『秘密の花園』の秘密

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梗 概

『秘密の花園』の秘密

アメリカ人の若き生物学者ハミッシュ・マクリーンは、彼らの研究に出資したいという資産家の女性を待つ間、スマートフォンで『秘密の花園』を読み始める。知っている児童文学小説だが、資産家の女性の名が主人公と同姓同名のメアリ・レノックスなので、話題にできると思ったのだ。彼は何としても研究資金を獲得するよう、研究リーダーから厳命されていた。
 やがて応接室に現れた女性は、まだ二十代に見える容姿をしていた。ハミッシュが挨拶からの流れで早速『秘密の花園』を話題にすると、女性は不思議な笑みを浮かべて言う。そのメアリは、まさしく自分だと。バーネットとは1908年にイギリスで出会い、その時に自分が語った身の上話を元にバーネットが書いた小説が『秘密の花園』だと。
 ハミッシュは、どういう冗談かと思いつつも機嫌を損ねないよう曖昧な相槌を打つ。すると女性は、出資するか否かの最終審査だと言って、ハミッシュに自分の話を聞くよう求めた。ハミッシュは勿論了承し、耳を傾ける。そうして女性が語ったのは、『秘密の花園』そっくりの、けれど全く異なる話だった――。
 インド育ちのメアリ・レノックスはコレラの大流行で母を失い、混乱の中、父も行方知れずとなった。父の姉の夫アーチボルド・カリーに引き取られたメアリは、イギリス中部にある彼の邸で暮らすことになる。その邸には百以上の部屋と多くの庭園があった。メアリは庭園をあちこち探検し、ベンという年老いた園丁や駒鳥、召使いマーサの弟で動物好きのディコンと仲良くなる。そんなある夜、メアリは泣き声を聞いた。気になったメアリは邸の中を探して歩き、ついにある部屋で寝台に横たわり泣いている少年を見つける。彼はコリンといい、アーチボルドの息子だった。病弱なコリンの許を訪れるようになったメアリは、『秘密の花園』について彼に語る。それは、コリンの亡き母リリアスが愛した花園が庭園にあるが、アーチボルドが鍵を隠して中に入れなくなっている、いつかそこへ入りたいという内容だった。興味を惹かれたコリンは、メアリやディコンとともに庭園へ出るようになる。間もなく鍵を発見し、花園へ入ったメアリ達。実のところ、その花園の小屋には毎日ベンが通い、ディコンの母と協力して、ぼんやりとしたリリアスの世話をしていた。コリンを出産する際に死んだはずのリリアスは、棺の中で息を吹き返したが、気づかれるまでに時間がかかり、酸欠になってしまったのだ。アーチボルドはその事実を直視できず、彼女を花園に閉じ込めて世間から隠していた。メアリとコリンはリリアスの治療を試みる内、自分達もまた死ににくく、老いることもないことに気づいて研究を始める――。
 話し終えた女性を、同年齢に見える男性が迎えに来る。女性は、出資は最初から決めていた、何故なら、あなたはディコンの子孫で不老研究をしているからと言い残し、男性とともに立ち去った。

文字数:1195

内容に関するアピール

課題「誰もが知っている物語をSFにしよう」を選びました。
 『秘密の花園』の雰囲気は謎めいていて、そこに吸血鬼的なSF要素を入れようと試みました。実作では、メアリの父はまだ生きていて世界を放浪していることや、コリンの母リリアスも若い容姿だけれど結構な年齢ということ、メアリがバーネットに自分の話を小説にするよう頼んだのは、ディコンが生きた証を残したいという動機からだったことも書きます。
 不老長寿が現実的となってきましたが、これだけ研究が進んだ背景には、メアリ達の、自分達の遺伝情報や研究成果を提供するという貢献があった、という示唆をしたいと考えています。
 原作の中で、コリンは「ぼくは、いつまでもいつまでもいつまでも生きる! 何千もの発見をする。人間や、生きものや、育つもの全てについて発見をして――」と印象的な言葉を述べています。そうした原作の力も借りて真実味のある物語にしたいと思います。

文字数:396

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『秘密の花園』の秘密

メアリ・レノックスが伯父と暮らすためにミセルスウェイト邸に送られた時、皆が、こんなに嫌な感じの少女は見たことがないと言った。本当にそうだった。彼女は、小さくて尖った顔と小さくて痩せた体、細くて色の薄い髪をしていて、表情は不機嫌そうだった。髪の毛も顔も黄色いのは、インド生まれでいつも何らかの病気に罹っていたからだ――。

          ◇

唐突なノックの音に、ハミッシュ・マクリーンは、緊張で汗ばんだ手からスマートフォンを取り落としてしまった。テーブルに落下した端末は派手な音を響かせたが、罅などはできておらず、無事そうだ。
(約束の時間より三十分も早いぞ……?)
 怪訝に思いながらも、ハミッシュは素早くソファから立ち上がってドアを開けた。
「お待ちしていました」
 できる限り愛想のいい笑顔を浮かべて、大切な客を迎える。眩い新緑が見える窓を背に、廊下に立っていたのは、絹糸のように艶やかな金髪を結った白人女性だった。予想していたよりも随分と若く見える。まだ二十代だろうか。品のいいベージュ色のスーツを着た体はすらりとしていて、灰青色の双眸が、魅惑的に煌めいてハミッシュを見つめた。
「お約束の時間より少し早かったかしら」
 微笑んだ女性に、ハミッシュは慌てて首を横に振り、微笑み返した。
「いいえ、お約束通りの時間です」
 予想外に早い到着に驚いたが、相手が乗り気だと思えば、大いに結構なことだ。
――「絶対に絶対に、この資金提供をものにしてこい……!」
 研究リーダーのオットー・デルプフェルトからは、そう厳命されている。分厚い手で、ばんと叩いて送り出された背中がまだ痛い。本当なら、オットー自身が、この客を迎えたかったことだろう。だが何故か、研究チームの若手の一人に過ぎないハミッシュが、彼らの研究に出資を申し出た資産家――このメアリ・レノックスから、応対役として指名されたのである――。
「それならいいのだけれど」
 メアリ・レノックスは、くすりと笑う。
「随分と大きな音がしたものだから」
「ああ、いえ、わたしは普段からそそっかしくて、研究リーダーからは、いつも怒られているんです」
 肩を竦めて見せて、ハミッシュはメアリ・レノックスを、研究棟の中ではましな部屋である応接室の中へ招じ入れた。想像したよりかなり若い資産家は、ゆったりとした足取りでソファまで歩き、優雅な身のこなしで腰掛ける。その向かいに腰掛け、ハミッシュはテーブルの上に用意しておいたティーセットで紅茶を入れ始めた。相手がイギリス出身ということは調査済みである。
「有り難う。ダージリンね、それも最上級の。何だか懐かしいわ」
 メアリ・レノックスは、高級なダージリン・ティー特有のマスカットに似た香りを楽しむ様子だったが、暫くして言葉を継いだ。
「――わたくし、幼い頃には、インドに住んでいましたのよ」
「そうですか!」
 ハミッシュは、予習を生かせる絶好の糸口を得て顔を上げた。出資を打診してきた資産家の名前がメアリ・レノックスであると知らされ、その応対役に指名された時から、彼女と同姓同名の少女が主人公である児童文学小説『秘密の花園』を話題にできるかもしれないと、読み返してきたのだ。つい先ほどまでスマートフォンで読んでいたのも、その冒頭部分だった。
「あの『秘密の花園』の主人公メアリ・レノックスと同じですね……!」
 些か勢い込んで言い過ぎただろうか。眼前のメアリ・レノックスは、紅茶の湯気が立ち上る中、捉えどころのない不思議な笑みを浮かべた。
(もしかして、『秘密の花園』を読んだことがなかったのか……?)
