father’s apology 2054

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梗 概

father’s apology 2054

悪夢を見たせいか体がケイレンした。

車窓の風景は相変わらず田園風景だった。

 

彼女が心配そうに見上げてきた。私の腕に頭を寄せていたせいで静電気で持ち上がっている彼女の髪を指ですいて戻してやると、彼女は安心したように、また僕の腕に頭を預けた。心地よい重みが戻ってくる。

寝起きのせいか頭がぼんやりする。欠伸をしながら彼女にたずねた。

「どこに向かってるんだっけ」

『あなたが最初に旅行したところはどこですか』

「え、どこだっけな。出張とか旅行とか色々行ったからなぁ」

車両の奥の扉が開き、車掌が改札を始めた。私は胸のポケットを改めた。切符がなかった。

他のポケットも探してみたが見当たらない。そうだ、昼飯は食堂車に行ったのだ。金を払うときに落としたに違いない。私は後方の食堂車へ向かった。

 

食堂車には親子連れと、老夫婦が食事をしていた。小さな息子のために母親が大きなエビフライを小さく切ってわけようとしている。彼女の頼んだアイスクリームが溶け始めたクリームソーダが、やけに泡立って見えた。私ははらはらした。このクリームソーダはいずれあふれるのだと、人工的な鮮やかなみどり色の炭酸水がいずれフロートグラスから溢れ出てしまうのだ。親子はそのことに気づかないでエビフライに集中している。

私は気づいた、ここで見ていることを知っている事に。老夫婦のテーブルの食事にも見覚えがある。カフェの小男が切るレモンスライスの薄さにまで既視感があった。そして、予想通りクリームソーダは溢れだし息子はあわてる母親を見てケタケタと笑っていた。気味の悪さを振り払い、ここに来た理由を思い出しカフェカウンターの男に尋ねる。

「切符を落としてしまったらしいんですが、こちらに届いていませんか?」

「いえ、お預かりしていないようです。あの、失礼ですがお客様は今日はじめてお見かけしたような気がします。こちらには初めていらしたのではないでしょうか」

男の言うとおりだった。私は今日、食堂車など来ていない。

 

急に寄る辺ない気持ちになった。

私は切符を買っていないのかもしれない。

昼飯も食べていないのかもしれない。

彼女も幻影なのかもしれない。

 

「お父さん!」

 

少女がいた。まっすぐこっちを見ている。思い出した。娘だ。入学式の時の恰好をしている。かわいかったころの娘。仕事が忙しくて相手をしてやれなかった娘。私が体を壊した後に家業を継いでくれた娘。少女の姿の娘は私の手をぐいと引き、座席にいる彼女の前まで引っ張っていく。

「このお姉ちゃんの言うことにこたえて!」

『あなたが最初に旅行したところはどこですか』

 

そうか、彼女は私のパスワードマネージャーで私はもう死んだのだ。娘は死んだ私のクラウドの情報を整理してくれているのだ。最後まで迷惑ばかりかけているな。

『あなたが最初に旅行したところはどこですか』

「家族で行った『那須高原』です」

ポニーの上で満面の笑みの得意げな娘の顔がにじんだ。

文字数:1200

内容に関するアピール

死ぬ間際に何を思い出すんだろうなと思ったらGoogleからアカウント無効化ツールのお知らせが来ました。

私たちが死ぬときは、アカウント管理台帳的な何かをきちんと残さないとあらゆるサービスにアクセスできないんだろうなと思いました。

そして思い出すことはきっと「おいしかった」事を筆頭にした身体的な快楽なんじゃないかと思いました。

導入部分はパスワードマネージャー子ともっと「秘密の質問」で会話してもらうのと食堂車の「おいしい思い出」はしつこくみっちり書く予定です。

文字数:228

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Father’s Apology 2054

夢を見ていた。

砂浜にいる小学生の私は足の裏の熱さにじれて早く水に入りたかった。けれど目の前の海水浴場は人だかりで浅瀬は大人と子どもと浮き輪でいっぱいだった。少し泳げるようになっていたから沖に向かって泳げば空いているだろうと思い、砂浜からまっすぐ沖へ向かって泳いだ。案の定そこは人がいなくて、もう数メートル先には遊泳範囲を制限するブイが手をつないで通せんぼをしていた。人にぶつかることなく、見晴らしもよい居場所にたどり着いた私は満足し、泳ぎつかれたのもあって足をつこうと泳ぎを緩める。すると、そこには砂浜が無く、人が少なく太陽の届かない海水は、驚くほどの冷たさで私の足首をつかんできた。大人だったら立てたのかもしれないが、小さな私には少し沈んでみても立てる瀬のない底なしのように冷たい水が続いた。私は恐ろしくなって手足をばたつかせるが疲れで思うようには動かず、徐々に沈み、その冷たい水は太ももから腰まで私をしっかりとつかみ、体温を奪っていく。

 

そこで体がケイレンし目が覚めた。

私は列車の中にいた。

 

