慈悲深い漂白

印刷

梗 概

慈悲深い漂白

 
「アリス、聞こえますか? あなたの心に直接語りかけています」
実際には、女性にしては低めの私の声で、骨伝導ヘッドホンで伝える。だがアリスに知覚できない信号が脳神経回路を刺激し、各領域の反応が私のゴーグル型モニターに表示される。
 右手で数珠を爪繰ると、私の漂白能力が発現し、アリスの破壊衝動や記憶を葬る。
「いいですか、落ち着いて聞いてください」
アリスは労働者として、新たな人生を始める。
 
 人口減少と経済衰退が続き、人間は貴重な労働資源となった。散らかった部屋ではルンバが使えないように、老朽化したインフラ環境ではロボットの出番はない。
 税金と労働資源の最適化対策のひとつが更生推進プログラムだ。参加した受刑者は「漂白」処置を受け、釈放される。
「漂白」の音声刺激は、記憶領域へのシナプス結合を弱める。続いて自己組織化により、破壊衝動領域が隔離される。私たち漂白師が、記憶を別領域に移動させることもある。その後、離島での職業訓練と社会訓練が終わると、更生した労働者として釈放される。
 人格は残るが表出しない。アンガーマネジメントの一種だと捉えられている。
 
 休憩中、私は右手で数珠を爪繰り、なめらかにトリガーできるのを確認した。それから左手の小さな二桁算盤で、一、二、…十まで加算する。算盤は息子の形見のようなものだ。
 息子は、実の父親、つまり私の夫を殺害した。私は時間をかけて漂白し、同僚たちに慈悲深いと揶揄される。生まれ変わった息子は、この島のどこかで職業訓練を受けている。
 
 午後、中年男性のボブが処置室に運ばれた。記録によると、何度も漂白処置を受け、人生をやり直している。たびたびデジャブがある。大勢に襲われる光景がフラッシュバックし、混乱して暴れたところを拘束された。漂白しきれなかった記憶の表出だ。
 問診中、ボブは指輪をいじりながら悪態をつき、やがて大声でわめいた。
 処置を始めてしばらくすると、私がぼんやりしてくる。
 ボブの指輪いじりはトリガーだった。漂白耐性のある人格が覚醒し、ゴーグル型モニターの表示にまぎれて、私の脳神経回路に攻撃する。
 私は目を閉じ、音声でボブに反撃する。だが徐々に私は、発声も体を動かすこともできなくなる。
 ボブは、まぶたを透した明るさの変化、つまり一ビットのシリアル信号で、侵入攻撃を続ける。
 私は左手の算盤で一、二……と足す。トリガーだ。従順で凶暴な息子の人格が、覚醒する。
 十年前、役立たずな夫が、私をDVで訴えると言った。息子に夫を始末させ「お母さんが助けてあげるから」と黙秘を続けさせた。漂白のついでに、息子の人格を私の中に移動した。
 私と息子の信号が、ボブの聴覚から侵入する。攻撃をさばけなくなったボブは、思考停止した。
 息子を褒め、私の奥深くに眠らせる。慈悲深い漂白師たる私は、時間をかけて、ボブの人格を丁寧に破壊する。

文字数:1185

内容に関するアピール

人格や記憶が、ニューロンのシナプス結合で実装されているなら、その脳領域へアクセスを失うことは、すなわち魂の喪失であると考えました。であるならば、強制的に喪失させることは、葬ることです。

塩素系漂白剤などは、色素を洗い流すのではなく、分子構造を変えて反射特性を変えることで「漂白」します。同様に、この物語では、人格を直接破壊せず、外部からの刺激に対して好ましくない応答をさせないことを「漂白」と呼んでいます。

すみません、うそです。宮部みゆき「母の法律」では、「沈殿」というすごい表現があって、さすがにパクれないので、漂白に落ち着きました。もっといい表現を、まだ探しています。

10,000字ほどの掌編を想定しています。よろしくお願いします。

文字数:317

課題提出者一覧