梗 概
紙切れ一枚
戸籍法の一部を改正する法律が令和6年3月1日に施行された。これによりどの市役所からでも日本中の戸籍が見られるようになった。
李佳は、市役所の庁舎2階にある住民戸籍課で残業をしていた。ラジオを小さな音量で流し、BGMにしている。李佳は3月末から4月の繁忙期に向けてのマニュアルつくりをしなければならない。マックで買った飲み物を飲みながら、繁忙期のトラブルを想定し、対応策をWordに落とし込んでいく。そこへ電話がかかってくる。宿直が李佳に電話をつなぐ。つながったのはおどおどした男性だった。彼は、婚姻届を書くために花枝さくらというアイドルの本籍と住所が知りたいという。ご本人に聞いてくださいと言い電話を切る。
婚姻届をもらいに普段着姿の中年の男女が現れる。紙を渡す。
スマホが鳴る。アルバイトの樹(いつき)からだった。樹は明日休みたいと言い、李佳は了承する。さっき市役所前を通ったが宿直室の電気が消えていたと樹は言うが李佳は聞き流す。ブラインドの隙間から外をのぞくと、長身の樹がこちらを見上げて手を振っていた。電話を切って振り返ると、さっきの男女が婚姻届を記入して持ってきていた。「時間外なので預かることしかできません。連絡は平日昼間にいたします」と伝え、帰ってもらう。書類の精査だけでもしておこうかと思い、書類のチェックをすると、空欄が目立ち、女側がやたらと若い。今日が16歳の誕生日になっていて、花枝さくらと書かれていた。鳥肌が立ち、宿直室に向かうと、宿直の職員が意識不明だ。警察を呼ぼうとする。さっきの男女が現れ、李佳を脅し住民戸籍課へ連れ戻す。
男女は花枝のストーカーだった。16歳では婚姻できないと伝えても、男女は納得しない。男女は姉弟。弟と花枝を結婚させて三人で暮らすという。李佳に戸籍の端末を叩かせる。名前で該当者がいない。芸名なのでは、と李佳があきらめるように促しても、姉弟は諦めない。生年月日で検索させ、何万人といる中から、絞り込み検索で花枝を突き止めてしまう。婚姻届も受理するように李佳に迫る。たとえ李佳が受理しても、法務局で却下されると説明してもやはり納得しない。姉弟のすきをついてスマホで電話をかけようとするが失敗する。
婚姻届を出す、と譲らない姉弟。やむなく花枝の戸籍謄本を印刷する。姉弟は、花枝の戸籍謄本を読み、花枝に子どもが3人いることを知って驚愕する。子どもの父欄には花枝の養父の名前が記載されている。「さくらちゃんを受け止めきれない」と動揺する姉弟。李佳はつい苛立ち、「お前たちの結婚の覚悟ってそんなもんか」と怒鳴る。
突入する警察。さっきスマホを操作したとき、樹にリダイヤルされ、察しのいい樹が警察を呼んだのだった。そのとき、ラジオから花枝の新曲「結婚でもしよう」が流れる。「マジ勘弁」と李佳は 呟く。「紙切れ一枚のことで死んでたまるかよ」
文字数:1186
内容に関するアピール
普段、紙切れ一枚をお預かりして右往左往しておりまして、ワンシチュエーション、というお題を訊いた時、日常の仕事は明治に遡ったり令和に戻ったりタイムスリップしてるようなもんですし、人様の人生の死亡事項記入したり出生事項登録したり神視点小説みたいなもんだよなあ、と思い、お仕事小説にすることにしました。
戸籍法の一部を改正する法律が令和6年3月1日に施行されるんですが、これが割と戦々恐々なのですが、一般の方は怖さにお気づきではないのでは、ということでピックアップしました。https://www.moj.go.jp/MINJI/minji04_00082.html
公務員と役所で働くアルバイトの倫理感を信じすぎじゃないですかねえ。マイナンバーと連携もするそうです。信用できるシステムなんでしょうかねえ。
アッ、あっしはしがない物書きでしてね、これもただの与太話なんですがね、へっへ。
文字数:392
紙きれ一枚
リカはラジオのボリュームを少し上げた。それでも人のいない1階フロアはいつもよりがらんとしていて、ラジオの音を吸収してしまった。
