逆立ちした植物達の輪舞

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梗 概

逆立ちした植物達の輪舞

 人間の左腕には蔦が這ったような見た目の、葉紋と呼ばれる光合成を行う器官がある。葉紋には炭水化物の生成に必要な葉緑素と窒化物の吸収に必要な菌糸が共生している。人間と植物だけが食事を必要としないため、特別な生物であると考えられてきた。広く浸透した宗教、ノルシア教においても、食事のために生命を殺すことは大罪だとされる。信仰の薄れた現在でも、肉食獣などは忌避されている。そのため、時折産まれてくる葉緑素または菌糸を持たない人間に対する偏見が強い。彼らは食事を必要とするからだ。

 高校生の滝沢は葉緑素を持たない。食事が必要であることを示すため、転校先の学校にて、学年集会での自己紹介にて観葉植物であるトマトを貪り、ヘタに菌糸を這わせて分解・吸収してみせる。多くの生徒が唖然とする中、ぎょっとするほどにこちらを凝視する生徒がいた。隣のクラスに所属する雲上(くもがみ)だ。雲上はひ弱そうな見た目であるが、その視線は飢えた肉食獣のようにぎらついていた。また、雲上の葉紋はとても美しい翠色であった。彼が菌糸を持たないためだ。滝沢は美しいその葉紋に見惚れてしまう。

 昼休みには、多くの生徒が光合成のために明るい外へ出ている。滝沢は食事のため、暗い聖堂へたどり着く。聖堂内では雲上が一人でノルシア様に祈りを捧げていた。滝沢は食事をするから出て行けと頼むが、雲上は気にしないからと動かない。雲上に食事をどう思うか問われ、滝沢は「食べ、食べられる生命の循環」こそが正しいあり方だと答える。
 それから、暗く人の集まらないこの聖堂において、滝沢が食事し雲上が祈るだけという会話のない関係が続く。

 ある日滝沢は帰宅途中の道路で、雲上が車に轢かれた野良犬を救出しようとしているところに出くわし、手伝う。肉食獣を嫌っていないと話す滝沢に、雲上は酷く嬉しそうな笑みを浮かべる。「また明日、聖堂で」と約束が交わされる。

 翌日、聖堂へ行くと雲上が電灯をつける。室内が明るくなると、雲上の手にはペットとして人気のハツカネズミが握られていた。「僕も、こうしないと空腹で仕方がないんだ」と言いながら、雲上はネズミに喰らいつく。生々しい血の匂いと咀嚼音に耐え切れず、滝沢はその場から逃げ出してしまう。

 雲上が自殺したとの訃報が入る。彼の数少ない友人と思われていた滝沢は、葬儀の案内を受け取る。滝沢は雲上の自殺は自分が彼の食事を受け入れられなかったせいだと考える。葬儀当日の明け方、滝沢は会場である雲上の家に忍び込む。安置された棺には美しい翠色の雲上が横たわっていた。「食べ、食べられる生命の循環」を実現するため、滝沢は自身の菌糸を雲上の葉紋に這わせる。分解され、葉紋がみすぼらしくなっても、雲上はとても美しく思えた。滝沢は冷たいその唇へ口づけをし、彼の死体へと齧り付く。

文字数:1162

内容に関するアピール

 植物カニバリズム悪堕ち BL-SF です。私の趣味という趣味が煮詰まってしまいました。久々の植物小説です。実家のような安心感があります。中学校の時の塾の先生が、将来の夢は光合成だと話していました。すごくいいなあと思い、その頃からわたしの夢も光合成です。

 植物の根は電気信号をやり取りしており、脳のようだと言われています。とある書籍では植物を逆立ちした人間に喩えていました。植物への偏愛を込めてこの逆を取り、タイトルにしました。

 なお、作中では菌糸としましたが、正確には菌根菌や葉圏菌を想定しています。

 最後に言い訳ですが、腕の表面積程度に広がる葉緑素の量では、通常の光合成を行っても必要なカロリーを生成しきれません。実際の葉緑素と異なり、より短波長の吸収を行う必要があります。ただしその場合、色が目に見えず分かりにくいため、俺の宇宙では風が吹いている理論で今回は緑色としました。

