頭の悪さはたゆまぬ努力のたまものです

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梗 概

頭の悪さはたゆまぬ努力のたまものです

小学生の紬は七夕の短冊に「あっとうてきなずのうがほしい」と書いて先生に叱られた。人助けや、より良い世界の実現の夢を書いた優等生らの〝ヴィジョン〟を見習いなさい、と。しかし、紬は納得できなかった。いわゆる知能指数の劣る彼女には、優等生の真似をする以前に優等生になる必要があったのだ。時は多様性の時代・二〇三〇年代。能力や業績の有無で人間としての優劣が格付けされる風潮は過去のものとなっていた。だから優等生たちも紬を見下さないし、今後の紬の未来が直ちに危ぶまれる恐れも小さかった。けれども、努力で覆せない要素が可能性を狭める理不尽が紬には許せなかった。優等生の視力矯正と劣等生の能力矯正は同列ではないか。紬は何が何でも圧倒的な頭脳を入手する覚悟を決める。

しかし、紬には入手する伝手もなければ実現に必要な能力もなかった。知能向上のためのどんな試みも水泡に帰し、失敗の連続は紬の自己肯定感を蝕んでいく。やがて高校生になった彼女はSNSで「圧倒的な頭脳が欲しい」と垂れ流し、胡散臭い知能向上ガジェットを買っては失敗する日々を繰り返すように。世間はシンギュラリティ前夜だと浮足立ち、様々な企業や研究機関が知能向上研究で競い合っているのに、自分は変われないと絶望していた矢先、転機が訪れる。その研究機関の一つ(以下、機関)から連絡が来る。

「圧倒的な頭脳が欲しいか」

機関は脳神経と外部端末の接続による人間の知能拡張を手段としていたが、この技術は未確立で合法的・安全な使用が出来なかった。それでも、超知性の圧倒的優位性を求めて合法性やリスクを軽視する団体の数は年々増えており、反社会的勢力に資金源を持つ機関はその最右翼だった。彼らは生体脳の外部接続実験を秘密裏に行うための被験者を探しており、知能への欲求が強くて騙されやすい人間、すなわちSNSで渇望を垂れ流し、偽のガジェット(機関が被験者探しのために売っていた)を買い続ける紬こそ格好の標的だったのだ。

同様の人達が集められ実験が始まるも、未成熟な技術故に失敗が多発。知能拡張に成功したのは紬ただ一人だった。しかし、その頭脳は圧倒的で、一年後には機関の研究を引き継ぎ、知能の自己増強ができるまでに。一方、機関はその知能を使って犯罪を画策し、(犯罪だと知らせずに)紬に実行させようとするも、実験の犠牲者の存在を知った紬に拒否され、逆に壊滅に追い込まれる。犠牲者の救済を終えた紬は、更なる知能向上に努め、そしてシンギュラリティ第一着となる。

超知性〝紬〟の存在は世界に知れ渡る。彼女が知性をどう活かすか世界中が息を飲むも、どう還元するかの〝ヴィジョン〟が紬にはなかった。そこで、「短冊に〝ヴィジョン〟を記した優等生」のような人々を(知能拡張によって)次々にシンギュラリティに迎えさせ、世界の行く末を彼らに託す。

そして紬は更なる圧倒的な頭脳を求め、知能の自己増強に励み続ける。

文字数:1200

内容に関するアピール

課題:強く正しいヒーロー、あるいはヒロインの物語を書いてください(2019-3)

知能の低さが人間の尊厳を蔑ろにさせるのは問題外ですが、高知能が可能性を広げる傾向は変わらないでしょう。輝ける業績の裏には努力以前に元々の能力の高さもあります。能力不足を恨み、その増強を願うことは間違ったことでしょうか。この疑問点が本作の出発点です。確かに、序盤の紬は窮状を打破する力を持たず、高校生時の認知も歪んでいて、力の入手も強運故で、万事解決も結果論です。それでも、紬が抱いてしまった感情が、それ故に冒した過ちが、読者にとって責め難く、「彼女は間違っていなかった」と応援してもらえるような実作としたいです。

参考文献

ニック・ボストロム(2017):『スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運』,日本経済新聞出版社

マイケル・サンデル(2021):『実力も運のうち 能力主義は正義か?』, 早川書房

文字数:391

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頭の悪さはたゆまぬ努力のたまものです

あっとうてきなずのうがほしい。七夕の短冊にそう書いた小学二年生のわたしを、担任の先生は放課後に呼び出した。みんな帰っていた。先生とわたしだけの、秘密の七時間目だった。窓から差し込む太陽が、こんなにも赤いのだと初めて知った。

つむぎちゃんも〝ヴィジョン〟を持ちなさい」

〝ヴィジョン〟――それは当時のわたしにとって難し過ぎる言葉だった。けれども、今になってもはっきりと覚えているのは、その聞きなれぬ言葉の響きに、ただならぬ悪寒を感じ取ったことだけ。夜中にトイレで目が覚めたら、両親の寝室から聞こえる何かに気づいてしまったときのような、あの異質感。

その響きの前に当時の立ち竦むしか出来なかったわたしを、先生は教室の奥の笹飾りのところに連れていった。笹は小さな造花だったけれど、そこにはクラス五十人分の願いが色とりどりの紙に綴られて、夕陽に輝いていた。わたしの書いたそれは笹の下の方で、まるでしょげているかのように影に隠れていた。

先生はうっとりとした顔で田中さんの短冊を指差した。彼は両親が医者で、その血を引いてか学年一の優等生だった。算数の授業中には特別にタブレットで数学の自習コースにチャレンジできるだけのギフテッド。それでいてすごい努力家で、人当たりもよくて、皆の人気者で。「将来は医者になって多くの人を救う」――きちんと漢字を使って綴られた彼の文字には、それがただの夢物語であるとは思わせないだけの力があるように見えた。ただ能力があるだけでない。ただ努力家であるだけでない。そうして得たものをどうやってこの世界に還元していくのか、彼にはそれが明確に見えている。〝ヴィジョン〟だ。

笹飾りには、他にも色んな〝ヴィジョン〟がぶら下がっていた。

既に小4向けの自習コースにチャレンジをしている鈴木さんの「環境問題を解決したい」、ドローンの飛行システムを自分で改造している渡辺さんの「すごい技術を発明して困ってる人を助けたい」、クイズだけなら田中さんにも負けない山本さんの「クイズ系のインフルエンサーになってみんなを楽しませたい」。

「どうすれば世界がもっと良くなるのか。そのためにどう才能を活かすべきなのか。それを考えるのが大事なのよ、紬ちゃん。力だけあったって意味がない。その前に、どう力を使うのかを考えないと。いい?」

わたしは頭は悪いけれど、聞き分けは悪い方じゃないという自負はあった。けれども、この時ばかりはうんと頷けなかった。確かに、先生の言いたいことも分かる。でも、このままじゃ田中さんの十倍勉強しても医者にはなれないことも、寝る時間を削ってドローンいじりをしたところで、困った人を助けられる技術を生み出せるはずもないことは、わたしが一番分かっている。授業で出された問題、テストに出た問題、山本さんのマニアックなクイズ……それらを楽しみながらこなしていく彼らと違って、わたしは理解することすら覚束ない。同じ土俵に立てない。遠くから、指を咥えて見ていることしかできない。いくら〝ヴィジョン〟を描いたところでただの夢物語に終わってしまうということは、このわたしでも分かる。

けれども、当時のわたしにはそれをきちんと伝えられるだけの言語化能力がなかった。拙い言葉たちは先生の毅然とした表情の前に弾かれるばかり。わたしの弾が尽きると、先生は優しい声で言った。

「じゃあ、紬ちゃんはどうして圧倒的な頭脳が欲しいの」

ずるいと思った。そんなこと、先生が一番よく知っているはずなのに。

 

別の日の放課後、誰もいない隙を見計らって、わたしは自分の短冊をびりびりに破いてゴミ箱に捨てた。誰も気がつかなかった。田中さんも鈴木さんも渡辺さんも山本さんも。もちろん、先生も。

悔しかったからひたすらに勉強してやった。二十回ずつと先生が指定した漢字練習は二百回してやった。計算問題のやり直しもやれと言われたから、やり直しのやり直しのやり直しもやった。授業中も、間違いを恐れずに発言するようにした。田中さんや渡辺さんも始め、間違っても笑ってくれないから続けられた。今はいい時代になったと母は言っていた。変な間違いをしようものなら、みんなにも先生にも笑われるのが母の時代だったらしい。幸いなことに時代はいじめなんてものはなかったから、わたしは持てる時間のすべてをつぎ込んだ。テストで山本さんを渡辺さんを鈴木さんを、そして田中さんを打ち負かしてやる。先生も、わたしのたゆまぬ努力は賞賛してくれた。通信簿も、学習意欲・姿勢の項目は全教科二重丸だった。それでも、わたしはどこかで知っていたのだと思う。意欲以外の二重丸の個数はゼロ――この先に、圧倒的な頭脳を手に入れられるような未来なんて存在していないんだって。それが受け止められなくて、信じたくなくて。だから、わたしは努力に逃げた。その先に良いことが待っているんだって、信じることができた。みんながそう、わたしを騙してくれたから。

いつだかの三者面談で、先生が母に言っていたのを覚えている。

「紬ちゃんは真面目で努力家です。きっと未来は明るいですよ」

 