さっき食べた夜食のカップラーメンの油分がまだ口の中に残っていた。眠気覚ましに歯磨きにでも行った方がいいかもしれない、そう思いつつ、柱時計に目をやった。午後11時をまわったところだった。早く仕上げて帰りたい。歯を磨くために席を立つのももったいない。ラジオからアナウンサーの声が聞こえた。
「政府広報、法務省よりお知らせです。今年3月1日より、本籍地でなくても戸籍証明書をお近くの市区町村で手軽に取得できるようになりました。詳しくは、お近くの区役所等の戸籍窓口におたずねください……」
リカはラジオに向かって軽く舌打ちをした。そのせいで、こうして残業をしている。デスクトップパソコンのモニターに目を落とす。ただでさえ三月四月は繁忙期なのに、明日からはこの戸籍法改正のせいで混雑しそうだ。今日は2月29日、このうるう年のせいで――リカは机の隣に置かれた届書の山を見てため息をついた――、離婚届が多かった。まあ、独身のリカにも気持ちはわかる気もした。厄日みたいなもんだろうから。でも、ニュースで2月29日、と聞くたびに思い出さないんだろうか。離婚記念日はなんでもない日に埋もれさせた方がいいんじゃなかろうか。さらに戸籍の届書の束をめくった。出生届もあった。この子たちは一生自己紹介のネタに困らないだろう。婚姻届けもあった。彼らは来年は結婚記念日がないと気づいているのか、声をかけなかったが大丈夫だろうか。
リカが作っているのは臨時職員向けのマニュアルで、明日から繁忙期対策として3名雇用することになっていた。毎年のことだけれど、またいちから教えないといけない。リカはため息をついた。
(今回は樹(いつき)くんがいてくれるからまだましか)
樹は去年の四月から入ってくれているアルバイトで、覚えも早くほかのアルバイトをうまくフォローしてくれる。大学を出たばかりで、アルバイトしながら公務員試験の勉強をしているのだった。
(今年こそ受かってくれるといいのだけど)
リカは椅子の背もたれに寄りかかって伸びをした。ギイイイ、と、思ったより大きな音を立てて椅子が軋んだ。
ちょうどあくびをしかけたそのとき、りん、と呼び鈴が鳴った。宿直室を客が通ると、知らせるために付いている呼び鈴だ。あわててあくびをかみ殺すと、飲み込んだ空気の代わりに涙が出た。
「すみません、時間外に」
来庁者は中年の男女二人だった。婚姻届だろうか。宿直室で預かってくれればいいのに、と、リカは思う。そのために宿直室にひとを置いているのに、フロアに残業しているひとがいると、宿直が対応を億劫がって中に通してしまうのだ。
(だって二度手間ですやんか。うちらが受けたあとに、お宅らがまた話聞くんですやろ。ほんなら、さいしょからお宅らが直接話聞いた方がええですやんか)
今日は一度リカともやりあったことのある、関西訛りのある中村と言う宿直が詰めていたはずだ。リカは笑顔を引きつらせながら、客に向き直った。
「こんばんは。何のご用事でしょうか?」
カップルは互いの顔を見てもじもじとしている。
「……ってもらえるんですか」
男の方が小さな声で言った。
「え?」
「入籍届ってもらえますか」
「婚姻届ということでしょうか?」
と、リカは優しく言い直した。
「未成年のお子さんを父または母の戸籍に引き取る入籍届ではなくて、ご結婚の際に出される婚姻届ですよね?」
ふたりは黙っていた。それを了承と受け取ったリカは、
「そう、よく勘違いされるんですけど、結婚するときに出す〈入籍届〉っていう届書はないんですよ。未成年の子に関する〈入籍届〉はあるんですけど。ご存じでした? あと、余談なんですけど〈再婚届〉っていうのもないんですよ。二回目でも三回目でも、結婚するときに出すのは〈婚姻届〉ですね」
と言いながら、四つ折りにした婚姻届を二部ふたりに渡した。
「書き損じても二重線で訂正していただいて大丈夫なのですが、念のため2部お渡ししますね。これ、実は〇〇区の地域マスコット、ゲンロン君が載ってるかわいい婚姻届なんです。一度届書を区役所に出してしまうと、お返しできませんので、写しが必要でしたらあらかじめコピーを取られてくださいね」
女の方が何か言いかけたので、リカはそれをさえぎって、
「あ、印鑑は不要です。K野太郎さんのおかげっていうんでしょうかね、これは。押したいなら、押していただいてももちろん結構です。印鑑が並んだ方が婚姻届っぽくて好きだったんですけどね、私は」
