梅歌を齧る

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梗 概

梅歌を齧る

その男は口で発した言葉を信じていない。言葉は、感情を複雑な曲線とするならば、それを近似した直線の寄せ集めに過ぎないからだ。また、男は食事が苦手であった。たった五つに分解できる味覚もまた直線だ。
男が短歌に出会ったのは高校生の冬、古典の授業。和歌に、口から発した言葉とは異なり自分の考えが断片的にでも永く残るという魅力を感じた。
加えて、詩で心を通わせる友人を知音と呼び、天涯孤独の身を孤露と呼ぶことを学んだ。自分は孤露であると思い、知音の存在に憧れた。
帰り道、さびれた神社の一角に咲き始めた白梅に薄っすらと紅の匂う様を見かけ、男は手元のメモ帳に短歌を書き記す。
 紅の 化粧施す 雪の花 孤露の頬にも 春を呼び込む
それ以来、メモ帳へ短歌を書き留め、紙束は溜まっていった。
男は大学生になっても孤独な生活を続けていた。
あの白梅が花の盛りを迎え、男は思わず短歌を足元に散っていた大菊の花弁に短歌を書いた。
 雪が月 梅が星なら 幾千の 夜が降りゆく 孤露の掌
その短歌を白梅の根元に手向けると、強烈な梅花の香りがし、男は白梅の花を一輪、齧る。すると、梅の花が和歌を唱えた。
 我が宿に 咲きたる梅を 月夜よみ 宵々見せむ 君をこそ待て
梅花に、男は初めて美味しさを感じた。
ある日、子供がいたずらでその梅花を食べ、この白梅が和歌を詠むことが話題となる。男は白梅に近づくことが難しくなり再び孤独を味わう。
そんな折、男は口下手が原因で遠く九州勤務が決まってしまう。機を見てまだ花の残る白梅に短歌を手向ける。
 梅の花 君が枝葉に 後ろ髪 絡める風に 言づての香を
白梅の花を齧ると、和歌が返ってくる。
 君が行き もし久にあらば 梅柳 誰とともにか 我がかづらかむ
このやり取りを最後に、男は九州へと旅立つ。
一方、あの梅花の五味を再現したガムに和歌を記した包装紙を巻いたなどの陳腐な商品が出回る。
二月、大宰府にて男は菅原道真の短歌に出会う。道真公の短歌に自分の境遇を重ねて強い感動を覚える。言葉とは単なる感情の直線近似ではなく、自分なりの曲線を新たに描く指針であると気付く。また、書き残せないから、一瞬の感動は食事であれ、和歌であれ尊いものと気づく。
一瞬の言葉である声ならあの感動を再び味わえると考え、初めて、短歌を口で詠みあげる。
 ただ一人の 知音たれやと 梅歌を齧る 降り雪染める 東風の香こいし
東から風が吹き、白梅が目の前に現れた。一輪、花を齧るが声はしない。音はなくとも味、香り、感情に男は白梅の和歌が聞こえた。
 我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも
それ以来、男はこの白梅を知音と思い、友と語り花を食する瞬間を至上の美味として大切にした。梅に雪に、輝かしいばかりのこの景色をどう言葉で表現しようかと男は思案する。白梅の和歌が香る。
 梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ

文字数:1194

内容に関するアピール

「今一番やりたいことをやる」というプリキュアの教えに従い、書きたいことが書ける課題である『何かを食べたくなるお話を作ってください』を選びました。食事が悲鳴を上げるなら人間は食事をしなくなるという暴言をネットで見かけ、もし、食べ物が声を発するならその音も美味しさの一要素になるのではという発想から和歌を詠む梅を夢想しました。わたしの目指す SF は、作中人物や読者が、作中の科学や SF 的事象に触れる事で何か考えを巡れられる物語です。そこで、①食事も和歌もその場限り、一瞬の感動が重要であること、②言葉はその人だけの感情を近似的に表すのでなく、受け手がその近似的な直線から自分なりの新たな感情を描かせる能力があり、感動を自分のこととして再翻訳できる記録として機能すること、が伝わる事を目指しています。なお、男の短歌は菅原道真の漢詩や和歌をもとに自作したもの、白梅の和歌は万葉集から引用しています。