 同姓同名なので、どこかで誰かから指摘され、読んだことくらいあるだろうと思い込んでいた。自分の拙い商談は、最初から躓いてしまったのだろうか。だが、ハミッシュの焦りを一笑に付すように、メアリ・レノックスは告げた。
「――それは当然よ。あれはまさしく、わたくしですもの」
 ハミッシュは笑顔のまま目を瞬いた。この冗談には、どう反応すべきだろうか。困惑するハミッシュに、メアリ・レノックスは僅かに遠い目をして言った。
「フランシス・ホジソン・バーネットと出会ったのは、1908年、イギリスでだったわ」
 フランシス・ホジソン・バーネットは、『秘密の花園』の著者だ。
「とてもよく覚えている。彼女、ロンドンのパブで編集者相手に嘆いていたの。愛した邸と庭を去らなければならなかったと。彼女が語る庭の様子が、わたくしの記憶にある庭ととてもよく似た雰囲気だったから、つい声を掛けたのよ」
 やや砕けた口調になって、メアリ・レノックスは話す。
「彼女、最初は驚いていたけれど、段々打ち解けて、毎日のようにパブで会うようになったわ。話が合ったのね。庭造りの話や科学についての話では、とりわけ盛り上がったわ。それで、彼女がアメリカへ移住する直前に、わたくしの生い立ちを話したの。彼女なら、わたくし達の物語を、素晴らしいフィクションにしてくれると思って」
 反応に迷うハミッシュの前で、メアリ・レノックスは、ムーアの彼方を見つめるような眼差しで付け加えた。
「――そうしたら、あのディコンの足跡を、研究とは別の形でこの世界に残せると思って」
 ディコンとは、『秘密の花園』の重要な登場人物だ。インドから来た偏屈で不健康な少女メアリ・レノックスを、明朗で元気な少女へと、劇的に変えた少年である。
(しかし、あれは、架空の人物で……)
 ハミッシュは、資産家の表情を懸命に探った。このメアリ・レノックスは、何を語っているのだろう。或いは、ただの夢見がちな少女のような人物なのだろうか。
「……ディコンは、わたしにとっても好きな登場人物です」
 ハミッシュは懸命に話を合わせる。
「ムーアの申し子のように過ごして、子馬や子狐まで友達にしてしまう彼は、子ども達の永遠の憧れですよ」
「――あれは、魔法よ」
 メアリ・レノックスは、今度は目を伏せて呟く。
「魔法という名の、科学。彼は、とても観察眼に優れていて、おまけにとても忍耐強かった」
 あくまでも実在の人物としてディコンを語ってから、資産家は目を上げた。
「わたくしの話を聞いて下さるかしら、ミスタ・マクリーン。あなたがわたくしの話をどのように受け止めて下さるかで、出資するかどうかの最終判断をさせて頂くわ」
「――勿論、聞かせて下さい」
 ハミッシュは、大きく息を吸って頷いた。
「では、まず、せっかくの紅茶を入れて頂けるかしら」
 促されて、ハミッシュは慌てて、温めたカップへダージリンを注ぎ入れ、資産家の前へ置く。その明るい色に目を細め、一口飲んだメアリ・レノックスは、そっとソーサーにカップを戻すと、「秘密」を語るに相応しい声音で始めた。
「『秘密の花園』の『秘密』は、隠された庭がある、ということだけではなかったの。あの庭の中に、『秘密』があったのよ」
 メアリは、灰青色の双眸でハミッシュを見据える。
「あの庭の中にある小屋で、リリアス――コリンのお母様が、生活なさっていたの」
「え?」
 ハミッシュは思わず聞き返していた。リリアスが亡くなったからこそ、その思い出の詰まった花園はアーチボルドによって鍵を隠され、閉ざされていたはずだ。リリアスが生きていたのでは、物語の前提が覆ってしまう――。
「一番最初から、順を追って話すわ」
 メアリは再び紅茶に口を付け、改めて物語っていった。
「わたくしの母は、コレラで亡くなったの。当時インドで大流行していたのよ。とても美しい人だったけれど、娘のわたくしには何の興味も持っていなかったから、あまり悲しいとは思わなかったわ」
 史実としても、確かに19世紀から現在に掛けて、インドでは何度もコレラの大流行が起きている。
「わたくしの父も、その時に行方不明になった。イギリス政府の下で働いていて、とても忙しくて病気がちだったけれど、母を愛していたから、もうどうでもよくなったのね。彼も、わたくしには興味がなかったのよ」
 ハミッシュは、微かに首を捻った。物語では、メアリ・レノックスの父親もまたインドで大流行したコレラで亡くなった、となっていたはずだ。
(事実としては、父親は行方不明になったが、バーネットがフィクションに仕立てる際に、そう書いたということか……)
 真面目に考えてから、ハミッシュは内心苦笑した。このメアリの話を事実として信じるなら、『秘密の花園』が出版された1911年以前から彼女は生きていたということになってしまう。
(この話は、おれを試すための、単なる冗談か何かだ)
 思い直したハミッシュの耳に、メアリの密やかな声が響いた。
「それで、わたくしはイギリスにいる伯父のアーチボルド・カリーに引き取られることになったの。彼の妻リリアスが、わたくしの父の姉だから、後見人になってくれたのよ」
(アーチボルド・カリー? アーチボルド・クレイヴンじゃないのか)
 読み返したので、登場人物の名もしっかり覚えている。叔父の姓はクレイヴンだったはずだ。
(まあ、どうでもいいことだが……)
 もしかしたら、後から間違い探しでもするよう求められるのだろうか。
(『秘密の花園』の熱狂的ファンだとしたら、あり得るか……?)
