書葬

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梗 概

書葬

その村には当時として非常に珍しい図書館があったが、村には不思議な風習があった。それは書葬と呼ばれる風習で、村では死ぬとその人にふさわしい短い本が書葬士と呼ばれる人間の手によって書かれた。死者は本となって魂が保存されると信じられたのである。主人公もまた書葬士の一人だった。

主人公の姉が死んだ、処刑されたのである。姉は図書館の本を盗み、時折村にやってくる隣村の商人に本を売って横流ししていた。村では、本はとても貴重なもので神聖なものだった。姉のした行為は重罪だった。

村では、秋になると納本祭がおこなわれる。納本祭では、書葬として書かれた本が持ち寄られて、図書館に本が収められる。妹は姉の書葬を行なおうと紙とペンをとった。しかし、書けなかった。

罪が発覚した時は誰もが驚いた。姉は村の老人たちには親切で子どもたちには優しかった。姉妹は早くに両親を亡くしたが姉は妹である自分を今日まで文句を言わずに育て上げた。妹はどうしても生前の姉が自分が書葬士として書いた神聖な本を横流しして金を得ていた、そんな卑劣な姉の像が結びつかなかった。姉をどんなふうに書いて残せばいいか妹にはわからなかった。

姉にも事情があったのかもしれない。妹は隣村まで行き姉から横流しを受けていたという商人に話を聞きに行った。だが商人は妹が望んだ答えは返さなかった。それどころか姉は書葬の習慣すら信じておらず、内心では書葬士たちのことも軽蔑していたと商人は酒を呑みながら応えた。

妹は買い戻せるだけの書葬の本を商人から買った。妹はそれによって商人に大きな借金を作ることになったがせめてもの償いとして妹が出来ることはそれくらいしかなかった。

妹は落ち込んで大量の本と共に村へ帰る。妹は書葬士として悩む。姉のいったいなにを書けばいいだろう。書葬士の大義は死者の生前の人となりを書き本に保存することだ。だが姉のような悪人のなにを本として残せばいいだろう。書葬は取りやめてそもそも残すべきではないのかもしれない。最後にはそう考える始末だった。

妹は本を図書館に返す前に買い戻した本を何気なくめくってみた。それらは殆どが妹が書葬士として心血を込めて書き上げた本だったが、一冊自分に覚えのない本があった。どうやら、それは姉が書いたものらしかった。大方売る本に困って自分で妹の見様見真似で書いてみたのだろう。

その書葬の本の出来はひどいものだった。姉は妹を学校にやる代わりに自分は働きづめだった。妹は書葬士だというのに、姉の方は字を読めさえしなければ書くこともままならなかった。妹は改めて自分の書いた死者たちの追悼の本を読む。それは本当に死者たちの生前の姿をきちんと書いていただろうか。死者への敬意といいながら死者と向き合わず美化して書いていなかったか。

それは不自由なく暮らさせてもらった自分の生活の裏の姉の苦労を見ないようにしていた自分とどこか重なった。

妹はペンをとって書葬と向き合う。今度こそ妹は姉の飾りのない姿を書き始めた。

次の秋の納本祭の季節が訪れた。妹は書葬士として書き上げた姉の本を持ち寄った。それはいままでのどんな死者の書よりも醜い物語だった。だが妹は確かにその本を姉の書葬として図書館に収めたのだった。

文字数:1325

内容に関するアピール

書くことというのは二つの意味で、残すことだと書いていて思いました。ひとつは書く対象、もうひとつはそれを書く人そのものです。ある種書くことは喪の作業に近いような感覚さえあるのかもしれません。そう考えると図書館は墓所のようなものなのかもしれません。あの図書館のおしゃべりが禁じられた特有の静謐さとどこか聖性さえ感じるような雰囲気は本というメディアが並べられた彼岸と此岸が混じりあうお墓のような場所なのかな。

文字数:201

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書葬

1.

わたしとお姉ちゃんのおばあちゃんが死んで、今日でちょうど九十九日だった。
 納本祭は明日の午後からで執筆に使える時間はもう今日の夜しかなかった。今年の祭礼に間に合わせるには製本作業を考えると明け方までに書き上げないといけなかったから、お姉ちゃんは灯火を消さずに書葬を続けていた。わたしは心配になって晩のスープの余りでも温めて持っていこうとも思ったが、お姉ちゃんの部屋の前までお皿を運んで入るのがなぜか怖くなって、入れなかった。それはおばあちゃんの書葬の仕上げを行なうお姉ちゃんの邪魔になるかもしれないという気持ちももちろんあったけど、それだけではないような気がした。
 結局、わたしはその夜、自分の部屋でも寝られずに、暖炉に椅子を持ってきて、火を見ながら明け方まで座り続けた。ここ一週間、書葬の最後の追い込みをするお姉ちゃんはちょっと怖かった。お姉ちゃんは図書館の仕事もまるまる休んで、ひたすら部屋に籠っておばあちゃんの書葬をしていた。たかだが本を書くだけなのに。
 お父さんの書葬はお母さんがやったし、お母さんの書葬はおばあちゃんがやった。だからお姉ちゃんが書葬を行なうのはこれが始めてだった。いままで村でいちばんたくさんの人の書葬を行なってきた村長は、おばあちゃんの死者の書を書き上げる書葬士としてお姉ちゃんを選んだとき、わたしたち姉妹に「死者の書を書き上げるということはただ学校で習った字を羊皮紙に書きつけるだけじゃないよ。言葉を書くとは、なによりも自らの魂を彼岸との交流に使うことだ。自らの魂を持って他人の霊を写し取るのだから、書葬士として書葬を行ない死者の書を書くとは並大抵のことじゃないんだよ、それでもあんた引き受けるね」そう訊ねた。お姉ちゃんはそのときはただ村長にはいと一言答えただけだったけど、ここ一週間のお姉ちゃんのやつれ方をみると確かにお姉ちゃんはまるで命を吸われるようにどんどんとやつれていっていた。
 書葬士を任じられることは村では名誉なことだ。それはひとつの書を持って、死者と一番深い部分で交流することが許され、そしてなによりもその死者の魂の保存にふさわしい人物として、死んでいった者と生前にもっとも結びつきが強いと認められたということだからだ。わたしだっておばあちゃんの書葬士を務めたくなかったかといえば、務めたかった。わたしだってお姉ちゃんと同じでおばあちゃんとは生きている間のことについてどれほどおばあちゃんについて書き残したかったことがあることか。でも村長の決定は絶対だ。わたしは決定に従った。
 わたしたちの村のこの書葬という風習は実はかなり危険なものでもあるのだ。村の人間の話によれば、少ない例ではあるが書くことによって気が狂って言葉がつかえなくなったり、逆に自らが書く死者の書に捕らわれてしまうこともある。そうなったら永遠にペンを置くことができず書き続けてしまい飲まず食わずになり、そのまま完成と共に果ててしまうものも過去にいないわけでもなかったのだという。
 それでも書葬という村の風習はけしてなくなることはなかった。わたしたちはそれほどまでに本というものを信じているし、そこには生前の愛した者たちが存在するのは間違いないからだ。死者の書が収められるあの図書館の独特の静謐さ、そこに並ぶ無数の死者の書、その背表紙の美しさ。死者を書くこと、読むこと、そしてそれを一冊の本として納めること、それをしていること、できること、それが何よりもわたしたちの村の誇りだった。
 わたしは明け方になり弱くなっていった火に薪を足そうと立ち上がろうとした。すると階上から人の気配がした。お姉ちゃんだった。朗らかで村の子供に好かれ老人には誰にも親切で、村で誰にも笑顔を絶やさないお姉ちゃんの目は霊力を使い果たしたかのように真っ赤でその下の瞼は黒くうっ血していた。
「エミリア」
 お姉ちゃんがわたしの名前を呆けたように呼ぶ。足は震えていていまにも階段から転げ落ちそうだった。
「お姉ちゃん、死者の書は……?」
 お姉ちゃんはわたしの問いに片手に握っていた羊皮紙を震える手でわたしに差し出した。それからうっすらと微笑み、
「書いたよ、ほら、おばあちゃんがここに」
 そういって、わたしが受け取ると階段からわたしの胸元に飛び込むように倒れた。
 焦ったわたしは勢い肩を揺すって起こそうとしたが、お姉ちゃんは村の誰にも聞かせたことのないような馬鹿でかい鼾をわたしの肩で立てた。怪獣のようなその鼾にわたしは胸をなでおろした。
 わたしはもたれかかるお姉ちゃんを暖炉の側の椅子に座らせて、そのまま眠らせると受け取った羊皮紙を捲った。そこにはお姉ちゃんらしい一字一字整った文字がびっしりと書き綴られていた。お姉ちゃんによるおばあちゃんの書葬は成功したのだ。

