とろける微睡み

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梗 概

とろける微睡み

 イサリはきっかり十五分の仮眠から目覚めた。頭も身体もすっきりとしている。かつて、人々は一生の約三分の一という膨大な時間を睡眠に費やしていたという。薬によって睡眠時間を十五分に短縮した私たちは、より長く豊かな人生を手に入れた。
 イサリは、製薬会社で働く二十八歳。仕事は自分に合っているし、激務と呼ばれる働き方も苦ではない。社内での評価も高く信頼を寄せられている。学生時代から付き合っている優しくて誠実な彼氏・タカヤとの婚約も決まり、何もかもが順風満帆だった。しかし、イサリは事故に遭い三日間の昏睡状態に。生還を果たしたものの、悪夢にうなされるようになる。十五分の仮眠中に夢をみる人はおらず、イサリも生まれてこのかた夢などみたことはなかった。友人に相談しても働きすぎと言われ、病院で事故の後遺症ではないかと相談するも異状はなく、訝しげな顔で薬の量を増やされるだけだった。何の解決策もないまま、毎度生々しい感触を伴う悪夢を見続けるイサリは日ごとに疲弊してゆく。
 追い詰められたイサリは妹のミコトにも相談する。ミコトは、どうせ見るならすごい夢を見ようと、中国人のルームメイトからもらった「竜骨」という薬をくれた。古代生物の骨から精製され、その太古の記憶を取り込むことで地球とチャネリングし、この星の神秘の歴史を追体験できるという。イサリは絶対に嘘だと思いながらも受け取る。その日の夜、仮眠をしようと横になり目を閉じた瞬間、急に恐ろしい映像が脳裏に浮かんで飛び起きた。もう、仮眠をすることさえできなくなったのかと愕然とするイサリは衝動的に竜骨を飲む。ごくりと嚥下した瞬間、目の奥で火花が散って気絶する。
 イサリは幸福な夢の中にいた。幼少期から今までの幸福な記憶と、自分の理想が混じり合った甘い夢がイサリを満たしていた。骨まで溶けてしまうようなやさしい眠り。イサリは生まれて初めて目を覚ましたくないと思った。毎晩、めくるめく幸せな夢に溺れるイサリは十五分の仮眠では我慢できなくなり、薬を捨てる。イサリの睡眠時間は、日ごとに伸びてゆく。そんなイサリを見て、ミコトが竜骨は全部嘘だったと告白する。空想好きの姉を喜ばせたかったのだと泣いて詫びるミコトにイサリは「そんなの初めからわかってた」と言い捨てる。理想と狂乱の夢に溺れていくうちに、イサリは自分が本当は現実世界にうんざりしていたことに気づく。仕事や生活、彼氏など今まで必死に勝ち取ってきたものに一切の価値を見いだせなくなり、夢の世界に生きることを選ぶ。イサリを蔑む者、憐れむ者、助けようとする者など、周囲の反応は様々だが、身も心も眠りに溶かして、うっとりと夢を見るイサリにはもう関係のないことだった。遂には、タカヤもイサリのもとを去ってゆく。しかし、イサリは気にも留めない。もうこの世界に、眠り以上にイサリを満たし、幸福な気持ちにしてくれるものはないのだから。

文字数:1200

内容に関するアピール

課題:「何か」が増えていく、あるいは減っていく物語を書いてください。(2020年第5回)より、「「何か」が増えていく物語」を選びました。
 
「睡眠負債」が度々問題になったり、「眠り」にフォーカスした入浴剤や食品が話題になる一方で、コンビニには大量のエナジードリンクが並び、多くの会社員が残業をする歪な現代から、エナジードリンク側(眠らない)に振り切った未来を想像しました。
 
睡眠時間を極限まで短縮した人間が、逆に眠りに溺れて日ごとに睡眠時間を増やしていく話です。
わたしは、一日中眠り続けてしまった日のすっかり薄暗くなった部屋で身を起こすときの倦怠感やふと目を覚ました瞬間、まどろみの中でまた眠りに引き戻されていくあの感覚には中毒性があると思います。
実作では、イサリが眠りの快感に目覚めるところやイサリのめくるめく夢の世界を優しく、妖しく、魅力的に描きたいです。