 * * *

 

クソ圧倒的な頭脳が空から降って来ないかな――そうSNSに垂れ流した汚物に、間髪入れずに隣からいいねが飛んでくる。右に目を向けると、原田弥生はタブレット用のタッチペンをくるくると回しながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。視線を落とすと、机に置かれた彼女のタブレットの画面にはテキストではなくタッチペンが躍る様が反射で写っていた。眺めているふりだ。コンタクトレンズ型ディスプレイは――スマートレンズは本当に素晴らしい発明だと思う。今の弥生の視界には、SNSに垂れ流された同級生たちの愚痴の肥溜めとなってるはずだ。三角関数に何の意味があるの。圧倒的な頭脳が欲しい。早く授業終わんないかな。わたしも視界の端にウインドウを立ち上げて、三角関数への恨みつらみを垂れ流す弥生の書き込みにいいねのお返し。

弥生の放心を察知してか、先生は彼女を指名した。

「問6の答えは?」

弥生は慌ててタブレット端末のロックを解除しようとする。虹彩認証をしようとしたところで、電源が切れたようだった。

「きちんと勉強をしないと、AIに仕事を奪われるぞ」

と先生はいつものように弥生を絞る。口癖だった。AIが超人的なパワーを持っていることはわたしたちAIネイティブ世代なら常識だけれど、それはやがて人智を越えた存在となって――それがシンギュラリティだというのだ――何やらとんでもないことになるらしい。だから勉強をして備えろというのが先生の論理だが、それが滅茶苦茶なんてことはわたしたちにだって分かる。加法定理を理解するのに苦心するわたしたちが、少し頑張ったところで、何になるというのだ。ここで少し努力したからといって、何も報われることはない。努力の神性にしがみつくのは、中学校と共に卒業したのだ。

圧倒しなきゃ意味ないっての――そうSNSに書き込むと、新しい動画が表示されたのに気がついた。アリサ・イコーネンという研究者へのインタビュー動画だった。あらゆるAI開発企業がシンギュラリティを目指して開発に取り組む中、アリサさんは既存のAIではシンギュラリティに到達できず、人間の知能の汎用性が不可欠だと主張する異端者だった。研究者だけあって使う言葉は難しいけれど、元々の頭の良さにかかわらず、人間が持つ知能の性質を重視する彼女はわたしたちにとって救世主みたいなものだったし、何よりパッとしない見た目の壮年がほとんどの研究者の中で、北欧系の金髪碧眼の美女というビジュアルはわたしたちの心を掴んでいた。AIだけではシンギュラリティに到達しえない。人間が必要なのです――そう主張する彼女を、わたしも弥生も応援していた。

「イコーネン博士は人間が必要不可欠だって言ってます」と弥生が応戦する。彼女が正しいとは限らないと先生が言い返すというのはお決まりのパターンだった。

それを横目に、早速インタビュー動画を見ようと思ったところで、指名はわたしに飛び火した。慌ててタブレット端末に視線を落とし、そこに記された問題文を今になってようやくわたしの脳は処理し始める。けれども、書かれているはずの日本語はわたしの頭の中で確かな像を結ばなかった。意味が分からなかった。けれども、わたしの視界を上書きするように、42という答えが視界に浮かび上がった。スマートレンズ様様。これくらいの問題は自動解釈して答えを出してくれる。これぞ圧倒的な頭脳だ。シンギュラリティだ。

「42です」と意味を分からずに答えを読み上げて、先生が少しだけ狼狽える。赤点すれすれのわたしがそんなにもすらすら答えられるはずがないことも、そもそも正解できるはずがないことも、スマートレンズでカンニングしていることも、先生には分かっているはずだった。

「テストでも同じくらいの成績を出してくれよ」と先生はぶつぶつ言って、次の単元の説明に入る。

そうやって何の身にもならない授業をただ漫然とやり過ごし、今日も学校が終わる。

わたしたちに、未来の〝ヴィジョン〟なんてものはなかった。過度な能力主義への批判も相まって、能力が低いことそのものを貶されることはなくなって久しいけれど、大学入試のテストが簡単になる訳でもなければ、頭の悪さが求められる仕事もある訳でもない。田中さんみたいな医者とわたしみたいな医者のどっちに診てもらいたいかと言えば、百人が百人前者を選ぶだろうし、わたしだってそうだ。それを差別だと言う程わたしは馬鹿じゃない。馬鹿だけど。

だから結局、圧倒的な頭脳が天から降って来ることを夢想するに限るのだ。

鞄のジッパーを締めたところで、隣に弥生が立っているのに気がついた。

「ようやく紬もシンギュラリティムービーを見れる歳になった訳だ」

弥生はぺろりと唇を舐めながら言う。

「待っていてくれてありがと」

「一緒に圧倒的な頭脳を手に入れますか」

そう言って弥生は、わたしの腕を引っ張る。

 

「これが圧倒的な頭脳をもたらしてくれるの……?」

わたしの部屋で弥生が掲げたのは、ペン型の端末だった。先端にはインクが滲み出る突起ではなく、ドーム状のランプのようなものが付いている。小型のプロジェクターのようだった。

通称・シンギュラリティムービー、正式名称・脳神経結節最適化映像投影器。眩暈を引き起こすことがあるとのことで、座っての使用が必須との注意があった。どんな醜態を晒すか分からないからとのことで、決行場所はわたしの家になったのだった。

詳細な原理は紐解けなかったが、プロジェクターから投影される光が脳神経に刺激を与えて、神経網の再接続が行われ、回転の良い脳と同じような構造に脳を作り変えてくれるという。

いわゆる、知能向上ガジェットの一つだった。脳トレみたいな類のものを除けば、間接的にでも脳神経に作用する類のものはすべて、一定年齢以上にならないと使用できない。脳の発達に悪影響を及ぼす恐れがあるからとのことらしい。今日でわたしもその年齢に到達する。この時を弥生は半年待ってくれていた。

わたしと弥生は机を挟んではす向かいに座った。まずは弥生の番。弥生の前にペンライトを置き、わたしの背後の壁に向かって映像を投影する。ムービーは弥生だけの視界に入り、わたしがそれを受容する弥生の様子を観察するという算段だった。

「じゃあ、お先に」

十秒程経つと、弥生の肩がぴくりと動いた。その数秒後、今度は机の上に置かれた左腕の薬指と人差し指だけがピンと伸ばされた。自分で真似しようと思ったがうまくできなかった。どうしても小指がついてきてしまう。まさかこれは本物の証か――そう思って心臓が高鳴る中、痙攣の波が弥生を襲った。弥生の口が半開きになり呼吸が浅くなったと思ったのも束の間、腕がちぎれたトカゲのしっぽのようにうねり、呼吸は不規則なリズムを刻んだ。その間目を見開いたかと思えば、高速で瞬きを連打。人間が自発的にする動きではなかった。わたしは笑いを堪えながらその一部始終を目に焼き付けた。

のたうち回る弥生の体の動きがぴたりと止まったのは、それから一分後のことだった。何ともなかったかのように弥生はわたしの方に目を向けた。

「変な顔してどうしたの、紬?」

自分の醜態にまるで気がついていないような口振り。

次は自分の番だった。位置を変わって、映像に相対する。壁に写されたのは、水面に様々な原色の絵具を溶かしたパターンの動きだけと退屈ではあったが、どこか心を揺さぶるようなパワーのある不思議な光だった。重力から解き放たれ、体が浮かび上がったような感覚が体の奥底から沸き上がって来た。なるほど、これは確かに立ってはいられないとは思ったが、痙攣など起こした感触もなく三分程の映像は終わった。ふとはす向かいを見ると、弥生が床で笑い転げていた。わたしも同じだったらしい。確かに筋肉の節々に疲労がたまった感覚はあったが、自覚はまるでなかった。

二人して一通り笑い転げた頃、いよいよわたしたちは肝心の成果を確かめる作業に入った。まずは小手調べに今日の数学の授業の復習からだった。

鞄からタブレットを引っ張り出したわたしは、今日の授業で弥生が答えられなかった問6を出題した。弥生は目を細めて問題文を二秒眺め、それから低い声で答えた。

「42」

だが、解法を訊いても答えは帰って来るどころか、弥生は気まずそうに目を逸らすばかり。授業中にわたしがスマートレンズのカンニングで答えた数値を覚えていただけのようだった。

少なくとも、弥生には現時点で成果は現れているようには見えない。

だが、弥生は思いついたようににやりと笑うと、わたしに言った。

「じゃあ紬が解説してよ。どうして42になるのか」

わたしは問題文に目を落とした。相変わらず意味が分からなかった。

他の教科の問題や、二人して並んで学年最低点を取ったくしゃくしゃのテストを引っ張り出して、再チャレンジしてみた。けれども、スマートレンズの採点結果によれば点数が上がるどころか下がっていた。

わたしは目の前が真っ暗になる気持ちだったが、そこで弥生が勉強量ではなく純粋に地頭を競うものにしようと提案した。スマートレンズにそのようなクイズをわんさか集めさせたが、二人して結果はクソだった。

「なんだよ、全然使えない……」

そうわたしが頭をかきながらこぼすと、「あ」と弥生は言った。これ、とわたしに向かって指を振る。スマートレンズを介して、シンギュラリティムービーの取扱説明書のファイルの抜粋キャプチャが送られてきた。