★★★

納本祭は午後から夕方にかけて行われる。わたしはお姉ちゃんの羊皮紙を一枚も落とさないように気をつけながら、もともとお姉ちゃんと二人で決めていた表紙を持って村の製本士のクラウスさんのもとへ走った。クラウスさんが羊皮紙を断裁してそして綺麗に糊付けしていくのをわたしは固唾を飲み込んで見守った。お姉ちゃんが文字通り霊魂を傾けて書いた本だ。うっかりでも間違えがあっても、もう二度と同じものは書けないだろう。クラウスさんは手慣れた様子で本をみるみる仕上げていった。
「はい、エミリアできたよ」
「ごめんなさい、ぎりぎりで無理を言って。お姉ちゃんも三日前には出す、二日前には出す、前日には出す、って言っていたのに結局当日の朝だなんて。いつもは図書館で本を返すの一日でも遅れたら、口うるさくいうのに」
「なに、そんなのは書葬士としてはあたりまえのことさ、きっとこのあともどんどんあんたみたいな駆け込みで羊皮紙を持ってくるやつでいっぱいさ。納本祭の日には毎度のことさね。それにベティーナさんが亡くなって、まだ半年もたっていないだろう。書葬の期間も十分に取れなかったろうに、それなのにお姉ちゃんがんばったな」
「うん、お姉ちゃんどうしても今年の納本祭に間に合わせたいからって、自分の記憶が一番はっきりしているうちにおばあちゃんの死者の書を書き上げたいからって」
「そうか、きっといい本になっていると思うよ。午後からの納本祭も楽しみにしているからね」
 わたしはクラウスさんにお礼を言うと店を出た。
 わたしはまだ出来立ての表紙のついた死者の書を撫でた。表紙はおばあちゃんが生きている頃に好きだったオリーブのような落ちついた色だ。秋の空に翳してみると、水色にその緑は心地よく映えた。わたしはもう一度その本を抱きしめた。
 それからわたしは家で恐ろしく大きな鼾をたてて寝ているお姉ちゃんのもとに戻って、最後の仕事をさせるために心を鬼にして文字どおり叩き起こした。それからにゃむにゃむと寝言を言うお姉ちゃんを無理やり立たせて服を脱がせ、お母さんのクローゼットにあった書葬士用のシャツやアンダーローブを身に付けさせて、最後に長いアウターを羽織らせた。
 会場に着くとすでに納本祭は始まっていた。
 わたしは今日のために張られたいくつものテントの屋台や皆が楽しそうに音楽に合わせて踊るなかをすり抜けて、お姉ちゃんを引っ張った。わたしはビールの飲み比べをしている大男たちの脇のテントで祭りの様子を楽しそうに眺めている村長に近づいた。村長はわたしたちに気づくと、いつもの何かを企んでいるような顔をこちらに向けた。
「エミリア、アーデルトラウト、ごきげんよう。お前たちが持ってきたベティーナの書で今年の納本の受付は最後にしよう。どれ、わたしにベティーナの書を見せておくれ」
 村長はこの村では図書館の館長も兼ねることになっている。わたしはさっきクラウスさんに製本してもらったおばあちゃんの死者の書を村長に渡した。村長は死者の書は開かず慎重に背表紙を眺めたり、天と地をひっくり返して確認したりした。
「うん、よい本だね。中身のほうは納本の儀のときまで楽しみにしていよう」
 村長はそういって、お姉ちゃんに死者の書を返した。お姉ちゃんはいまだに寝惚けているのか、返事にもならない返事を村長に返して死者の書を受け取った。
 よかった、なんとか間に合った。わたしは村長とお姉ちゃんに気づかれないように、そっと陰に隠れて胸をなでおろした。
「エミリア、お前のお姉ちゃんにはまだ夜明けは来ていないみたいだね。ことしもベッカーさんが採れたての辛子にんじんを出しているよ。一本買ってエミリアに食べさせてあげるといいよ」
 それからわたしと辛子にんじんによってようやく目を覚ましたお姉ちゃんは納本の儀まで祭りを楽しんだ。隣村から火吹き男が来ていたり、村自慢の美人たちが長いスカートをはためかせて村の者たちを楽しませたりと、ことしの納本祭は例年にもまして一層賑やかだった。お姉ちゃんは辛子にんじんの味でいっぱいになった口をなんとか納本の儀までになんとかしようと、一生懸命、バラの飴細工を何本も何本もしゃぶっていた。
 そんなふうに楽しい祭りの時間を村のみんなと過ごしていると、あっというまに日は暮れていった。わたしは胸元の懐中時計を取り出して時間を確認すると、お姉ちゃんそろそろだよと声をかけた。お姉ちゃんは黙って頷くと、書き上げた書を抱えて納本の儀を行う者たちが集まり始めている図書館前まで消えていった。
 わたしは空を見上げるとさっきまで気持ちよく秋晴れていた空にオレンジが差し込んで来ているのを確認した。

★★★

やがて日はとっぷりと暮れると、どこもかしこも宴をしていた人たちが集まってきた。人々は現れた書葬士たちを自然と囲んだ。書葬士たちは観衆の方を向いて円を作るように整列すると、その円の中心に火が焚かれた。ローブで着飾った今年の書葬士たちは背後に振り返りその火に一礼をした。それから書葬士たちはくるりと観衆のほうに再び向きなおってそれぞれの死者の書を片手に、外れの森の木で作られた楽器の音楽に合わせて、村に伝わるもっとも古い舞いを踊る。わたしたち観衆は誰に言われるでもなく、それぞれ隣りの者たちと手を繋ぎ始める。わたしも隣の小さな男の子が差出してきた小さな手を握る。
 書葬士たちは舞いを止めると、自然と音楽も止んだ。空には活動を始めたのか夜行性の鳥が羽搏く音が一羽聴こえた。わたしは書葬士たちのなかにお姉ちゃんを見つけると誇らしい気持ちが湧いてくるのを感じた。
 杖を突いた村長が観衆を代表して、死者の名前を呼びかけていく。
 ベンヤミン・クライン。
 最初の書葬士は男性だった。クラインさんの家では一番上のお兄さんのベンヤミンさんが亡くなったらしい。クラインさんは書となった兄を部分的に読み上げていく。
 わたしたち観衆はクラインさんが朗読するその声を黙って聞く。村長によれば、今年最も早く死者の書を書き上げたのはクラインさんだったのだという。わたしたち観衆は皆の者と手を繋ぎながらクラインさんが読み上げる死者の書を反復して輪唱のように追いかけていく。クラインさんが書き上げたその言葉を反復すると、不思議なことにわたしのなかで名付けようのない感情がランタンが灯るように輝いた。わたしはベンヤミンさんとそれほど親しくはなかった。けれど、目を閉じれば耳の奥でぶっきらぼうだったけれど実直だったその声が、瞼の裏で一心不乱に農作業をするベンヤミンさんのその姿が浮かび上がってくる。
 クラインさんが死者の書の抜粋の朗読を止めると、村長が頃合いをみて次の死者の名前を呼ぶ。リーゼロッテ・ランゲ。そうしてまた一人女性の書葬士が前に進み出る。そんなふうにして納本の儀は進んでいく。ウルリヒ・ノイマン。マルゴット・ベルガー。ヴィルヘルム・ミュラー。また一人、また一人、書葬士たちは書き上げた死者の書を読み上げて、死者の魂を披露していく。
 ベティーナ・ハーン。
 おばあちゃんの名前が呼ばれた。最後の書葬士はお姉ちゃんだった。お姉ちゃんは他の書葬士たちと同じように小脇に抱えた死者の書を広げて片手で支えて、一歩前に進み出ると恭しく観衆に頭を下げた。
 お姉ちゃんは足元のアンダーローブをさっと引き払うと、今日まで三か月、明け方図書館に働きに行くまえに欠かさず書き続けてきたその死者の書を読み上げた。お姉ちゃんの声ははっきりと無闇な感傷もなく、けれど決して感情のこもっていないわけでもなく、わたしたち観衆のあいだで心地よく響いた。お姉ちゃんによって今日まで一筆一筆で葬られてきたおばあちゃんの魂の証しが披露されていく。
 お姉ちゃんが朗読に選んだ箇所はまだお父さんもお母さんも生きていた頃におばあちゃんも含めてお姉ちゃんが行った納本祭の日を書いたところだった。
 わたしはお姉ちゃんの声を聴きながら、おばあちゃんの魂を受け入れる。お母さんとお父さんが祭りの日にしか出ない特別な生薬を買いに出ているあいだに、おばあちゃんはお姉ちゃんを連れて豚の丸焼きを見せてくれたり、旅の行商人が開く小物雑貨で真っ赤な硝子でできた髪飾りを買ってくれたりした。お姉ちゃんの朗読を聞いていると、そのときわたしはまだ生まれていなかったけれど、まるでおばあちゃんと過ごしたそんな日が、皺だらけで暖かったその手の感触と共に感じられてくるような気がした。
 お父さんが死んで、それからお母さんもわたしを産んで後を追う様に死んで、それからわたしはお姉ちゃんとおばあちゃんに今日までずっと育てられた。おばあちゃんは穏やかでいつもわたしたちの側にいてくれた。お姉ちゃんの朗読はこんなわたしの感傷も淋しさも、喜びの思い出と共に収めてくれるような気がした。
 外の森の木ではまた一匹梟が夜に飛び立つ音がした。

★★★

お姉ちゃんの朗読が終わった。これで全ての書葬士の納本の儀は終わった。緊張感に満ちていた人々の集まりも弛緩した。お姉ちゃんが群集のなかにわたしをみつけるとローブ姿のまま歩み寄ってきた。お姉ちゃんはいつもより少し誇らしげな笑顔でわたしに声をかけた。
「どうだった? 失敗していなかった?」
 わたしはお姉ちゃんに「大丈夫」と伝えようとしたが、まだ納本の儀の余韻で頭が上手く回らなかった。
「大丈夫? ベッカーさんのニンジンをもう一本もらってこようか?」
 お姉ちゃんは、いつものような軽口も皮肉も言わないわたしをすこし不気味がって、空気を変えるように苦笑いをしながら言った。
「すごかった……」
 わたしが遂に漏らした声が聞き取れなかったのか、お姉ちゃんは、え?ともう一度問い直してくる。
「すごかったよ! お姉ちゃん」
 それからわたしは目の前のローブ姿の書葬士に飛びついた。
 お姉ちゃんはわたしに急に抱きつかれて、困惑気味だったけど、やがてわたしの背中に本を掴んだ手を回して、一言「ありがとう」と囁いた。
 それからわたしとお姉ちゃんは村のみんなと共に納本のため図書館へ向かった。黄昏だった空はもうとっくに黒に沈んでいた。夜の図書館に村のみんなで入るのは今日くらいのものだ。
 暗い静謐な死者の書が並ぶわたしたちの図書館。図書館はレンガを積んだ三階建てで湖畔にある。いつもは静かな図書館も今日の日の開放に限っては、みんなが故人の歓談なんかをしながら棚一面に並べられた先祖の書や懐かしい人たちの書を棚から開いて語らいあっている。わたしとお姉ちゃんは人で溢れかえった図書室の隙間をぬうように進んで、事前に確保されているお父さんとお母さん、それからわたしたちの先祖たちが並ぶ棚におばあちゃんの書を差し込んだ。オリーブ・グリーンの背表紙はまるで予めそこに並んでいたかのように他の死者の書とともに吸い込まれるように並んだ。
 お姉ちゃんが本から手を離すと、また満足そうな顔をわたしに見せて、「これで、納本完了」と言った。
 こうしてお姉ちゃんによるおばあちゃんの書葬は終わった。

2.

