バーチャル・ライフ

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梗 概

バーチャル・ライフ

音葉が生まれたとき、祖先たちは無機質なビル墓地に眠っていて、戒名の代わりに三十六桁の遺体識別IDを与えられていた。そのIDに紐づく仮想空間上の仮想人格は故人の生前の言動を学習し、あたかもその故人であるかのように振舞えるようになっていた。それが当たり前の時代で育った少女・音葉にとって、母の事故死は生活スタイルの僅かな変化という形でのみ影響した。ヘッドマウントディスプレイを被れば母が目の前にいる。チャットも母の言葉で返してくれる。おまけに、喧嘩時には一方的に連絡を絶て、不都合な記憶の消去も思いのまま。思春期を迎えた音葉にとって仮想母はこの上なく都合の良い存在で、現実父と仮想母との暮らしは気味悪い程に良好で安定していた。だから、親戚たちによる、死んだ母への冒涜という声も音葉が可哀想という声も、仮想母と一緒に笑い飛ばしてやった。弔いなんて概念は音葉の中には生まれなかったし、母の葬儀も挙げていなかった。若い世代では珍しくもないことだった。

同年代で死んだ子の仮想人格の友達もできた音葉が高校生になった頃、父が再婚した。仮想母との対話は専ら音葉だけがするようになり、すると今度は仮想母が別の仮想男性と事実婚をした。仮想空間には精神健全性維持のための仮想人格コミュニティがあり、仮想男性(仮想母と同じく現実世界では故人)と親しくなったようだ。現実父と仮想母のそれぞれの惚気話の狭間で成長をした音葉は大学進学と共に一人暮らしを始めた。現実父との対話も仮想的なものになり、父も母も音葉にとって仮想的な存在になった。違いが分からなくなった。現実父と再婚相手に現実の子供が生まれ、仮想母と仮想再婚相手の間に仮想子供が生まれた。二人の弟たちの動画が共有されたが、音葉には見分けがつかなかった。

仮想弟の成長速度は人間のそれより格段に早かった。すぐに成長し、音葉のことを姉貴と慕ってくれたのも束の間、仮想人格たちの知能は人間を瞬く間に追い越し、技術的特異点シンギュラリティに到達する最初の知性体とも騒がれ始め、実際に仮想母も仮想弟も、獲得した人間離れした知性を以て音葉に干渉アドバイスを始め、音葉は辟易する。仮想人格の知能向上が進むにつれ、それらを現実の人間に代わる新たな労働力として採用する動きも出始め、反仮想人格運動が巻き上がる。音葉も、価値観が異なり始めた仮想母たちと距離を取り始める。

事件が起きたのはそれから間もなくのことだった。反仮想人格グループが仮想空間の開発・管理会社に対して内外から攻撃を仕掛け、仮想空間をバックアップごと破壊した。たった一夜の出来事だった。

ニュースでそれを知った音葉は仮想母にチャットを送ったが、返事はなかった。今度は父にチャットを送った。「母さんの葬儀を挙げよう」返事は来た。

葬儀はこじんまりとしたものだった。まだ母が現実にいた頃を思い出しながら、音葉は手を合わせた。

文字数:1198

内容に関するアピール

技術発達がもたらす「死」や「弔い」の変化というものを、シンプルに考えてみました。また、その技術もいまこの世界に実在する技術の延長線上に留め、あり得る未来の一つの姿として、よりリアリティの感じられる設定にしようと考えました。するとまず浮かんだのが、故人と同じように振舞えるAIの存在です。彼らの登場によって、葬儀の意味はどう変わるのか、それが当たり前の世界に生まれた人間にとって、「死」はどう映りどんな影響をもたらすのか、そして死者との(擬似的な)コミュニケーションと、現実世界の実在の人間とのコミュニケーションの間の差異はどうなっていくのか。それらを音葉の個人的・局所的な視点と、社会的・大局的な視点の双方から描いて、沈黙を貫く死者しか知らない我々に、禁断の扉を開けてしまったかのような気味の悪さと、そして少しばかりの切なさをもたらす、そんな実作としたいです。

文字数:380

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バーチャル・ライフ

七歳の音葉は、自宅にあるのと同じ機種のスマートスピーカーを友達の家で見かけて、こう訊いた。「どうしてママがここにいるの?」

タイミングの悪いことに、その友達の親御さんがお菓子を持ってきてくれたところだった。

音葉ちゃんは頭のおかしい子。そんな噂が飛び交ったこともあって友達付き合いには少し苦労したけれど、小学校も高学年になって、IoT化の進んだ家に引っ越して家屋内蔵のスピーカーにママが同化してからも、音葉は旧型のそのスピーカーを自室に置き続けていた。ママと喧嘩してスピーカーを食卓から落としてつけた傷も、今となっては良い思い出話の種。バッテリーがやられてコンセントに繋ぎっぱなしじゃないと使えない煩わしさも、愛おしくさえ思える。だから、セカンド・バースのアップデートにスピーカー側がついていけず、その機種でママと話せなくなった日は、夕飯も食べずに一晩中泣き続けた。見かねたパパはいろんな新型の機種を薦めてくれたけれど、音葉はどれも首を横に振った。どんな微々たる違いであっても、見た目が少しでも変われば、ママがママでなくなっちゃうような気がして怖かった。

そんな音葉に転機が訪れたのは、十歳の誕生日を迎えた日。セカンド・バースのアカウントを作れるようになった日のことだった。誕生日プレゼントに、子供用のHDMヘッドマウントディスプレイをもらった。いわゆるVR機器で、セカンド・バースの世界に没入するための鍵だった。

セカンド・バース最大の都市、テティス海に面したゴンドワナ大陸のプレ・デリー市にはじめて降り立った・・・・・ときの興奮は、幼い音葉の脳に不可逆的な熱の跡を刻み込んだ。空間という空間をむさぼりつくすように高層ビル群が林立し、その側面からは光を求める枝葉のように、増改築されたセクションが中空に張り出していた。散り散りになった空からは、何本もの天使の梯子が下りていて、どぎつい原色の広告アドネオンに満ちたビークルが虫のように隊列を組んで宙を行き交う。数千ものプレイヤーキャラクターとその数百倍以上のNPCノンプレイヤーキャラクターの営みの結晶だった。