横にいた彼女が心配そうに見上げてきた。私の腕に頭を寄せていたせいで髪が静電気で持ち上がっている。背中まであるまっすぐな黒髪をカチューシャでオールバックにし、私の大好きなつるりとまるいおでこがよく見えた。私の袖に張り付いた彼女の髪を指ですいて戻してやると、彼女は安心したように、また僕の腕に頭を預けた。心地よい重みが戻ってくる。

彼女の膝の上には始発駅で買った冷凍ミカンがあった。やっと食べられる硬さになったようだ。彼女はそこから一つをつまみ、目覚めた私に食べさせてくれた。

寝起きのぼんやりとした頭に、舌の上の冷たさがはっきりと伝わってきて心地よかった。思わず声が出る。

「あ、美味いな」

「ね、買ってよかったでしょう?」

勝ち誇ったように彼女は言う。あれ?そんな買う買わないのやり取りあったっけな。覚えていなかったけれどあいまいに「そうだな」と、返事をした。

半分、欠伸をしながら彼女にたずねた。

「どこに向かってるんだっけ」

『あなたが最初に旅行したところはどこですか』

「え?どこだっけな。ん-旅行とか出張とか色々行ったからなぁ」

『初めて遊びに行った海の名前は何ですか』

「え?気味悪いなぁ、俺の夢見た?」

「何それ、見ないよ、あなたの夢なんて」

「ちがうちがう、そうじゃなくて俺の見ている夢のぞいた?」

「のぞけるわけないじゃない」

クスクスと笑って前を向いてしまった彼女はみかんを一口食べた。その顔を覗き込むように二個目が欲しくなって口を開けて催促すると、やっぱり食べるんじゃない、といった表情で口に放り込んでくれた。彼女の表情は豊かだった。僕に給餌しおわると、お気に入りの編み込みのあるニットのベストの裾を直して自分も一つ口に含んだ。

大学のサークルで知り合った後輩だった彼女。私の卒業と同時に付き合い始めた。これは何回目の旅行だっけ。あいまいな記憶をめぐり、舌の上でみかんを溶かしながら線路の音に身を任せていた。横では彼女が食べ終わったみかんの皮を丁寧にたたんでいた。何か足りない気がした。

 

起きてから3本目の橋を超えたところで車両の奥の扉が開き、車掌が改札を始めた。

私は胸のポケットを改めたが切符が見当たらなかった。他のポケットも探してみたが見当たらない。そうだ、昼飯は食堂車に行ったのだ。金を払うときに落としたに違いない。

横では彼女が先ほど車内販売で買ったアイスクリームを溶かそうとビニールパックのお茶を乗せようと集中していた。私は苦笑して席を立ち、後方の食堂車へ向かった。

 

昼時を過ぎているせいか、閑散とした食堂車では親子連れと、老夫婦が食事をしていた。

入口の横のテーブルでは小さな息子のために母親が大きなエビフライを小さく切ってわけようとしている。母親の前にある鮮やかな緑色のクリームソーダに陽の光が溶け込んでいた。私はハラハラしだした。このクリームソーダはいずれあふれるのだと。この人工的なミドリの炭酸水がフロートグラスから溢れ出てしまうのだ。親子はそのことに気づかないでエビフライに集中している。なんでそう思ったのかわからなかったが私は横目でそれを見ながら奥へ進んだ。

中ほどでは老夫婦が食事をしていた 。しかし様子は対照的だった。妻のほうは厚手のフィレステーキを本当においしそうに口に運んでいた。付け合わせのクレソンやオレンジのグラッセも小さく刻んで平らげていた。一方、背中を向けている夫のほうはメインにたどり着く前にスープ皿の前で骨ばった手でパンをちぎって項垂れていた。食欲がないのだろう。彼らの席に近づくと妻のほうと目が合った。彼女は私を懐かしそうに眺めて感じよくにこりと笑った。私は少し戸惑って会釈ともとれるように目を伏せ、視線をそらした。

 

奥のカフェカウンターにたどり着くとそこでは小太りの男がレモンを恐ろしく正確に1㎜幅で切っていた。肉のついた短い指でペティナイフを操り、みとれるほどきれいにレモンをさばき紅茶用の小皿に二枚、少しずらして並べていた。黄色のみずみずしいレモンが乗り、陶器の青い模様が薄く浮かび上がり、それだけで美術品の様だった。見とれていたせいで近づいてきたウェイトレスに気づかずあわてて道を譲ると、銀のトレイをカウンターに置いた。そこには誰かの食べたカレーライスの銀の舟形容器が乗っていた。片方の器には残されたやけに赤い福神漬けがたっぷり残っていた。カウンターの男はそれを驚くべき速さで引き取り、代わりにレモンの小皿と同じ淡い青い花柄の紅茶のセットを用意し彼女に渡した。ウェイトレスは私に笑顔で会釈しそれをまた優雅に引き取り颯爽と運んで行った。そこではじめて気づいたようにカウンターの男が会釈しながら口を開く。

「お待たせいたしました、ご注文は何でしょうか」

そういいながら手はウエスで銀のスプーンを磨いている。動きにまったく無駄がない。さっきまでの真剣な表情の上に笑顔も施されていた。私は彼のプロフェッショナルな所作に少し気圧されてやっとの思いで口を開いた。