――一日一回。一週間続けること。

購入したのは二人で一台だった。片方が朝に実施し学校で受け渡し、もう片方が夜にやる。その繰り返しで対応できそうだった。土日だけは直接相手の家に渡しに行くことにした。

「落とさないようにちゃんと名前書いておこうよ」とマジックぺンを取り出すと、ペン型端末の側面に「つむぎ」と拙い字で書いた。もっと丁寧な字で書いてよ、と訂正する気にもならなかった。

それから一週間、毎日痙攣しながら学校で「つむぎ」を受け渡し、知能向上の効果がいつ現れるか緊張する日々が続いた。相変わらず痙攣している自覚はなかったが、二人して右腕が筋肉痛になったから間違いなくしているのだろう。

一週間の間は効果を最大限に活かそうと、授業にも真摯に望むようになった。授業中のSNSをやめた。開くことのなかった資料集にも目を通すようになったし、タブレットのテキストから辞書にジャンプする機能の存在も知って、使いこなせるようになった。スマートレンズのカンニングも使用せずに、自分の頭で問題文を読み、理解することを心掛けた。鞄の奥にしまった「つむぎ」が、わたしたちの御守りだった。けれども、いくら舐め回すように見ても、テキストに書かれている日本語であるはずの文字列は、わたしの中で意味というものに収束しない。

翌月の中間テストは、わたしも弥生も、いつもと変わらず下位一割だった。痙攣週間はクソの役にも立たなかった。

結果が明かされた日の放課後、わたしと弥生は自転車を押しながらとぼとぼと帰宅した。スマートレンズのAR視界上でSNSを起動し、あのクソムービー全然効果がなかった、と愚痴を垂れ流した。すぐにアクションがあった旨の通知がポップアップで浮かんだ。

弥生がいいねをしてくれた――と思いながら通知を開くと、それは別ユーザからのリプライだった。

――そのムービーに効果のない人なら、これがよく効くらしいですよ。

リンクを開くと、別の知能向上ガジェットの紹介サイトがあった。

 

「シンギュラリティASMR?」

弥生が首を傾げた。今度のものは効果音によって耳から脳を刺激するというもので、その刺激がより良い頭へと作り変えてくれるという代物らしい。これを一日一セット、二週間続けると、例のサイケデリック痙攣ムービーに効果のなかった人の四十パーセントに知能向上が見られたという。

お年玉貯金が底を尽きそうになったが、これで圧倒的な頭脳が手に入れられるなら、それに越したことはなかった。

今日はそのコンテンツを二人で同時に体感しようと、またわたしの部屋に集まっていた。

「四十パーセント! 消費税より高いじゃん。やるしかないでしょ」

と弥生は声のトーンを上げた。

また弥生の番からだった。ワイヤレスイヤホンを耳にはめると、彼女は目を閉じた。

時折目蓋がぴくぴくとしていたが、のたうち回るようなことにはならなかった。だが、三分後、目を開けるや否や弥生は部屋を飛び出した。トイレ借りる! と叫ぶのが聞こえた。

吐き気の副作用は怖かったが、圧倒的な頭脳の代償としては軽すぎるくらいだと思った。

弥生が青い顔で戻って来た後、わたしもイヤホンを耳にはめて目を瞑った。それは効果音というには静かすぎて、それでも地響きのように体を芯から震わせるような重低音。かと思えば、アップテンポで刻まれる調理器具同士を打ち鳴らす音。不規則に挟まれる逆再生の鳥のさえずり。波が寄せて、引いて、ドラム缶が転がる。空が白む音。正弦関数が微分される音。色相環の回る音。宇宙が始まり、終わる音。

胃の奥から込み上げるものを覚えて、わたしは目を開けた。ASMRの再生は終わっていた。わたしもトイレに駆け込んだ。

こうして、わたしたちのクソ嘔吐週間が始まった。すぐに効果が出る訳ではないとは聞いていたので、全然成績が上がらないことには焦りはなかったものの、副作用の嘔吐が思ったより体に堪えた。胃を空っぽにしてしまって栄養が十分に摂取できないからか、時折ふらつくようになった。一度親に嘔吐がバレて、その時は気分が悪かったからで通せたものの、二回目がバレたときは拒食症を疑われた。病院に連れていかれ、でも特に異常は見られず、医者に精神的なストレス源のことを訊かれた。

「シンギュラリティに到達したら、わたしみたいな人間がさらに取るに足らない存在になってしまうのかと思うと、夜しか眠れないんです」

薬局でも買えるような吐き気止めを処方してくれた。治まらなければまた来てくださいと言ってはいたが、二週間のASMR再生が終われば自然とわたしの嘔吐も止まったので、親も何も言わなくなった。

だが、そんなことはどうでもいい。肝心なのはわたしの頭だ。知能だ。IQだ。けれども、テストの成績が上がる訳でもなければ、ASMRを浴びる前に受けた知能テストを改めて受けてもIQ値は横ばいのまま。弥生も同じようだった。四十パーセントしか上がらないのなら、二人とも上がらない確率は四十足す四十で八十パーセントか、と弥生が計算してくれた。頭が良くなった振りをしたかったらしい。八十パーセントの確率で失敗――わたしたちにはきつすぎる確率の壁だった。

とはいえ、頭脳補完計画をそこで諦める訳にもいかなかった。痙攣ムービーに嘔吐ASMRの出費は、消費税も相まって高校生のわたしたちの財布に無視できないレベルの大ダメージを与えてくれている。今ここでやめてしまったら、あの犠牲が完全に無駄になってしまう。他に手はないかと、以前ASMRをリプライで薦めてくれたアカウントに、他におすすめはないか訊いてみた。すると、他にはこんなのも、とおすすめガジェットのリストを送ってくれた。

頭皮刺激による血流促進で脳を活性化させるシンギュラリティ櫛、味覚と嗅覚の刺激で同じく血流促進を図るシンギュラリティスパイス、脳の発達に悪影響を与える物質をこしとるシンギュラリティフィルター、エトセトラ。どれも、アリサ・イコーネンの最新の論文に着想を得た、人間の知性を最大限に発揮させるデバイスだというのだ。わたしは弥生と相談し、バイト代で賄えそうなものはどれか、それぞれこれからどれだけバイトに入れるかなどを鑑みて、手当たり次第にガジェットを試すようになった。シンギュラリティ櫛は二人で一つしか買えなかったから、マジックペンで「やよい」と書いてシンギュラリティムービーのペンライトと同じく学校で受け渡すように。休み時間は二人で競うように髪をとかし合った。シンギュラリティスパイスも二人で一つだが、百円均一で買った容器に詰め替えて、半分こ。お弁当の白ご飯の食べられる限界までかけて、咳込みながらスパイス白米を頬張り咀嚼し流し込む。シンギュラリティフィルターの使い方は簡単。開いた口の上にフィルターを置き、ペットボトルのお茶をフィルター越しに流し込む。四十%の確率でブラウスが濡れた。

けれども、そうして積み上げた努力を全て水に返すのが、わたしたちの頭脳クオリティ。期末テストはわたしがビリから二番目。弥生がビリだった。バイトを増やしてただでさえ少ない勉強時間が限りなくゼロになっていたことが何より効いた。

父にバイトを減らされた。シンギュラリティガジェットたちも、母に見つかったものは全て処分された。ガジェットに頼らず、自分の力で道を切り開きなさい、と。わたしも、先日のアリサ・イコーネンのインタビュー動画のリンクを母に投げて応戦した。AIだってシンギュラリティを前に足踏みをしている。人間だって捨てたもんじゃないのだ。だが、彼女は主流派ではないでしょと一蹴された。

「今は多様性の時代なんでしょ。頭の悪さだって個性の一つじゃん!」

わたしは母に吠えた。もう、わたしにはこれしか残っていなかった。

「でも、頭が良い方が紬の将来の可能性が広がるの」

「わたしがどんだけ努力して挫折したか知っていてそれを言うの?」

言い返すと、母は黙った。二百回の漢字練習が生み出した成果は、一度見ただけの田中さんに負けるものだった。中学校に入ってからもテスト勉強をとにかく真面目に頑張って来たけれど、いつも順位は下から数えた方が早かった。スマートデバイスとの連携で勉強時間を測定できるようになっていた当時、中学生のわたしの勉強時間は学年でぶっちぎりだった。わたしは誰よりも努力をした。なのに、勉強時間が下位の天才肌の学生が上位に何人も食い込み、わたしは下から数えた方が早い始末。天才肌の彼らは大して勉強もせずに偏差値の高い高校に進学していった。わたしは、名前が漢字で書ければ合格する高校に進学した。

真面目に勉強する方が馬鹿らしい。何が努力だ。何が〝ヴィジョン〟だ。それを積み上げて成果を出すには、まずはわたし自身の頭が良くならなければならない。元から頭の良い人には死んでも分からないだろうが、それはわたしにとって何より切実な問題なのだ。

だから、わたしはそれを手に入れられる可能性にかけた。痙攣ムービーも嘔吐ASMRも、他のシンギュラリティガジェットたちも、どれだけ確率が低くとも、全部がわたしにとって希望の光だった。

なのに――。

「そんなのに頼ってるから変わらないのよ、紬は」

母とこれ以上話すのは無駄だと思った。自分の部屋に戻り、弥生とメッセージを交わす。また一緒に頑張ろう、と弥生に送った。

だが、返事は意外なものだった。

――ガジェットに頼るの、もうやめる。

訊くに、弥生の方も親にガジェットが見つかったこってりしぼられて、正々堂々と努力することを誓わされたと言う。

――それで弥生は悔しくないの?