 ならば、真剣に聞いて全問正解せねばならないだろう。潤沢な研究資金が調達できるか否かが自分の双肩に掛かっているのだ。ハミッシュはソファの上で心持ち姿勢を正した。
「でもミスタ・カリーは、殆ど邸にはいなかった。わたくしの世話は、家政婦のミセス・メドロックと女中のマーサに任されていた」
 メアリの灰青色の双眸が、再びハミッシュを見据える。
「マーサは分かるかしら」
「ええ、ディコンのお姉さんですね」
 ハミッシュは笑顔で即答した。
「そう。彼女も素晴らしい人だった。そして、彼女とディコンのお母様も」
 遠い目をして懐かしげに言い、メアリは微笑む。
「出会った朝は、彼女の女中らしくない気さくな物言いや、酷いヨークシャ訛りに戸惑ったけれど、彼女がディコンや鍵の掛かった庭の話をしてくれたから、わたくしは外へ出る気になったの。彼女こそが、わたくしを外へ導いた人だった」
 家庭教師などもおらず、邸の中ではすることのなかった少女は、外へ出て菜園や果樹園などの多くの庭園を見て回り、人懐こい一羽の駒鳥や、年老いた気難しい園丁ベンと知り合いになったという。
「ベンに、不機嫌なところが自分と似ている、似た者同士だと言われて、わたくしは初めて自分を客観的に見たわ。彼からは、駒鳥のことを聞いたり、土の耕し方を学んだりした」
(この辺りの話の流れは、『秘密の花園』そのままだ)
 ハミッシュが胸中で呟いた時、メアリはやや声を低めて続けた。
「そんなある日の夜、ムーアを吹き渡る風に混じって、泣き声が聞こえたの。マーサが風の音だとか女中の声だとか言って誤魔化したから、余計に気になった。あくる日は嵐で外に出られなかったのもあって、わたくしは、邸の中の探検を始めたの」
 築約六百年で、百の部屋があるというミセルスウェイト邸を、十歳の少女は歩き回った。数々の肖像画や置物に興味を惹かれながら、メアリは廊下を曲がり、階段を上がり、部屋の扉を開けた。クッションの穴に住む鼠達とも出会った。
「後から知ったのだけれど、リリアスは数百年前にもあの邸に住んでいたことがあったそうよ。だから、ミスタ・カリーとの生活は、彼女にとっては里帰りだったのね。肖像画に描いてあった女の子達の内のどれかは、彼女だったのかもしれないわ」
 不意に奇妙なことを言われて、ハミッシュは軽く眉をひそめた。しかし詳しく説明することなく、メアリは話を進める。
「そうして、あちこち行き過ぎて迷ってしまった頃に、前の日の夜と同じ泣き声を聞いたの。その時は、ミセス・メドロックに見つかって、自分の部屋へ連れ戻されてしまったわ。邸内を勝手に歩き回ることは禁じられていたから」
 メアリ・レノックスの口調は、どんどんと少女のようになっていく。その生き生きとした語りに、既知の物語のようでいて異なる話に、ハミッシュは引き込まれていった。
「でも、その夜、嵐が荒れ狂う中、また泣き声が聞こえたから、わたしは我慢できずに部屋を抜け出したの。泣き声はずっと聞こえ続けて、わたしはそれを頼りに、とうとう彼の――コリンの部屋に辿り着いたのよ」
 物語では、メアリがアーチボルドの息子コリンと出会うのは、鍵を見つけて花園に入った後だったはずだ。だが、ハミッシュは口を挟まず傾聴した。
「コリンは、人に会いたくないから引き篭もって、自分のことを秘密にさせていると言っていた。父親と同じように背中が曲がって瘤ができてくると思い込んでいたのよ。母親のリリアスは、自分を産んで亡くなったとも言っていた。マーサは、リリアスの亡くなった理由を、花園のお気に入りの木の枝に座っていて、枝が折れて落ちたからだと言っていたけれど、つまりは、臨月だったから腰を打つ怪我で早産になってしまったのね。お腹が大きいのに木の枝に座るなんて、彼女は本当に天真爛漫で、悪く言えばお転婆なのよ。コリンは、自分は長く生きられないと悩んでいた。お医者がそう言っているのを聞いたって。それで苛々して泣いていたの。でも、わたしが『秘密の花園』の話をすると、とても興味を持って、いつか見つけたいって幾らか元気になった」
 コリンはメアリが毎日会いに来ることを望み、メアリもできるだけ会いに行くと約束した。メアリがコリンのところへ来ることは、ミセス・メドロックには秘密にしていた。コリンが命じればどうにでもなったのだが、秘密を持ちたい年頃だったのだ。 
「ディコンと初めて出会ったのは、その一週間後だった。マーサが言う通りに、わたしが書いた手紙を読んで、土を耕す道具と花の種を買って持ってきてくれたの。木の笛を吹いている彼の周りで、栗鼠も雉も兎も、音色に聴き入っているようだった。本当にマーサが話していた通りの人で、だから名乗られる前に、ディコンだって分かったわ」
 灰青色の双眸が、意味ありげにハミッシュを見つめる。
「あなたの青い瞳は、彼にそっくりね。とても美しいわ」
「そう……なんですか……?」
 急に話を振られて、ハミッシュはどぎまぎした。
「ええ。あの時も、こんなに青い瞳は見たことがないと思った」
 呟いたメアリの眼差しは、また遥か彼方へと向けられていた。
「彼から、わたしはたくさんの素晴らしいことを教わったわ。野生の動物達との接し方も、植物の世話の仕方も、ヨークシャ訛りも! 今でも、話そと思やあ、ヨークシャ訛りで話せっぐらいにな」
 急に戯けて微笑んでから、メアリは紅茶へ視線を落とす。
「ディコンと出会った同じ日、ミスタ・カリーとも出会ったの。それで、わたし、勇気を出してお願いしたのよ。『大地を少し貰っても構わないでしょうか』って。『大地?』とミスタ・カリーは聞き返してきたけれど、わたしが植物の種を植えて育つところを見たいと言ったら、『育つところを見たらいい』って。『どこを貰ったらいいですか』と尋ねたら、『どこでも』って答えてくれた。わたしはその時、庭園を使う許可を貰えて有頂天になっていたけれど、彼はあの時、リリアスを思い浮かべているふうだった。そして、彼はすぐ、逃げるように外国旅行に戻っていったわ。リリアスに対して、とても後ろめたかったのね」
 沈んだ声音で付け加えてから、メアリはゆっくりと告げた。
「次の日の朝に、わたくしは駒鳥のお陰で、土に埋められていた鍵を見つけて、その日の昼過ぎには、やっぱり駒鳥のお陰で、蔦の裏に隠れていた花園の扉を見つけて、中へ入ったの。塀に囲まれていて、あらゆるものに蔓薔薇が絡み付いていて、全てが眠っているようで、とても神秘的な場所だった。薔薇が絡み付いているものの中には丸太小屋もあって、わたしは窓から中を覗いたの。驚いたわ。カーテンの隙間から見えたのは、コリンの部屋に飾られている絵に描かれていた、リリアスその人だったから」