「あ、あのー、あのですね、切符をーここで落としてしまったらしいのですが、こちらに届いてはいないでしょうか?」

「切符?ですか」

「は、はい、昼食の時に落としたようなんです」

「……こちらではお預かりしておりません」

カウンターの内側に視線を落として、探すように視線が動き、その後本当に残念そうに男は言った。

「そうですか……」

私は男の答えがなかば予期していたものであることに気づいた。何かをあきらめなければいけないのに執着している感じが付きまとう。この罪悪感にも似た感情はいったいどこから来るのか。楽しいはずの旅行が、逃げ出したい道行に変わってきた。さっきから細部ばかり目に入ってくるのは、本当はもっと別の見なければいけないことからの逃避なのではないか。しかし私が目にしたものは以前に見ている、既視感ではなく「知っている」感覚だった。

私がそう思い至った瞬間、入り口近くの親子のテーブルのクリームソーダが溢れだし、息子はあわてる母親を見てケタケタと笑いだした。

そういえばあのウェイトレスはどこへ紅茶を運んで行ったのだろう?カレーを食べたのはいったい誰だったんだ?

気味が悪かった。彼女の元へ戻りたかった。

「おじゃま、しました」

やっとの思いでカウンターの男に礼を言う。しかし男が言う。

「あの、失礼ですがお客様は今日はじめてお見かけしたような気がします。こちらには初めていらしたのではないでしょうか」

男の言うとおりだった。私は今日、食堂車になど来ていない。

 

言葉にされると急に寄る辺ない気持ちになった。

昼飯も食べていないのかもしれない。

私は切符を買っていないのかもしれない。

彼女も、幻影なのかもしれない。

 

すっかり打ちひしがれて食堂車からデッキへ出た。

 

「お父さん!」

 

少女がいた。まっすぐこっちを見ている。思い出した。娘だ。入学式の時の恰好をしている。かしこまった服が窮屈で入学式に行きたくないと泣いてたっけ。似顔絵を描くのが上手で壁中画用紙が貼ってあったな。小さくてかわいかったころの娘がそこにいた。

仕事が忙しくて相手をしてやれなくて約束を破って何度も失望させてしまった娘。

私が体を壊した後に妻をささえ家業を継いでくれた娘。おでこが若いころの妻にそっくりだった。ここで記憶の食い違いに気づく。結婚したのは彼女の卒業を待って籍を入れたから二人だけで旅行はしたことがないはずだ。だとすると一緒にいた彼女は?徐々に繋がっていく記憶を味わう暇もなく、少女の姿の娘は私の手をぐいと引き、座席にいる妻の前まで引っ張っていく。

「このお姉ちゃんの言うことにこたえて!」

『あなたが最初に旅行したところはどこですか』

私が逃げていた「事実」がわかった。

そうか、若いころの妻の姿をした彼女は私のパスワードマネージャーで私はもう死んだのだ。娘は死んだ私のクラウドの情報を整理してくれているのだ。私は私の心地よい思い出の中で何とかやり過ごしたいと逃げていたのだ。

 

私の父と喧嘩して母が実家に帰るときに食堂車で贅沢しようって、自分はクリームソーダだけ頼んで私に大きなエビフライを食べさせてくれた。

何度かそういうことがあって私は列車での非日常な食事が大好きだった。

赤い福神漬けは嫌いだったけれど、カレーライスを大人の量を食べさせてもらえるのが嬉しかった。

紅茶はレモンを入れると色がほんのり薄くなったりするのが面白かったし、余った一枚に砂糖をかけて食べるのもちょっと楽しかった。

最後に旅行に行こうと選んだのも列車の旅だった。妻と食堂車で豪勢な食事をしようとしたけれど、その頃の私はもうそんなに食べられなくなっていた。目の前で妻が「美味しい、美味しい」って食べてくれたのが本当に救いだった。

列車での食事の思い出は私の大事な特別な記憶だった。

 

冷凍ミカンを食べているときに物足りなく感じたのは娘がいなかったからだ。苦しいことがあった時、たとえ大人になっていても娘に負わせてしまうのは申しわけないという気持ちと弱った自分を知られたくない見栄で、最後まで迷惑ばかりかけてしまった。もっと甘えておけば良かったんだなぁ。初めて「私の」家族で行った旅行。そういえば冷凍ミカンや車内販売のあれやこれやを妻が張り切って色々買い込んでたしなめたっけ。

『あなたが最初に旅行したところはどこですか』

「家族で行った『那須高原』です」

そう答えられた私は娘にすべて「渡せた」安堵が波紋のように拡がってきた。若い妻は本当の娘とは知らずに入学式姿の娘を可愛がっている。娘も本当の母親とは知らず彼女の膝に体を寄せて懐いている。

 

車窓からの日差しが那須高原の夏の陽射しに変わった。

高原の牧場、草いきれに囲まれ、ポニーの上で満面の笑みで「お父さーん!」とよぶ、得意げな娘の顔が最後ににじんでいった。

 

文字数:4430

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