光の文字で綴れ

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梗 概

光の文字で綴れ

 ルチェサラは祭りの衣装に丹念に刺繍を施していく。一番上には母が刺した誕生の喜び、子供のまだたどたどしい運針はやがて滑らかに細かく。糸が綴るのは彼女の人生だ。
 母の母から、祖母の祖母から、刺繍の技は受け継がれてきた。小さな幾何学模様、様式化した花や人物、色とりどりの糸でかがられる模様全てに意味がある。そして真の物語は、裏にあった。女たちの秘密は、刺繍の裏の糸運びによって密やかに伝えられてきた。
 子供を身ごもりたくない時に飲むべきお茶は。
 夫が妻に手を上げた時、不貞を働いていた時、その上着に刺繍するべき紋は。
 それは言葉ではない言葉、男たちの知らないもう一つの世界。

 その日、ルチェサラはきのこを採りに森に入った。何度も政変を経た国は貧しく、小さな村の生活はいつもぎりぎりだ。きのこや野草など、採れる物はなんでも活用して、少しでも腹を満たしたい。
 森の中には、村民たちがカルタ(骨牌)と呼ぶ不思議な存在がいた。陶器のような滑らかで冷たい体、人間なら顔に当たる部分は塗り分けたような白と黒の模様。人に干渉してくることはない。いつも遠くからただ見ている。この星に移住した時から、人とカルタは相容れず、交わらず、共存していた。だけど足を滑らせ崖から落ちかけたルチェサラは、咄嗟にカルタの手のような部分にしがみついてしまう。カルタの四肢に切れ込みが入り、そこから金色の光が漏れる。

 次の日も、カルタはそこにいた。ルチェサラが森に入ると、どこからともなくカルタが現れる。何をするでもなく、ただそこに佇んでいる。ルチェサラは迷いながらも、リボンに刺繍を施しカルタの前に置いて去った。次の時、カルタはリボンを保持し、ルチェサラに向かって差し出した。初めてカルタが見せた明確な意思表示だった。ルチェサラはカルタの前肢にリボンを結ぶ。
 カルタと森の中で過ごしていることをルチェサラは誰にも言わなかった。頑固で粗暴な夫、スヴャトゴールの支配する家から逃れるこの時間だけ、ルチェサラは自由になれる。
 その夜、スヴャトゴールの乱暴はいつになく激しかった。ルチェサラがなかなか身ごもらないことを外でからかわれたらしい。泥酔したスヴャトゴールは、ルチェサラがもう動けないこと、もう少しで死んでしまうことにも気づかない。痛みの中で、ルチェサラは幻を見る。カルタが家の戸口に立っている。リボンを巻いた手を伸ばし、夫を抱き抱える。硬い陶器のように思えた体の中に、スヴャトゴールが飲み込まれていく。意識を取り戻した時、そこにいたのは別人のように大人しくなったスヴャトゴールと、カルタに結んだリボンだけだった。

 ルチェサラはリボンに使った糸をほどく。刺繍の中にカルタのことを刺していく。いつの間にか糸はカルタのあの金色を帯びていた。スカートの裏に金色の糸で、ルチェサラは彼女とカルタの物語、虐げられているものたちへのメッセージを記す。

文字数:1200

内容に関するアピール

選択課題 
 2018年第9回  「小さな世界を見せてください」
 2019年第8回    「ファースト・コンタクト(最初の接触)」

 ブルガリアで見つけた古い生地を使ったスカート。
 メキシコのオアハカの、”Hazme si puedes”(出来るならやってみなさい)という名前の細かな模様。
 女性達が施す精緻な刺繍を見ながら、いつかこれを物語として書きたいな、と思っていました。

 女の人だけが継承できる文化、秘密、言葉、そんなものがあるのかもしれない。糸と針が綴る小さな世界の後ろには、実はとても大きなものが隠れているのかも。

 で、また糸のお話しになっちゃいました。きのこも出てくる……被りませんように。

文字数:295

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光の文字で綴れ

      柿村イサナ

 

 

 

 

 

