梗 概
その舌触りは絹のよう
和の道を照らせ、と付けられた元号【照和】も65年が過ぎ、7月、夏の始まり。
多魔子と案理の家は袋小路のどんづまりに二軒並んで建っていた。幼なじみのふたりだけれど、来年には中学進学を控え、自分たちの成長にそら恐ろしさも感じていた。多魔子は少女、案理は少年。血縁もないただの隣同士だったが、この年になるまでふたりは双子と見まごうほどとてもよく似ていた。それなのに、中学になれば、女子と男子は着る服さえ違うと言うではないか。
多魔子の母・蓉子は、まだ町内では珍しかった「シフォンケーキ」をひっそり売り出して生計を立てている。大々的な宣伝をすることもなく、建物も一見ふつうの民家のようであるため、店は知る人ぞ知る存在だった。蓉子いわく、「そういうふうにまじないをかけてある」という。
そうしたある日、案理の母・茉莉が妙な噂を仕入れてきた。近所の大規模修繕工事中のマンションで人が消えたり、いつの間にか増えたりしているらしい。と、同時に町では訪問詐欺が増え始め、なんと多魔子の家の祖母も騙されて偽物の消火器を買わされてしまう。知らない人が家を訪れるなんておかしい、という多魔子、人を騙すなんて許せない、という案理は、詐欺師が忘れていったと思しき匣を手に追跡を始める。
手がかりも得られないまま夏休みに入ってしまったところで、同級生のモカとソウが「うちらの秘密基地に知らないおじさんが入りこんでる!」とやってくる。その秘密基地に勝手に住み着いていたのが、例の詐欺師・タニカワだった。タニカワはとくに悪びれる様子もなく、「おまえら、ソレに餌をやったか」と聞いてくる。「そいつ、生きてるぞ」。その匣は、どこかから盗んできたはいいが扱いきれなくなり多魔子の家にわざと置いていったらしい。子どもたちはタニカワに世話の仕方を教わり、シフォンケーキのおこぼれを食べさせ、コバコと名付けたそれをこっそり養う。
だが、タニカワはやはり悪人であり、追われる身だった。タイムパトロールのヤマシタ、と名乗る人物が現れたのだ。タニカワは異世界を転々とし、詐欺を繰り返す犯罪者だという。タニカワを庇うのか、ヤマシタを信じるのか、コバコをこのまま飼うのか、元の世界に返すのか、子どもたちは選択を迫られる。
そしてついに、コバコの存在は袋小路の大人たちにも見つかってしまう。多魔子の祖母の手を優しく舐めるコバコ。祖母はその舌触りを褒めて可愛がるが、蓉子は「帰りたいかどうか、この子に聞きましょう」と言う。コバコは蓉子の手も舐めると、「かえりたい」と言った。
大規模修繕中のマンションのエレベーターから連行されるタニカワ。同じく、元の世界へ戻るコバコ。コバコは蓉子の手のひらに、シフォンケーキとほぼ同じ材料で作る「匣型カステラ」のレシピを伝えていた。同じ組成に違うできあがり。蓉子はそのレシピで皆にカステラをふるまう。
文字数:1200
内容に関するアピール
シフォンケーキは逆さにして完全に冷ましてから型出ししないと、腰が折れてしまいます。一方、匣型カステラの元となった台湾カステラは、焼きたてが最も美味しくふわふわですが、オーブンから出してすぐに型から外せます。卵、小麦粉、砂糖、牛乳、油、と材料はほとんど同じで配合もそう変わらないのですが、手順の違いによりまったく違う食べ物になります。これを用いて、2020年第7回「何かを食べたくなるお話を作ってください」と2016年第8回「読者を『おもてなし』してください!」をSFで実現しようと試みました。やわらかSFです。
袋小路は子宮をイメージしており、タニカワとヤマシタは異物です。コバコはuseless boxから発想を得ています。異世界に繋がるエレベーターは「上下」ではなく「左右」の矢印の表示が出て移動します。
添付写真は砂糖衣がけのレモンシフォンケーキと台湾カステラです。どちらもわたしが作りました。
文字数:399
その舌触りは絹のよう
和の道を照らせ、と付けられた元号【照和】も六十五年が過ぎ、七月、夏の始まり。
多魔子の家と夢儀の家は袋小路のどんづまりに二軒並んで建っていた。多魔子は小学五年生の少女、夢儀は小学五年生の少年。幼なじみのふたりはずっと同じ場所で一緒に育ったせいか、顔も背格好もうりふたつ、はっきりと違うのはいまのところ、性格だけだ。
「じゃあ、またあとでね!」
多魔子の大声は青空に響く。ショートカットの髪がさらさらと風に揺れた。細い髪が乱れても気にしない。もう一方の夢儀はまだ曲がり角に立ったまま、離れゆく友人たちに名残惜しそうに手を振っていた。多魔子は振り返らない。だって、あとで、と約束をしたのだから。
夢儀がようやく多魔子に追いつく。こちらの髪も同じような長さだったが、これは袋小路入り口の床屋〈バーバー・ササハラ〉の女店主の手になるものだったからいつでも同じ髪型に帰結するというだけだ。
「夢儀、ランドセル置いたらすぐうちきなよ、おやつ食べてからいこ」
「あ、うん」
ふたりは並んで走って袋小路に吸いこまれていく。〈ササハラ〉の派手な回転灯を過ぎ、多魔子は左手の一軒家に。夢儀は右手の一軒家に。
「おかえり」
多魔子の母、蓉子が玄関わきの小窓から顔をのぞかせた。小窓の下には控えめなカウンターが張り出していて、平日の日中には鉢植えが出ている。が、今日はもう引っ込められていたので、すなわち、「本日は閉店しました」の合図だった。
「今日のおやつも、シフォンケーキよ」
「夢儀もくるよ」
「もちろん」
夢儀の母親は、この時間にはまだ仕事から戻っていない。
蓉子が玄関を開けると、多魔子は、ただいまー、と風のように飛びこんだ。夢儀が多魔子とふたり、おやつを食べ、遊びに行き、余裕があれば宿題に手を出し、それからまた自分の家へ帰っていくのはいつものことだった。夕飯を食べていく日もある。
この家で蓉子はシフォンケーキの専門店をひそやかに開いていた。宣伝は出していない。そもそもまだ町内には「シフォンケーキ」という食べものの存在を知る人も限られている中、さらに知る人ぞ知る店だった。店とはいっても、構えは一般的な民家、通りすがりの者が気のつく場所でもない。ただ、一度そのシフォンケーキを口にした者は、必ずまたここを訪れる。虜になる。蓉子の魔法だ。少なくとも、多魔子はそのように信じていた。
「こんにちはー」
ランドセルを自宅に置いてきただけの夢儀が顔を出す。
「いらっしゃい、夢儀くん」
「お世話になります」
夢儀の他人行儀は抜けない。多魔子にはそれが不満だった。
「もう、いいから、早くそこすわって」
タイルの埋め込まれた小さくともモダンなダイニング・キッチンの一画に、四角いテーブルと木製の椅子が四つ。多魔子と夢儀は並んで座った。蓉子は流し台で、真ん中が円筒状になったシフォンケーキの型をいくつも洗っていた。
