ワイルドハントの幽霊犬

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梗 概

ワイルドハントの幽霊犬

1521年、神聖ローマ帝国ブラウンシュヴァイクの猟師ハッケルベルクは死の間際、キリスト教の臨終の儀式を拒み「永遠の狩り」を望む。それ以来、各地にハッケルベルクを頭領とする亡霊達の行進「ワイルドハント」が真夜中、雷と共に現れるようになる。女を殺し、男を呪って一団に加える神出鬼没のワイルドハントに人々は震え上がる。

野兎を追って主人とはぐれ、森で死んだ猟犬のハンスは偶然ワイルドハントに加えられてしまう。信心深く敬虔な犬であるハンスは早く天国へ行きたいと願うが、気弱な鳴き声から、小さく鳴くという伝説のヴォーダンの犬と同一視されハッケルベルク付きの幽霊犬にされてしまう。望まぬ仕事をさせられるハンス。もう一頭の幽霊犬、荒々しい鳴き声のレオと先導役の意地悪な幽霊梟クヌートには信仰を馬鹿にされ「動物の天国などない」と虐げられる。

1534年、キリスト教の新興一派・再洗礼派アナバプテストがミュンスターで蜂起。千年王国を謳う宗教家ライデンの元で一夫多妻制、財産共同制等が導入され、反対者は処刑という恐怖政治が行われる。ミュンスター正規軍や帝国軍から包囲された街は孤立する。6月の夜、閉ざされたミュンスターにハッケルベルクのワイルドハントが現れる。一行はいつも通り残虐行為をしようとするが、包囲された街は食料も尽きかけ餓死寸前の人々で溢れていた。人々は亡霊達に怯えるが、逃げる力もない。
 少女アンナはそんな中、貴族の第3夫人にさせられていたが、逃げ出した所で幽霊犬ハンスに出くわす。いっそ死んでワイルドハントに加わりたいと願うアンナに、ハンスは戸惑う。女性は死んでも呪いを受けられず、ワイルドハントに加われないのだ。
 ハンスはアンナを誘導し、ミュンスターから逃がそうとする。しかし道中、怪我で流血していたアンナに思わず噛みついてしまう。血の味に興奮し、自分が無害な幽霊犬ではなく、地獄の猟犬になりつつあることに気づくハンス。やがて天国を信じる心すら喪うだろうと涙する。アンナはそんなハンスに小さな十字架を与え「貴方がいるのは地獄ではなく煉獄で、いつか天の国に迎えられる」と励まし「私も、私の子孫も必ず貴方のために祈る」と約束する。祈る者がいれば煉獄からはやがて解放される。アンナはカトリックだった。アンナはハンスによって無事包囲軍に保護され、ミュンスターから逃げ延びる。

ハッケルベルクのワイルドハントはミュンスターの死者を平らげるようにその数を増やした。ハンスは、処刑され教会に晒された首謀者ライデンらを眺める。いつも教会に連れて行ってくれた、優しいかつての主人を恋しく思うハンス。身につけているとレオとクヌートに更に虐げられると考えたハンスはアンナの十字架を飲み込む。これで正気を失っても、信仰は常に共にある。アンナの祈りを信じるハンスは、いつかの解放を願い、夜明けと共にワイルドハントへ戻っていく。

文字数:1198

内容に関するアピール

ヨーロッパの百鬼夜行である「ワイルドハント」が実在する16世紀を舞台にした、幽霊犬と少女の出会いと別れのお話です。今回のお題は現代や未来のお話が多いのではと思い、あえて過去を選びました。

葬儀や弔いと宗教は切り離しづらいものです。1517年のルターのカトリック教会批判を皮切りに、ヨーロッパではプロテスタントをはじめとする新教による運動が巻き起こります。その変革と混乱、暗がりの一部をワイルドハントという幽霊の視点を通してうまく書き切れればと思います。ミュンスターの反乱は実際の出来事のため、実作はよく調べて丁寧に書きたいです。

ドイツ語だともちろん「ワイルドハント」ではないのですが、今回はわかりやすさを優先してしまいました。

案出ししていく中でどうしてもこの実作を書きたくなってしまったので、今回はうさぎテーマを諦めます!

文字数:360

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ワイルドハントの幽霊犬


 ブラウンシュヴァイクにある城の防壁近く、小川のほとりに今は跡形もなくなったが、かつてヴィンドルフという村があった。この村に住む一人の未婚の女が、森へ嬰児を置き去りにしたことがある。その女は旅籠で働いていたが、行きずりのオランダ人にワインを盛られた一晩で、そうと知らぬまま子供を身籠もった。疑う周囲に肥満と答え、とうとう水汲みに行く途中で子供を産み落としたのだ。
 その女はその時服についた血を生理の経血だと信じ、子供などなかったものとして森に置き去った。事態に気づいた旅籠の女将が森に入ると、一匹の雌犬がその嬰児に寄り添い乳をやっていた。ひとり泣くその子を自分の子犬と一緒に育てていたのだ。女将は雌犬と相談して嬰児を引き取ると、ヴィンドルフの村長へと託した。
 村長は逃げた子捨ての母親を見つけ出すと罰として小川で溺死させ、残された子供を自分の息子のひとりとして育てることにした。
 そのような生まれのためか、その子は幼い頃から狩りの獲物を見つける力に優れていた。滅多に笑わず、誰に懐く様子もない変わった子供だったが、猟と聞けば見知らぬ大人にも着いて行きたがった。成長すると、一人前の男として村から少し離れた森の中に家を建て、猪狩りの猟師になった。その男の名をハッケルベルクという。

 

