梗 概
フリマから遠く離れて
日曜の午後、パチスロ店と場外馬券場が向かい合わせに並んだ駅の南側の繁華街で半日過ごして大負けし、ガード下をくぐり北側の通りを行くと、少し先にある大きな公園で月に一度のフリーマーケットが開かれている。
午後四時過ぎ、めぼしい品は売れてしまい少しずつ店も減りはじめる時間帯。広場の隅に青いビニールシートを広げてアンティーク調の金属小物や装飾品をまばらに並べた店を見つけて立ち寄ってみた。
シートの上に並べられた商品は均等に配置されており、売れた気配はない。懐中時計や指輪、眼鏡のフレーム、象嵌細工のほどこされた小物入れ、見慣れない乗り物のミニチュア等々、目を引くものはいくつかあるが値札が付いておらず気軽に購入しようという気にはなれない。
それでもしゃがみこんで手前にあった鉛色の眼鏡フレームを手にとってみる。レンズは入っておらず、ブリッジとテンプルには細やかな模様が彫られており、想像していたよりもずっと軽い。
「それは他人の感情を見ることができるんですよ」
客引きをせず、「いらっしゃい」とも言わずに無言で小さな折りたたみ椅子に腰かけていた店主がとつぜん話しかけてきたのに驚いて顔を上げると、穏やかな微笑と目が合う。
「ちゃんとしたレンズが入っていればね」と言葉を継いで、店主は眼鏡についての説明をはじめる。興味は惹かれたが、すでに使えない飾り物の状態になっているらしく、値段も訊かずにシートの上に戻すと、別の客がやって来て二千円で眼鏡のフレームを買っていってしまった。
小さな椀に入った、銅色と銀色の一対の賽子――飾り物として部屋に置いておくのも悪くなさそうだと思って、賽子を手のひらで転がしてから椀の中へ放ってみる。何となく、一のゾロ目を頭の中に浮かべていたら、本当に出てしまった。
「それは念じたとおりの目が出る賽子なんです」
言われて、もう一度、四のゾロ目を念じてみたが、出たのは三と六だった。
「もうだいぶ古いからバカになっていて、ただの飾りです」と店主は笑う。
先ほどの眼鏡の値段と大して変わらないだろうと想像して、賽子を買おうかどうか迷いながら、もう少し品物を見てみようと思っていると、あとから来た客が賽子を三千五百円で買っていった。思っていたよりも高く、手持ちのギリギリだった。
そんなふうに品定めを続けているうちに、手にとったものがどんどん売れていってしまう。店主は「あなた、いい客だね」と言いながら「そろそろ店じまいだ」と最後に残った懐中時計を「まけておくよ」と渡してくる。それは時間を止めることができる時計なのだという。もちろんすでに壊れているが、けっきょく千五百円で購入する。
店を背にして歩きだしながらポケットの中の懐中時計のボタンを押してみると、一瞬、すべてが静止したような気がする。気のせいだと思って振り返ると、公園にはフリーマーケットどころか、誰の姿も見えなかった。
文字数:1200
内容に関するアピール
梗概では冒頭に状況説明を入れましたが、場面としては店の前に立って去るまでを描きます。
ワンシチュエーションを奇抜な舞台設定や極限的な状況ではなく、日常の一場面を切り取った形にしたいと考えてアイデアを練りました。とくに目的も持たずにふらりと立ち寄った店で、想定していなかった様々な商品にふれることで、想像や物語が生まれることはありそうで、一つの場面で話を膨らませていくには良い設定なのでは考えました。そのうえでSF的な特殊性を演出するため、より偶然性、一期一会な感覚を際立たせることができるフリーマーケットを舞台に設定しています。
SF的なガジェット(商品)はあまり複雑にせず、主人公の想像や店主の語り口で楽しませるような形を想定しています。期せずして、店主が前回の課題「嘘つきや詐欺師」的な要素をもった人物になっているため、実作ではやり取りの中で店主のキャラクターをもっと掘り下げたいと考えています。
文字数:400
フリマから遠く離れて
駅前の公園広場では、毎月第三日曜日の午後にフリーマーケットが開かれている。
まだ暖かさの残る秋の夕方、目ぼしい品は売れてしまい、人の姿も少しずつ減って片づけをはじめる店も見られるころに、ふと誘われるように足が向いて冷やかしに広場を歩き回っていると、奥の隅っこに気になる店を見つけて足を止めた。