その男がやってきたのはわたしたちが納本祭を終えた一か月の後で、村では冬支度を始めようかという頃だった。
 男は旅人だった。旅人はとても美しい男性だった。村の者たちの間では、どこかよその国の高貴な人なんじゃないかとか、あるいはその隠し子だとかと品のない噂が広まった。
 旅人は村に訪れた最初の日に旅籠までやってくると、今日まで三日間馬と共に何も食べずに移動していた、どうかこの村で馬を休ませ、しばらく逗留させていただきたいと旅籠のワーグナーさんに言った。
 それから旅人の噂は午前中のあいだに広まった。村では久々の来客者で皆はその旅人を一目見てみようと旅籠に集まってきた。村の若い娘たちはどこか高貴な雰囲気のする清潔で切れ長な目の旅人に少しでも近づこうと声をかけた。
 わたしも友人のニコラに連れられて旅籠までいったが、一目見たときにどうにも好きにもなれないものを感じた。旅人のその清潔な振舞いも高貴な振舞いもどこかわざとらしい。あんな細い指で農作業が務まるのだろうか。
 となりではしゃぐニコラをわたしはやや白々しく思いながら、旅籠の窓から観察しているとなんと村の娘たちに混じってお姉ちゃんまでいた。お姉ちゃんの趣味も随分と俗っぽいな。わたしはやれやれと溜息が吐く思いだった。
 しかし、そんなわたしの呆れも一切気づかずに隣のニコラは興奮した様子で、
「ねえ、わたしたちもなかに入って、旅人さんとお話ししてみようよ」
 わたしはめんどくさいから帰る、家の牛たちにまだ草をやっていないから、とかなんとか適当に言って帰ろうしたが、しかし気づけばニコラはすでにわたしの服の袖を摘まんで旅籠のなかに引っ張っていた。
「あら、エミリア」
 先に中に入っていたお姉ちゃんがわたしに気づいて声をかけた。男のほうもわたしに気づいてお姉ちゃんに訊ねた。
「アーデルトラウトさん、そちらの方は?」
「妹ですよ。エミリア・ハーン」
 わたしは男に軽く会釈した。男はわたしが声上げると僅かに微笑みながら名乗った。
「ヨハネス・グーテンベルクと申します、この度は御村に御厄介になります」
 どうぞよろしくお願い致します。男はそういって女のわたしに深々と頭を下げた。見た目の印象程気取った男ではないらしい。わたしは改めて男を観察した。肌は褐色だった。切れ長の目元には小さなほくろがあり、薄い唇が印象的だった。髪は肌を際立たせるように白一色。声はややかすれ気味だが、これを好む女も多いだろう。
 わたしたちの様子を眺めていたニコラが自分も話題に入りたいとばかりにぐいと前に進み出て、グーテンベルクに声をかけた。
「ニコラ・ホフマンです。グーテンベルクさんはどちらからこの村にいらしたのでしょう」
「ここよりもずっと西の方でマインツ選帝侯のご領地のあたりですね」
「まあ、それは随分と華やかな都市からおいでになったのですね」
「もともとは父のもとで金細工師をやっていたんですが、もっと諸国をみて見聞を広めたいと思うようになりましてね、こうして旅をさせてもらっているというわけです」
「都市からおいでに、いいですね、わたしも一度は行ってみたいと思っていたのです」
 まったく、ニコラときたら。わたしは隣の親友がしなを作って、グーテンベルクに秋波を送るのを呆れ顔で見つめた。しかしグーテンベルクは慣れたものなのか、それともニコラには関心がないのか、どういうわけかわたしに話しかけた。
「なにかこの村で名物のようなものはありませんか、折角の旅ですから、見れるものは見ておきたい」
「残念ですけど、うちのような田舎の村にはとてもじゃないですが都市の方にお見せできるような面白いものはありませんね」
「そうですか」
 グーテンベルクは少し落ち込んだような愁いの表情を見せた。わたしは少しその顔に憐れみを感じて言った。
「あ、ベッカーさんのところのにんじんは美味しいですよ、とても辛みが効いていて」
「にんじんですか……」
 男の顔がどんどんと渋くなっていく。まずい墓穴を掘ったようだ。都市の人間ににんじんを進めてどうする。でもベッカーさんのところのにんじんは美味しいし……。なんとなく場に気まずい空気が流れた。
「あ、それでは湖畔の側にある図書館はどうでしょう。小さい村ですが、図書館だけは立派で自慢なんですよ。滞在のあいだに物語を読んで暇を過ごされるのもよいと思います」
 お姉ちゃんが助け舟のつもりなのか、務めて明るくグーテンベルクに言った。
「アーデルトラウトさん、その“物語”というのはなんですか」
「あら、グーテンベルクさん、本をご存じないの?」
 お姉ちゃんはどこか嬉しそうにイタズラっぽくニヤリと笑った。
「いえ、本は知っています。しかしそれは職工が金細工を作るときの銅の目方をつけておくためのものであったり、役人が税を取り立てるときの記録に残しておく帳簿のことでしょう?」
「いいえ、“物語”はそれとは違いますよ」
「では、それはなんのためにあるのですか」
 お姉ちゃんは益々嬉しそうに顔をほころばせた。知らない人間に“物語”を紹介できるのが嬉しくてたまらないらしい。
「妹と共に図書館にご案内しましょう。貸し出しはできませんが、ちょうど納本祭が終わったばかりで新しい死者の書がたくさんありますから、きっとお気に入りのものも見つかりますよ」

★★★

わたしとお姉ちゃんはグーテンベルクを連れて旅籠を出ると、一か月前に納本の儀が行われた湖畔前を通ってそれから真っすぐ図書館に進んだ。図書館に着くとグーテンベルクはこんな小さな村にこんな立派な建物がとでも言いたい顔つきで目を剥いた。
「素晴らしい建物ですね。どことなく聖堂を思わせるような雰囲気がある。まさかこんな辺鄙な村にこんな立派な建物が……いや、失礼」
 お姉ちゃんは笑いながら、図書館の扉を開けて中へ誘う。
「いいんですよ。実際、この図書館はかなり古くて、実はわたしたち村の者たちでさえいつからあるのかわかっていないんですよ。わたしたちはただこの地に住まうものとしてこの図書館を守り、そして風習として書を増やしていく。村ではそろそろ蔵書量に限界が来ているから増築をしようという話もありますけど、わたしたちはここの本を一冊たりとも自ら処分するつもりはないんです」
 わたしは隣のグーテンベルクと共に館内に入る。古い紙特有のあの匂いが図書館の訪問者であるわたしたちを包んだ。それは今日まで書かれ、そして葬られてきたこの村の死者の匂いだった。
 お姉ちゃんは司書として慣れた様子で図書館を案内していく。
「わたしはもう五六年前から司書としてここに務めさせていただいていますが、実際本というのは不思議なものだと思います。もちろん、それはある種の記録の道具ですが、わたしたちで行われる書葬という習慣もまたそれは死者の魂の保存の為でもあります。本は書かれるものであり、読まれるものでもある。本とは、間にあるものメディウムでもあり、それは読むこちら側のわたしたちと読まれるあちら側の死者達を繋ぐ装置でもあるのです。この図書館に並べられた数多の書物、数多のページ、数多の文字。その一つ一つがわたしたちに古来から連綿と繋がる父であり母なのです」
 グーテンベルクはすっかりとお姉ちゃんの厳かな口調と図書館の雰囲気にのまれているようだ。さきほどから、顔を上げて書棚に見とれるばかりだった
「いや、素晴らしい」
「物語とは、あるひとりの人間がある世界でどのように生きたかという記述でもあります。それは具体的な事実の記録でもありますが、そこには事実を越えたある種の一人一人の人間のその度ごとの真実が宿ります。わたしたちは死後、書葬士によって書葬されることによってその切実な真実の次元に住むことができるのです」
 お姉ちゃんは階段を上がって軽やかな足取りで異界の奥へとあたしとグーテンベルクを誘っていく。
「グーテンベルクさん、あなたはさきほど物語とは何のためにあるのかと問いましたね」
 お姉ちゃんは一つの棚の前で立ち止まった。それから一冊の本を抜き出した。
「どうぞ読んでみてください。たったそれだけであなたにもわかるはずです」
 その司書は男の手を握った。それからそっとそこに本を置いた。司書はイタズラっぽく男に笑いかけた。男はすっかり図書館に飲み込まれ、手元の本がまるで彼の運命を決定的に変えてしまうようなものとして眺めた。お姉ちゃんは囁きかける。
「もちろん、ページを開くか開かないかはあなた次第ですよ」
 グーテンベルクは一度目を閉じた。
 そして固唾を飲むと、おそるおそるその一ページを捲った。

3.