 ルチェサラは光をもたらす者と言う意味だよ、お前の人生にたくさんの光がありますように。
 そう願った母親は、ルチェサラが子どもの頃に病で死んだ。彼女の人生が光に満ちているわけでもないし、かといって不幸でもない。そう、こんなものだ。女として生まれて、生きていくと言うことは、きっとこんなもの。
 針仕事に没頭していたルチェサラは、自分が目をすがめていることに気づいて顔を上げた。窓からの光が移ろっている。いつの間にか午前中が溶け去っていた。針仕事は楽しい。糸目に没頭していると、時間が過ぎるのはあっという間だ。朝から刺していたとりわけ難しいステッチ、その見事に揃った糸目を満足げに眺めると、椅子から立ち上がる。強ばった背中と肩の痛みにうめき声が上がった。針仕事は楽しい、でもそればかりしているわけにもいかない。午後は森に出ることにしよう。アンズタケがそろそろ出始めていると、ミハエラが言っていた。クラウベリーももしかしたらもう生っているかもしれない。
 硬くなりかけたパンを薄く切り、これも干からびかけた白チーズを載せて立ったままかじる。紅茶は入れっぱなしだったので濃くなりすぎていた。お湯で薄め、顔をしかめて飲み干す。
 甘酸っぱいクラウベリーのジャムはルチェサラの好物だ。アンズタケを塩漬けの脂身と炒めて、ちぎったパンとスープにしてもいい。今夜は久しぶりに美味しいものが食べられるかもしれない。
 ルチェサラの笑顔は、砂糖がどれくらい残っているか調べようとパントリーを開けた瞬間に消え去った。駄目だ、ラキヤがもうない。果物を発酵させて作るこの強いアルコールがなければ、夫のスヴャトゴールの機嫌がどれだけ悪くなることか。クラウベリーはラトカおばあちゃんに渡して、自家製のお酒と交換して貰うしかない。
 母の形見の手鏡を覗き込む。長い年月に曇った鏡に、疲れた顔が写る。大丈夫、頬の痣はもうずいぶん消えた。おばあちゃんに会う前に、反対側の頬を少しつねって血色を良くしておけば、きっとわからない。
 ふと、スヴャトゴールは力持ちの巨人の名前だったことを思い出した。あまりに大きく、あまりに力に充ちていたので、寝ているしかなかった無為の巨人だ。スヴャトゴールもいっそただ寝ていてくれたら。
 
 初夏の森は草の匂いに充ちていた。あらゆる色調の緑に茂る葉を透かして、温かい日差しが零れてくる。アンズタケのオレンジを探して草を踏みしだけば、青々とした香気が立ち上る。熟れ具合を確かめるために、と言い訳しながら口に放り込んだクラウベリーの甘酸っぱさに目を細めた。
 針と糸ばかり握っていないで、もっと外に出るべきだ、と毎回思うが、刺繍を始めるとついつい忘れてしまう。
 「お前はまるで蜘蛛の娘だね」と祖母がよく言っていた。小さい頃から刺繍に夢中だった。糸と針が布の上に描き出す模様は、まるで魔法のようだ。
 祭りや婚礼など、人生の祝日に身につける晴れやかな衣装たち。ワンピースのような長いブラウス、バルチャンカ、その上にまとうエプロン型のプレスティルカ、袖なしのスクマン、袖ありのサヤ、その全てに刺繍を施す。最も華やかで目につくのはプレスティルカだ。ここに女たちは人生を刺繍する。一番上、ウエストに回すベルトを刺すのは母の役目。その子が生まれた時の喜び、名前に込められた意味、祖母・祖父・母と父の名前。その子の健やかな成長を願って、お腹にいる数ヶ月の間に、分厚く贅沢な模様を刺していく。そこから針を握るのはその子自身になる。子供のまだたどたどしい運針はやがて滑らかに細かく。糸が綴るのは彼女の人生だ。一年に一段。子どものまだ真っ白なスカート、老婆の模様で埋められた重たげなスカート。
 針仕事をしながらルチェサラがよく口ずさむのは、太陽よりも月よりも美しい刺繍をしたいと願った娘の歌。この世界の全てを刺繍しようとした娘は、やがて小さな蜘蛛に姿を変え、今も糸と針を操り続けているという。
 母の母から、祖母の祖母から、刺繍の技は受け継がれてきた。小さな幾何学模様、様式化した花や人物、色とりどりの糸でかがられる模様全てに意味がある。
 ああ、そうだ、久しぶりに祖母の刺繍を見てみよう。祖母の緻密で狂いのない刺繍は名人ならではの光るような美しさだ。今持っている糸は質があまり良くなく、毛羽だっていて扱いにくい。それをどうしたら少しでも滑らかにできるか、祖母の刺し方に何か手がかりがあるかもしれない。
 刺繍のことに没頭して歩いていたので、すぐ側に行くまで気づかなかった。
 ずいぶん大きな岩だった。こんなに滑らかな岩は見たことがない。こんなに白い岩も。完璧に近いほど左右対称で、まるで誰かがそこにぽんと置いたみたい。ここはアンズタケの群生が生える、ルチェサラしか知らない秘密の場所だ。何度も来ているけれど、こんな岩はなかったように思う。
 大きさはふた抱えほど。不思議に滑らかな、透き通るような乳白色だ。目を近づけてよく見れば、滑らかなのに表面には天鵞絨のような細かい毛羽がある。不思議に思って撫でてみてぎょっとした。思ったより温かかったからだ。ひんやりと冷たい岩肌に触れるかと思っていたら、動物のような温もりがあった。日に当たって温められたのだろうか。ざらりでもつるりでもない、何とも言えない触り心地だ。硬い絹のような、温かな氷のような。うっとりといつまでも撫でていたくなる。
 渋々手を離すと、ルチェサラはクラウベリーを入れた籠を持ち直した。まだ全然集まっていない。岩を撫でて1日を終わらせるわけにはいかない。
 また来よう。そうだ、明日は昼ご飯を持ってきてここで食べてもいいかもしれない。この岩に寄りかかりながらのんびりするのは、きっと気持ちが良いだろう。刺繍も持ってこよう。草花の新しい刺し方を思いつけるだろうか。
 最後に名残惜しげにもう一撫ですると、ルチェサラは昨年見つけたクラウベリーの茂みを目指して森の中に分け入っていった。