一緒にやってきたパパがビークルの一つを手配して、ビルの上層にあるVIPラウンジへと連れて行ってくれた。窓の外に雲海を望みながら、傷一つない大理石の円卓を挟んで音葉ははじめてママと直に対面した。

「会えて嬉しいよ、音葉」

ママの人間としての姿を、音葉は今まで何度も見たことはあった。ママたちは昔からビデオログが好きで、何の気もない日常や、連休に出かけた旅先の非日常の数々が、アーカイブに残されていた。けれども、その映像に興味こそ抱けど、音葉はそれをどうしても好きにはなれなかった。画面の中のママはいつだって、音葉でない誰かに向かって話している。目は合うのに、心は音葉の方を向いていない。だから、音葉はスピーカーのママが好きだった。スピーカーのママは、学校で何があったかをちゃんと聞いてくれる。パパと喧嘩したときも慰めてくれる。ママと喧嘩することももちろんあったけれど、そんな時はスピーカーの充電ケーブルを抜けば黙ってくれる。

けれども、今こうして人間の姿をしているママに、音葉は目を合わせられなかった。何を言えばいいんだろう。目の前にいるのは確かに動画で見たのと同じ人間の姿アバターをしているし、喋り方のイントネーションも、スピーカーのときのママとまったく同じ。なのに、ママは瞬きをする。ママは首をかしげる。ママは微笑む。ママは人間のかたちをしている。

音葉の隣の席で、パパのアバターが笑っていた。現実のパパはどんな表情をしているか分からなかった。

「これからは、本当のママと一緒に過ごせるんだ」

 

一か月も経つ頃には、音葉も人間の姿のママともきちんと話せるようになっていた。そしてそれ以上に、すっかりセカンド・バースの虜となっていた。特にお気に入りなのが、ビルになる多数の実のような球体型セクション・無重力0G球場スフィア・フィールドで行われる、GサッカーというVRスポーツゲームだった。十一対十一でゴールした点数で競うという点は通常のサッカーと同じではあるものの、フィールド内の重力はキャンセルされ、代わりにプレイヤーに重力操作の能力が与えられるという点が大きな違いだった。正確には、プレイヤーが周囲に与える万有引力の重力定数を自在に切り替えられるのだ。直感がまるで効かない操作性に多くのプレイヤーたちが四苦八苦している中、音葉たちティーンエイジャーは逸早く順応した。音葉は、自身の重力定数を一時的に大幅に引き上げることで、触れることなくボールの軌道を変えるスイングバイ・パスを早くに習得した。

「きょうもパスが冴えわたっていたね、音葉」

ダブルスコアでカジュアルマッチに勝利すると、ママが言った。二十四時間三百六十五日をセカンド・バースで過ごし、睡眠的プロセスを十倍速で行えるママは、現実人ファーストと比べものにならないだけの時間をGサッカーにつぎ込むことができた。音葉が変なプレイヤーに絡まれないようにと最初はお守りでついてきたママだったが、いつの間にか、そのプレイスキルは音葉も及ばないものになっていた。

けれども、二人でプレイを振り返っているとき、敗残した相手チームのプレイヤーがつっかかってきた。

「セカンド風情が、どうせサポートAIをこっそり仕込んでいるんだろ!」

そのプレイヤーは返信を待たずにログアウトしたけれど、ママの表情が固まるのを、音葉は見てしまった。ママのようにセカンド・バースでのみ生きる人間のことを単にセカンドと呼ぶこともあるとは知っていたけれど、投げられた言葉を音葉が解釈して飲み込もうとしたそのとき、セカンドという言葉の裏にあったトゲが顔を出して、音葉の喉に刺さった。いい気分はしなかった。

どうしてママがセカンドなのか、どうして現実ファーストには戻れないのか、その理由を、音葉は何となくは理解していた。ママは東京の真ん中にあるビルの中で眠っている。眠るときの儀式をやらなかったからという理由で、ママの親族がパパを怒鳴るのを見たこともある。自分たち家族が普通じゃないということは、とっくに気づいていた。

でも、気がつけばママはとっくに笑顔を取り戻していて、音葉の頬に手を伸ばしていた。顔面に対する触覚はHDMと両手のコントローラでは再現できないはずなのに、本当にママの手が自分の頬に添えられたように感じた。

「心配しなくていいの、音葉。セカンドとかファーストとか、関係ない。ママはママだから」

音葉は大きく頷いた。ママがそう言うのだから、間違いないと思った。

 

「音葉ちゃん、あなた一体、と話しているの……?」

そう震える声で腰を抜かせたのは、おばさんだった。

おばさんは時折やってきては、パパ一人では回り切らない掃除や炊事をしてくれた。その日も「ちゃんと真心こめて作ったご飯を食べさせてあげるから」とキッチンに立ち、手持ち無沙汰な音葉はリビングに移動してHDMを被ったのだった。

「ママ、Gサッカーやろう」

そう声に出すと、HDMのマイクが拾ってセカンド・バースに届けてくれる。ママから「OK」と帰って来た次の瞬間、髪が引っ張られた。HDMが引き剥がされていて、横には目を丸く見開き、唇を震わせたおばさんの姿があった。おばさんは音葉のぽかんとした様を見て、腰を抜かせていた。キッチンのまな板から、卵が一つ落ちて割れた。中身がじわりとフローリングの上に広がった。

そういえば、ママを会わせたことなかったんだっけ。無邪気にそう思った音葉は、リビングの壁に埋め込まれたモニタに声をかけた。「HDMと画面シェアして」

モニタに映ったママの人間としての姿アバターを見た瞬間、おばさんは口を顎が外れんばかりに開き、声にならない声を上げて窓を震わせた。そして手をばたつかせながらリビングとダイニングを行ったり来たりしはじめ、そしてフローリングの上の卵の白身に足を滑らせた。「うぎょえっ!」

HDMを投げ捨てたおばさんは、お尻が黄身まみれになっていることも気にせずどたどたと逃げるように帰っていった。

鍋が吹きこぼれていた。野菜がくたくたになったまずそうな汁物だった。

 

