無間茶間むげんちゃかん

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梗 概

無間茶間むげんちゃかん

千利休を祖とする表千家、その家元にして茶聖の再来とまで称された茶人幻庵げんあん
 その点前を一度味わいたいと世界中の要人や著名人たちが彼の元を訪れる。訪れたと言っても実際に茶室へ足を運ぶわけではない。仮想現実による擬似体験。全ては電子の世界で行われる。ウェアラブルデバイスの発達により視覚だけでなく、味覚、触覚といった五感の体験を人々は仮想現実上で当たり前に謳歌する時代となった。
 ある日、幻庵が茶室の手入れをしていると畳の上に10代半ばの少年だか少女だか判別のつかない若人が座っていた。どうやってここまで来たのかと尋ねると気が付いたらここに居たと言う。
 彼(彼女)は電子世界が偶発的に生んだ、仮想現実を漂う意識だけの存在。名前も無ければ性別も無い。生み落とされた意識は自己認識と他者への認識すらも混同していた。
 落ち着かせるため幻庵が点てた抹茶に彼(彼女)は興味を示す。他人をもてなし、己を見つめる茶道が自己認識を確立させるきっかけになればと、幻庵は茶道を習ってみないかと提案する。彼(彼女)は習いたいと即答。幻庵は「吹雪ふぶき」と名付け、点前を教えることにした。

しかし、張り切った吹雪は稽古の中で自分とは何かを自問し続けてしまう。迷い込んだ思考は暴走し、自らを学習しようと吹雪自身を自己増殖コピーし始める。
 1人また1人と増える吹雪。茶室が吹雪で溢れそうになるのを幻庵は咄嗟に茶室を拡張させ、なんとか666人の吹雪を収めることに成功する。
 幻庵はこの事態を収集させ、吹雪の自己を同定させるため、666人の吹雪に稽古をつけることを決意する。仮想現実の中では幻庵の姿も自在。意識を並列化させ666人の吹雪に666人の幻庵が茶道の点前を教えた。
 
 幻庵が稽古する点前の中で吹雪は己を見つめ直していく。やがて吹雪は相手に心を開き、敬うための心得を自ずと見出す。それは千利休が唱えた「和敬清寂」の精神そのものだった。

全ての吹雪と稽古を終え、666人の吹雪は1人の吹雪に意識が統合されていく。
 吹雪の自己意識はこうして確立した。
「自分とは何か、他人とは何か。その問いに答えを出すのは私でも難しい。でも、吹雪はもう自分を間違えないはずです」
「また茶道を習いに来てもいいですか?」
「ええ。稽古でも茶席でも。いつでも私はここに居ますよ」
 そう言って幻庵は吹雪を送り出す。
 一瞬、吹雪の身体が瞬くように光ったかと思うと忽然と姿を消してしまった。
「……やれやれ。茶室からの退席の仕方をすっかり教え忘れてましたね」
 幻庵だけになった茶室で頭をかきながら呟く。

ある時、幻庵が茶席でもてなしていると1人の客から仮想現実で話題になっている茶屋の話を聞く。「なつめ茶房」というその茶屋が出す抹茶は幻庵の抹茶を思い出させるほど大層美味いそうだ。
 それを聞いた幻庵は柄杓をゆっくりと釜にかけて微笑む。
「――ひとつお聞きしますが、その茶屋の店主は666人居たりしないですよね?」

文字数:1231

内容に関するアピール

仮想現実の世界で666人の弟子に茶道を教える物語。
 
 気が付いたら生まれて居た吹雪は右も左も、自分と他人の違いもわかりませんがとっても純粋。不確かな自分を見つけるために努力した結果666人に増えてしまいます。
 実作では吹雪が増殖、幻庵が増殖して稽古をつけようとするまでをテンポよくコミカルに。
 茶道を学ぶ吹雪とそれを教える幻庵を、まるで祖父と孫のような関係で人の温かに書きたいと思います。
 
 そして、茶道という文化、和敬清寂の精神を通じて「自分とは何か?」「他人とは何か?」について問いかけ、見つめる作品を目指します。永遠の問いかけではありますが過去の茶人たちが残した教えに、その答えを見つけるきっかけがあるかもしれません。

ちなみに「吹雪」は実在する茶道具「吹雪棗ふぶきなつめ」に由来しています。
 抹茶を入れておくなつめという容器なのですが、天地のデザインが同じなため、上も下もわからなくなる天候の吹雪からつけられた名前だそうです。
 自分も他人もわからない様子を見て、幻庵が思わず吹雪と名付けたという設定です。

