に闇がぽかりと待ち受ける。
 危ない。思わずわたしが声をあげそうになると、もう一つの人影が見えた。その人物は、立ちどまった子どもに駆け寄ると、手を伸ばして相手の腕をひっぱり、倒れ込む小さな体を抱きかかえた。子どもは体を起して自分を救った人物の顔を見つめるなり、言葉にならない声をあげて飛びついた。二人はしばらく抱き合っていたけれど、やがて助けた方が立ち上がり、遊園地の制御室に入り込んだ。すると、ばちりという音と共に、暗い場所から光が眩く立ち現れた。
 観覧車は虹の七色の光を纏い、軸から噴水のように光を噴き出たせ、黄色い煉瓦の小道を照らし出す。沈黙していた機関車は、黒地に銀の模様を際立たせて、煙突からせっせと煙を吐き出す。ティーカップはゼリービーンズのような電球を灯らせて、きらきら輝く孤を描く。メリーゴーラウンドの屋根のテントは、黄金の玉飾りを頂点として放射状の光を放つ。屋根の下の空間は春の花々のように明るい音楽と金色の明かりに満たされ、馬たちは鞍や鐙の装飾を煌めかせて誇らしげだ。床を転がりゆく紙屑さえも小動物のような活力に満ちている。
 夜の遊園地はどこか浮世離れした輝きを放ちながら、あらゆるものに命を与えた。


 光の装飾に包まれた二人は暫し無言でいて、やがて看板下の白いベンチに向かった。そのベンチは羊歯に似た植物と同化しつつあり、二人は座面に散らばる深碧の葉をどかした後、同じ方を向いて腰かけた。
 明るくなったけれど、子どもはキャップを目深に被り、顔かたちが判然としない。もう一人の顔はよく見えて、澄んだ瞳と目元のよい皺が柔和な雰囲気を醸し出す。白いワンピースのような服を身にまとい、肩先にかかる銀灰色の髪がきれいだった。
「おばあ」
 子どもが相手の顔を覗きこみながら呟いた。変声期前の少年を思わせる中性的な声だった。子どもそのまま暫く床を見つめていたけれど、少し顔を上げて言った。
「もうね、ずっと、会えないかと思ってたんだよ」
 おばあと呼ばれた人物は、黙って子どもの掌に自分の手を重ねた。
「……なんであんなことをしたのか、聞かないの?」
 子どもの言葉に、おばあは少し微笑んで、相手の顔を覗き込んで告げる。
「もう少し気持ちが落ち着いたら、自分で話すと思っているよ」
 まるでお気に入りの枕に顔を埋めた時のような、控えめで心地よい声。
 子どもはやがて、ぽつりぽつりと話しはじめた。
 うちは、ほかの家みたいにお母さんがいない。でも、行ってらっしゃいとおかえりなさいを言ってくれて、一緒にいると安心できる人がお母さんだとすれば、それはおばあのことだったから、寂しかったり、引け目に感じたことなんかなかった。
 でもおばあは、梅雨の少し前、さくらんぼを一緒に買った後、寒気がすると言って床についた。次の日には医者に行き、数日おきに通った後で、結局寒気はとれないまま入院した。忘れられた朱赤のさくらんぼは冷蔵庫でしわしわになってしまった。そしておばあは、家からいなくなった後、あっという間にどこにもいなくなってしまった。
 唯一の味方だった。朝起きて最初に会うのはおばあだったし、何かあった時は一番に相談していた。だからおばあがいなくなると、家でなにもしゃべれなくなって、部屋にこもりがちになって、学校も休むようになって、そのまま夏休みになだれ込んでしまった。最初は心配して話しかけてきた父親も、こちらが言葉を出せずにいると、いつしか何となく避けてくるようになり、家の中でもすれ違うようになった。
 家にいても居心地が悪くなる一方だった。意を決し、休み明けに登校しはじめた学校は、とっくに自分抜きでグループができていたし、級友の話に興味を持てなかった。一日中誰とも話さないことが当たり前になって、ずっと一人で行動するようになった。