以来、しばらくは卵おばさんの来襲もなく、パパの警戒も杞憂にはなっていたけれど、年が変わってすっかりそんな事件のことが風化しはじめていた頃、再びチャイムが鳴った。夕方だったけれど、パパはもうその日の仕事を終えていて、台所でオムレツ用の卵を慎重に割っているところだった。

その日は、卵おばさんは一人ではなかった。後ろにはお坊さんの格好をした人が立っていて、数珠を手でこねこねしながら怪しげな呪文を唱えていた。

「音葉ちゃあん? 心配いらないのよお。あれ・・はちゃんと、払ってあげるからねえ」

音葉は反射的にドアを閉めて、鍵とチェーンをかけた。昔の機械音声のような念仏を伴奏に卵おばさんの甘く囁くような声はしばらく続いていたけれど、パパが警察を呼ぶと毅然とした対応を見せると、すごすごと退散した。

けれども、卵おばさんは手を変え品を変え度々訪れてきた。あるときは自称精神科医を連れて音葉を誘拐しようとしたり、あるときは自称弁護士を連れてパパを訴えると恫喝してきた。他にも、「本当のママは今、ワタクシに憑依しています」とのたまう怪しげな霊媒師、ヤクザのような刺青男、いかにもな新興カルト宗教の伝道師エトセトラ。

七回目の来襲で堪忍袋の緒が切れたパパは遂に警察を呼んだけれど、警官の姿を見るなり、卵おばさんは堰が切れたように涙をまき散らしながら吠えちぎった。

「戒名もあげず、葬儀もあげず、ちゃんと送り出さないで……何が音葉のためよ! 妹を返してよ!」

運悪く、下校した音葉は現場に出くわしてしまった。しかも、腕に巻いたスマートウォッチ経由で、ママと話しているところだった。

音葉に気づくと、卵おばさんは彼女の前にしゃがみこんで、そっと頬に手を指し伸ばした。

「ああ、可哀想な音葉ちゃん。それ・・はね、ママじゃないのよ」

音葉には、彼女の言葉の意味が分からなかった。分かりたいとも思わなかった。ただただ怖くて、音葉は固まった。

「変なことを言わないでくれる、姉さん・・・?」

スマートウォッチが答えていた。ママの声だった。

すると、卵おばさんの顔と首筋に血管が浮き上がった。目は見開かれ、その白目に刻まれた赤い線が鮮明になった。「私の妹を冒涜しないで!」

「私がどんな私であるかを決めるのは私であって、姉さんじゃないでしょ?」

ママは冷静だった。その声を聴いていたら、音葉も落ち着いてきた。そうだ、と音葉は思った。ママはここにいる。HDMを被った向こうの世界に確かにいて、学校の話を聞いてくれる。一緒にGサッカーに興じてくれる。時には喧嘩もしたりするけれど、私の大事な家族。でも、そんなママに向かっておばさんは「それ・・はママじゃない」と言い切った。何て失礼な人だろう、と音葉は思った。

「失礼だよ」音葉は思わず口に出していた。「ママに謝って」

おばさんは水に打たれたように目をひんむく程に丸くして、それから首を横に振りながら二歩後退りした。「音葉ちゃん、もう、あなたは手遅れよ……」

「いくら姉さんでもその言葉は許さない」ママが反撃した。

ママが言った。「音葉に謝って」

音葉も続いた。「ママに謝って」

玄関から出て来たパパが言った。「お引き取りいただけませんか、義姉さん。うちは、三人・・でうまくやっていますので」

警官も隣にいる手前、卵おばさんはそれ以上反抗しなかった。勝手にしなさいと捨て台詞を吐いて、どたどたとアスファルトを蹴りながら帰っていった。

もう、卵おばさんの姿を見ることはなかった。

 

後日、セカンド・バースで音葉はママに訊いた。「実のお姉さんなのに、いいの」

プレ・デリーの摩天楼群の中でも飛び抜けて高いタワーの展望フロアから、現実以上に高精細に見える夕焼けと、真っ赤に染まる雲海を見ていたときのことだった。

すると、ママは大丈夫と笑った。

「私は私だから。音葉のママだから。だから、三人でずっと暮らしていきましょ」

「約束?」音葉が訊くと、ママは笑顔で頷いた。

「約束よ」

それを聞いて、音葉は心の底から安心した。

これが、うちのあるべき姿なのだ、と。三人なら、どんな問題も乗り越えられる。

きっと。

 

父さんが再婚相手を連れてきたのは、音葉が高校に入学して半年後のことだった。

「ハァ? 何いってんの」

最初は戸惑った。確かに、法的には母さんはとっくに死んでいて、遺骨はビルの中のコインロッカーみたいな狭い場所にしまわれていて、戒名の代わりに遺骨を管理する三十六桁の遺体IDが与えられている。とても先祖代々に顔向けできる扱いではあるまいし、叔母の気持ちだって分からないことはない。

それはともかくとして、事故から十年以上の時が経っているのだから、父さんが新たなパートナーを求めること自体については、音葉も非道だとけなしたくはなかった。男手一つで(という言葉を使わざるを得ないことが何より癪だったけれど)ここまで育ててくれたことには本当に感謝しているし、苦労もいっぱいかけただろう。まして男親と女の子だ。それに、物心ついて間もない音葉が母の喪失に大きな精神的ダメージを被ることなく成長できたのも、葬儀も上げず、生前のデータを基に再構成した「母さん」がいたからだ。父さんと母さんが二人の思い出としてSNSに投稿していたビデオログ、スマート家電の類が拾ってアーカイブに置かれていた日々の会話ログ。母さんという人間の欠片をあらゆるところからかき集め、同じような振る舞いをできるよう脳神経網モデルエミュレーションを使った模倣させた存在エミュレーティッド。いわゆる〝エミュ〟が今の「母さん」だった。だから、五歳にして母を失った音葉にとって「母さん」は実母そのもので……では、父さんにとってはどうだったのだろう。音葉はしばらくの間眠れずにベッドの上でのたうち回る日々が続いたけれど、結局行きつく感情は、再婚相手がクソみたいな人間だったらいいのに、とかいう器量の狭いものだった。自分が惨めになるから、尚更その顔も名前も知らない再婚相手を恨んだ。