1521年 ブラウンシュヴァイク
 猟師ハッケルベルクが二日前の狩りで猪に負わされた右足の傷は酷く膿んだ。彼の友である猟犬が先に村に戻り、森で蹲る男の場所まで人々を連れて行ったが、その時点で誰も手の施しようがない状態だった。
 ハッケルベルクはひどく無口な男だったが、それは死の淵に瀕してなお同様であった。ただ一言、「エーバーだ」と言ったのちは痛いとも苦しいとも言わなかった。ただ流した血と高熱が彼の命を確実に蝕んだ。
 赤黒い果実が弾けるように、抉られた傷の周りの肉から柔らかく腐った。次第に粘着質の泥に似た膿が溢れ、拭いても拭いても蛆がわいた。部屋中に腐肉の匂いが立ち込め、その悍ましさに村の人々は近づこうとしなかった。もっぱら彼の世話をしたのは妻であるヘレネと、村長の実子で、ハッケルベルクの義弟でもあるカルマンだけだった。
 呼吸も浅く瞬きすらわずかなハッケルベルクは臨終の際にあった。ヘレネは立ち尽くしたまま静かに泣いた。長く子供ができず、村人から嘲笑されていたヘレネは夫が死ねば生活に困窮することは明らかだった。泣き止まず動けないヘレネの代わりに、カルマンが歩いて1時間はかかる教区教会まで、年老いた司祭を呼びにいかねばならなかった。

 盃が音を立てて床に落ち、溢れた油が床を濡らした。伏したハッケルベルクの傷だらけの手が、司祭による終油の秘蹟を拒んだのだ。ヘレネは慌てて夫に駆け寄り、力無く垂れたその手を小さな両の手で握りしめ、言った。
「なぜ拒むの? 秘蹟サクラメントよ。このまま召されれば天の国にいけなくなってしまう。ひどく痛んで苦しいでしょう。でも今に神があなたを救って下さる」
 ハッケルベルクの関心ごとは狩猟のみであり、信仰に熱心でないことはヘレネにもわかっていた。ミサのため労働が禁止されている日曜日の朝も狩りに出て行ってしまうために、ヘレネはいつも教会でひとりだった。居心地の悪いまま隅に座るしかなく、優しい教会の人々の気配りも心遣いも、ヘレネを惨めにさせた。
「天の国だと?」
「そうよ」
「そんなものはどうでもいい」
「なんてこと!」
「俺が望むのは一つだけだ」
 部屋の隅にうずくまっていたハッケルベルクの猟犬が起き上がり、鋭く吠えた。
 ——永遠の狩り。
 男はそう言った。ヘレネもカルマンもそして司祭も、犬以外の誰もが沈黙した。天の国を望まない人間というものに、生まれて初めて出会ったのだ。
「俺は、俺の獲物の全てを狩るまでこの地に残り続ける。狩り尽くしてやる。俺は……」
 地の底を這うような響きだった。絞り出された怨嗟だった。ハッケルベルクは落ち窪んだ目を一度、瞬くように大きく見開いた。それから、口の端から白い泡を吹いたかと思うと、わずかに咳き込み事切れた。ハッケルベルクの犬は、そのまま部屋の宙に向けて狂ったように吠え続けた。そこに、誰かがとどまっているかのようだった。
 次第に、さまざまな犬の鳴き声が部屋中に聞こえ始めた。高いもの、低いもの、唸り声、長い遠吠え、それらが入り乱れて空間に響き渡った。やがてその音の洪水の中に、がりがり、がりがりと扉や壁、窓を爪でひっかく音が次々に加わった。
 ヘレネは悲鳴をあげて叫んだ。今いったい何が起きているのか、そして夫が何を言ったのか、ヘレネには欠片も理解できなかった。ヘレネはずっと、夫に猟犬達よりも軽く扱われていると感じていた。決められた縁組だとしても、親しい夫婦になりたかった。腕に子供を抱き、日曜のミサに共に行きたかった。彼の友人は犬だけで、ヘレネは一番近しい他人でしかなかった。ハッケルベルクは村長も義弟も含めて、森で泣いていたあの日から、人間のことなどこれっぽっちも好きではなかったのだ。
「司祭様! 司祭様!」
 ヘレネは倒れ込み、嵐のような犬の声の中で頭をかき乱しながら泣き叫んだ。カルマンも呆然としてただ立ち尽くしていた。司祭の乾いたこめかみから滲んだ脂汗が、顎を伝って落ちていく。これまで真摯に勤めた教区司祭としての二十年間で、このような悍ましい光景に立ち会うのは、初めてのことだった。司祭は震える手で十字架を握り、声を振り絞って呟いた。
「悪魔め……」

 

2 
 猟犬のハンスが死んだのは、雲のない空に雷の鳴る、不気味な六月の夜のことだった。ハンスの主人は気の優しい猟師で、細々と鳥やうさぎを撃った。森から帰るといつも丁寧にハンスの体と足をふいて家の中に入れ、一番暖かい炉のそばをハンスのために空けていた。彼はハンスを息子同然に可愛がり、しょっちゅう肉をやるので、犬よりも自分の方が痩せている始末だった。
 その日は一日薄暗く、夕刻すでに狩りから引き上げるべき時間だったというのに、ハンスは主人のため、もう一匹野うさぎを捕まえてやりたくて前方に飛び出し、木々に隠れた崖から滑落してしまったのだった。前足はもとより、背骨も砕けているようで、もはや立ち上がることすらできなかった。泥まみれのマズルを拭うことも叶わない。
 いつもは指示に従って、茂みから獲物を追い出すだけだった。ハンスは自分の愚かさを心の底から嘆き、そして祈った。どうか、どうかこのまま天の国に迎えられますよう。全身の痛みで意識が遠のく中で、必死に祈った。主人のつぶやく祈りの言葉を反芻し、うまく動かない前足でもって十字を切ろうと懸命にもがいた。