「蓉子おばさん、手伝う?」
「もう終わるとこよ、ありがとね」
蓉子はエプロンで手を拭く。
「今日は、ウメおばあちゃんは?」
「さっき、あんたたちが帰ってくるより少し前に、薬局にいつもの薬を取りに行ったみたいよ。たぶん今日は湿布だけだから、すぐ帰ってくると思うけど」
「そうなんだ」
「だいじょうぶだよ、また“長い散歩”に行っちゃったらうちらが探してくるからさ」
多魔子が横から口を挟んで請け合う。
「はいはい、そのときはよろしくね。これ、前払い」
蓉子はふたりの前に、カットしたシフォンケーキを乗せた皿をことりと置く。いただきます! とふたりは素手でケーキをそっと持ち上げ、口に入れる。
その舌触りは、絹のよう。
そうやって食べるのが一番美味しいの、と蓉子はいつも言う。フォークで断面がつぶれてしまっては台無しだ。唇ではさむようにして口に入れ、ふわふわの生地の感触から味わう。鼻に抜ける卵の香り。甘さは控えめで、小麦の風味さえ感じられる。静かに歯で噛むと、シュワ、と、まるで炭酸飲料の弾ける音がする。丁寧に泡立てたメレンゲの立てる音だ。
「んー」
多魔子と夢儀が同時にうなる。だって、毎日食べても毎回美味しいのだから。
「はい、アイスティ」
盆でコップを三つ運んできた蓉子がようやく向かいに腰を下ろす。蓉子は冷たい飲みものはちびちび飲むが、子どもたちは汗をかいたコップをつかむとひと息に飲み干してしまう。残った氷がカラン、と涼しげに鳴る。扇風機が低く室内の空気をかき回し、蓉子の束ねた黒髪を揺らした。キッチンの開け放たれた窓からも風が入り、チー、とも、ジーとも聞こえるかん高い虫の声がする。
「あ、セミ」
「ほんとだ」
「あら、わたしは今年はじめて聞くかも」
耳のいい多魔子が初めに気が付き、しばしみんなで口を閉じて聞き入る。
しばらくするとその中に、ゴーン、ガガ、と鈍い人工的な音が遠くから交じり、
「工事の音ね」
と蓉子が言った。多魔子は我に返って立ち上がる。
「遊ぶ約束してるんだった」
夢儀もあわてて皿とコップを流しに運んだ。ふたりで食器を洗うと、また、帰ってきたときと同じように家の中を走っていく。
「いってきまーす」
「よい子のチャイムが鳴ったら帰ってくるのよ」
「はーい」
集合場所は校庭だった。多魔子と夢儀の家は学区の端だったから、大人の足ならきっと遠く感じたろう。或いは、車で行く距離だ。けれど子どもにはいつものこと。近い、とは思っていなくとも坂道を駆け下り駆け上がるのは造作もない。ふたりの似たり寄ったりな半袖パーカーのフードが向かい風に大きくふくらむ。放課後の校庭の喧噪が響いてきた。ほこりっぽい。そういえば、今年は水不足とかで、スプリンクラーをあまり動かしてくれないのだ。
「モカ! ソウ!」
校門を入るなり、多魔子は先に来ていたクラスメイトを見つける。多魔子は目もよかった。
「待って、なんか様子がへん」
けれど空気に聡いのは夢儀のほうだった。地面に半月状にゴムタイヤの埋め込まれた人気スポット、通称“タイヤ村”の前でモカやソウを囲んでいるのは同級生の見知った顔ではない。多魔子も思わず足を止める。が、小柄なモカが上級生に肩を突き飛ばされたところでやはり駆け出していった。
「PTA会長の娘だからって、調子のんな!」
「……六年だからって、おまえが調子のんなよ!」
「多魔子、」
口の悪い多魔子に夢儀があわてて追いすがる。六年生の男子は、五年の中でも早生まれの多魔子や夢儀よりも頭ひとつ分以上大きい相手だ。六年にもなると女子と男子は完全に分かれて遊ぶらしく、この集団には男子しかいなかった。ソウが手にしていたサッカーボールを投げ捨ててモカを助け起こしている間に、多魔子と六年生がもみ合いになる。中には、やめろよ、と声をかける者もいたが、面倒なのか、面白がっているのか、誰も手を出そうとはしない。夢儀は思い切って多魔子と六年生の間に体をねじ込んだ。
タイミングが悪かったのだ。そこまでのつもりはなかったのかもしれない。六年生の握ったこぶしが、夢儀の口元にぶつかった。唇の内側が歯に当たって切れる。夢儀の口から血が滴り落ちるのと、モカが悲鳴をあげるのにほとんど時差はなかった。
「きゃああああ、せんせーーーい!」
「夢儀!」
多魔子とソウが叫ぶ。
「え、なに? え?」
一番きょとんとしていたのが当の本人で、多魔子にハンカチを顔に押しつけられてからやっと、状況を飲みこんだようだった。
「あんたら、こんなことして――」
「おぼえてろよ、双子野郎!!」
ソウの言葉をさえぎりながら、六年生たちは暴言にもなっていない捨て台詞を吐いて逃げていった。職員室から降りてきたらしい教師が、サンダル履きでこちらへ走ってくるのが見えた。
*****
「本当に、申し訳ありませんでした」
「……でした」
蓉子に後ろ頭を押され、多魔子もぎくしゃくと頭を下げる。夢儀の家の玄関先だった。
あがっていって、という夢儀の母、茉莉の言葉を受けず、蓉子はひたすらに頭を下げた。多魔子は上目づかいに、茉莉の隣に立つ夢儀の様子をうかがう。口元は確かに腫れているが、絆創膏を貼られただけに見える。でもたぶん、これからもっと青くなったり黄色くなったりするのだろう。
「いえいえいえ、夢儀が勝手に飛びだしたって話ですから。六年生の親御さんからも謝っていただきましたし、そもそも、多魔ちゃんが悪いわけじゃないですから」
「いいえ、うちのが悪いんです。考えなしで、夢儀くんにケガまでさせて」
あのあと夢儀は病院に連れていかれ、今日は学校を休んだ。
「あ、忘れてたけど、夢儀に学校のプリントあずかってるんだった。うちに置いてきちゃった」
親同士の会話の合間に多魔子は急に思い出し、勢いよく頭をあげた。蓉子に小突かれる。多魔子とやっと目の合った夢儀が微笑む。茉莉も笑いをこらえているかのようだった。
「ああ、うん。ぼく、もらいにいくよ、多魔子んち」
ほっとした声音で夢儀が言い、茉莉のほうを、いいよね? というふうに見た。茉莉がうなずき、多魔子と夢儀は駆け出す。
「ねえ、蓉子さん。それより、学校で噂を聞いてきたんだけど、ほら、あそこの大規模修繕工事中のマンションでね……」
立ち話の親たちを置き去りに、多魔子と夢儀はいつものダイニング・キッチンに飛びこむ。
「おや、いらっしゃい。飴ちゃん、食べるかい」
キッチンには多魔子の祖母、ウメが割烹着姿でしゃんと立っていた。何やら木べらでフライパンの中身をこねている。
ウメは多魔子の祖母ではあるが、蓉子の母ではなく、姑だ。なぜ、嫁と姑だけがこの家に取り残されているのか。答えはごく単純、多魔子の父がすべてを捨てて逃げたからだった。それ以上の事情は、多魔子にはあきらかにされていない。
