飴色幽霊綺譚
真夏日だった。私は足を引きずりながら、清水寺の三年坂を下っていた。
さっきまでは恋人が一緒だったけれど、私がきつい草履のせいで立ち往生している間に、彼は仁王門の階段をのぼり、人込みに紛れてしまったのだ。
見渡しても彼の姿はなかった。暑さで意識が朦朧とし、坂の真ん中で転んでしまった。すると背後から、ここで転ぶと三年以内に死ぬんだって、という声が聞こえた。なんだか消えてしまいたくて、俯いて歩いていると、いつしか人影のない道にいた。真昼なのにしんと静まりかえり、心なしか空気もひんやりしていた。見回すと、飴、と書かれた看板がある店先から光が漏れていた。
扉を開くと、店員らしき男性と目が合い、無言で何かを手渡された。それは小さな包みで、鶯色の薄紙に緋色の帯が巻かれていた。帯に書かれたくずし字は、飴、という文字はかろうじて読めたが、他はただ曲線が蠢いているようだった。開いてみると、琥珀色したまるい玉がひとつ入っていた。なんだか獣の目玉のようだ。手を止めたけれど、店員が黒の割合が多すぎる目をじっとこちらに向けてくるので、仕方なく飴を口に入れた。
濃密な甘さが口いっぱいに広がり、頭のてっぺんからつま先まで溶けだすような感触に溺れた。舌でまるいかたちをなぞると、妙な苦味を感じた。きんとした感覚が脳天に届き、体と意識が軽くなり、さきほどまでの疲労がすんっと消え去った。
再び恋人を探して歩きはじめると、坂道で人が私をよけずに突進してきた。ぶつかる、そう思った瞬間に、相手は私の体を通り抜けていった。
白昼夢か。思わず立ちどまると、視線の先に恋人がいた。駆け寄ったけれど彼は私を無視し、私と同年代の女性に話しかけた。緩みきった表情を見て、私の気持ちは日が経った風船みたいにしゅっとしぼんだ。
あてもなく歩いていると、人影のない道に戻っていた。先には飴屋の看板が見え、目の前に小さな寺があった。境内の縁石に腰を下ろすと、すずやかな声が耳に入った。
「なにしてはるの。ここは小野篁公の井戸、この世とあの世の出入口やで」
靄がふわりと浮き上がり、目の前で形をなした。女性だった。雪のような着物に艶めく日本髪、透きとおる肌に赤い唇。
「……私が、見えるの?」
驚きに呑まれながら、私は声をふりしぼった。
「うちも幽霊やさかい、当たり前やで。もしかしてあんた、死んでへんかってん?」
こちらをしげしげと見ながら、相手は言った。
「あ、飴屋のおにいから、幽霊飴もろうたのか。あそこ、幽霊が子たちを育てる子育飴と、幽霊用の幽霊飴があるさかいね」
奇妙な店員を思い返して腑に落ちた私に、幽霊は告げた。
「そないな格好じゃ、間違えられてもしゃあないで」
その言葉に、私は口ごもりながらも懸命に言い返した。
「レンタルだけど、高かったのに。彼がかわいいって言ってくれたし」
私は紺地に梅柄の浴衣に惹かれたけれど、彼は古臭いと切り捨て、マネキンが着ていた白いレース地の浴衣に黒い帯の取り合わせがかわいいと言ったのだ。
「白い着物に黒い帯って死装束やで、ありえへん。彼氏、アホちゃうん」
本当は好きな浴衣を着たかった、でも主張できなかった。嫌われたくなかった、でも置き去りにされた。失敗したくなかった、でも。
去る直前の恋人が醸した冷たい雰囲気、さきほど目にした彼の弛緩した顔、信じられないくらいにきれいな幽霊のきつい言葉。
見ないようにしていたものが、堰を切って押し寄せた。
私の中の何かが壊れた。言葉にならない叫びをあげた。
喉がひりつく。声が出なくなる。
やがてもう、なんにもなくなる。
空白のさなか、ふと、頬に冷感を覚えた。見れば幽霊が私の涙の跡をなぞっていた。長い睫毛に縁どられた瞳がそばにあった。青白いうなじが、匂いたつようだ。
「泣かんといて。あんた、かいらしいなぁ」
そう告げると彼女は、私の顔をく、と持ち上げた。真っ赤な唇が迫ると共に、私の唇がひやりと冷たくなった。息が止まる。わずかに口をあけると、尖ったものを流し込まれた。
体の隅々まで行き渡る、鋭い痛み。痛覚は、意識の輪郭をはっきりさせた。
目を閉じる。私はこんなにも受け入れられるのだ。感覚が、広がりゆく。まわりのすべてを暗闇に追いやる光が、眼窩の奥できらりきらめく――
気づけば井戸端に立っていた。長くのびる影に気づいて振り向くと、見知った顔があった。
「ごめん、はぐれた。探したんだけど」
はりつけたような笑みを目にして、考える前に手が出ていた。
境内に響き渡る、ぴしゃんという音。頬を押さえて立ち尽くす男。
「置き去りにするなんて、ありえへん」
言い捨てて歩き始めると、口の中に何か入っていることに気づいた。吐き出して摘まみあげると、琥珀色した四角い飴だった。あの愛しい痛みを想起させる尖った角に、夕の陽光が集まってゆく――体の奥に刻み込まれた、めくるめく飴色の乱反射。
文字数:2000
内容に関するアピール
課題をいただいた時、『ありえない』という言葉から、「存在するはずがない」「信じられない」という二つの意味を連想しました。そして、前者からは「幽霊という、いるはずがない存在」を、後者からは「生者だが、白い着物に黒い帯という死装束を纏う」という事態を『ある』ものとして書きました。
作中の、清水寺の三年坂で転ぶと三年以内に死ぬという話は実際にある伝説で、小野篁公の冥土につながる井戸があるお寺は六道珍皇寺、飴は六道珍皇寺付近にある「みなとや」さんの幽霊子育飴がモデルです。話を実在の場所やモノで固めて『ある』を積み重ね、『ありえない』を『ある』に変えようと試みました。
幽霊の台詞は、先日京都に来訪した際に聞いた、和菓子屋さんの言葉を参考にしました。その際、みなとやさんにも立ち寄り、黒目の割合が異様に多い店員さんはいませんでしたが、幽霊子育飴は買いました(まだ食べていません)。
文字数:400