アラベスク調の模様をあしらった敷布の上にアンティーク風の金属小物や装飾品が並べられており、敷布の中央奥でチャコールグレーのニット帽をかぶり「No Feature,No Future」と書かれた白いTシャツを着た店主が小さな折りたたみ椅子に座って退屈そうに商品を見下ろしている。
均等にきれいに並べられた商品には売れた気配がなく、無表情な店主の顔はどこか沈んで見えた。皮肉にも「目立たなければ、未来はない」という言葉がぴったりの雰囲気を漂わせている。
一歩近づいて店の前に立ったが、店主はこちらに視線を向けず、いらっしゃいとも言わずにぼんやりと座ったままだった。そのやる気のなさが逆に心地よくて、気兼ねなく商品を見ていくことにする。
その場に屈みこんで手近にあった細い鉛色のフレームの眼鏡を手にとってみるとレンズが入っておらず、ブリッジとテンプルには細やかな模様が彫られていた。素材は何でできているのか、想像していたよりもずっと軽くてかけ心地は悪くなさそうだった。
試着してもいいかと声をかけると、店主ははじめてこちらの存在に気がついたようにハッと顔を上げて「ええ、もちろん」と微笑をつくった。その笑顔が思ったよりも若々しくて、声も弾んでいたのに戸惑いながら鉛色の眼鏡をかけてみると、思ったとおり何もないかのようにとても軽い。
店主に視線を向けてみると、レンズが入っていないはずなのに視界がすこしぼやけて、顔に薄く白い靄がかかったように見えた。
「ああ、それは相手の感情を見ることができるんですよ」
何色が見えますか、と訊かれて、白、と答えると「白は心の和いだ穏やかな状態を意味します」つまり店主はいまとても落ち着いているということらしい。振り返って周囲を眺め回してみると、夕陽に染まった人々の顔のあたりに色とりどりの感情が、遠いネオンのようにぼんやりと浮かんで見えた。
まさか本当に他人の感情が覗けるとは思わないが、人によって違う色が見えるというのは面白くて、あちこちに視線を向けてみる。どの色がどんな感情を意味しているのかはわからないが、比較的やわらかい落ち着いた雰囲気を漂わせているものが多い印象だ。
公園に立ち寄る前に過ごしていた駅前の場外馬券場脇にある立ち飲み屋、あるいは午前中に時間を潰していたパチスロ店の中ではこうはいかないだろう。どちらももっと殺伐とした重たい感情が渦巻いていたはずだ。
どんどん遊戯台に吸い込まれていく千円札はあっという間に一万、二万と増えていき、午前の負けを取り戻そうと購入した馬券も、外れが続いてすべて紙屑となった。はじめのうちは場外馬券場内の大型モニターでレースの行方を見守っていたが、メインレースが始まるころには立飲み屋で安酒を飲みながら天井近くに設置された小型テレビをぼんやりと眺めていた。
掠りもしない馬券を握りつぶしたときの自分の感情は何色だっただろうかと想像してみる。重たい黒か、沈んだ青か、時間が経って落ち着いた今は藍色くらいにはなっているかもしれない。
視線を店主に戻すと、いつの間にか色が鮮やかな橙色に変わっている。この一瞬の間に何か良いことでもあったのか。
「その眼鏡、壊れてるんですよ」
レンズが入っていないでしょ、と店主は続ける。機能に対応した特殊なレンズを通さなければ、正常な色は表示されないらしい。しかし、現在レンズは手に入らない状態になっており、まともに使用することはできないという。
「なかなか面白いものだったんですけど、使えなくなってしまって。せめて飾り物にでも使ってもらえればと思って、出品してるんです」
ここに並んでいる他の商品もたいてい似たような物なのだと店主は言う。つまり、どれも故障しているか、機能が劣化しており、飾り物やアクセサリーの用途にしか使い道がなくなっているのだ。
もともと小物や装飾品の類のつもりでのぞいてみたのだから、別に期待外れということではなかったが、本来の機能を知ってしまうと、故障した品物を購入するのは躊躇われ、眼鏡をそっと敷布の上に戻した。
眼鏡の横に置いてある商品に視線を移す。すると置いたばかりの眼鏡を後ろから来た客がひょいと摘まみ上げて「これいくら」と店主に訊ねた。
眼鏡が四三五〇円で買われていったのが、高いのか安いのか判断しかねるが、敷布の上にできた空白に名残惜しさのようなものを覚えた。スロットと競馬で負けて手持ちの現金は心許なかったが、何か一つくらい買って帰ろうか。