女の方は、うなずいて、ショルダーバッグに婚姻届を仕舞った。よかった、と、リカは思った。今書き始められたら、また仕事が増えるところだった。
「なお、明日以降のご提出ですと」
リカは大きな声でもう一度言った。
「明日以降のご提出ですと、戸籍法改正により、戸籍謄本の添付は必要ありませんので」
今日はもう帰ってくれ、という圧力が伝わったのか、ふたりは何かをささやきあいながら帰っていった。
(出来たら繁忙期を過ぎた5月以降でお願いします)
3月4月の繁忙期と言ったらもう、戸籍係も住民係も、人相が変わってしまう忙しさなのである。転入届と同時に転籍届を出し、住民票と印鑑証明をもらっていこうとする者がいると、足を踏んでやりたくなるぐらい殺意を抱くのだ。
(不要不急の戸籍届出はご遠慮ください)と貼り紙をしようとして、上司に市民サービスがなってないとキレられかけたことがあったほどだ。
リカはまた自分の席に着き、宿直に内線をかけた。
「中村さん、こんばんは。ちょっと残業が立て込んでて、お客さん対応はそちらでお願いできませんか」
できるだけ言葉の棘を隠して言う。受付カウンターの内側に、宿直室のあたりと正面玄関、駐車場のあたりの監視カメラの画像が映るモニターがあった。そこには、宿直の中村が受話器を握りながらカメラをにらんでいる様子が映っている。
「専門的なことはわかりませんよってになあ」
「お忙しいでしょうけど、どうにかお願いしますよう」
「まあせいぜいやってみますわ」
納得していない様子で電話は切れた。リカは足を踏み鳴らした。早くマニュアルをつくって帰らねばならぬ。しかしまた電話が鳴った。これも、勤務時間外は宿直が取るはずだったが、鳴り続けている。無視していると、あきらめたように切れ、今度はスマホのLINE通話が鳴った。
「残業お疲れ様ですね」
樹だった。
「いま駐車場にいるんですけど」
モニターを見ると、カメラに向かって樹が手を振っていた。駐車場は、北側にあった。本庁舎に対して坂になった半地下に駐車場がある。北側の窓近くに寄って外をのぞくと、バイクを停めた樹がこちらを見上げて手を挙げていた。
「図書館で勉強した帰りなんすよ」
「おつかれさま」
「さっき宿直行ったら、おっちゃん、変な感じでしたけど、けんかでもしたんすか」
勘がいい子だ。
「そうでもないけど」
「そうっすか」
言う声が笑っている。
「コンビニ行ってきますけど、なんか食います?」
「うーん」
リカは振り返った。また電話が鳴っている。
「電話鳴ってるから切るね。ありがと」
返事を待たずに切ると、受話器を取り上げた。
「〇〇区、戸籍係です」
「……」
ボソボソとして聞き取りにくい。
「ごめんなさいお電話が遠いみたいで」
「花枝さくらのホンセキチ、ヒットウシャシメイが知りたいんだけど」
「はあ?」
リカは受話器を右から左に持ち直し、受話器を左耳と左肩の間に挟み、端末を叩けるようなしせいになる。
「ハナエ、サクラさん、ですか。失礼ですがお身内ですか?」
「これから身内になります」
「はあ」
「入籍届を書くのに必要で」
さっきの男みたいな話し方だ、と思った。
「はあ、でしたらハナエさんにおききください」
「わからないというものだから」
「ハナエさんのご両親ですとか、お身内の方で分かる方にお聞きいただけたら」
「だから、わからないんだ」
「ええと、本籍地入りの住民票をご本人が取っていただけましたら、すぐおわかりいただけるかと」
「……」
「第三者の方にお電話で回答というのが難しいのです、ご了承ください」
ラジオが時刻を伝えた。
〈時刻は午前零時、日付は3月1日になりました、ここからの時間は……〉
ああもう、こんな時間、とリカは思う。
「戸籍謄本は必要ないんだろう?」
「そうなんですけど、届書は正確に書いていただく必要がありますので」
「そっちで調べられるんじゃないのか」
「そうなんですけど、ご本人さんにはできるだけ正確に書いていただかないといけないので……」
〈ここからのラジオパーソナリティは花枝さくらがお届けします♪〉
リカはハッとした。花枝さくら? アイドルの?