お姉ちゃんがグーテンベルクに渡したのは一冊の死者の書だ。わたしとお姉ちゃんは午後の陽射しが差し込む窓辺の席に座ってグーテンベルクがその書を読み終えるのを待った。わたしは両手で頬杖ついてこちらを見るお姉ちゃんを見返した。さっきまでのどこか不気味な迫力のあるような表情は元に戻って、いつものとおりなにが楽しいのかわからないがニコニコと笑ってこちらを見ている。ほんとに何が楽しいだか。
 わたしは隣で一心不乱に口を一文字に結んで字を追い続けるグーテンベルクの方を見る。まさか“物語”を知らないなんて。わたしのような村に生まれた人間としては信じられないが、しかし広い世界にはそんな国もあるのかもしれない。
 グーテンベルクはきっとこんなにも一気に活字を読んだことはないのだろう。ときどきページを戻っては内容を確認したりしている。しかしそれでもページをめくる手はけしてとめずにその死者の書を読み続けていた。
 やがてそのときが来た。
 グーテンベルクは最後のページに辿り着くと次のページが無いことに気がついて指でゆっくりと終わりのページを捲った。それからパタンと本を閉じると、膝に置き、目を閉じて息を吐いた。
「どうだった?」
 わたしはすっかりと浸りきっているグーテンベルクに声をかけた。
「素晴らしかったです。どうしてこんなにただ文字を追っているだけなのに、このわたしの心が、全身が震えるような気がして、まるでこの本のなかを生きているような美しい気分がするのでしょう」
 お姉ちゃんは司書として嬉しそうに微笑む。
「そこには魂が宿っていますから。あなたが読んだのは今年の秋に書葬されたばかりのもっとも新しい死者の書の一冊ですよ」
「もっと、もっと読みたいです。ああ、ここを発つ日が来るのが悔しくてたまらなくなってきましたよ。ここにあるものすべて読みつくせたなら!」
 すっかりここの本の魅力に取り憑かれたようだ。わたしは苦笑いをしてお姉ちゃんを見た。お姉ちゃんはグーテンベルクに、「滞在中にいくらでもいらしてください」と声をかけた。
「ええ、必ず来ます」
「でも今日はもう閉館ですから、出ましょうか」
 グーテンベルクはお姉ちゃんの言葉にはっと窓辺を見た。陽はすっかりと傾き、強い西日だった。
「もう、こんな時間、いやここの本は本当に恐ろしいですね。正しく時間の泥棒だ」
 それからグーテンベルクは名残惜しそうに今まで読んでいた死者の書を掲げそのオリーブの表紙を撫でた。そしてお姉ちゃんに訊ねた。
「アーデルトラウトさん、最後に一つだけ教えてください。この素晴らしく、そして美しい本を書いたのはいったい誰なのでしょうか」
 わたしはグーテンベルクのその無邪気な問いに彼に気づかれないようこっそり笑った。
 お姉ちゃんも今日一番のイタズラが上手くいったという顔で破顔した。
「それを書いたのはわたしです、グーテンベルクさん」

★★★

グーテンベルクはそれから翌日、宣言通り毎日図書館に通い詰めた。そしてお姉ちゃんを見つけると近寄り、今日は何を読めばよいでしょうかと訊ねた。お姉ちゃんはその度に司書として棚から本を一冊抜き取り、グーテンベルクに勧めた。グーテンベルクはお姉ちゃんに差し出された死者の書を毎日朝から晩まで読み耽った。
 まるで取り憑かれたようね。図書館から仕事を終えて帰ってくると、お姉ちゃんは愉快そうにその日彼に勧めた本とグーテンベルクのそのかぶりつくように読む姿をわたしに語った。そんなに毎日読んでよく飽きないよね、わたしは帰ってきたお姉ちゃんと二人分のキャベツとヴルストのスープをよそいながら言った。
 お姉ちゃんは棚からスプーンを取り出して並べながら言った。
「死者の書といっても、それは書葬士の数だけ死者の物語があるからね。死者の書を書くときに書葬士は生前の死者の姿とともにその思いも再現する。それは必ずしも愛情だけとは限らない。秘められた恨み辛み、あるいは秘められた強烈な恋情が書かれたこともある」
 わたしはお姉ちゃんの話を聞いて思い出す。そういえばわたしが最初に参加した納本の儀の朗読では、不倫された妻がいかに夫が不貞を働いていたかを告発する死者の書を書き上げて朗々と読み上げたことがあった。あのときの納本の儀で感じた感情は幼心に忘れられなかった。
「書葬は必ずしもたんにいい話を書くだけってわけじゃない。だから死者の書はさまざまな“物語”があって面白いのよ」
 キャベツとヴルストのスープはやや胡椒を入れすぎたのか辛かった。わたしは顔をしかめながら話した。
「まあ図書館の死者の書は全ての人に開かれているから何にも問題はないんだろうけど、でもあの人いつまで村にいるつもりだろう。まさか本当に図書館の本を読み尽くすまでいるつもりなのかな」
「どうだろうねえ、いっそこの村の人になっちゃうのかもね」
 わたしは素知らぬ顔でキャベツを掬うお姉ちゃんを見ていると少々いたずら心が芽生えた。
「そうだったらいいなあとかって思わないの、アーデルトラウトさん」
 わたしはできるだけグーテンベルクが姉に呼びかける声を真似るようにしてみた。
「なにいってるのよ」
 お姉ちゃんは俯いてスープに集中してる姿をアピールしながら答えた。
「あの人、ほんとに本だけを目当てに図書館に通ってるのかしらねえ」
 わたしはそういってもう一度お姉ちゃんの表情をうかがう。
 わたしはきっとお姉ちゃんは少し怒ってスプーンでもふざけて放り投げてくるのを期待した。でも、お姉ちゃんはわたしの揶揄いに乗ってこずに、胡椒の効きすぎたスープを飲み切ると満足そうに目を細めた。
「そうね、そうだったらいいのにね」
 わたしはそのお姉ちゃんの表情に気に食わないものを感じて、とりあえず明日のスープにはベッカーさんの辛子ニンジンを混ぜてやろうと決めた。

★★★

そんなふうにしてまた幾日かが過ぎていった。あいからわずグーテンベルクは村に滞在し、お姉ちゃんのいる図書館に通い続けていた。
 わたしはその日村長の家まで呼ばれていた。村では週に一度持ち回りで家族のいない村長の身の回りの世話をすることが習慣になっていて、その日はうちの当番だったのだ。一週間溜まっていた家事をこなすと村長が珍しく少し話でもしようと声をかけてきた。
 村長はキッチンの戸棚からグラスを取り出すと村で採れたザクロのジュースをビールで薄めてくれた。
「おばあちゃんが亡くなってお前たちの家は大丈夫かね」
「ええ、おばあちゃんがいなくなった分の家事はわたしがやるようにしていますし、お姉ちゃんも書葬を終えてまた元の生活に戻りましたから」
「そうか、アーデルトラウトは書葬のために三か月間なかなか眠れなかったといっておったからな、また眠れるようになったのなら良いことだ」
 村長は村の誰よりも年寄りだったが、誰もその年齢を知らなかった。村の者たちが噂するところによれば百は越えているのだというが本当のところはわからなかった。
「エミリア、お前とアーデルトラウトはいくつになったのだったかな」
「わたしが今年で14になりました。姉の方は19ですね」
「そうか、お前の父が亡くなり、それから母の方もなくなって13年になるんだな。父と母の記憶はあるのかい」
「母が亡くなったのはわたしが1歳の頃ですし、父が亡くなったのはまだ生まれるまえでしたから、それこそ遺された死者の書で知ってるくらいです」
 母が書葬した父の書によれば、父は病弱だったがおばあちゃんと同じで穏やかな人だったらしい。なんでもお姉ちゃんに似たのは父で、わたしは母の方に似たらしい。
「そうだったか。すまんな、どういうわけかわしだけがえらく老いさらばえていく。村の者たちがどんどんと書になっていくのを見届けていると、ときどきわからなくなってしまうのだ」
「いえ」
「父も母も早くに亡くし寂しくはなかったか」
 本当に村長は今日はどうしたのだろう。おばあちゃんが死んで、村長なりに気遣ってくれているのだろうか。わたしはビール入りのザクロを口に付けた。果汁のなかに少しだけ苦みを感じる。
「全然です、おばあちゃんとお姉ちゃんがいましたから」
「そうか、しかしいまやおばあちゃんもいなくなってしまった」
「大丈夫です、お姉ちゃんがいますから」
「そうだな、しかしアーデルトラウトももう19だ。いいかげん所帯を持たすことを考えてやらんといかんな」
「それは……」
 わたしは一瞬答えに窮した。確かにお姉ちゃんと同い年の村の娘はもうほとんど結婚していた。早い子ではすでに子どもをもって立派な家庭を築いている者もいた。
 わたしはこのあいだの食卓で見たお姉ちゃんの表情を思い出した。それからグーテンベルクのことも。お姉ちゃんはグーテンベルクのことが好きなのだろうか。もしそうだとしたら、わたしは……、わたしは……、わたしは自分の思考がそこで停滞するのを感じた。もうしそうだっとしたら、わたしは、なんなのだろう。
 村長は机の上から一通の封書を持ってきた。村長は机のうえにおいて、それをわたしに渡した。
「エミリア、すまんがその手紙をグーテンベルクに今日中にわたしてやってくれんか。彼宛の手紙なんじゃがうちに届いたようだ」
 わたしは頷いて、その白い封筒を掴んだ。
「宛名を見る限り、彼の故郷からの手紙のようじゃの」
 わたしは清潔なその白い紙を見つめる。表書きされたグーテンベルクへの宛名書きと差出元が書かれた整った字を眺めた。それは全く知らない場所の名前だった。