 そこに、獣の臭いが近づいた。ハンスは本能的に両の目を開いて鼻をひくつかせ、その大元を辿ろうと試みた。現れたのは、一羽のフクロウと、大きな黒いむく犬だった。
「ほほお、死んでいるのがいるぞ」
「おい、クヌート! 飛ぶのが速すぎる。加減をしてくれ」
 クヌートと呼ばれたフクロウはハンスを通り越して飛んでいき旋回すると、ハンスの頭上の木の枝に留まった。樹皮をつかむ尖った鉤爪が鈍く光っている。ちょうど良い木の実を見つけたのか、曲がったくちばしでもって器用にもぎとると、ようやく息を切らして追いついた黒いむく犬の前に落とした。
 むく犬は上を向き、フクロウにありがとうダンケと礼を言って木の実を口にすると、荒い息のままハンスのそばに寝っ転がった。
 ハンスは突然現れた自由な二匹に面食らいながら言った。
「死んでいるだって? そんなはずはない。そうしたら私は天の国にいるはずだ」
 確かに痛みは遠ざかったが、まだ迎えが来ていないだけに違いない、とハンスはもう一度目を閉じようとした。するとフクロウのクヌートが甲高い声でせせら笑い、枝から飛び上がった。弱々しく地面に垂れたハンスの耳をくちばしの先でつまむと、小刻みに羽を動かしてはばたきながら、きつく引っ張った。
「ばかめ! 動物の天国などあるものか。お前は死んで魂だけでそこにいるのさ」
「そうとも、俺たちが人間の言う天国にいくなんざ聞いたこともない。こうやって死んだ後も好きにするのが動物というものだ」
 ゴロゴロと地面に背中を擦り付けて転がっていたむく犬も、短く唸ってそう言った。
 クヌートはぐるりと首を傾げて、いろんな角度からハンスを舐めまわすように見つめた。そうして上下のくちばしをカチカチ打ち鳴らしながら首だけを後ろに回すと、甲高い声で叫んだ。
「おい、ハッケルベルク。お前の好きな猟犬だ! しかも死にたてほやほやだ。よかったな。一匹増えるぞ」
 ハンスに暗い影が落ちた。迎えが来たのかと首を持ち上げると、その影はハンスの匂いを嗅ごうとしてくる、馬の細長い鼻先だった。いつの間にか、そこに馬を連れた男が立っていた。近づいてくる蹄の音も、馬の鼻息もしなかったというのに、突然現れたのだ。男は影そのもののような長く黒いぼろの外套を羽織った、大男だった。目深に被った帽子で、瞳は窺い知れない。
 ハンスは震えが止まらず、無意識でクンクン鼻を鳴らすと、むく犬が首を傾げて荒々しい吠え声と共に言った。
「声が小さいな、何を言っているのかわからない」
「ほほお、うちにはすでにうるさいこの黒犬レオがいる。静かなのとうるさいのとで、伝説のヴォーダンの猟犬が揃うじゃないか。このハッケルベルクのワイルドハントでこの世が終わるまで狩り尽くそうぜ」
 大男は何も言わずに、腰のナイフに手をやると刃を上にして、柄の部分をやわらかい地面に突き立てた。刃が、天に向いた。
 ハンスは、恐ろしさに思わず目を逸らした。これが猟師達が行える一番簡単な「呪い」であると知っていた。ハンスの主人は、ナイフの刃を決して上に向けなかったからだ。天使達の顔に傷がつく、と。
 男がハンスにゆっくりと手をかざした。ハンスが後退り首に前足をやると、そこには小汚い皮の首輪ががっしりとはまっていた。逃げようにも、逃げ出せない。折れた背中や前足のせいではない。ハンスの足は縫いつけられたかのように、その場に留め置かれている。そこに鎖があった。いや、見える形ではっきりと繋がれているわけではない。首輪から伸びる見えない鎖が、魂をこの男へと繋いでいる!
「神よ、お救いください! どうか、どうか私を偉大なあなた様の天の国にお連れください!」
 ハンスは錯乱してその場を走り回り、心の底から叫んだ。遠吠えは虚しく夜の空に響いた。この首輪は呪いであり枷だった。神の祝福に叛くものだ。この亡霊達へと魂を縛る呪い!
「何度聞いても滑稽だ! 天国なんてそんなものを信じる愚かな犬はお前くらいだ」
 クヌートはせせら笑って羽を大きく羽ばたかせた。レオも短く吠えてそれに加勢した。
「そうとも、狂信者め! お前はもうこのワイルドハントの地獄の猟犬、天の国など轢き潰すのだ!」

 雷が鳴り止まぬ夜には、用心しなければならない。家の戸にかんぬきをしっかりとかけ、全ての窓を閉めて、決して通りへ出てはいけない。雷の夜は奴らがやってくるからだ。早足の馬の蹄を鳴らして、哨戒のフクロウを先導で飛ばして、亡者どもがくるからだ。
 
 ハッケルベルクはブラウンシュヴァイクで死んだのち、亡霊としてこの地に残った。そして同じように天の国を拒んだ亡霊達を引き連れて、闇の中に雷と共に、何処へでも現れた。やがてハッケルベルクを頭領としたその狩りの列は「ワイルドハント」と呼ばれ、人々を震え上がらせた。
 無差別に女を殺し男を呪う、とそう伝えられる中で、ひとつだけこのハッケルベルクのワイルドハントから助かる方法がある。どうしても出ていかなければならない夜には、犬を連れて歩けと——

 