文字数:388

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翠に焦がれたギンリョウソウ(改題)

「いただきます」
 秋風侘しい転校初日、自己紹介のために呼び出された学年集会へ、俺はひっそりと、トマトを持って参加した。観賞用のありふれた、小さなやつだ。滝沢くん、と担任に呼ばれて約二百人の前に立つ。ありふれた二百対の瞳、当たり前のように緑色をした、二百本の左腕。ここにいる誰もが葉緑素を持っていて、当たり前に光合成をしていやがる。こいつらはきっと、それが当然だと思っている。日なたぼっこで生きていける、優しい世界しか知らない奴らだ。
 だから、これが自己紹介には一番手っ取り早い。
 俺は、手中のトマトへとわざとらしく齧りついた。
 皮を食い破る犬歯の感触に、滴る真っ赤な果汁。鼻を突き刺す、真っ青な生命の苦み。ごくり、ごくりと飲み込めば、生命が喉を伝っていく。胸の奥に垂れ流される生命だったどろどろのトマトが、胃袋を優しく、憎らしいほどに優しく、温めていく。
 既に俺の左手は、食べ散らかしたトマトで見るも無惨に汚れていた。真っ赤な、食事をした罪の色。そうしてこいつら葉紋持ちとは違う、菌糸のみがはびこる煤けた鼠色の左腕。
「転校してきました滝沢です。見ての通り、生まれつき葉緑素を持たない銀紋です。光合成ができないし、タブレットじゃ物足りなくて腹が空く。食事の必要があります。よろしくお願いします」
 形ばかりのお辞儀に、やや遅れて形ばかりの拍手。波のように葉紋持ちの腕が揺れて、揺れて。さざめく森のようだった。
 信じられないものを見てしまった。森に転がる数多の瞳が、そう呟いて怯えている。こいつら、娯楽用のガムすら知らないのかよ。これじゃ、銀紋者用のタブレットを口に放っただけでも悲鳴を上げただろう。あんなまやかしじゃ、空腹は癒えないのに。光合成ができる彼らにとっては、何かを口にする事そのものが嫌悪の対象だ。
 ダメ押しにと、トマトのヘタへ菌糸を沿わせる。ヘタはたちまち瑞々しい緑を失い、煤けた亡骸へと姿を変えた。その残骸を握りつぶす。生命の吸い取られた、ざらつく砂の感触が宙を舞う。近くにいた女生徒が反射的に仰け反って、気まずそうに俺を見た。俺の、薄汚れた銀紋を。彼女の葉紋はありふれた緑色で、気弱そうな蔦の葉状の葉紋が腕にまとわりついていた。
 呆気に取れられていた担任が、どうにかその場を取り繕おうと俺に退場を促す。クラスの列へと背を押された。俺から目を反らす奴、嫌らしい好奇を向ける奴、怯えつつも横目で追う奴。この扱いで構わない。先ほどの女生徒だって、震えた涙目で、ちらちらと俺を監視している。ここでも変わらず、俺らしい生活が送れる事だろう。
 その時、鋭いただ一筋の視線が俺を突き刺した。飢えた獣が獲物を見つけた時の、涎を滴らせ、牙をギラつかせた情念が俺を捕らえていた。
 翠色の美しい視線。
 クラスの最後尾へ座り込んだ俺の二つ隣にいた彼は、透き通るほどに美しい葉紋を持っていた。見た目はひ弱な文学青年といった風情で、とてもあの、獰猛な視線には似つかわしくない。彼の葉紋は木漏れ日に透ける翡翠の宝石も、五月晴れに芽吹く新緑も叶わないほどの美しさで、花弁の儚ささえ感じられた。
 だというのに、彼の視線はギラつく獣そのものだった。

 