文字数:394

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梅歌を齧る

 言葉はあまりにも簡素で、何を語るにも足りなすぎる。『おいしい』のありふれた一言だって、それが料理へ向けたものか、菓子へ向けたものかで意味はまるで異なってしまう。実際に触れた伝えたい感覚も、感動も、少しも伝わりやしない。かといって『甘くておいしい』と言えば充分だろうか? 甘いと言われても、それが洋菓子のこってりとしたそれなのか、果物の瑞々しいそれなのかでやはり全くの別物だ。ならば更に言葉を付け加えて、付け加えて。どこまで行っても言葉というものは感覚を、感動を表現するには簡素で、物足りない。
 数学の授業で曲線の直線近似を習って、腑に落ちた事がある。複雑な数曲線に、いくつもの直線をあてがって、どうにか簡便に表現しようというものだ。コンピュータで音楽を再現する時に使われる技術などの大元らしい。言葉も、これと同じだ。感情という曲線があって、それに言葉という直線をあてがっている。どれだけ細かく直線を並べても、決して元の直線にはならないというのに。コンピュータ音源がスカスカだと感じる人がいる。同じように、俺は言葉に近似されたあらゆる表現をスカスカだと思う。
 指の隙間から砂が溢れていくように、表現した先から、何かを失っていく。
 だから、言葉は嫌いだ。
 特に、口から発する言葉は昔から大嫌いだった。ただでさえスカスカな言葉が、言った先から靄のように消えていく。霧散して、まるで何も無くなってしまう。小学生の頃、『また明日』を約束した友人が次の日に引っ越して、転校した。口から放たれたその一瞬で消えてしまう言葉に、何の価値もない。
 そんなだから、表現の関わる一切の趣味を持てなかった。小説に詩はもちろん、音楽は歌詞がなければ多少聞いたけれど、言葉の代わりに音があるだけだと気付いてやめてしまった。表現に近似されない嗜好を求めて、辿り着いたのは香りだった。
 手軽なところで、花なら今は金木犀に水仙、梅。あるいは紅茶とコーヒーだろうか。立ち上る湯気が無限に姿を燻らせて、鼻先で香りが踊る。それから一口、濃い夕暮れの溶け込んだ液体を飲み込む。喉の奥から飛び立つように、香りが羽ばたいてくる。あぁ、やっぱり言葉では不充分だ。だけれど、香りを楽しむこの一瞬だけは至福だった。言葉ではとても表現しきれない、溢れんばかりの感動が香りには詰まっている。
 それだというのに、世間は香りすら陳腐に近似してしまった。俺がようやく見つけた嗜好が、表現に堕とされてしまった。味覚センサというものは古くからあったが、あれの嗅覚版が世に出回ってしまったのだ。プリンに醤油でウニの味という冗談は昔からある。うま味と塩味、甘味の数値が近しくなるという子供だましだ。同じように果実香、花香、植物香に土香、スパイス香等々と香りを分解して、近似して数値化する。その数値を元に安い豆をブレンドして希少コーヒーを再現したり、焙煎時にほうじ茶やチョコレートを加えたりと数値さえ良ければ何でもありになった。果ては自分好みの数値を入力すれば、様々なコーヒーの香りを足し合わせた結果がその数値となるように混合比の最適化が行われた。それを『おいしい』と誰もが表現した。数値だなんて、言葉以上にスカスカで、どれだけ自分好みに近かろうと欠乏感ばかりが香った。プリンに醤油だ。どう足掻いたって、ウニになりはしない。嫌気が差して、香りという趣味からも離れてしまった。どこを見ても数値として表現化された香りばかりで、俺が好きだった湯気の踊る仕草は、もうどこにも残っていない。至福の一瞬は、もう甦らないのだ。
 何の楽しみもない曇天の生活が陽光に貫かれたのは、気に入りだったコーヒーミルを捨てた翌日だった。
「文字に残す、というのは大切な事で、こうして千年以上昔の人々が何に感動したのか、文字を通してわたし達は知る事ができるのです」
 大嫌いだった国語の授業で、この一言が矢のごとく突き刺さった。平安時代の和歌集について先生が滔々と語っている。教室の大半と同じく眠気に溶け入りながら聞いていた俺は、こつんと、空から透明な硝子玉をぶつけられたように目が覚めた。世界が蒼々と冴え渡っていくのを感じた。
 文字にすれば、残る。
 たとえスカスカの直線だとしても、名残だけでも、一瞬のきらめきが手元に留まってくれる。感覚が、感動が千年の時を超えて、手元の教科書で踊っている。たった三十一字に近似された、直線の姿だとしても。この時差し込んだ一筋の陽光が、俺と短歌との出会いだった。
 それから、事あるごとに短歌を書くようになった。どうせ言葉で感情は書き切れないのだから、三十一字という制約がむしろ心地良い。紙に残した感情は日毎に増えていって、机の引き出しは短歌を書き連ねた紙片であふれていく。ここに、俺の感動が残っている。ありのままの、その一瞬の感動という曲線は残せなくても、直線近似の姿で踊り続けてくれる。読み返す事もなければ、他人が書いたものを楽しむ事もしなかった。どうせ、欠乏感に苛まれるのだから。
 国語の授業は相変わらず大嫌いで、微睡みに溺れるようだったけれど、もう一つだけ覚えている事がある。
「知音(ちいん)、という言葉があります。中国で春秋時代に、楚の鍾子期(しょうしき)が、琴の名手であった伯牙(はくが)の弦を弾くその音色一つで、心境を理解したという故事が由来で、自分の心を理解してくれる固い絆で結ばれた友人を意味します。一方で、孤露(ころ)という表現があります。これは学問の神様で有名な菅原道真が使っていた独自の表現です。独り取り残された孤児というのが大元の意味で、道真は自身の天涯孤独な様を愁いてこの言葉を使っていました。道真は漢文に詳しい人でしたから、知音という故事も当然知っていて、知音を望んでいた事でしょう。そう思うと、孤露と自身を表する姿が一層哀れに思えては来ませんか?」
だったら、俺もまた孤露だと思った。なんなら誰も彼もが皆、孤露じゃないかとさえ思った。琴の音色一つが心を表現しきれるはずがない。いいや、どんな表現だって心を語り尽くせやしない。知音だなんて故事はおとぎ話じゃないか、と。無性に腹が立ったからこそ、覚えている。
 だからこそ、知音という言葉がずっと心に響いている。それは天上に煌めく星のようで、手が届かないと分かっていながら、焦がれるように憧れた。