文字数:379

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とろける微睡み

 スモークのかかった窓から降り注ぐ光は丸みを帯びて、プリーツスカートの襞に滲んで消えた。淡い光さえ厭わしく、もっと暗い場所を求めて背もたれと座面の間に顔をうずめる。座面は少し埃っぽくて、日向の匂いがする。わたしは車の後部座席に寝そべり、微睡んでいる。車は走っている時も、止まっている時も小さく震えていて、その振動に身を委ねていると、とろとろと心地よい眠りの浅瀬に行けるのだ。ふいに、車が音もなく静かに止まった。木立の影がわたしの身体に模様を刻み、揺れている。頭上から、暖かな声が降ってくる。私を呼ぶ父の声。わたしは寝たふりをする。父の影がゆらりと立ち上がって、どこかへ消えた。後悔がふと胸をよぎり、身体をこわばらせた瞬間、後部座席のドアが開く。父がまたわたしの名前を呼ぶ。大きくて暖かい影がわたしをそっと抱き上げた。

*** 

 うっすらと目を開ける。真っ白い光の濁流に飲まれて何も見えない。誰かがわたしを呼んでいる。ふいに左手が熱い何かに触れ、わたしは左手の存在を思い出す。

「もっと、もっと触って、わたしを、わたしの身体を思い出させて」

声にならない叫びは喉元で暴れまわる。しかし、わたしは、ひゅっひゅっと細切れに息を吐くことしかできなかった。

***

 ブランコも、鉄棒も、滑り台も、砂場の砂の一粒にいたるまで、すべて夕焼けに染め上げられている。わたしは公園の真ん中にぼんやり立っていた。ここは…?一歩前に踏み出そうとすると、突然、歪で耳障りな音が空から降ってきて、わたしは思わず目を閉じて耳を塞ぐ。よくよく聞いてみると、ひどく間延びして切れ切れになった夕焼け小焼けのチャイムだった。おそるおそる目を開けると、誰もいなかったはずの砂場にぽつんと女の子が立っている。こちらに背中を向けているが、ふわふわのポニーテールと、青いリボンの髪飾りには見覚えがあった。あれはモエちゃんだ。

 「モエちゃん」

思わず縋るような声になった。しかし返事はない。

 「モエちゃんなんでしょ、こっち向いてよ」

わたしが語気を強めてもぴくりとも動かない。恐怖に苛立ちが勝り始めた。いつもちょっとでも無視すると怒るくせに。わたしは、肩を思い切り揺すぶってやろうと、モエちゃんの背中に向かってずんずん進んでいった。砂場に足を踏み入れると、ずぶりと足が沈み込み、靴の中があっという間に砂だらけになった。靴下越しに感じる砂がうっとうしくて、さらに苛立つ。怒りに任せてモエちゃんの肩に手を伸ばした瞬間、わたしの身体は石のように固まって動かなくなった。

 「ねえイサリちゃん、影がそんなに伸びちゃったら、もう帰れないんだよ」

モエちゃんが、抑揚のない声で言う。影?振り向こうとしても首が動かない。懸命に目だけを動かして、自分の背後を確認する。わたしから伸びる影は公園を横切る一本の線になっていた。「どういうこと?」と言いかけて、わたしははっと息を飲む。モエちゃんが、ゆっくりとこちらを振り返ろうとしている。頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響く。ゆがんだ口元がちらりと見えた瞬間、わたしはぎゅっと目をつむった。見ちゃだめだ。見ちゃだめだ。見ちゃだめ!

***

 はっとして目を覚ますと、目の前にいたのはタカヤだった。夢か。じっとりと湿ったパジャマが身体にはりついて気持ちが悪い。夢なんて見るのは子どもの頃以来で、わたしは浅い呼吸を繰り返した。タカヤはわたしを腕の中にすっぽり収めると、「大丈夫?」と優しく背中をさすった。わたしは、よほどうなされていたのだろうか。頷きながらタカヤの胸に額を押し当てる。汗と、少しコーラの匂い。タカヤの身体は、なぜかほんのりコーラの匂いがする。わたしはタカヤの不思議な体臭が好きだ。本人には伝えないけれど。

 「夢をみたの」

ぽつりとつぶやくと、タカヤは驚きながらも、「どんな夢?」と尋ねた。わたしは、おぞましいほど鮮やかな夕焼けや、乾いた砂埃の匂い、やけに黒く間延びした影や、生々しい砂粒の感触などを伝えようとして、やめた。

 「小学校の、友達と遊んだ夢」

適当にごまかす。嘘は言っていない。モエちゃんは確かに小学生の頃の親友で、わたしたちはマンションの敷地内の公園で毎日遅くまで一緒に遊んでいた。

 「ぼくたちが子どもの頃に見ていたような夢?」

 「たぶん。でも、違うのかも。わからない」

あれは、夢というより、なんかもっと生々しくて、現実に近い気がした。けれど、夢を見ていたころの記憶も薄れているのに、ましてそのときに見ていた夢なんてもう思い出せない。わたしはタカヤの背中にしがみつくように、強く強く抱きしめた。