 小さな溜め息をつき、メアリは紅茶を一口飲むと、続きを語った。
「リリアスは、ぼんやりとした様子でベッドに座っていて、女の人が髪を梳かしていた。横顔がマーサに似ていたから、すぐに彼女とディコンのお母様だと分かったわ。わたしはどうしたらいいか分からなくなって、静かにその場を立ち去ったの。見てはいけないものを見てしまったと気づいたわ。亡くなったはずのリリアスが生きている、そのことが、あの不思議な邸の、最大の秘密だったのよ」
 『秘密の花園』とは全く違ってきている話に、ハミッシュは、ごくりと唾を呑み込んだ。眉唾物だと断じるには、メアリ・レノックスの表情や語り口は、あまりにも自然で、気負いがない。
「わたしは少し悩んでから、思い切ってディコンに見たことを話した。『秘密を守れる?』と尋ねたら、『宿り木鶫が巣の在処さ教えでぐれた時、おらがそれを言うと思うが? 言わないさね』と笑顔で答えてくれたから、話せたの。ディコンは、リリアスが生きていることは知らなかったけれど、『秘密の花園』のことは知っていたから、話が早かった。次は、コリンに話すかどうかだった。リリアスはコリンのお母様だもの、わたしは話さないといけないと思った。でも、コリンはまだ精神的に不安定だったし、リリアスはあまり元気そうに見えなかったから、二人を会わせたらどうなるか分からなかった。それに、何故リリアスが『秘密の花園』に閉じ込められているのか――そう、どう見ても、どう考えても、閉じ込められているという表現がぴったりの状況だった――。そこが分からなかったから、わたしは、ディコンに頼んだの。あなたのお母様から事情を聞き出せないかって。ディコンは、やってみるって言ってくれて。わたしは殆ど眠れずに次の日を待ったわ。コリンに、その日あったことを何も話さずにいることもつらかった。そして朝になって、マーサが来て短い手紙を渡してくれたの。彼女のお母様からで、『昼食後に、例の庭でお待ちしています』と書いてあった。わたしは、嬉しいというより、心臓がどきどきして、苦しいくらいだった。庭園に出ても、『秘密の花園』にはまだ行ってはいけないと自分に言い聞かせて、駒鳥と話したり、ベンについて回ったりしながら、落ち着かない午前中を過ごしたわ。食欲もなくて、お昼も喉を通らなかった。インドにいた頃よりも随分食べるようになっていたから、マーサに心配されたわ。でも、具合が悪い訳ではないと言い張って、すぐに外に出たの。コートのポケットに入れたままだった鍵を握って、一目散に『秘密の花園』へ行ったわ。そうしたら、蔦の前で、ディコンが待っていてくれたの。何も言わなくても、目と目で分かり合えたわ。これから二人して重大な秘密を聞くんだって。わたしは前の日と同じように、古びた鍵穴に鍵をそっと差し込んで、静かに扉を開けたの。ディコンもすぐ後ろについて来てくれた。全てが眠っている花園の小屋の前に、ディコンのお母様――ミセス・サワビーが立っていらした。優しい顔に、とても深い悲しみを湛えて、両手を広げて迎えて下さったから、わたしは思わず駆け寄って抱き付いてしまったの。あんなふうに誰かに抱き付いたのは、あれが初めてだったと思うわ。ああ、この人なら、全てを受け止めてくれるし、きっと明るいほうへ導いて下さると、一瞬で確信したの。事実、その通りになったわ」
 ミセス・サワビーは、メアリとディコンを花園の枯れ草の上に座らせると、密やかな声で語り聞かせてくれた。リリアスが何故この花園に閉じ込められ、その存在を隠されて生きてきたのかを。
「十歳の子どもが聞くには、悍ましい話だった。でもミセス・サワビーが、わたくし達を一人前の分別ある人として接して下さっていることがよく分かったから、騒がず静かに聞くことができたわ」
 束の間、大人に戻って感慨を述べてから、メアリは再び少女のように話し出した。
「コリンを早産した時に、出血多量で呼吸が止まってしまったリリアスは、亡くなったものとして、死に化粧を施されて、棺に入れられたの。おかしくなったように泣き叫んでいたミスタ・カリーは、彼女の棺を、教会の墓地ではなく、彼女のお気に入りの花園に埋めると言い出した。思い出の庭に愛する妻の墓を作る、と。誰も反対はせず、翌日、棺は花園に運ばれて、掘られた穴の底に入れられ、土を掛けられて埋葬された。けれど、彼女は亡くなってはいなかったのよ。棺の中で息を吹き返していたの。想像するだけで恐ろしいわ。目が覚めたら、真っ暗で狭い箱の中に入れられていて、出られないなんて!」
 生憎その日は土砂降りで、リリアスの悲鳴は誰の耳にも届かず、時間だけが過ぎていった。彼女の悲痛な叫びに辛うじて気づけたのは、雨脚が徐々に弱まり、小雨となった夕暮れまで新しい墓の前で頭を垂れていた、園丁のベンだった。リリアスを心底慕っていた彼は、アーチボルドや使用人達が邸の中へ引き上げる中、ただ一人立ち尽くしていたのだ。静けさが戻った花園で、地面の下から微かに聞こえた声に、ベンははっとして土に耳を押し当てた。そして間違いないと分かると、大慌てで園丁仲間達を呼び、日頃使っている鍬で、埋めたばかりの棺を掘り出したのである。だが不幸なことに、リリアスが息を吹き返してから棺の蓋が開かれるまでに、かなりの時間を要してしまっていた。そしてリリアスは、雨水に濡れた棺の中で、酸欠状態に陥り、脳に損傷を負ってしまったのである。園丁達の騒ぎを聞き、駆けつけたアーチボルドが夕闇の中で見たのは、棺の蓋を内側から掻き毟った所為で両手の指の爪が剥がれて血塗れとなり、泥に汚れ、長い髪を乱し、青ざめた顔をして血走った両眼をぎょろつかせ、譫言を言う、この世の者とは思えないほど変わり果てた妻の姿だった。
「彼は、怯えた様子で、一歩二歩、リリアスに近寄って声を掛けたけれど、全く言葉が通じないと分かると、呆然とした様子で踵を返して邸に戻ってしまったというの。その後、執事に命じて、ロンドンからお医者を呼ばせ、リリアスを診させたそうよ。そのお医者は、とても高名な方で、すぐにリリアスの異常に気づいて、ミスタ・カリーにこう言ったの。爪の怪我がもう治りかけている、この治癒力は異常だ、と。酸欠による脳の損傷が、この治癒力で回復するどうかは現代医学では不明だけれど、ただ一つ確信を持って言えることは、ミセス・カリーは普通の人間ではないということだけだ、と。それで、ミスタ・カリーは余計に狼狽して、リリアスを、花園に閉じ込めることにしてしまったの。園丁達に口止めした上で、花園の中にリリアスを住まわせるための丸太小屋を作らせ、彼女が持っていた鍵をミセス・サワビーに預けて身の回りの世話を任せ、マーサにも手伝わせるように言って、自分が持っていた鍵は、花園の塀の外へ埋めてしまった。自分は、もうリリアスに会わないつもりだったのね。彼にとっては、愛する妻の突然の死から凄惨な蘇りまで、衝撃的な出来事が続き過ぎて、精神が耐えられなかったのだと思うわ。それからは、妻からも息子からも逃げるように旅行三昧の日々を送っていたの」