★★★

村長の家を出るとすでに日は傾いていた。わたしはいつものように湖畔を通ってグーテンベルクが今日も通っているだろう図書館に足を向けた。図書館に来ると、お姉ちゃんが本の整理をしていた。
「あら、エミリア、どうしたの? 今日は村長の家の手伝いの日でしょ」
「それはもう終わったよ。それよりグーテンベルクさんはいる?」
 お姉ちゃんはその名前を聞くとおかしそうに笑って、目線を階段の上に向けた。
「もちろん、あの様子だとあの人、本当にうちの図書館の本を全部読んでしまうかもね。なにあの人に用事? それなら今日はもう閉めるから続きを読むのはまた明日にしてってついでに言っておいて」
 わたしはお姉ちゃんの言葉に黙って頷いた。それから階段を上がって、グーテンベルクが座る窓際のテーブルに向った。わたしがテーブルの片側にたつと気配を察したのか、本から顔を上げて笑顔でわたしを見上げた。
「おや、エミリアじゃないか。てっきりアーデルトラウトさんかと思った。どうしたんだい?」
「これ、グーテンベルクさんに手紙です。村長のところに来ていたみたいで」
 グーテンベルクは黙ってわたしから封書を受け取った。それから差出人の名前を見ると、さっきまでの晴れ上がった表情を少し崩した。それから、ふだんのグーテンベルクにしては珍しく乱暴に封を開けた。中は便箋が一枚だけだったようだ。グーテンベルクはそれを五分もせずに読み終えた。それからわたしに再び顔を見上げて礼を言った。
「ありがとう、エミリア」
「中身はなんだったんですか」
 グーテンベルクは答えなかった。
「まあ、ちょっとね、家の事情だ」
 それから話を変えるように本を閉じて言った。
「今日はもう閉館かな」
「ええ、姉がそう言ってました」
「そうか、エミリア、今日はぼく、アーデルトラウトさんに少し話があるから、彼女の帰りは遅くなるかもしれない」
 わたしはそういうグーテンベルクの目をじっと見た。その目は最初にあったときと同じで浅黒い肌に綺麗に映えていた。
「じゃあ、わたしも一緒にその話を聞きます」
「え、いやそういうわけには」
 グーテンベルクは明らかに焦った表情をした。
「だめなら、今日は姉には早めに帰ってもらいます。今日は姉の料理当番なんです」
 グーテンベルクはそのあと何度か、いやいや困るよとかなんとかいってわたしを帰らそうとしたが、最終的には諦めたようだった。
「まあたしかに君もいた方がいいのかもしれないな」
 グーテンベルクは溜め息を吐いた。それから読みかけの死者の書を棚に戻した。

★★★

わたしとグーテンベルクは図書館を出ると閉館の作業をするお姉ちゃんを待った。村は冬至に向い始めていてすでに夜が始まっていた。やがて朝に身に付けたエプロン姿のままのお姉ちゃんが図書館から出てきた。「アーデルトラウトさん」、わたしが声をかけるより先にグーテンベルクが姉を呼び止めた。
「あら、グーテンベルクさん、それにエミリアも。てっきりふたりとも先に帰ったものと思っていたのに」
 わたしはモミの木の幹に背中を預けて何も言わずにこの場をグーテンベルクに任せることにした。
「アーデルトラウトさん、わたしの滞在も今日までのようだ。わたしはいよいよもといた場所に帰らないといけないようです」
 グーテンベルクはポケットから届いた手紙を取り出した。それからその手紙をお姉ちゃんに渡した。でもお姉ちゃんは封筒を眺めるだけで中の便箋には触れようとはしなかった。
「そうですか、この図書館の本をもっと読んでいただきたかったですが、それは残念ですね」
「アーデルトラウトさん、今日までのこの村の滞在はとても楽しかったです。あなたから始めて“物語”というものを教えてもらい、毎日豊かな“本”をあなたはわたしに教えてくれた。それは今日までわたしが何たるかの真実を知らない無知蒙昧であったことを思い知らせました。わたしは本を読むまで、本当の心というものを知らなかった。本当の美しさも。そうです、最初に読ませてもらったあなたの死者の書、それをお書きになられたあなたの美しさも」
 お姉ちゃんは恥ずかしそうに目を伏せていた。わたしからはその表情の真意は見えなかった。
「今日のグーテンベルクさんはお喋りですね、ほんとうに。今日お読みいただいた本のせいかしら」
「アーデルトラウトさん! あなたもわたしの心をすでにお読みになっているはずだ。わたしはあなたという人を愛している。あなたもまたわたしの心に直接語られる一つの物語なのだから。どうか、わたしの物語を受け止めてくださらないでしょうか」
「回りくどい言い方ですね、本の読み過ぎはよくないですよ」
 グーテンベルクはお姉ちゃんの細長い指の両手を握った。
「そうですか、それでははっきりと言いましょう。あなたにはこの村を出ていただきたい。そしてわたしとともに国に帰り、わたしとともに暮らしてほしい。アーデルトラウトさん、どうかあなたはこのわたしの一生の物語になってほしいのです」
 次はお姉ちゃんが話す番だった。お姉ちゃんは黙ってしばらく何も言わずに俯いた。しかし意外にもその沈黙は長く続かなかった。お姉ちゃんは顔を上げると回りくどい言い方をせずはっきり答えた。
「グーテンベルクさん、わたしはこの村を出ることはありません。そしてあなたの物語になることもありません。申し訳ないですが、あなたはおひとりで国にお帰りになって」
 グーテンベルクはどんな表情をしているだろう、こちらからは彼の背中が見えるばかりでその表情は見えなかった。
「なぜですか。村長にはすでにわたしは相談して、あなたをこの村から連れて行くことはあなたさえよければいいと許しは得ています。あなただってあなた自身の心を知っているだろう。あなたが毎日ここでわたしに渡してくれる本にはあなたの気持ちが感じられた」
「あなたのような方がこんな田舎の娘に恋をするなど、それこそ夢物語のなかにあなたはいるのです」
「しかし、あなたは物語もまた一つの真実が含まれるといつかおっしゃっていた」
「もといた場所にお帰りください、グーテンベルクさん。あなたが住む国にはこんな田舎娘などよりはるかに美しくあなたに相応しい人がいることでしょう」
「そうかもしれません。でもあなたの美しさはそのお姿だけではない、最初に読ませていただいた死者の書、あのような美しい物語を書ける人は国中を探してもきっといやしない。アーデルトラウトさん、わたしはあなたをたんに恋心だけからお慕いしているのではないのです。わたしはあのような美しい物語を書けるあなたを尊敬さえしているのです」
 お姉ちゃんは押し黙った。それからグーテンベルクの瞳から逃げるように顔を逸らした。
「わたしの答えは変わりません。わたしはあなたの物語になることはできません」
 グーテンベルクの肩が震えていた。もしかして泣いているのか。
「では、最後にその理由だけ教えてもらえないでしょうか」
 お姉ちゃんはグーテンベルクに誠意をもって答えようとしたのか、もう一度彼の顔を真正面に見据えた。
「グーテンベルクさん、確かにわたしはあなたを愛していないというわけではありません。けれど、あなたがお家を守らねばならないように、わたしにも意地でも側で守りたいものがあります」
「それはいったい?」
 グーテンベルクの声はかすれている。姉の声ははっきりしている。
「この図書館です。そしてなによりも妹です」

★★★

わたしとお姉ちゃんはグーテンベルクを置いて先に家に帰ることになった。
 わたしはすっかり夜になった道で先を歩くお姉ちゃんの背中を追った。横に並んで歩こうとしてもお姉ちゃんは意地でも前を歩きたがった。
「お姉ちゃん」
 仕方がないので、わたしは早足で家路を進むその背中に声をかけた。
 お姉ちゃんから返事はなかった。
「その、なんというか」
 なにを言えばいいのだろうか。わたしはまだ14歳で一人の好きな男を振ったあとの女にかける言葉を知らなかった。結局、わたしの口から洩れたのはこんな言葉だった。
「ごめんなさい」
 お姉ちゃんの早足が止まった。
 お姉ちゃんは振り返った。片手に持つカンテラの炎に照らされた目元は赤く腫れていた。
 お姉ちゃんは堪えるように歯をぐっと食いしばって、それから眉間に皺を寄せていた。わたしは泣きそうになった。でもわたしが泣くのはどう考えても狡いと思ったので我慢した。
 お姉ちゃんはわたしに近づくと軽くこぶしを握っておでこを小突いた。
「こういうときはありがとうって言いなさい」
 こんなときに辛子ニンジンがあればいいのに。
「ありがとう」
 わたしのかぼそい声が夜の風に混じった。お姉ちゃんはカンテラを置くと、両腕を背中に回し胸が潰れて呼吸が止まるほどわたしを抱きしめた。

4.