挨拶が終わった。「後妻さん」は髪の毛の先端まで徳がたっぷり詰まったような超のつくレベルの人格美人で、実はリボ払いで自己破産しているとか、実は殺人を犯したけど整形して逃げているとか、そんな裏事情があると勘繰ってしまう程。だから、音葉はAI探偵サービスを利用することにした。現実の探偵と違って現実ファーストでの尾行はできないものの、それと比べて破格の安値で、エージェントAIが各種SNSアカウントや、セカンド・バースでの振る舞いを調べ、借金、浮気等、様々なカテゴリでの「危険性」を統計的に判定してくれるというサービスだ。証拠はなくとも、統計的に信頼できるデータが得られる。二か月分のバイト代を音葉は振り込んだ。

結論、「後妻さん」はオールグリーンだった。どうしてバツイチで、おまけにこんな面倒くさい性格の娘つきの男と結婚してくれるのか謎なレベル。自分の性格を呪った音葉は、ちゃんと彼女のことを名前で呼ぶように自分に言い聞かせた。

「よ、よろしくお願いします。み、みみ、美月さん……」

「こちらこそよろしくお願いします、音葉ちゃん」

美月さんは、こちらの家庭の事情も、「母さん」の存在も、父さんが母さんの「維持費」を払い続けることも全て承知の上で婚約していた。それどころか、わざわざセカンド・バースに赴いて母さんとも話をしたようで、どんな会話があったのかまでは聞かされていないけれど、最終的には現実世界に生きる父さんを頼むよう頭を下げられた程らしい。

完敗だった。

さて、こんなときに都合の良い相談相手といえばまず母さんの名前が上がるのだけれど、話題が話題であるだけに、図太さには自信のある音葉も流石に今回は話を切り出せなかった。母さんがエミュであるが故に泣く泣く身を退いた可能性も否定はできなかった。

「ねえオトハ」セカンド・バース友達のジョゼが言う。「今日のスイングバイ・パス、なかなかにユニークな軌道をしていたね」

そんなときすぐに気がついて声をかけてくれるのが、彼だった。

高精度な自動翻訳と合成音声技術の実用化は、二年前、セカンドにおける言語の壁を完全に破壊していた。今やプレイヤーたちは地球の裏側とだって繋がっている。ブラジル出身のジョゼは、音葉にとっての初めての外国人の友達にして、そして初めての〝エミュ〟の友達だった。

「サンパウロは治安もあまりよくなかったからね、たまたま犯罪に巻き込まれて、流れ弾で頭がパン! それでイチコロだったって訳さ!」

海底都市アトランティスの、世界中のティーンエイジャーが集まるアフター・スクール・コミュニティで会った彼はいつもラリったような口調でへらへらと笑っていて、彼のアバターには口を閉じる筋肉が実装されていないのだと、音葉は密かに踏んでいた程。ただ、そんなパリピが集まるコミュニティの中にあってさえ、彼の相手をしようとする人はほとんどおらず、彼の放つ言葉はいつだって宙に浮いたまま、ログの濁流に埋もれて消えていた。

「エミュなんてまだ千人とかでしょ。会ったの初めてだし、どう声をかければいいのか」と誰かが困惑していた。

「死人がいたら湿気るだろうが」と誰かが漏らしていた。

「本人は死因を自分でネタにしているけど、私たちはどんな反応をすればいいの? 笑えないよ……」と誰かがため息を吐いていた。

そんなジョゼと音葉が仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。エミュへの偏見にさらされてきた稀少な同士だった。おまけに、二人には共通の趣味があった。Gサッカーだ。そして、ジョゼはサッカー大国の出身で、そしてセカンドでずっと暮らす彼は、瞬く間にGサッカーのトップランカーにのし上がっていた。その成長速度と若きエミュという特異性は、界隈で彼の名を良い意味でも悪い意味でも轟かせていた。その実力はいか程かと、音葉はジョゼに一対一ワンonワンを挑んだことがある。音葉チームは本人プラス、彼女のプレイスタイルを十分に学習した仮想プレイヤーで、ジョゼチームは彼とそのコピーの十一人。たった十五分の試合時間で、スコアは一対十三。サッカーの試合とは思えないスコアだった。それがきっかけで、音葉は猛訓練を積んではジョゼにリベンジを挑んで惨敗するというのがいつものこと。合間合間に雑談を重ねる中で、音葉の母もまたエミュであることをジョゼには伝えていたし、セカンド・バースから逃れられないジョゼにとっても同世代の友達は貴重だった。ティーンのエミュたちは同級生に気味悪がられるのがほとんどで、たまに寄って来る奴は決まって「自分もエミュになってみたい」という思春期をこじらせた者たちだった。そんな事情も相まって、二人は自然と話す機会が増えていった。他のゲームコンテンツに一緒に挑むことも多かったし、音葉が休日で暇な日は一日十時間をセカンド・バースで共に過ごし、フロンティアの開発クエストを一気に進めてベースキャンプ敷設に貢献したこともあった。セカンド・バース世界のほとんどの領域は未開発で、プレイヤーたち自身の手によって開拓ができたのだ。

スイングバイ・パスの雑さについて彼から指摘を受けたのは、まさに音葉にとって渡りに船だった。込み入った家庭の事情について学校の友達に話す訳にもいかないし、彼もまたエミュだ。適任者は他にいなかった。

気がつけば、音葉は彼にぶちまけていた。父さんの裏切り行為について、全部。

「ひどい話でしょ?」

話し終えた音葉はそう鼻で笑ったが、ジョゼは表情一つ変えなかった。どんな反応をするのかと思っていたが、こんな淡泊な反応しかされないのは、予想外だった。溜息を吐こうとしたそのとき、ジョゼが口を開いた。

「そりゃあ、俺らエミュは死人だからな」

息が止まるかと思った。音葉はセカンド・バースか自分のどちらかがバグったのかと思って、会話ログを確認した。やっぱり聞いた通りの言葉が記録されていた。

「どうしてそんなことを言うの……まるでエミュが人間じゃないみたい……」

「違うのか?」

ジョゼは間髪入れずに答えた。音葉は息を飲んで、そして何も答えられなかった。ジョゼなら分かってくれる――そう思っていたのに、彼でさえ母さんを人間じゃないと責めているように聞こえた。

