真珠の小指を燃やす

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梗 概

真珠の小指を燃やす

シェル【殻体】 ①惑星ラークに生息する無脊椎生物で正体は不明だが、アコヤ貝のような外観を有する。また切断や破砕などの外的損傷に対して強い自己修復能力を持つ。②転じて、①を原料とする同生物の生態を活用した人体の代替となる器。もともと2253年の人類のラークへの移住計画後に環境への適応が困難な状況から開発された。

 

〈ギムナジウム〉では子どもたちが毎年15人ずつ生み出され、0歳〜18歳まで共に学び、生活する。子どもたちは脳の移植手術により生後間もなく〈殻体〉を与えられた。彼らは自分の体の詳細について知ることはなかったが、周りの大人がそうするように、転んでひざ小僧が割れてもくっつくまで放っておけばいいし、指や腕が折れても、破片を集めて丁寧に組み合わせてゆけば元通りになることを知っていた。流血や痛みといったかつての人類の常識的な感覚はここにはない。

16歳のイチカとミチルは、月に一度のお祭りの日に優等生のアマネが立ち入り禁止の森の中に入ってゆくのを見つけ、密かにアマネのあとをつける。アマネは森の奥の湖の畔で、深々と自分の胸にナイフを突き立てた。アマネは吸いこまれるように湖に落ちてゆく。ふたりは慌ててアマネを引き上げる。彼女の胸はぱっくりと大きく裂けていた。胸の中はがらんどうで、真ん中に穴の空いた大きな真珠があった。アマネは揺さぶっても目を覚まさない。イチカは湖岸で小さなノートを見つけた。それはアマネの日記だった。大怪我をした親友が教師たちに粉々に砕かれているのを見たこと、元通りになって帰ってきた親友に違和感を覚え、自分の命も体も信じられなくなっていること、教師たちはみな嘘つきであることなどが記されていた。ふいに人の声がした。驚いたイチカはアマネの小指を折ってしまう。イチカは慌ててアマネの日記と小指をポケットに入れ、ミチルと共に草むらに隠れた。木立を抜けて現れたのは3人の教師たちだった。彼らはアマネの姿を見つけると、彼女の胸の真珠を取り出し、綺麗に穴を塞いだ。その後、湖から貝を獲ってきてアマネの体と一緒に棒で粉々に砕き始めた。バキバキと不快な音がやがてしゃりしゃりと涼やかな音に変わってゆくまで、ふたりは息を殺してじっと見つめていた。彼らは粉々になったアマネと貝を成型し、表面をなめらかに削った。彼らはあっという間にアマネにそっくりの〈殻体〉を作り上げた。ひとりが真珠を〈殻体〉の中に戻すと〈殻体〉は目を覚まし、アマネそっくりに微笑んだ。彼らは〈殻体〉を連れて足早に帰っていった。

ふたりは、目を覚ました〈殻体〉が自分たちの知っているアマネとは違うと感じた。アマネの行動は、自分を取り戻すために必要だったのだと思った。教師たちが作業をしていた場所には、アマネのものとも、貝のものともわからないきらきらとした欠片がわずかに残っていた。ふたりはアマネの小指を燃やすことにする。それは、粉々に砕かれるのではなく炎の中で溶けて消えたいという、日記に記されたアマネの最後の願いだった。ミチルが自分たちの指も一緒に燃やそうと提案した。ふたりは小指を折る。折れた小指の断面は鋭く、月明かりに照らされて内側が真珠のようにやわらかな虹色に輝いているのが見えた。ふたりは小指たちに火を放つ。表面の肌色の部分は、みるみるうちに溶けてあっというまに消えていった。虹色に輝く内側の殻だけが炎に包まれたままずっとゆらゆらとひかっている。ふたりは燃える小指の感触を確かに感じていた。

文字数:1433

内容に関するアピール

「葬る/弔う/喪に服す」という行為は、死という概念を可視化する役割もあるのではないかと思いました。そのため、死という概念がなければ、それらの行為も失われてしまうのではないかと考えてつくったのが、ラークという限りなく死から遠い体を持つ者たちの星です。〈殻体〉には痛覚もありません。

生も死も人間の手でどうにかできる領分にまで持ってきてしまうと、それは「自分だけの身体感覚」を手放してしまうことを意味するのではないかと思い、支配された生と死を描きました。まだまだ設定があまいところが多々ありますが、実作では細部まで丁寧に書き込んでいきたいです。