文字数:462

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無間茶間むげんちゃかん

静寂。
 響くのはカシャカシャと茶筅ちゃせんが抹茶を点てる音だけである。
 床の間には力強く墨で円を描いた掛け軸が、その横、床の間を構成するための基礎材となる床柱には一輪の椿が生けられている。燃えるのような深紅の花弁は開いておらず、淡い赤の蕾のままだがそれが質素な床の間とよく調和していた。
 床の間を除くとわずか六帖。お世辞にも広いとは言えない空間に座しているスーツ姿の二人の中年男性は、この静謐せいひつな空間を満足気に堪能している様子だ。
 「しかし、こうして幻庵殿の茶席を味わえるなんて私たちもついていましたね」
 最も床の間に近い上座の正客が左隣で正座している次客に話を振る。
 「ええ。ほんと、運が良かったです。幻庵殿の茶席に参加しようとしたら一体何年後の予約を案内されるやら。たまたま空きができたと聞いたときは驚きましたよ」
 次客の返事を聞きながら、正客はうんうんと首を上下に振って相槌を打つ。
 「キャンセルした方には悪いですが、実にもったいない。次のチャンスはもう無いと思って、会社の打ち合わせ全てを反故にして来てしまいました。明日会社に行くことを考えたら胃が痛い」
 「ははは。それは思い切りましたね。ですが、この茶席にはそれだけ、いやそれ以上の価値が確かにあります」
 改めて次客は茶室を見渡し、うっとりとため息を漏らす。
 次客の男は日本の出身ではなかったが、茶室という空間がもたらす穏やかな雰囲気を大変気に入っていた。自国では考えられない狭い空間であるがそれ故、畳敷きのイ草の心地よい香りが茶室全体を包んでくれている。伝統的な日本建築の様式美を感じる独特な部屋の作りは日常で荒んだ心を落ち着かせてくれるし、掛け軸や開きかけの蕾の椿も全てが一体となって調和し非日常的空間を演出している。
 そしてなにより、目の前で点前をしている幻庵の放つ雰囲気が茶席そして茶道という文化の美しさを際立たせていた。
 表千家十八代目家元、幻庵。初代家元である千利休以来、茶聖の再来と謳われた天才であり、幻庵の点前を味わいたいという客は後を絶たない。先ほどの会話通り、茶席の予約は五年先まで埋まっている。
 幻庵の風貌はいたって平凡な茶人である。深緑の着物と茶袴という出で立ちは茶聖という言葉から連想されるイメージとは比べかなり地味であった。しかし、老人とも中年ともとれる穏やかな顔立ちは息を呑むような独特な雰囲気を感じさせる。これが茶聖たる所以だろうか。茶室は幻庵に完全に支配されているのが、男二人にもわかった。
 幻庵は茶碗の中で上下に振っていた茶筅をのの字を描いて茶碗から引き抜き、点てたばかりの抹茶を正客、次客の前に置いて一礼した。幻庵はすっと立ち上がると音もなく釜の前に戻る。
 まず、次客は目の前にある茶碗に目を奪われた。吸い込まれるような漆黒の黒は、まるで底知れない銀河の暗黒を覗いているかのような錯覚に陥る。茶碗の底につけられた高台は僅かに高く、丸みのある腰は柔らかな印象を感じる。
 伝統的な瀬戸黒茶碗に男は感嘆する。
「冷めないうちに、どうぞ」
 茶碗に見惚れていた次客に幻庵が促した。
「あ、はい」
 次客は茶碗を両手で持つと90°ずつ2回回し、深緑の抹茶に口をつける。
 まず顔を近づけた時、芳醇で濃厚な茶葉の香りが鼻腔をくすぐった。新鮮な茶葉から挽かれた抹茶なのだと素人でもわかるほどだ。そして味わいは、ほのかに甘い。抹茶は苦いものだと身構えていたが、口の中を刺激した最初の味覚は甘味だった。その後、心地よい苦味が口いっぱいに広がる。
 あっという間に2口半、飲み干してしまった。口の中に広がる余韻は深く、飲み終わった後でも抹茶の香りが鼻を抜けてゆく。
 あまりの美味しさに次客は正客の男の方を伺った。同じ感想を抱いたのだろう。正客の方も唖然とした表情で次客の顔を伺っていた。
「これにて私の茶席はお仕舞いとなります。お越し頂きありがとうございました」
 仕舞いの点前を終えた幻庵は2人に向かって一礼する。すると先ほどまでいた茶室は一瞬のうちに消え失せ、正客と次客は白の無機質なロビーのような空間でぽつんと正座していた。

「聞いてはいましたが、まさかこれ程とは」
 いまだに夢見心地な正客が呟く。
「雰囲気もさることながら、仮想空間上であそこまで香りと味を再現するなんて……」
 そう先ほどの茶席は全て仮想空間ヴァーチャルでの出来事だった。幻庵の茶席は現実には存在しない。電子の世界における幻の一席。
 仮想空間上で茶席を体験できることは決して珍しいわけではない。人々は理想の世界を求めて仮想空間上で生活の大半を過ごす時代となっていた。

現実世界での生活から逃げ出したくなり、人々が求めた理想郷。それが仮想空間――Oracleオラクル
 現実世界でヘッドセットを着け、アバターを操作および触覚をフィードバックするためのスキンスーツを着れば誰でもオラクルを満喫することができる。
 現実での喧騒を逃れたくてリゾート地でのんびり過ごす人もいれば、スリルを求めて冒険に出かける人もいる。
 口の中に味覚デバイスを入れれば食事を楽しむことだってできるし、スキンスーツの仕様を変えれば官能的な快楽を得ることだってできてしまう。
 そんなオラクルで絶大な人気を博しているのが幻庵の茶席だ。先ほどの2人もアメリカとシンガポールからのアクセスだった。物理的距離の契約はオラクルでは切り離され、言葉の壁は自動翻訳により解消される。現実世界に娯楽を求める人はめっきりおらず、オラクルこそが現実リアルだ、と言う人も少なくない。