「ともかく、ご本人さんとよくご相談してご記入をお願いしますね」
リカは相手の返事を待たずに受話器を下した。わきの下がじっとりと汗で湿っていた。以前、婚姻届を出すのに本人確認が不要だった頃、ストーカーが勝手に婚姻届を出すという被害が出て社会問題になったとか……
これも、ストーカーなのだろうか?
上司に架電するか迷い、いや夜中なのだから、明日にでも相談してから警察に――立ち尽くしている間に、物音がした。思わず頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。そのまま、受付のカウンター越しにあたりをうかがう。モニターのひとつ、宿直室を移したものに目を留める。紺色の布が廊下にはみ出している。いやあれは、中村の背中だ。その紺色の警備服を着た中村の背中に、包丁のようなものが突き刺さっている。とても深く刺さっている。包丁の柄がほとんど根元まで刺さっているように見える。でもモニターは小さい。リカは目をこする。つかれているから。何か見間違いなのかも。もう一度画面をみても、やはり中村が倒れているように見える。
悲鳴がのど元までせりあがる。それを飲み込んで、通報を、だれか呼ばねば、と気がせいて、スマホのロックを解除するのにも手間取る。手が震えているのだ。
「すみません」
声をかけられた。リカはしゃがんだままだ。
「すみません。書き方分からなかったんで来ちゃいました」
見上げると、さっきの中年の男女がリカを見下ろしていた。ふたりとも瞳がらんらんと興奮で輝いていて、まんまるだった。
リカはスマホを取り落とした。取り繕おうと立ち上がる。膝が震えている。
「何か御用でしょうか。――できたら朝にでも――、」
男は無言でカウンターの内側にまで入り込んでくると、リカのスマホを強く蹴り飛ばした。床を這う配線をかいくぐって、課の一番奥の課長の席にまで滑って行った。
女もカウンターの内側に入ってくる。リカたちが打ち合わせに使うためにおいてある8人掛けのテーブルの前まで行くと、その上に載っていたものを払い落とし、紙を広げた。リカは何の紙か見ずともわかっていた。
「書き方。教えて」
女はボールペンをリカに突きつけながら言った。女の肩越しに紙をのぞきこむと、婚姻届の左側、男の欄だけが黒く埋まっていた。(エア婚姻届初めて見たわー)
リカは先輩から聞いていた、架空のキャラとの婚姻届や死んだ有名人との婚姻届のことを思い出した。
「婚姻は両人の同意のもとに行われるもので……」
リカが言うと、男は甲高い声で怒鳴り、包丁を振り上げた。
「さくらちゃんは僕の嫁だ!」
「ひえええ……!」
リカはとっさに近くの机の上にあった「たまひよ開運名付け字典」をひっつかみ胸の高さに掲げて包丁をガードすると、そのまま四つん這いになって机の下に潜り込んだ。
「ええと、〈嫁〉という言葉は嫁ぎ先の父母から見た場合の言葉でして、婚姻相手、配偶者という意味でしたら〈嫁〉ではなく〈妻〉と言う日本語の方が妥当かと思いますッ」
「ごたくはいいの」
と、女も大きな声で言った。
(誰もいないんだから大きな声ださなくても)
というのは、声には出さずにリカは心の中でつぶやいた。
(そうだ、ただ、包丁を持ってたりするっていうだけで、ただのお客さんだと思えば!)