文字数:269

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真珠の小指を燃やす

1.
 一瞬、あっと叫んだときにはもうわたしの身体は真っ逆さまに落ちていた。雲の隙間から零れたひかりがわたしの目を射し、ぎゅっと瞼を閉じる。強い衝撃と乾いた音。しゃりしゃりと鳴る欠片や粉塵の感触。
 ボロボロに砕けたわたしの手のひらは空洞だった。内側は真珠のようにやわらかな虹色をしている。厚い雲の隙間からわずかに零れてくる光にぼんやりと照らされて、わたしの内側はゆらゆらと鈍く輝いた。身体を起こすと、左足の膝から下が欠けていることに気づいた。あたりを見渡してみる。折れた左足は波打ち際に落ちていた。わたしは右足だけでなんとかバランスを取りながら、波に攫われる前に回収しなくちゃと左足のもとに急いだ。
「イチカちゃーん!」
崖の上からミチルが顔を覗かせる。10メートルはないくらいだろうか。どのみちこの身体では登れそうにない。
「手がなおったら泳いで海岸まで行くからそっちで待ってて」
回収した左足をミチルに向かって大きく振る。ミチルも手を振って笑った。
 
 そのままごつごつとした岩肌の上に腰をおろす。このあたりは、波を押し開くように大きく盛り上がった岩が陸地を形成していた。波がわたしの爪先をそっとなでてゆく。ふと、砕けた手のひらを眺めると、もう修復が始まっていた。断面からじわじわと染み出すように、やわらかな虹色が広がって穴が完全に塞がれた。ゆらゆらとひかる虹色の手のひらは、なめらかで少し海の匂いがした。
 わたしは折れた左足の足首をしっかりと握りしめて、海に飛び込んだ。灰色の空が淡く輝き始めると、〈朝〉の鐘が鳴った。雲の隙間から、海に向かっていくつも光の柱が降り注ぐ。踊るように揺れる水面がきらきらとひかっていた。わたしはひかりを追いかけるように波の間をぐんぐん泳いだ。
 
 海岸は波と風の音でいつも空気がびりびりと震えていた。ミチルは、わたしの折れた左足を見ると、
「こりゃ修繕してもらったほうがいいね!」
と大きな声で言った。わたしはミチルに背負われて寮に向かう。ミチルの歩くテンポに合わせて私の身体もことこと揺れる。寮に戻ると、ちょうど隣部屋のユヅキとカナエが出てきたところだった。
「派手にやったねー!」
世話焼きであねご肌のユヅキが笑いながらわたしの肩を叩く。わたしは手に持った左足を振ってふたりを見送った。わたしたちは汚れた服を着替えてから校舎に向かった。
 寮と校舎は渡り廊下でつながっていて、黒いごつごつとした岩肌の広がる海岸が見えた。ここも、風の音と波の音がないまぜになった轟音が響いている。それはなにか大きな生き物の唸り声のようにも聞こえた。岬を背にして立つ校舎に近づくほど風が湿気を含んでねっとりと重い。
「イチカは大胆だけど運動神経が悪いよね」
「ミチルだってただのビビりじゃん」
わたしはミチルの耳元で言い返す。でも、確かに今日のはわたしのミスだ。蜜のおいしい青い花がたくさん咲いてるところがあるとミチルに誘われて、早起きして崖に行ったはいいが、欲を出してもっとたくさん咲いている中腹まで降りようとしたのがまずかった。ミチルに散々止められたのに。結局、花も全部落としてしてしまうし、左足も折れるし、何にもいいことがない。わたしが少し落ち込んだ気配を察したのか、
「またいこうね」
とミチルが優しい声で言った。
「でもミチル寝坊するじゃん」
「次は早く起きるから」
風にあおられたミチルの錫色の髪がわたしの頬をなでる。わたしは甘えるようにミチルの肩に顔をうずめた。
 