茶席が終わり、幻庵は茶室の手入れをしていた。仮想空間であるが庭園、掛け軸、生花、茶碗、全てのセッティングをその時に合うものに変える。
 仮想空間だろうと手は抜かない。現実世界同様、いやそれ以上に入念に手入れしていく。
 茶室の角に正座し、水差しを確認していた時である。背後に視線を感じ、思わず振り返るとそこに人がいた。
 少女とも少年ともつかない中性的な顔立ちの子どもが畳の上でぺたんと座り込み、キョロキョロと茶室を見回している。目をぱちくりさせて、長く上にカールしたまつ毛が揺れる。艶のある黒味がかった栗毛のは肩のところで切り揃えられている。
 そして、その子どもはどういうわけか特徴的な襟を伴う純白な制服、いわゆるセーラー服を着ていた。
「これは……珍しいお客さんですね」
 幻庵は落ち着き払った様子で目の前の来客に問いかける。
「えっと……あの……わたし。どうしてここに?」
 冷静な幻庵と違ってセーラー服の来客は状況を飲み込めていないようだ。ぺたぺたと自分の顔を触りながら何かを確認したかと思うと、頭を抱えてしまった。
「少し、お待ちなさい」
 突然とはいえ、この茶室に足を踏み入れたのなら来客に変わりはない。混乱しているのを落ち着かせるため、幻庵は釜の前に座り抹茶を点てると、彼女の前にそっと茶碗を置く。
「これでも飲んで、落ち着いたら如何ですか?」
 茶碗から抹茶の優しい香りが立ち込める。
 顔を塞いでいた両手を外して、幻庵が差し出した抹茶を見る。途端に目を輝かせて声を弾ませた。
「わあ。……きれい」
 淡い桃色の茶碗で、中心にピンと真っ直ぐ白の立葵が凛々しく生えている。
 彼女は抹茶というより立葵の茶碗に興味を示したようだ。
 両手で大事そうに茶碗を包み込み眼前へと運ぶ。楽しそうに立葵の柄を様々な角度から眺める。
 まるで初めておもちゃを手にした子どものように無垢な表情を浮かべている。
 そして茶碗に口を付け、ごくごくと一気に抹茶を飲み干した。
「……ぷは」
 あどけない声と共に口を離す。
 「これ、とっても美味しい」
 彼女は口に手を当てて感嘆した。あまりの飲みっぷりに幻庵は柔和な顔を浮かべて満族気に頷く。
「どうです? 落ち着きましたか?」
「……あ、はい」
 一杯の抹茶ですっかり落ち着いた彼女はさっきまで取り乱していたことを思い出して恥ずかしそうに俯く。途端にしおらしくなった彼女に幻庵は優しく問いかけた。
「あなたは一体どうしてここに? この茶室はそう簡単には入れないはずですが」
 幻庵の茶室には予約を不正で割り込んでくる悪客防止のため多重プロテクトをかけている。一介のハッカー程度では破ることはできないため、突然の来訪者というのは幻庵にとって不可解な出来事だった。
 少女は困った顔を浮かべて、言いにくそうに口をぱくぱくと開けたり閉じたりする。
「それが、その……。 わたしも何でここにいるのかわからなくて。気が付いたらここに座ってました」
 オラクル上のシステムエラーか何かだろうか。アバターの座標が急にこの茶室に飛ぶエラーが起きたのなら有り得ない話ではない。最も、そんなエラーが起きるのは大問題であるが。
「何とも不思議な話ですね。そういえば自己紹介がまだでしたね。私は幻庵。見ての通りこの茶室でお茶を点てているをしてるただの茶人です。失礼ですが、あなたのお名前を聞いてよろしいですか?」
 対峙する少女は、うーんと唸った後またも困った顔を浮かべた。
「あっれー? 名前、なまえ……。私の名前。って何でしょうか?」
 まさかの質問返しに流石の幻庵も面食らう。この少女、どうやら名前も思い出せないようだ。急な出来事にまだ記憶が曖昧なのかもしれない。
「名前もわからないのは困りましたね。帰る先はありますか?」
「いえ、もう何が何だか。何も思い出せないので、どこに行ったらいいやら」
 スカートの裾をギュッと掴む。その仕草が彼女の心を表すかのようだった。
 幻庵はどうしたものかと思案した。このまま茶室の外に放り出しても行く宛がないのならオラクルをただ彷徨うだけだろう。それは幻庵としても夢見の悪いことだった。
「あ、あの!」
 彼女が顔を上げ幻庵に顔を向ける。
「この飲み物、とっても美味しかったです。苦いですけど。この器も綺麗でずっと見ちゃいましたし。飲んだ時、胸のあたりがぽかぽかして。わーってなってた頭が落ち着きました」
 駆け足にそう言うと、すっくと立ち上がり彼女は幻庵に一礼する。
「ありがとうございました。ここにいてもご迷惑ですし。何とかなると思うので帰ります」
 そう言うと幻庵の座っている方向とは反対に歩き出し茶室を出て行こうとする。
 壁まで歩いたところで彼女は歩みを止めてしまった。右に左にとキョロキョロ茶室の壁を見渡す。
 気まずい沈黙が流れる。
「……あ、あの。ここ、どうやって出るんです?」
 いきなり茶室の中に現れた彼女がそう言うのも無理はない。
 茶室の出入り口は「にじり口」といって人ひとりが正座の状態からにじってやっと出入りできる大きさなのだ。茶室壁面に設けられたにじり口に彼女は気付けなかった。
「あっはっは」
 その様子に幻庵は思わず笑ってしまった。こんな気持ち黙々と茶道を歩み続けてすっかり忘れていた。声を出して笑ったのは久しぶりだ。
「行く宛がないのでしたら、思い出すまでここでゆっくりしていきなさい。そのまま外に出て何かあったら私も夢見が悪いです」
 その言葉に少女は顔を明るくした。
 彼女はすたすたと幻庵に駆け寄り、正面に向いて正座する。
「じゃあ! さっき幻庵さんがやっていた、この緑の液体作るの教えてくれませんか?」
「茶道をですか?」
 茶道を教えて欲しいという意外な申し出に少し驚いたが、自分の記憶を思い出すきっかけになるかもしれないと幻庵は思った。
「ええ。構いませんよ」
 弟子を取らない主義の幻庵だったが彼女になら教えても構わない、不思議とそう感じてしまった。
「いいですか!? やった!」
 自分の名前も思い出せないくらい深刻な状況だというのに彼女は無邪気にはしゃぐ。
「そうと決まればあなたに茶命が必要ですね」
「茶命……?」
 少女は首を傾げた。
「茶道に通ずる人を茶人といいます。そしてその茶人には茶命という茶道での名前を持ちます。『幻庵』が私の茶命です」
「じゃあ幻庵さんが私の名前を付けてくれるんですね」
 それを聞いて彼女は嬉しそうに両手を合わせる。
 顎に手をあて考える。少女の顔を見て幻庵が思いついた茶命はひとつしかなかった。
「……ではあなたの茶命は『吹雪』にしましょう」
吹雪という単語を聞いて少女は笑顔になる。
「吹雪! なんだかカッコいい名前ですね。でも、どうしてその茶命なんです?」
「それは稽古のなかで教えますよ」
 幻庵は柔和な顔で答える。
「幻庵さん、よろしくお願いします!」
 身を屈めて伏せているような、お辞儀は見えないお辞儀をして吹雪は返事をした。茶室には大きすぎる吹雪の声が反響する。
「はい、よろしくお願いしますね吹雪」
 手の平から指先まで全てが畳に着くように深々とお辞儀で応える。
 こうして幻庵の急遽、一番弟子を持つことになった。