「おばあちゃん、ルトカおばあちゃん。ベリーを持ってきたわ」
 ほとほとと戸を叩いていると、やがて中からルトカおばあちゃんが出てきた。老いてはいてもがっしりと大柄で、大地そのもののように丈夫で頑丈。ぎろりと鋭い目で睨み付ければ、大の男でも震え上がる。その相手が自分を取り上げた産婆だったらなおさらだ。今は引退しているが、今もお手製の薬や果実酒を求めて色々な人がやってくる。
「ルチェサラ」
 重々しく頷くと、踵を返して家の中に入っていく。ルチェサラも続いて、薄暗くていろいろな匂いのする室内に入っていった。昔は大家族だったルトカおばあちゃんも、今では一人。子供たちは皆家を出て行ったけれど、おばあちゃんは自分のことは自分でできる、と頑固に言い張り家に残った。。大きな家は思い出の品でいっぱいだ。どの棚にも、どの隙間にも、亡くなった家族と過ごした時間が詰まっている。全てのものの上にどっしりと分厚く覆い被さった、時間と沈黙の毛布。その層を乱さないように、息を詰め、足音を忍ばせておばあちゃんの跡を追う。
 大きな家に住んでいても、幾つ部屋があっても、おばあちゃんが使うのは二部屋だけ。窖のような寝室、そしておばあちゃんの全てがそこにある台所だ。寝室は誰も見たことがない。台所に入ることができるのも、限られた人のみ。だいたいの客は家に一歩も入れて貰えず、酒や薬の瓶を押しつけられ、目の前でぴしゃりと扉を閉じられる。だけど、ルチェサラはこうして家の一番奥に招き入れて貰える。
 祖母ゾルニツァとラトカおばあちゃんは幼馴染みだった。素晴らしい腕を持つ産婆で、植物のことなら何でも知っているラトカおばあちゃんだったが、なぜか刺繍の腕だけは壊滅的だった。祖母がよく「ラトカの刺繍は船の帆向けだよ」と笑っていたのを思い出す。だから、ラトカおばあちゃんの刺繍はだいたい祖母が代わりにやってあげていた。お礼に貰う砂糖煮のスモモや薬草を漬け込んだ蜂蜜の美味しかったこと。
 母も祖母も亡くなった今、ルトカおばあちゃんは遠巻きにルチェサラを守ろうと気を配ってくれている。
 台所は宝の山だった。子どもの頃に読んだ民話に、宝で埋め尽くされた洞窟が出てくる。もちろん恐ろしい竜に守られて。無数の瓶や壺がなんの目印もなくあらゆる場所を埋め、誰も使い方がわからない薬草が軒から下がっている。くしゃみの出るような、落ち着くような、ドキドキするような匂い。小さい頃からルチェサラはこの場所が大好きだった。
「おばあちゃん、クラウベリーよ。シロップに使うかと思って。あと、良かったらアンズタケも少しあるわ」
 やかんを火にかけたおばあちゃんが振り返ってじっとルチェサラを見る。クラウベリーにそっくりな小さな黒い目が、ルチェサラの頬に血を上らせる。
「あの、できたら少しだけラキヤを分けて貰えない? この間の桑の実のラキヤ、とっても美味しかったわ」
 おばあちゃんは素焼きのカップに湯気の立つハーブティーを入れてルチェサラの前に置く。ムルサルスキーと呼ばれる高い山に咲く花を乾燥させたお茶だ。ルチェサラはとろりと重いこのお茶に、蜂蜜をいれて飲むのが大好きだった。目の前の蜂蜜の壺を取ろうと手を伸ばしたら、ルトカおばあちゃんが引き寄せた。ルチェサラの手が所在なく宙に浮く。おばあちゃんは蜂蜜の壺を握ったまま、じっとルチェサラを見る。
「美味しかったかい。それは良かったよ」
「甘くて飲みやすくて、さすがおばあちゃんのラキヤだと思ったわ」
「そうかい。あれはね、カリーナが夫の浮気に腹を立ててる時に摘んだ桑の実でね。お陰で酸っぱくて渋くて、とても飲めたもんじゃなかったよ。ひどく飲んだくれてでもいない限り、ねぇ」
 宙に浮いたルチェサラの手が力なくパタリと落ちた。台所の小さな窓から差し込む午後の光が、埃をきらめかせている。その光は柔らかくルチェサラの頬を照らしていた。きっとおばあちゃんの座っている場所からは、治りかけの痣が見えているのだろう。
「娘のベパの、いやあれはヨニタだったかな……まぁとにかく、うちの娘の旦那がろくでなしでね。あちこちの女に甘いこと言っちゃすり寄っていくんだよ。可愛そうに、娘はすっかりやつれちまってさ。だから、あたしがあんたのおばあちゃんに頼んだんだよ」
 話しながらルトカおばあちゃんはルチェサラのお茶を引き寄せ、たっぷりと蜂蜜を混ぜ込んだ。真っ黒な蜜だ。樹液をアブラムシが吸い、それを更にミツバチが集めた特別な甘露蜜、ラトカおばあちゃんのとっておきだった。
「ろくでなしの服に、こっそり浮気者の印を刺してやってくれ、ってね。ろくでなしは何にも気づかず意気揚々とそれを着て出かけてね、それからはだぁれもそいつを相手にしやしない。そのうち商売女に手を出すしかなくなって、美人局に引っかかって、袋だたきさ。ようやく懲りて、それ以来すっかり大人しくなったね」
 甘い甘いお茶をすする。
「大丈夫、おばあちゃん。そういうんじゃないのよ。良い人なの、ただお酒を飲み過ぎると少しだけ人が変わっちゃうのよ」
 山より大きな巨人の名前を持つ夫は、その名とはまるで逆の貧弱な体形だった。おどおどといつも背中を丸め、誰かにからかわれるんじゃないかと横目で伺っている。気が小さくて、口下手で、卑屈で、でも酒に酔うと一変する。それがわかったのは結婚した後だった。
 次の日の朝、申し訳なかった、もう二度としない、絶対に酒なんて飲まない、と泣きながら何度ルチェサラに謝っただろう。だけど、床に頭を擦り付けて繰り返す約束が守られることはなかった。それさえなければ、真面目で、浮気もしない、良い夫だった。それさえなければ、愛せたかもしれないと思う。
「本当に平気よ、心配しないで」
 ラトカおばあちゃんがお茶の湯気越しにルチェサラを見て、ため息をつく。
「それでも、ゾルニツァの刺繍を見てご覧。きっと力になるよ」
 ラトカおばあちゃんは瓶にいっぱいのマルメロのラキヤをわけてくれた。今度のは美味しいからね、その価値のわからないやつに飲ませるんじゃないよ、と釘を刺しながら。

