酒球

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梗 概

酒球

箱の中に銀河があった。箱は倉庫に並べられ、さらなる発展の時を待っていた。そのなかの一つに手続きの不備によって放置された箱があった。不真面目な倉庫番は管理の外にあることをいいことに、就業中に酒を飲みつつ箱をもてあそんでいた。そこで、かれはうっかり箱の中に酒をこぼしてしまう。そうしてアルコールに汚染された地球が生まれた。

人類はアルコールに浸された地上から海中に逃れ、新たな文明を築き上げていた。海中での生活に適応した人類は、首の両側にエラを持っていた。

深海の集落で次世代のリーダー候補の若者が過酷な儀式に挑もうとしていた。若者の名はイサ。かれは地上からあるものを取ってくるという試練を与えられた。アルコール濃度の高い空間で活動するため、完全密閉された「地上服」を身につけ、かれは地上へと向かった。

豊かな栄養が海を満たした一方、海面近くに住む生物は、アルコールに脳を侵されていた。イサが地上に向かって泳いでいくと、かれらが最も恐れる巨大な「酩酊ザメ」が襲いかかる。イサは危険を退けるための武器をもっていたが、相手の大きさの前には役に立たなかった。かれは最後の手段として濃縮アルコールを含んだ袋を投げつけ、さらにアルコールに狂わせて難を逃れた。

イサは地上に到達する。そこはまるで幻想の世界だった。色鮮やかな結晶の山が太陽の光を反射していた。降り注いだ酒に含まれていた酒石酸が結晶化してできたもので、イサは結晶の欠片を求めて地上にやってきたのだ。地上の美しい光景に目を奪われるイサであったが、同時に危険な場所でもあった。地上では揮発したアルコールにより自然発火現象が至る所で発生する。かれは細心の注意を払いながら地上を進んだ。

イサが上陸した浜辺の近くにも結晶は存在した。だが、海に近い結晶は水に溶けやすく、色も薄かった。そのため集団を導く覚悟のあるものは、できるだけ色の深い結晶を手に入れることが通例となっていた。名が語り継がれるリーダーたちは、みな、美しい色の結晶を持ち帰り、人々に称賛されていた。無事深紅の結晶を削り取ったイサは慎重に浜辺へと向かう。だがそこで危惧していた連鎖爆発が起きた。かれは赤い結晶を抱えて崖から海に飛び込んだ。爆風に巻き込まれ、イサは気を失った。

イサは目を覚まし、集落に帰還する。しかし、かれにはまだ最後の試練が残っていた。イサを出迎えた集落の長老は、結晶を砕き酒に混ぜて特別製の小さな「酒球」を作った。酒球は海中でも酒を摂取するための工夫で、通常はエラを通じて染み出したものをわずかに摂取するものだが、儀式では口に含む。イサは再び気を失った。それは酩酊状態の幻だろうか。イサは精神だけが体から抜け出し、海中を超え、成層圏を抜けた。そこでかれの視界を覆ったのは、月から数万キロ離れた場所に浮かぶ、凍結した超巨大な酒の雫だった。かれは目を覚まし、長老から儀式の終了を知らされた。

文字数:1198

内容に関するアピール

 テーマは2016年第二回「『変な世界』を設定せよ」を選びました。
 テーマだけは決まっていて、しかし何を書くのかさっぱり決まらない状況のなか、思いつくままに書いてみたものが冒頭の「銀河を箱で管理する」というものでした。そのまま構想を広げてたどり着いたのがアルコールに染まった世界です。当初は登場人物すべてが酩酊し、見るものすべてが歪んだ世界を構想していましたが、私の力量では酩酊する世界をコントロールすることができず、一時は断念することまで考えました。ですが考えを進めていくうちに、酔うこと自体を生活様式に組み込み、信仰の対象にまで高めた世界の一場面を切り取ることができれば、物語として成立しうるのではないかとこの形に至りました。
 飲み会自体が否定されつつある昨今、アルコールをメインとした物語により、酔うことの意義を改めて見つめなおしたいと思います。