 人間の左腕には蔦の葉が這ったような見た目の、葉紋と呼ばれる光合成を行う器官がある。葉紋には炭水化物の生成に必要な葉緑素と、窒化物の吸収に必要な菌糸が共生している。人間と植物だけが食事を必要とせず、生命を奪わずに生きていく事ができる。だから、ノルシア様がお救いくださる特別な生命なのだ。
 ノルシア様はお優しい慈愛の女神様。空一面に広がる大海原から、溢れんばかりの慈愛を陽光として注いでくださっている。生命を奪う事のない清らかな生命だけが、死後にノルシア様の待つ優しい海へと帰る事ができる。その海は空に広げた模造の慈愛とは違う、本物の安らかなる海だ。死後に葉紋が芽を伸ばし、彼女の待つ地華へ花開くと信じられてきた。
 ノルシア様の慈愛を近くに感じるため、青真珠かそれを模した硝子玉は、信仰心の薄れた現在でも多くの人が持ち歩いている。また、肉食獣への嫌悪も未だ根強い。生命を奪わない人間こそが正義であるならば、例えば犬なんかは生命を喰らう、悪しき獣の代表格だ。
 だから、あの転校生には驚いた。彼は忌み嫌われる獣である事を自ら公言したのだ。
「ノルシア様、どうか僕をお救いください」
 僕を救わない神様に縋るしかない、醜い僕とは違って。彼の腕は美しい銀狼色だった。

 

 多くの生徒が光合成を求めて屋外へと出歩く昼休み、俺は暗がりを求めて学内を探索していた。学年集会での見世物が効いたのか、俺を咎める者は誰もいない。教室での食事も考えたが、あの女生徒が同窓であったため躊躇われた。
 人の波に逆らい逆らって、俺は暗い聖堂に辿り着いた。ノルシア教の信仰もすっかり薄れた今では、誰も寄りつかないのだろう。食事への嫌悪だけは一丁前なくせに。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 錆び付いた門戸を押し開くと、くぐもった煤け色の声がざらざらと聖堂を震わせていた。灯りも付けず、たった一人で。てっきり誰もいないかと思っていた。声の主は俺に気付こうともしない。葉紋を携えた腕に力を込めて、ひたすらに祈りを捧げていた。
 近づけば、僅かな錆び鉄の臭い。そうして彼が繰り返し唱えていた煤け色の声は、祈りでなく懺悔だった。翠色の美しい葉紋、俺を凝視していたあの男子生徒だ。首には本物の青真珠をぶら下げている。相当熱心にノルシア教を信じているらしい。俺は、硝子玉すら持った事もない。
「邪魔をして悪いが、少しいいか?」
「え? あ、転校生の、ええと、滝沢くん」
「人気のない場所で食事がしたい。ここなら誰もいないと思ったんだが、他に場所を知らないか?」
 食事用の落ち葉と果物を詰め込んだズタ袋を振るってみせる。流石に、彼の祈りを邪魔する事は忍びない。
「別に、ここで食べればいいですよ。僕は気にしない」
 意外な彼の返答に、俺は思わず、まじまじと彼の瞳を覗いてしまった。宝石よりも美しい彼の葉紋にふさわしい、混じりけのない純粋な瞳。
「じゃ、ありがたく」
 適当な椅子に腰掛けて、林檎へと齧り付く。これも観賞用の低木から拝借したものであるから、ぼそぼそと味気ない。最近流行の合成ガムなんかの方がよっぽど舌に楽しい。けれど、あんな娯楽品では、生命なきまがい物では、生きていけないのだ。
「隣のクラスだから初めまして、だよね。僕は雲上。よろしく」
「あんた、いつも一人でここに?」
「僕の葉緑素だと、わざわざ日光浴までしなくて充分なんだ。運動部でもないしね」
「へえ。でも、いいのか? 俺なんか招き入れて。あんた熱心に祈ってたじゃないか」
「別に、気にしないよ」
 林檎のヘタを菌糸に喰わせて、落ち葉へと左腕を突っ込む。普通なら落ち葉をペースト状にした糊を葉紋へ塗る程度で事足りるが、葉緑素を持たない俺の場合そうはいかない。袋一杯の落ち葉へ菌糸を伸ばし、獲物を捕らえた蜘蛛のように縛り上げる。優しい朽葉色であった落ち葉は見る間に生命の名残を失い、砂同然の残骸へと成り果てていく。
 その様子を、雲上は恐ろしいほどの鋭い瞳で凝視していた。
「見ていて、気分のいいもんでもないだろ」
「すみません、つい」
「見世物じゃないんだ」
「ご、ごめんなさい。どうしても、美しくって」
「美しい?」
 俺は思わず、彼の葉紋を見てしまう。よっぽど美しいものを携えた彼が、俺を、美しいと。
「滝沢くんは、滝沢くんは食べることをどう思ってるんですか?」
「自己紹介の通りだ。必要なんだよ、生きるのに」
「す、すみません。失礼な事聞いて」
「慣れてるから、別に。雲上って言ったっけ? あんたは?」
「え?」
「あんたは、食べる事をどう思ってるんだ?」
「僕、僕は、その」
 流石に、本人を前にして邪悪な獣の行いだなんて言えないか。ただ、俺の機嫌を伺うかのようにしどろもどろな態度が気にくわなかった。
「そもそも、ほとんどの生き物は喰って喰われてるんだ。“食べ、食べられる生命の循環”の中にいる獣こそ、生命のあるべき姿だろ? 食事を必要としない植物と人間だけが高尚な生き物だなんて考えは傲慢だ。そうだろ?」
 返事はない。意地悪が過ぎたか。
「俺はノルシア教が嫌いなんだ。八つ当たりして悪かった。明日から他所で」
「僕も」
 真っ直ぐに獲物を射貫く、獣の瞳。出て行こうとした俺は、身じろぎ一つできず彼の視線に捕らわれてしまった。
「僕も、ノルシア様が嫌いなんだ」
 鈴を打ったように凜とした、澄み渡る声。聖堂の暗がりとは裏腹に晴れ晴れとした瞳で、雲上は青真珠を首から取り外す。青真珠を床へ放り捨て、雲上は転がる信仰の青を足で踏み潰した。真珠は食べ捨てた落ち葉のように鮮やかさを失い、砂煙として散っていく。
 信仰を踏み潰した足で、軽やかに雲上は聖堂を出ていった。
 こいつは俺でなく、祭壇に祀られたノルシア様に遠慮していたんだ。
「明日からも、ここに来てくださいよ。食事をするなら、きっとここが一番いい」
 こうして、俺と雲上の奇妙な交流が始まった。