 

 大学に上がっても相変わらず、世間は表現に溢れていた。手を出したかったワインが飲める歳になりはしたけれど、数値として表現化されたスカスカの香りが蔓延っていて、辟易した。仕事に就くためと割り切って選んだ学部だからか授業の間はもぬけの殻で、どうにか単位だけは拾い集めている。会話というものが苦手で嫌いで、初めのうちは付き合いと思って参加した飲み会の類いも疎遠になった。短歌の同好会にも顔を出した事はあるが、反りが合わなかった。誰も彼も言葉を、表現を信じ切っている。俺の欠乏感を理解などしてはくれない。
だから独り、短歌を書き散らす時だけがささやかな幸福だった。誰が来るでもない四畳半は感情の断片に溢れていく。断片だけでも、残っている。孤露のままでいい。知音という星は遠く遠く、どこかで輝いているだけで構わないと思っていた。
 寒さの凍てつく蒼白の二月、紅色の妖精が鼻頭で踊ったのだ。
 下宿までの帰路に佇む寂れた神社から、咲き始めの梅が香ってきた。雪と見紛う切ない白梅で、花弁の根元ばかりがほんのりと色づいている。この紅が香ったのだ。
 咄嗟に鞄を漁っても、持ち歩いているメモ帳は切らしていた。仕方なく、落ち葉を拾い上げて文字を刻んだ。