文字数:376

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酒球

箱の中に宇宙があった。
 箱は倉庫に並べられ、加工される時を待っていた。加工とは文明の発展であり、停滞する進歩を外部の干渉により促進させることを指す。倉庫には加工を待つ箱が大量に並べられていた。
 箱は管理者によって管理され、加工される時を待っていた。
 だが、その中に一つ、長らく順番から外されていた箱があった。
 誤発注により倉庫に放り込まれた箱は、誰からも顧みられることもなく、長い間棚に並べられていた。そのような箱は、処分されるのが通例だったが、倉庫番は面倒ごとを避け、あってはならない箱を無視し続けていた。
 状況が変化したのは、旧管理者が退職し、新たな管理者が配属された時だった。かれは数字にこだわりを持ち、また仕事に対する徹底した態度を持っていた。かれが書類に目を通しているということは倉庫番も認識していたが、自分には関係ないものと高をくくっていた。
 新しい管理者は優秀だった。
 かれは申告されていた箱の数の矛盾を発見し、倉庫番の仕事の怠慢を指摘した。倉庫番は前任者のころのものだという箱の発注履歴を出し、無実を訴えた。倉庫番はそれ以上の追及を受けなかったが、管理者はそのことがあって以降、かれの業務を逐一監視するようになった。
 冗談ではない、と倉庫番は考えた。
 前任者からはぬるい仕事だと聞いていたからこそ、自分からこの仕事を志願したのだ。これではほかの部署よりも締め付けが厳しいではないか。
 辞めるつもりはなかったが、倉庫番のストレスはたまる一方だった。我慢しきれなくなったかれは、管理者がいない日を狙って仕事場に酒を持ち込むようになった。
 仕事場で飲む酒はうまい。
 だから、飲みすぎないように注意をしていたのだが、その日はいささかやりすぎた。前日に管理者から報告が遅いと小言を言われていたことも大きな要因だった。
 倉庫番は酔いに任せて、倉庫から処分されるはずの箱を持ち出して、なかをのぞき込み、渦巻く銀河の様子を見ながら酒を飲んでいた。
 加工を受けていない宇宙は、文明らしきものを得た惑星を有していたが、不安定で調和にかけていた。領地やエネルギーを取り合い未熟な争いを繰り返していた。
 倉庫番は宇宙を眺めながら指を突っ込んだり、箱の機能を使って惑星を拡大したりした。自分とは関係のない争いを見ることほど、酒の肴になるものはない。
 戦況が佳境となり、それと同時に倉庫番が酒を口に含んだ。
 と、ここで、想定外のことが起こった。酒を吸い込みむせてしまったのだ。口から直接こぼれることはなかったが、手に持っていたグラスから、箱の中に酒がこぼれてしまった。
 倉庫番は慌てて箱のふたを閉めた。考えてみると、いったい誰がこの箱のことを気にするだろうか。自分さえ黙っていれば、少なくとも任期が終わるまで、箱が見つかるはずはないのだ。
 酔っていたとはいえ、倉庫番にも罪悪感を持つだけの正気は保っていた。かれは箱を倉庫の奥に仕舞い込み、帰り支度を始めた。興ざめだと悪態をつきながら、ふらふらした足取りで職務室から出た。すでに定時は過ぎており、施設には倉庫番しかいない。そう考えてかれは酔いに任せて酒瓶を片手に帰っていった。
 だがここで、倉庫番が想像し得ない事態が起きていた。酒瓶を下げた姿を見ていたものがいたのである。偶然通信端末を仕事場に忘れ、慌てて戻ってきたものがいた。
 管理者がそのことを知ってすぐ、倉庫番に解雇通告が言い渡された。管理者は倉庫番の言葉に聞く耳を持たず、即座に新しい倉庫番を任命した。
 管理者の選んだ新しい担当者は、真面目ではあったが融通が利かず、管理者に言われた以上のことはしなかった。だが、倉庫番の仕事はそれで十分だったとも言えた。それから長い間、担当者が交代することもなく、何の問題も起きなかった。
 では、前任者が倉庫にしまい込んだあの箱はどうなってしまったのだろうか。
 新しい担当者は、その箱を認識していた。はじめ見たとき、なぜそこにあるのだろうと疑念を抱いたが、それで終わりだった。かれの仕事は倉庫のよくわからない箱を処理することにあるのではなく、指示を正しく遂行することだったからだ。
 そして、倉庫に戻された箱は、処分されることもなく、それからも長い間倉庫の隅に置かれることとなった。
 酒はこぼれた時点ではさほど影響はなかったが、時が経つごとに、前任者が見ていた惑星全体に影響を与え始めた。かれにとってはほんの僅かであっても、惑星にとっては気の遠くなるほどの量の酒が注ぎ込まれたことになる。
 かくして、アルコールに汚染された惑星が生まれたわけである。

そこは深海千メートル。
 太陽の光も届かない場所で、儀式を前に宴が開かれていた。
 かれらには両手があり、両足があり、人の形はとどめているが、頭髪などの毛は全く生えておらず、その表面はすべすべしていて凹凸がすくなかった。かれらが水中で生きることに特化していることの証拠だった。首の両側にエラの切れ込みが三本横に走り、この機構のおかげでかれらは地上に出ることなく生活することが可能となっていた。
 そこでは日中であっても、深海に光が届くことはほとんどない。無数の照明が浮かべられ、暗黒に包まれた深海を照らしていた。
 かれらの視力は、光を取り入れる方向に発達し、ほんのわずかな光でも周囲の状況を確認できる。だが、深海千メートルの環境では、その能力をもってしてもまだ足りない。かれらはそれを技術によって補っていた。
 かれらが水中で大切にしていたのは、光であった。海中の水流を利用した発電設備と真空を安定して作り出す技術をもとに、かれらは明かりを作り出し、より長く、より強く、周囲を照らし続けられるように改良し続けた。
 そして、人々が集まる広場には、縦横無尽にパイプが巡っていた。周囲の温度を一定に保つため、熱水噴出孔から引いた熱源だった。
 照明と暖房こそが、かれらの文明を発展させた大きな要因であり、それらの技術を起点にして多くの生活様式が構築されていた。
 かれらの集落は、およそ千人単位で構成され、厳しい掟により集団の結束を深めることで、過酷な環境を生き抜いていた。