 少子高齢化社会と長きにわたる経済の低迷。追い詰められた日本は、ついに睡眠を手放した。睡眠を効率化させる〈ナップ〉という薬を開発し、睡眠時間を一日十五分へと大幅に短縮したのだ。そして、国民を生産力によってランク付けし、それに応じた生活を与えることで、生産性向上を目的とした管理社会を完成させた。〈ナップ〉はわたしたちの生活を変えた。しかし、ナップだって万能薬ではない。それなりに身体に負担はかかる。だからこそ、十五歳以上であることと、医師による処方が必要とされている。もっとも、エナジードリンクを飲みまくるよりはよっぽど安全だけれど。入手方法が面倒だろうが、身体に負担がかかろうが、わたしたちにナップを飲まないという選択肢はない。生産性を維持するためにも、そして、人生を楽しむためにも。勉強も仕事も、友情も恋愛も、若いうちにしかできないことはたくさんあって、何もかもを楽しむためには時間がいくらあっても足りないのだ。わたしたちは、若さを削って、互いに急かし合って、必死に時間を引き延ばして生きている。

 わたしたちはすばやく身支度を整えると、デスクに向かった。

 「まだ本調子じゃないんでしょ?もう少し休めば」

隣に座ったタカヤが心配そうにわたしを見つめる。わたしは、いいのと首を振る。

 「一週間も入院しちゃったから、その分はやく取り戻さないと」

タカヤは不満げな顔でわたしの頬を撫でると、それ以上何も言わなかった。

 わたしはちょうど一週間と一日前に自動運転中の車にはねられた。原因は車側の信号無視。自動運転中の車による事故は今年に入ってわたしで五件目らしい。わたしは奇跡的に無傷だったものの、三日間の昏睡状態に陥った。一週間の入院を余儀なくされ、やっと昨日退院できたのだ。事故のときの記憶はあまりない。ただ、ものすごく幸せな夢を見ていたような気がする。

 わたしはモニターの電源を入れて素早くメールのチェックをする。遅れを取り戻さなくては。この世界では、生産性がないと判断されたら終わりだ。わたしたちの仕事は毎日厳しくモニタリングされている。ノルマを達成できなかったり、前月より成績が下がったりするとあっという間にポイントが減点される。平たく言うと、生活水準がどんどん下がっていくのだ。減給はもちろん、家を追い出されたり、レストランやデパートに入れなかったり。今日と同じ明日が欲しければ、とにかく目の前にある今を必死に生き抜くしかない。

 ひと仕事終えると、時計の針がちょうど九時を指した。座ったまま大きく伸びをする。

 「そろそろ出る?」

タカヤが眼鏡を外しながら尋ねる。

 「うん。予約が十時だから、九時半には出たいかな」

タカヤは「りょーかい」と間延びした声で言うと洗面所へ向かった。わたしも寝室の片隅にある鏡台に向かう。タカヤと同棲を始めると言ったら、母が譲ってくれた年代物は、黒柿という木で作られていて、存在感がある。内側から光を放っているかのように艶やかな表面に触れると、指先がとろけるみたいで心地良い。しかし、気が遠くなるほどの時間と手間をかけて形作られ、磨き上げられたであろうそれには、わたしたちが失ったものを突き付けられているようで、少し怖い。タカヤはよく「凄みがあるよね」と笑う。

 化粧を簡単に済ませた頃、タカヤが寝室に来て着替えを始めた。わたしが黒いワンピースを着ているのを見て、クローゼットから黒いポロシャツを取り出す。わたしたちはいつも、相手の服装に合わせて自分の服を選ぶ。付き合い始めてから四年も経った今では、つい、お互い似たような色の服ばかり買ってしまう。わたしたちは九時半ぴったりに家を出て、タクシーで病院に向かった。