1535年 ミュンスター
 聖ヤコブ教会前の広場にはやわらかな霧が立ち込めていた。雨はないのに、遠くでかすかに雷の鳴る音がする。再洗礼派アナバプテストの聖餐式は夜通し行われる。説教者プレディガーは食卓机の奥で、集まった市民達を満足そうに見渡すと、手に持った小麦の焼き菓子を二つに裂き、そのうち一方を口にした。もう片方は、市民達へと手渡すものだ。
「愛する兄弟達よ、神の平和が我々の上にあるよう祈ろう」
 赤ワインがなみなみ注がれた聖杯が、卓の中心で鈍く光っている。アンナはそれを直視できずに俯いた。
 式に連れてこられた市民達は、それぞれ震える手で順番に説教者の菓子を受け取った。アンナの手にも、一欠片が渡された。主の食卓に行こうとするものは罪から浄められていなければならない。あらゆる不純や迷信を捨て去り、なお金銀を持っているようなものがいるならば、それを差し出さねばならない。説教者のような正しい道を欲しないものは、死なねばならない。罪ある全てのものは根こそぎにされなければならない……。
 ミュンスターの街を囲む十の市門は今や全て再洗礼派に握られ、街は掌握された。これまでの市参事会は解散され、政治すら再洗礼派の人々によって管理されている。追放されたカトリック教会のミュンスター司教侯に対する再洗礼派の咎め立ては止むことがなかった。かつて街のシンボルであった大聖堂は、再洗礼派が町を掌握した際、破壊のかぎりが尽くされた。聖職者は追い出され、建具も聖人像も悉く壊され、広場で火にくべられた。
 再洗礼派は壊された大聖堂に泊まり込み、昼も夜も風が吹き込む中で、教会のミサを揶揄して歌い踊って騒いだ。彼らはその狂乱の中で人間すらも叩き壊すと噂され、聖職者はもとより、大聖堂参事会の委員すら近づこうとはしなかった。
 再洗礼派の説教者は固く握った拳で机を勢いよく叩き、金切り声で叫んだ。
「愛する兄弟よ、聞け。教会は腐敗し、あのように崩れ去ったのだ! 悔い改めよ、懺悔せよ! 神はお前達を罰せられる! 背神の徒は消え失せろ!」
 ここミュンスターは新たなるエルサレム、という謳い文句の入ったビラがまかれた時、本気で信じたものが何人いたというのだろう? 初めは道ばたの狂信者どもと嘲笑されていただけだった。再洗礼派の指導者ライデンは、すでに十人の妻を持ち、取り巻きの貴族達含めて贅沢を極めている。街を取り戻そうと包囲するミュンスター司教侯の軍により、物流が止まっている今、彼らの狂乱に関わらず城下の飢えはじきに限界を迎えるだろう。
 アンナはうんざりして、説教者の声を聞き流すように努めた。再洗礼派の先導する新たなる洗礼など、受けるつもりはなかった。病身の母がいなければ、すぐにでもこの狂った街を逃げ出したことだろう。洗礼を受けないのならば、この場で殴り殺されるか、全てを捨てて街を出るか選べと、そう広場に集められ問われた結果だった。アンナに選択肢などなかった。
 もうすぐ、回し飲みするワインの杯が手渡される番だ。アンナは幼少期からの習慣で無意識のうちに、胸元に手をやっていた。そこは、隠れて首にかけていた十字架の上だった。それをめざとく見つけ出した説教者はアンナの胸元に乱暴に手を入れて十字架を掴むと、緩く結ばれたひもを引きちぎった。元より怯えてほとんど話さなかった人々は、瞬間息を飲み、あたりはしんと静まり返った。説教者は勇んだ声で、アンナの小さな木の十字架を掲げて叫んだ。
「兄弟姉妹達よ、見るがいい! この女はまだ偶像を手にしている。我々と聖餐を共にするに値しない悪魔の女だ!」
「私は神を信じています!」
 アンナは間をおかず返した。説教者は眉を吊り上げて言った。
「ではマリアは? 聖人は?」
「彼らは皆イエスのために試練に耐えられました」
「マリアや聖人を崇める不届きものめ!」
 説教者はアンナに十字架を投げつけると、脇腹を強く蹴って転ばせた。
「出ていけ!」
 アンナは急いで十字架を回収し、スカートのポケットに仕舞い込んだ。そこに、一人の男が進み出た。
「兄弟よ、お許しください。この娘は母を亡くしたばかりで、錯乱しています。再洗礼派の教えを理解するには頭が足りないのです」
「お前は?」
「この娘の昔馴染みで、クライスと申すものです。私が保護者として彼女と結婚し、二度とこのようなことがないよう監督いたしましょう」
「良いだろう。婚姻については速やかに届け出るように。今日は戻ってくるな!」
  
 アンナは乱暴に肩に触れてくる男、クライスの手を無理に振り払った。アンナの家は聖ヤコブ教会の脇を流れるアア川を渡った先にあった。
 家に入ると、クライスもまた何も言わずに押し入り、無造作にアンナの腕に触れた。
「触らないで」
「馬鹿なことを。俺がああしてやらなきゃ、お前はどうなっていた? そこの路地に死体として転がることになっただろうよ!」
「私の頭が足りないですって? あなたの書き方学校シュライブシューレンの課題をやってあげたのは誰? よくそんなことが言えたものだわ。それに結婚! あり得ない。あなたはすでに何人妻がいるのかしら」
「お前は何もわかっていない。あの場ではああ言うしかないだろう。それに汝ら産めよ増やせよ、地上に人を満たすことを神はお喜びになる。これは神の御意志なんだ。ここに主は再臨される、俺たちは神の国の人間として全てが許される」
「どうかしている! あの詐欺師のいうことをなぜみんな鵜呑みにするの。何とも思わないの? おかしいわ」
「お高くとまっていられるのも今のうちだぞ。俺は参事会に入会するんだ。お前が態度を改めないようなら、いつでも広場で首をはねてやる」
 品定めするような下びた眼がアンナを見つめた。
 こんな男と結婚? ふざけている!
「そうされたくないなら、なあ、わかるだろう」
「触らないで!」
 アンナが叫んで壁に向かって後ずさると、クライスは角に追い詰めるようにしてにじり寄ってくる。いつの間に見上げる形になった男に、アンナは吐き気を覚えた。クライスは農村ラント貴族の次男で、母と二人で慎ましく暮らすアンナに度々アプローチしてきたものの、アンナはこれまで決して相手にしてこなかった。幼い頃から大人に隠れて悪事を働く小狡いところがあり、常に表面だけ取り繕う卑しい気質が、アンナにはとても耐え難いものだったのだ。
「お前のその気位がここで何の役に立つというんだ? 明日もパンにありつきたいのなら、そのみっともないスカートを自分でめくれ」
 今すぐこの目の前の男を殺してやりたいと思っても、アンナは何も持っていなかった。ナイフも、フォークも、食べ物と交換できるものはほぼ全て持ち出してしまった。
 街の様子は悪くなるばかりだった。飢餓の苦しみは支配側の再洗礼派を除いたあらゆる人間に平等に配られた。年寄りも若者もやがて一人で歩けなくなり杖をつき、杖すら持てなくなった者は這って動いた。包囲軍に囲まれる前は、演劇や音楽会など、不満を逃す最低限の娯楽も催されていたが、もはやそのような状況になかった。飢えた人々はもう誰も、歌うことも踊ることもできなくなっていた。飢え死にした人の死体を運ぶ気力体力のあるものは稀で、繋がれた馬も軒下の猫もドブネズミも、みんなうさぎと同じように解体して煮て食べ尽くしてしまった。これ以上の世の中の地獄というものを、アンナは想像することができなかった。
 再洗礼派の支配下で、逃げ出すものも多くいた。アンナの病身の母親もこの街の状況の中で死に、ここにいる意味はもはやない。しかし——
 クライスはアンナの腕を乱暴に掴むと、ベッドに引き倒した。ここはずっと、アンナが病んだ母を献身的に介護した場所だった。ついこの間、ここに座って静かに母を看取ったのだ。
「ここではいや」
 アンナの目から涙がこぼれた。震える手で、ポケットの中の十字架の形を確かめた。小さな頃から、優しい母と穏やかに暮らした家だ。もう何もなくても、それでも温かな記憶と共にあるべき家だ。どうしてこんな男を招き入れなければならない? 母の匂いの残るこの寝台を、どうして明け渡さねばならないのか?
「お願い、ここはいやよ」
 アンナの涙に、クライスは声をあげて笑った。喜びを隠せない声色だった。
「なあ、おい、何だっていうんだ。俺の家で、他の女の前でやったっていいんだぞ。あと二人も妻がいるんだ」
 死人のように蒼白なアンナのほおに、暗い影が落ちた。抵抗は、この愚かな男をつけあがらせるだけだ。歯を食いしばり、母が縫ってくれたゆるいひだのスカートの裾に、震えながら手を伸ばす。少しずつ伸びるアンナの身長に合わせて、母が何度となく糸でかがって裾の長さを調節してくれたスカートだ。そうやって、慎ましく日々を暮らしてきたのだ。
 裾を握るアンナの指先に、二回り以上大きな男の手、クライスの掌が重ねられた。そっと撫でるように動かされるその乾いた肉の感触に、背筋が凍る。アンナは込み上げてくる胃液を抑えることで精一杯だった。吐きそうだ。ペチコートを脱ごうと思っても、何か肌に吸い付くように引っ掛かっていて、なかなか脱ぐ事ができない。手の震えが、全身に伝播していくかの様だった。アンナのそんな姿を、クライスはまた楽しげに笑った。
「蹴られた脇腹にあざができているか、俺が見てやろう」