 翌週になって、グーテンベルクは村を発った。わたしとお姉ちゃんはそのあいだグーテンベルクに会わなかったし見送らなかった。その方が彼のためだと思ったのだ。グーテンベルクも最後の数日はあれほど通い詰めた図書館に姿を現さなかった。
 お姉ちゃんがグーテンベルクのプロポーズを断ったのはどういうわけだが村中の者が知っていた。どうやら図書館前でのグーテンベルクとお姉ちゃんのやりとりをこっそりみていた者がいるらしかった。村の人たちはさすがにわたしとお姉ちゃんに不躾にその話題を持ち出したりはしなかったが、みんなわたしたちがいないところでは隠れて話しているようだ。まあ狭い村ではこういうのは当たり前のことだ。わたしとお姉ちゃんはとくに気にしないように振舞った。
 わたしたちの村の冬の訪れは早い。わたしはお姉ちゃんが出かけているあいだにセーターを取り出したり、ベッドを冬用のものに変えたりしていた。わたしは代わりに夏物の衣類を一度すべて洗ってておこうと家の外の川まで出かけた。いつもの図書館がある湖畔方向と逆方向に向かって、村の外れの森までわたしは洗濯物を抱えて歩いた。そうやってぼんやりと歩いているとこのあいだから離れないある考えが浮かんだ。
 お姉ちゃんの幸せってなんなんだろう。
 結局、お姉ちゃんはグーテンベルクのことが好きだったんだろうか。お姉ちゃんのほんとの願い、その幸せってなんなんだろう。
 あとでグーテンベルクと親しく酒を呑んでいた男たちに聞けば、グーテンベルクは職人の家とはいえ、相当な裕福だったようだ。家業といっていた金細工の仕事もギルドのなかでもかなり優位な職人の家で、その生活はほとんど貴族同然だったのだとか。村の男たちは、そんな家で過ごして一生安泰の御曹司なのに、わざわざ旅に出て見聞を広めようとするなんてなかなか見上げたところのある男だと言っていた。
 わたしもグーテンベルクはややめんどくさそうな気配がしないでもなかったが、それでも彼は本に心をあれほど打たれるまでに純粋だったし、姉に対する恋も真剣なものだったのだと思う。見目だって悪くない。お姉ちゃんが嫁いでいってもきっと豊かで今よりもはるかに楽に暮らせたろう。
 でも、お姉ちゃんはグーテンベルクの婚約を断った。
 お姉ちゃんは言ったのだ。わたしには側にいて守りたいものがあると、それが図書館と妹だと。
 それはグーテンベルクの求愛を断るたんなる方便だったのだろうか。わたしは自然その日の帰り道で目を泣き腫らしながら、わたしを痛いほど抱きしめるお姉ちゃんの力強さを思い返す。
 お姉ちゃんが司書として働き始めたのはちょうどわたしと同じ14歳のときだ。そういえばお母さんも生きている頃は司書として図書館に勤めていたらしい。もしかしたら、いやもしかしたらもなくて、お姉ちゃんはわたしにとって母親代わりになろうとしているのだろう。それは結局のところお姉ちゃんにとって幸せなのだろうか。
 お姉ちゃんはこのさきずっとわたしのお母さんのつもりなのだろうか。べつにグーテンベルクと一緒になれと今さら思うつもりもないが、いつか好きな男と一緒になって新しい家で子どもでも作って生きる可能性はないのだろうか。
 いや、確かに必ずしもそれが幸せとは限らない。結婚をしてひどい旦那だとわかって一生を棒に振るなどいくらでもある話だ。そもそも結婚をすることだけが幸せではない。とはいえ、一生わたしのお母さんをやっていくのが本当にお姉ちゃんの幸せなのだろうか。やはりそれもまた違うのだろうか。
 わからない。川につけても衣類の汚れはなかなか落ちなかった。わたしはしつこく何度も透明な水のなかで服を揺する。お姉ちゃんの幸せってなんだ。いや、そもそもそんなことを考えるのが変か。お姉ちゃんの幸せはお姉ちゃんが決めることだ。それが結婚だろうとそうでなかろうとそれは全てお姉ちゃん自身が決めることだ。そうに違いない。
 わたしはそう考えきると洗濯物を川から引き揚げた。汚れはもはや染みになってまだとれていなかったが、それでもここまで水に晒して取れなかったら仕方ない。わたしは諦めて衣類をもってきた洗濯籠に一つ一つ入れた。

★★★

それから村に戻るとなにやら騒がしかった。村の広場では人だかりができていて、皆が集まっていた。そして村の者はわたしの姿を認めると、大笑いして人だかりの中心に引っ張っていった。
「なに、どうしたの?」
 わたしは太い腕でわたしを掴む男たちに訊ねた。
「グーテンベルクさ、なんでもお前に用があるらしいぜ」
「どういうこと? グーテンベルクさんはこのあいだ村を出たでしょう」
 男はこれから一世一代の見世物が見れるぞといった調子でいやらしい笑いをした。
「それがアーデルトラウトのことが諦めきれずに戻ってきちまったらしい」
 わたしは人の輪のなかに放り込まれると、まるで猛獣と対峙させられる囚人のように背中を押された。
 見ると確かに視線の先にはあのグーテンベルクがいた。しかしグーテンベルクはわたしとお姉ちゃんが最後にみたときから随分とやつれていた。瞳をみれば、あの肌理の整った浅黒い肌によく映えた艶やかな瞳は明らかに寝不足で淀んでいた。
 代わりにそのなかで鈍く反射する光は彼が右手に持つ短い万能ナイフの輝きだった。
 グーテンベルクはわたしの姿を認めると胡乱な様子で目を見開き村の者に聞こえるように大声で話しかけてきた。
 「エミリア! アーデルトラウトさんを連れてこい」
 いつものグーテンベルクからは信じられないくらい粗野な声だった。
 わたしはため息を吐いた。こんな人だったなんて。お姉ちゃんが求婚を断ったのも正解だったらしい。
「早く呼んで来いって言ってるだろ!」
 グーテンベルクは開いた万能ナイフを自ら首に当てて叫んだ。
 わたしは言った。
「あなた、随分とお酒も入ってるみたいじゃない。そんなんじゃお姉ちゃんを呼べないね」
「うるさい、呼ばないと、」
「呼ばないとなんなの」
 呼ばないと死ぬってか。
「呼ばないと死ぬぞ!」
 この手の状態になった男のいうことはわたしたち女はいくらでも知っている。どうしてなのだろう。相手の気を引きたいために駄々をこねて、子どもみたいに脅してもますます女の気持ちは離れるだけなのに。なぜ世の男は女に振られるとこうなるのだろう。
「グーテンベルクさん、お姉ちゃんを呼ぶ前にひとまず家に来ませんか。あなたはまずすっきりとした水を飲み、お酒以外のものを口に入れるべきです」
「うるさい! 早く呼べったらよべよ!」
 話にならない。
「お前さえいなきゃ、アーデルトラウトさんも俺に応えてくれたんだ。お前さえいなけりゃ。エミリア、お前はアーデルトラウトさんの重荷なんだ!」
 わたしは可能な限り素早くグーテンベルクに反論しようとした。だが、グーテンベルクは目敏くも一瞬反論を躊躇ったわたしを見逃さなかった。
「ふん、14にもなっていまだにお姉ちゃんにおんぶにだっこか。お前のせいでアーデルトラウトさんは……。お前さえいなけりゃ」
 後ろから聞き慣れた声がした。
「いまのあなたならたとえ妹がいなくてもついていく気にはなりませんね、グーテンベルクさん」
 もちろん、その声はお姉ちゃんだった。
「わたしを呼ぶ人がいるというから、きてみたら、グーテンベルクさん、なんですかこれは」
 お姉ちゃんの声から珍しく軽蔑が強く出ていた。自分を好きだと言った男がここまで醜い醜態をさらしていたら、それも当然なのかもしれない。
「アーデルトラウトさん! おかしいですよ。エミリアはもう14歳だ。あなたなしでもやっていけるでしょう。あなたたちはいつまでそうやって二人の世界に閉じこもっているつもりだ。わたしはあなたの幸せを思ってこそ、あなたを解放してあげようと、この狭い村の外にも幸せがあると教えてあげようとしているのに、どうしてそれがわからないんだ」  
 もうやめてあげてほしい。これ以上グーテンベルクが醜態をさらすのは、なによりお姉ちゃんを傷つけることになる。
 どうして男はいつもお前のためを思って、お前に幸せを教えてあげると言って女を落胆させるのだろう。
 お姉ちゃんは真っすぐと醜い獣のような男を見据えて、名前を呼んだ。
「グーテンベルクさん、わたしはあなたに幸せを教えてもらわなくても知っているし、あなたに幸せがどんなものか決めてもらうその必要もありません」
 お姉ちゃんは、わたしの洗濯をしたばかりで冷たい手をとった。
「あなたはこの子が作る卵とベーコンの炒め物のおいしさを知っていますか。疲れて帰ってくるときにこの子がよそってくれる少し胡椒の効きすぎたスープがどれほどわたしを幸せにしてくれるか理解していますか。それを理解せずに本当の幸せを教えてやるだなんて、傲慢もいいところです。わたしはあなたのいうそんな身勝手な幸せより、わたしの好きな食べ物をいくつも知って作ることのできるこの子といる幸せの方を信じます」
 男はお姉ちゃんになんの反論の言葉もないようだった。ただ叫び声をあげた。
「うるさい、うるさい、うるさい! 俺にだって、あなたに美味しい料理をたくさん食べさせてあげられるんだ!」
 グーテンベルクの手が鈍く光る万能ナイフを握る手をぎゅっと強くしたのをわたしは見た。本当に死ぬ気なんだろうか。わたしは思わず怖くなってお姉ちゃんの手を掴んだ。お姉ちゃんもその手を強く握り返した。
 一歩二歩三歩、グーテンベルクはゆっくりとこちらに近づいて来た。
「俺にだってあなたを幸せにする物語を作れるんだ」
 それからどこかのタイミングでなにかを決めたのか、グーテンベルクは猪のように叫びをあげて、こちらに駆けだした。腰だめにナイフを構えて突っ込んでくるのがゆっくりと見えた。狙いはわたしのほうだった。わたしは突然に向けられた暴力に怯んで一歩も動けなくなった。そしてお姉ちゃんはやっぱりこんなときでもお姉ちゃんだった。お姉ちゃんはわたしの前にそのまま被さって、わたしと突進してくるグーテンベルクのあいだの壁になった。
 グーテンベルクとお姉ちゃんがぶつかった。お姉ちゃんとぶつかったグーテンベルクは弾かれるように後ろに飛んだ。
 それからわたしは肩に重みを感じた。一人の完全に弛緩した女性の重みだった。それはお姉ちゃんの重みだった。わたしは支えきれずにそのまま後ろに倒れた。
 お姉ちゃんの綺麗なうなじの下には輝くように万能ナイフが突き刺さっていた。
 お姉ちゃん。
 そのとき、わたしが呟いた言葉は声になっていたのかわからない。口は動かしたはずだが、頭を強く打ったせいか世界が遠くなったように聴こえなかった。ただ辛うじて息をしていたお姉ちゃんが全身で息をするように震えていたのがわかった。それからお姉ちゃんはわたしのほうを見た。その唇が動いた。たぶん、わたしを心配して声をかけたのだと思う。けれど、その言葉は遠くなった世界のなかのわたしには聞こえなかった。

5.