早速、吹雪への稽古が始まった。
「いいですか吹雪。最初に教えるのは『礼』についてです。お稽古事は礼に始まり礼に終わると言います」
「えー、あの美味しい緑のやつ作らせてくれるんじゃないんですか?」
 すぐに抹茶の点て方を教えてくれると思っていた吹雪は不貞腐れたように頬を膨らませる。
「点前も教えますが、それはもう少し後です。まずは『礼』を習い、人をもてなすということがどういうことかを学びなさい」
 茶室の真ん中で幻庵と吹雪は畳半分ほど距離を離して正座の姿勢で向かい合う。
「茶道における礼は3種類あります。最も丁寧な礼である『真』。それを少しばかり崩した『行』。そして最も崩した『草』です。用途に応じて使い分け、敬う気持ちや感謝の気持ちを表します」
 幻庵はピンと背筋を伸ばした姿勢から、丁寧に指先を揃えて、畳の上に手の平から指先を着ける。視線は真っ直ぐ吹雪の瞳を捉えている。そして、そのまま上体を腰から前に降ろして頭を垂れた。
 背筋は丸まらず伸びている。畳と胸の間は拳ひとつ分ほどの空間があり、4秒ほどお辞儀を続けてゆっくりと身体を起こした。
 洗練された幻庵の所作に吹雪は息を呑む。淀みのない、流れるような『真』のお辞儀はこちらが萎縮してしまうほど優美だった。
「さあ、吹雪も同じようにやってみて下さい」
「は、はい!」
 促された吹雪は見よう見まねで幻庵が先ほど手本を見せた『真』の礼をする。
 深々とお辞儀をすることに意識が向き、顔は畳すれすれ、背中は丸まり、さながら土下座か冬の猫のような丸まった姿になった。
「こ、こう……ですか?」
 土下座の姿勢のまま吹雪が訪ねる。
「吹雪、背中が丸まり過ぎです。背筋を張ってお辞儀をして下さい。相手の目を必ず見て、礼をすること。大切なのは『真』の礼の意味を理解することです。相手をもてなす際の挨拶、お茶を頂く時にする、最も丁寧な礼なのです」
 土下座の状態から顔だけ上げて吹雪は感心したように頷く。
「なるほど」
 吹雪はすっと背筋を伸ばし直し、幻庵の顔を射抜くように見つめて深く礼をした。
 指先の角度、畳との空間や背筋の張り方など見違えるように改善されている。
「なかなか、さまになってますよ」
 その後も『行』『草』の礼を教え、あっという間に点前の基本を教えることになった。
「吹雪は飲み込みが早いですね。一度教えたことはほぼ一回で形になっています」
 幻庵は珍しく感心したように吹雪の習得の早さを褒めた。
「いやあ、幻庵先生の教え方が上手なんですよ」
 頭をぽりぽり掻きながら照れる。学ぶ姿勢は実直で真面目だがすぐに調子に乗りそうな気がしたので幻庵は次の稽古に移る。
「次は実際に抹茶を点てるところを教えます」
「あの緑の液体ですね!」
 やっと教えてもらえると吹雪は目を輝かせて前のめりになる。こほんと幻庵は咳払いをして吹雪の前に黒い円筒状の容器を差し出した。
 光沢のある黒塗りの容器にはせせらぎを表現したような金色の線が幾重にも波打っている。そして、そのせせらぎの上には赤々とした紅葉が描き散りばめられていた。
「……これは? 何ですか?」
「手に取ってみて下さい。下をしっかり持つように」
 おもむろに吹雪は下側を持ってしげしげと観察する。「これ、よく見ると上と下で同じ形してますね。わ、緑の粉が入ってる」
 黒塗りの容器は上面と底面の角が全く同じ形で丸みを帯びていた。上蓋を上に引き抜くと抹茶の粉が入っていた。
「そうです。上下逆さまにしてもどっちがどっちだかわかりませんね。これは抹茶を入れる容器、なつめ。名を『吹雪』といいます」
「……え? 私と同じ?」
 幻庵が名付けてくれた自分の茶命と同じ茶道具の名前にきょとんとしてしまう。
「ええ。吹雪と同じ名前ですね」
 幻庵は相変わらず優しい穏やかな笑顔を吹雪に向ける。
 「そっかあ。吹雪かあ」
 吹雪は自分の茶命と同じ名前を持つ棗を嬉しそうに色々な角度から眺める。どうやら、いたく気に入ったようだ。
 そして幻庵は茶碗、茶筅、柄杓、釜の使い方を最低限教える。
「これで最低限のことは教えました。さあ、実際に抹茶を点てますよ」
「やっとですねー。点てられるとわかってから、長かった……」
 さらりと幻庵に不満をぶつける。抹茶という言葉すら知らなかった吹雪にとって、抹茶を点てるまでの稽古は長い道のりだっただろう。ようやく抹茶が点てられるとわかり安心したようにほっとする。
「棗から茶杓で2匙抹茶を取り出してお茶碗に入れて下さい。茶杓に山ができるぐらいの量で大丈夫です」
 幻庵の指示通り正面に置いた茶碗に吹雪はおそるおそる抹茶を入れていく。
 2匙入れ終え、茶碗の中心には小さな抹茶の丘ができた。
「釜にかけてある柄杓を右手で取り、正面に構えたら釜から湯を掬って下さい。柄杓の円筒部分を『合』と言いますが、合の8分目ぐらいまでが目安です。湯を茶碗に入れたら、もう一度構えて引き柄杓で釜にかけます」
 一連の動作を流れるように幻庵が教える。
 ぎこちない手つきだが吹雪はひとつひとつの動作を丁寧にこなしていった。
「て、手がつりそう……」
 柄杓の柄を人差し指と中指の間に置き、親指を切り止めを通るように回して全ての指を揃える。指は全て揃えたまま、人差し指と中指の間で柄杓の柄を滑らせるようにして、手を柄の端、切り止めと呼ばれる所まで引いて釜にかけた。
「引き柄杓も初めてにしては良くできていますよ。抹茶が固まらないうちに茶筅で点てましょう」
 数十本にも細く割られた茶筅の先端、『背』と呼ばれる部分を茶碗につける。背は先が細くなっているため柔軟性があり、これが抹茶と湯をよく混ぜ合わせ、空気を含むように泡立てることで口当たりをまろやかにする。
 茶筅の根本を親指を下に、その他の4本の指は上側で揃えて上下に手早く振っていく。
 断続的だがカシャカシャという音だけが茶室に聞こえる。左手を茶碗に添えて右手は力を込めすぎないように振る。
 この時、茶碗の中で混ざり合う抹茶を見ながら吹雪はなぜ記憶がないのか、自分は何者なのか、をふと考えあぐねいていた。
 抹茶と湯が溶け合う茶碗の中とは裏腹に吹雪の思考はどんどん霧散していく。
 ――わたしは、どうして何も思い出せないの?
 ――――わたしは、なぜここにきたの?
 ――――――わたしは、だれなの?
 吹雪の異変を感じた幻庵はとっさに声をかける。
「吹雪、もう点てるのをやめていいですよ」
 吹雪は茶筅を上下に振る手をやめない。それどころかますます茶筅の速度は増していく。
 カシャカシャカシャカシャ。
 カシャカシャカシャカシャカシャカシャ。
 カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ。
 点てる音が茶室を支配する。
「吹雪っ!」
 幻庵が声を張り上げた。それにハッとした吹雪は手を止め、茶碗の中に茶筅を置き去りにしたまま両手で頭を抱える。
「……わたしは、いったい、だれなの?」