隣家でも、茉莉がひとりで夢儀を育てている。この袋小路に、大人の男はいない。
「食べる食べる!」
多魔子は椅子の上に置きっぱなしにしていたランドセルの中身をあさりながら答えた。夢儀にはちょっと端の折れたプリント類を押しつける。
いただきます! とふたりは立ったまま、ウメが包丁で切り分けたばかりの飴をほおばった。
「夢儀、口の中、平気なの?」
ん、と夢儀は顔をしかめる。口の周りは、飴にまぶしてある謎の粉で真っ白になっていた。顔を傾け、傷ついていないほうの頬を下にして味わう。多魔子もつられて体が傾く。ふたりの口の中に、人肌よりもあたたかく、素朴な砂糖の甘い味が広がった。
「歯医者で手当してもらったから、だいじょうぶ」
「歯は?」
「レントゲン撮ってもらったし、いまのとこ平気っぽい。ていうか、こっち側、まだ乳歯だから」
後半は飴のせいか、もごもごと夢儀は言う。
「もしもこれから、歯の根元が黒っぽくなってきたら、歯の神経が死んでるってことになるらしい」
「こわ」
多魔子はまな板のうえに次々と切り分けられていく飴にもうひとつ、手を出す。
「ちょっと口の中、見せてみ」
飴をひとつ食べ終えた夢儀は、素直に口を開ける。ただ、あまり大きくは開かないらしい。
「うちより赤い」
「それはわりと昔から」
「ふうん、わからん」
多魔子はすぐに検分を諦めたが、
「でも、何かあったらすぐに教えて。今度はうちも、いっしょに病院行くよ」
と言った。夢儀は笑ってもうひとつ、飴に手を伸ばす。
「すっごくおいしい、おばあちゃん、ありがと」
けれどひとたび作業に夢中になったウメの耳には入らない。
「あとさ、さっきさ、夢儀のお母さんが言ってた話、聞いた?」
「なんの話?」
「ほら、工事中のマンションがなんとかって」
「騒音?」
「たぶんちがう」
じれったく多魔子は言った。
「ちらっと聞こえたんだけど、あの工事中のマンション、人が増えたり減ったりするんだって!」
まさか、と言いかけた夢儀をさえぎり、唐突にウメがちり紙で夢儀の粉だらけの口元を拭う。
「おばあちゃん、痛い」
ウメの割烹着のポケットには、丁寧に角を合わせて折りたたんだちり紙がいつも入っている。ウメは夢儀の顔をおさえ、かまわずぐいぐいと拭いた。
「ばあちゃん、夢儀、いま、口のとこケガしてるんだ」
多魔子が、ほら、と夢儀の口元の絆創膏を示す。
「おんや、」
ウメは初めて気が付いた声を出す。
「あんたたち、絆創膏のおかげで、見分けがつくようになったね」
多魔子と夢儀は顔を見合わせた。
***
「やられたよ、おばあちゃんが」
小窓の鉢植えは下げられ、シフォンケーキは完売だったはずだが、蓉子は渋い顔をしていた。
「ばあちゃん、どうかしちゃったの」
物騒な言葉に多魔子が振り返る。いまさっき家の前で分かれたばかりの夢儀はまだ来ていない。
隣の和室は、多魔子が廊下を歩いてきたときには戸が閉められていた。テレビの音が中から聞こえてきて、そういうときにはウメが邪魔をしてほしくないのは知っていたから、そのまま声をかけずに通りすぎたのだ。
「玄関にさ、新しい消火器あったの、見た?」
そんなのあったかな? 多魔子は首を横に振る。蓉子は洗い物の手を休め、多魔子のそばにきて声を低めた。和室のテレビの音が大きくなったような気がする。ついこの間まで、チー、というニイニイゼミの鳴き声ばかりだったのが、ジリジリジー、というアブラゼミの声におされていくのと相まって、世界の和音が増えたようだった。
「あれ、怪しいからぶちまけてみたんだけど、中身は水だった。おばあちゃん、詐欺にあったんだよ」
「なにそれ、詐欺師がうちにきたってこと?」
「そう、偽物を買わされたの。“消防署のほうからきました”って中年男が言ってたから、うちにあげたんだって」
ふうん? と多魔子は間の抜けた声を出す。張りつめていた蓉子も、やっと少し笑った。
「“消防署のほう”ってことは、“消防署の方角から”きたってことで、まあ、要するに、消防署とはまるで無関係ってことね」
そんなことを考える大人がいるなんて、多魔子には想像もつかなかった。
「こんにちは! 大変! ササハラのおばさんが!」
夢儀がそう言って騒々しく飛びこんでくると、蓉子がうなずいて迎えた。
六年生とのもめごと以来、多魔子たちの放課後の集合場所は、袋小路よりひとつ向こうの路地にある工房跡になった。学校に集合ではないため、自転車が使える。多魔子と夢儀にとっては近所だったが、駄菓子屋に行ったり空き地に行ったりするときのため、一応、自転車に乗っていった。ガレージを改装した何かの工房跡は、長いこと使われていなかったのは確かなものの、何の跡地なのかはよくわからない。鉄くずや、古い工具がそのまま放って置かれていたし、シャッターも半分までしか開かなかった。が、忘れられた跡地は子どもたちに居心地が良かった。使い古しのレジャーシートや毛布、おもちゃのテントなどを持ちこんではキャンプ気分を味わっていた。
「じゃあ、多魔子たちの近所でも、詐欺の人がくるんだ」
赤白青緑黄、五色の目もくらむような縞模様のシートの上に腰を下ろしたモカが言った。文具店の店主で、PTA会長でもあるモカの父の知らない情報はこの辺りにない。
「このへんをまわって歩いてるのかあ。それって団地にもくる?」
ソウが眉を寄せる。どうなんだろうね……と子どもたちはそろって首を傾げる。
「でもね、詐欺師につながる手がかりがあるよ」
多魔子がパーカーのポケットから、何かを取り出して手のひらに乗せ、全員に見えるようにした。四人の頭が寄る。汗と塩素の残り香。今日はプールの授業があった。
それは小さな匣だった。詐欺師の引き取ったあと、玄関先に置かれたままになっていたという。オルゴール、とも違う、もっと白木っぽい、でも、いままでに出会ったことのない柔らかくしっとりした手触りで、表面が毛羽だっているわけではないけれど、例えるなら桃の実を手にしたような心地、気温以上のぬくもりを感じるのはきっと多魔子の体温が移ったせいだ。匣のちょうど真ん中に切れ目が入っているが、ピタリと閉じられ、鼻を寄せてもにおいもしないし、当然、中身をのぞくことなどできない。真ん中から開きそうな見た目をしている割りに、側面のどこにも蝶番がついていないのも不思議だった。唯一、子どもたちにも手を出せそうなところは、上部に飛び出すように付いているスイッチらしき金属部分だ。
「こういうの、トグルスイッチって言うんだよな」
パチパチとそのトグルをいじりながら、ソウが言う。
「それ、なんかがオンになったりオフになったりするんじゃないの」
手を引っ込めて夢儀は言う。
「ふつうはそう」