グーテンベルクは結局、お姉ちゃんと同じ日に村で急ごしらえに造られた家畜小屋の牢屋のなかで死んだ。その最期はまるでずっと誰かに毒にでも盛られたみたいに胃の中のものを吐き出し続けて、最終的にはそれを苦にして舌を自ら噛み切ったらしい。見張りの村の者がぐったりと倒れたグーテンベルクの口から洩れる吐瀉物に血が混じっていることに気づいたときにはもう手遅れだった。見張りの村の者が最後に聞いたグーテンベルクの言葉は、お姉ちゃんでもわたしに対する謝罪の言葉でもなく、ただ一言「違う」という言葉だったらしい。いったい何が「違う」のか、それはもう死者となった男に聞く術はなかった。
 わたしは村長からグーテンベルクの最後を聞き終えると、黙って席を立とうとした。
「待ちなさい、エミリア。話はまだ終わっていないよ」
 村長は優しく、しかしはっきりと役目を果たすようにわたしを呼び止めた。
 わたしは黙って村長の表情を見た。
「エミリア・ハーン、あなたはアーデルトラウト・ハーンの書葬士として、書葬を行いなさい」
 村長はなにも書かれていない羊皮紙を取り出してきて、わたしに渡した。それは村で死者が出たときに書葬士が村長から貰える特別な羊皮紙だった。
「エミリア、何年かかってもいい。お前の手でお姉ちゃんの魂を死者の書として書きあげて保存しなさい」
 わたしは村長が命じるそれに反抗しなかった。もうそんな元気もなかったのだ。わたしは羊皮紙を受け取った。
「わかりました」 

★★★

お姉ちゃんの死体は村で決められている通り村の男たちが森に埋めた。肉体はやがて土に溶けていくだろう。問題は魂だ。このままではお姉ちゃんが生きた証は残らない。誰かが書葬をしてあげなくてはいけない。わたしの家にはお父さんもお母さんも、もうおばあちゃんもいない。村長がわたしをお姉ちゃんの書葬士に選んだのはあたりまえのことだ。
 わたしはついに一人になってしまった家に帰った。
 わたしは部屋に入ると村長から貰った羊皮紙を机のうえに広げた。それからペンにインクをつけて試しに一行なにかを書いてみようとした。そう、お姉ちゃんのこと、出だしはどんな言葉がいいだろう。お姉ちゃんのどんなエピソードを重ねればいいだろうか。
 わたしは握ったペンの先を見つめる。じっとかれこれ一時間は見つめた。しかし依然として羊皮紙は白いままだった。
 どうしてだろう、なにを書けばいいかわからない。
 お姉ちゃんについて書く。書く。書くってなんだろう。いや、難しく考える必要はない。ただ思い出だけでもいい。その顔の形でも、容姿でも、声でも、その人となりでも、ただわたしが知っていることだけを書けばいいのだ。
 でも書けなかった。どうしてもお姉ちゃんについてなにかを文字にして、この紙に書きつける。ただそれだけなのに。頭に浮かぶ言葉はまるで他人行儀で、それはどんな言葉を書こうとしても、それはお姉ちゃんについて適切な言葉ではない気がした。
 どうしてだろう。どうして書けないのだろう。
 きっと、わたしのなかでまだ時間が経っていないのだ。そう、お姉ちゃんが死んでまだ三日と経っていない。きっと明日になれば、いや一週間も経てば。

★★★

わたしは羊皮紙を拡げた机に座った。わたしは机の前で目を閉じる。それから精一杯お姉ちゃんのことを思い出す。お姉ちゃんはどんな人だった? わたしにとってお姉ちゃんってなんだった? わたしは暗闇のなかでそう考えてみる。
 わからなかった。

★★★

わたしはお姉ちゃんにとって重荷だったんだろうか。グーテンベルクの言葉が反芻する。そう、わたしさえいなければ。わたしさえいなければお姉ちゃんはこの村も離れて。

★★★

ずっと机の前に座っているのも気が滅入る。たとえ一文字も書いていないのだとしても、頭が休まらなかった。わたしは部屋を出て、キッチンで作り置きのスープを食べる。スプーンで一口掬って口に運ぶ。煮詰まりすぎていて塩辛い、それにやっぱり胡椒が効きすぎている。気づけば目の前の皿が歪んでいる。やがて耐えきれないように瞳から涙が流れ出す。もう一口スープを口にする。さらに一口、一口、スープを口にするたびに涙が止まらなかった。

★★★

ナイフを持ったグーテンベルクがわたしに駆け寄ってくる。お姉ちゃんがそのあいだに庇うようにわたしに覆いかぶさる。ナイフが深々とお姉ちゃんの後ろの首に刺さる。お姉ちゃんが地面に頽れ、漏れ出すように赤い血が拡がっていく。わたしは慌ててお姉ちゃんを膝に抱える。周囲の音がなにも聴こえなくなる。お姉ちゃんの目が閉じられる。

★★★

目を覚ます。まだ夜は開けていなかった。空は未明。わたしは起き上がって溜息を吐く。結局、昨日も一文字も書けなかった。今日もわたしは机の前に座るだけなのだろうか。

★★★

書けない。とにかく書けないのだ。『わたしの姉である、アーデルトラウト・ハーンは……』。もうそこまで書くとなんだかすべてが嫌になる。こんなことになんの意味がある。もうだめだ。村長に言って、お姉ちゃんの書葬士を変えてもらおう。わたしには務まりませんでした。そう頭を下げて……。

★★★

あんまりにも書けないと吐き気がしてくる。頭が重くなって、胸のあたりがだるくなる。そのくせ全身の筋肉はいつも強張っていて、どうにも休まらない。神経が剥き出しになって、直接さらされているような不快感。

★★★

書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない。書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない。書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない。書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない。書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない。書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない。書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない。書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない。

★★★

今日も書けなかった。

6.

冬のあいだ、わたしがしたことはずっと羊皮紙を机に広げて椅子に座っているだけだった。隣に置いたインクはまるで減っていなかった。
 今日も午前はいつものように過ぎていった。眠れない夜を眠り、起きることのできない朝を起きる。わたしは明け方よりも前に目を覚まして、それから朝食も摂らずにただ机に向かう。そしてペンを握り、ひたすら羊皮紙を見つめる。それがもう日課になっていた。
 どうして書くことができないのだろう。きっと書いてしまえば、それはそのときほんとうにお姉ちゃんと離れないといけないから、だろうか。書葬としてお姉ちゃんを書いて、一冊の本にしてしまえば、わたしは気持ちの整理がついて、お姉ちゃんを思い出にしてしまう。でも、わたしは半年経ってまだお姉ちゃんへの気持ちの整理なんてつけたくないのかもしれない。苦しい。毎日、寝ても覚めても、どんなときもまるで悪夢にうなされるように苦しい。でもわたしはこの毎日をもしかしたら無意識で終わらせたくないのかもしれない。
 だとすれば、わたしは書葬士失格だ。書く気のない、死者を葬る気のない葬士だ。そんな人間に弔いは務まらない。それは冬のあいだ何度か考えたことだった。
 やっぱり村長に言って、書葬は無理だったと伝えよう。わたしにお姉ちゃんを葬ることなどできなかったのだ。
 いよいよ決心がついた。わたしは机の前から立ちあがって、村長の家まで向かった。ほとんど食事を摂っていなかったせいか立ち上がると世界が揺れるような立ち眩みがあった。

★★★

村長は留守だった。村長の家で家事当番として掃除をしていた村の者は村長は用事で図書館の方に向ったので、急ぎの用事があるならそちらに行くようにとわたしに告げた。村の者に礼をいうと、教えられたとおりわたしは図書館に向った。
 図書館か、わたしは足の運びが憂鬱で重くなった。お姉ちゃんが死んで今日までできるだけ図書館には近づかないようにしていた。図書館はあまりにもわたしにお姉ちゃんを思い出させるものだったからだ。
 図書館に着くと、エプロン姿のニコラ・ホフマンがいた。ニコラはわたしの同い年の友人だった。ニコラはお姉ちゃんが死んで欠けた臨時の司書として働いていた。ニコラはわたしの姿を認めると、声をかけてきた。
「エミリア、どうしたの」
「村長に用事があってね。家の方を訪ねるとこっちに来てると聞いたから」
「あら、それじゃあ、すれ違わなかったの? 村長は必要なものを家に取り忘れたから、一旦、家に戻っていったよ」
「なんだ、じゃあ、またすれ違っちゃたのか」
「村長は家の忘れ物をもってまた来るって言っていたから、ここで待っておきなよ」
 わたしは頷いた。
 ニコラは半年ぶりのわたしの顔をのぞき込むと笑った。
「エミリア、少しは元気になったようね」
 わたしはニコラの言葉に微笑みを返した。
「そうだね、ありがとう」