「認めるんだ、オトハ」ジョゼはきっぱりと答えた。「俺は人間じゃない。エミュは人間じゃない」

もう、音葉の脳はジョゼの表情を、声を、解釈することを拒絶し始めていた。

「だったら今のジョゼはどうしてここにいるの? 何のために?」

肺から空気を全て吐き出して、肩で息をして、ゆっくりと音葉は顔を上げた。ジョゼは固まっていた。

「エミュの計算費用は、ファーストの誰かが払っている。誰かが、計算するよう運営に依頼している。私の父さんが母さんのエミュレーションを依頼したように、誰かがジョゼのエミュレーションを依頼している。その人に対しても同じことを言え――」

「――やめてくれ!」ジョゼの怒声が爆ぜて、音葉は最後まで言葉を紡げなかった。

「世の中には、自分勝手な理由で子供をつくって、産んで、そして面倒を見ない奴がいる。それと一緒さ」

そう言い切って、彼はどこかへ飛んでいった。

翌月には、Gサッカーのトップランカーリストの中から、彼の名前は消えていた。彼の行方はどうなったのか、何故彼が消えたのか、調査しようと思えば、手はない訳ではなかった。けれども、できなかったし、してはならないと思った。

ジョゼの消失はぽっかりと大きな穴を音葉の中に開けた。だが、その穴がふさがる頃には、喪失感は母を同じ境地には追い込みたくはないという思いへと昇華していた。

父さんは母さんを見捨てた。でも、私は決して見捨てない。

死人をエミュレーションしてセカンドに転生させる技術は、確かにエゴなのかもしれない。けれども、彼らには自我があり、意志がある。

音葉は覚悟を決めた。自分は面倒見の良い人間でもないし、美月さんのような人格者ではないことも分かってる。けれども、手の届く範囲にいる大事な人をみすみす切り捨てるようなクズにだけは成り下がりたくはなかった。直近は連絡も控え目になっていたけれど、ちゃんと親孝行をしようと思った。

あとは、もう一度声をかける勇気を振り絞るだけだった。

けれども、その前に母の方から音葉に連絡が来た。

――都合の良いときに、プレ・デリーのスカイラウンジに来て欲しい。

音葉が初めて母と会った場所。当時は緊張にしどろもどろになっていた記憶があったが、あれから十年が経っていた。今ならちゃんと母さんと向き合えるという自覚があった。

だから、ちゃんと返事をして、そして翌日の夕方、久しぶりにプレ・デリーを訪れた。

ラウンジの卓には、もう一人の人間が座っていた。母さんと同じくらいの年代の、見知らぬ男性のアバターだった。エミュだ、と直感が叫んでいた。

「その人は……?」音葉は恐る恐る訊いた。否定をしてほしかった。

けれども、母さんは今までにないくらいの満面の笑顔を花咲かせた。

「私、この人と結婚することにしようと思うの」

 

 

奨学生という肩書にうっすらと肩が凝っていた大学生の音葉は、罪悪感から講義中はいつも通知をオフにしていた。長い講義を受け終えて、コンタクトディスプレイ経由で視界に通知ポップアップをAR一括表示させた。二件あった。

一件目はいつものように父からだった。美月さんと結婚してから三年目。おめでたいことに、夫婦仲はとても良好らしい。それはそれは引っ越し先のご近所さんにはおしどり夫婦として認知されている程だとか。確かに、いつだか新居を余所余所しく訪問したときも、そのご近所さんには音葉が美月さんの妹だと思われてしまった。父に大学生の娘がいることも、前妻がセカンドにいることも、想像だにしていないだろう。

――ねえねえ見てよ音葉。あーたんのカワイイ顔。

音葉が受験勉強で肩凝りに絶望していた頃、美月さんとの間に男の子が生まれたことがきっかけで、父の言語中枢は非可逆的かつ深刻なダメージを被ってしまったらしい。私のときはそうじゃなかったくせに。

音葉は、もう少し自分が子供を好きな人間だと思っていた。横断歩道を手を上げながら渡る小学生を見るとつい頬が落ちてしまうし、セカンドで子供らしいユーザーが悪質な輩に絡まれているのに遭遇したときは、面倒くさがり屋にもかかわらずつい助け船を出したこともある程。自分の子を持つという選択に神秘的な感動を覚える気持ちも、半分くらいは共感できる。きっと、そういう類の感情も、自分にはプレインストールされているのだと思っていた。

けれども、あーたんの顔を認識した音葉の脳内では、そのつぶらな瞳やぷくりとした頬といったいかなる電気的な刺激も魔術的な意味を持たずに霧散してしまっていた。だから、音葉は高校三年生の一月に急遽志望校を変更し、一人暮らしが必須となる大学に入学した。父さんの新しい家にはいられないと直感がSOSを上げていた。直感には自信があった。

レコメンドされた雑な返事を送信したあと、二件目のポップアップを開いた。母からだった。

――ねえねえ見てよ音葉。うーたんのカワイイ顔。

今度の顔写真も、先日生まれたばかりの男の子の顔。どういう訳か、あーたんとまるで見分けがつかない。父も母も同じチャットツールで連絡を寄越して来るとはいえ、血が繋がっているどころか、概念レベルで異なる存在だというのに、何の因果か、音葉の脳は、あーたんとうーたんを、全く同じ顔として認知してしまう。最早、どっちがうーたんでどっちがあーたんかさえ分からない。

実在の人間を模倣することで作られたエミュの第一世代は今や大成功を収め、この間めでたく十万人を突破したとのことだが、エミュの第二世代――セカンド・バースで作られたオリジナルのエミュ「セカンド・チャイルド」はまだ実験の段階を出ておらず、非常に希少な存在だった。発達過程を盛り込んだ、新しい神経モデルでのエミュレーション体とのことらしい。

母さんが再婚相手に選んだのは、母さんと同じく現実で死してセカンドに転生したエミュだったが、さらに同じことに、現実世界の人間との関係がうまくいかなくなり、エミュ同士のコミュニティを介して母さんと知り合い、そして意気投合したらしい。