 

 今日も薄暗い聖堂にて、俺は食事に専念するし、雲上はずっと何かを祈り続けている。踏み潰した青真珠の残骸に膝をついて、一心不乱に。
 俺たちは特に何を話すでもなく、ただ、同じ場所にいるだけ。余計な詮索も、会話もあの日以来一切していない。教室は隣だったが、わざわざ会いに行く仲でもない。俺は狙い通りクラスのはみ出ものだったし、雲上も引っ込み思案な性格が災いして、いつも一人のようだった。
 今日は災難で、クラスメイトが合成ガムを学校に持ち込んだことで説教が続いていた。どうやら校則で禁止らしい。煙草と同じ扱いか。そのクラスメイトは食事が必要な俺を言い訳に使うものだから腹が立ったが、これ以上説教が長引く方が面倒で黙っていた。
 夕暮れも店じまいで、薄っすらと蒼い夜が迫っていた。陽光がノルシア様の慈愛なら、星はノルシア様の慈悲。食事を行った邪悪な獣は、死後に夜の果て、空獄へ行くと言われている。真っ暗な空獄には、ノルシア様の慈悲たる星が瞬いているのだとか。
「雲上?」
 大通りからわざと外した俺の帰路に、翠色の葉紋が見えた。うずくまって、必死に何かを持ち上げようとしている。それも車道の真ん中だ。交通量が少ない道とはいえ、危ないじゃないか。俺は思わず駆け寄った。
「滝沢くん? こんな遅くにどうしたの?」
 雲上は犬を抱き上げていた。車に轢かれたのか、犬の足は痛々しく血に汚れている。中学生くらいの体格をした大型犬で、ひ弱な雲上ではとても持ち上がらないだろう。怪我をしている足回りを雲上に任せ、俺が抱きかかえて歩道へと連れ戻した。
 犬は泥まみれで、どこかの山から迷い込んできたのだろう。肉食獣を飼う酔狂な人はほとんどいない。この野犬は、運悪く車に撥ねられてしまったのか。肉食獣は嫌われ者だから、轢き逃げされたのだろう。足を見れば、どす黒く凝り固まった傷口からまだ、血を垂れ流している。
「雲上、あんた、長い布持ってないか? ハンカチとか、何でもいい」
「こ、これは? ちょっと汚いけど」
 雲上は灰色の袋から、細長いタオルを取り出した。本人の言うようにぼんやりと何か臭うが、構わない。ペットショップの臭い、だろうか。兎にも角にも、犬の足に巻き付け、とりあえずの止血をした。
「滝沢くん、ありがとう。僕一人じゃどうしようもなくって」
「こいつ、野犬だろ? ペットでもないのに、どうして」
「だって、可哀想で。痛そうだし、きっとまた轢かれちゃいますから。滝沢くんこそ」
「俺?」
「どうして、手伝ってくれたんですか?」
 茂みに休ませた野犬を抱きしめる美しい翠色の腕。そうしてあの、真っすぐな瞳。
「別に、犬も嫌いじゃないってだけで。肉食獣だって、俺は好きだよ」
「ホントウに?」
 燦々と、雲上の瞳は星のように輝いた。飛び切り嬉しそうに、きらきらと。
「明日また、聖堂で」
 