その日の主役はイサだった。
 かれは海藻をリング状に編んだ冠を頭に乗せ、人々に囲まれていた。
 周囲の人々をかき分け、ひときわ目立つ大男がイサに近づいてきた。若く精悍な顔つきをしたイサに比べ、その男の顔はいかめしく、目元が笑っていなければ、人を遠ざけるには十分な威容だった。
 大柄のかれは、イサと肩を組み、話しかける。
「まあ飲めよ。今日は宴だ」
 水中では、のどを震わせて行う会話はできない。かれらは長い時間をかけて、触れ合った皮膚から発する微弱な電気を相手に伝え、会話する方法を身に着けていた。
 話しかけてきた男はクロキと呼ばれていた。イサの友人である彼は、青い球をイサの首筋にあるエラ部分に近づけようとする。
 水中では「食べる」ことは出来ても「飲む」ことは難しい。かれらが酒を飲むという時、それは酒球と呼ばれる、こぶし大の丸い袋をエラに近づけ、染み出した微量のアルコールを摂取するということであった。
「いやもう十分だ。明日の儀式に響く」
 イサは断ろうとしたが、すかさずもう片方に現れた、クロキの双子の弟、アカキが酒球をイサに押しつけようとした。
 イサを挟んでクロキとアカキが笑い合う。人を介していれば、電気信号が伝わり三人以上の会話も成り立つのだ。かれらはそのようにして、集団を、文化を作り上げてきた。
「いいじゃねえか。めでたい日だ。儀式に選ばれたってことは、これからおれたちのリーダーになるってことだ。リーダーの条件はお前も知っているだろう? 誰よりも飲み、誰よりも冷静であることだ」
 アカキの言葉に、イサは笑顔を浮かべた。そうかもしれない。ここで飲めない男が、儀式を無事に終えるものかと思った。
「ああ、そうだな」
 そして、アカキから受け取った酒球をエラに近づけ、さらにクロキの持つ球も受け取った。
「もう! やめなさいよ二人とも! イサも無理しないで!」
 イサの胸に飛び込む小柄な姿があった。三人の会話に割り込んだのはコビキ。イサを兄のように慕う幼馴染の少女だった。
 イサはコビキを見下ろして大きく笑った。
「大丈夫だ。このくらい平気だ」
 そこに、他のものとは一線を画す風格を持つニカイが現れた。かれは集落でも選ばれた者だけが着用を許される赤い装飾の帯を体に巻き付けていた。ニカイはイサには触れず、クロキの体に手を触れて自分の言葉を伝えた。
「今日はこのくらいにしておけ。明日の儀式に響く」
「ニカイさん。でもおれは……」
 ニカイは反論しようとするイサに、
「お前がセキのことで気負っているのは知ってる。だが、こんなところでいきがったところで意味はない。お前の力は儀式で示せ」
 と言い放つ。
 セキの名が出たとたん、イサの表情が険しくなった。ニカイに挑むような顔つきになり、全身に力をみなぎらせた。クロキとアカキの表情にも緊張が走る。イサは今にもニカイにつかみかかりそうなところを、コビキが止めた。
「もう! お兄ちゃんやめて! イサもやめて、飲みすぎよ」
 ニカイはコビキの兄だ。そしてイサを導く「成体」でもある。イサはある時期から集落の意思決定員の一人となるために訓練を受け、ニカイはかれを指導する立場にあった。
「コビキの言う通りだ」
 ニカイはそう言い残すと、イサのもとから離れた。その後姿を睨みつけるイサは、しかし、すぐに寂しそうな顔をして、
「今日はもう寝ることにするよ」
 と言って、宴の場から去っていった。

古くからの伝承には、こう書かれている。
 ある時、酒が地球に降り注いだ。しかしそれは、液体ではなく、氷の塊であったと伝えられている。その現象を解明できたものはいない。異星人からの攻撃であるとか、次元のゆがみから生まれた異変だとか、神からの裁きであるとか、さまざまな論者がさまざまな結論を出したが結局、答えを出す前に多くの人類は死に絶えてしまった。
 論者の共通の見解によれば、地球から少なくとも数十万キロメートル離れた宇宙空間に、突如アルコールと糖分を含んだ酒が現れ、その液体が地球に降り注いだのだという。宇宙空間に現れた段階で地球からは観測できていたのだが、その出現はあまりにも唐突であった。
 宇宙空間に出現した赤い酒は、地球に向かってこぼれ落ちたが、その過程でほぼすべての酒がシャーベット状に凍結した。だが、それが、被害の拡大につながったともいわれている。凍結した酒は地球の大気圏衝突時に溶解し、あるいは砕けて地球全土に降り注いだ。
 地上のあらゆる場所に、まるで壁に泥団子でも投げつけたように赤い半解凍の液体がぶちまけられた。これにより地球は一時急速に冷却された。まず、半解凍の液体に飲み込まれて多くの人類の命が失われ、次いで急激な気温の低下により食糧難などが発生し、これによっても多くの人類が死に至った。
 しかし、冷却には終わりが来る。太陽の光が氷を溶かし始めたのだ。水分を含んだ大量の液体が世界各地で溶け始める。結果は明らかだった。全世界で大洪水が発生し、人類は住む場所を追われることとなった。
 溶けた物資にも問題があった。その液体には多量のアルコール分が含まれおり、さらに問題なのは、実際のアルコールとはわずかに性質が異なっていたことだ。確かに口に入れば通常の酒のような効果が得られる。しかし、降り注いだ酒の成分は決してもともとあったアルコールとは混ざり合わなかった。
 結果、海がアルコールに汚染されることとなり、揮発したアルコールは雲に上り、汚染された雨が降り続けた。そして、残った陸上もまんべんなくアルコール漬けとなった。植物は育たず、植物を食べる動物も死に絶える。やってくるのはさらなる食糧難だった。
 そうして、現在までの世界の形が作られた。
 あとは人類の進化を待つばかりだが、それは、自然発生したものではなかった。赤い凍った液体が地球に降り注いだ段階で、多くの人々は死に至ったが、まだ人類の未来をあきらめない者たちがいた。彼らは地下に潜り、人類存続の道を探した。
 結論はすぐに出た。アルコールに満たされた世界では人々は生きていくことはできない。地下での生活もいずれ終わりが来る。食物を確保できなければ人はいずれ死んでしまうのだ。彼らは苦渋の決断として、人類の未来を次の世代に託した。
 数少ない人類の細胞を人工培養し、遺伝子操作を加える。アルコールから逃れるには、地球上にはもはや深海の領域しか残されてはいなかった。そして人類は地下に蓄えられた食料と、わずかに確保できたアルコールに汚染されていない水を消費する最後の時まで、環境に適応した人類を生み出すことに全てを賭けた。
 イサが生まれたのは、その千年後のことである。