 深い吐息をついて、メアリ・レノックスは冷めかけた紅茶を一口飲むと、物語を再開した。
「ミセス・サワビーは、リリアスのためにも、コリンのためにも、ミスタ・カリーのためにも、とても心を痛めていらしたけれど、だからこそ、何とかしようと考えていらした。わたくしとディコンにリリアスのことを明かしたのも、あの悲惨な状況を打破するためだった。ミセス・サワビーは、話の後、わたくしとディコンを丸太小屋へ入れて、リリアスと会わせてくれた。ベッドに腰掛けたリリアスは、自分の髪を弄るばかりで、わたくし達のほうを見ようともしなかったけれど、ミセス・サワビーは希望はあると仰ったの。何か、よい刺激があれば、きっとリリアスは、優しくて朗らかで活発な少女のような人に戻るって。わたくしはすぐに閃いて言ったわ。コリンと会わせたらどうかって。ミセス・サワビーは目を潤ませて頷いて下さった。わたくしと同じことを考えていらしたのよ。わたしは、ディコンとも目と目で頷き合って、計画の第一段階を始めたの」
 少女から大人へ、大人から少女へと揺らぐ語り口で、メアリは長い話を紡いでいく。
「その夜の内に、わたしはコリンに会いに行って、とうとう『秘密の花園』の鍵を見つけて、マーサの弟のディコンと一緒に中へ入ったと教えたの。コリンは、ディコンが自分より先に入ったと聞いて不機嫌になったけれど、わたしは構わず言ったの。中へ入って、もっともっと重大な秘密を見つけたって。明日、あなたにも是非見せたいから、ミセス・メドロックに外出の許可を貰ってほしいって。何しろ、当時コリンは歩けなくて、どこへ行くにも車椅子が必要だったけれど、彼の部屋は三階にあって、外へ出るのはとても大変だったから。ところがコリンったら、ディコンのことで拗ねていたのをわたしが無視して話を進めようとしたものだから、完全に臍を曲げてしまって、花園になんか行きたくない、外へなんか出たくない、ディコンになんか会いたくもないって言い出したの。今なら笑ってしまうところだけれど、あの時のわたしは真剣そのものだったから頭に来て、だったら、わたしももうここへは来ないって叫んで。お互い癇癪を起こして怒鳴り合って、ミセス・メドロックや看護婦、マーサや他の女中達が駆けつけてきて。でもその時に、コリンがわたしに、曲がって瘤ができかけている背中を見せつけようとしたから逆に、これっぽっちも曲がってなんかいない、瘤なんかないってことが分かったの。本当におかしかったわ。コリンは、何ともないってことに驚いたみたいで、ほっとした顔になって落ち着いたの。自分は病気で、大人になるまでは生きられないって思い込んで、ずっとずっと苦しんでいたのね。わたしがコリンを叱りつけた挙げ句、大人しくさせたものだから、ミセス・メドロックも看護婦も、わたしに一目置くようになって。お陰で計画が進め易くなったのは、嬉しい誤算だったわ」
 翌日の昼食後、コリン自身がミセス・メドロックに命じて従僕達に自らと車椅子を運ばせ、外へ出た。前日に約束しておいた通り、庭園に来て待っていたディコンがコリンの車椅子を押し、メアリはその横に付き従って『秘密の花園』へ向かった。園丁達には、その日の午後中、どの庭園にも入らないよう予めコリンが命じていたので、誰にも見つかる心配はなかった。
――「ここよ。この蔦の裏に扉があるの」
 メアリが告げると、コリンは厳かに頷いた。メアリは、従弟の灰褐色の双眸が見つめる先で、蔦をめくって、扉の鍵穴にコートのポケットから出した鍵を差し込んだ。鍵を回して、かちりと音をさせ、扉をゆっくりと押す。こくりと、コリンが唾を呑み込んだ。ぎぃっと軋んで開いた扉から、昨日と同じようにメアリはそっと入る。コリンの車椅子を押したディコンが、すぐ後から入ってきた。
「ミセス・サワビーは、小屋の前に立って待っていてくれたわ。マーサに似ているから、コリンもすぐにそうだと分かったみたいで、わたしやディコンが何か言う前に、『ミセス・サワビーですね、ここはぼくの母の花園ですが、こちらで何をされているのですか』と、彼にしては驚くほど丁寧に尋ねたの。わたしが言った『もっともっと重大な秘密』に、ミセス・サワビーが関係していると、直感的に分かったのね。ミセス・サワビーは、嬉し泣きするような顔になって、ゆっくりと小屋の扉を開けたの。ディコンも、ゆっくりと車椅子を押して、小屋へ近付けていったわ。コリンは、車椅子から身を乗り出すようにして、ベッドに腰掛けているリリアスを凝視していたけれど、不意に叫んだの。『母さんだ! ぼくの母さんだ!』って。わたしも叫んだわ。『そうよ、これがこの秘密の花園の、本当の秘密! あなたのお母様は生きていらしたのよ!』って。そこからが、魔法だったわ。丸太小屋の入り口の階段のすぐ前まで、ディコンは車椅子を寄せていたんだけれど、コリンが急に立ち上がったの。何年も立ってなんかいなかったのに。車椅子のままでは小屋に入れないから、歩かなければと思ったのね。ふらついていたけれど、ディコンがすぐに横から支えて、わたしも反対側から支えて、三段ある階段を上がって、中に入って、ミセス・サワビーが素早くベッドの近くへ動かしてくれた肘掛け椅子へ、コリンを座らせたの。リリアスは、突然目の前に座った男の子を、不思議そうに眺めたわ。見つめ合う二人の目は、本当にそっくりだった。黒くて長い睫毛に縁取られた、瑪瑙に似た灰褐色の大きな瞳。わたしはただ、息を呑んで二人を見ていたわ。ディコンも、ミセス・サワビーも同じだった」
 暫く誰も何も言わなかったが、外から聞こえた駒鳥の囀りに励まされるように、コリンが震える声で言った。
――「母さん、コリンです。あなたの息子の、コリン・カリーです。絵でしか知らなかったあなたに、こうして会えて、本当に……とても……嬉しいです……。母さん、母さん、ずっと、絵に向かって、そう呼び掛けていたけれど……、直接、呼び掛けることができるなんて……、まるで夢のようで……、覚めないか心配で……、こんな素晴らしいことがあるなんて……、今日は、最高の日です、母さん」
「母親の様子が、明らかに普通でないことは、説明しなくても分かっていたけれど、それでもコリンは、熱心に、誠実に、リリアスに話し掛け続けたわ。リリアスも、髪を弄りながら、何となくそれを聞いているふうだった。そこから、計画は第二段階に入ったの」
(「第二段階」?)