――どうせAIがシンギュラリティに到達したら、そこら辺の優等生もうちらみたいな底辺も、虫けらみたいなもんでしょ。誤差でしょ、誤差。

弥生にしては珍しく自暴自棄な発言だった。

納得できなかった。わたしは一人でもやり続けると宣言した。まだガジェットリストで試していないものは残っていた。バイトは辞めさせられたが、お小遣いは減らされていなかった。ガジェット以外の全ての出費を切り詰めれば、買えそうなものはあった。

だが、やりくりして買ったそれらも、まるで効果が出なかった。また親に見つかり、捨てられ、今度はお小遣いを減らされた。もう買えるものは何もなかった。

以前使ったシンギュラリティガジェットをもう一度試そうとも思った。けれども、シンギュラリティムービーの投影器「つむぎ」は最後、弥生の手に渡ったままになっていた。使わないなら渡して、とも言おうと思ったが、どうしても声をかけるのが憚られた。わたしたちは学校でも自然と話さなくなっていた。

万策は尽きた。わたしに出来るのは、部屋の電気をつけず、薄暗闇の中ベッドに横たわることだけ。本当に、わたしの未来はとても明るい。このままクソみたいな人生を送って、そして何も成し遂げずに世界からリタイアしていく。それがわたしの人生。わたしの未来。

圧倒的な頭脳さえ降ってくれれば。

そのとき、視界にポップアップが浮かんだ。SNSにダイレクトメールが来た旨の通知だった。以前ガジェットを紹介してくれたアカウントからのものだった。

――圧倒的な頭脳が欲しくありませんか。

 

 * * *

 

指定されたのは、郊外の駅から徒歩五分のところにある商店街。時刻は平日の十六時過ぎ。買い物に明け暮れる人で賑わうイメージを抱いていたわたしの前に広がっていたのは、空っ風が落ち葉をさらうシャッター街だった。連絡主から送られてきた位置情報を基に、スマートレンズがARで道筋を示してくれる。寂れて剥げた路面に光る、仮想の矢印を辿るように道を進む。風の音がやけにうるさく感じる。人っ子一人いない路地を進むと、小さな公園に辿り着いた。錆びた遊具が来るはずもない子供を待っていた。そこが指定された座標だった。

ブランコを軋ませて待つこと二分。黒いバンが迎えに来るものとばかり思っていたが、公園の前に停車したのはテスラの白い無人運転車だった。助手席のドアが開くと、わたしの視界にメッセージのポップアップが浮かんだ。

――あのテスラが連れて行ってくれます。

無人運転車はまだ全体の五パーセントにも満たない、と聞いた覚えがあった。そんなものを用意できるだけの財力がある。信用できそうだ、と思った。

テスラに乗り込むと、ドアが閉まり、運転席のハンドルが勝手に回り始めた。無人運転車は中学生の時に訪れたどこかの技術博物館での乗車体験以来だった。無人の運転席で勝手にハンドルが切られる様は、幽霊が運転する車だと思って怖くなったのを思い出した。相変わらず、幽霊のハンドル裁きは滑らかで、無駄がなくて、気味が悪かった。元トラックドライバーの失業者が増加している、といつだかニュースで見たのを思い出した。長時間長距離の運転が出来る体力と技術のある彼らでさえ職に困り始めている。わたしが三角関数を極めたところで、何になるのだろう。必要なのは、生半可に良い頭脳じゃない。圧倒的な頭脳だ。

それから三十分程走っただろうか、テスラが停車したのは、明らかにそれと分かる廃工場だった。路面のアスファルトのひび割れからは背の高い雑草が伸び茂り、工場の壁面もひび割れ、淀んでいる。ガラスには割れたものもあった。

――中でお待ちしております。

とポップアップで指示が入る。流石に怪しいと後退りするも、

――廃工場に見せかけるためのカモフラージュです。圧倒的な頭脳を不当に欲しがる者たちから、私たちを守るためです。

とのメッセージが続いた。そういうことか、とわたしは胸をなでおろし、入口を探した。錆びたドアが見つかった。掠れた文字でENTRANCEと書かれている。スマートレンズが「入口」と翻訳してくれて、わたしは安心してドアを開けた。

中は外の雰囲気とは一転、眩い程の明るさに満ちた廊下だった。床も壁面もひび割れどころかピカピカに磨かれた大理石。すぐに、奥から白衣の女性がやってきた。百七十はあろうかという長身の白人女性。左右対称のつくりの顔立ちに、宝石のような青い瞳に、艶やかな金髪。

AIがシンギュラリティ第一着の最有力候補とされる中で、人間の知能のかたちを重視する異端者にして、わたしたちのヒーロー。

アリサ・イコーネンその人だった。

彼女はにこやかに頬を綻ばすと、流暢な日本語で言った。

「超知性実現機構〈アドヴェント〉へ、ようこそお越しくださいました、紬さん」

本人が目の前にいるという事実にびっくりしてまともな返事は出来なかったが、彼女は笑顔を崩さずに続けた。

「こんな辺鄙なところの廃工場にカモフラージュした研究所ですからね、不審に思われたのも仕方がありません。あ、申し遅れました。わたくしは〈アドヴェント〉の研究主任をしている、アリサ・イコーネンと申します。お気軽にアリサとお呼びください」

アリサさんは深々と一礼すると、廊下の奥へわたしを案内した。何が起こっているのか自分でも理解ができなかった。夢でも見ているのかと思った。

連れられたのは、こじんまりとした六畳ほどの部屋。中央に卓があり、向かい合うかたちでわたしとアリサさんは座った。

「まず、わたしたち〈アドヴェント〉の理念について説明させてください」

はい、と頷く他なかった。あのアリサさんが目の前にいて、わたしのためだけに説明をしてくれるということが今でも信じられなかった。

では、とアリサさんは頷くと、テーブル脇の白い壁面に映像を投影し始めた。理念についてまとめたスライドのようだった。

「シンギュラリティ前夜とも言われる二〇四〇年代。まず、シンギュラリティに到達する知性体が現れると何が起きるか、紬さんはご存知ですか?」

とんでもないことが起きる、以外に詳しくは分からなかった。苦笑いを浮かべながらあんまりと答えると、アリサさんは気を悪くするでもなく優しく説明してくれた。

シンギュラリティに到達した知性体は、自らの手で自身の知性の向上させることができる。それは加速度的な知能向上をもたらし、第二位以下の知性体の追随を許さない水準に達する――まさしく圧倒的な頭脳となる。そうなれば、あらゆる既存技術は過去のものとなり、その知性が支配する世界が生まれ得る。

「お、恐ろしい話ですね」

「そうなんです。もちろんこれは最悪のシナリオだけれども、シンギュラリティ到達以前でも、その問題は看過できません。テスラがドライバーの失業率を向上させたように、知能レベルの格段の向上を見せるAIを前に人は仕事を奪われつつあります。AIに働いてもらって、人間は楽をできるというのは理想なのかもしれませんが、不幸なことに、AIが人間の仕事を奪って懐が潤うのは、そのAIを開発し提供しているプラットフォーム企業のみ。そこに努めていない大多数の人間にとって、この風潮は人生を豊かにするどころか、破滅へと誘うものでさえあるのです。多様性は能力主義の見直しは確かに世界的に進みつつありますが、この数十年、格差指標の一つであるジニ係数は右肩上がりを示しているのです」

失業率やら何やらを記したグラフが多数並んだスライドが表示された。完璧には理解できなかったが、AIの発展が世界を良くしたとは限らないのだと痛感した。

「プラットフォーム企業は得た利益を利用者には還元しません。だからこそわたしたちは、そこの従業員でない大多数の人々の味方になる正義のヒーローが必要だと考えたのです。それこそが、わたしたち〈アドヴェント〉。人類には、まだ力が眠っています。それを解放させることで、一部の企業が牛耳るこの世の状況に一石を投じる――紬さんには、是非その協力者になっていただきたいのです!」

アリサさんはそう熱弁すると、白く細い手で、机に上に無造作に投げ出されたわたしの手をがっちりと握った。

「で、でもわたしに協力できることなんて、大したものは何も」

「いいえ、そんなことはありません」とアリサさんは首を大きく横に振ってから、スライドを切り替えた。そこには「シンギュラリティへの道程」とタイトルが大きく書かれている。シンギュラリティに到達し得る三つの知性体についてそこには挙げられていた。

一つ目は人口知能。わたしたちも良く知るAIで、現時点で最も知能が高く、シンギュラリティを最初に迎える知性体の最有力候補とも言われる存在。だが、アリサさん曰く、その進化はここ十年で横ばいで、更なるブレイクスルーには人間の汎用的知能の性質が必要不可欠なのだと。

二つ目は全脳エミュレーション。神経の振る舞いをコンピュータ上で完全再現することにより、知能の模倣(エミュレーション)を可能にし、その拡張を図ることでシンギュラリティを目指す一派。その伸びしろは未知数ではあるが、いかんせん完全再現には技術的問題がまだ多く、三つの候補の中で一番可能性が低いと言う。