けれど四人が見守っても、何も起きない。多魔子の手の上、こころなしか取り出したときよりも小さく感じるくらいだ。
「こわれてるのかなあ」
モカが細い指先で匣の尻をちょいと持ち上げて裏側をのぞき見る。
「これが機械じかけなら、中身は電池?」
多魔子が聞いた。
「でも、裏にも電池が入るようなとこないみたい」
「……これ、取りにくるかな」
夢儀の言葉に、三人は黙った。
もし、詐欺師が忘れていったなら、その可能性は大いにある。
「いや、こっちから探す」
多魔子は、手のひらに小匣を包んだ。
もう、ばあちゃんに悲しい思いはさせない。わが家に、無断で、誰かをあがりこませたりしない。お母さんの作りあげたシフォンケーキの魔法を、ケチな詐欺師に台無しになんてさせない。
翌日からの放課後、多魔子と夢儀は自転車で町内を駆け巡った。モカとソウは、賛成はしなかった。子どもだけでそんなことをしないほうがいい、というのが共通した意見で、ふだんは一致をみないふたりの珍しい符合だった。見つけるだけ、追わない、見つけたら警察に知らせる、という多魔子の言い分に、しぶしぶモカも引き下がった。
捨て猫の飼い主となってくれる家を探すように、一軒一軒を回り、こんな小匣を持った男は訪ねてこなかったか、消火器を売りつけようとする男は訪ねてこなかったか、聞いていった。その中で、消火器を売りつける言葉巧みな詐欺師はやはり何軒かを食い物にしていたが、小匣を置いていった家は一軒もなかった。
「少なくとも、その匣は売り物じゃあない、ってことは、わかった」
駄菓子屋のわきに止めた自転車に寄りかかり、多魔子は小匣を片手に凍ったあんず棒をかじっていた。夢儀は相変わらず顔を傾けてかじっているが、口の腫れはここ何日かで引いてきていた。ただし、絆創膏よりはみ出た部分も、青黒くはなっている。ひんやりしたおやつのほうがよかろうという、多魔子なりの気の使いようだった。夢儀が気付いているかどうかは知らない。
「じゃあやっぱり、忘れ物?」
「ひとんちに忘れ物してく詐欺師とか、聞いたことないけど」
あ、と喋りながらの多魔子の口の端からあんずの欠片がこぼれる。それはぽとりと、小匣の上に落ちた。
多魔子はあわてて自転車のカゴの中に小匣をいったん置き、自分の半ズボンのポケットを探った。右にもない、左にもない。どこに入れたっけ?
「あふよ、」
夢儀が口にあんず棒をくわえたままちり紙を差し出した。あひがと、と多魔子は言い、小匣を再び手に取ろうとする。
……が。
小匣のうえに落としたはずのひと粒が、いつの間にきれいさっぱりなくなっていた。どころか、シミの跡すらない。そんなはずはなかった。多魔子は、残りのあんず棒の中身をちゅぅぅうと吸いこむと、ゴミをまとめ、改めて両手で小匣を持ちあげた。裏も横も、六面をすべて確認する。なめらかで、何の痕跡もない。トグルスイッチの横に、確かに、こぼれ落ちたのに。
「おかしいなあ」
多魔子は、パチリ、とオンと思しき方向にスイッチを倒す。相変わらず反応はない。
「秘密基地にもどって、中身を開けてみる、とか?」
とうとう夢儀が言った。ドライバーやらなんやらのひとつやふたつは落ちていたはずだ。
ふたりで顔を見合わせたそのとき、遠くからモカの声がした。自転車を懸命に漕ぎつつ、大声で何か言っている。駄菓子屋のおばさんもおもてへ様子を見に出てくるくらいの叫びだった。
「うちらの~基地に~~……知らないおっちゃんがいる~~~!!!」
*****
セミしぐれの夕空が赤い。夢儀の口の中くらい赤い。
「ほら、ソウが、入り口見張ってる」
三人は秘密基地まで自転車で戻った。モカの指さす先にソウがいた。工房跡の中からは見えない位置に、ソウは陣取っている。三人を見ると、人差し指を一本、唇の前に立てた。
それぞれが自転車を降り、そっと道の端に停める。多魔子は自転車のカゴに入れていた小匣を手に取った。
「どう?」
モカが聞くとソウはうなずく。
「まだ中にいるはず」
「どうする? やっぱり警察に通報する?」
「ううん、その前に、聞きたいことがある」
多魔子が進み出た。やめなよ、とは、夢儀は言わなかった。黙って隣に並んだ。
「ソウ、うちらになにかあったら、大人を呼んできてくれる?」
ああ、とかすれた声でソウが多魔子に答えた。それまではそばにいるから、とモカがささやいた。
シャッターをくぐるとすでに中はほの暗い。
「ねえ、おじさん」
多魔子の声が響く。しばらくは、秘密基地の中の風景に変化はなかった。入り口をまくりあげたままのおもちゃのテント、寝袋、毛布、敷き詰めたレジャーシートの上に出しっぱなしのトランプ、懐中電灯、食べかけの駄菓子の袋。
ほんとうに、だれかいる? と夢儀が多魔子の耳もとに聞いた。暗さにやや目が慣れてくる頃、動いた、と多魔子が言う。テントの奥、寝袋だと思っていた塊の一部が、確かに動いた。しかし、多魔子の体がビクリとしたのはそのせいではない。手のひらの中の小匣が脈動したように感じたからだ。どちらに気を向けるべきか判断のつかないうちに、
「よう、お邪魔しとるよ」
と男の低い声がした。別に脅すような調子でもない、まるで久しぶりに会った親戚の子らにするような挨拶だった。が、多魔子と夢儀の体は震えあがった。ふたりは袋小路の育ちだ。孤独な女たちの連帯の中に育まれ、それ以外の環境をよくわかっていない。大人の男は学校の教師くらいしか身近に知らない。
多魔子はそれ以上の口も利けず、ただ手のひらを前に差し出した。男に見えるように。
んん? 男は咳払いともなんともつかない唸りをあげ、寝袋から出てくる。多魔子と夢儀は自然と一歩さがった。シャッターの外のソウとモカが身じろぎするのがわかり、夢儀は、まだ、というように振り返らず片手だけで後ろを制した。
「あー、おまえら、ソレに餌やったか」
だが男の台詞は予想だにしないものだった。
「そいつ、生きてるぞ」
そいつ、の指すものを瞬時に理解した多魔子の手のひらから小匣がこぼれ落ちそうになり、夢儀が手を当てて支えた。男は尻をにじるようにして移動し、あくびをひとつすると、テントから出て立ち上がった。思いのほか上背があり、だが、若いのか年がいっているのか、子どもたちにはよくわからない。夏だというのに薄手のしわだらけのコートに身を包み、染めているのか白髪なのか、短く刈り込んだ横の髪は色が薄く、頭頂部に向かって黒くなる。顔に目立ったしわはないが、顔色は悪いように思われた。無精ひげが生え、唇が乾いている。
「しょっぱいのはあまり、喰わんようでなあ」