 病院の正面玄関で降りると、大きな噴水が視界に入った。昨日退院したばかりなのに、またここにいるなんて変な気持ちだ。病院の中は、わざとらしいくらい明るい。吹き抜けから降り注ぐ光を反射して白いリノリウムの床が光っている。病院の空気は透明で、消毒液のつんとした匂いがする。こげ茶色のソファに座って順番を待つ。大人になっても病院は、爪先がぞわぞわして心細い。タカヤが付き添ってくれてよかったと心の底から思う。窓の外には中庭があって、その奥に入院患者のいる別棟が見えた。わたしも少し前まであそこにいたのかと感慨深い気持ちになるが、あまり記憶はない。昏睡から覚めた後も、ナップを服用しなかったので毎日眠ってばかりいたのだ。朝も夜も微睡みに溶けて、わたしの中には何も残っていない。ふいに、わたしの番号が呼ばれた。タカヤに小さく手を振って、診察室に向う。

 看護師に促され、丸いスツールに腰かける。医者はわたしをまっすぐ見つめた。

 「調子はどうですか?」

 「うーん、特には問題ないと思います」

自信のなさが声に現れた。医者の眼鏡に蛍光灯の光が揺れている。医者は、大きな眼鏡と細い顎が相まって、カマキリに似ている気がする。

 「よく眠れていますか?」

 「……夢を見ました」

言ってしまった。医者は夢?と首をかしげている。あたりまえだ。ナップを服用している人間は普通、夢なんて見ないのだから。

 「ナップを服用して眠ったんですよね?」

 「はい。やっぱりどこかおかしいんでしょうか?」

わたしが不安げに聞くと、医者は顔にさっと笑顔を貼り付けて、

 「いえ、ナップをしばらく服用していなかったせいかもしれません。もう少し様子をみてみましょう」

と穏やかな声で諭した。では、次はまた来週、同じ時間に。と言われ診察室を出る。

 「どうだった?」

もどってきたわたしにタカヤが微笑みかける。タカヤの茶色がかった髪が陽に透けてきらきらと輝いている。わたしは急に懐かしいような恥ずかしいような、妙な気持ちになって何も言えなかった。もしまた夢を見るなら、今、この瞬間を切り取ってほしい、そう思いながら、タカヤの手を握った。

 わたしたちは、病院の帰りに、オムライスを食べた。昔、デートでよくここに来たよね、なんて言ってふたりであっという間にオムライスを平らげた。わたしがくだらないことばかり思い出して、一人で笑っていたら、タカヤが急に、帰ってきてくれてよかった、なんて涙目で言うもんだから、わたしは胸が締め付けられて、変な顔で笑った。

 家に帰ってからもわたしたちは仕事をした。いつも通り、夜の十二時ごろにようやく仕事を終えて、ふたりでくたくたになりながらご飯を食べる。そのあとはお風呂に入って、映画を見たり本を読んだりしてゆったり過ごす。そして五時半になったら眠る。わたしたちのかけがえのない日常。タカヤにおやすみ、といって目を閉じた。

 目の前で、黒い竜巻のような、大きな蛇のような、とにかくなにか恐ろしいものがものすごいエネルギーを放っている。思わず目を開けしまった。慌ててタカヤを確認すると、やはりタカヤは眠っている。わたしだけ目を覚ましてしまったのだ。途中で覚醒するなんて、ナップを飲んでいるのにありえない。わたしは呆然としながらタカヤが起きるまで天井を見つめていた。

 眠れなくなってから三日目、仕方がないので病院に行ってみると、やはり医者は首をかしげるばかりだった。大きな眼鏡でわたしを覗き込むと、

 「悪夢は、事故による死の恐怖から生まれているのかもしれませんね」

と言った。死の恐怖?思わず聞き返す。

 「眠りと死を混同しているのかもしれません。」

医者はあまり自信がないのか、眼鏡の奥の瞳をふっと逸らして言った。とにかく、気持ちを落ち着けるお薬を出しておきますから、飲んでみてください、と診察室を押し出され、わたしは家に帰った。その気持ちを落ち着ける薬、とやらも大して効かず、わたしはまた眠れなかった。叫びだしたい気持ちをこらえながら、じっと天井を見つめる。とにかく泥のように眠りたかった。眠りたくて眠りたくて我慢の限界だった。

 翌日、とうとうわたしはナップを飲むのをやめた。ナップを飲まずに寝ると、必ずと言っていいほど長い長い夢を見た。それは、最初の頃の悪夢とはどこか違って、懐かしい記憶や不思議な場所の夢だった。