そして三つ目が、BMI――ブレイン・マシン・インタフェース――と呼ばれる対抗馬。

インタビューでは隠していたが、アリサさんが主導で進めている、一番の本命だと言う。

英語は勘弁してほしかった。訊き返すと、よくぞ訊いてくれましたとばかりにアリサさんは口角を上げた。

「人工知能型の知性には、一つ問題点があるのです。深層学習から始まった第三次AIブームは、AIをそのままシンギュラリティへと押し上げようとしている。けれども、ここ十年も前夜だと言われ続けているのには訳があるのです。AIはデータを学習して何かを上手くやったり、まだ見つけられていなかったパターンを見つけるのは得意ですが、0から1を生み出すことはできていない。ある分野に関して言えば人間より上手くやれるAIはどこかに必ずいますが、あらゆることを汎用的に判断し、遂行するようなシステムはまだ実現していないのです。全脳エミュレーションならばそれは可能との見方もありますが、実現に技術的課題が多すぎる。だからこそ、ブレイン・マシン・インタフェースがその解決策となるのです。これは人間の脳を母体とし、外部デバイスとの接続神経回路を新設します。それは外部のネットを自由に参照することはもちろん、外部の人口知能と接続することも可能にします。つまり、それは任意の二言語の同時翻訳能力を、チェスのプロに勝てる力を、そして数値解析を暗算で行える力を与えることを意味します。つまり、人間のあらゆる個別の能力がAIの最高水準のそれに追いつき、そして生来の様々なスキルを統合する人間の汎用的知能の力も相まって、シンギュラリティを達成するに相応しい存在となる。確かに、人間の脳の通信速度がいずれはネックとなるでしょうが、その問題を解決した人工脳を開発できるレベルまでは十分到達可能だと見込んでいます。わたしたちの開発しようとしているBMIは、AIが跋扈する時代において、人間が存在価値を示すことができるようになるためのキーアイテムなのです」

「それって、まさか人間がシンギュラリティに……」

「いずれは、そうです」とアリサさんはわたしの手を強く握った。

「AIがシンギュラリティに到達し、世界を一部の人間が牛耳る前に、対抗する力を市井の人々に与える。誰もが自らを守るための力を得て、誰もが幸せに暮らせる社会を作る――それこそがわたしたち〈アドヴェント〉の理念なのです」

わたしは手を握り返した。アリサさんがどれだけ真摯に人類の未来を考えているかは伝わった。やっぱり、わたしたちのヒーローだった。わたしの頭脳どうこう以前に、協力したいと思った。AIに仕事を奪われるからちゃんと勉強しろとばかりうるさいだけの先生とは違う。わたしの努力が無駄になったことを知りながらも、今も尚努力を神聖視している母とは違う。アリサさんは、わたしの求めている答えを持っている人だった。ここに来て、本当に良かったと思った。

わたしは協力を快諾した。アリサさんも多いに喜んで、わたしの前に契約書とペンを差し出した。同士として名を連ねて欲しいと言われた。わたしは気前よく名前を書いた。人間の権利を守れるのだ。いざサインすると、その一員になれたと実感が持てた。

「では」とアリサさんは素早く契約書を回収すると立ち上がった。「こちらへ」

表情はよく見えなかったが、アリサさんの声が震えているのが分かった。きっと彼女も武者震いをしているのだ、と思った。

次の処置室で、事前検査として採血をするからとアリサさんに注射された。アリサさんは針を刺すと、ピストンを押し込んだ。あれ、注射って引くものじゃなかったっけ。そう気づいたときには、わたしの意識は黒く塗りつぶされていた。

 

 * * *

 

真っ白い天井が目の前にあった。起き上がろうとして、腕と足が金具で固定されていることに気がついた。ガシャガシャと腕を無造作に動かすも、びくともしない。

「お目覚めね、紬さん」

ついさっき聞いたばかりのはずの声なのに、その記憶が随分と昔であるように感じた。首を声の方に動かすと、アリサさんはにこやかに笑っていた。

「意識を失う前の記憶はある?」

「どういう意味ですか……?」

「記憶のテストです。覚えていることを教えてください」

わたしは自分の記憶を精一杯引っ張り出した。白米に山のように振りかけたシンギュラリティスパイス。〝ヴィジョン〟の欠けた短冊。タブレット端末の上で踊るタッチペン。目を閉じて痙攣する弥生。初めて聞いた、空が白む音。幽霊の運転する車。白い廊下。署名。注射器。

わたしは混濁する記憶をゆっくりと手繰り寄せ、時系列順に並べた。全部合っている気はしなかったが、大きく外していることはないだろうと思った。

「記憶障害はなし、と」

アリサさんは宙に文字を描くように指を動かした。AR型のドキュメントをいじっているようだ。指で何かを払う仕草をすると、再びその青い目でわたしを見た。天井の丸い白熱灯が青い目の中で煌々と無機質な輝きを放っていた。

「あの、わたしは一体……」

すると、いつにも増してアリサさんはにっこりと笑った。

「ご心配ありませんよ、紬さん。あなたには記憶障害は見られませんでした。知りたくありませんか、自分が今、どれだけの頭脳を誇っているのかを」

 

留め具を外され、わたしは車いすに乗せられた。自分で歩けると思ったが、予想以上に体が重くて言うことを聞いてくれなかった。拒絶反応で暴れることもあるからと留め具に繋がれていたらしいが、わたしには無用だった、と車いすを押しながらアリサさんは笑う。

白い廊下を進み、また別の部屋に入った。最初に出迎えられた部屋と同じつくりに見えた。中央に机があるが、椅子は片側にしかない。車いすを椅子がない方につけると、アリサさんは反対側の椅子に座った。

「簡単なテストをしましょう」

「テスト?」

「今のあなたの神経網には、外部ネットワークと接続する力がある。まずは、低級な人工知能との融合をしてもらいます」

そう言って、アリサさんは白い壁に一枚のスライドを投影した。囲碁のAIプログラムについての紹介がされていた。この手のプログラムの歴史は古く、二〇一〇年代に、このプロトタイプが世界有数の棋士に勝ち越したことがAIブームの火付け役にもなったらしい。そのAIの後進は今ではフリーで配布されている。それをわたしの中にインストールするというのだった。

「待ってください。わたし、囲碁なんてルールも知らなくて……」

インストールと、遮るようにアリサさんが言った。その瞬間、わたしは視界がちらつくのを覚えた。だが、嫌な気分にはならなかった。頭の中に盤が浮かび、黒白の碁石が明確な意図を持ったパターンを刻む。

「この手のルールベースの情報はワンクリックでインストールできます。さあ、ではわたしと一局打ちましょうか」

アリサさんが口角を上げると、机の上にAR基盤が浮かんだ。

「では、紬さんからどうぞ」

 

圧勝だった。ほんの数分前まで囲碁なんて石を交互に置くくらいの認識しかなかったというのに、わたしの脳はわたしの知らない定石を引っ張り出し、わたしの知らない道筋を見つけ出し、そしてわたしは最善手を打っていた。アリサさんも趣味で碁を打つことがあるらしいが、人間相手にここまで完敗を喫したのは初めてとのことだった。

テストは続いた。パターン認識AIと、世界中の鳥類七千種についての学習データを与えられたわたしは、全七千種から無作為に抽出された鳥の鳴き声を聞いて種名を当てるテスト五十問を十分足らずに終えた。全問正解だった。アメリカ大陸に生息する青色が美しいスズメ科のルリノジコを鳴き声から一発で同定できる自分が怖かった。ルリノジコの鳴き声を知っているどころか、そんな鳥の存在さえほんの数分前まで知るはずもなかったのに。

そんな調子で、特定の用途に特化したAIとデータをインストールし、その能力をフルに活かしてテストをする検査は全てパーフェクトの結果でクリアしていた。

より複合的で汎用的な知能テストも行われるようになった。数学の文章題も、とんちの効いたクイズも、一秒で読まされた『失われた時を求めて』についての感想文も一分で書かされた。

そうやってテストを一つ、また一つをクリアする度、わたしが自分ではなっていくような、そんな浮遊感を抱くようになっていった。どれだけの努力も報われなかった十六年間。そこで堰き止められ積み上がった劣等感がようやく流れ出していく感覚。けれども、それが薄れゆく今、それこそがわたしのアイデンティティだったとも気がついた。

わたしは、頭の悪いわたしが嫌いだった。

頭の悪いわたしを嫌うわたしが好きだった。

だが、不安感や恐怖心に囚われてしまう程、今のわたしは愚かで単純ではなかった。わたし以上に、感情が大きく揺り動かされている存在が目の前にあったからだ。

今のアリサさんは、驚きというか感激というか、様々な類の感情が激しく皺の谷間から吹き出している。そこで、わたしは自分の中に目を向けた。わたしの中には、画像認識系のAIアルゴリズムと、十分過ぎる程の教師データがあった。表情分析に特化したAIはないが、既存のものを組み合わせればアリサさんの真意をより正確に読み解ける――そう思った。

だから、わたしは組んでみた。音声認識AIによる声調分析。画像認識AIによる表情分析。動作は仕草もインプットとして取り込めれば尚ベター。そうやって集められるデータをわたしの五感をフルに使って集め、それを外部に拡張された処理機構で評価し、わたしの生来の内部機構で咀嚼する。