 翌日の昼休み、聖堂には既に雲上が待っていた。いや、こいつはいつも俺より先に聖堂にいて、いつも何かを祈っている。だから、俺を待って直立していたことが一番の驚きだった。
 そして何より、酷く獣臭い。昨日の野犬よりよっぽど鼻が苦しい。
「滝沢くん、来てくれてありがとう」
「別に、いつも来るじゃないか。何を改まって」
「明かりをつけても、いい?」
 翠色の左腕が、聖堂奥の壁に添えられる。てっきり、電灯なんてないものだとばかり思っていた。いつも、俺が来る前から、ここは真っ暗だったから。何をいまさらとは口にできず、頷く。
 雲上の瞳が今日も、いや今日までずっと、星のように輝いていたから。
 電灯が点くと、聖堂らしくステンドグラスが眼前に並んでいた。植物を思わす緑、海を模した青のガラスが丁寧に並んでいる。葉紋と慈愛の海が溶け合う、憎らしいほどに煌めく絵画が象られていた。
 最奥の祭壇へと雲上が昇っていく。その上には、袋?
 昨日、貸してくれたタオルが入っていた袋だ。そいつが、いや、その中身が、もぞもぞと動いている。
「肉食獣が好きだと言ってくれた人は、初めてだった」
 雲上が袋から取り出したのは、鼠だった。合成ペレットで飼育が可能だからペットとして人気な、ハツカネズミ。
「“食べ、食べられる循環”こそが生命のあるべき姿だって、言ってくれた」
 雲上が、暴れるハツカネズミを慣れた手つきで押さえつける。ひ弱な腕で、あの美しい翠色の左腕で、獣のごとき荒々しさで。
「僕もね、空腹で仕方がないんだ。翠紋って言ってね、菌糸を持たないから」
 握りしめた雲上の左手から、鈍い音がする。生命の潰えた音だ。
「タブレットじゃ物足りない。こうやって動物を食べないと、生きていけないんだ」
 雲上は、鼠の頭へと齧り付いた。骨身の砕ける音、背筋の凍る獣臭さと何より、鉄錆の、いや、濃い血の臭い。生命を食べている臭いだ。雲上は口の周りを罪深く赤色に染めて、あの、鋭い視線に宿る飢えた獣さながらに、鼠を貪っていく。毛皮を吐き捨てて、骨は噛み砕いて、滴る血の一滴も、舌で舐めとって。鼠は丁寧に、雲上の腹へと巡っていった。俺が、林檎を齧るように。
「だから、滝沢くんに出会えて本当に嬉しい」
 美しく微笑む口元は、鼠だったものがこびり付いていた。雲上の瞳が一等星のように輝いて、春を囀る小鳥のような声で、美しい、美しい翠色の腕で。真っ直ぐな瞳が、俺に問う。
 俺は、思わず逃げ出してしまった。

 