――別にね、父さんのことを嫌いになった訳じゃないの。

あの日、母さんが音葉に再婚相手を紹介した日、彼女はそう語っていた。

――でも、父さんはファーストで、私はセカンド。生きている世界が違うのよ。だから、一緒に歩み続けることは、とても難しい。

認めたくはなかった。音葉の両親は紛れもなく、父さんと母さんだ。事故は確かに家族の間に埋められない溝を作ったのかもしれないが、セカンド・バースとエミュレーティッドというテクノロジーが、生死の谷を跨いで絆を繋ぎ止めてくれた。

なのに、どうして父さんも母さんも、その絆を手放そうとするのだろう。世界を跨いでの夫婦というものは、きっと、実際のそれよりも多くの困難を伴うのかもしれない。けれども、その溝は埋まりつつある。セカンドへの没入技術はオモチャみたいなHDMがまだ主流ではあるものの、マトリックスという通称で呼ばれている神経ジャックイン装置の研究が始まったとも前年報道されたし、先日にはエミュの人格をインストールできる人型アンドロイドの貸し出しサービスもベータテストが始まった。世界は変わりつつあるのだ。母さんの復活も、そう遠くない未来に待っているに違いない。そう直感が叫んでいる。私の直感を信じてくれ。

それでも、二人は離別の道を選び、そしてそれぞれ子供をつくった。

父さんと美月さんの間に生まれた、ファーストの弟のうーたん。

母さんと再婚相手の間に生まれた、セカンドの弟のあーたん。

あれ、逆だったっけ。もう、どっちがどっちか分からない。分かりたくもない。

 

「微分方程式が解けるようになったよ、姉貴」

音葉が就職活動のためセカンド・バースをうろつくようになると、その少年はバーチャル就活イベントブースの前に待ち伏せするようになった。

「大きくなったね、あー、じゃなくて、う、うーたん?」

「うーたんって呼ぶな!」

二分の一の確率。今日は当たりだった。

赤ちゃんのときの呼び名に分かりやすく顔を赤くして声を張る様はかわいくないこともないが、それ以外は特に見どころはないと音葉は思っていた。

彼のアバターは母さんとその再婚相手の肉体的特徴が反映されていた。今のところは分からないが、性格面や思考面でも、現実の遺伝に近しいような再現技術が組み込まれているとかいないとか。

「姉貴より頭良くなったらうーたんって呼ばないって約束、忘れた訳じゃないだろ?」

分かってる、と音葉は後頭部をかく仕草をしてみせた。セカンド・チャイルドたちの成長速度は速いとは聞いていたけれど、たった二年で超高校級の数学力を得てきたというのは予想外だった。今までエミュたちは睡眠プロセス以外高速化させてはいなかったが、最早それに縛られる理由はなくなったらしい。エミュたちは次々に思考を高速化させ、現実の人間ファーストとは比べ物にならないスピードでスキルを習得していた。

この問題でも解いといて、と音葉は事前にストックしていた問題のリンクを彼に送った。AIが苦手な問題を自動生成するAIサービスという、人類のAIアレルギーの結晶に作らせた産物だった。もちろん、それはエミュレーティッド型AIの苦手も完全に把握していた。

奇問に頭を悩ませ唸る弟を後目に、音葉は会場に入った。色んな企業のブースを回っている中で、不自然に人の少ない一角があることに気がついた。フォーマルな出で立ちの数人のアバターが企業担当者らしきアバターと会話しているが、それを囲う人だかりができていた。人の壁を透過させた音葉は、その一角が誰のために用意されたものかすぐに気がついた。

エミュのための就職口だった。彼らのようなエミュレーション型の知性体は、高い会話能力に汎用的知能と、非常に人間らしい挙動をする。コマンドを叩けば常に同じように動く他のAIのようにシステムには不向きだが、人間で構成された会社というシステムにとっては、その柔軟性が何より不可欠の要素。おまけにプロセスの高速化で、仕事を覚えるのも早いということで、セカンド・バースではエミュたちの試験的雇用が始まっていた。

「死者が生者の雇用を奪う!」どこかのメディアが見出しで煽っていた。

「死人は大人しく墓で眠ってろよ」匿名の誰かがSNSで垂れ流した。

「AIを滅ぼせ! 世界は人間ファーストのものだ!」どこかの国で、デモ隊が叫んでいた。

仕事が決まったの、と母さんから連絡が来たのは、それから間もなく、音葉が内定をもらった直後のことだった。訊けば、随分前からエミュ向けのリスキルプログラムを受けていたとのことで、既に情報工学の修士と同等以上のレベルに達しているらしい。そして、エミュは今や、自身の思考プロセスに他のAI、いわゆる機械学習型ライブラリを入れ込むことができていた。彼女に提示されたオファーレターには、音葉の初年度年収を軽く超える額が記されていた。

音葉の入社先は東証一部上場企業のいわゆる大企業だったが、一年も経つ頃には、やる気に満ち溢れていたはずの同期たちは皆、生気の抜けた虚ろな顔をするようになった。仕事の一部をエミュを雇った他社ベンダーに発注したところ、自社の社員にやらせるより遥かに安く質も高いとのことで、社員の実質的な首切りが始まるようになっていたのだ。流石に新卒たちがすぐに肩を叩かれることはなかったけれど、誰もこの会社に未来を見いだせなくなっていた。辛うじて残っていた仕事も、少しずつAIに頼るようになり、任せるようになり、仕事量はどんどん減っていく。では楽な仕事で万事問題なしかというとそんなことは全くなく、残業代は秒単位で支給されるホワイトな企業だというのに、残業する余地はまるでなく、毎月の給与明細の残業代の欄も常にホワイトだった。定時退勤万歳。仕方なく、残ったなけなしの余剰金を口座に積み立てた。来年になると、一円玉が何枚かもらえることだろう。