 ある夕方、歩きながらふと空を見上げた。夜が空を覆う時間になり、よくおばあと一緒に来ていたこの屋上遊園地に、小さな光が見えた気がした。心臓に灯がともった気がした。デパートに入り込み、遅くなるまで待って屋上を探索した。天使が、自分を救ってくれるなにかがいるかと思って来てみたけれど、誰もいない。屋上をひとしきり歩き回った後、夜空を見たら吸い込まれるような深さだった。ぼんやりした頭で、虚空に身を委ねたら天使に会えるかと思って柵に進んだら、おばあに会えた――


 温かい沈黙に包まれた後、おばあはゆっくりと口を開いた。
「寂しかった、ね」
 言葉を継ぐまでに一瞬の間があって、
「かわいそうに」
 ぽつりと呟いた。
 子どもはうつむいたまま黙っていた。
 わたしにもなんとなくわかる。自分で自分をかわいそうだと思ったらみじめだから、懸命に考えないようにする。けれど、誰かに言われると気持ちが決壊しそうになる。きっとあの子どもは、一瞬でも注意を内に向けると涙が止まらなくなるから、今この瞬間の感覚を鈍らせているのだ。
 子どもの世界は複雑で、子どもなりの節度がある。あの子はきっと経験のせいで精神年齢が引き上がり、心を許している相手でも無条件には甘えられないのだ。
 おばあは頷きながら、大らかに話しかける。
「あなたはね、そのままでいいんだよ」
「でも、お父さんはわたしにいろいろ言ってくる。もっと愛想よくしろ、もっと笑え、もっとちゃんと挨拶しろ、もっと素直になれ」
 声が、言葉が、途中で詰まる。
 自分の言葉が自分を傷つけているのか。
 暫し時間をおいて、おばあが話しかける。ほのぼのと優しい声だった。ずっと聴いていたくなるような、旋律に似た流れが耳をくすぐる。
「いろいろ言ってくる人もいるかもしれない。でも、あなたは十分頑張ってるし、それ以上頑張る必要もないの」
 子どもは、呻くように呟く。
「……みんなが、そう思ってると、いいなあ」
 溜息まじりの、重さを感じさせる声だった。
 おばあは掌を出した。子どもが小さな手を置くと、おばあは重なった手を子どもの頬に寄せる。
「みんなのことなんて、どうでもいいんだよ」
 月と遊園地のネオンの逆光で、二人の顔は判然としない。でもわたしの心の中で、二人の表情はよく見えた。
「私は、いつだって、あなたを見守ってるから」
 固唾を呑んで聞いていた。おばあの声を聞いて心が解けた。その言葉は、小さく開いた扉の重さや不自然な姿勢、空間に漂う湿った臭いをわたしの意識から取り去った。
 二人は手を取って歩きはじめた。
 乾いた革靴の音と、柔らかい衣擦れのような音。賑やかで華々しかった屋上遊園地は、いつしか照明も音楽も、どことなく落ち着いた雰囲気になっている。観覧車の動きも少しゆったりとして、馬たちの細い顔は親しみを漂わせ、柱上部に描かれた人魚たちも、かたちのよい唇にきれいな微笑みを浮かべている。
 子どもとおばあは、一つ一つの遊具を指さしながら思い出話をしているようだった。機械の音や風の音のせいで、会話の細部は聞き取れなかった。この場所には、複雑な音が響いている気がした。それは静寂と紙一重の音であり、遊園地そのものが、絶えずゆっくりと呼吸している響きのように思えた。
 一通り回り終えたのか、二人は入り口付近に戻ってきたけれど、今度はベンチに腰掛けず、メリーゴーラウンドへと足を踏み入れた。あらゆるものを黄金色に染める空気の中、おばあは金の鬣をなびかせるすらりとした馬に横座りし、子どもは丸い鼻ときらきらした目をした小柄な馬に飛び乗った。廻りはじめると、蝶のはばたきや若葉のそよぎに似た音が聞こえてきて、わたしの耳孔を心地よく擽った。