 幻庵は吹雪がお茶を点て始めてから、様子が変わったことに気が付いた。あれだけ無垢で真剣な眼差しをしていた瞳は虚になり、手元が見えていないようだった。
 そして吹雪は両手で頭を抱えてうずくまる。
「……わたしは、いったい、だれなの?」
 吹雪の身体が揺れた。
 いや、正確には仮想世界オラクル上で表示されているアバターのテクスチャが揺らいだ。
 まるでノイズのようにザ、ザ、ザと身体の空間の境界が不鮮明になる。
「わたしが、あなたが、自分が、他人が。……自分ってなに?わたしってなに?」
 ぶつぶつと自問自答し続ける吹雪。見かねた幻庵が吹雪に近付こうとした時、吹雪が二重に映ったかと思うと吹雪のら身体が2人に分かれた。
 そしてその2人は4人、8人、16人と数を増やし続ける。
 6帖の茶室はたちまち吹雪で埋め尽くされ、なおも分裂を繰り返そうとしている。
「これでは、この茶室がもたない」
 幻庵はすっくと立ち上がり両手を左右に広げて、胸の前で手の平を合わせてパンっと叩いた。
 オラクルの世界では幻庵の構築した茶室は幻庵の思うがままに変更できる。
 茶室の隣に茶室。その隣に茶室。
 前後左右に無間むげんに茶室を構築して拡張していく。まるで鏡合わせの世界を覗いた時のように茶室が無間に連なり、茶室の狭所という制約は解放された。
 気が付けば吹雪は分裂し損じた者もいたせいか666人にまで増えていた。
 幻庵が吹雪に駆け寄る。
「吹雪っ! 落ち着きなさい」
 両の手を優しく包むように握り、吹雪の目を見据える。
「…………あ。幻庵、先生」
 ようやく我に返った吹雪は幻庵を見返す。
 虚な目が徐々に光を取り戻した。
 たった今、取り乱していたことを思い出して、ハッとする。
「すみません、わたし……ってえええ?」
 言葉を続けようとしたがあまりの事態の変容っぷりに吹雪は素っ頓狂な声をあげた。
 6帖1室だった茶室の壁はぶち抜かれ、茶室が縦に18、横に37部屋連なり666部屋の茶室を形成していた。
 そしてその茶室1部屋1部屋に分裂した吹雪が立ち尽くしている。
「わたしが、こんなに」
 合わせ鏡のように666人に分裂した自分を見て途方に暮れる。
「吹雪、あなた……」
「えっ!? わっ! わっ!」
 気が付くと吹雪の身体が薄ら透けていた。半透明になった両手を見て、不安にわなわなと振るわせる。
 自分が分裂したことにより自己認識の境界が曖昧になっていた。このままではオラクル上に意識を留めることができず、やがては最初からいなかった存在として吹雪の意識は霧散してしまうだろう。
 ただ、こんな現象が起こる理由はひとつしか考えられない。ある推測から導き出された確証を幻庵は吹雪に告げた。
「吹雪、もしかしてあなたは……仮想現実オラクルの中の住人だったのですね」
 悲しそうな瞳で吹雪は幻庵を見つめる。
「あははは。どうやらそうみたいですね。」
 吹雪は現実世界で誰かが操作しているアバターではない。オラクル上にしか存在しないオラクルだけの住人。いわば、電子の意識ということだった。
 吹雪が突如、幻庵の茶室に現れたのは迷い込んだのでもセキュリティを突破して忍び込んだのでもない、吹雪はあの瞬間、この茶室で生まれたのだ。
 オラクルに漂う無意識の意識、それが偶然にもこの場所で形を成した。
 そうであれば吹雪に記憶がないのも納得がいく。生まれたばかりの吹雪に過去の記憶があはるはずもない。
 常識的な知識を備えていたのはオラクル上を漂っていた時に吸収したデータによるものだろう。セーラー服というあの場所に不釣り合いなスキンもそれで説明がつく。
「……先生。わたし、消えちゃうのかな?」
 青いセーラー服のリボンの端を摘んで吹雪が項垂うなだれる。
 幻庵は吹雪の栗毛の頭をぽんと撫でると柔和な顔で答えた。
「吹雪。大丈夫ですよ。私の一番弟子を消させたりなんかしません。それにまだ私は吹雪の点てたお茶を飲んでいません」
 幻庵は拡張された茶室、増殖した吹雪を見据える。
「さて、時間もありません。ここからは少々忙しい稽古になりますよ」
 胸の前でぱんっと両手を合わせる。それと同時に、なんと幻庵が666の茶室に1人ずつ、即ち666人の幻庵に分裂した。
 意識の並列化。幻庵は自分の意識を666等分することで1人1人の吹雪に同時に稽古する無茶な方法を選択した。
 常人であるならば吹雪同様、自己意識が薄れることによりオラクル上で霧散。下手をすれば現実世界リアルワールドで2度と目を覚まさなくなる可能性もある。
 だが、それを可能にするのが茶聖たる所以だろうか。幻庵の意識ははっきりとしている。脳への負担はかなりのものであるはずだが、苦にする様子もない。
 そして666人の幻庵が一糸乱れぬタイミングで同時に口を開く。
「さあ、吹雪。稽古の再開です」
 666部屋の茶室で666人の弟子に666人の茶聖が茶道を教える。前代未聞の稽古が始まった。