 ハミッシュは小首を傾げてしまった。一体、「計画」は第何段階まであるのだろう。従来の『秘密の花園』には、全くなかった話だ。
「ああ、計画は第三段階まであったのよ」
 察しよく、メアリ・レノックスは説明してくれた。
「第一段階は、リリアスにコリンを出会わせて、よい刺激を与える。第二段階は、花園を蘇らせ、コリンは立てるようになって、リリアスに更によい刺激を与える。そして第三段階は、回復したリリアスと、元気になったコリンに、ミスタ・カリーを引き合わせる。それが、わたくしとディコンとミセス・サワビーの立てた計画だったの。かつての不幸な出来事を乗り越えて、カリー家の三人が健全に暮らしていけるように、全力を尽くそう、と。その第二段階を達成するために、その日から毎日、わたしとディコンとコリンは『秘密の花園』に通ったわ。わたしとディコンは、いつでもこっそりと花園に入れるけれど、コリンが外出する時は、どうしても人手が要るし、人目に付くから、園丁達は、毎日午後になると庭園から追い払われることになった。ベンは仕事が進まないと愚痴を零していたけれど、怒ってはいなかったわ。病弱だったコリンが毎日外に出るようになったことが嬉しかったのね。彼はリリアスのことを、とても深く敬愛していたのよ。そうして、ディコンは一日中、わたしは朝から昼までと昼過ぎから夕方まで、コリンは昼過ぎから夕方まで、『秘密の花園』で、来る日も来る日もリリアスと一緒に過ごしたわ。わたしとディコンは、たくさんの花の種を蒔いたり、薔薇の枯れ枝を取り除いたりした。既に植わっていた球根達の周りの土も軟らかくして、息がし易くなるようにした。わたし達がそうしている間、コリンはずっと、立って歩く練習をしていたわ。丸太小屋のあちこちに掴まりながら、懸命に歩いていた。リリアスは、その様子を、飽きもせず眺めていたの。長雨が降り始めたのは、そんな日々が十日ほども続いた後だった。コリンとわたしは、お医者とミセス・メドロックから外出を禁じられたわ。お医者に、雨で体を濡らしたら健康に悪いと言われてしまえば、コリンも逆らえなかったし、わたしも、コリンを置いて邸を抜け出すのは気が引けたの。雨は一週間止まなかった。ムーアの長雨は、時々そういうことがあるの。ディコンは雨だろうが嵐だろうが気にせず外出するとマーサが言っていたから、花々の世話は、ディコンがしてくれるだろうし、リリアスの世話は、変わらずミセス・サワビーがされるだろうから心配ないと、わたしは毎日コリンを宥めに通ったわ。それでも彼は苛立ってくるから、看護婦を下がらせて、部屋の中や、時には廊下に出て、歩く訓練をしたの。ああ、歩く訓練は、使用人達には秘密にしていたのよ。計画の第三段階を成功させるためには、その日まで、ミスタ・カリーにわたし達の計画について知られないことが重要だと思ったから。ミスタ・カリーに計画の一切が漏れないように、使用人達にも全てを秘密にしていたの」
 嵐が漸く止んで、眩い日の出を迎えた朝には、メアリもコリンも、居ても立ってもいられない状態になっていた。コリンは殆ど癇癪を起こす勢いでミセス・メドロックに命じ、従僕達に自らと車椅子を運ばせて外に出た。メアリも呼ばれて、朝食も食べずに外へ出ると、従僕達を追い払って重い車椅子を懸命に押し、コリンとともに花園へ向かった。
「庭園の木々や草花や野菜は、どれも雨露を滴らせて、とても美しく輝いていたわ。足元は泥になっていて、車椅子を走らせるのには苦労したけれど、わたし達は、期待と不安に胸を引き裂かれそうになりながら、花園を目指したの。コートのポケットから鍵を出す手は震えたわ。でも、扉を開けて中へ入った時、二つ目の魔法が起きたの」
 メアリは煌めく灰青色の双眸でハミッシュを見つめ、少し勿体をつけてから告げた。
「花園は、眠りから目覚めていた。温かい長雨が、目覚めさせたのよ。地面からも薔薇の枝からも、美しい緑の芽が顔を覗かせていたわ。もう蕾を付けて、花弁を覗かせている花々もあった。わたしとコリンは、花園の変化に目を奪われながら、ゆっくりと車椅子を進めて、中へ入ったの。わたしが扉を閉めて振り向くと、小屋の扉が開いていて、ディコンが出てくるところだった。奥にミセス・サワビーも見えたから、二人で早朝から一緒に来たんだと分かった。ミセス・サワビーはリリアスにカーディガンを着せ掛けて、外へ出るか尋ねていた。彼女はいつもそうして、言葉が通じなくなっているリリアスにも、深い敬愛を持って接していたの。リリアスは首を傾げていたけれど、不意にベッドから立ち上がったの。その灰褐色の双眸が、真っ直ぐにコリンを見つめていることに、わたしは気づいたわ。そして、コリンも同じことに気づいたの」
 黒髪の少年は、初めて花園へ入り、母親に会った時と同じように、急に車椅子から立ち上がった。練習を重ねてきた足は、以前ほどにはふらつかず、華奢な体をしっかりと支えて大地を踏みしめ、少年は、一歩一歩、母親へ歩み寄っていった。メアリは、駆け寄って支えようとしたが、ディコンにそっと止められた。錆色の巻き毛を揺らして小さく首を横に振った少年の眼差しは、駒鳥の巣作りを注意深く見守っていた時以上に真剣で愛情深く、メアリは頷いて、コリンに視線だけを戻したのだった。
 花園の中で、変化が起きていたのは、植物だけではなかった。リリアスは小屋の中に立って、近づいてくる少年をじっと見つめ続けていたが、コリンが入り口の階段を上がろうとして倒れそうになった瞬間、スカートの裾を翻して飛び出してきて、階段の途中でわが子を抱き止めたのだった。
――「ああ」
 リリアスはコリンを両腕で抱き締め、泣くような、叫ぶような声を上げた。
――「あああ」