 クライスが満足して家から出ていったあと、アンナはしばらく呆然としたまま動けなかった。斜めになったスカートと、乱暴に掴まれてぐしゃぐしゃになった髪と、床に脱ぎ捨てられた下着と、そんなものをぼんやり眺めていたら、体中を貫く痛みが遅れてやってきて、次第に涙があふれて自分ではどうしようもできなくなった。
 ナイフでクライスの首筋をさして、殺す。
 最中にリボンで首を絞めて、殺す。
 突き飛ばして煉瓦で頭を何度も殴打して、殺す。殺す……。
 ああ、ああそうすればよかった、そうしてやればよかったという妄想が、頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え、止まなくなった。アンナはうつむき、静かに自身に腕をまわした。痩せ細った胸には蛇が這ったような赤い手の跡がくっきりと残り、乾涸びた皮膚は老婆のようだった。床にはポケットからこぼれ落ちたのか、十字架が無造作に落ちていた。アンナは半時間近く、じっと動かずにただそうしていた。
 そんな時だった。犬の鳴き声が、家中に響き渡った。
 甘えたように鼻を鳴らす、心細げな音だ。クンクン、クンクンとしきりに声がする。野良犬でも入り込んだ? アンナが立ち上がり辺りを見回すと、入口近くの壁に、一匹の犬がめり込んでいた。アンナの目には、そのように見えた。上半身だけの犬が部屋の中に忽然と現れたのだ。
 耳は垂れていて、白い被毛にところどころ茶褐色のブチがある。口から覗く長い舌だけが、燃えるような赤い色をしていた。下半身は、壁があり見えないが、壁にそもそもあんな大きな穴が空いていたはずがない。貫通しているとしか考えられなかった。その寂しげな声の通り、両方の眉がそれぞれ下がっており、絹のような毛並みで凛々しい顔立ちだというのに、ひどく所在なさげにしている。
「何? 一体どうなっているの?」
 アンナが思わず叫んで近づくと、犬はぬるりと壁を突き抜けて、完全に部屋の中に現れた。ウェーブのかかった被毛が立派なうずら犬ヴァハテルフントだった。立派な尻尾が振り子の様に左右に揺れている。足も関節も太い、猟師が友として連れ歩く鳥猟犬だ。
 犬はアンナと目が合うと、視線をおろしてから恭しく頭をさげ、言った。
「突然の来訪、失礼つかまつります。私は幽霊犬のハンスと申します、お嬢様フロイライン

 