リカはうなずいた。いつも接している客のようなものだと思えば怖くない。職業柄、暴れたりする客や話の通じないクレーマーは大勢いるのだった。
「落ち着いてくださいよ、ね、いいですね」
ちらちらと見上げながら少しずつ机の下から体を出していく。シャツにもスラックスにもじゃりじゃりした綿埃がついて、鼻がもぞもぞした。明日、もし明日があれば、大掃除してやるんだから。そして大きなくしゃみをした。だれか噂してないかしら。ちらりと入口の方を見た。誰かが来そうな気配はなかった。
「書き方、ですよね」
リカは鉛筆を手に取った。鉛筆で、婚姻届の空欄のところにまるをしていく。証人の欄も一人しか書かれていなかったので、そこにも大きくまるをする。
「この部分が埋まっていませんので、書いていただいたら結構ですよ」
リカは満面の営業スマイルで二人を交互に見た。
「なんか馬鹿にしてる?」
と、女の方が言った。
「いえいえ! そんなことないですよう!」
リカは両手をおおげさに顔の前で振って見せる。我ながら不自然である。
「証人になってもらえるよね」
「はいよろこんで!」
汗をかいていて、手の中でボールペンの軸がすべったが、どうにか名前と生年月日、本籍地、住所を書いた。証人欄の苗字と本籍地、年齢からいって、男女は兄妹のようだった。兄妹は顔を見合わせてうなずくと、
「あとはさくらちゃんのところだけ……」
「ねえあんた」
女は端末を指さした。
「さくらちゃんの本籍地とかいろいろ調べられるんでしょ?」
「えっ……ああ、ええと……」
口ごもる。できるとも言え、できないとも言えた。
「僕とさくらちゃんの付き合った記念日は3月1日なんだ。だから記念日の今日中に結婚しないと」
と、男は体をよじらせ、焦ったように言った。リカはテレビを観ない。花枝さくら、見たことないアイドルだけど、アイドルってたいへんだな、とリカは同情した。
「調べてよ」
と、男は言った。
「ねえ、調べてったら!」
どん、と机の上に包丁の先端を突き立てようとしたが、アルミ製の古いオフィス机だったため、刃先がすべった。刃の向きが内側で、男の手首も内側に向かって折り曲がったため、勢いよく包丁が男の腕の内側に刺さった。
「まーくん! たいへん!」
と、女は取り乱し、叫ぶ。男は痛みで声も上げれず、男が動き回るたびに辺りが赤い血で濡れた。今が逃げ時かもしれない、そう思いつつも、リカは自分の席まで走ると、置きっぱなしにしていた出産祝いのお返しの袋と、ガムテープを取り出した。
自分よりパニックになっているものがいると、かえって冷静になれるものである。出産祝いのお返しの包みを破り、新しいバスタオルを取り出すと、はさみで適当な大きさに切った。男をなだめながら、バスタオルで患部を包み、上からガムテープを巻いて圧迫した。念のため、係長の置きネクタイを勝手に拝借し、男の右上腕を軽く縛った。新しいタオルは血を吸わない。布地に染み出す前に、皮膚とタオルの隙間から血液が滴った。それでもう一周ガムテープをきつく巻く。
「心臓より高く上げてください」
片手で万歳しているような間抜けな体勢になる。男の顔面は蒼白である。失血というよりも、血を見たことに震えているようだ。「救急車よびましょうか。わりと傷が深そうですよ」
止血できているだろうと思いつつ、リカは言った。
「僕は死ぬ前にさくらちゃんと結婚する」
男は震えながら言った。男が持っていた包丁は、今は女の手の中にあった。刃先が赤く脂でテラテラと光っている。
「死にませんよ。大丈夫ですよ」
テーブルの上の婚姻届に目をやった。血しぶきで水玉模様のようになってしまっている。新しい門出だのに、これでいいのだろうか。
「早く調べて」
女が重ねて言うので、リカは席に着いた。戸籍端末を立ち上げ、指紋認証でログインする。リカには算段があった。さくら、というよくある名前で検索をかけてしまえば、端末は絞り込み対象が多すぎてフリーズするだろう。そして、その間にすきを見て逃げるか説得するかすればいい。