 あのまま早退し、今日は学校へも行けなかった。両親には風邪と偽って、頭を抱えている内に日が沈んだ。何度も、何度も雲上の笑みが思い出された。目の前で行われた食事が、本来の“食べ、食べられる循環”としての食事が、何度も。
 俺も結局、ノルシア教の唱える正義に身を委ねていたんだ。生命を奪う事を、拒絶したんだ。
 共働きの両親はもうしばらく、帰ってこないだろう。そんな夜の入り口に、チャイムが鳴る。担任の声だ。
「具合は大丈夫ですか?」
「全然、平気です」
「大事な話なので、落ち着いて聞いてくださいね」
 担任は沈んだ声で、彼自身が平静を保つので必死とばかりの様子だ。鞄から、丁寧にしまわれた封筒が取り出される。
「昨日の夜、雲上くんが亡くなりました。自殺です」
「自殺って、まさか」
 あり得ない、とは言えなかった。俺が逃げ出した時の、あの、砕け散ったような雲上の表情が脳裏を過ぎる。
「遺書には、さようならとだけ書かれていたそうです。ご両親が発見された時には既に、亡くなっていました」
「そ、それで、俺に何の用ですか?」
「滝沢くんは、雲上くんの数少ない友達でしたから。雲上くん、君が引っ越してきてから家でもずっと、君の事を嬉しそうに話していたそうですよ。それで」
 封筒が差し出される。
「雲上くんのご両親から、葬式に来てほしい、と」
 震える手で封を破ると、葬儀の案内が入っていた。明日だ。
「どうして亡くなったのかは分かりませんが、彼のためにも」
「は、い。先生、届けてくれてありがとうございます」
「君も、数少ない友人だったでしょう。どうか気を落とさずに」
「大丈夫です。雲上くんのご両親に、出席すると伝えてもらえますか?」
「分かりました。大丈夫。きっと、ノルシア様の優しさが雲上くんを抱きしめてくれます」
 担任が家を出て行くと、外はすっかり夜だった。ちらつく星が、何よりも、自分自身が、一切が許せなかった。
 星夜の静寂に、頭が冷えていく。雲上は夜という檻に捕まっている。ノルシア様に捕まっては、“食べ、食べられる循環”に、雲上は混じれない。ノルシア教では地華で花咲く葉紋のために、遺体を種子の殻に見立てた棺へ閉じ込める土葬が一般的なのだから。
 俺は、雲上が夢見た悪しき正義を今度こそ、貫かないといけない。

 

 早朝の空気は冬めいて、心がすっと晴れていく。雲上家には簡単に忍び込めた。雲上のご両親は、悲嘆を枕に眠っている。雲上の自室はすぐに分かった。トマトの写真が貼られていたからだ。部屋にはタオルを敷いた飼育ケージが積まれていた。食べられる予定だったであろうハツカネズミたちが、楽しそうに回し車を駆けている。
 布団の上に、雲上は横たわっていた。俺の空っぽな言葉に心から喜んだ頬、野犬を可哀想と助けた、優しい口元、美しい左腕の葉紋。この、美しい翠色が雲上を苦しめてきた。俺の醜い、煤け色をした菌糸のように。
 雲上の葉紋へ、菌糸を這わせる。この世の何よりも美しい翠色が、俺の菌糸に蝕まれていく。瑞々しい蔦の葉模様が霞んで、生命を吸い取られた亡骸にもう、翠色は残っていなくて。全部、俺が食べてしまった。あの美しい翠色は、俺が食べなければならなかった。
 葉紋が砂と化しても、俺にはどうしても、雲上が美しいままに思えた。初めて触れた肌はひんやりと死んでいて、それなのに、禄に会話もしなかった唇が、まだ、赤くて。紅くて。
 雲上の唇に、そっと唇を重ねた。
 この美しさを、 “食べ、食べられる循環”に、連れていかなければ。
 俺は雲上の唇に喰らいついた。どんなに優しい羽毛よりもずっと柔らかい。流れ出す血が紅くて、一滴も残さぬよう啜った。甘い、生命の香り。喉を通り抜けて、俺の胃袋が優しく温まる。
 頬も、首も肩も胸も、腹だって、足だって全部。最後に左腕が骨になるまで、俺は雲上を食べ続けた。後は、いつかどこかで、俺が誰かに喰われればいい。
 それまでは、喰らったあんたを糧に、生きていくよ。
「ごちそうさまでした」

文字数:7518

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