男はタニカワ、と名乗った。それから、喉が渇いた、と図々しく言うので、夢儀はさきほど駄菓子屋で買ったゼリー飲料をポケットからねじりだして渡した。なんで、と唇の形だけで言う多魔子に対し、夢儀も青ざめている。その間にも多魔子は、手のひらの中の温度が高まるのを感じていた。両の手で小匣を守るようにして包む。背筋は冷たく緊張しているのに、多魔子は全身に汗が噴き出しているのがわかった。
「あ、おまえら、双子?」
「ちがうけど」
「ちがうよ」
弾かれたように多魔子と夢儀の声が重なる。だがタニカワはろくろく聞いていない。ラムネの瓶を象ったゼリー飲料を貪り始めた。
と同時に、喉のつかえが取れた多魔子はタニカワに質問を浴びせた。
「生きてるってどういうこと? どうしてこの匣をうちに置いていったの? おじさんは詐欺師なの? どうしてうちのばあちゃんをだましたの? 他にもそういうことをしてまわってるの?」
「なんだこりゃ、余計に喉が渇くじゃあねえか、甘ったるくて。まったくよ」
タニカワは人の質問に答えないうえ、子どもから取り上げた駄菓子に文句を付ける。
「しかし、こんなもの、おまえらんとこじゃまだ現役なの?」
こんなもの、と言いながらタニカワはゼリー飲料の容器の尻で多魔子たちのほうを指した。多魔子も夢儀も意味がわからずに黙る。
「ま、いいや。そこの、後ろに隠れてるふたりも出てきな。いいこと教えてやるぜ」
子どもってのは、大人に内緒でこっそり生き物飼うのが好きだろう? まあ、聞いてけ。
というのが詐欺師・タニカワの話の始まりだった。
この世には、おまえらの知らん世界がある。とタニカワは言った。タニカワはその「知らん世界」から来たというのだ。詐欺師なのはそのとおりで、多魔子たちの知っているこの世の犯罪者たちと違うのは、いくつもの「知らん世界」を渡り歩きながら詐欺行為を働いているという点。その過程で、小匣をさらってきたと言うのだ。小匣のいた世界はどこもかしこも匣だらけの世界だったという。
「気味が悪かったな。匣しかなくてよ、けど、俺にはすぐにそいつらが生きてるって、合点がいったのよ。互いになんか話しとるし、共喰いしとるしな」
「共喰い!?」
小匣はいま、五人の座る真ん中に置かれていた。そのわきに懐中電灯をつけて縦に置き、互いの顔はなんとか見える。子どもたち四人の視線はいっせいに小匣に向けられた。
「匣同士が喰いあうと匣がでかくなる。こいつも喰われるすんでのところだったが、かっさらってきた」
「なんで?」
ソウの疑問はもっともだった。
「なんでってそらぁ、おまえ……ネタになると思ったからよ、商売のな」
「売ってるの、偽物の消火器じゃん」
存外に怒りを込めた語気で夢儀が言ったので、多魔子のほうが夢儀の服の袖を引いた。相手は詐欺師だ、同級生でも上級生でもない。
「なんだ、おまえんとこのじいさんかばあさんだったのか。みんな喜んで金出したよ。安心を買えたんだから、いいじゃあねえか」
タニカワはへらりと笑う。
「よその世界から来た、とか、あたしたちが子どもだと思って適当なこと言わないで」
その顔にムッとしたようにモカが口を開いた。
「おまえたちが子どもだと見込んで、本当のところを話してやってるのさ。こんなこと、大の大人に話してみろ、ん? こっちの自由は保証されないだろ」
タニカワはレジャーシートの上に落ちていた駄菓子の袋をあさり、中身を勝手に口に運びながら言う。
「どっちにしろ、警察に捕まったら自由なんてないのに」
夢儀がつぶやくが、そのつぶやきをタニカワが拾った。
「アホか、おまえ、アレだ、そのへんの警察なんぞ、怖かあねえよ。ほんとにおっかねえのは……」
「じゃあ、おじさん。証明できる? どっか他の世界から来たって」
多魔子が身を乗り出す。
「できる」
タニカワは膝を打った。芝居がかっている。駄菓子のクズが散った。
「そこでこいつさ」
ずずいっと小匣を子どもたちのほうへ押しやった。
「こいつは好みがうるせえんだ。面倒見切れなくてな。おまえたちなら、好きだろ、ほら、アレだ、生き物係」
***
小匣を家まで持ち帰ったのは、多魔子と夢儀だった。
「ちょっとおばあちゃんを病院に連れてってくるから。晩ご飯はテーブルの上!」
遅く帰ったのを叱られると思い身構えた。が、蓉子は入れ違いに鍵をジャラジャラと手に取り、車でウメを連れて出ていった。この夏幾度目か、ウメが胸が苦しいと言い出したのだ。
「ばあちゃん……」
隠すまでもなかった小匣を胸に抱え、多魔子はうつむく。
おばさんに任せるしかないよ、きっとだいじょうぶ。そんな言葉、多魔子に掛けられるだろうか。夢儀もうつむきそうになる。が、白いレースの食卓カバーの被せられた中に、当たり前のように子どもふたり分の食事が用意してあるのが見えた。多魔子と夢儀のいつも使っている茶碗が伏せられ、青菜のおひたしに焼き魚、肉じゃが、それらの端には、蓉子が毎日焼いているシフォンケーキをカットしたものが添えられている。
小匣を抱える多魔子の手に、夢儀はそっと手を重ねた。
「おばさんが用意してくれたの、食べて待ってよう。それに、この子にも何か食べさせなきゃならないんだよね?」
「夢儀、あの、タニカワとかいう人のこと、信じてるの?」
「言うことぜんぶはともかく……」
そこで、わああああ、と多魔子が妙な声をあげた。その手の中に、すでに小匣はない。落っことしたのか、と夢儀は床を見る。ない。
「多魔子、」
夢儀の視線が多魔子の視線を追い、テーブルのうえに注がれる。小匣がいたのは、食卓カバーの中だった。
匣の蓋が……天面がわずかに開いているように見える。
多魔子と夢儀は目を見合わせた。夢儀がうなずき、食卓カバーにそぉっと手を伸ばす。多魔子は流しのわきに干してあったざるを構えた。
せえの。
〈おいしいね〉
ふたりの耳元に〈声〉が聞こえる。夢儀が食卓カバーを外したのと同じ瞬間だった。
「シフォンケーキ、食べてる」
多魔子の、ざるを持った手から力が抜けた。夢儀は食卓カバーを床に落とした。
〈おいしいよ、ありがとう〉
小匣は傾いていた尻をパタリとテーブルにつけ、オンの位置になっていたトグルスイッチをパチリと元に戻した。匣の天面の割れ目はまた、ほとんどわからなくなる。が、ひとたび生き物だと認識すると、まるで様子が違って見えた。六面の肌に血の気のさすようだった。小匣は得意げに、テーブルのうえでくるくると回ってみせた。天板に匣の底面がついているわけではなく、ほんのわずかに浮いているようだ。
「あなた、名前は」
〈******〉
しかしそこは多魔子にも夢儀にも聞き取れない。小匣の声は本体から聞こえるのではなかった。イヤホンを耳につけたように、本当の耳元で聞こえた。
「うちがつけても、いい? 名前、よべないと不便だから」
多魔子は人間以外の生き物と暮らすのが夢だった。母にはとても言い出せなかったが。匣なら、毛も散らないし、いいんじゃない?