***

 わたしは薄暗い廊下にひとりぽつんと立っている。ひんやりと張りつめた空気が満ちていて、足がすくむ。水族館のような四角い大きなガラスが右手の壁に埋め込まれている。ガラスは等間隔に並んでいるようだが、廊下がゆるくカーブしているせいで、前方は途中で途切れている。ガラスはどれもぼんやりと青く光っている。顔を近づけると、鼻先をひんやりとした空気が撫でた。大きな水槽の中には何もいない。ただ満たされた水がゆらゆらと淡い光を放っているだけだ。水の中をぼんやりと見つめていると、ちょうど目線の高さにうっすらと黒い四角が並んでいるのが見えた。わたしは、はっと息を飲む。円筒形の水槽に沿って、廊下が続いているのだ。ゆらゆら揺れる青い光を頼りにゆっくり廊下を進む。目の前の風景に変化はない。ただぐるぐると、同じものを、同じところを。

***

 目を覚ますと、あたりは薄暗く、午前なのか午後なのかすらわからなかった。身体の内側に熱がこもって気怠い。わたしはゆるゆると起き上がって、冷蔵庫にあったスポーツドリンクを飲む。暴力的な甘さと冷たさがわたしの内側に流れてゆく。リビングに行くと、タカヤが仕事をしていた。わたしを見るなり駆けよってきて、ぎゅっと抱きしめる。

「おはよ」

「いま何時?」

タカヤは体温が高いから、くっついていると暑い。「朝の六時だよ」というタカヤの声に愕然とする。わたしは丸一日眠っていたのか。

 「まだ眠いな」

ぽつりとつぶやいたわたしを、タカヤが驚いた顔で見つめる。

 「まだ寝るの?」

タカヤの声を無視して、わたしは寝室に向かった。ベッドに身を横たえると、そこは一瞬であたたかい泥のようにわたしをずぶずぶと飲み込んでいった。

***

 雨あがりの狭い路地裏を、色とりどりのランドセルが駆けてゆく。行く手を阻む大きな水たまりにもかまわず、ばしゃばしゃと飛沫をあげながら横切る。わたしは夢中で彼らの背中を追う。気づくとわたしも彼らと同じくらいの背丈で、ランドセルを背負っていた。路地裏を抜けると、大きな紫陽花に囲まれた空き地に出た。子どもたちは、紫陽花の根元にしゃがみ込み、なにやら手招きをしている。彼らのうちの一人に誘われ、根本を覗き込むと、子猫がいた。子猫はみーみーと甲高い声で鳴きながらわたしのほうへやってきた。手を差し出すと、赤く小さな舌が、ざりりと指先に触れた。わたしたちは、子猫の湿った背中を順番に撫でる。子猫の水分をたっぷり含んだ背中は、熱くて、柔らかくて、むきだしの命のようだと思った。

***

 目が覚めると真夜中だった。指先がじんわりと熱を持っていて、夢で撫でた子猫の感触がまだ残っているようだった。名残惜しさを感じながらも起き上がり、リビングへ向かう。スポーツドリンクを飲みながら、タカヤが仕事をしている横でメールを確認する。ざっとスクロールしていくと、大量の仕事のメールの中に、生産性ポイントが大幅に減っていることへの警告が紛れていた。わたしは見なかったふりをして、モニターの電源を落とし、また眠った。

***

 わたしは空中をぼんやり漂っていた。ちょうど、ビルの三階くらいの高さ。歩いている人たちは、わたしにまったく気づかない。どうしたらいいのかわからなくて、とにかく人が歩いている方向に飛んでみる。ときどき、ひゅんと少し落ちる瞬間があるものの、そのまま地面に落ちたり、突然、上空に昇ったりすることはない。ほぼ一定の高さを保って、わたしは飛んでいる。道行く人々はガラス張りの高層ビルに吸いこまれていく。わたしはビルに近づいてみた。しかし中には誰もいない。がらんとした空間に燦々と太陽の光が降り注いでいるだけだ。わたしはビルから離れて、今度は人々の群れがどこからやってきているのかを確かめてやろうと思った。ふと、人波の中に知っている顔を見つけて名前を呼ぼうとするが、ちっとも名前を思い出せなかった。

***

 次に目が覚めたのは二日後だった。会社から電話があったよ、とタカヤが教えてくれた。どうやらわたしはクビになるらしい。そう、と言って俯くわたしに、タカヤは何か言いたそうな顔をしていたけれど、わたしは無視して毛布にくるまった。