儀式の当日、イサは一人で神殿へと向かった。
 暗闇がかれをつつむ。普段は集落全体を絶え間なく照らし続けていた明かりがすべて消され、遠方に見える神殿の周辺だけを照らしていた。
 イサは腰に身に着けた携帯照明の光を頼りに、周囲の障害物を確認しながら進んだ。
 深海のサンゴの死骸を集めて作り上げた神殿は、集落のなかでも特別な儀式のときのみに使われる。かれらは熱源のパイプが通った海流を和らげる壁だけで設えられた簡素な住居で寝起きしていたが、その神殿だけは例外だった。
 深海に適応する人類は、地上から多くの技術を受け継いだ。
 だがそれらの大半は、維持できずに技術そのものが失われている。過酷な環境で生きていくためには、機械を維持する補修や新たに製造するためのコストを払うことはできなかった。
 かれらに残されたのは、海中を安定した温度に保つ暖房と暗闇を照らす明かりのほかは、食料確保や外敵から身を守るための必要最低限の技術だけだった。
 かれらは深海で生きることのみに力を尽くし、新たな技術を生み出すことはなかったが、その代わり集団の結束を固めて安定化させる文化の醸成に取り組んできた。
 その一つが、イサが挑もうとしている儀式だった。
 無数の照明に囲まれた神殿にたどり着くと、その入り口でコビキが待っていた。
「居たのか」
 イサはコビキの肩にふれ、言葉をかける。
「うん。どうしても出発前に会っておきたいと思って」
 コビキはイサの顔を見ようとはせず、うつむき加減に応えた。儀式の前は、近しいもの以外は接触を禁じられていた。
「安心しろ、コビキは家族のようなものじゃないか」
「ふふ。うれしい」
「ただ、周りには言いふらすなよ。罰を受けるのはお前だからな」
「言うわけないよ」
 しばしの沈黙。コビキはためらうように、
「死なないでね」
 と伝え、イサの胸に抱きついた。
「ああ、死ぬものか」
 その抱擁を解くために、イサは多大な労力を払わなければならなかった。かれはコビキの両肩を掴み、体から引きはがすと、そのまま神殿の中へと進んだ。コビキを振り返ることはなかった。振り向いてしまったら、決心が揺らぐと考えたからだ。
 装飾のついた儀式用の照明がつるされている回廊を進むと、大広間に出る。そこには集落の長老であるキロクが待っていた。
 イサは儀式の慣例に基づいて礼をした後、跪いた。
 キロクはうなずき、奥の祭壇に飾られた地上服へと促す。祭壇の両隣には、顔にヴェールをまとった二人の巫女がいた。
 イサは素早く立ち上がり、地上服の前に立つ。身に着ける手順は事前準備ですでに何度か体験している。あとは巫女たちにすべてを任せるだけだ。イサは地上服を装着しやすいように、手と足を使って、地面から浮き上がる。すかさず巫女が、足元から地上服を通す。
 神殿は静寂に包まれていた。儀式前に神殿内で言葉を発することは禁じられ、巫女が誰なのかも知らされることはない。
 地上服が、イサの体を締め付けた。水の抵抗を受けにくい流線型の表面は、現在のかれらが作りうる最高水準の技術で作られていた。
 人類は深海で適応する代わりに地上で生活する機能を失った。水圧が下がれば体が膨らみ地上では破裂してしまうのだ。さらに深海の水温に適応したかれらは、地上の気温に耐えられない。地上服は内部の圧力と温度を一定に保ち、地上での活動を可能にする。
 装着が完了し、巫女二人が下がった。
 長老がうなずき、イサは再び深く礼をした。
 イサは上へと昇って行った。慣れない地上服に違和感を感じながらも、かれはゆっくりと神殿の上方へと向かった。吹き抜けの大広間には、円錐形の頂点がある。そこには、人ひとりが通ることのできる穴が開いていた。
 イサは穴を通り抜け、暗黒が満たす空間へと旅立った。