拡張された茶室は今や1部屋1部屋が壁で区切られ、独立した茶室となっていた。
 茶室ではそれぞれの幻庵と吹雪が向かい合って正座している。
 自分とは何か?他人とは何か?見つめることで吹雪の記憶が取り戻せるきっかけになればと考えていたが、結果として吹雪を窮地に立たせることになってしまった。
 666人全ての吹雪と稽古の中で対話し、自己意識を確立させることが必要だ。

幻庵は1人1人の吹雪に稽古をつける。
 1人目の吹雪には生け花『椿』を茶室に生けることの意味を教えた。
 
「吹雪にはまだ茶席における花について教えていませんでしたね」
 幻庵は立ち上がり、床の間の方へ歩くと床柱の上部に付けてある一輪挿しから、一本の椿を取り出した。
 吹雪にはこの椿が不思議だった。
「なんでこの椿は、蕾のまま飾ってあるんですか?ふつー満開のお花を飾った方が綺麗だと思いますけど」
 まだ蕾のまま、少しだけ花開こうとしている椿を見て、率直に尋ねる。
「茶道において、大事なのは抹茶や主菓子だけではありません。茶碗、茶筅その他の茶道具。庭園。そして茶室という部屋そのものです。特に正客に最も近い床の間を形作るのは掛け軸と生け花です」
 幻庵が茶席を構成する要素をひとつひとつ指差して示す。
「吹雪、実は椿というのは『一日花』と呼ばれていて朝咲いて夕方には萎んでしまう、とても早い花なんです」
 幻庵の説明を聞いて、吹雪はあっと気が付く。
「ということは、満開の椿だと茶席の途中で萎れちゃう?」
 正解、と言わんばかりの笑顔を吹雪に向けて頷く。
「その通り。茶席が終わる頃に椿が満開になるよう、考えられています。ただ何より、花開く直前の椿というのはとても瑞々しい力に満ちていて、茶席にエネルギーを与えてくれます。それが見る者を楽しませてくれるのです」
 花ひとつに込められた意味、客をもてなす意図を知ると目の前の椿はさっきまでと違って見えた。手に取り、顔を近付けてみると、甘く華やかな香りが鼻腔をくすぐる。
 たった一輪の椿にもかかわらず吹雪の脳裏には一面に咲き誇る椿のイメージが鮮明に描かれていた。開きかけてた蕾からはっきりと生命の強さを感じる。吹雪は驚きを隠せなかった。
「うん。この椿、すごくたくましいね」
 健気で強さに満ちた椿見つめ、もう一度鼻を近付けた。