氏名の欄に、リカは<さくら>と打ち込み、エンターを押そうとした。
「待って」
女が血の付いた手でリカの腕をつかんだ。血はもう乾きつつ合ったが、それでもリカの腕を汚した。
「はい、なにか」
「さくらちゃんの生年月日まで入れて」
内心舌打ちしながら、言われた通りに生年月日まで打ち込む。けれど、ファーストネームがさくらの同じ誕生日の子は、日本中に何十人もいるに違いない。それを一人に絞り込むだけで朝が来るはずだ。
「苗字は<山田>で入れて」
と、女はリカに指示した。山田さくら、それこそ何人もいる名前だ。
「花枝は芸名なの」
たくさんいますように、いますように、そう願ってエンターを押すと、果たして3人いた。
「まーくん、どうする」
女は男の方をみやった。男は浅い呼吸をしながら、
「さくらちゃんのお母さんの名前はあやか、だ」
リカはそっと小さなため息をついた。絞り込むと、1名しか残らなかった。
筆頭者:山田さくら 本籍地:東京都〇〇区…
戸籍を開いて、中の情報を閲覧してみて、リカは背筋を冷たい汗が滑り落ちるのを感じた。慌ててウィンドウを最小化すると、
「本籍地わかりましたし、さ、婚姻届書いちゃいましょうか」
と、笑顔になって張り切ったように言った。
「何かあったの?」
女は眉間にしわを寄せた。
「いえいえいえ、何でもないんですよう!」
リカは再び両手をおおげさに顔の前で振って見せる。花枝さくら、あんたなんでこんな戸籍なのさ。私の命があぶないじゃん。
女は勘が働いたのか、私が背中に隠そうとしているパソコンを覗き込むと、私をわきによけさせた。
(しーらない。しーらないったらしーらない)
リカはぎゅっと目をつぶる。兄妹は悲鳴をあげた。
「さくらちゃんに夫がいる……?! しかも子ども三つ子ってなんだよ」
いやほんとですよね、最近のアイドルったらね、とリカは心の中で相槌をうつ。
「なあ、このさくらっていう女、さくらちゃんとは別人だよな?」
「ええと」
リカは神妙な面持ちで言う。
「氏名、生年月日、お母さまの氏名が合致する<さくら>さんは日本でこの方だけです」
死刑宣告をしているような気持になる。
「まーくん、どうする? さくらちゃんと結婚できないね」
と、女は当たり前のことを言った。
「これ見て」
と男は、左手でスマホを操作して、画面を女に見せる。
「この男、さくらちゃんのマネージャーのミチオじゃん」
「なんだよ、こいつら、ファンの気持ちを踏みにじりやがって……! ばかにしてるのかよ」
アイドルの気持ちを踏みにじろうとしていたのに何を被害者ぶっているのか。
「よし」
と、男が言った。さっきまで蒼白だった顔は、今では上気して赤みがさしている。興奮しているのかもしれない。
「離婚させよう、離婚届、ある?」
「は?」
と、リカはふたりが刃物を持っていることも忘れて問い返した。
「いやだから、離婚してもらうの。離婚届、ほらだして」
「何言ってるの? 両者の同意もないのに出せるわけない」
女はかんかん、と包丁を使って机を叩いた。そのまま包丁の腹でリカの頬をぺちぺちと叩く。
「あんた、抵抗できる立場だと思ってるの?」
「あんたたち、戸籍の届書をなんだと思ってるの、結婚するだの離婚させるだの。人の人生なんだと思ってるの」
はあ? と女はリカに顔を近づけた。
「あんたの意見なんて聞いてないの。たかが紙切れ一枚でしょ。早く離婚届ださせて。代わりに書きなさいよ」
リカは二人をにらみつけた。
「それで自分と結婚させようっていうこと? 女性には再婚禁止期間っていうものがあるから――」
「はいはい、ごたくはいいんだってば。うちらはこの戸籍持ってって週刊誌にタレこむだけ。現役JKアイドル、3児の母! ってね。大ニュースよ。アニメよりすごいんじゃないの」
「結婚しないの?」
男は鼻で笑った。
「こんなビッチと誰が」
「はあああああ?」
リカは大きな声を出した。全身が怒りで震えていた。
「たかが紙切れ一枚を私たちがどんなに大切に取り扱ってるか、気持ちがわかるか!」
