甘い生活
最後の喫煙者である小川猛は嫌煙運動に最後まで抗い、滑稽な喫煙者保護運動に巻き込まれ、最後は隙を見て自ら煙草を溶いた水を飲んで死んだ。
最後の飲酒者であるアンリ・ドロシーは密造酒をトラックいっぱいに積んで、フィットネスジムへと突っ込んだ。この自爆テロは、有害指定品愛好者の危険性をより明確なものにした。
最後のコーヒー愛好家のジョン・サンダースは現地警察に追われ、翼を授かったと言わんばかり、ザ・シャードの屋上から飛び降りて死んだ。原型を留めていない死体から飛び出した肩甲骨は本当に羽根のようだったと、彼は不健康信奉者のイコンとなった。
「最っ高ね!」
手のひらくらいの小さな包みを傾いた机の中心に置いて、彼女が言った。私は曇りガラスの外を見やり、声の大きさを注意する。朝の光が少し眩しい。彼女はどうしたって横に広がってしまうひどい癖毛をかきながら、信じられないと表情で訴えた。
「声を出さずにいられる? 砂糖よ? いま目の前に砂糖があるのよ!」
だから声がでかいって。私は言ったけど、彼女はすっかり興奮しきっていたから無駄だった。左頬のそばかすを人差し指で引っ掻くのが、興奮したときの癖だった。私は諦めて罅割れた窓から外を見て、廊下の足音に耳を澄ませて注意を払う。
そんな危険で面倒なものに、どうして彼女が夢中になっているのか、私には理解ができなかった。まして腰を振るしか能のない男どもの相手を一晩中して稼いだお金を注ぎ込むほどの価値があるとは到底思えなかった。
「あぁ、緊張する!」
彼女は叫び、包みを縛る紐を慎重にほどいていく。爆弾を処理しているみたいな手つきのせいで指先は震えていて、私は彼女の手元が狂ってしまって大切な中身をうっかり溢してしまわないかと心配になった。
けれど私の心配をよそに、彼女は無事に包みを開き終える。十数センチ四方の薄茶色の包み紙の真ん中で、一つまみより少し多い純白の粉が小さな丘をつくっている。
彼女は机にかじりついて、目を輝かせていた。その子供みたいな横顔がなんだか愛しくて、私の子宮がぎゅうっと熱を持った。
ねえ。そんな粉いいから、さっきの続きしようよ。
私は彼女を背後から抱いて、右手でふわふわした乳房を掴み、左手をホットパンツのあいだへと滑り込ませる。
「今はだめ」
彼女は私の腕からすり抜けて、キッチンへと向かう。私の左手に残る熱く湿った感触は埃っぽい空気に紛れてしまう。
めいいっぱいに背伸びをして戸棚のなかを漁っていた彼女はしばらくするとストローを二本、両手に握って戻ってくる。
「これで鼻から吸うのよ。アタシ、昔の動画でこうやってるの見たことあるんだから」
私は首を横に振る。たぶんその動画で嗜まれていたのは砂糖なんかよりもよっぽど凶悪な代物だったけど、彼女はいいからいいからと純白の丘を人差し指のはらで細い畝へとならしていった。
そのときだ。窓の外で鋭い笛の音が鳴った。爪のあいだに針を滑り込ませるような不愉快で痛々しい音色は、私たちの秘め事のすべてを知っていて、それを白日のもとに暴こうと窓を引っ掻いているみたいだった。
アパートメントの前の通りには、いつの間にかデモ隊の行列がやってきていた。掲げられたプラカードには、生命と健康を無条件に賞賛する文字が元気よく躍っている。
「この身体って誰のものなんだろうね」
私は部屋のなかへと視線を戻したけど、彼女の質問に答えることはできなかった。そもそも質問か独り言かも分からなかった。彼女はまだ、デモ隊を見つめている。私の視線に気づいて窓から視線を外した彼女はわざとらしい微笑みを浮かべてから、ストローを鼻に当てて構えると間を置かずに砂糖の畝を吸い込んだ。
すると魔法にかけられたみたいに砂糖の畝の端っこが消える。もちろん砂糖がどこへいったのかは、次の瞬間から激しく咽た彼女を見れば明らかで、私は身体をくの字に折れて咳き込む背中を擦った。覗き込むと彼女は涙目で、鼻からも口からも透明な液体が流れ出していた。
やっぱり愛おしいと思った。私は半ば強引に、彼女へとキスをした。勢い余って歯が当たった。そのまま唇で鼻から漏れる液体をねぶる。甘かった。これが砂糖なんだと私は思った。
私たちはそれから見つめ合って、もう一度、今度はより激しく互いの唇を、よだれを、あらゆる粘液を吸った。甘いかと訊いた。すっごく甘いと答えた。
私には分かった。たぶんさっきの呟きは叫びだった。身体を売り、傷つける。健康と長寿に支配された世界で、自分が自分という存在を握り締めていることを宣言するための自傷行為だった。
こんなことでしか確かめられなかった。私たちが互いを貪ることでしか愛を感じられないように。
本当にどうしようもないと思う。
けれどどうしようもないくらいに、私たちは生きているんだ。
文字数:1999
内容に関するアピール
健康でいたいと願うことも、不健康でいるという選択も、どちらも同じだけの正しさを持っていると思います。
多様性を語るのと同じ口から語られがちな排斥の言葉を目の当たりにすると、けっきょく”多様性”も受け入れる範囲に線を引くだけの都合のいい方便でしかないのだと見せつけられているような気になります。
あるいは、劇的なことがなくてもささやかに抗って生きている名もなき二人を描きたいと思いました。
文字数:189