***

 やわらかな草の上をわたしは夢中で駆ける。草たちはしなやかにわたしを受け止める。足を踏みしめる度に、濃い草と土の匂いがむっと立ち込めて肺を満たしてゆく。息が切れることも、脚が痛むこともないわたしは、どこまでも風のように走った。時折、ミミズを踏むと、甘やかな痺れが足裏から脳天までを瞬時に貫いた。風はわたしをやさしく、けれど恐ろしいほど精密にわたしを削り出し、身体も思考もどんどん研ぎ澄まされてゆく。するどく、ほそく、光のように。スピードを上げると次第に目に見えるものが少なくなり、感触だけがどんどん鋭敏になっていった。もっともっと、と頭の中で声がする。わたしは声に従ってただひたすら走り続ける。

***

 どうやらわたしは五日間も眠っていたらしい。カレンダーを確認して、しばらく呆然としてしまった。カレンダーにはタカヤの出張の予定が書きこまれていて、ちょうど今日帰ってくることがわかった。本当はタカヤを出迎えた方が良いのだろうけれど。頭ではわかっているが、身体はまたふらふらと寝室に向かった。眠りに落ちる前、最後の力を振り絞って、スポーツドリンクとサプリを飲んだ。気がつくとわたしはベッドに吸いこまれていて、次の瞬間には意識を手放していた。

***

 あたりは波の音で満たされていた。それ以外には何も聞こえなくて、まるで波音で耳を塞がれているみたいだ。周りは真っ暗で何も見えない。ただ、波の音と、匂いと、ときどき足首を撫でるぬるい感触が、ここが海であることを教えてくれた。生ぬるい匂いを肺いっぱいに吸いこむと、全身がひたひたに浸されていくようなやさしい疼きが全身に走った。やわらかな波が少しずつわたしの身体を削り取り、ゆっくりと海に溶かしてゆく。わたしを包み込む何もかもがやさしく、心地よかった。ああ、もう何もいらない。強い確信がわたしに芽生えた。わたしにはこの場所だけあればあとはもう全部捨ててもいい。ずっとここにいたい。わたしはただそれだけを願った。

***

 微睡みの中で、玄関のカギが開く音が聞こえた。ああ、タカヤが帰ってきたのだ。わたしが重い瞼をこじ開けると、ちょうど寝室に入ってきたタカヤと目が合った。なにやら不機嫌な様子で、ベッドの上のわたしに背を向けてクローゼットを漁っている。

 「タオルないんだけど」

タカヤがわたしに背中を向けたまま言い放つ。タオル?お風呂にはいるのだろうか。胡乱な頭では思考が追い付かない。とにかく声を出そうとしてみても、喉がはりついて、ひゅっという息だけが漏れた。

 「なんで洗濯してねーんだよ、何時間家にいるわけ?」

タカヤが冷たく言い放つ。タカヤはこんな乱暴な物言いをする人だっただろうか。そして、わたしは掃除も洗濯もおざなりで荒れ果てた部屋を見渡した。確かにわたしは何日も寝ること以外、何もしていない。涙で視界が歪む。ああ、もうわたしはダメなのだ。混乱する思考の中で、ただひとつ、わたしにはもう居場所がないということだけがはっきりとしていた。

 次に目を覚ました時、わたしは病院にいた。病院のベッドは硬くて、少し身じろぎすると背骨が鳴った。ベッドの横にはタカヤがいて、わたしの左手を握っている。でも逆光で表情はよくわからない。タカヤの後ろでは、生成りのカーテンがゆるゆると光を抱いて泳いでいる。手首に違和感を覚えて、左手に視線を戻すと、白いビニール製のバンドが巻かれていた。黒いペンで一〇三八と書かれている。

 「特別入院なさる場合は、もう、元の生活に戻れないと考えていただいた方がよいかと」

年若な看護師は、タカヤに向かってはっきりとした口調で言った。タカヤがバンドの巻かれたわたしの左手をぎゅっと強く握った。ああ、あの事故の時、目を覚ましたわたしの手を握ってくれたのはタカヤだったのか。

 「ごめんね」

あなたを、あなたたちを捨ててごめんね。わたしはそっとタカヤの手をほどいた。

 

 わたしはストレッチャーで、病院の端の薄暗い個室に移動させられた。看護師が、手元のファイルをめくりながら、わたしの脳が過睡眠という状態にあること、そしてそれがナップの研究にとても興味深いということ、生産性が著しく低下したわたしには、ここで研究に協力するしか道が残されていないこと、家族と婚約者はすでに了承済みであることなどを淡々と読み上げた。しかし、わたしにはもう何もかもどうでも良いことだった。ここまでくればもう、わたしの邪魔するものは何もない、そう確信した。次はどんな夢を見ようかと期待に胸を膨らませながら、わたしはそっと手首のバンドを撫でた。

文字数:8772

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