来週末には、三カ月ぶりにハルに会う。前回会ったときには前の週に競馬で当ててそれなりの現金が手に入ったので、去年のクリスマスに欲しがっていたレゴブロックの海賊船をプレゼントした。しかし子どもの関心が移ろうのは早く、半年の間に興味も薄れてしまった様子で、あまり嬉しそうな反応は得られなかった。今はいったい何を欲しがっているのか想像もつかない。短い時間だが何とか一緒に居られるようになって、ハルには退屈せずに過ごしてもらいたかった。できれば一瞬でも笑顔が見たい。
今回は金がないので碌なものをやれないなと思いながら、目の前に並んだアンティーク調の小物の中に子どもの喜びそうなものはないかと視線を走らせた。小さな銅と銀の一対の賽子が、藍に白が溶け込んだような焼き物の椀の中に納まっているのを見つけて手を伸ばし、眼鏡の置いてあった手前の空いたスペースへ持ってくる。
賽子を手のひらにのせて、一のゾロ目を期待して椀に向かって軽く放ると、乾いた心地よい音を響かせて転がり、念じたとおり「一」「一」と赤い目が二つきれいにそろう。
「それは思ったとおりの目が出せる賽子なんです」
もし本当であれば金儲けに使えるかもしれない、などという考えが一瞬脳裏をよぎったが、出入りするような賭場はなく、賽子を使ったギャンブルなどしたこともなかった。せいぜいハルと双六遊びをしたことがあるくらいだ。六出ろ、六出ろ、と呟いて投げつけるように賽子を放るハルの姿を思い出しながら、六のゾロ目を念じて再び銅と銀の賽子を放る。しかし出たのは二と四だった。あわせて六にはなるけれど、思ったとおりの出目ではない。
「だいぶ古いもので、もうすっかり壊れてしまって、ただの飾りです」と笑いながら店主は「ちなみにその椀は小代焼です。安物ですけどね」と情報を付け足した。眼鏡と同じように賽子も本来の機能が失われた故障品ということだが、何となく名残惜しくて手の中でしばらく転がしていた。数年前からボードゲームなどのアナログなゲームが流行っていると聞くが、果たしてハルとそんなゲームで遊べることは今後あるのだろうか。あのときの双六でどちらが勝ったのか思い出せない。もう一度、賽子を振ってみる。「六」と「四」が出る。六月四日はハルの誕生日だ。
賽子を椀の中に戻し、値段を訊こうかどうか逡巡しているうちに、ふらりと現れた別の客が椀とセットで三五五〇円で賽子を買っていってしまう。ふっと小さく息を吐いて、失われた物のことはすぐに忘れることにする。まだ敷布の上にはいくつも商品はあった。
ホワイトゴールドの左右そろいの小さなイヤーカフ、自分には似合わないしハルへのプレゼントにも相応しくはない。だが、鳥の羽根をあしらったような細やかな造形に惹かれて片方を手に取ってみる。ほとんど重さを感じないくらい軽くてつけ心地もよさそうで、近くで見るとやはり細工が鮮やかで、吹いたら羽毛のようにふわっと飛んでしまいそうだ。
店主に断って試着してみると、一瞬金属の冷たさを感じたが、すぐに何も着けていないかのように耳に馴染んだ。しばらくすると周囲の声が鮮明になって、意識したわけでもないのにはっきりと言葉が聞こえてくる。
「お母さん、さっきからずっと見ててさ。つまんない」
「人が多くて遊べないしね」
声のほうに視線を向けると、二匹の犬が古着を売っている店の前で立ち話をする飼い主の足元で退屈そうに佇んでいた。
一匹が小さく吠えると「早く帰ろうよ」と声が聞こえた。その声に促されるように、飼い主たちは話を終えて店の前を離れ、「またね」「さよなら」と吠え合って犬たちはそれぞれの散歩を再開する。
店主のほうに視線を戻すと、こちらの戸惑っている様子を見て満足そうに笑っている。目が合うと「動物の声を聞くことができるんですよ。面白いでしょう」と一言。
本当だろうかと訝しく思いながら、もう一度よく耳を澄ませてみたが特段それらしい声は聞こえない。辺りを見回してみると一匹の動物もいなかった。
諦めてイヤーカフを外すと、背後を少年が「バイバイ」と手を振りながら駆けていった。少年が手を振った相手は友だちらしく、中古のブランドバックを物色している母親の袖を引いて「ねぇ、お母さん、行こうよ」と急かしていた。
「それはお気に入りで、愛用してたんです。でも、やっぱりそれも壊れちゃって。アクセサリーとして使ってもいいんですけど、この機会に手放すことにしました」