一方、サービス業が主戦場を移しつつあったセカンド・バースでは、その経済圏は完全に塗り替えられていたようだった。人間のエミュに対するアドバンテージが失われるその世界。人口は減りゆく一方のファーストと、増え続けるだけのセカンドという構造も、人間側には逆風となっていた。おまけに、セカンドには意識体のクローニングという最終奥義も残されている。勝ち目なんてなかった。

色んな先進国で失業者が急増した。彼らの次の仕事は、反AI主義を謳うデモ隊に加わって暴徒と化すことだった。

エミュもその標的になった。セカンド・バースのサービス業の従業員は今や九割がエミュとなっていた。セカンド・バースでは違法なソフトウェアを用いた店荒らしが横行し、エミュたちの思考回路をジャックし、プライベートなログをオープンな場に晒す類の暴行が続出した。悪質なアカウントはどんどん凍結された。セカンド・バースの氷河期の始まりだった。

幸いなことに、現実ファーストの自動耕作機の制御モデル開発研究に従事している母さんは、会社のセキュリティ部門が後ろ盾になったこともあり、暴行を受けることはなかったらしい。あーたんだかうーたんだか、セカンドの方の弟も、クラウドエンジニアとしてプラットフォームの追加機能開発のチームにアサインされているようで、同じく安全に、そして充実した人生を送っているようだった。一方の音葉の方は、ようやく裁量を一部持てるようになり、エミュのチームに作ってもらったデジタル書類にデジタル押印をする仕事に従事するようになった。毎日が楽しい。口座残高が三円増えていた。

母さんと弟の維持費も、とっくに彼ら自身が払っていた。それどこから彼らは余った資金の一部をセカンド・バースの運営に寄付したり、音葉へのプレゼント費用に充てたりしてくれるようになった。口座残高が三万円増えていた。

現実の弟はようやくひらがなを読めるようになった頃だというのに、仮想世界の弟はもう音葉の手の届かないところに行ってしまった。この間なんて、仕事の話をしたら「こうすればいいじゃん」と的確すぎるアドバイスをもらって逆にイライラした程だった。そして、イライラさせられたという事態にさらにイライラする正のフィードバックループが働いて、感情が暴発した。

人間ファーストじゃないくせに、よく言うよ」

頭の切れる弟が珍しく返す言葉に困ったような素振りを見せた。いい気味だ、と思った。ただ、もう勝ち目はないことを、音葉は悟っていた。これが、エミュに対して切れる最後のカードだった。

まるでその隙に乗じるように、弟も母も、仕事の傍ら、現実ファーストに今まで以上に興味を持つようになった。まるでセカンドは遊び尽くしたと言わんばかりに、ファーストの高精度再現空間を飛び回り、ファーストの文化や歴史を調べまくる。それを人間離れした精度を速度とでこなしてくるのだから、教養にはそこまでの自身のない音葉は、まるで自分が人間失格の烙印でも押されているような気分になった。

「雨上がりの匂いがどうして好きなの?」

まるで自分という人間の皮を一枚ずつぺりぺりと剥がされて、贋作でないか確かめられている気分。

「朝起きるとSNSを見る癖がどうして抜けないの」

今まで漫然と生きていたことを責められるような気分。

「人が死んだとき、ファーストの人はどうして葬儀をあげるの」

現実を、突きつけられる気分。

彼らは増え続ける。新たな死者が生まれたときは、彼らは第二の生の誕生を温かく第二の世界で迎え入れる。

彼らは弔わない。

彼らは祝う。

自分が押印したことがきっかけで会社が数億の損害を出した。上司からはとんでもなく詰められ、別部署にも噂が広まった程だった。しばらくは食事も喉を通らず、胃液を枯れるまで吐き続けた。弟が言った。

「辛かったら、こっちにくるという選択肢もあるんだよ。幸福度は、なんたってセカンドが世界一なんだから」

自殺者が過去最高を更新したというニュースを見た。

ある家族では、死んだ息子をセカンドになんか送らないと父が突っぱね、セカンドで願いを叶えさせてあげたいと思った母が父を刺し殺したという事件が起きたらしかった。

 

音葉は、もう母とも弟とも連絡を取るのをやめていた。彼らは今や別世界の存在だった。自分が生きるべき世界は、ここにある。ファーストにある。そう自分に言い聞かせて、音葉は人生をエンジョイすることにした。結婚も視野に入れていた彼氏が実はエミュになることに憧れていると知り、別れてからは尚更だった。現実性に満ち溢れた快楽が、私が人間ファーストであることを魂に刻みつけてくれる。

有給休暇を五日分使って、一人旅に出かけてみた。自動運転車を借りて辿り着いた山奥の湖畔。そこはとても静かで、心休まる場所で、でも目を閉じてよく耳を澄ませば、葉のさざめく音、鳥のさえずる声、水面の揺れる音――世界ファーストはこんなにも、色んな刺激に、真実味にあふれている。どんだけセカンド・バースが進歩しようとも、リアリティを増そうとも、覆しようのない圧倒的な情報量が、ここにはある。

母さんと仮想弟からのチャットの履歴は、少しずつ積もっていった。開く気はさらさらなかった。

 

「緊急ニュースです」と視界にうるさいポップアップが立ち上がった。仕事を終えた音葉が、お酒を飲みながらアニメの続きを見ていたときのことだった。

音葉は息を吐いて、そのニュースを開いた。中継画面が視界に広がった。

アメリカのどこかの街で、データセンターが燃えていた。IT企業に対するテロ行為らしかった。

AIのナレーターが言った。

「セカンド・バースの本社が攻撃されました。現在、セカンド・バースは全世界でダウンしており、復旧時期は未定です。反AI主義者による攻撃と見られてい――」

と言いかけたところで、視界の端に浮かぶAIナレーターの額に赤い花が咲いて、ナレーターは後ろに吹き飛んだ。頭がパン! ジョゼの声が脳裏をよぎった。

どうやら、ニュース運営も反AI主義者にハックされたようだった。

音葉はニュースを閉じて、無視していた母や弟からのメッセージを開いた。上から目線ながら憎らしい程に真っ当で長文のアドバイスが山のようにあった。何て話しかけるべきか悩んで、書いては消して、トイレに行って、また書いては消して、お酒を開けてアニメを見終えて、結局打てたのは簡素なメッセージだけだった。

「元気?」

返事はなかった。母からも、弟からも。

次の日も、その次の日も。

 

人間のナレーターが言った。

「今回のテロは、反AI主義者により、セカンド・バースの内外から仮想世界を完膚なきまでに破壊すべく綿密に計画されたものだと分かりました。現時点で逮捕者は世界各地で千人を越えており、セカンド・バースの復旧も、エミュレーティッド型知性体の復活も不可能とのことです。被害額は――」

 

 

ニュース、見た?