「生き霊?」
「はい、死んでおり天国に行けないものはもちろん幽霊になります。この私のように。しかし、生きているものも、稀に体を離れて幽霊になるのです。それらは生き霊と呼ばれます。先ほどこの街を調査していた際に、この家の前で泣いている女性の霊に会いました。会話にならず、ずっと泣いていて、何かあったのだろうと思ったのです。男性が家から出てきた後、しばらくしてからその霊が家の中に戻りましたので、心配で追いかけてお邪魔したのですが、そこにあなたがおられました。まさしくお嬢様、あなたの生き霊であったようです」
「そう……」
「何があったのかなど不躾に伺ったりいたしません。誰にも訊かれたくないことや言いたくないことの一つや二つあるものです。特に異常もない様ですから、私はこれでお暇いたします。では失礼」
「お待ちになって、ハンスさん。あなたはどうしてこの街にいらしたの? この、この地獄の中に」
 アンナは言い淀んだ。この言葉を軽々しく口にはしたくなかったが、これを除いて、今の街の惨状を的確に表す言葉を見つけられなかった。
「地獄ですか、確かに酷い有様です。お嬢様はワイルドハントをご存知ですか?」
「ええ、もちろん。雷と共に現れて人を襲う……そういえば今も雨はないのに雷の音が」
「はい、私はハッケルベルクという男を頭領としたワイルドハントの幽霊犬なのです」
「まあ、幽霊犬! 小さな頃は母によく、夜に出かけるとワイルドハントに連れていかれると脅かされました」
「あながち嘘ではないでしょう。事実私はそういったことは一切好みませんが、集団の中には色々な存在がおりますから。私は死んだ猟犬の霊ですが、元々悪霊として発生した性質の悪いものもいるのです」
「この街も今はそういったもので満ちているでしょうね」
「我々が街の中にはっきりと顕現できている時点で、そういったことなのでしょう。淀みがありすぎる」
 ハンスは鼻を鳴らすように短く吠えた。六月の澄んだ美しい空気など、この街にはない。血と汚物、腐敗、死、裏切りと憎しみ……悪霊たちの好むものばかりだ。
「幽霊だから壁を通り抜けたりなさるのかしら」
「勿論その通りです。いくつか幽霊としての技能がございますが、壁抜けは基本といったところでしょうか」
 ハンスは仰々しく頭を下げて肯定した。
「ハンスさん、ひとつお伺いしても?」
「なんなりと」
「私はアンナと言います。その、私もあなたのいるワイルドハントに加えていただけないかしら」
「何をおっしゃいます!」
「冗談で言っているのではないの。どうせここで惨めに死ぬのなら、いっそ呪い殺してやりたいと、そう思う人間が、私。私……」
「アンナ様、誠に申し上げにくいことですが、女性は死後の呪いを受けることができません。ワイルドハントは女を殺し、男を呪う……。詰まる所ここで死んだとして女性はワイルドハントに加わることはできないのです」
「そう、そうなの……」
 アンナは言葉を詰まらせた。死後までも、女だからと扉を閉ざされるとは思ってもみなかった。書き方学校シュライブシューレンだって、何度やっても綴りを覚えられないクライスの代わりに、通うことのできないアンナがしばしば持ち帰りの課題をやっていた。その光景をみて、アンナを通わせてやりたいと街の誰もが言ったのだ。
 そんなアンナの様子に、ハンスは耳を前後にゆらゆらと動かして付け加えた。
「それに、それにです。あなたのような心優しい方が加わるべき行軍ではありません。あそこは恐ろしいところです」
「ハンスさんは出て行かないの?」
 アンナのその言葉に、ハンスの耳が止まり、途端に尻尾も床につきそうなほど項垂れた。
「私も望んでハッケルベルクに仕えているわけではないのです。奴は私の首に繋がれた見えない鎖を握っている。どうすればこの呪いから解放されるのか、私にはわからないのです」
「まあ、それは気の毒に。あなたの気持ちを考えずにお話ししたわね。どうか許してください」
「謝罪は要りません、アンナ様。その代わり、いかがでしょう。私はあなたがこの街から逃げるお手伝いができるかもしれません。私はこの通り夜でも目が効きますし、鼻も良いので近づいてくるものがいれば分かります。そして壁もすり抜けられますから、案内も容易です」
「そんなことって……」
「もう死んでもいいと思うほど未練がないのなら、ここから出ていく以外の選択肢はないように思えるのです」
「そうね、ええ、そうだわ。あなたのおっしゃる通り。それに、とてもちょうどいいわね。どうしても出ていかなければならない夜には……」
「犬を連れて歩け!」
 ハンスの遠吠えに、アンナは小さく笑って屈むと、ハンスのやわらかな被毛を抱きしめた。ようやく笑顔を見せたアンナに、ハンスは胸を撫で下ろした。

市を取り囲む十の門のうち、ユーデフェルト門とモーリッツ門の二つの前に、包囲軍の宿営地があった。その門から再洗礼派の兵が包囲軍を狙おうとして逆に撃ち殺されることが続いたため、防壁を厚くし遮蔽物を築くことで猛攻を防ごうとした。しかし、その補強に使われた大量の石は全て教会や大聖堂を打ち壊した際の石で、かつて教会の床や壁、円蓋であったものだった。そんな経緯から、渋々洗礼を受けた側の市民達はその二門には端から近づきたがらなかった。
 アンナは中心街を横切らずに済むユーデフェルト門へ向かうことを決め、ハンスと共に歩き出した。
 雷の鳴る夜、事実ワイルドハントが現れている夜に長く出歩く人間がいるとは思えなかったが、ふたりは慎重に、裏路地ばかりを選んで歩いた。市内にはきちんと舗装された多くの通りや路地があり、かつては清潔に保たれ汚物が堆積していることなどなかった。今はというと、足をすすめることすら躊躇われる光景が広がっている。
 
「ハンスさん、待ってもらえるかしら。少しお祈りをして行きたいの」
「勿論結構です」
 アンナとハンスは横道に逸れて裏から広場へと入った。中心に立つ菩提樹リンデに飛び散った少女の血はまだ消えていなかった。アンナは暗闇の中で跪くとハンスの煌々と光る目を頼りにして、木の幹に残ったシミのようになった血痕に触れた。
 殺された少女の名前はエリと言った。エリは支配者たちに贈られた一番若い妻だった。まだ手のひらも爪も小さく、指は細く、とても女とは言えない年齢だった。城に溜め込まれた食糧を、飢えた城下に分け与えてほしいと直接進言して怒りをかい、木に括り付けられて撃ち殺されたのだ。
 赤毛をだらりと垂らして死んだエリの縄を外して木から下ろすのは他の妻たちの役目だった。エリの姉が幼い妹のために刺繍してやった麻のエプロンは真っ赤になって、元の模様が分からなくなっていた。女たちは怯えて、そこから何も言わなくなった。
「ここで女の子が見せしめに殺されたんです。初めに撃たれた時死にきれなくて、随分苦しんで泣いていたって。かわいそうに」
「悍ましい事です」
「私は主を信じています。それははっきりと言えます。それでも、それでもこんなことになってから、心の底から祈ることができているのか、自信がないわ。全てが私のうわべを滑っていくかのよう」
「こんな劣悪な環境に置かれれば、祈りは元より思考も鈍りましょう。早くあなたを安全な場所にお渡ししたい」
「ええ、ええ。ありがとう。明るくなる前に行きましょう」