 光の渦の中、さざめきながら流れゆく回転木馬。わたしはその情景を、逆さにした双眼鏡で眺めているような気がした。なぜならば、金色の輝きに浸されたその空間は、まるで現実から背を向けた細密画のようだったからだ。光をはねかえすおばあの髪と、こころもち体を揺らす子どもの影。誇らしげな馬たち。そして奥の柱にある銀の鏡が、動くものすべてを反映し、無限の鏡像を生み出していく。廻り続ける木馬のように、一瞬から一瞬へ、すべては移りゆき、変わりゆく。でもおばあの気持ちはずっと変わらないのだし、彼女の温かさもきっと不変なのだ――
 幸せな、胸が痛くなるような情景の中、子どもの乗っている馬と目が合った。大きく見開かれた目。水をはらむ潤んだ瞳は、海の底を覗き込むレンズのように底知れない。私は何かを思い出しかけた。それは、この完璧な場所に落とし込まれた一つの影、晴れやかな空にある雲の欠片のような記憶だった気がする。でも過去を掘りおこそうにも、馬たちは一時も留まってはくれない――
 やがて二人は静かに降り立ち、黙って空を見つめた。濃紺の割合がかなり減り、橙と黄のグラデーションが入り混じる。明るくなりつつあるはずなのに、おばあの輪郭はひどく儚く見えた。白みかけてきた空気の中、おばあは黙って笑いかける。子どもも小さく頷いている。
 暫しの間そのままでいると、子どもは停止している回転木馬にまたがり、鏡に向き直って帽子に触れた。つばに隠れていた顔がちらりと見える。
 瞬間、わたしの息が、時間が、止まった。まるでそれは、もう二度と会えないと思っていたなにかが戻ってきたような、あまりにも唐突で、驚きなのか当惑なのかも判別できない――名前をつけられない、混濁した感覚――に貫かれた。
 そんなことが、あるのだろうか?
 硬直している間に、子どもはなにかに呑み込まれたように消え去ってしまった。わたしは眩暈を覚えてその場にしゃがみこみ、目を閉じた。

++
 あの子どもは、顔立ちのどこをとっても隙がなくて、それでいてどこか怯えた目をした子は、まぎれもなく昔のわたしだった。
 あの頃、唯一の味方だったおばあが急にいなくなり、朝目を覚ましてから夜眠るまで不安につきまとわれていて、周りのみんなはわたしに無関心、もしくは敵なんだと思っていた。
 そんなある日、誰にも言えなかったことだけれど、旅行に行く時のグループをつくる時、一人ぽつんと取り残されたことがあった。狭くて苦しい世界に生きる小学生にとって、好きな人同士でつるむ時、取り残されることほど残酷なことはない。先生は別のグループに入れてくれたけれど、みじめな気持ちがいや増しただけだった。
 下校する時、あの極度の不安と緊張感、一人になった時のまっくらな気持ち、教室に漂うよそよそしい空気、泥につかってるような足の重さなどが幾度となく甦った。その瞬間を味わうたびに、涙がこぼれそうになった。懸命に上を向いて歩いていると、視界の隅に、小さな光が見えた気がしたのだ。
 おばあと一緒によく行ったデパートの屋上遊園地だ。そう思った瞬間、わたしの中で記憶の渦が急速に逆回転した。正面口のブロンズの女神の謎めいた微笑み、大階段で燦然と輝く切子硝子のシャンデリア、さんざめく客と執事めいた案内係、屋上で乗り物や風船を見てはじける気持ち、昼下がりの陽の中で食べるソフトクリーム。そして、はしゃぎまわるわたしを白いベンチに腰掛けて見守っていてくれたおばあ。さまざまな瞬間が、めくるめく思い出のかけらが胸に溢れ、わたしはいてもたってもいられなくなった。