深い海では太陽の光も届かない。
 集落の照明がなければ右も左も、上か下でさえも判別のつかない空間で、イサはただ、一つの方向に向かって泳いでいた。頼りになるのは神殿の明かりだけだ。時折イサは後方にかすかに見える明かりを確認し、その反対の方向に進んでいく。
 明かりが消えると、見えてくるのは点滅する無数の小さな光の群れ。それは深海で生きる浮遊生物の発光だった。集落での光源に慣れ、狩りの時でさえも、仲間たちの持つ携帯照明により明るさが維持された環境にいたかれにとって、それはとても新鮮な光景だった。
 かれはしばし泳ぐのをやめ、幻想的な光景を眺めていた。もしもかれが宇宙の存在を知っていたならば、まるで銀河の星の瞬きだと考えただろう。
 甲高い鳴き声が水中で響いた。イサは振動で音を知覚し、何が近づいてくるかに気づいていた。
「見送ってくれるのか」
 地上服ごしにかれに触れたのは、一匹のクジラだった。小型でまだ若い。イサの体に身をすりよせ、何度か鳴き声を発した。クジラはアルコールに浸された世界で生き残った種の一つだ。
 イサは、そのすべすべした表面を撫で、
「今日はいつものように触れなくてすまないな」
 とつぶやいた。
 何度か頭をなでてやると、クジラは身をはなした。鳴き声に引き寄せられて複数のクジラたちが、イサの周囲を取り巻きながら泳いでいた。
 クジラは集落の人々にとって重要なたんぱく源であり、海中を進むための移動手段だった。人が深海で適応して以降、この世界でともに歩んできた仲間であった。だが、今回ばかりは、連れていくわけにはいかなかった。儀式は誰の力も借りてはならないと厳格に定められていた。
 しばらくすると、海中の色が黒から青に変わる。日の光が届く深さまでたどり着いたのだ。それとほぼ同時に、クジラたちはイサの周りから離れ、深海へと戻っていった。
 イサ地上服の腰につるされた道具袋に手をかける。
 青みがかった海中で、黒い巨大な影が近づいていた。イサに緊張が走る。影の正体はわかっていた。海面近くを支配する生物がかれの匂いを嗅ぎつけたに違いなかった。
 その生物は人々から酩酊ザメと呼ばれていた。
 地上がアルコールに浸されてから、地上海中問わず多くの生命が死に絶えたが、わずかな種が生き残っていた。人々とともに生きるクジラもその一つだ。クジラは海水とアルコールを分離し、体外に排出する気管を備えていた。
 サメもまた、アルコールに適応した。だがそれは、アルコールを摂取しない方向ではなく、むしろアルコールを受け入れる方向に体を変化させた。
 酩酊ザメは気性が荒く、近づくものはすべて嚙みちぎろうとする性質を持っていた。かれらはアルコールで常に朦朧としており、たとえ同族であろうとも、一切躊躇することがなかった。
 血を好み、生物の反応があればどんなものでも食いつくす。それが人々に恐れられる酩酊ザメの生態であった。痛覚は麻痺し、たとえ自らの体が傷つけられようとも、噛みついたら最後、相手を死に至らしめるまで離さない危険な存在だった。
 サメの存在を認識した時、イサは震えていた。
 かれは心の底からおびえていた。このことが起こることは、何度も頭のなかでシミュレートしてきたはずなのに、体がすぐには動かなかった。
 イサには本質的な意味で覚悟がなかった。ほんとうは、儀式を受けるのが怖くて仕方がなかった。それでも、受けることを決めたのは、兄のセキのことがあったからだ。
 イサは目の前の巨体に、ただただ恐怖を感じていた。サメの影を見ただけで、かれは昔のかれに戻っていた。気が弱く、誰も傷つけることができない、気弱な少年。
 コビキに見せた態度を今更ながら恥ずかしいと思う。かれには目の前のサメに立ち向かう勇気を持つことができなかった。
 恐怖は、酩酊ザメが接近し、その輪郭があらわになると、よりはっきりと胸の内を支配した。聞かされていたものよりもずっと大きく、かれの体の十倍はあろうかという大きさだった。
 腰に設置された機械仕掛けの銛に手をかけ、やめる。通常の狩りでは十分な性能の武器でも、目の前の巨体を目の前にすると無用の長物のように思えた。
 イサは震える右手をもう片方の手で押さえながら、道具箱を探る。もうこれしかない。
 だがそれは、緊急用の最後の手段であり、むやみやたらに使うことはできない。それに、手持ちは限られ、外れた場合、即座に死につながる。だが、おびえるかれに選択肢などなかった。
 薄明かりに包まれた海中で、イサは止まった。こちらからの攻撃を外すわけにはいかない。だが、クジラがいない以上、機動力では圧倒的に劣る。であれば待つしかない。
 光に照らされた巨大な酩酊ザメが、こちらを認識した。酩酊状態特有ののたくるような無軌道な動きで近づいてくる。表面の無数の傷は、歴戦の猛者であることを示していた。
 黒い巨体がさらに大きくなる。目の前を酩酊ザメが覆っていた。
 イサの震えが頂点に達する。
 目をつぶってしまいたかった。意識を失い、何もかもが終わった後で目を覚ましてしまいたいとさえ思った。
 だが、それはできない。誰も助けは来ないのだ。
 黒い塊がさらに接近する。イサは体を丸め、その場を離脱する力を蓄えた。全身に充実する力を感じる。サメの大きな顎が、かれを噛み千切ろうと襲いかかる。
 そこでイサは、道具箱から取り出したスリングをサメに向けて射出した。その直後、ためた力を開放し両足で水中を蹴る。イサが居た場所がかみ砕かれるのを確認するよりも前に、かれはさらに海面に向かって泳いでいった。
 波の動きが変わった。
 サメの暴れ方に変化が生まれる。水流の変化を感じて、イサはサメを振り返る。サメがその場でのたうち回っていた。
 イサが射出したのは、特別製の酒球だった。通常よりもはるかに高濃度のアルコールを入った酒球を飲み込んだサメは、自らの体のアルコール許容値を超え、中毒症状に苦しめられていた。
 イサはその様子を見届けてから、光の方へと急いだ。体の震えは収まっていなかった。それでも、危機を脱出できたという達成感がかれを満たしていた。

そこは幻想の世界のように美しかった。
 イサは自分が立っている場所が、海に続いているとは思えなかった。多くのものが暗闇に覆われ、照明がなければ物の輪郭さえも認識できない深海に比べると、地上はどこまでも赤く、そして、輝いていた。
 生物の存在を許さないその場所は、赤く染まり、そして、酒に含まれた成分が結晶化して地上を覆っていた。空から降り注ぐ光が乱反射し、イサの眼を刺した。地上服に外部からの光を調節する機能がなければ、かれの目は眩んでいたことだろう。
 浜辺に立っていたイサは、まずその重力に圧倒された。水中では感じたことのない一方向への力の流れ。訓練で重点的に鍛えられた足腰と、地上服のアシスト機能により、かれはなんとか浜辺に立っていた。
 目の前に広がるのは赤く染まった大地と幾重にも折り重なり、そして山のようにそびえる無数の赤い結晶だった。
 イサは重力を全身に感じながら、一歩を踏み出した。バランスをとることに慣れておらず、ぎこちない動きになってしまったが、かれにとっては大きな一歩だった。
 歩を進めるうちに、だんだんとコツをつかんでくる。右に左にと危なげなかれの歩行が、次第に安定感を見せはじめる。やがて、かれの平衡感覚と地上服のアシスト機能がうまく合致し、訓練通りの歩行が可能となった。
“これでいい”
 イサはつぶやき、改めて赤く染まった風景を見据えた。
 結晶はその荒々しい様相を無造作に見せつけていた。触れれば地上服が傷つく可能性もあり、慎重に進まなければならない。
 かれの目的は結晶を深海に持ち帰ることだ。
 それが儀式の要であり、イサはそのために長い訓練期間に耐えてきた。
 浜辺近くにも結晶はあったが、かれはそれを選ぶことはなかった。海に近い結晶は色が薄く、透明に近いものが多いからだ。
 イサが求めるのは、より深い赤みを帯びた結晶だった。
 もちろん、手に入れる結晶の色に決まりはない。だが、儀式を受ける若者たちは、代々その質を競ってきた。誰よりも深い赤、あるいは特殊な色合いを見せる珍しいものを持ち帰ることが、かれらの誇りとなり、人々から尊敬される要素の一つとなっていた。
 イサは覚悟を胸に、赤く染まった地上を進んだ。草木が枯れ果てた地上では地面の起伏と岩、そして山、かつての文明の痕跡である朽ち果てた建造物が見えるほかすべて結晶に覆われていた。
 遠くで、爆発音が響いた。
 イサは身を強張らせ、あわてて腰に下げた計器を取り外し、表示されたアルコール濃度を確認する。
 可燃性の気体に満たされた地上では、わずかなきっかけで発火現象が発生する。例えば強風で岩が転げ落ち、それが別の岩や放置された建造物の金属にあたれば、その火花で爆発が起きる。
 木々の多くは枯れているため、延焼の可能性は少ないが、爆発の近くにいた場合、無事では済まされない。
 イサの心に不安がよぎる。計器によると警戒レベルはさほどでもない。しかし、地上でどのように発火現象が起きるのかは、深海で生きる人々にとって未知のものだ。
 足元がぐらついているのがわかる。今すぐにでも引き返し、海水に包み込まれたい誘惑にかられながらも、イサは大きく体を揺らした。落ち着け。まだ何も起きていない。言い聞かす言葉に力はなかった。
 だが、やらなければならない。かれは意を決して、先へと進んだ。