 紅の 化粧施す 雪の花 孤露の頬にも 春を呼び込む

 誰に読ませるでもないのだからと、落ち葉を梅の根元に放った。途端、朧な雪であった梅の香りが強く、鮮烈に匂い立つ。黙する白梅と、しばし見つめ合った。五弁の星が、確かに煌めいて見えたのだ。
 それから、何かと思いついては朽葉の類いに短歌を刻んだ。あの白梅へと手向けるためだ。この梅は確かに、俺の短歌を読んでいる。そう感じてならなかった。
 無数の感情が地面へ朽ちていき、梅は花の盛りを迎えた。
 思わず溢れた吐息の白さえも溶け込んでしまう、満天の白梅だった。日もまだ高いというのに清涼な夜と見紛うばかりの煌めきで、木枯らしの度に花弁の舞い散る様は香りの妖精が舞い踊る姿そのものだった。
近くに萎びていた手の平大の花弁、大菊の名残だろう。こいつを拾い上げて、逸る気持ちの溢れるままに言葉を吐き出した。

雪が月 梅が星なら 幾千の 夜が降り行く 孤露の手の平

 菊花を手向けると、白梅は応えるように強く、強く香った。足の先から髪の端まで、嗅覚一つでは拾いきれないほどの深い紅の踊り。全身が心地よく溺れるその甘酸っぱさが蠱惑的で、抗いがたくて俺はつい、白梅の花を一つ、口に含んでいた。本能のままに齧っていた。
 すると口中から、琴のように朗々と、鳥のように燦々と美しい声が鳴り響いた。

 我が宿に 咲きたる梅を 月夜よみ 宵々みせむ 君をこそ待て

 梅が、歌を詠んだのだ。それも俺の短歌への返歌であった。人目も憚らず俺は梅の根元で泣き崩れてしまった。誰に見せるでもなかった感情の断片が、直線近似に過ぎないたった三十一字が、この梅に届いたのだ。喩えようもなく嬉しかった。
 その日から、一つ短歌を読んでは萎びた菊花に文字を刻んだ。白梅の根元に放れば、紅の香りが俺に声をかける。そうして五弁の星を、花弁を齧れば歌が返ってきた。もしやこれが、天上に煌めく知音というものだろうか。寒空の元、俺とこの白梅は互いに歌を詠み合った。

 

 些細な事から、呆気なく幸福は崩れてしまう。例えば見蕩れていた白銀の世界に、誰かが一歩、土足で踏み込んだように。
 初めは子供のいたずらだったと聞く。テレビで鶯が梅の蜜を吸う様子を見て、梅の花を食い千切ったのだ。よりにもよって、あの白梅を。

 梅の花 咲きて散りぬと 人は言えど 我が縹結ひし 枝にあらめやも

 そう、白梅が歌ったのだ。食べると歌を詠む梅の噂はあっという間に広がり、寂れた神社は嘘のような賑わいとなった。大仰なテレビスタッフが白梅を取り囲み、画面の向こうで整った顔の芸能人が梅花を口に含んだ。『おいしい』と、白梅の声をかき消す勢いで叫んでいた。ブームの喧噪に対して、たった一株の梅花はあまりに希少だ。初めはあの白梅を口に含んで歌を聴いていた大衆が、気付けば、梅味のガムに適当な短歌の包装紙で巻いたまがい物で満足していった。味覚センサ、嗅覚センサによって数値的にはあの白梅と同じだという。そこに短歌があればあの白梅を齧る事と変わらないとでも言うのだろうか。白梅の声もスカスカに録音され、複製され、味気ないガムのような歌声が世界中にばらまかれた。
 あの白梅が、俺の大嫌いな表現に堕とされたのだ。
 俺が白梅へ向けて書き綴った歌の山までもが吐き捨てたガムのように思えてきて、そもそも、あの白梅に近づく事さえ難しくなって、俺は再び孤露となった。充足を知った身に冬の終わりは身の切り裂けるような思いがして、就職も何も、上手くはいかなかった。元来の口下手もあって器用に立ち回れず、春には遠く、九州へと勤めに行かなければいけない。
 その前に、もう一度だけ。俺はどうしてもあの白梅に会いたくて、夜の底に神社を訪れた。あの白梅は周囲を赤色テープで何重にも取り囲まれて、もう、花もほとんど残ってはいない。陳腐なテープをくぐり抜ける。
 細い、か細い月光に包まれて、あの白梅は凜と黙していた。初めて出会った日と同じように花弁は星の、知音の煌めきで、微かながらも、紅の妖精が匂い立つように踊っている。俺は用意してきた菊花に、用意してきた別れの言葉を綴った。
 
