布のたぬきに水中でえさをやる

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布のたぬきに水中でえさをやる

航空自衛隊、宇宙作戦群、地球府中基地。ここでは秘密裏に対宇宙人を想定した戦闘訓練が行われている――わけではなく、新人の笹木は、室内プールで布のたぬきの世話をさせられていた。動物園で働いた経験もなければ水族館に通いつめていた子供時代を持つわけでもない笹木は、布のたぬきを見たところで、何々の生態に似ているだとか、そんな感想は微塵も持てなかった。ハンカチだ、ハンカチにしか見えない。このたぬきは、どう言い表しても少し大きめのハンカチなのだが、意思を持って動き回っている。
 笹木はプールに入り、腰の位置にある水面を叩いて、たぬきが近寄って来るのを待った。布のたぬきには前後がない。捕食の必要がないからだと教えられた。確かに面を見れば顔もしっぽもあり、それには表も裏もない。笹木はそんなたぬきの顔を見つめつつ距離を見計らい、ドックフードを撒いた。ひらひらと泳ぐたぬきは、そのハンカチのような体の角をまるで手のように使い、引き寄せた一粒を取り込むように、その体を折り曲げた。それによって生まれた水流がドックフードを散らしてしまい、それぞれが不規則に漂っていく。
「どう、慣れた?」
 振り返ると、先輩が笑っていた。
「見ての通りたぬきにも舐められっぱなしで。いつも怒られてます。そんなんじゃあ、たぬきが覚えん!って」
 笹木がたぬきに覚えさせているのは、食べるという行動だ。それも、その布のからだ全体を使ってより多くのものを包み込み、ひと飲みにさせるという特殊な方法だ。食べるというのは正しくない。布のたぬきは、包み込んだ物を消してしまうことができた。どうやら摂取の必要がないらしいこのたぬきに、どうして水中で食べるに似た行動を教え込まなければならないのかは、残念ながら笹木には開示されていない。
「どうして私なんでしょうか」
「それは分からないけど。あ、私この子のお父さんとお母さんの写真持ってるよ」
 先輩がスマホを向けて来た。笹木は、何が楽しいのか好き勝手に踊り回っているたぬきを無視して、バシャバシャと音を立てながらプールサイドへ歩いて行く。
「わ、思ったより立体的」
「そうでしょ。同じく微小重力環境で生まれ育った個体でも、この子ほど二次元的な形になったのは、まだ2、3匹しかいないんじゃないかな。先に生まれた子を預けてる施設にも行ったことあるけど、摂取も排泄も観察されてないみたい。呼吸もかな。面白いよねぇ、この子にもし繁殖能力があれば、次世代では線とか点みたいな子が生まれてたかも」
 プールから上がるとたぬきも出たがったので、笹木はたぬきを折りたたんで軽くしぼってから二人の足元へおろしてやった。地上の重力下ではろくに動けないのに、どうしてか絡みついてくる。
「可愛いじゃん」
「まあ可愛いと思う瞬間はありますけど。先日の般化テストでは、私の手から与えられた物しか食べないことが発覚して大変でした。逆に私が差し出すものなら何でも食べるので、水中に落としたロッカーのカギを食べられちゃったり。今ではもう誰の手からでも、プールに漂っているものでも、なんでも食べますよ」
 先輩にドックフードを差し出した。たぬきに与えるものは、クリップだのボトルキャップだの何でも良いのだが、何だかいたたまれない気持ちになってしまう笹木は、指定のない時にはドックフードを準備するようにしている。
 しゃがみ込んだ先輩が、水中に戻ったたぬきと指先で戯れながらこちらを振り仰いだ。
「よかったね。そのままだったら、笹木ごと宇宙に打ち上げられることになってたかも」
「宇宙?」
「やば。聞かなかったことにして」
 この言葉の意味が分かったのは、そう日を置かないうちのことだった。

笹木は、がらんとして感じるプールを呆然と見やった。
「成果を急かされた上層部が、今日のロケットに乗せてしまったんだって」
 隣に立つ先輩の声が夢の中のように響いた。布のたぬきに物を食べるよう訓練をしていたのは、宇宙空間に無数に存在する小さなデブリを食べさせるためだった。エネルギーが必要なく放出もしない、とても都合の良い宇宙ゴミの掃除屋として、たぬきは宇宙空間にひとり放り出されたのだ。
「もっと遊んであげればよかった」
「きっと元気に宇宙を遊び回ってるよ。近々あの子の兄弟も送られるみたいだから、きっと寂しくないよ。見に行く?」
 訪れたその施設では、何やら騒ぎになっていた。人ごみを押しのける先輩の後に続いて大きな水槽まで行くと、笹木が世話をしていたものの倍ほどの面積を持つたぬきが、何を気にした様子もなく悠々と泳いでいる。
「大きくなるのか!?聞いてないぞ、リリースは中止だ!」「今朝だって、そんな前兆はまったく」「手遅れだ!もう捕まえられない!」
 喧騒の中、笹木と先輩は目を合わせた。
「そのうち他国の人工衛星とか食べちゃって、国際問題に発展したりして」
「衛星で済めば、いいですけどね」

文字数:2000

内容に関するアピール

微小重力空間で生まれ育ち、脊椎が通常発達しなかった個体を掛け合わせていくうち、ハンカチのような形状のたぬきが生まれた。そのたぬきは摂取も排泄もしないが、包み込んだ物を消してしまうことができた。そのため、宇宙ゴミの掃除屋となることを期待されて宇宙空間に放たれることになったのだが、のちに、取り込んだものによって面積を広げることが発覚。打ち上げたたぬきは、いつか地球も食べてしまうかもしれないというお話です。

「宇宙ゴミを食べる布のたぬき」を存在させる方法として、機密がたくさんありそうな組織の名前を出すことと、布のたぬきに、本当にいたら良いのにと思ってもらえるような役割を担わせることを意識しました。その「宇宙ゴミを食べてくれる」という「本当にいたら良い」を「そのうち月や地球も食べてしまうかもしれない」という「本当にいたら困る」に変換できれば、後味の残るラストになるのではという狙いで書きました。

文字数:397

課題提出者一覧