かれの求める結晶は、コンクリートでできたトンネルの天井から地面に向かって生えていた。
 かつてはその上を電車が往復していたであろうトンネルの内部は、結晶の宝庫であった。運よく風雨にさらされることなく保全された空間では、半円の壁面から中心に向かって赤みの強い結晶が成長していた。
 そのトンネルにたどり着いたのは偶然というほかなかった。
 イサには知識がないため、それがいったいなにに使われていたのかを判別することは出来なかったが、トンネルにたどり着くまでの道中でさまざまな建造物がかれを驚かせた。
 折れた電波塔やひっくり返った幾台もの車など、有機物以外のほとんどのものは、酒が降ってきた当時の状況で残されていた。
 崩落したビルの一階に似たような状況の結晶があり、それは十分な色の濃さを有していたが、イサはあえてそれを選ばなかった。
 特別な結晶が必要だった。
 誰にも手を付けられていない。より深い色を持つ結晶でなければ、かれは自分を納得させることができなかった。
 遠くで爆発音が響く度にかれは怯え、膝ががくがく震えた。ときには地上服のアシスト機能を超えるほど震えが激しくなり、かれは態勢が崩れそうになるのを必死でこらえた。
 だが、それでも、かれは妥協しなかった。なんとしてでも価値のある結晶が欲しかった。
 そして今、目的の結晶が目の前にある。イサは恐怖とは別の感情に手を震わせ、腰に装着していた専用の鑿を取り外すのに苦労したほどだった。
 焦る気持ちを抑え、イサは慎重に結晶の一部を削った。かれの望み通りの真紅の欠片だった。
 かけらを保管用のケースに収め、腰に装着すると、かれの震えはようやく収まった。後は海に戻るだけ。かれの目的はついに達成されたのだ。重圧からの開放感が、かれを包んだ。
 心に余裕が生まれ、かれは来た道を引き返しながら、地上からの風景をもっとよく見ておきたいと考えた。かれの興味は、朽ち果てた建造物よりも別のところにあった。
 来た道をそれ、浜辺とは別の高台へと向かう。
 結晶が入り組んだ道を潜り抜けると、視界が開けた。
 目の前に、海が広がっていた。
 イサの故郷である海を、このような視点から見たのは、当然はじめてのことで、かれは世界の広さに思いをはせた。
 暗闇に覆われ、集団で移動しなければ明かりも確保できない深海では、生活圏内が限られている。方角も定かでない深海では、単独行動は死に直結するためだ。イサは生涯で二度と見ることのないかもしれないこの光景を、絶対に忘れまいと誓った。
 その時、予感があった。深海で生きるかれらが身につけた、先を見通す直感のようなものが、イサに警告を与えていた。
 ボッと爆ぜるような音がした。
 次の瞬間には、炎がイサに迫っていた。激しい衝撃がかれを襲う。とっさに体を丸め、海に向かって飛び出した。爆風がかれの背を叩き、一瞬にして意識を飛ばした。
 イサは水面に向かって墜落していった。