 梅の花 君が枝端に 後ろ髪 絡める風に 言伝の香を

 君が行き もし久にあらば 梅柳 誰とともにか 我がかづらかむ

 白梅の声は一瞬で、決して形には残らない。けれどもこの一瞬が限りなく愛おしかった。鈴の音が永久を木霊するように、何度も、何度も耳を、この身体を震わせる。確かに舌が触れた花弁の甘味も、鼻先を踊った紅の妖精も、星の煌めきも全て、身体が覚えている。心が覚えている。それだけで構わない。この感動を、言葉に貶めさせやしない。表現したってしきれない。
そうして、雪が溶けるのも待たずに俺は旅立った。

 

 福岡の辺りは梅が有名だそうで、二月も待たずに梅祭りの看板がそこかしこを彩っている。どれも眼に鮮やかな紅梅で、香る余地もないほどに騒々しい。俺は相変わらずの四畳半暮らしで、頭を空っぽにしての事務処理ばかりで日が沈んでいく。学生の頃から書き溜めた短歌は段ボールに詰め込んで、荷解きもしていない。残っていれば、それでいい。スカスカの文字なんて、読み返したところで虚しいだけだ。それでも、今日も短歌を書く事は止められない。俺の心が確かに今、ここで鼓動しているのだと残す手段は、それしかないのだから。

 因る枝を 去りし鶯 雪と埋もれ 孤露の寒さに 春を悲しむ

 何度か、書き散らした歌を梅に手向けてみたが、誰も応えてはくれなかった。同じ梅だろうと人は言うだろうが、違う。俺の知音たりえたあの白梅は、星の煌めきを宿すあの花は、たった一つしかいない。
 歌を詠む白梅のブームも、随分と静かになったと聞く。梅味のガムは近所の食品売り場でも売れ残りが目につくようになった。実際にあの白梅の花を口に含んで歌を嗜む人までもさっぱりいなくなったらしい。風の噂では、あんなに厳重だった立ち入り禁止のテープも砂埃に塗れ、神社は元の寂寥を取り戻したそうだ。
 何でも、あの白梅が辛く苦しい歌ばかりを唱えるのだという。

 梅の花 香をかぐはしみ 遠けども 心もしのに 君をしぞ思ふ

 白梅のブームは過ぎ去ったが、花を口に含む嗜好だけは残った。今の流行は桜が盛り、その次は躑躅らしい。最早、直線ですらないじゃないか。白梅の奏でる美しい歌も、心揺さぶられる味も香りも、どれもが失われた成れの果てが世間に散らばっている。その内、どの花も全て味と香りが数値化されて、表現に堕とされて、枯れていくのだ。どれだけ直線をあてがっても、あの日、あの歌あの味あの香りあの白梅でないと、決して曲線にはなりえないというのに。
 そう思うと目眩がして、梅祭りの看板から逃げるように道を逸れた。太宰府の本殿はそこそこの賑わいだろうから、どこかにまがい物の梅が香りでもしたら耐えきれない。あの白梅でなくとも、梅に会いたい。頭を揺さぶって、そんな苦し紛れは捨てる事にした。
 孤独の果てで、俺は一つの短歌に出会った。