 時計を見るとデパートの終業間際で、屋上遊園地は閉まっている時間帯である。目の錯覚かもしれないし、ただの反射かもしれないし、単に従業員が間違って電灯をつけただけかもしれない。でも、頭のどこかで天使かもしれないと思っていた。そうだと信じたかった。
 わたしは、いつもおばあと乗っていた、足元を見るとお腹がひやっとする硝子張りのエレベーターで屋上まで行ってトイレに隠れた。ひどく胸が高鳴った。閉店後、物音と人の気配がなくなって暫くしてから屋上を歩き回ってみた。遊園地に入ると、メリーゴーラウンドの鏡が目に入った。そこにはとぼとぼと歩いている自分の小脇に、涙に潤む目をした小さな馬が映っていた。自分の目も熱くなりかけたので、急いでその場を離れた。ふらつく足を引きずりながら空を見たら、どおんと大穴があいているように感じた。この虚空にたった一人吸い込まれるような気がして、そうなったらもう何も悩まなくていい気がして、柵に進んでいったのだ。
 今となっては、当時の状況は思い出せるけれど、感覚を再現することはできない。でも、大人にとっては大したことではないことも、子どもにとっては全てのように感じる時がある。人が闇の中に落ち込むきっかけは、案外、外側から見たら小さな出来事なのかもしれない。でも、救いを求めても無駄だと思い、代わりに闇を求めたのだ。
 その時ふと唐突に、視線のようなものを感じた。それは、夏の夕方に振りかえると視界から消え去る影、誰もいないはずの部屋で感じるわずかな気配、思い出深い写真が突然棚から落ちた時の空気のそよぎに似ていた。なにかに見守られている予感に駆られ、そのまま進んではいけない気がした。ふと歩みが滞り、転落する前におばあに会ったのだ――

固く目を閉じたまま、自分に問いかける。
 なぜわたしは、この上なく大事な記憶を、頭の片隅に押し込めていたのだろう?
 問うまでもない。それは多分、憤りと怒りと、やりきれなさと、自己嫌悪を抑えるためだった。おばあは、わたしはそのままでいい、と言ってくれた。けれどもわたしはそうしなかったのだ。
 ある日、父が女の人を家に招き、その人は何度も来るようになり、ついには同居するようになった。彼女は親切で優しくて、わたしに関しては一定の距離を取りつつも、できるだけのことをしてくれた。級友たちは、子どもならではの敏感さと残酷さは相変わらずだったけれど、わたしがあの日を境になにか確かなものを手に入れたことを知ったようで、話しかけてくれるようになった。それを見た学校の先生は、何も分かっていないながらも、何かが解決したと思ったようだった。
 一緒にいても楽しくないけれど、憎しみを抱くほどではない人と過ごす日々は、ひびの入った眼鏡をかけ、耳に真綿で栓をして過ごしているようだった。全ては他人事のようだったし、日々は色のない夢の中に溶け込んでいった。自分の中の尖ったところ、核ともいえる部分を麻痺させているうちに、いつしか心を覆ったままでいるのが日常化していった。
 父に言われるまま勉強し、先生に勧められるまま進学し、コンピュータに提示されるまま就職し、会社に要求されるまま働いた。就職先は、クライアントの要求への調査と答えを用意する会社だった。なにも生み出さず創り出さず、別の人に作業を投げる。クライアントの言われるままに穴を掘り、また埋め戻せと命令されても、何も思わなかっただろう。
 このデパートに来たのは、一体何年ぶりだったろう。売上の低下により営業しなくなって久しく、次の利用方法を模索している店舗だった。旧式の硝子張りのエレベーターや木彫りの人形が演奏する時計台、柱の土台の大理石や御影石など、ここは建物自体に見どころがあるため、住民からは保存したいという声も上がっていた。昔からある貴重な屋上遊園地を残したいという声も多いと聞いた。