 幽霊犬は神出鬼没だ。ハッケルベルクが握る鎖の範囲内であれば、ハンスは空間を超えて現れる。アンナと並んで歩きながら、ハンスはもう門を目指して何時間も進んでいるかのように思えた。おそらく、時間にしてみれば三十分も経っていないだろう。ハンスがその足できちんとした距離を歩くのは久しぶりのことだった。尻尾が大きく揺れている。
「ユーデフェルト門だわ」
 アンナは城壁を指差した。風が吹き、空気を含んで揺れるアンナのスカートから、ハンスの鼻が、血の匂いを嗅ぎ取った。その瞬間、制御できない衝動が湧き上がり、ハンスは牙を光らせて、勢いのままアンナの掌に噛み付いた。アンナは反射的に手をひこうとしたが、唸るハンスの牙が食い込んでひき抜けない。 
「放して!」
 ハンスはアンナの叫びにすぐさま正気に戻り、大きく口を開いた。
「アンナ様! 申し訳ありません。なんということ。血の匂いが、私は、私は……」
「いいのよ。このくらい大丈夫」
「なんとお詫びすればよいか」
 ハンスはアンナの傷を真っ赤な舌先で小さく舐めた。初めて会った時と同じように、眉が大きく下がってひどく気落ちしていた。
「こんなの何ともありません」
「跡が残るのではないでしょうか、ああ、なんという」
「跡になっても構わないわ。あなたの傷を痛みが、きっと別の傷のことを忘れさせてくれるから」
 アンナの言葉も耳に入らず、ハンスはその場に座り込んで首をだらりと落とした。
「私はこれまでワイルドハントの中でも、できる限り悪逆非道を避けてきました。天の国に行きたかったからです。人間の血に興奮して、我を忘れることは地獄の猟犬への道筋です。私はいずれ天の国を信じるこの心すら喪うでしょう」
 ハンスの丸く黒々とした瞳から次々に涙がこぼれた。弱々しく、咽び泣きを押し殺そうとして唸り声を上げた。アンナは咄嗟に汚れることすら忘れて膝をつき、両の手でハンスを抱きしめた。そしてその背に頭をのせ、やわらかな体を固く引き寄せた。生物としての温もりはとうになく、心音も聞こえはしなかったが、長く使った懐かしい毛布のような手触りがあった。アンナは怖いとは思わなかった。
 ハンスもアンナに首をもたれさせ、寂しげに鼻を鳴らした。
「ハンスさん、私はここであなたに出会えたことに心から感謝しています」
 アンナは家から出る時、唯一持ち出したポケットの十字架を取り出して、紐の両端をハンスの首まわりにぐるりと回すと、後ろで固く結んだ。
「あなたが今囚われているのは地獄ではないわ。そこは煉獄で、いつか必ず天の国に迎えられる。私は生涯あなたへの感謝を忘れません。私も、私の子孫も必ずあなたのために祈ります」
 アンナはハンスの耳と耳の間、額にそっと顔を寄せ、静かに口付けた。子供の頃に、アンナはよく眠ることを怖がった。眠りの中で、母と離れ離れになることを恐れた。そんな時、母はいつも額に口付けてくれた。よく眠れますように、私の宝物マインシャッツ、そうやわらかく囁いて——
私の宝物マインシャッツ、永遠の安息を」
 この哀れで優しい幽霊犬の呪いを解く術を、アンナはようやく感じ取った。もはや忘れかけた中に、正解があったのだ。心の奥底から湧き上がるような祈りが、アンナを包んでいた。祈る者がいれば、煉獄からはやがて解放される。それを知っていた。

 


 塹壕は市の外壁をぐるりと囲むように深く掘られ、中は茨の木の逆茂木で覆われていた。暗い中ぽつぽつと篝火が等間隔に並び、わずかに動く人の影を写した。その塹壕から顔を出していたのはミュンスター司教候の雇った傭兵達だった。傭兵は、門を抜けるアンナに向けて叫んだ。
「来い! 同胞よ!」
 傭兵の呼びかけと同じ方角から、犬の遠吠えが響いた。ハンスの声だ。アンナはその向きめがけて、走り出した。先にハンスが外に出現し、適切な方向へアンナを誘導する。二人で決めた作戦だった。
 こんなに息を切らせて走るのは、もういつぶりか思い出せなかった。スカートを履いたら両足を揃えるの、さあ、膝に手を添えてにっこり笑うのよ。そう刺繍をしながら微笑んでいた母の顔が浮かんだ。遠く優しかった日の全てが、本当にあったことなのか幻なのか、アンナは母を見送ってから、とうに自信が持てなくなっていた。それでも、今この足の裏が感じる土と石、頬を切る風は確かに本物だった。走らねばならない。痩せて煤けた頬に擦り切れて泥まみれの靴、血のついたスカート……全てが終われば、教会に行こう。しばらく一人で座り、息を整える。そうして穢れも痛みも洗いざらい神にお伝えして、跪いて祈るのだ。
「こっちだ!」
 傭兵達の叫び声に、門の上で寝ていた見張りの再洗礼派達も起き出して、ラッパを吹き、警鐘を打った。そして走りゆくアンナに向けて、包囲軍の傭兵達と同じくらい大きな声で叫んだ。
「行くな、戻ってこい! 殺されるぞ!」
 見張りの男達もこの悲痛な声掛けで逃げ出す人間が戻ってくるなどと、露ほども思っていないだろう。それでも、この千年王国の王の気まぐれで、いつ自分の首が飛ぶかもわからない中、叫ばないわけにはいかなかった。
 背から飛んでくる声を振り切り、傭兵達の火の元に辿り着いたアンナを出迎えたのは、銃口だった。銃の火種が、一本の蝋燭のように暗闇の中でアンナに向けて煌々と輝いていた。傭兵は屈強なオランダ人たちで、辺りには塹壕の逆茂木に使う丸太や、焚き火のための木の枝が無造作に積まれていた。
 その銃口の後ろ、傭兵達の背後の木々の中、銀色の光が微かに揺れた。四つ足の獣の姿。幽霊犬、ハンスの影だった。アンナはその場に座り込みたい震えを堪えて背筋を伸ばした。
「なんだ、若い女の子じゃないか」
 銃を構えていた男が言った。男を含めてその場にいたのは四人で、身なりや戸惑う様子からして、別の場所に隊長がいるに違いなかった。
 アンナは息を深く吸い、精一杯激しく打つ胸を落ち着けた。祈る時のように、両手を胸の前で握り合わせて言った。
「傭兵さん、お願いです。街の中のことは詳しく知っています。どうか殺さず、捕虜にしていただけませんか。ここから逃げ延びて父に会いたいのです。父はバンベルクの領主です。母の名はマルガレーテ!」
 もう手元に十字架はない。それでも、アンナは心細いとは思わなかった。母は貴族の侍女で、未婚のまま子供を身籠もり、自分も子供も殺さずに、たったひとりでこの地ミュンスターに根付いた。母のように強くあることはできなくても、あの滑らかな首に十字架をかけてやったその時、ここから続いていく人生の中で、あの一匹のために祈り続けるだろう未来を、確かに感じたのだ。その事実こそが、これからもアンナをこの大地に立たせていくに違いなかった。