『東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』

 菅原道真の歌だ。昔、授業で聞いた孤露の人だ。遠い、遠い昔の人が唱えたたった三十一字が、俺の感情として、今、この瞬間の曲線をぴちりと描ききる歌として、大嫌いだったはずの言葉が並んでいた。この歌は、千年も昔の見知らぬ他人が唱えた孤独、その断片に過ぎないはずがない。商店街の端っこで、偶々見かけたポスターを前に、俺は泣いてしまっているのだから。この歌は、確かに俺の孤独を歌っている。いいや、俺の孤独をも歌っている。そうして同時に、遠い誰かの、孤独の断片でもあるのだ。
 直線に近似された曲線が、感動が、自分を媒介してオリジナルの曲線に昇華する。
 そのことに気がついた。途端、大嫌いだった言葉が、そのどれもが星の切っ先とばかりに輝いて見えた。『おいしい』の一言に、言外の感動が溢れんばかりに眠っている。その直線を通じて、輝かしい曲線を推測させることこそが言葉の役割じゃないか。言葉にならない心に想いを巡らせて、自分なりに感動を追いかける事こそが言葉を受け取った俺が為すべき仕事じゃないか。直線に過ぎない言葉はスカスカで欠乏しているだなんて、怠惰もいいところだ。俺が心を奮わせて、曲線を思い描いていなかっただけなのだ。
 俺は、俺の孤独を通じて彼の人の孤独を想像する。自分の事として追体験する。この歌の主も、どれほど梅を愛していた事だろう。その別れはどれほど痛切に、心を引き裂いただろう。想像して、想像して、自分なりの曲線を思い描いて、自分の事として俺は涙した。俺もまた、あの白梅との別れが身の千切れるほどに苦しかった。あの一瞬の感情が、曲線が、見知らぬ誰かの言葉という直線を経由して、心を媒介に、甦る。
 彼の人が歌った感情も、あの日の俺の一瞬も、今思い描く曲線と同一では決してないだろう。だけれども、今、この瞬間に、言葉はあの一瞬を思い出させたのだ。
 鼻に朱色が香る。それはあの白梅の香りでは決してないけれども、あの白梅をありありと思い出させるのに充分な断片だった。味も、音も何もかも、あらゆる表現がきっと断片で、直線をいくら並べても足りない何かを、心を、自分のそれで補って、初めて、感動という曲線が完成するのだ。表現は受け取った今、この瞬間に、自分だけの曲線としてこの場に産まれるのだから。
 もしも、たった一瞬で消え去る言葉にも、その一瞬に、曲線を描けるのならば。

「ただ一人の 知音たれやと 梅歌を齧る 降り雪染める 東風の香恋し」

 初めて短歌を声に出した。歌は唇の震えるがまま、霧散していく。それでも今、俺の思う限りを歌い上げた。
 強い東風が吹いて、初め、それは雪かと思った。真っさらな、白銀の花。遅れて匂い立つ紅の妖精。蠱惑的で、抗いがたくて、懐かしい。あの白梅が俺の前に降り立った。あの日、あの歌あの味あの香りあの白梅だ。香りが俺に語りかける。花を一つ、口に含む。あの日のように、齧り付いた。琴の音も、鳥の声も失った白梅が、味で、香りで全身で、俺に歌を返してくれる。

「我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも」

 たった五弁の花が、今、この瞬間が、堪らなく『おいしい』。梅に、雪に、輝かしいこの一瞬を、煌めく知音の星を、どんな言葉で残せばいいだろう。

 

 久しぶりにコーヒーを買った。あの頃好きだった味は、きっと、数値で表すならこう表現できるだろうか? そんな夢想が、短歌を詠むように楽しかった。あの時感じた愛しさを、もう一度。今の自分で体験したい。淹れたコーヒーは決して高校生のあの時と同じではないけれど、湯気の燻らえる香りは今の自分に心地よかった。最近はワインにも手を出している。遠い異国を、香りという表現を介して味わうのだ。あらゆる表現が、断片が、俺にとっての煌めきとして生まれ変わるのだから。
 あの白梅のたった一瞬が、今でも、言葉という断片を通して、たった一人の知音として残り続けている。
 あの、愛しい時間をもう一度。夢で歌ったのは俺か、あの白梅か。

 梅の花 夢に語らく みやびたる 花を我れ思ふ 酒に浮かべこそ

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