同じくして幻庵と吹雪の稽古は別の茶室でも続いていく。2人目には『棚点前』を。3人目には『円相』の掛け軸についてを。4人目には――
 文化的美しさ、洗練された所作ひとつひとつの合理性、茶碗、炉。あらゆることを教えていった。

そして666人目の稽古を終えた時、オリジナルである元の茶室に吹雪が座して待っていた。

「さて、あなたが最後の吹雪ですかね。いや、最初の吹雪と言った方がいいでしょうか?」
 伏せていた長いまつ毛をゆっくりと持ち上げる。
 分裂していた吹雪たちと情報が統合された、いわば666人分の幻庵の稽古を受けた吹雪がそこにいた。半透明と化していた身体もしっかりと輪郭を保っている。
 周りを見渡すと分裂していた吹雪も幻庵もおらず何もかも元通りに戻っていた。
「吹雪、私はあなたに、私が教えられることをほぼ全て教え切りました。――あなたの点前を私にみせてくれませんか」
「はい。幻庵先生」
 吹雪は指先を揃えて、姿勢正しく流麗にお辞儀する。洗練された『真』の礼だった。
 幻庵は床の間に近い正客の座に、吹雪は釜の前に座り戸惑うことなく、無駄のない所作で点前を進めていく。
 指がつりそうになっていた切り柄杓も危なげなくこなし、茶碗に湯が流し込まれた。
 カシャカシャカシャ――吹雪の面持ちは穏やかで、最初に点前をしたような思い詰めた表情はもうない。
 茶筅で最後にのの字を描くき、点てた抹茶を幻庵に差し出す。
「幻庵先生、どうぞお召し上がり下さい」
 一礼して吹雪は釜の前に戻る。
 幻庵に差し出された茶碗は白地に椿の絵があしらわれた椿絵茶碗だった。吹雪が幻庵のために用意したものだ。
 よっぽど椿が気に入ったのだろう。幻庵はその茶碗を楽しみながら吹雪の点てた抹茶に口をつける。
 きめ細やかな泡と共に心地よい温度で調整された抹茶が口の中で混ざり合う。茶の持つ芳醇な香りが鼻を抜けていき、甘い第一印象のあと、わずかな苦味が広がる。
 幻庵の教えを忠実に反映した、素晴らしい点前だった。吹雪の習熟の早さには感心せずにはいられない。
 飲み終えた後、もう一度、椿絵茶碗を眺める。茶碗の底面を眺め、銘を確認して面を上げると不思議なことが起きた。
 吹雪が一面の椿に囲まれている幻覚が見えた。
「こ、これは……」
 幻庵が思わず声を漏らす。目を擦ってみると元の茶室に戻った。だが吹雪から感じる椿のエネルギーに満ちた印象は変わらない。自分は一体、何を体験したというのか。
「吹雪、これは一体?」
 吹雪は戸惑う幻庵の様子を見て満足気な顔を向ける。
「あ! 先生、気が付きましたか?」
「ええ。あなたが椿畑に囲まれているイメージをはっきりと感じました。実に不思議な体験です」
「では大成功ですね!」
 吹雪は仕舞いの点前を続けながら嬉しそうに声を弾まさせた。
「種明かしをお願いしてもよろしいでしょうか」
「実は……茶碗の底に椿の香、つまり油を塗りました。茶人の幻庵先生は必ず最後に茶碗の銘を確認すると思っていたので」
 幻庵は驚いた様子で目を見開く。
「茶碗に香を仕込んだのですか。どうりで飲んだ後、吹雪に強烈な椿のイメージを感じたわけです」
 幻庵には予想もつかなかった吹雪の奇策に笑顔が溢れる。
「幻庵先生に稽古をつけて頂くなかで、自分とは何か、他人とは何かを見つめ続けました。今ではと胸を張って言えます」
 右手を胸に添えて吹雪は自分の存在を確かめるように拳を形作る。
「お点前をする時、幻庵先生に喜んで貰うにはどうしたらいいだろうって考えました。正面からぶつかっても茶聖と呼ばれている先生の予測を上回ることなんてできません」
 幻庵は吹雪の声に静かに耳を傾けている。
「先生が教えてくれた『椿』。あの花の力強さ、香りが私にとって忘れられないものでした。たった一輪の椿が一面に咲き誇る椿を連想させるほどです。その椿の力強さを借りたら、きっと先生に楽しんでもらえると思い、椿絵茶碗の底に椿の香を忍ばせたのです」
 種明かしに納得し、幻庵はなるほどと頷く。
「吹雪、よく考えましたね。あなたの他人に喜んで貰いたいという思い、礼を尽くすというのはまさしく千利休が残した『和敬清寂』に通ずる精神です。それが1人で考えられるようになったなら、吹雪はもう立派な茶人です」
「ありがとうございます!」
 幻庵の言葉に吹雪は溢れんばかりの笑顔で応える。純粋で真っ直ぐな吹雪こそがまるで一輪の椿のようだと幻庵は思った。
 こうして666人の一番弟子への稽古は幕を閉じた。