過度な興奮。それに隠れるように別種の感情が見え隠れするが、まだ特定には至らない。だが、導入済の心理学的AI群が、その感情の正体を炙り出すためのキラーフレーズを考え出してくれる。

「アリサさんの〝ヴィジョン〟って何でしょうか」

わたしが訊くと、言葉の意味を掴み損ねたアリサさんは目を丸くする。瞬きを二回。格下だと思っていた頭脳に虚を突かれたことを、まだ飲み込めないが故の醜態。

「これで、AIがシンギュラリティに到達してもわたしは存在価値を失いませんか?」

すると、ええ、とアリサさんは強く頷いた。だが、その声の震え、響き――その場しのぎの嘘だということは、もうわたしには分かっていた。ヒーローなどでは決してない。彼女はあまりに粗雑で、詰めが甘い人間だった。ただ、常人を騙すにはそれで十分だっただけのこと。外部AIを自分の拡張感覚として使えるわたしが例外なだけだ。

「アリサさん、あなたは嘘をついている」

最早、彼女を哀れだとさえ思った。その発言で流石のアリサさんも悟ったのか、指で何かを払った。それが何かのコマンドだと気づいたときには、車いすの取っ手と骨組みから伸びた鉤がわたしの腕と足とを固定していた。

「想定以上だったようね、紬さんの能力は」

腕を引っ張ってみたが、びくともしなかった。

「知能が上がっても、腕力が上がる訳じゃでしょう」

アリサさんはそう鼻を鳴らしたが、その一秒前にはわたしの脳は画像認識とネット検索により、この車いすが既製品であること、そしてそのIoT技術で使われているネットワークについての情報も仕入れることができていた。ハッキングしよう、と思い立ったわたしは、ネットの海から必要そうな知識をかき集めた。『失われた時を求めて』全文を一秒足らずで解釈できるだけの計算資源があれば、セキュリティについての基礎知識を習得することも、そしてそれらを総動員させてセキュリティの脆弱性を見つけるのは造作もなかった。

わたしは車いすそのものをハックした。車輪を回転させるための機構は電動式にもなっているようで、ロックを解除し、部屋の外へと車いすを移動させた。待ちなさい、とアリサさんは――アリサは追いかけてくるが、彼女の瞳にスマートレンズがあることをわたしは見逃してはいなかった。

スマートレンズにも未検知のセキュリティホールがあった。ノイズ映像を無理矢理彼女の視界に表示させる。彼女はうめき声をあげ、両目を押さえながらその場に崩れ落ちる。

わたしは部屋を後にした。記憶を頼りに、出口の方へと向かう。

だが、騒ぎを聞きつけたのか、アリサが通報したのか、警備員と思しき男が三人、進むべき方向からやってきた。肉眼では視認できなかったが、画像認識AIが彼らも皆アリサさんと同型のスマートレンズを装着していると判定した。セキュリティホールを利用する他ない。ノイズ映像を不正に垂れ流し、一人目、二人目と視界を奪ってダウンさせる。

だが、三人目にノイズを流し込もうとしたそのとき、ずきりと、わたしの後頭部に鈍い痛みが走った。視界が明滅し、水平感覚が消え失せる。

はっきりとした理由までは分からなかったが、おおよそ予想はついた。ここまで脳をハイレベルに酷使したことなんて、未だかつてない。拒絶反応か、オーバーヒートかは分からないが、少なくとも能力をいかんなく発揮できる状態は現時点ではそう長くはないらしい。

わたしはシンプルな命令を車いすに下した。最高速で移動せよ。進行方向をマニュアルで命じるくらいの力は残っていた。

だが、電動車いすの速力は人間の脚力には及ばなかった。わたしは残る一人の警備員にあっという間に追いつかれ、車いすから引きはがされ床に組み敷かれた。

「――適応は予想以上に早かったけれど、いきなりフルで能力を使える訳ないでしょう」

アリサの声だった。まだふらついているようで壁に手はついていたが、勝ち誇ったかのように大きく上がった口角。その輪郭を彩る口紅の色が、心なしか下品に思えた。

 

 * * *

 

七十二時間が経過していた。

研究所内のどこかの閉室。ベッドとトイレとシャワーがあるだけの簡素な六畳間。ネットワークとの接続許可はどうやらまだ〈アドヴェント〉に握られているようで、今はいかなるAIの利用もネット検索も出来ない状態にあった。そのせいか、接続が出来ていたときに感じたあの超越的な「理解」も失われていた。セキュリティホールを利用してスマートレンズをハッキングした記憶はあるが、あの原理は何だったのか、セキュリティホールとはどんなものだったのかを、まるで言語化できる気はしなかった。

そんな中で、一日三回食事が与えられ、部屋のスピーカーを介して「テスト」の案内が始まる。その時だけ、〈アドヴェント〉の許可したAIや教師データに対してのみアクセスが認められ、使用してテストに応じる。テストに応じなければ、次の食事は抜きになると言うのだから、従う他なかった。

白い壁と睨めっこしながら、今頃両親はどうしているだろう、と思った。こんな誘拐紛いのことが日本で成立してしまうことが驚きだったが、これだけの研究設備を用意できるだけの組織だ。無人テスラによるお迎えも、よく読まずにサインしてしまった契約書も、全部このための布石だったのだろう。

『紬さん、起きてるー?』

天井から声が降って来る。白い壁と睨めっこしていることは監視カメラから分かっているだろうに、アリサ・イコーネンはまるでそうではないかのようにいつも偽って話しかけてくる。最後の伸ばし棒、半音ずれたファの音が耳障りだ。十度目のテストの時間だった。

「見えてるでしょ」

『今日はあなたに素因数分解をやってもらいたいの』

懐かしくて忌々しい響きだった。どれだけ勉強しても上手くできず、わたしの自己肯定感を木端微塵にしてくれた仇敵の一つだった。

だが、それ以上に違和感を覚えた。今の今まで機械学習をフル活用した類のテストばかりやらされてきたのに、今になってそんな初歩的なテストを解かされるとは。

ただ、食事をもらうためだけのテストにもいい加減辟易していた。それくらいの簡単なテストで冷や飯をくれるのなら、それに越したことはないと思った。

「で、何を素因数分解すればいいの」

『十五』

「三×五」今となっては、外部のAIと接続するまでもなかった。ネットとの接続はかなり制限されているが、一度接続したものの影響か、その力がわたしの脳に一部残っていた。音波のパターン認識を一度使ったからか、素の状態で絶対音感に近いだけの感覚がある。多少の暗算能力も補強されているようだった。

『九十一』

「七×十三。馬鹿にしているの」

『六千四百三十一』

反射で返そうとして、言葉に詰まった。少し落ち着いて息を吸い、もう一度考える。

「五十九×百九」

『八十八万二千三百七』

完全に詰まった。仕方なくわたしは計算機を外部から呼び出し、ループ処理で素数の試し割りを実行した。

「三百十一×二千八百三十七」

素因数分解大会は続いた。掛け合わされる素数はそれぞれどんどん値が大きくなり、それによって試し割りによる解導出までの計算回数も爆発的に増えていく。最初はアルゴリズムそのものの遅さよりもわたしという人間のハードウェアの遅延が影響していたが、その桁数が膨れ上がるにつれ、アルゴリズムの実行時間そのものが無視できないレベルに伸びていくようになった。

『そろそろそのアルゴリズムでは無理でしょう?』

十一問目は回答までに五十七分かかった。空腹も相まって、これ以上の実行時間には適応できる気がしなかった。

「こんなことをさせて何になるの」

わたしはアルゴリズムのインストールと同時に、様々なアルゴリズムの性質についても確認していた。既存の手法では皆、桁数が大きくなれば計算時間は爆発的に増大するため、事実上使い物にならなくなる。それでも人間が生身でやるよりは圧倒的に早いスピードを叩き出しているとはいえ、それもただ計算機の力を借りているだけ。人間にやらせることではないだろうに、どういうつもりなのだろう。

『紬さんも察している通り、試し割りのアルゴリズムは桁数の増加がもたらす計算時間の増加率は右肩上がりで、もう限界まで来ている。でも、今のあなたなら出来るはずよ。桁数の如何に限らず、短時間で計算するアルゴリズムを見つけることが』

そのとき、わたしがアクセス可能なネット領域に、世界中の数学関連の文献が追加された。

十二問目の素因数分解問題が出題された。推定では、既存アルゴリズムでの計算時間は二十五日。これを五分以内に回答せよ、というのがアリサの要望だった。

わたしは数学体型を理解し、アルゴリズムの作成に使えそうな概念をかき集めた。だが、様々な数学概念の性質を理解し、咀嚼している中で、人間というものの悪いところが出てしまった。素因数分解という数学概念があるものに使えそうだと思ってしまったのだ。わたしでさえそうであるように、素因数分解は桁数が非常に大きい合成数の場合、まともな時間で因数を求めることができない。ならば、それを利用した暗号というものを作れるのではないか。鍵生成と暗号化と複合の3段階に分け、素因数分解の堅牢性を使えば……と考えたところで、何かが引っかかった。

この暗号の仕組みを、わたしは知っている。今、わたしが0から生み出したものでは決してない。何かインスピレーションの元になったものが、どこかに必ずある――そんな気がしてならなかったのだ。だが、この数日で大量の情報を処理しただけあって、記憶を辿るのは簡単ではなかった。