 ルチェサラがあの不思議な岩の所に行けたのは、それからしばらく立ってからだった。今日こそは、と思い立ち、籠にしなびた林檎や、白チーズを挟んで焼いたパイ、薄めたボザ、それに刺繍のセットを詰め込んで出かけた。
 岩を見つけた時はほっとした。何となく、もうないのではないかと言う気がしていたから。すり切れた敷物を広げ、岩に背中をもたせかけ、のんびりと持ってきた林檎を囓る。パイは程よい塩加減だったし、程よく発酵した麦芽のボザは甘酸っぱく、シュワシュワしたのど越しが気持ちよい。背中にあたる岩はやはりほのかに温かく、とても気持ちよかった。
 口に含んだ林檎の種を思い切り飛ばす。いつかここに林檎の木が生えるかもしれない。薄桃色の林檎の花の下でまた林檎を食べよう。
 籠から繕い物と、預かりものの針仕事を取り出す。繕い物はスヴャトゴールの上着だ。襟元がすり切れているのにうまく継ぎを当てないといけない。そこからぷんと匂うスヴャトゴールの脂染みた体臭に眉をひそめる。一昨日、また酔っ払って大声で喚き、暴れた。もう止めることもせず、ただ黙って見ていても、それでも殴られる。目を見ればなんだその目は俺を馬鹿にしているのか、と殴られ、顔を伏せれば目を見て話すこともできないのか、と殴られる。でも、殴られるだけならまだよかった。嫌なのはその後無理矢理抱かれることだ。痛みと不快感と、体も心も蔑ろにされる虚無感。
 心が動かないように、頭の中で蜘蛛の娘の歌を唄う。自分は岩か木だ、何にも傷つかないし気にしない。こんなことは何でもない。きっと誰もがこうやって我慢している。
 終わった。ようやく。勝手に果ててルチェサラの上でいびきをかき始めた、こんな時ばかりは重い体の下から何とか這いだす。殴られた痛みと、無理矢理な暴行とで、体は軋むよう。それでも、なんとか台所へ行き、隠しておいた軟膏の壺を取り出した。柔らかな布で体を拭き、軟膏を指ですくい、意を決して膣の奥に押し込む。痛みと惨めさで涙がにじむ。だが、妊娠はしたくなかった。子供は欲しい、いつか。でももし子どもにスヴャトゴールの拳が向けられたら? 駄目だ、この人との間に子どもを作るわけにはいかない。
 1日たち、ようやく体の痛みが癒えたので森にやってきた。今は、林檎の花と林檎の実、岩が与えてくれる温かな心地良さのことしか考えたくない。
 何も考えないようにしよう。今、ここでスヴャトゴールの上着に「この者は妻に手を上げている」と刺繍することもできる。文様は頭に入っている。ルトカおばあちゃんに言われるまでもなく、繰り返し見たから覚えている。辛い時、苦しい時、長持の中にしまい込んだプレスティルカやサンプラー刺繍をを引っ張り出し、何度眺めたことか。
 母が、祖母が、祖母の祖母が語りかけてくる。一段一段に込められた、その人生。
 今年は冬が長く、なかなか羊が子どもを生まなかった。でも生まれた子羊の可愛いこと! 名前はメド、蜂蜜ちゃん。
 二人目の子どもを授かった。お産が軽く済みますように。
 新しいコード刺繍を教わった。見て見て、とても素敵。
 あの人がわたしを選んでくれると良い。わたしの髪が川のように流れ、肌がチーズのように白く、目が星のように輝いていることに気づいて。
 家を建てることになった。弟と一緒の部屋は嫌。
 女性達の呟きが糸の合間から聞こえてくる。それぞれの人生、幸せと不幸せと。
 そしてルチェサラはプレスティルカを裏返す。複雑に飛び交う糸を丹念に追いかける。すると、そこかしこで糸が秘密を囁き始める。
 周りに知られないように、白髪を染めるなら。 
 子どもを授かりたいなら。
 夫が不貞を働いたら。
 乳の出が悪い時は。
 夫の家族と反りが合わない時は。
 望まぬ妊娠を避けるには。
 治らない病を終わらせるときに飲むお茶は。
 月のものの痛みを和らげるには。
 表には出せないさまざまな声、刺繍の裏の糸運びによって密やかに伝えられてきた知恵と秘密。
 上手な刺繍は裏を見ればわかる。名人の刺繍は、裏と表が同じくらい美しい。刺繍は二次元のようで、三次元の芸術だ。薄い布一枚を介して、表と裏に糸を渡し、色を変え、ステッチを使い分ける。手間を惜しまずこまめに丁寧に糸の始末をしているか、刺す順番を考え効率的に針を進めているか、緩みすぎず引っ張りすぎず糸に最適な張力をかけられているか、腕は裏に表れる。秘密も裏に。
 赤はいつだって命と成長の、子どもの色。白は光、豊穣、水。青は落ち着き、年老いた賢さ、静けさと知恵。緑は若者の色だ、時に性急で時に間違う。紫は謎と秘密、力と敵。黒は信仰、先祖の守護、大地、そして暴力と破壊、死。淡紅色、茶色、朱や橙、それぞれの色に意味がある。ステッチの長さや向き、モチーフの組み合わせ、糸を読めば文字にならない言葉が聞こえてくる。
 男はスカートの中を見るが、スカートの裏は見ない。
 お腹が満たされ、背中の温かさにいつの間にか目を閉じていた。ふと日が陰った気がして目を開ける。
 岩が自分を覗き込んでいた。
 覗き込んでいる、と言う良い方はおかしい。でも頭みたいに見える。白チーズのように滑らかで、四角い。こんな岩ある? そもそも岩が動くなんて……
 そこではっと気づき、崩れてくるのではないかと転がるように這い出した。
 少し離れたところから恐る恐る振り返る。岩は明らかに形を変えていた。塊の一部が四角く持ち上がり、ルチェサラのいたところにひさしのように突き出している。先ほどより、更に滑らかになっているように見える。もう白チーズではなく、陶器のようだ。その白い表面に急にくっきりと切れ目が入り、塗り分けたように黒く染まる。それと同時に、岩が動いた。明らかにルチェサラを見た、としか思えない動きで、ひさしの部分が持ち上がる。
おそらく、逃げるべきだったんだろう。でも、植物が伸びていくのを早回しで見ているような動きと、表面に表れた模様に魅了され、ルチェサラは動くことができなかった。
 岩の左右に切れ目ができて、そこからもっと細い板状のものがめくれ上がるようにして剥がれた。厚みのある2本の腕のようなものが、辺りを探る。そして、ルチェサラが放り出した布の上でしばし漂い、そっと押し出した。こちらに向かって。
 これは生きている、おそらく。
 岩に見えた生き物がもう少し体を起こした。その動きが、こちらが布を受け取るかどうか見ているように思える。布が土や草の汁で汚れないかつい気になってルチェサラはそろそろと近寄り、布を掴むとさっとまた距離を取った。手が戻り、次に食べ物を入れていた籠を押してよこす。それからボザの瓶、それから。
「もういい、わかった。ありがとう」
 ルチェサラは一つ大きく息を吸うと思い切って歩み寄り、草の上に零れた糸玉や食べ物を包んでいたクロスを拾い集めて籠の中に放り込んだ。岩の手はその間、岩に戻って動かなかったが、頭の部分はじっとルチェサラの動きを追っているようだ。
「で」
 虚勢を張るようにぐいっと背中を伸ばし、腰に腕を当てて岩をせいいっぱい見下ろす。
「あなたは何? 誰かがクケリの衣装を身につけて、わたしをからかっているの?」
 言いながらそうではないことはわかっていた。岩は動かない。ただ表面の黒い模様だけがめまぐるしくそのパターンを変えている。
「妖怪? 怪物? 話はできるの?」
 顔をしかめながら、無理そうだ、と判断する。
 なんだかわからないけれど、こちらに悪いことはしなさそうだ。何かするんだったら、さっきルチェサラが寝込んでいた時を狙えば良い。
「わかった。この場所が気に入ったんならここにいればいい。でも悪さをしたらただじゃ済まないからね」
 思い切って背中を向ける。その背中にあの岩の温かさがまだ残っている様な気がした。