 コリンもリリアスに両腕で抱き付き、泣き咽んで言った。
――「母さん、母さん、母さん」
 それは、生まれて初めて支えなしで歩けた感動と、生まれて初めて母親に抱き締められた感動が、そのまま迸った声だった。
「それまでは、殆ど話さなくて、話しても譫言ばかりだったリリアスが、それからは、どんどんと話すようになっていって、言っている内容も、日に日にはっきりしていったの。本当に、あれは魔法だった」
 花のように微笑んで、メアリ・レノックスは、かなり冷めたであろう紅茶で喉を潤した。
「そして、計画は第三段階に入ったのだけれど、あの感動的な日には、もう一つ事件が起きたの。花園にいるわたし達が、園丁のベンに見つかってしまったのよ」
 メアリとコリンが、リリアスとともに階段に座り、ミセス・サワビーやディコンともども感動を分かち合っていた時、不意に、蔦や薔薇に覆われた塀の上からベンの頭が覗いたのだという。梯子を使って、塀を越えようとしていたのだった。彼はそうして、リウマチの痛みに耐えて時折塀を越え、奥様の花園の世話をしていたらしい。
「彼は、とても驚いた様子で、しかも怒った口調で言ったの。『ミセス・サワビー、どういうことだあ、これは! 根掘り葉掘り何でも聞きたがる、弁えねえ小娘を、よりによって奥様に会わせるなんざ、どういう了見だあ』ってね。でも、そこですぐにコリンが立ち上がったの。彼は、リリアスにくっついて座っていたから、ベンからは見えていなかったのね。コリンが真っ直ぐにベンを睨み付けると、ベンはまた驚いて言ったわ。『おまえさん、立てるのか。足は曲がってねえのが。背中は曲がってねえのが』って。コリンはそれはもう腹を立てて、すっくと立ったまま叫んだの。『見ろ! 見るんだ! どこが曲がっている? ぼくの体の、どこが曲がっているんだ! 答えろ!』ってね。そうしたらベンは、『どこも曲がっでねえ。ああ、碌でもねえ使用人どもめ。嘘ばっかりつきやがった。どこも曲がっでねえ。ああ、神様!』って。それで、ベンも、わたし達の計画に参加することになったのよ。扉から出入りできるようになったら、彼は本当に毎日せっせと花園の世話をしてくれたわ」
 園丁ベンの助けを得て、花園は本当に蘇った。勿論、メアリもディコンも尽力し、コリンとリリアスまで、草毟りや種蒔きに参加した。桜が咲き、水仙が咲き、芥子が咲き、林檎が咲き、鈴蘭が咲き、蔓薔薇が菖蒲や百合とともに咲き始める頃、計画の第三段階として、ミセス・サワビーがイタリアにいるミスタ・カリーに短い手紙を出した。
――〔前略 スーザン・サワビーです。今までに何度か申し上げましたが、今一度、勇気を出して申し上げます。もしも、わたくしが旦那様でしたら、お邸に戻ります。お帰りになって、花園を御覧になれば、きっとお喜びになることと存じます。 あなた様の忠実なる下僕スーザン・サワビー〕
「わたし達は、ミスタ・カリーが帰ってくる日を心待ちにしたわ。そして、蔓薔薇が満開になる頃、とうとうその日が訪れたの」
 メアリとコリンは予めミセス・メドロックに、自分達は庭園でミスタ・カリーを待っていると告げておいた。マーサにも、ミスタ・カリーが帰宅すれば、すぐ知らせてくれるよう頼んだ。
「素晴らしいことが起こる予感しかしない日だったわ。ムーアの空は青く晴れ渡っていて、駒鳥は連れ合いと一緒に、忙しく雛達に餌を運んでいた。雛達は、もう巣立ち間近だった」
 ミスタ・カリーを乗せた馬車は昼前に邸に到着し、マーサが花園へ走ってきて言った。
――「旦那様は、間もなくこちらへお見えになります! ミセス・メドロックがお嬢さんと坊ちゃんの伝言を口にする前に、『庭園を見に行く』と仰っで。あんな旦那様さ、初めで見だ」
 ヨークシャ訛り丸出しになったマーサに負けず劣らず、メアリとコリンも興奮しながら、花園から出て蔦に覆われた扉の前でミスタ・カリーを待った。コリンは、もう必要なくなっている車椅子にわざと座っている。父親を効果的に驚かせるためだった。
 やがて月桂樹の向こうから、塀沿いの小道を通ってミスタ・カリーが現れると、コリンは神妙な面持ちで声を張った。
――「父さん、見て。ぼく、歩けるんだ」
 目を見開くミスタ・カリーの前で、コリンは車椅子から立ち上がり、背筋を伸ばした堂々とした歩みで、一歩一歩、父親へ近づいていった。最初、慌てて手を差し伸べようとしたミスタ・カリーは、息子の見違えるような姿に大きく喘ぎ、目を潤ませながら、それでも静かにその場に佇んで、歩み寄ってくる十歳の少年を見守る。堪らず走り出したのは、コリンのほうだった。
「もう、わたしと駆けっこだってできるようになっていたから、後十歩くらいの距離を一気に走って、ミスタ・カリーが広げた両腕の中に飛び込んだの。わたしも走ったわ。走り寄って、息を弾ませて、ミスタ・カリーに頼んだの。『是非、花園へいらして下さい』って」
 コリンとメアリにそれぞれ左右の手を引かれて、アーチボルド・カリーは蔦に覆われた扉の前へ行き、十年間入っていなかった花園へ足を踏み入れた。そこはまさに花園で、蔓薔薇や百合の香りが芳しく漂う中に、レースたっぷりの白い服を纏ったリリアスが立っていた。
――「リリアス……」
 呻くようにアーチボルドが妻の名を呼んだのと、リリアスの頭上で、桜の木に掛けられた巣から、駒鳥の雛達がぎこちなく飛び立ったのとが同時だった。リリアスは、ばたばたという羽音を追って頭を巡らせ、次いでアーチボルドに笑顔を向けて言った。
――「アーチー、見て、巣立ちよ! ねえ、見て、アーチー!」