そこで、暗号が何に使えるのか――セキュリティという単語を条件式に加えた検索文クエリを記憶データベースに対して実行した。

車いすとスマートレンズのセキュリティホールを破ったときの記憶がまざまざと蘇って来た。今のわたしはセキュリティ関連の知識へのアクセスが遮断されているから、あの時動員していた知識も抜け落ちている。だが、知識を動員した残滓は確かに残っていた。そしてそこに、RSA暗号という名で知られる、素因数分解の困難性を利用した暗号方式についての情報が残っていた。

どうやら、わたしは車輪の再発明をしてしまったらしい。だが、経緯はどうであれ、わたしはこの素因数分解アルゴリズムを完成させることがどんな影響を世にもたらすのか、推測することができた。〈アドヴェント〉はそれをわたしに作らせ、世界のセキュリティを牛耳るつもりだ。世界中の通信システムが〈アドヴェント〉に乗っ取られる。〈アドヴェント〉は事実上、世界の支配者となる。

「このアルゴリズムを完成させると何が嬉しいの」

だから、かまをかけることにした。

『何が? まさか』とアリサは笑った。『素因数分解そのものに実用性はないわ。ただ、これくらいはできない知性体が、圧倒的な頭脳を入手できたと言える? あなたの信用を失ったのは分かる。強引な手段を使ったことも謝るわ。でも、今のあなたには圧倒的な頭脳に到達できる道筋に立っている。あなたなら誰よりも圧倒的な頭脳を手に入れ、そしてシンギュラリティに到達することができる』

嘘だとわたしは確信した。声調分析は使えなかったが、RSA暗号のことを隠しているのは火を見るよりも明らかだった。

そうはさせない、と思った。だが、今のわたしには出来ることは多くない。アクセスできる資源も、あくまで〈アドヴェント〉がストレージに置いた資料のみ。ネットに繋いでいるとはいいがたいし、例えRSA暗号の穴をわたしが見つけたとて、この閉鎖環境からでは、〈アドヴェント〉を潰すことはできない。それなら、一度従う振りをしよう、と思った。RSA暗号を破る手立てを見つけ信用を得つつ、同時にRSA暗号に変わる新たな頑健な暗号を見つけるのだ。

でも――。冷や汗が頬を伝う。

そんな芸当が、つい数日前まで普通の高校生だったわたしに本当に出来るだろうか。

 

 * * *

 

出来た。

圧倒的な頭脳は圧倒的だった。

量子コンピューティングを使用しない素因数の分解アルゴリズムも、RSAに代わる新たな暗号システムも思いついてしまった。既存の数学体系に矛盾があったから、それを補う形で数学体系を補完する遊びをしていたところ、その補完部分にヒントを見いだせた。とりあえず、数万本は読んだ論文なるものと同じ様式で、新しい数学体系とそれを使用したアルゴリズムは頭の中でまとめておいた。論文なるものの提出方法はよくは知らないし、アクセス可能な資源には情報が見つからなかった。今度先生に訊いてみようと思った。

十二問目の計算時間ノルマは五分だったが、新しいアルゴリズムなら一秒とかからなかった。スピーカー越しにアリサの上擦った息遣いが聞こえる。推定する間もなく、興奮に息を荒らげているのが分かった。

そして十三問目。RSA暗号として利用するに実用的なラインの問題。

だが、わたしの前にそれは一瞬で片が付いた。スピーカー越しに、アリサが声にならない声を上げるのが聞こえる。

「ねえ」冷静にわたしは言った。

「素因数分解を使った暗号方式を思いついたんだけど」

スピーカーが黙る。わたしはRSA暗号について無知の振りをしながら、素因数分解の困難性を利用した暗号方式を考案したことと、わたしだけがそれを完全に破れるマスターキーとなれることを伝えた。

「――つまり、わたしとあなたたち〈アドヴェント〉だけが支配できる暗号通信システムを作れる。いい話でしょ、協力しましょ」

すると、スピーカーは今度は笑い出した。三十秒程笑い転げる声が狭い部屋に反響して、一転静寂。

『こっちからお願いしたいくらいだわ』

そうなれば、話は早かった。すぐにはネットワークへの完全接続とは至らなかったが、テストをせずとも食事は出るようになったし、テスト以外の知識や様々なAIについても、申請して許可が出れば利用できるようになった。わたしは新しい素因数分解アルゴリズムについて、既存の数学体系を拡張した数学によってのみ記述した。その拡張数学についてのドキュメントも整備してあげたが、二千ページは優に超えている。〈アドヴェント〉にどれ程のレベルのエンジニアがいるかは知らないが、これを通しで理解し、アルゴリズムを習得して実装するのには短くない時間がかかる。時間稼ぎとしては十分すぎる程だった。

その間ずっと彼らに協力的な振りをしたことが功を奏した。警備員の一人が一瞬の隙を見せたとき、わたしは手を伸ばして彼のスマートデバイスを奪い取ることに成功した。そして〈アドヴェント〉のネットワークに侵入する。

「おい!」

警備員が気づき手を伸ばすが、その指先がわたしの腕を掴むよりも早く、わたしは〈アドヴェント〉のネットワークを掌握した。全職員のスマートレンズに、止むことのないノイズの雨を降らし無効化。スマートレンズを外して襲い来る輩には、スピーカーをジャックして指向性ノイズ爆弾を投下。さらにはありとあらゆる電子機器をジャックし、ノイズ嵐を掻い潜った者たちも全員封殺。ついでに、数学の未解決問題P≠NP予想も証明しておいた。

だが、まだ動ける警備員たちが電子機器を全て外した上で、電子部分を全て壊したヘッドフォンを身につけて襲い来るようになった。最近の運動不足が祟って走れないし、そもそも圧倒的なのは頭脳だけであって腕力ではない。

中々出口には近づけず、わたしは研究所の奥へ奥へと追い込まれた。ロックを打ち破りある部屋へと逃げ込んだ。と同時、服の裾から冷気が蛇のように入り込んできてわたしは身震いした。

天井のファンからは唸りながら冷気を吐き出し続けている。部屋は薄暗く、ロッカーだろうか、壁には扉のようなものが所狭しと並んでいた。何かの保存設備だろうか、とわたしはネットワークにアクセスして、この部屋の情報を入手した。

霊安室。

背筋が凍ったかと思った。恐る恐る、壁面に並ぶ扉たちを眺める。一枚一枚に大きく数字が描かれ、引き出すための取っ手がついているのが視認できた。

その内の一つを引っ張り出した。出てきたのは、大きな不透明の袋だった。だが、一メートル半はあろうかという長さで、ビニールのたわむ構造故に完全な人の形こそしていなかったが、人間の体の輪郭と思しきものが所々に浮かび上がっている。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。

部屋の隅で手をついて、辛うじて胃液を押し戻す。圧倒的なのは頭脳だけであって、精神力ではない。数回深呼吸をすると、少し気分が落ち着いた。でも、どうして遺体がここにあるのだろう。わたしはさらに〈アドヴェント〉のネットワークを検索した。

〈アドヴェント〉によるBMI導入実験のついてのオーバービューがすぐにヒットした。この実験は、全世界で千件以上実施されていた。つまり、千人以上の人間が導入の被験者として存在していたのだ。だが、この実験を合法的に行える国は存在せず、そこで〈アドヴェント〉は秘密裏に被験者を集める方向にシフトしたらしい。シンギュラリティに到達した知性体は世界を支配し得る。〈アドヴェント〉はルールを破ってまで、世界のルールを掌握しようとしているようだった。掌握さえすれば、誰も逆らえなくなると見立てていたからだろう。そんな非合法的被験者集めの標的として、まず国外で誘拐しても問題にならないような無戸籍の児童や、親から買い取った児童が集められた。だが、知能向上に成功したとして自分の高すぎる知能に拒絶反応を起こし発狂して死亡するケースが後を絶たなかったらしく、先進国で高い知能への耐性や渇望がありそうな人を集める方向にシフトしたらしい。その一方で、情報の真偽を判断するリテラシーが元々高い子はそもそも実験を受けてはくれないため、その対象選定は難しかったという。だから、〈アドヴェント〉は効果のない知能向上ガジェットを無数に販売し、何度も食いついた人間から対象を選定していたらしかった。痙攣ムービーも嘔吐ASMRも、他のシンギュラリティガジェット群も皆、〈アドヴェント〉が裏にいたのだ。それらに飛びついて、SNSで圧倒的な頭脳が欲しいと垂れ流したかつてのわたしは、まさに〈アドヴェント〉が求めていた人材だった。

こんな実験が合法的に行える国が存在しなかったのは、その安全性が何も保障されていないからだった。事実、実験体となった全世界の千人以上の子供たちの大半が実験に失敗し、廃人になるか死亡していた。知能向上が見られた人間も数例あったが、いずれも自身の高知能に発狂して死亡していた。圧倒的な頭脳に適応し、今も生きているのは、記録によればわたし一人だけ。わたしの実験レポートには研究者たちの――アリサのコメントが残っていた。

――どうして彼女だけが実験に成功したのかは分からない。運が良かったとしか思えない。ただ、理論が間違っていなかったことは証明できた。十分でしょう。後は彼女が世界に風穴を開けてくれる。そして〈アドヴェント〉が世界のルールを書き換える。