 それからルチェサラは数日おきに岩のもとを訪れるようになった。一つには、岩の周りではベリーやきのこが豊富に見つけられるからだ。そしてもう一つには、あのもの言わぬ岩の側が不思議と居心地が良いからだ。
「あなたのことをなんて呼べばいいの?」
 返事がないのを承知で話しかける。黒い模様がくるくると渦を巻く。
「名前がないのは不便だから、わたしはわたしの呼び方であなたを呼ぶことにする。カルタっていうのはどう?」
 数年前に見たことのある、骨を削って作られた玩具の名前だ。あの白い滑らかな表面と黒い模様がこの岩に似ている気がする。
 このことを誰かに言うつもりはなかった。小さい頃に見つけた真っ白なカエル、宝石のような、スグリの実のような赤い目をしていた。絶対ナイショだよ、と仲良しだった友達だけに見せたのに、あっという間に噂が広がり、次から次へと人が見に来た。やがて作り物だろうと疑った少年が足を持って引っ張り、殺してしまった。
 ここはわたしだけのアンズタケのシロだから、人に教えたくないだけ、と自分に言っていたが、心の奥にあったのはあのちぎれた足で緩慢に死んでいった白いカエルだ。
 カルタの周りを歩きながら黄色い花を探す。この花の汁は打ち身やケガによく効く。ルチェサラの目の下から頬にかけては、今日も紫と黄色の打ち身で覆われていた。この痣が消えない限り、誰にも会えない。でもカルタなら、何も聞かない。
「悪い人じゃない。ただ、お酒がいけないだけ。あと名前、あんな変な名前、あの人にちっとも合ってない。お父さんとお母さんが、大きく丈夫に育って欲しいって名付けたのはわかってる。生まれたばっかりじゃ、どんな風に育つかなんてわからないし。実際、あの家のお父さんとお母さんは大きいもの」
 菊のような花をぶちぶちと摘みながら、ルチェサラは話しかけ続ける。
「ずっとずっと揶揄われて、馬鹿にされて。だからお酒を飲むと、大きくて立派な体のスヴャトゴールになったような気がするのよ」
 カルタは何も言わない。大丈夫か?と聞かれたら、大丈夫と答えるしかない。別れたらどうだ、と言われても、もう家族が他にいないルチェサラは一人では生きていけない。暴力さえなくなればいい。だけどその答えは、どんなに長持の中のプレスティルカを裏返しても書いてなかった。
「お酒さえなければ、気の良い、静かな人よ」
 悔しさともどかしさ、どうにもできない現状にいらだって、だんだん歩調が荒くなる。子どものように地団駄を踏んで、ひっくり返って泣きわめきたい。思い切り泣いたあと、誰かが抱きしめて口に甘いお菓子を放り込んでくれたらいいのに。いっそ自分もラキヤを飲んでみようか。でも前に試した時はひどく気分が悪くなっただけだった。滲んできた涙を乱暴に拭い、痣に触れてしまってうめき声をあげる。
「悪い人じゃないの」
 自分に言い聞かせるように何度も繰り返した。憤りに任せて出した足が何かを踏み抜いた。洞だ。地面に空いた洞に気づかず踏み込んでしまった。頼りになるものを掴もうとするが草はちぎれてルチェサラを支えてくれない。声にならない叫びを上げて落ちていく。もがくだけ土は崩れ、何も掴めず、恐ろしさにぎゅっと目を瞑り。
 振り回した手が何か硬いものに触れた。咄嗟にしがみつく。体の下からどんどん土が崩れ零れていくが、落ちていくのは止まった。土埃にえずきながら顔を上げると、カルタがいた。板状の腕をいっぱいに伸ばして、ルチェサラを支えている。なんとか腕を支えにして洞から這い出すと、呆然とカルタを見上げる。
「あんた、動けたんだね」
 するといつもは黒い模様が、溶けた金のように輝きはじめた。カルタを掴んでいる掌に無数の小さなトゲが刺さったようなちくちくした痛みが走る。それからルチェサラの視界が裏返った。
 何もない空間。真の意味で何もない。光も闇もない、ただ無。虚無がそれを見ているルチェサラを飲み込もうとする。その瞬間に光が瞬く。溶けた金、流れる金、カルタの金。その光の向こうに、何かが見える。滑らかな世界、白と黒と金の堆積、たくさんのたくさんの……カルタ。
 もう一度世界が裏返る。ルチェサラは森の中にいた。膝が抜けてうずくまった。体を丸め、必死で息をしようとする。体の奥から嗚咽がこみ上げてきて、ルチェサラをさらっていこうとする。その波をやり過ごすのにせいいっぱいだった。
 一瞬見えたもの、あれは
「あんたのいた場所」
 異界の景色以上にルチェサラを打ちのめしていたのは、心の中にたたき込まれた望郷の念。寂しい辛い怖い寂しい帰りたい助けて知らない寂しい、異質な心の悲鳴が無理矢理ルチェサラの中に押し込まれ暴れている。握りしめた土と草の感触、その匂い、膝の下にある石の食い込む痛み、顔を流れていくあらゆる水の熱さ、気持ち悪さ。一つ一つの感覚にしがみつき、たぐり寄せ、何とか戻ろうと足掻く。
 ようやくルチェサラが顔を上げ、ふらふらと立ち上がると、カルタは静かに後退した。よく見ると折りたたんだ紙のようなものが体の下に何本もある。それを伸ばすと、滑るような流れるような、奇妙な動きで歩き始めた。立ち上がったカルタはルチェサラより少し大きかった。
 元の場所に戻り、また座り込んだカルタにもう一度声をかける。
「ありがとう、助けてくれて」
 模様はいつもの黒に戻っていた。金色に触れた掌は、それから暫くヒリヒリと痛がゆかった。時折、痛みを確かめるように撫でる。体の中が空っぽになったような寂しさと、溶けた金色の温かさ。