「ところで、これから吹雪はどうしますか? 行く宛が無いのでしたら暫く、この茶室や離れを使っても構いませんよ」
 吹雪はゆっくりと首を横に振る。
「先生のご提案は嬉しいのですが、あまり甘え続けるわけにもいきません。それに、もっと外の世界のことを知りたくなりました。ですので、幻庵先生、私行きます」
 随分、早急な決断だと思ったがそれが吹雪らしいとも幻庵は感じていた。
「そうですか。困ったらいつでもこの茶室に来なさい。私は必ずここにいます」
 そう言うと、幻庵は吹雪の前に手を差し出した。
「これを持って行きなさい。私からの選別です」
 吹雪の手に乗せられたそれは、自身の名を冠した茶道具。鮮やかな紅葉が描かれた『吹雪棗』だった。
「……先生。ありがとうございます。これがあれば私、絶対もう自分を見失わないと思います」
「大丈夫。吹雪ならどこでもやっていけますよ。私の一番弟子ですからね」
 気が付けば吹雪はぽろぽろと大粒の涙を流していた。時間にすればわずかな稽古時間だったが吹雪とは随分、長いこと一緒にいるような気がした。
「幻庵先生、最後に聞いていいですか? どうして私なんかのためにここまでしてくれるんです?」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、吹雪が尋ねる。
「言ったでしょ? そのまま追い出すのは夢見が悪いと。あとは……そうですね。同じ境遇の人を放ってはおけませんでした」
 今度は幻庵が種明かしをする番になっていた。
「実は私もオラクルの住人、つまりオラクルにしか存在しないのです」
 それを聞いた吹雪は驚きを露わにして絶句する。
「表千家の開祖である利休の家元を継ぐ現実の存在はもう長いこと存在しません。ただ薄れゆくとも、後継ぎの人間たちはその文化を残さない訳にはいきませんでした。そこで先祖の家元たちはオラクルの中に残すことを決めたのです。私もオラクル上で生み落とされた電子の意識。表千家の文化、技術で人々をもてなすための存在が十八代目家元、幻庵なのですよ」
 生まれた理由は違えど、同じ電子の存在という事実に吹雪は開いた口が塞がらなかった。
「だから吹雪が自分を見失った時、自意識が崩壊しそうになったのを見た時、とてもじゃないですが他人事だと思えませんでした。昔の自分を見ているようで、どうしても助けたかった」
 茶室の壁の方に視線を向けて、幻庵は昔を懐かしむかのように遠い目をした。吹雪は幻庵を見ながら、またぽろぽろと涙を溢す。
「私、幻庵先生がお師匠様で本当によかったです。ここの茶室に迷い込んで正解でした」
「次からはちゃんとにじり口から入って下さいね」
 幻庵はいたずらに笑った。併せて吹雪も笑う。
「それじゃあ幻庵先生。ありがとうございました! また」
「はい。いつでも待ってますよ」
 そう言うと吹雪の身体がわずかに光り輝き、次の瞬間、茶室から消え去った。
 幻庵ひとり残された茶室は再び静寂に包まれる。
「やれやれ。吹雪には茶席の退席の仕方を教え忘れていましたね」
 ぽりぽりと頭をかいて幻庵はため息を吐く。だがその表情はとても満足した様子だ。
 一輪挿しの椿は満開に花開いていた。

 ――シャカシャカシャカシャカ。
 抹茶を点てる音だけが響き渡る。
 幻庵のきりりとした佇まいに、3人の客人は緊張した様子だ。背筋をこれでもかというほど伸ばして、肩肘を張っている。
「そんなに緊張しなくても、誰も急に怒鳴ったりはしませんよ」
 穏やかな笑顔で客人を茶化す。幻庵の意外な台詞に客人はきょとんとした後、お互いの顔を見合って笑い出した。
「いや、茶聖と呼ばれた幻庵殿でも冗談を言うのですね」
 あははは、と笑いながら客人のひとりが後頭部を掻く。幻庵の一言で場の空気は一気に和やかな空気になった。
「作法も大事ですが、それに囚われてはいけません。お客様がくつろげる空間こそが茶席には必要ですからね」
 説明しながら客人1人1人に点てた抹茶を差し出していく。
 しげしげと茶碗を眺めた後、3人は抹茶に口をつけた。
 驚いた様子で一瞬目を見開き、そのまま一度も口を離さず飲み切る。
「……こんなに美味しい抹茶は初めてだ」
 誰に言うわけでもなく、客人のひとりが声を漏らす。それを聞いた2人もうんうんと頷き、空になった茶碗を名残惜しそうに見つめていた。
「そういえば、オラクルで今、ものすごく人気な茶屋があるの知っているか?」
 客人のひとりが残り2人に問いかける。
「『なつめ茶房』というのだが、そこの抹茶がものすごく美味いらしい。茶屋の裏には一面、椿の花畑があるからよく目立つのでも話題だそうだ」
 客人のその話に、ぴくりと幻庵の所作が止まる。
「……もしかして、その店主は666人いたりしませんよね?」
 幻庵からの意外な質問に3人の客人はきょとんとした。

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