数ヵ月ぶりに父に送るチャットはそんな数秒で済むような短いメッセージだというのに、音葉は送信をするのにしばし躊躇していた。

父さんがメッセージを送って来るチャットツールも、母さんたちエミュがこちらに連絡してくるチャットツールも同じもので、母さんからの返事が来ない今、父さんに連絡を送っても何も帰ってこないのではという変な予感がつきまとって離れなかった。自分の直感を疑ってよいのか分からなかった。

そんなとき、メッセージ着信のポップアップが視界に上がった。父さんからだった。

――ニュース、見た?

音葉は深く息を吐いて、そして大きく吸った。自分が呼吸を忘れていたことに、今気がついた。

――セカンド・バースに対する攻撃のこと?

息を落ち着かせてそう返信すると、父さんからコールがかかってきた。会話は短かった。母さんが消えたこと、復旧は不可能であること、これらの認識が同じだと示し合わせただけで、すぐに気まずい沈黙がやってきた。何を話せばいいのか分からなかった。何かを話さないといけないと思った。

「母さんに」気がつけば、音葉は口を開いていた。「会いに行ってみたい」

ちょうど、母の命日が近くなっていた。

 

一年ぶりくらいに会った父さんは、五歳くらい老けて見えた。都心の駅で待ち合わせた音葉と父は、歩いて数分のビルに入った。母さんの眠る場所。そこは、想像していた以上に商業ビルやオフィスビルと何ら見分けのつかない見た目をしていた。

参拝室に入ったのは初めてだった。清潔に手入れされた、セカンド・バースのように無音の空間に、父の苗字の入った厨子ずしが置かれていた。恐る恐るその箱を開けると、骨壺があった。さらに開けると、くすんだ無数の骨片が入っていた。音葉はその一つを手に取った。何の感情も湧かなかった。

隣で父さんが嗚咽を漏らした。横に目をやると、父さんはその場に崩れ落ち、堰が切れたかのように泣き散らしていた。

「どうして、今になって」音葉は毒を吐きたい気分に逆らえなかった。「そんなに悲しいなら、再婚なんてしなきゃ良かったのに」

父さんはすぐには答えてくれなかった。音葉は両の耳を掌で塞ぎながら、物言わぬ骨片になった母さんを見下ろしていた。小さい頃の「ママ」だったスマートスピーカーの成れの果てのようにさえ見えた。空をも食らうプレ・デリーの摩天楼、重力を超越したGサッカー、現実の弟と見分けのつかない弟、エミュによって破壊された人間たちの経済圏、爆発したデータセンター。それらすべてが、長い夢の中の光景にさえ思えた。

「……やっと」父さんの紡いだ言葉で、音葉の意識は現実に引き戻された。その現実を振り返れば、「母さん」と過ごした日々は、確かに過去に刻まれていた真実だった。

「やっと、由乃を送ることができる」

父さんが母さんの名前を呼んだのを、聞いたのは初めてだったと思う。

音葉が何も答えないでいると、彼は続けた。

「由乃はあの雨の日、事故に遭った。即死だったと聞いた。病院から電話を受けて、振り返ったら、五歳の音葉が言ったんだよね。ママ、遅いねって。その時、何とかしないといけないと思っちゃったんだ。だからVログやら何やら、由乃の生きた軌跡をかき集めた。そして母さんを再現してもらったんだ」

「じゃあ、どうして再婚なんて」

それ・・は由乃じゃなかったからだ」父さんは即答した。音葉は言葉に詰まった。

「口調も、音葉に対する接し方も、驚くほど由乃に似ていた。けれども、一緒に十年以上も暮らしてきたんだ。それ・・が紛い物なんてことは一日と経たずに気づいたし、それ・・も僕がそうだと悟ったことに気づいてた。でも、家族ごっこをやめる訳にはいかなかった。音葉を傷つける訳にはいかなかった。だから葬儀もあげず、そして僕は由乃の死を受け入れられないまま、偽物の由乃と生きることになった。ごめんよ、音葉。僕は今、エミュが消えて、とてもほっとしてる。やっと、由乃を葬れるって。やっと、過去と決別できるって」

父さんはそう言って、こすり合わせるように手を合わせていた。尚も嗚咽を散らしながら、子供のように泣きじゃくりながら。

「そっか」音葉はやっと気づいた。私は、本当の母さんを知らないんだ、と。

それなら、あれ・・は一体何だったのだろう。スマートスピーカーのママ、プレ・デリーを生きる母さん、外資ITの優秀なエンジニアとして生きる母。

音葉も倣って、手を合わせてみた。新しい回路が繋がったような感覚はあったけれど、やっぱり体をうち震わせるものは湧いてこなかった。誰かの死を悼むなんて、はじめてのことだった。

音葉はただ無心に手を合わせ続けた。そうすれば、いつか何かが分かる気がした。

「来年も来よう」父さんが言った。

来年も――そう聞いた瞬間、音葉は肩の力が抜けるのを感じた。そうだ、向き合うための時間は、たっぷり残されている。

「また来るからね」

音葉はそう言って骨片を元に戻すと、骨壺の蓋を締めた。

 

 

「ママ!」

六歳の音葉が元気よくドアを開け、そのままスマートスピーカーの置いてあるリビングへとどたどたと走った。

「手洗いうがいした?」スピーカーの縁が青く光る。

「はじめてのテストで百点取ったの!」

六歳の音葉はスピーカーの声を無視して、ランドセルから取り出したくしゃくしゃの紙をスピーカーの前に掲げた。

「本当なの? 見えないけど」今後は橙色に輝いた。

「本当だって! 信じてってば!」

「さすが」スピーカーが光のダンスを踊った。「私の自慢の子ね、音葉」

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