「これを、あんたに」
 1本のリボンを差し出す。縁を赤い巻き縫いでかがり、三㎝ほどの幅いっぱいにカルタの模様を真似た様式化した図案と、思いつく限りの守りや幸運の印を刺した。赤と白の人型を並べるマルテニッツァは少し変えて、赤いスカートをはいた人と、ずんぐりした白いカルタを並べた。
 カルタにルチェサラができることはなにもない。あまりにも異質で理解することもできない。あの時の焼け付くような寂しさはあの瞬間が通り過ぎると、遠くの夢のように、朧な輪郭しか見えなくなった。
「あんたがいつか、自分の場所に帰れるように、祈ってるよ」
 理解してもらえるだろうか。ルチェサラは不安な気持ちでリボンを差し出す。駄目だったら、そこら辺の木の枝に結ぼう。どうせ自己満足なんだから。
 カルタの手が上がった。ルチェサラと同じ側の手が、ぴったり同じ高さに持ち上がる。ルチェサラはにこりと笑うと、その手にリボンを巻き付ける。カルタの表面には触れないように細心の注意を払いながら。
「ああ、でもあんた、ツルツルだからね。これじゃリボンが止まらないかもしれない」
 首にでもかけた方がいいか、と思案していると、カルタの表面が少し膨らみ、ちょうどリボンを挟むように縁ができた。 
 なるべく白い布を選んだつもりだったが、カルタの透明感のある白そのもののような表面に比べるとルチェサラのリボンは黄ばんで目が粗く見えた。不意に恥ずかしくなって、ルチェサラは目をそらし籠を拾い上げる。
「気に入らなかったら捨てるなりなんなりして。もうあんたにあげたものだから」
 日の光を浴びて、カルタは静かに佇んでいた。持ち上げた手に結ばれたリボンは、とても場違いで、全く似合っていなかった。でも、カルタが何となく満足げに見える気がした。