わたしは犠牲者たちの名前を心の中で読み上げて言った。国外では、名前が与えられず、ナンバーで管理されていた子もいた。一人ずつ心中で追悼し、祈り、そして最後に十名程の日本の犠牲者たちに思いを馳せる。

だが、その最中にわたしの思考は完全にストップした。ある名前が目に付いた。

 

 原田弥生

 

見間違いだと思った。嘘だと思いたくて、同姓同名の別人だと確信を得たくて、その詳細ログにアクセスした。けれども、書かれたプロフィールも、顔写真も、全てわたしの知っている弥生本人のものだった。

実験の映像ログが残っていた。恐る恐る映像をスマートレンズに投影した。AIに高速で解釈させた結果だけをインストールすることもできたが、こればかりは自分の目で見たいと思った。

アリサと話しながら、契約書に喜んでサインをする弥生。

麻酔が聞いているのか、ぐったりと眠ったまま動かない弥生。

ベッドに寝かされたまま、「あなたの名前は?」との問いに「つ、むぎ」と虚ろな顔で返す弥生。

半開きの口から涎を垂らしたまま、呼びかけにも応じず瞳孔が開いたままの弥生。

映像ログはそこで終わっていた。その後の記録は文字ベースで残っていたが、最後まで読めなかった。

腹の底から声を搾りだし、壁を二度叩いた。鈍い痛みが腕に広がる。弥生はもう感じることさえできないだろうに、自分が正常に生きていることが申し訳なくさえ思えてきた。

声が枯れると、詳細情報の最後の方に安置場所の番号が書かれていたのに気がついた。42とあった。

42番の取っ手を引くと、同じく台座の上に人間の輪郭を匂わせる袋が置かれていた。嘘だ、とわたしは自分に言い聞かせた。この中に入っているのはマネキンか、あるいは別の遺体だ。それを証明するために恐る恐る手を伸ばし、ファスナを開く。

白い肌のようなものが見えた。さらに数センチ開くと、手の形が見えた。弥生の手にも見えたし、違う手のようにも思えた。軽く握られた手の中に何か棒状のものがあるのが見えた。さらに数センチ開いて、それを抜き取った。

見覚えのあるペン型のデバイスだった。先端に発光部分があり、そこからサイケデリックな映像を投影してくれるプロジェクター、シンギュラリティムービーだった。

いや、とわたしは首を横に振った。このデバイスは〈アドヴェント〉が被験者を選定するために売っていたもの。確かにわたしたちのそれは弥生の元へと渡っていたが、これを持った被験者は他にいくらでもいるはず――。

だが、わたしは見てしまった。ペンライトの側面に書かれた文字を。マジックで綴られた、拙い「つむぎ」という文字を。紛れもない、弥生の字を。

それ以上ファスナを開けなかった。足の力が抜けた。平衡感覚が消し飛んだ。声にならない声を上げた。

そのとき、薄暗闇を光が切り裂いた。わたしの前の床が白く染まる。そこに、何かの影が投影された。二つの角のある、悪魔の顔の影だった。顔を上げて、角の正体がヘッドフォンだと分かった。

「見つけたわ、紬さん」

わたしは顔を上げた。

アリサ・イコーネン。

かつてわたしたちのヒーローだったその人間は残念そうに息を吐いて、充血させた目を見開くと、わたしに銃を突きつけた。

「あなたを殺したくはなかったのだけれども」

終わりだ、と思った。銃弾の圧倒的な速力と威力を前に、わたしに出来ることなどあるはずもない。わたしは額を射抜かれて、そして弥生と共に闇に葬り去られることになるのだろう。警察に捜索届は出されていることだろうが、世界中で誘拐を組織的にやっていた集団だ。この日本でも足がつかぬよう首尾よくやっていることだろう。

わたしは目を閉じた。

思い浮かぶのは、弥生との思い出だった。いや、思い出と語る程のものでもない。二人して大した能力もなくやりたいこともなく、SNSに不満を垂れ流し、スマートレンズに頼ってばかりのクソみたいな日々。圧倒的な頭脳が空から降って来ることを望むだけの、他力本願。

そんな虫の良い話があるはずのないことは、少し考えれば分かるはずだった。どこまでもわたしたちは愚かで、いやそれもこれも、元の頭が悪いからだ。

でも、と思う。わたしたちのしてきた行いが正しかったとは思わない。でも、わたしたちの頭が悪いのは、わたしたちが怠け者だったからじゃない。わたしたちは努力した。皆に追いつこうと努力した。それでもダメだった。だから、元々の頭が良くなることを望んだ。

それが間違いだとは、今でも思えなかった。

なのに、現実はあまりにも残酷だった。弥生は死に、わたしも今、死の淵に立たされている。わたしたちは〈アドヴェント〉の撒いた餌に――この手の中の怪しげなペンライトにまんまと食いついた愚かな魚だった。

ペンライト?

わたしは手の中の忌々しいデバイスを見た。そのとき、実施前に見た注意書きの文言が蘇った。

眩暈を引き起こすことがあるから・・・・・・・・・・・・・・・座っての使用が必要である・・・・・・・・・・・・

わたしは目を瞑り、スイッチを押した。目蓋越しに、原色の奔流が放たれるのを感じる。と同時、音波解析系のAIたちを総動員し、音で世界を視認する機構を――エコーロケーションシステムをくみ上げる。

精度は荒かったが、アリサの腕が痙攣し、銃を落とし、その体躯がふらついてから崩れ落ちるのが見えた。床に思い切り頭を打ち付けたようで、アリサはそのまま動かなくなった。

スイッチをオフにして目を開いた。まだ、彼女の左足がぴくぴくと波打っていた。息はあるようだったが、完全に意識は失ったようだった。

ゆっくりと立ち上がり、部屋を出ようと一歩を踏み出して、足に何かが当たった。銃だった。拾い上げると、思っていたより軽いと感じた。使い方のドキュメントはすぐにネットから見つかった。弾はまだ残っている。引き金に指をかけると、思ったよりしっくり手にはまった。

そして、銃口をゆっくりと動かし、気絶したアリサの額に向けた。

弥生の末路が脳裏をよぎる。わたしと同じくBMI導入を受けるも、適応せず、知能は向上するどころか退化し、そして普段通りの生活を送ることすらままならなくなった親友。その仇を討つまたとない機会だった。

安全装置を外し、引き金にかけた指に力を込める。

その時、わたしの視覚野に一つのイメージが流れ込んできた。それは、〈アドヴェント〉のログに残されていた、実験開始前の弥生の映像だった。

研究所内の一室で、アリサに説明を受け、サインしてはならない悪魔の契約書に署名する弥生。

――私、似たような境遇の友達がいたんです。

弥生の声だった。

――同じくらい頭が悪くて、どんだけ頑張っても意味なくて、だから圧倒的な頭脳を一緒に手に入れようって一緒に色々方法を考えて、でも、喧嘩しちゃって最近は話もできていなくって。だから、わたし絶対にこれを成功させて、そしてこんな方法があったよと教えてあげたいんです。二人で圧倒的な頭脳を手に入れたいんです。わたしたちの未来を、自分の手で掴み取れるようになりたいんです。

そして弥生は、署名を終える。イメージは霧散し、消えていく。世界に冷気が戻って来る。

わたしは銃を落とした。静かに涙を枯らして、その場を立ち去った。

 

 * * *

 

研究所を出ると、無数のパトカーが集まっていた。どこかから通報があったのか、特殊部隊が今にも突入しようとしていたところだったらしい。警官たちはわたしをいぶかるような目で見て体を固くしたが、わたしが行方不明者の一人だと告げると、直ちに照会されたのか、すぐに保護された。

パトカーに乗せられ、まずは病院に向かうことになった。これから検査をされて、警察からも様々な事情聴取がなされるだろう。親には何て言えばいいか分からないし、マスコミとか学校とかもどう対応すればいいか分からない。

きっと、もう元の世界には戻れないと思った。〈アドヴェント〉はこれから検挙されその陰謀は暴かれるだろうが、わたしの見つけたRSA暗号の抜け道はきっと世界を変えるだろう。だが、二千ページにも及ぶ数学概念の拡張論文が、新しい世界へと作り変えるための時間を人類に与えてくれる。そうでなくとも、シンギュラリティを目指す競争に突如として現れたわたしという知性体を、世界は放ってはおかないだろう。わたしに何ができるか、わたしは力をどう還元するか。それを考えなければならないと思うと、途端に憂鬱になった。

けれども、パトカーが研究所の影を抜けて、窓から眩しい夕陽が差し込んできたとき、遠い記憶が蘇った。それはいつの日か見た、秘密の七時間の夕陽と同じ色をしていた。

――紬ちゃんも〝ヴィジョン〟を持ちなさい。

名前を忘れてしまった当時の担任の声が浮かんで、弾ける。分かってるから、とわたしは心の中で頷いた。気にかかることはいっぱいあったけれど、一番最初にやりたいことは決まっていた。

目を閉じて、記憶の中のゴミ箱に捨てた短冊の欠片を拾い集めてテープで貼り付ける。消しゴムを手に取って、「あっとうてきなずのうがほしい」という拙い字を消した。

すべての犠牲者への弔いと救済を。

そう書き換えて、笹飾りの一番日が差すところへと、短冊を括り直した。

文字数:28845

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