***
「コバコが待ってるから、もう帰るね」
「え、帰り、駄菓子屋よってかないの」
「うん、だってコバコ、うちがいないと、ただの匣のふりしてるからなんも食べられなくてかわいそうなの」
更衣室からでてきた多魔子とモカの会話を横に、夢儀とソウが肩をすくめる。濡れ髪を弾ませた多魔子は、夢儀さえ置いて先に校門を出ようという勢いだ。
ジージーニンニンミンミンミンミ――……
セミたちの競演すさまじい夏休みのプール裏は、子どもたちの声すらかき消されるようだった。ソウは日に焼けた褐色の二の腕に止まった蚊を手のひらで打つ。夢儀は腕も背も、ただ赤かった。赤くなるたちなのに日焼け止めを塗るのを忘れてきた。口元にはまだ、ふやけた絆創膏が貼ってある。
「多魔子、どうしちゃったんだ?」
「あの匣にさ、コバコって名前付けて飼ってるんだ」
「あれ、本当に、生きてた?」
ソウはまだ信じられないようだ。それでも夢儀が真剣な面持ちでうなずくから、それ以上は言えない。
「ぼくは、コバコは、元の世界にもどしてやったほうがいいとおもう。多魔子には悪いんだけど」
「本人……本体はなんて?」
夢儀は首を横に振る。
「まだ子どもみたいで、うまく話ができない。でも夜になるとカタカタ鳴って、何かを呼んでるみたいって、多魔子が」
こっちもあっちも子どもで、なんだかおかしな話だったけど、そうなのかもしれない。だったら大人がいてくれれば、どうにかなるのか? 夢儀には、あのいいかげんそうな、そして、いま考えてみれば、ていよくコバコを押しつけてきたとしか思えないタニカワの顔しか浮かばなかった。いやいやいや、詐欺師にたよってどうする。
「もういっぺんだけ、のぞいてみるか? 秘密基地」
けれど、ソウが言った。じつはあの後、一度だけ、子どもたちは基地をのぞきに行った。食い散らされた菓子の袋が片づけもせず散らばっているだけで、悔しい思いをした。タニカワはもうどこか他の町へ移動したのだろうか。
雲行きが怪しかった。行くなら早くしないと、夕立に見舞われるだろう。
「多魔子、モカ、今日は先、帰ってて。そういやプール掃除当番だった、おれたち」
ソウがいきなり大きな声で言って、夢儀の肩に手を掛ける。いつもの多魔子なら、あやしい、とすぐさま言うだろう。嫌な汗が出た。けれど今日の多魔子はうわの空だ。
「そうだっけ? 早めに片づけなよ」
モカが軽く流してくれて助かった。ソウと夢儀は目でうなずき合う。
学校から自転車なしで出発となるとそれなりに時間はかかる。多魔子とモカの背中を見送るやいなや、プールのある裏手から草が生え放題の土手をくだる。それから、ふたりにかち合わないよう、いつもの通学路とは違う道を通って走った。サッカー部のソウの脚は速い。多魔子も身が軽く、男女問わず学年でも速いほうだったが、夢儀はまたそれとは違う感じを受けた。多魔子は吹き抜ける風だ。ソウの駆ける速さはチーターのような動物の筋肉の躍動を思わせた。それでも夢儀は遅れずについていく。
「夢儀も部活入れよ」
ソウは走りながら笑った。
***
「おっさん」
ソウはいきなり秘密基地に踏み込んだ。タニカワが悪びれもせずにまたその場にいることに、夢儀はある種の助けを求めにきたというのに、戸惑いを隠せなかった。
「あの匣、」
「おーおー、おまえたち。じゃりボーイズのほうか」
タニカワは目を細めて逆光の中、ふたりの顔を確かめる。なんて? とソウは夢儀を振り向くが、夢儀も肩をすくめる。
「アレは返品不可だぞ」
タニカワに先手を打たれる。
「そうだ、おまえら、ほれ、アイス買ってやるぞ。金ならある」
「お金があるならなんでこんなとこで寝泊まりしてるんですか」
ぼろコートのポケットを探るタニカワに、夢儀が言った。
「金はあっても信用と身分がないからだな」
あっさりとタニカワは答えた。ソウが眉根を寄せる。
「子どもとつるもうなんて、悪人だ」
「そうか? そうかもな、おまえらがそう言うんなら」
タニカワは無遠慮に声を立てて笑う。基地の中にその声は嫌でも響いた。夢儀は負けずに言った。
「コバコを、もとの世界にもどしてやりたいんです。つまり、その、あの子がそう望んでるなら、っていうことですけど」
「あいつ、喰われるところだったんだって言ったろ。むしろ助けてやったのに、」
そのとき、タニカワの言葉尻にかかるように、近くに雷が落ちた。秘密基地の入り口は半分ほどシャッターが降りたままだったので、中から空模様はうかがえなかった。瞬間、子どもふたりは飛び跳ねた。シャッターがびりびりと揺れている。幕の降りるように外がフッと暗くなった。互いの表情を見失うほどに、基地の中には明かりが入らない。今日はタニカワは懐中電灯をつけていなかった。
コバコ。多魔子とコバコはどうしているだろう。案外と怖がりなコバコ。暗いのも、大きな音も、得意じゃない。夜寝るときには、多魔子の勉強机の上のライトをつけっぱなしにしているという。大きな音がすると匣全体が震える。これまでどうやって耐えてきたのか、多魔子にも夢儀にもわからないくらい、コバコはさまざまなことに反応を示した。
〈むぎ〉
それは多魔子の声ではなかったけれど、夢儀の目には、ポケットを四角くふくらませた多魔子が和室で寝ているウメの枕元に吸い飲みを運んでいるのが見えた。多魔子はそのまま吸い飲みをそっとウメの口元に近づける。はずみで服のポケットから、ぽろりとコバコが転がり出る。
〈たまこ〉
〈おばあちゃん〉
〈おかあさん、シフォンケーキ〉
〈でもここにはないものもある〉
〈たべる、たべられるのは、わるいことじゃない〉
コバコだ。夢儀は暗がりに目を泳がせた。見慣れたシルエットはソウのもの。見慣れぬ大人のシルエットは、タニカワ。
見えているのは、コバコが繋いだぼくの目の裏にだけ。
半降ろしのさびついたシャッターに、何か固く細かいものが次々と当たる音がする。それが雹だと気が付くのにずいぶん時間がかかった。だんだんと目が慣れてきて、隣にいるソウの顔も、向かいに立つタニカワの顔も見えるようになる。