ふたりはリカの迫力に押されて、目を見開いてぽかんとしている。
「住民の方がどれだけ一世一代の気持ちで区役所に来るのかわかってるのか! それを! 自分たちの勝手で出そうなんて!」
「お前、マジウザ」
女がリカの顔を狙ってきたので、リカは反対の手でその刃を強く握った。掌が熱くひりつくように痛んだ。空いているほうの手で、女ののどを狙う。うまく喉ぼとけに当たったらしく、女は包丁を持った手の力を緩め、膝から崩れ落ちた。その肩に蹴りを入れて、後方に倒す。
「あんたも、推しが結婚してるぐらいで押しやめるなんてちっちぇえな!」
包丁を遠くに放り投げると、血まみれの手を強く振って男の目元に血を飛ばしてやった。男は目潰しを食らって、顔を抱え込む。リカはその男の怪我している方の腕を強くつかんで爪を立てた。男は悲鳴を上げた。
そしてそのとき、入口から警官が数名なだれ込んできた――助かった、そう思って駆け寄ろうとしたとき、リカは警官からタックルを受けて床にたたきつけられた。
「被疑者確保! 被疑者確保!」
ねえ、ちょっと待って、これって冤罪だから――、言おうとしても胸がつぶれて声が出ない。ちょうどその時、午前零時の時報が鳴った。明るい女の声が「花枝さくらのミッドナイトラジオ♪ まだまだ続きます♪ お付き合いくださいねー」とはしゃいでいた。
リカは苦しい呼吸のなか喘ぎながら、マジお前私に感謝しろよ、と思った。
***
一通り応急手当をうけたリカは、まだ男の婚姻届が広げたままになっているテーブルに座り込んでいた。
「はいどうぞ」
ペットボトルのキャップを緩めて、樹が手渡してくれた。
「気が利くねえ」
「僕ここにいていいんでしょうか」
「鑑識が来るまで周りのもの触るな、って言われてるけど、現行犯逮捕なんだし、監視カメラにもばっちり録画されてるし、形式的なものなんでしょ」
カロナールを飲まされたが、アドレナリンが出ているのか、手に痛みは感じなかった。樹は窓側に行くと、振り返り、
「今連行されるみたいです。マスコミはまだ来てないみたいですねえ」
「あー、明日課長が記者対応するでしょ、原稿書かされるのかな、だるいわあ」
「明日、年休取ればいいじゃないですか。事情が事情なんだから」
「そうねえ」
突入してきた警察官たちは、リカが犯人だと思ったらしい。確かに、リカが反撃をしていた場面しか見ていないわけだから、やむを得ないだろう。警察が来たのは樹が通報していたもので、警察に遅れて入って来た樹の説明で、リカはやっと事情を話させてもらえた。
「ほんと、失礼しちゃうよねえ、こんな善良そうな市民と凶悪犯を間違えるなんて」
「先輩の目、すごく怖かったから、ちょっとそれっぽかったですよ」
「えーうっそ」
リカは窓ガラスを鏡代わりにして顔を覗き込んだ。
「いまはだいぶ優しいいつもの先輩にもどってます」
「それにしてもよく気付いたね、ありがとう」
「運よくスマホが落ちた拍子にリダイヤルされたんでしょうね、ちょっともみ合ってるのも聞こえて。警察が夜だからって渋ったのを説得する方に時間かかりましたよ」
あはは、と樹が笑っていると、リカは少しくらい顔をして、
「中村のおじちゃん、亡くなるなんてねえ。あのアイドルも明日ぐらいに報道出ちゃうかもだし。どうするんだろ、これから」
「先輩は自分が無事だったことだけ考えてくださいよ」
「たかが紙一枚にこだわって、あの二人もこんな大事起こしちゃってこれからの人生どうするんだか」
「犯人のことまで心配してるんですか、優しすぎないですか、先輩」
「市民の人ってさ、たかが区役所に伴侶を証明してもらって、それで人生の変わり目にしちゃっていいのかなあ」
「先輩、戸籍制度のことまで広げて考えすぎですよ。僕たちは粛々と紙一枚をお預かりするお仕事なんですから」
「そうねえ」
納得しているのでもないふうに、リカは言った。
「たかが紙一枚、されど紙一枚、紙一枚のことで死んでたまるか、ってねえ」
まだラジオが流れていた。花枝さくらの歌声が庁舎内に響き、そして吸い込まれて行った。
文字数:9903