 そして今、ルチェサラは死にかけている。
 床に倒れ、腕は変な形でねじれ、投げ出されているが直すことができない。じわじわと暗くなる視界の中、痛みも次第に遠ざかる。
 今夜のスヴャトゴールはいつにも増して暴れた。外で誰かに、ルチェサラに子どもができないことを揶揄われたらしい。その場ではヘラヘラと流したが、家に帰って酒を飲むとその屈辱は、憤りは、情けなさは、全てルチェサラに奮われることとなった。
 倒れているルチェサラを蹴りつける足は酔いのためおぼつかなかったが、それだけに力の加減ができていない。顎を蹴り上げられ、後頭部が思い切り何かに当たったとき、徹底的に戻れない何かが壊れた音がした。
 スヴャトゴールはきっとこのまま酔い潰れ、酒瓶を抱えたまま転がって寝てしまうのだろう。その間にルチェサラは死ぬ。気づかれないまま、ここで死ぬ。明日の朝、妻が死んでいることに気づいたスヴャトゴールは何を思うのだろう。
 仕方がない、この人が悪いんじゃない。こんな名前をつけた両親が悪いんでもない。この人を揶揄う仲間たちが悪いのでもない。
 仕方がない。
 じゃあ……悪いのはわたし?
 今まで何度も繰り返した「仕方がない」が揺れる。本当に? スヴャトゴールが悪くないのなら、なぜルチェサラは死ぬの? 視界に金色が流れる。熱い何かが胸を押し上げ、痛みを塗り替えていく。
 名前なんてどうでもいい。嫌ならそう言えばいい。揶揄われたら怒ればいい。自分が弱いことを人のせいにして、向き合わずに自己憐憫に逃げ込んで、もっと弱いルチェサラに手を上げることで強くなったふりをして。仕方なくない。ここに来るまで、いくらでもなんとかできた。仕方なくなんてない。
 こんなことのために、こんな男のために、わたしは死ぬのか。誰にも気づかれず、こちつが寝こけている間に、わたしの命は尽きるのか。わたしのプレスティルカはもう刺繍で埋まらない。あの場所にリンゴの木が生えてくるのも見られない。カルタ! カルタ、もう会えない。いつまでもあそこで来ないわたしを待つのだろうか。わたしすらいなくなって、孤独がやがてカルタの心も体も、本当の石のように割ってしまうかもしれない。
 仕方なくない。
 立ち上がって、スヴャトゴールにお前の名前は大きいが体は小さい、でも心はもっと小さい、お前の不満なんて知らない、一人で抱えてどこでも行け、と言ってやりたい。手を上げられたら殴り返してやる。手近にあるものを何でもぶつけて、あいつが家から出て行くまで止めない。誰にだって言ってやる、見えないところで妻を殴る見下げ果てたやつだ、って。それから一人で生きるんだ。刺繍を仕事にして、贅沢をしないで、リンゴとチーズとパンを持ってカルタの所に行って、一緒に座って話をする。他には誰もいらない。一人でいい。年老いていつか死ぬ日まで、一人で、自由に生きていく。
 ようやくそう思えたのに、胸の中には溶けた金が渦巻いているのに、もうルチェサラの体は動かない。手足が痺れ、冷たくなって、腰に食い込んでいた椅子の脚ももう感じられない。
 殆ど閉ざされた目に、動く物が見えた。扉だ。滑るように開いていく。
 その向こうにカルタがいた。岩のように静かに、岩のように確かに。
 スヴャトゴールが酔眼を向ける。ただでさえ鈍った脳に、カルタの姿は混乱しかもたらさない。いぶかしげに、ぽかん、と目を見開いているスヴャトゴールの前に、カルタがすうっと近づいた。それから両手を伸ばし、スヴャトゴールをかき抱く。ぐるぐると渦巻く模様が縁から金色に溶けていく。ようやく何かが起こっていることに気づいたスヴャトゴールがもがき始める。でもカルタの抱擁は緩まない。硬い陶器のような滑らかな体にスヴャトゴールが飲み込まれていく。蜂蜜の中に沈むように。
 金色の光。一面の、金色の光。
 そして暗黒。