「タニカワ、さん。別の世界って、どうやって行くの」
*****
「コバコ」
蓉子は、「多魔子」と言うのと変わらない調子でコバコを呼んだ。
〈あい〉
とコバコは返事をする。うまく発音できない音もあるらしく、ときおり片言になるが、コバコは恐ろしいスピードで正しく言語を学習していた。“舌”を出して器用にトグルスイッチをオンにし、蓉子の手からシフォンケーキをすくい取る。多魔子と夢儀はもう慣れたが、蓉子とウメは食い入るようにコバコを見つめた。それはシフォンケーキのたまご色の舌だった。目で見る限りは霞のような質感で、自在に伸縮する。ふと、ウメが布団の中からコバコに手を伸ばした。長年仕事をし尽くし、枯れたウメの手の甲に、コバコの舌が伸びる。
「あらまあ、絹みたいな舌触りだねえ」
ウメはたいそう喜んだ。多魔子と夢儀も安堵の息を吐く。和室には、蓉子、多魔子、夢儀、ウメ、コバコがそろっていた。
「多魔子はこの子と暮らしたいのね」
蓉子の言葉に多魔子がうなずく。
「夢儀くんはこの子を元の世界に帰してやりたいのね」
夢儀がうなずく。
多魔子の目から、涙があふれた。
「お母さんも、うちのほうがまちがってるって、言うんだ」
「コバコちやんに、聞いてみないとね」
こたえたのは、ウメだった。もっともだ。夢儀が多魔子の涙をぬぐい、コバコは蓉子の膝の上で踊った。
「もしもコバコが帰りたいなら、ぼくが送っていく」
「なにそれ、夢儀」
多魔子はびしょぬれの顔で言った。はたと顔をあげたのは蓉子だ。
「夢儀くん、送っていくって、その話、誰に聞いたの」
夢儀は口元に手を当てた。絆創膏に触れるふりをする。コバコはただ、拾ったということにしてあったのだ。あのケチな詐欺師の顔が浮かぶ。
「コバコは……どう……したいの……かな」
夢儀の声が詰まる。コバコはもう一度、蓉子の手のひらを舐めた。それから蓋を閉じ、くるくると回転する。
〈おむかえがくるよ〉
ピンポン、と玄関のチャイムが鳴り、そのタイミングから多魔子と夢儀はビクリとして体を寄せ合う。蓉子がコバコを手にしたまま静かに立ち上がった。ウメにはチャイムの音が届かなかったかもしれない。布団の中で再びうつらうつらとしはじめる。
でも、夢儀のお母さんかもしれないよね、そう、きっとそうだ。お仕事が終わって、夢儀を迎えにきたんだよね? 多魔子がささやき、けれど夢儀はうなずかなかった。
「どうぞ、開いてます」
廊下に出た蓉子が言った。
「いえ、このまま。ここで失礼します」
玄関先から声がして、多魔子と夢儀が和室からのぞいた。タニカワの声ではない。もっと低く、よく通る声だった。蓉子が玄関の戸を開ける。
「追っていたのはこの男と例の匣だけですから」
身をかがめるようにして、大きな男が玄関口にいた。眼鏡に柔らかな顔立ちだ。けれど、目は鋭い。タニカワとは違い、きちんとしたスーツに身を包んでいた。短髪で、年若い大人の男。
「この子がお迎えがくるって言ったのは、あなたのことだったんですね、ヤマシタさん」
「あの匣、しゃべるようになったのか」
ヤマシタ、と蓉子が呼んだ大男の後ろから、タニカワが顔を出す。
「あんたが騙したうちのおばあちゃん、いま、寝込んでいますけど。このままここの警察に突き出してもいいのよ。タイムパトロールへの引き渡しじゃなくね」
蓉子がにらむとタニカワは下唇を突き出して頭を引っ込めた。ヤマシタはタニカワの肩のあたりを軽く一度叩いてそれ以上の無駄口を制すると、スーツの胸ポケットから取り出した手のひら大の薄く四角い端末に指を滑らせる。多魔子と夢儀には、ヤマシタが何をしているのかはわからない。
「時間です」
ヤマシタは蓉子に向かって手を差し出した。
「お引き渡しください」
待って、と子どもたちが飛びだした。そこだけは意味がわかったからだ。
「娘さんと……息子さん? データにない」
「娘だけです。こちらは隣の家の子」
蓉子がコバコを抱えていないほうの腕を広げ、ヤマシタから多魔子と夢儀への視線をさえぎるようにした。そしてこう続けた。
「引き渡しに際して、ひとつだけ、お願いがあります」
「なんです」
ヤマシタは端末から目線をあげた。
「子どもたちに見送りをさせてやってほしいの」
***
遠くに聞こえるヒグラシの声の中、タニカワに劣らず子どもたちも浮かぬ足取りだった。
大規模修繕工事中のマンションまで歩いてあと少し。濡れたアスファルトは、足を引きずって歩くとやたらに滑る。
「ねえ、タニカワ、さん」
多魔子は隣を歩くタニカワに小声で呼びかけた。コバコはまだ、多魔子の手の中にいた。いまのところ、斜め後ろを歩くヤマシタが会話を制止してくる様子はない。
「もういいよ。呼び捨てでも、おっさんでもさ」
タニカワはため息をつく。
「ほんとにエレベーターなんかで……? またウソついてない?」
「そりゃあ、それこそ、後ろのおっさんに聞いてみな。あいつの言うことなら、おまえらも信じるんだろ」
「おっさんではないが、お答えしよう」
距離を保ったまま、ヤマシタは言った。
「キミたちにもわかるように説明すると、要するにハコつながりだな」
「エレベーターの箱と、コバコの匣、とかそういう?」
夢儀が言った。
「そう、キミは察しがいいな」
意味わかんないだけど、と多魔子が夢儀に言い、夢儀も、ぼくもわかんない、と言ったが、大人たちは聞かなかったことにした。
「まあ、いつでもどこでもつながるとは思わないほうがいいし、ふつうはどこへも移動せず、生まれ落ちた世界でそのまま生きて死ぬのがいいだろう。俺に世話をかけないようにな」
「おじさんは、お母さんと、知り合い?」
ヤマシタは一瞬目を伏せ、それから、唇の前に人差し指を立てて見せた。武骨な手に似合わぬ仕草だった。
「キミは知らなくていい。この世界にいたいなら」
「コバコは? コバコはどうなるの」
「もちろん、元の世界へ返す。あっちのおっさんを牢屋にぶちこんでからな」
そう……と多魔子は肩を落とした。多魔子にも、夢儀にも、どうすることもできなかった。
「さみしくなるな」