 わたしは今日、仕事でここに来ていた。わたしの担当するクライアントの一つが新しい店を出したいと言ったので、有力候補の一つとして下見に来ていたのだ。決まればわたしの手柄になり、インセンティブなり昇進なり、何かしらの恩恵を受けるだろう。感受性に蓋をして、周囲の勧めるままにやってきたわたしは、少なくとも昨日までは、ここがなくなることになんの感慨も抱いていなかった。
 ただ、建物の所有者から案内され、正面扉の色褪せたステンドグラスやわずかに輝くモザイクタイル、鮮やかな銅青どうせいの浮き出た植物柄の手すりや柱のひび割れたユニコーンの像を見て、なにも感じずにはいられなかった。積み重なった時間の痕跡を見出すたびに、心奥に尖った石を投げ込まれた気がした。まぎれもなく存在した美しさの残滓は、わたしの心臓に、なにか鋭い痛みのようなものを埋め込んだのだ。
 所有者は、かつては緋色の絨毯が敷かれていたという大階段で立ち尽くしているわたしを見て、なにか感じるものがあったのだろう、いきなり鍵を握らせてきて、納得がいくまで見て行ってください、と言ったのだ。親切心を振り払おうとしたけれど、相手は足早に去ってしまった。
 一人残されたわたしは、混乱のさなかにいた。敏感な部分、子どもじみたセンチメンタルだと思っている感覚が自分に残っていると認めたくなかった。けれどもこの感覚は、すべてが遠のいてしまうような確かな痛みは、わたしの体を捉えて離さなかった。エレベーターがなくても屋上へ出られる道を探した。感情を理性で覆うために夜風にあたりたかったのだろうか。いいえ多分、不確かな想念をふるいにかけて、わたしなりの真実を探したかったのだ――
++

足音が聞こえる。さり、さり、さり、という、衣擦れのような、羽の触れ合うような響き。眩暈が消えたことを確認して立ち上がり、扉を大きく開け放つ。
「おばあ」
 大きく開け放って叫んだ。
 目の奥がひどく熱くなる。何も見えない。何も考えられない。白みがかった空の中、最後の輝きを見せる遊園地と、朝の光を背景にして、光に包まれる小さな人影。
「久しぶり、ね」
 おばあは、わたしの掌を手で挟みながらそう告げた。大きくなったわたしの手は、そのしわしわの手では収まりきらずにはみ出した。
「おばあ……」
 言葉に詰まるわたしに、相手は優しく囁いた。
「ねえ、聞いて」
 透き通る瞳の中で淡い虹彩が躍る。この上もなく精緻なスノードームを覗いた時に似た驚嘆に囚われ、わたしは暫し言葉を失う。
「ここのメリーゴーラウンドにはね、涙を流す馬がいる。知ってる?」
 おばあは馬の方を振りかえりながら、言葉を続ける。
「あの小さい馬。目の塗料がにじんだみたいな」
 見れば、正面近くにポニーのような小柄な馬がいる。先ほどの子ども、つまりかつてのわたしが乗っていた木馬だ。つぶらな黒い目が小さく光っている。
「泣いてるみたい、っていう意見もあるけど、ずっとそのままになっている。どうしてか分かる?」
 わたしが首を横に振ると、おばあは頷いて告げた。
「悲しそう、という人もいたけれど、同じくらい、嬉し泣きみたいでいい、という人がいたから、そのままになったんですって。私も、日によって違う表情に見えるのがいいと思っていたから、安心した」
 秋口の涼風のようにしいんと体に染み入る声で、おばあは語る。その心地よさが、優しさが、ゆっくりと心の芯まで伝播してくる。
「嬉し泣きは、今のわたしみたい」
 わたしの言葉に、おばあは首を傾げる。
「じゃあ、悲しくて泣いてるのは?」