「伯父様の両目から涙が溢れて、わたしとコリンが手を離すと、よろよろしながらリリアスに駆け寄っていって、抱き締めたの。リリアスは、聖母のような表情で、彼を抱き締め返していたわ。それまでも、リリアスはかなり話すようになっていたんだけれど、いつも夢を見ているような調子だったのが、あの時、漸くはっきりと目覚めたのよ。あれもまた、魔法だった。『秘密の花園』では、三つも魔法が起こったのよ」
 抱き合う両親を幸せそうに見つめていたコリンは、傍らに立つメアリと、扉の脇から全てを見届けていたミセス・サワビー、ディコン、マーサに、厳かに告げた。
――「ぼくは、ずっとずっと、永遠に生き続ける……! 何千もの何千もの発見をする――人間や生物、生きとし生けるもの全てについて、ディコンのように――! そして、魔法を起こすことを決してやめない……!」
「わたし達は大きく頷いて、彼の決意を祝福して、わたしは、自分もそうすると誓って――。今も、あの時の誓いの通りに生きているわ」
 完全に冷めてしまった紅茶を優雅に飲み干すと、メアリ・レノックスは灰青色の両眼に笑みを湛えて、ハミッシュを見た。
「これで、わたくしの話はお終い。少し付け加えるなら、わたくしの父は、未だに世界のどこかを放浪中で、リリアスは、この近所の百貨店で買い物中よ。彼女はいつまで経っても少女みたいで、とても奔放だから、付き添っているコリンがそろそろ音を上げている頃ね。では、あなたの感想を聞かせて頂けるかしら」
 ハミッシュは、ごくりと唾を呑み込んでから、乾いた声で正直に答えた。
「とても、信じられません……。つまり、あなた方は、人間ではなくて、もう百年以上も生きておられるということですか……?」
「少し科学的に説明するなら、わたくし達一族は、ホモ・サピエンスではあるのよ。でも、あなた達ホモ・サピエンス・サピエンスとは異なるサピエンスなの。ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスよりは、あなた達に近いのだけれど。きっと、厳しい氷期に、子孫を残すことよりも自分が生き残ることを優先した一族の末裔なのだと思うわ。わたくし達一族は、恐らくあなた達ホモ・サピエンス・サピエンスに『寄生』して生きながらえてきた。郭公が百舌の巣に托卵するような感じね。わたくし達の、不老長寿に関する遺伝子は、殆どが優性遺伝するのよ。だから、わたくしやコリンのように混血でも、もうずっとこの姿で生き続けている。一族同士で婚姻しなくても、一族の子孫を残せているという訳。けれど、わたくし達とあなた達は遺伝的にとても近いから、わたくし達の遺伝子を研究すれば、それは、あなた達の研究の役に立つはずなのよ」
 そこまで言及されて、ハミッシュは漸く合点が行った。自分達の研究は、まさに不老長寿に関するものだからだ。
「遺伝子を、提供して下さると……?」
「ええ。勿論、出資もするわ。それは最初から決めていたことだから。わたくし達は、世界中あちこちに土地を持っているし、このアメリカで、特許も結構取っていて、かなりの資産があるの。研究成果も、幾らか提供できるわ。細胞内のミトコンドリア量が増え易いということは、既に判明しているの。だから、コレラの大流行の中にいても、部屋から出ずに仰向けで寝たきりの生活を送っていても、病弱なだけで、死にはしなかったのよ。わたくし達は、それらを全て、あなたの研究に生かしてほしいと思っている。ディコン・サワビーの娘リザベス・マクリーンの曾孫のあなたに」
 不意に曾祖母の名を出されて、ハミッシュは一冊の古い本を思い出した。イギリスにある曾祖母の家で読んだあの本の題名は『秘密の花園』。そして、その表紙裏には、「わが父の物語」と手書きで記されていた――。幼い頃は、一体どういう意味なのか、深く考えもしなかった言葉。
「わたくしが、フランシス・バーネットにわたくし達の物語を聞かせた理由は、ただ、わたくし達の掛け替えのない親友ディコンの記憶を、この世界に、フィクションという形ででも残したいと思ったから。わたくし達の研究は、いつも、いつまでもディコンの教えを守って行なっているけれど、それ以外の形でも、彼の足跡を、この世界に残したかったからなのよ。では、詳しいことは、書類にまとめて、あなた宛てに郵送させて頂くわ。資金は、指定して頂いた口座に、すぐに振り込むから、御心配なく」 
 さらさらと締め括ってソファからメアリ・レノックスが立ち上がった直後、ドアをノックする音が響いた。
「あら、きっとコリンだわ」
 メアリが言って、素早くドアまで行き、開く。そこに立っていたのは、黒髪と象牙色の肌を持つ、カジュアルな服装の青年だった。顔立ちが、メアリ・レノックスにどことなく似ている。特徴的な灰褐色の瞳が収まった両眼は、黒い睫毛に縁取られていて美しかった。
「失礼。メアリ、随分と長かったね。こっちはもうお手上げだよ。百貨店に置いてきてしまった。今はスマートフォンという便利な道具があるから、迷子になることもないしね」
「全く、彼女は本当に成長しないわね」
 呆れたように返して、メアリはハミッシュを振り向いた。
「また、どこかで会いましょう。今日は話せて嬉しかったわ、ハミッシュ」
 微笑んだメアリの向こうで、青年も目を細めた。
「今後とも宜しく、ハミッシュ。ぼく達の研究成果を、大いに生かしてほしい。そうすれば、きっときみ達の寿命も延びるはずだから。ディコンのためには果たせなかったけれど、きみ達子孫には充分に長生きしてほしいと願っているんだ。では、また」
 ムーアを吹き渡る風のように二人は去り、廊下の窓から見える眩い新緑をハミッシュの目に焼き付けて、ドアは静かに閉じられた。

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