眼鏡や賽子に比べて高そうだと考えながら、イヤーカフを敷布に戻すと、長い髪をネイビーブルーに染めた大学生くらいの女性がやってきて隣にしゃがみ込む。
「やあ、また来たの」と店主が声をかけると「迷ったけど、他に何も買わなかったから、やっぱり買います」とイヤーカフを手に取って一万円札と五十円玉を二枚差し出す。二千円のお釣りを受け取って彼女は満足そうに立ち去った。
その背中をぼんやりと見送って、敷布に視線を戻す。はじめに店の前に立ったときには一人の客の姿も見えなかったのに、いつの間にか立ったまま商品を見下ろしている人が両隣にいた。
隣の客が手を伸ばして商品をつかみ上げて、しばらく眺めてから買っていく。敷布の上にできた空白を見つめて、そこには何が置いてあったのか思い出そうとするが、その輪郭さえも浮かんでこない。
なくならないうちにもう少し見ておこうと手に取ったのは、ブリキのミニチュアカーだった。赤い塗装が剥げ落ちてブリキの色がまだらに覗いている。自動車に詳しいわけではなかったが、流線型のフォルムはどこか近未来的で、街中で似た形の車を見た記憶はなかった。よく見てみるとタイヤの部分が大型のサーキュレーター状になっていて、内部に扇風機のファンのようなものが付いている。
「それは二一〇〇年ミレニアムのクラシックモデルですね。メンテナンスをしながらずっと大切にしてたんですけど、さすがに古くなりすぎてしまって」
店主の話では半世紀以上先のモデルの車らしい。タイヤの部分を動かしてみると、横に倒れて、ファンが地面と水平になる。まさか四基の扇風機の風圧で空を飛ぶのでもあるまい。昔のアニメか特撮にでも登場する乗り物だろうか。
もう少し保存状態が良ければ、ちょっとした飾り物として棚に飾ったりもできそうだったが、いかにも使い古した見た目では部屋に置く気にもなれない。子どもの玩具としてもハルは興味をもたないだろうなと思う。
「ボンネットを開けるとスイッチがあるでしょ。普段は六十分の一のミニチュアなんですけど、それを起動させると実寸になって乗れるんです」という店主の言葉に、爪の先を引かっけてボンネットを開けてみると、たしかに小さなスイッチが付いていた。動かしてみると一瞬車体が振動して指先が揺れた。それからタイヤのファンが回って、弱い風が指の隙間を駆けていく。しかし、しばらくすると勢いが落ちていき、そのまま止まってしまった。
「もう壊れてるんです。さすがにその大きさのままじゃ乗れませんからね」
ミニカーを敷布の上に戻すと、先ほど母親を急かしていた子どもがつかみ取って「これ、買って」とねだる。けっきょく自分用のハンドバックを購入したらしい母親は、仕方ないという様子で店主に値段を訊ね、思いのほか高いのに躊躇しつつも二〇五〇円を支払った。
陽が傾いて、あたりも次第に暗くなっていき公園灯がともりはじめる。店じまいを始める人も増えてきて、客も徐々に減ってきていた。しかし店主は片づけを始めるそぶりも見せず、小さな折りたたみ椅子に座ったまま微笑んでいる。最初の無表情とは打って変わって、商売を楽しんでいる様子だったが、相変わらずやってきた客に、いらっしゃい、と声をかけることはしない。
周りの店が減ってきたせいか、敷布の前で足を止める客も増えてきて、そのたびに一つ、また一つと商品が売れていく。いったい何に使うのかわからないような、店主の話では壊れているものばかりだという小物や装飾品を、人々は手に取ってそのまま買っていった。次第に敷布の上は寂しくなっていく。
だいぶ品数が減って、客足も落ち着いたところで、不意に店主の座っている椅子に目を向けると、それは木製で脚に見事な装飾がほどこされた一品であることに気がついた。こちらの視線に気がついて「これは売物ではないんです。まだ使えるので」と店主は笑い「これがないと私、帰れません」と言った。
他の客がいなくなったタイミングで、店主は小声で秘密を打ち明けるように言った。その椅子は小型のタイムマシンなのだという。
「ちょっとした悪戯のつもりで、未来の物を売りに来たんですよ。使える物はまずいだろうけど、壊れた物ならたいして問題にならないだろうと思いまして」
お金が必要で、どうせなら価値の高い「この時代の通貨」を手に入れようと思いついて、店主はわざわざ不要な物を売りに来たらしい。