 ルチェサラを起こしたのも、また光だった。眼裏に差し込む白い光。目を開けると夜が明けていた。
 まだ生きている。痛みを予期して注意深く身じろぎをする。ねじれた姿勢でいたので、手足はこわばっていたけれど、痛みはなかった。何もなかった。
 そっと体を起こし、部屋の中を見回す。カルタはいない。割れた食器や倒れた家具は、昨日スヴャトゴールが暴れたままだ。窓から差し込む朝日に照らされた室内には、夜の絶望も恐怖の匂いもなかった。
 ゆっくり体を起こし、途中でぎょっと動きを止める。スヴャトゴールがいた。こちらに背を向け、床の上にぺたんと座っている。酔い潰れて動けないのだろうか。カルタの中にスヴャトゴールが沈んでいった光景を思い出し、たじろぐ。声をかけるべきか、気づかれないように逃げ出すべきか、決めかねて息を殺したままじっとしていた。
 と、スヴャトゴールが動いた。ゆっくりとこちらを振り返る。頭を回すのではなく、体毎、手でにじるようにする不思議な動きだった。
 ルチェサラに向けた顔は穏やかだった。
「……あなた?」
 恐る恐る声をかける。
 スヴャトゴールが頷く。その手が上がった。まっすぐにルチェサラに向かって。拳から何か垂れ下がっている。戸惑いながら、ルチェサラは立ち上がり近づいた。スヴャトゴールの眼は静かにその動きを追っている。
 拳に握られていたのはリボンだった。ルチェサラは息を飲んで、そっとリボンを受け取る。この模様は知っている。カルタのために刺したリボンだ。でも色が違う、全ての糸が溶けた金の色に染まっていた。
 
 スヴャトゴールは大人しくなった。
 もう酒を飲むことも、暴れることもない。ほぼ何も喋らず、静かに頷くか、首を振るか。卑屈でへつらったさまは消え、背筋を伸ばし、穏やかにゆっくりと動く。周囲ははじめ戸惑ったが、やがてその不思議な静謐さに敬意を持って接するようになった。未だに体は小さく貧弱だったが、その静けさと超然とした佇まいは、その名の通り山のようだった。
 ルチェサラはリボンに刺していた糸を解く。滑らかな糸は、触れる指先にかすかにチクチクとした心地よい痛みをもたらした。
 この糸でプレスティルカの裏に、彼女とカルタの物語を刺そう。辛い状況にいる仲間たちへの密やかなメッセージも。
 もしあなたが今どうしようもない苦しさを抱えているなら、怯え縮こまって日々を過ごしているのなら。
 森の中に行って白い岩を探して。

 ルチェサラは光をもたらす者という意味。

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