 イサの兄であるセキは、儀式を受ける以前から、集落の皆から尊敬を受ける存在だった。狩りに出れば誰よりも大きな獲物を捕らえ、訓練と称した同年代との格闘では、右に出る者はいなかった。
 両親を流行り病で亡くし、セキとイサは兄弟二人で生きてきた。イサが物心つく頃には、セキは若年ながら、集落の大人たちに交じって狩りに参加しており、かれを認める大人も多かった。
 もちろん、イサもまた、兄に負けないように努力はした。が、それは兄の輝かしい功績に隠れて、一度たりとも目立つことはなかった。
 兄は世界に愛されていた。イサが許せないのは、兄に対する嫉妬の気持ちすらも湧いてこないことだった。兄は完璧で、かれと比べられることを嫌いながらもむしろ誇らしく思っていることが許せなかった。
 セキは誰よりも早く儀式を受ける資格を得た。当時にしてはありえないほどの若さであったが、誰も文句を言うものはいなかった。それほどに、セキは期待され、そして同時に、期待に応えることができるほどの実力を周囲に見せつけていた。
 儀式の当日、セキはイサに言った。
「もしもおれが帰ってこなかったら、一人で生きていけるか?」
「何言ってんだ! 兄ちゃんは大丈夫だよ!」
「お前は知らないかもしれないが、儀式で多くの命が失われている。おれだって例外じゃない」
「でも……」
 イサの眼に悲しみの色が浮かぶ。するとセキは、イサの体に両手を回し、抱き上げた。
「お前はいつまでたっても弱虫だな」
「わ! なんだよ兄ちゃん! 離してくれよ!」
 嫌がるイサの体を担ぐセキの腕に力が入り、それをイサは感じて暴れるのをやめた。
「お兄ちゃん……?」
「俺たち二人きりで、今までよくやってきたよな」
「ぼくは何もしていないよ」
「お前がいたから頑張れた。おれは別に、みんなから認められたくてやったわけじゃないんだ。ただ、二人で生きるのに必死だった」
「兄ちゃん……」
 イサはセキにしがみつく。
「なんだ?」
「死なないで」
「ああ、死ぬものか」
 それが、イサとセキが最後に交わした言葉だった。
 無残に焼き焦げたかれの体が発見されてわかったのは、セキは途中まではうまくやっていたということだった。だが、運が悪かった。酩酊ザメに襲われても動じず、自らの力で地上の結晶も手に入れた。だが、爆発と地形がかれに味方しなかった。
 アルコールの発火によって生まれた爆発がセキに襲い掛かり、それだけならばまだしも、地面の結晶の突起が、地上服を貫通しセキの体に突き刺さった。
 傷はそれほど大したことはなかったが、地上服が傷つけられたことが致命的だった。圧力の調節がきかなくなり、何とか海に戻ることができたものの、身動きが取れなくなった。
 体が動かないなか海に入ることはできたが、流れ出る血液を、酩酊ザメにかぎつけられてしまったのだ。
 兄の無残な姿を前に、イサは取り乱すこともなく、黙って死体を見下ろしていた。暴れだしそうになる自分を必死で押しとどめ、手が痛くなるほどこぶしを握り締めていた。隣で、物心ついたばかりのコビキがかれにしがみついていた。
 その時、イサはセキのようになろうと決めた。かれが集落のなかで頭角を現すようになったのは、それからしばらくしてのことだった。

イサは海中で目を覚ました。
 自分が意識を失っていたことに気づき、まず第一に地上服の状態の把握に努めた。触ることのできる範囲で破損はない。だが、危険がせまっていることをかれは直感していた。
 即座に周囲を確認する。酒球を飲み込み、より狂暴となった酩酊ザメがこちらに近づいていた。
 不思議と、不安も焦りもなかった。イサはそんな自分が奇妙に思えた。思考とは別に体が勝手に動いていた。予備の酒球はない。だが、かれの腰には銛がある。手に取り、スイッチに触れると、銛は自らの伸長とほぼ同じ長さに変形した。
 サメはすでに生物としての機能を完全に失っていた。目に映るものすべてを攻撃対象とし、暴れ狂うだけの怪物と化していた。彼の周囲には同族と思われるサメの肉片や骨が散らばり、赤く染まっていた。
 通常、高濃度アルコールの酒球を摂取すれば生物は死に至る。だが目の前のサメは、その体の大きさゆえか、未だに生にしがみついていた。
 いずれ活動限界を迎えると推測できるが、死を待っている時間は残されていないことは明白だった。これらのことをイサは冷静に分析し、無軌道な動きを見せるサメを見据えていた。
 イサは銛を握りしめ、サメに向けて構える。自分でも驚くほどに落ち着いている。体の震えもなく、筋肉の緊張すら皆無だった。自分に何が起こっているのか、それを考えるよりも先に、サメが蛇行しながら襲いかかってきた。
 この状況でもイサの心は平静を保っていた。頭を左右に振り回すサメの動きにあわせて上方へと逃れ、巨体の真上で静止した。サメはのたうち回りながら方向を変え、イサへと頭部を向ける。
 その時、イサは迷うことなく機械式の銛を放った。射出力で、かれの態勢が崩れ、一回転する。かえしのついた銛の先端は、一直線にサメの頭部に突き刺さり、深くえぐりこんだ。
 イサは体を安定させ、サメを見下ろす。しばらく緩慢な痙攣を繰り返していた巨体が、動きを止めた。銛をもとの状態に戻し、腰に装着しなおすと、光がさす海面と反対に向きを変え、深い場所へと潜っていった。
 強大な捕食者との戦いがあったにもかかわらず、イサの心は凪いでいた。これまでの自分を、はるか彼方に置き去りにしたような感覚だった。
 海の色が青から黒に変化し、イサは改めて自らが深海の暗闇を求めていることを知った。黒さを増していく視界に、発光生物たちの光が見え、かれはそこに懐かしさを覚えた。
 いくつもの甲高い鳴き声が聞こえる。クジラたちだ。
 イサは感情があふれだしそうになるのをぐっとこらえる。まだ何も終わっていないのだ。クジラたちが、イサの周囲に集まり、かれとともに銀河の先へと進んでいった。