「ほら、お金が電子化されて紙幣や硬貨が使われなくなりはじめて、どんどん現金の発行量が減っていくでしょ。とくに去年は五十円硬貨の発行量が少なくて、希少価値が高いんですよ」
そう言われて、ポケットの中の小銭を取り出して手のひらに並べてみると、去年の年号が入った五十円玉が一枚混じっていた。あまり意識したことはなかったが、どうやら貴重な物らしい。店主には黙ったまま小銭をポケットに戻す。
未来では二束三文のガラクタでも、こうして過去に持ってきてアンティークの中古品として売りに出せば小遣い程度は稼げる。しかも手に入れた通貨は未来ではプレミアがついて高額で取引されているのだから一石二鳥だ。
今の時代にはない、未来の品々だというのなら、それを大々的にアピールすればもっと注目されて売れるのではないかと考えてみたが「そんな胡散臭い売り文句、誰も信じません」と店主に笑われて、たしかにその通りだと思う。
そのあと、声帯模写ができるシルバーの髑髏のチョーカー、左右についている口からお湯と水を出し分けできるヤカンなどを手にとっては敷布に戻すとそのたびにすぐに売れてしまう。
「あなた、いい客だね」と言いながら「そろそろ店じまいかな」と店主は呟く。いつの間にか敷布の上の商品は一つきりになっている。最後に残ったのは、一見何の変哲もないハンターケースの懐中時計だった。
「まけておきますよ」と店主は懐中時計を手に取ってこちらに差し出す。受け取って蓋をを開けてみると、当然のように針は止まっていた。どうせこれも壊れているのだろうと思いながら華美に装飾された文字盤を眺める。流麗なスクリプト書体のローマ数字がならびト音記号のような形の滑らかな針先のデザインも美しい。動かないものだとしても、素人目にはもしかすると美術品として価値があるのではないかと思わせる造りだ。
「それは時間を止めることができる時計です」
空になった敷布を畳みながら店主は商品の説明を始める。サイドについている三つの小さなボタンを操作することで、時間を操る仕組みになっているというが、案の定、壊れてしまっていてもう使うことはできないらしい。しかし、現代の技術でも修理すれば普通の時計としてなら動くかもしれないということだった。
値段を訊くと、一五五〇円とこれまでのどの商品よりも安い。「まけておくと言ったでしょう」と笑う店主に千五百円と十円玉を五枚渡して、懐中時計をポケットにしまった。修理に出して動くようにして、ハルがもう少し大きくなったら、いつかプレゼントしよう。
すっかり片づけを終えた店主に別れを告げ、背を向ける。数歩すすんで広場の中央にある時計を見やると、間もなく午後六時になろうとしていた。歩きながらポケットの中の懐中時計のボタンを押してみる。
気がつくと、周りには人の姿がなく、フリーマーケットなどはじめから存在しなかったかのようにあたりはすっかり静まり返っていた。空もずいぶん暗くなっている。振り返るとつい先ほどまでそこにいたはずの店主の姿も見えない。広場の時計は午後七時を過ぎている。いつの間に一時間も経ったのだろうか。まさか立ったまま眠ってしまったわけでもあるまい。
思いついてポケットから懐中時計を取り出してみるが、壊れたままで動いた気配はなかった。この時計が、周囲の時間を止めるものではなくて、自分だけの時間を止めるものだったとしたら、と考えてみて恐るおそるもう一度サイドのボタンを押してみる。すぐに広場の時計を見てみると先ほど確認してから二分ほど時間がすすんでいるだけだった。つまり、時間は正常に流れている。
もし本当に動かずに一時間もこの場所に突っ立っていたのだとしたら、他人にどう見られていたのだろうか。歩行途中の奇妙な格好のままじっと立ち尽くしている姿は、パントマイムのパフォーマンスのように見えたかもしれない。歩きだそうとすると節々が鈍く痛み、肩や腿、ふくらはぎが重たく張っている。
意図せずに空費された時間を諦めて、煙草でも吸って帰ろうとポケットの小銭をつかんで数えると、希少な去年の五十円玉だけがなくなっていた。もしかすると店主に盗られたのかもしれない。そんなふうに考えてしまい、割引価格の一五五〇円で買ったはずの懐中時計がずいぶん高い買い物だったように思えてくる。せめて未来のハルが少しでも喜んで笑顔を見せてくれるといいのだけれど。
文字数:7500