タニカワが言った。
「なんでお前が」
ヤマシタが呆れた声を出す。
「こちとら出会いと別れのつらさってぇもんをよぉく知ってるのよ、どっかの冷血漢と違ってな」
「よく言う。俺は仕事、お前は犯罪者。それだけだ。子どもたち、悪い大人になるなよ」
多魔子と夢儀は反射でうなずいた。コバコも中身がくるりと回るのがわかった。
「さ、ここから中へ」
サッと辺りを見回したヤマシタは、シートのかかった裏口からマンションの内部へまずタニカワを入れた。続いて子どもたちの背を優しく押す。
暗い。
そのまま左に曲がって、というヤマシタの声だけを頼りにする。
「おばけやしきみたい」
「やめてよ」
夢儀の言葉をすぐに否定するが、多魔子にも覚えがあった。
そうだ、文化祭でどこかのクラスがやっていた、おばけやしきに似ている。外からの光がさえぎられた空間。ここはホールなのか廊下なのか、ヤマシタの手にある端末が光るまではほとんど何も見えなかった。
「きた」
ヤマシタが端末の光を壁に当てた、かと思うと、そこはエレベーターホールだった。ふっと上からエレベーターが一台降りてくるのが見えたからわかったのだ。中が煌々と明るく、人は乗っていない。ヤマシタが端末を当てたのは、操作ボタンの部分だった。
「見て、多魔子」
夢儀が多魔子の肩を痛いほどつかむ。何かあってもふだんならこんな驚き方はしない。でも、このときばかりは多魔子も固まった。
エレベーターの操作ボタンが、左右をあらわしている。上でも下でもない。
ヤマシタが右のボタンを押すと、ちょうどエレベーターは止まった。無言でこちらへ差し出された大きな手のひらに、しかし多魔子はどうしてもコバコを渡せなかった。タニカワときたら、開いたドアからもう勝手にエレベーターに乗りこんで素知らぬ顔だ。
〈たまこ〉
〈むぎ〉
〈シフォンケーキ〉
〈******〉
「え、なに、コバコ、最後、何て言ったの」
だがコバコは多魔子の手のひらから飛び立った。つられて多魔子の足も前へ出る。
「ムギぼうず、タマコがこっちに飛び乗らねえように抑えときな」
いつの間に名前を覚えたのか、タニカワがそう言った。ヤマシタは顔を伏せてちょっと笑った気がする。
夢儀は多魔子の手を取った。
「規定に則り十二歳以下の者の記憶は消さない。それでも他言は無用だ。それだけ言っとく。じゃあな」
多魔子が夢儀の手を強く握り返す。コバコはくるくる回転しながらヤマシタの手に収まった。多魔子の手にあったときよりも、小さく、小さく見える。
コバコ。
飼いたいなんて言ってごめんなさい。
コバコはコバコで生きていたのに。
エレベーターの扉がゆっくりと閉まり、そして、ふたりとひと匣の姿は見えなくなった。
***
翌日は夏休み中の登校日だったが、濡れ髪を乾かさなかった多魔子と夢儀は風邪を引いたらしい。元気になったウメは引き換えにコバコのことを何も覚えていなかったが、和室に布団を並べて敷き、多魔子と夢儀の看病をした。この暑いのに熱が出るのはつらかったが、ウメの用意してくれるぶよぶよのゴムくさい氷枕が多魔子は好きだった。熱は昼にはさがったものの、ふたりはすぐに起き上がる気になれずごろごろしていた。
「今日は茉莉さんも早く帰ってきてくれるから、もう少し辛抱ね。うち、せんべい布団しかなくってねえ」
蓉子は廊下を往き来しながらシフォンケーキを次々と焼いては冷まし、型から外し、忙しそうにしていた。その様子を音楽のように聞くのは心地よかった。
「夢儀、口のとこ、なおったねえ」
「ああ、あざ?」
だるい体を横たえたまま、ふたりはときおり少し言葉を交わした。昨日、すっかりふやけてしまって以来、夢儀はもう絆創膏を貼っていなかった。何度目か、ウメが額の冷やしタオルを替えにくるのに、ふたりは甘える。
「おんや、絆創膏がなくっても、見分けがつくようになったね、あんたたち」
多魔子と夢儀は顔を見合わせた。それからウメは氷を作りにキッチンへ向かった。入れ替わりに蓉子が入ってくる。
「ほら、もし起きられたら、ふたりとも体起こしてみて。今日は新作を焼いたの」
コバコが舌で教えてくれたのよ。
蓉子は多魔子と夢儀の間で声をひそめて言った。丸い木皿に載せられた真四角のカステラのようなものは、ふわりとよいにおいを漂わせている。
「匣型カステラ。売ってるカステラとは全然違うものだから、とにかく食べてみて」
蓉子は木皿の上でナイフを入れる。切り分けてもらった温かなそれは、おしぼりで拭いた手に収めると、スイッチのついていないコバコそのもののようだった。シフォンケーキとは違い、すぐに型から外しても腰が折れたりはしないので、焼きたてをそのまま供することができる。
「材料も配合も、ほとんどいつものシフォンケーキと一緒なのに、不思議ね。手順が違うだけなの」
「いただきます」
朝から何も食べられなかった多魔子も夢儀もかぶりつく。風邪引きの舌にもわかる、その絹のような食べ心地。シフォンケーキよりも少しだけ密な生地は、柔らかなだけでなく、はね返る弾力がある。蓉子の差し出した冷たい牛乳と一緒になって、胃に優しく落ちていった。
〈わたしたちは、ぜんぜんちがうけど、どちらもおいしい〉
「おばあちゃんにも、茉莉さんにも、モカちゃん、ソウくんにも、食べてもらおう。ふたりはあとでお見舞いきてくれるかもね」
皿とコップを下げに蓉子が行ってしまうと、夢儀は言った。
「これからぼくたちも、ちがうものになるのかなぁ。シフォンケーキと、コバコのカステラみたいにさ」
「なにいってるの、あたりまえじゃん」
指をなめながら多魔子は言った。夢儀には少し、意外だった。
「あ、うち、熱が下がったら、ササハラのおばちゃんとこに、髪切りに行こ」
「ならぼくは、もうちょっとだけ、伸ばしてみようかな」
夢儀は耳にかかった髪をかきあげる。多魔子は一瞬、目を丸くするが、すぐに笑った。
「いいんじゃない? きっと似合う」
【了】
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