「前のわたし。なんだか、前は自分を押し込めていた気がする」
 呟くと、おばあはこちらに向かって微笑む。
「それが必要な時もあるでしょう。前の自分を否定したいのは分かる。でも、前の自分がいるから今の自分がいる」
「そうだけど……」
 前は、おばあの言葉を大事にできなかったし、できることならやり直したい。
 そんな思いが顔に出ていたのだろうか。おばあはやさしく告げる。
「誰しも一本の道を進むのではなくて、進んだり戻ったりするでしょう。道は、その時の人間関係や、タイミングによっても変わるのだし」
 わたしは改めて、馬たちを見やった。上下に揺れている、まるで頷いているかのように。
「あなたは、前の自分と今の自分、どちらも受け入れられるはず。この場所は、あなたとたくさんの人の過去が留まっている。だから残してほしい」
 言い終えた瞬間のおばあは、ひときわ素晴らしかった。銀色の髪は蒼ざめて影になった月の代わりに輝きを増し、周囲の空気も浄化されてゆく。薄硝子の瞳にはきよらな光が宿り、言いしれぬ奥行きをもって、わたしと、わたしを取り巻くすべての事象を映し込んでいる気がした。
 おばあの瞳を見ながら、わたしはゆっくりと頷いた。意識の大部分におおいかぶさっていた迷霧は消え去り、仮にこれから霞の気配を感じても、なにも恐れることはない気がした。


 朝だ。
 薄紅の硝子を通過したような、晴れやかな光が差し込んでくる。明るさは力強い日常をもたらし、不安定で曖昧な夜を打ち消していく。一方で、おばあの華奢な体の輪郭はどんどん薄まっていき、人ではないなにか、夢と現実のあわいに住まう存在のように見えた。
 おばあはメリーゴーラウンドに近づき、涙を流す馬にまたがって、静止した細い顔に頬を寄せた。鏡はおばあの細い体を無数に反響し、めくるめく夢幻を映し出す。鏡面の楕円の世界の中、不可思議な建築物が乱立するのが仄見えた。消えかかった虹のような色味の建物、全面が窓のような橋、半透明の円蓋。妖しげで魅惑的な鏡像たちは、容赦のない日の光に照らし出されて霧消していく。
 朝日に照らし出され、メリーゴーラウンドの屋根は華やかだがこころもち色褪せているように見えた。わたしは頂上の黄金の玉からわずかにたちのぼる霧を見上げ、流れる涙を重力にまかせて、そのまま薄青の空を見つめていた――その間に、地上が、遊園地が、何かしら変わっていくのだろうと思ったのだ。
 どれくらい時間が経っただろうか。視線を下げると、鏡は安定した日の光に満たされ、見慣れたいつもの光景を、つまりは無個性なコンクリートのビルや迷路のような立体駐車場、灰色がかった工事中の看板などを何食わぬ顔で映し出していた。静寂は消え去り、あらゆる生きものが活動を始める旋律のない騒めきが立ちのぼってきた。
 太陽光の下で見ると、木馬たちは、神秘的な煌めきの代わりに、誰からも愛される無邪気なかわいらしさで覆われていた。けれどもわたしは目撃した、夢幻がうつつに切り替わる瞬間、小さな馬は確かに喜びの涙を流しているように見えたのだ――
 思い出した。あの馬の表情が時によって変わるのだと思ったのは、この場所の力をいち早く勘づいていたわたし自身だ。けれど、謎めいた魅力を守るために、口に出して語ってはいけないのだと分かっていた――そう、子どもの直感で、見出されていない秘密を守ることは、自分だけの美を守り抜くことだと知っていたのだ。
 わたしは扉の磨り硝子をてのひらで拭い、いつか会いにいく自分の顔を見つめかえした。  完

 

文字数:9930

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