わたしは村長を待つあいだ、棚の本を眺めた。無数に棚差しされた死者の書、その背表紙を見ていると不思議と心が落ち着くような気がした。図書館はお姉ちゃんを嫌でも思い出させて辛くなるだけだと思って避けていたけど、その静謐な空間はわたしを意外なほど安らげた。もっと早くに来ればよかったな。わたしはそう思って棚のあいだを歩いた。
 そうして書棚を歩いていると、やがて一冊の背表紙に辿り着いた。わたしは棚の周りを歩きながらその本に辿り着くことはわかっていた。わたしの胸を打つ速度はその本に近づくにつれて上がっていった。
 オリーブの表紙、それは半年前にわたしが持っていき製本してもらった、お姉ちゃんが書葬して、ここに納本した、おばあちゃんの死者の書だった。
 わたしは緊張しながらも棚に手を伸ばして、その書を手に取った。もちろん、読むのは初めてではない。お姉ちゃんが生きているあいだに一度こうして図書館に訪れて読んでいる。でもその表表紙を眺めていると、この本を読むべきときは不思議といまこの時だという気がしてくる。
 わたしは窓から日溜まりが差している、できるだけ暖かい窓辺の席に座りその本を開いた。

★★★

『わたしのおばあちゃんは、お母さんのお母さんです。お父さんのお母さんとお父さん、それからお母さんのおじいちゃんは三人ともわたしが生まれるまえに亡くなっているので、わたしが知っているおばあちゃんはおばあちゃんだけです。』
 お姉ちゃんの書葬はこんなふうにして始まっていた。
『おばあちゃんはお母さんのお母さんだけど、ちっとも似ていません。それは顔ではなくて、性格の話です。おばあちゃんはどちらかというとお父さんと似ているような気がするから不思議です。お父さんはおばあちゃんと似ていつも静かで笑っていますが、お母さんはそそっかしくて、いつもスープに胡椒を入れすぎてしまいます。』
 ここを読むとわたしはいつも笑ってしまう。お姉ちゃんは生きているころ、いつもあんたはお母さんによく似たねえと言っていたが、どうやらその根拠はスープの味付け具合についてだったらしい。
『一年に一度わたしとお父さんとお母さんとおばあちゃんは村の納本祭に出かけます。お母さんのいたずら心でわたしはベッカーさんの辛子ニンジンを食べさせられました。飛び上がるほど辛いのですが、おばあちゃんは平然とした顔で食べていました。一体おばあちゃんとわたしで何が違ったのでしょう。おばあちゃんは真っ赤な口になったわたしのためにコップ一杯のザクロのジュースを買ってくれました。』
『お父さんとお母さんが村の仕事で忙しいとき、わたしとおばあちゃんは留守番をしました。留守番のときは、おばあちゃんは決まって卵とベーコンの炒め物を作ってくれます。お母さんと違って塩加減がちょうどよくてとても美味しいのです。』
 改めて読み返すと、なんだか食べることばっかりだな。これはおばあちゃんというよりむしろ食い意地の張っていたお姉ちゃんが書いた所以だなとわたしは思った。
 それからもわたしは死者の書を読み続けた。お姉ちゃんによるおばあちゃんの姿が鮮明に浮かんでくる。でもそれだけではなくて、そこにはおばあちゃんを語るお姉ちゃんの存在も感じられた。わたしは本を開きながらときにお姉ちゃんの文字に指先で触れた。心地の良い紙の感触がわたしを慰撫していく。
『お父さんは蒸し暑く暗い夜のなかで亡くなりました。書葬はお母さんが務めることになりました。書葬はとても大変なことで、そのとき出産を控えていたお母さんの代わりにおばあちゃんがやるという話もあったのですが、お母さんはお父さんの書をどうしても書きたいというので、お母さんがやることになりました。おばあちゃんはお母さんが寒い夜にもずっと起きて羊皮紙に向うのに付き合って、なんどもお腹を冷やさないように温めた飲み物を持って行きました。』
『それから秋になってお母さんはお父さんを書き上げて納本の儀で図書館に収めました。お母さんとおばあちゃんとわたしの三人で本を書棚に差すとわたしはどこか落ち着く気持ちがしました。』
『妹が生まれたのは、それから一か月もしないうちでした。産まれたばかりの赤ん坊はとてもかわいかった。おばあちゃんと二人で、頑張ったお母さんを労わると三人で代わるがわる赤ん坊を抱きました。すると、赤ん坊はわたしのセーターにおしっこをしてしまいました。おばあちゃんは大笑いをして、この子には将来ずっと手を掛けさせられるよ、お姉ちゃん、といってわたしに笑いました。』
 わたしはどんどんとページを捲っていく、まるで初めて読むかのように。お姉ちゃんの語り口は何も特別な言葉は使われていなかったけれど、それでもわたしにはどこか特別なもののように感じられた。ページが進めば進むほど、おばあちゃんの存在だけではなくて、その筆致から、選ぶエピソードから、お姉ちゃんからおばあちゃんへの親愛が書くことによって書かれていた。ここに残されているのは書かれる人の魂だけではなかった、なによりも書き手の書かれる人への想いもまたこの書葬された書には残されている。
『おばあちゃんはお母さんをできるだけ生まれたばかりの妹といる時間を長くさせようと、ちょっとした家事でも引き受けました。たぶん、妹を産んだときと同じくらいかそのちょっとくらい前のときから、お母さんの病気に気づいていたのでしょう。わたしは結局、お母さんの病については死ぬ一年前になってようやく聞かされたという具合でしたが、なんとなくよい状況じゃないのだなということは察して、できるだけおばあちゃんの家事を手伝うようにしました。』
『結局、お母さんは妹を産んでちょうど一年後に亡くなりました。書葬はおばあちゃんが務めました。おばあちゃんはお母さんの義理の母でしたが、おばあちゃんはお母さんを本当の娘のように思っていたようです。』
『納本の儀が終わってから、お母さんの死者書をまだ言葉もわからない妹と読んでいると、不思議とお母さんがいなくなったような気がしませんでした。』
『おばあちゃんの書葬は一つ一つのお母さんの記述が優しくて、声に出すとまだ言葉のわからない妹は必ず機嫌よく笑いました。わたしも誰かを書葬するときにこんなふうに書けたらいいなとそのとき思いました』
 お姉ちゃんの書葬はこんな言葉で終わっていた。
『いま、こうしておばあちゃんの書葬をやりきって、わたしはおばあちゃんの魂をどこまで保存できたかはわかりません。おばあちゃんの生前の人となりも、そのエピソードも全てはわたしの印象と記憶によるもので、それはある人からすれば違ったり、完全なものではないのかもしれません。けれど、こうしておばあちゃんについて書いていると、確かにわたしのおばあちゃんが、わたしの心と繋がって永遠になっていくのがわかります。村長が言っていた、人は本として、物語として、言葉として残されていき、なによりもそれは書葬士自身も死者を通じて書かれることでもあると言っていたことの意味がわかるようです。わたしは今日までおばあちゃんを書いてきましたが、同時にそれはおばあちゃんに書かされてもいて、これはおばあちゃんを通じて、わたしがおばあちゃんにどれほど生かされていたかということでもあるようです。』

★★★

わたしは本を閉じた。
 閉館時間は近く、日は暮れかけていた。わたしは死者の書を書棚に戻した。棚に差しなおして、その指が背表紙を離れるとき、いまなら書ける、そんな気がした。結局村長は図書館には戻ってこなかった。でももう村長に会う必要なかった。
 わたしは閉館の作業をする司書達を横目にすぐに家に帰った。
 それから部屋に戻ると広げられた薄くベージュに色づいた羊皮紙を眺めた。それを眺めてももう怖くはなかった、もう辛さはなかった。わたしはペンをとるとその先にインクを沁み込ませた。それから羊皮紙の左上に一行目を書き始めた。

7.

春はいつのまにか来ていて、わたしは夏のあいだも書き続けた。
 一気にというわけにはいかなかったけれど、それでも毎日、わたしのなかのお姉ちゃんを反芻して、一日の生活のなかで少しづつ少しづつ書き綴っていた。書き終えてみれば、おばあちゃんやお姉ちゃん、それからお母さんが書いた死者の書と比べれば少し不器用な本になったかもしれない。けれど、わたしは書き上げたお姉ちゃんを気に入っていた。死者がこれで納得してくれるかどうかはわからないけど、それでもわたしのなかのお姉ちゃんは余すところなく書ききったのだ。

★★★

やがて納本祭の季節が再びやってきた。
 わたしは祭りに参加して、最後に納本の儀に出席した。
 村人たちが毎年のように書葬士たちを円になって囲み、中央には火が焚かれる。それから村長が一人一人死者の名前を唱えて書葬を終えた書葬士たちが本を片手に一歩進み出る。
「アーデルトラウト・ハーン」
 お姉ちゃんの名前が呼ばれた。わたしは決められた所作に従って振舞う。それから左手で本を開くと、自分が最も気に入っている箇所の朗読のページを開く。
 目の前にまだ幼い村の兄妹がいた。妹のほうは納本の儀に参加するのは初めてなのか、儀式の厳粛な空気に少し緊張しているようだった。わたしは彼女を見つめると、安心させるように微笑みかけた。
 それから、お姉ちゃんの書に目を落として、ゆっくりとお姉ちゃんの物語を読み上げはじめた。わたしの声に後ろで焚かれた炎が爆ぜる音が混ざった。

 

                                  

 

 

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