 


 司教侯の帰還によって、全てが終わりを告げた。市が包囲軍によって奪還された三日後、ミュンスター司教侯は入城を果たしたのだ。指導者ライデンはとらえられ、聖ランベルティ教会の前におかれた狭い鉄かごの中に、両手両足を折って押し込められた。この男の悪態にはもう誰も耳をかさなかった。
 斬首か絞首刑か車輪での八つ裂きか、多くの人が時間をかけて話し合ったが結論は出ず、仕方なく拷問の末に聖堂の壁に伸びた横木にそのまま吊るされることとなった。水も食べ物も与えられず、通りかかる全ての人から石を投げられ、はじめは何やらわめいていた男もやがて言葉を発さなくなり、やがて骨と皮だけになって死んだ。そしてしばらく、誰もが顔を顰める悪臭を放った。死体はやがて墓掘り人の手で降ろされたが、鉄かごはそのまま残された。

 ハンスは壁の上から、解放されたミュンスターの夜の街を見下ろした。誰も近寄らなかったぼろぼろの大聖堂に、人が戻り始めている。明日は日曜日だ。
 ハンスは生前、日曜日はかつての主人と二人で必ずミサにいった。日曜の朝は狩りには出なかった。教会の中はいつもとても混雑していて、ハンスは主人の言いつけ通り入り口の近くに座り、時折伏せて、後ろから聴衆の姿を見つめていた。降り注ぐ光のなかで、真摯に祈る人々の息づかいと、穏やかな司祭の語りを聞いた。
 神は、天の国はからしの種のようなものであるとおっしゃいました。初めは小さな種ですが、畑にまき水をやるとどんな野菜よりも大きく育って枝を伸ばし、そこに鳥達が憩うのですーー
 教会の前庭には菩提樹と、それを囲うように子供たちが手入れする花壇があった。そこには小鳥も時折やってきた。ハンスはずっと、天の国はあのような場所なのではないかと思っていた。
「ハンス、ハンスこっちへおいで」と子供たちは順番にかがんでハンスを抱きしめ、挨拶としていつも前足をにぎった。その中にはあのアンナのような女の子もいた。柔らかい肌でほおずりしてくる、丸い目の女の子だ。舌先で舐めてやると、声を上げて喜び、一緒に疲れるまで庭を走り回った。お腹をかしてやって、木陰で一緒に寝転んで昼寝をした。あの子供たちはどうしているだろう。もうすっかり大きくなっているはずだ。自分が死んだと主人から聞いて、悲しんでくれただろうか。アンナのように、私のために祈ってくれただろうか。
 焼けた鎖が引かれる感覚があった。ハッケルベルクが呼んでいる。ハンスは目を伏せて、首から下げられた紐の先に揺れる小さな十字架を見た。かつて主人と拝んだ、教会の上に立つ十字架に似ていた。それは真鍮製で、そこに向かって太陽の光が差すことで、時間帯によって自ずから光って見えたのだ。ハンスには、このささやかな贈り物も、あの教会の十字架のようにまぶしい光を放っているように思えた。このままにしていては、クヌートの悪戯で、あの鉤爪に引っ掛けてどこかに捨てられてしまうだろう。彼らの笑い声が聞こえてくるようだ。彼らは天の国を信じない。
 ハンスは、震えながら十字架の端を口に含んだ。わずかに音をたて、古い木が削れた。ハンスは躊躇わず、勢いをつけて、ぐっと大きく口を開いてそのまま丸ごと飲み込んだ。幽霊の身では、栄養も消化も、この世の摂理にはもはや縁がない。ハンスは安堵して、また涙がこぼれそうになることを堪えた。いずれ自分が自分でなくなっても、これで信仰は共にある。

 ハンスは鎖で呼び立てるハッケルベルクに鋭い遠吠えで答えた。直に夜が明ける。ハンスを取り巻く闇が濃く深くなっていく。ハンスの姿はその昏さに溶けるようにして、瞬く間に消え失せた。
 ワイルドハントは雷を連れ、次なる場所へ行く。後に残されるのは腐肉にたかる烏達のみである。

 

参考文献
「千年王国の惨劇 ミュンスター再洗礼派王国目撃録」ハインリヒ・グレシュベック著 C・A・コルネリウス編 倉塚平訳 平凡社
「市長の娘 中世ドイツの一都市に起きた醜聞」スティーブン・オズメント著 庄司宏子訳 白水社
「ドイツ文化史入門 16世紀から現代まで」若尾祐司・井上茂子編 昭和堂
「初版 金枝篇 上」J・G・フレイザー著 吉川信訳 ちくま学芸文庫

ウェブページ
「子殺し女の罪と罰ー法のなかの淑女と淫婦(三成美保)」比較ジェンダー史研究会
https://ch-gender.jp/wp/?page_id=4922

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