遠くに明かりが見えた。ほんの小さな瞬きが、次第に大きくなっていく。イサが帰ってくるまで灯される神殿の光に向かって、かれは一直線に進んだ。
 イサの明かりに気づいたのか、集落の一体がぱっと明るくなった。そこでイサは泳ぐのをやめ、周囲のクジラたちをなでながら、
「迎えに来てくれてありがとう。ここからは一人で行かせてくれ」
 と伝えた。クジラたちはそれぞれイサの周りを旋回して、周囲に散っていった。イサは覚悟を決めるようにして、神殿へと向かった。
 神殿の前には、集落の人々が集まっていた。ひときわ目立つ大柄の二人組がイサに向かって大きく手を振っていた。かれがその中心に降り立つと、人々がかれを取り囲んだ。
 両方からがっしりと肩を組んでいるのはクロキとアカキの二人だった。
「やるじゃねえか。お前ならやると信じてたぜ」
「当然だよなあ! なんつったって俺たちのリーダーなんだから」
 人垣が割れる。泣きそうな顔でイサにゆっくりと近づいてくるのは、コビキだった。コビキは体を曲げるとうちにため込んだ力をイサにぶつけるように胸に飛び込んだ。
「よかった! わたし、ほんとうに……」
 イサはコビキの背に手をやり、
「ああ、なんとか帰ってこれた」
 と答えた。
 人垣を割って、ニカイが現れた。かれが悠々とした足取りでイサに近づくとコビキはイサから身をはなした。
 ニカイは右手でこぶしを作り、イサの胸にあてた。
「よくやった。だが、これで終わりではないことは知っているな?」
 イサはうなずいた。集まった人々が散り、神殿の前にはイサとニカイだけになった。イサにはわかっている。まだ儀式は終わっていない。かれはニカイに頭を下げ、神殿の入り口をくぐった。
 大広間の中央でキロクが待っていた。かれの隣には出発時と同じように巫女が二人立っていた。イサはキロクの前に立ち止まり、体を浮かせた。すると巫女たちは滑らかな動きでかれに近づき、地上服を剥ぎ取った。
 イサは地上服から解放されると、キロクの前にひざまずいた。キロクの杖がイサの肩に置かれる。
「イサ、戻りました」
 キロクはうなづいた。
「うむ。よくぞ試練を乗り越えた。労ってやりたいところだが、お前にはもう一度死んでもらわねばならぬ。さあ立て」
 キロクの言葉に促され、イサは立ち上がった。
 巫女の一人が、キロクに小さく赤い酒球を手渡した。回収した地上服に保管されていた結晶の一部を砕き、酒と混ぜ合わせた特別製だった。
 イサは身を低くかがめながらキロクから酒球を受け取り、高く掲げた。そして姿勢を正し、小さな酒球を、口に含んだ。
 通常、酒球から染み出したものをエラから吸い込むものだが、儀式では口に含む。特別製の酒球はカプセルのように、体に入ると即座に溶け出した。
 イサの表情がゆがんだ。
 体内を巡る高濃度のアルコール、そして、集落に伝わる秘薬を混ぜ合わせた酒が、イサの脳内をぐるぐるとかき回す。かれは気を失った。バランスを崩して水中で倒れていくのを、巫女たちが支え、神殿の床にやさしく寝かせた。

それは、アルコールが見せた幻覚にすぎないのだろうか。
 イサは気を失った次の瞬間に、自分の体を視界に収めていた。かれ自身はそのことについて、ただ驚くばかりであったが、かれに起こったことは、自分の体から意識だけが抜け出し、水中に放り出されたようなものだった。
 体から飛び出したかれは、なにかに背中を引っ張られるようにして、神殿への上方へと向かった。神殿の壁を突き抜け、さらに上方へ。神殿から外に出ると、建物の周囲に集まっている人々の姿が見えた。
 スピードがさらに上昇する。目まぐるしく海の色が黒から青に変化し、すぐ隣を酩酊ザメが駆け抜けていた。
 そして、かれは水面に出た。急激な光の量の変化、そして圧力の変化も、意識の上では全く関係ないらしく、そのことに驚く以前に、イサははるか上空へと飛ばされていた。
 その時、イサは初めて地上を高みから見た。赤く染まった大地。結晶が隆起した地面の形が、みるみるうちに縮小されていく。酒でかさの増した大洋、わずかに残った赤い大地。それらを見ながら、イサは不思議と郷愁を感じた。
 雲が、かれを包んだ。
 上空一千メートルの高さで、雲の海原と丸く神々しいまでの輝きを放つ太陽を見たとき、イサは荒れ狂う感情の渦に押しつぶされそうになった。
 だが、かれが自らの中に生まれたものをつかみ取ろうとする前に、かれのからだは成層圏を突き抜け、宇宙空間へと放り出されていた。そこでかれは自らのいた場所が暗黒の空間に浮かぶ球体の一区画でしかないことを知る。
 上昇は止まらなかった。宇宙空間を突き進むかれは、すでに考えることをあきらめ、周囲の星々が、海で見た生物の発光にに似ているとぼんやりと、認識するほかなかった。 
 果てしない旅がついに終わる。イサは宇宙空間に静止した。地球の全体を視界に収め、遠くには太陽が見えた。首を動かし、見える範囲に、全貌を把握できないほどの巨大な球体が浮かんでいる。かれは月のすぐ近くに居たのだ。
 だが、かれが見たものは、それだけではなかった。
 態勢を変え、後ろを振り向くと、そこには赤い球体が眼前を覆っていた。イサはあらゆる光景に対する判断を保留にしていたが、その球体がなんなのかということだけは、なぜかはっきりと心に浮かんでいた。
 それは凍結した超巨大な酒の雫であった。偶然地球の引力にとらわれた凍結した酒の一部が、月とともに地球の周囲を回っていた。
“これが、酒球……”
 イサが心のうちでそうつぶやいた途端、全身に衝撃が走り、目の前が光に包まれた。
「目覚めよ」
 キロクの杖から伝わる言葉を、イサは認識する。かれは体を起こし、周囲を見回した。そこは気を失う以前と何ら変わらない、神殿の大広間だった。
「お前が見たものは何人たりとも話してはならぬ。良いな」
 キロクの言葉に、イサはうなずいた。
「行け。これで儀式はすべて完了した」
 キロクに促され、イサは神殿の外へと向かう。
 かれは先ほど見た光景を鮮明に思い出すことができた。それは、目を覚ました今となっては、幻であると言い切れるだけの自覚はあった。だが、その幻覚はかれに変化を与えつつあった。
 神殿の外へ出ると、コビキをはじめ、仲間たちがかれの周りに集まってきた。遠くでニカイがこちらを眺めている。
 イサは、これまでの自分と、今の自分が明確に違うことを発見した。
 話しかける集落の人々に返答しながらも、もうかつての自分戻ることはできないかもしれないと思うと、イサは少しだけ寂しくなった。

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