 修繕室は校舎の西端にあって、少しだけよそよそしい感じがする。ミチルがノックすると、ゆっくりと引き戸が開いて、ヒナミ先生が出迎えてくれた。窓際のベッドに横たわると海が見える。海は少し明るさを増した空の色をうつして白くけぶっていた。淡い灰色の空と白い海に挟まれた水平線だけが遠くでほのかに銀色にひかる。
「朝から元気ね」
ヒナミ先生がベッドの隣に腰かけて微笑んだ。わたしは曖昧に笑った。糊のきいたシーツを手のひらでなでて、独特の感触を味わう。
「すぐなおる?」
ミチルがヒナミ先生の隣に立ってわたしの左足を覗き込む。ヒナミ先生がもちろん、と言いながら膝の先に折れた左足を置いた。ヒナミ先生は、戸棚から薄く伸ばした真珠のような欠片を取り出すと、断面の欠けている部分の形に合わせて削り、上からそっと乗せた。そのあと、小瓶に入った白い液体を筆にとって丁寧に境界を接いだ。液体は、光があたるとゆらゆらと虹色に輝いた。ぼんやり見つめていると、みるみるうちに境界線が氷のように溶けて馴染んでゆく。これを繰り返して欠けた場所を丁寧に塞いでいく。しばらくすると、虹色のなめらかな膝が現れた。ヒナミ先生は穴がないか入念に確認すると、上から白い粉をまんべんなくふりかけた。先ほどの液体で丁寧に塗り固め、やすりで表面を磨き上げると、左足は傷ひとつなくなめらかにつながっていた。
「はい、おしまい」
ヒナミ先生はわたしの膝にぽんと触れて立ち上がると、道具の片づけをはじめた。ミチルはわたしの隣にいそいそと寝そべって、よかったねと嬉しそうに笑った。
「そうやってすぐじゃれだす」
ヒナミ先生が呆れ声で私たちを見下ろす。わたしたちの頬に交互に触れて、
殻体シェルに感謝しなくちゃね」
とやさしい声で言った。わたしは起き上がって膝に触れる。かつて砕け落ちた腕に、穴の開いた頬に、粉々になった指先に、今まで損傷したことのあるすべての場所を触ってゆく。どこもかしこもすべすべとなめらかな感触がした。
 ヒナミ先生が「もうちょっと安静にしててね」と言って、わたしに『やさしい・殻体シェルの身体と修繕』という分厚い本を手渡した。この本が暇つぶしになると思って渡してくれたんだろうか。ヒナミ先生はちょっとズレてる。ぱらぱらと捲って、適当なところを音読してみる。
 「殻体シェルとはこの星に生息する貝の殻と真珠層からつくられる我々の身体のこと。殻体シェルはかつてこの星に移住してきた人類によって生み出された。人類は、この星の海と地球の海が酷似していることを発見し、移住計画を進めた。しかし、移住後に大気には人体にとっての微毒が含まれていることが判明。また、わずかな陸地はどこも痩せていて、さらに追い打ちをかけるように、太陽の光も分厚い雲の隙間からわずかに零れてくるのみ。食糧も十分にまかなえず、この星に移住した人類はみな短命であった。星の環境は簡単に変えられない。人類は自らの身体を改造し、環境に適応させるしかなかった。そこで、目をつけられたのが、この星の海に生息している貝たちだった。彼らは、身体を守る分厚い殻をもっており、その殻は切断や破砕などの外的損傷に対して強い自己修復能力を有していた。これを利用して、人類はその殻から人体の代替となる器・殻体シェルを生み出した。人類は、殻体シェルによってこの星の環境に適応し、また外的損傷にも強い身体を手に入れた。かつて短命だった人類は寿命を飛躍的に延ばすことに成功したのである。
 長い年月が経って、人類は滅び、この星は殻体シェルをもった生き物だけが暮らしている。殻体シェルの身体は、痛覚がなかったり、温度を感じ取れなかったり、人類とはかなり違うところがあるが、殻体シェルは人類の姿を模して造られている。我々は、人類の功績をたたえると共に、彼らの存在を後世に残すために、人類の生活を真似て暮らし、人類のもたらした文化や歴史を学ぶ。
 殻体シェルの子どもたちは〈学園〉とよばれる島で毎年十六人ずつ生み出される。〈学園〉は殻体シェルの身体を与えられて生まれてきた十六人の子どもたちと五人の教師たちで構成される。子どもたちは、二十年の月日をかけて、ここで殻体シェルの身体の扱い方や、他者とのふれあい方、必要な知識を学び――」
「わー! もうやめてやめて」
ミチルがわたしの声を遮る。勉強嫌いのミチルは顔をしかめてわたしの手から『やさしい・殻体シェルの身体と修繕』をもぎ取って、ヒナミ先生に突き返すと、「もう行こう」とわたしの腕を引っ張った。
 
 「ね、イチカちゃんなに忘れちゃった?」
修繕室を出るとすぐにミチルが腕に絡みついてきて尋ねた。わたしはわかんない、と言いながら記憶を手繰る。殻体シェルの身体は修繕によってどんな損傷もなおせるけれど、万能ではない。損傷とともに記憶も欠落してしまう。けれど失われるのは、損傷がなくともいつか勝手にこぼれ落ちてしまうような他愛もない記憶。現にわたしも、何を忘れたかなんてちっとも思い出せない。
 わたしたちは校舎を出ると、すぐ近くの海岸に向かって歩いた。ミチルが時折立ち止まって、小さな青い花を摘んだ。
「あたしたちの秘密、覚えてる? 青い花の蜜が一番おいしい、とか」
並んで歩きながら、ミチルは摘んだばかりの花を唇に押し当てる。
「覚えてるよ」
「あと、いちばん得意なことも」
「泳ぐこと?」
「イチカちゃん大好き」
「だから、ちゃんはやめてって。しかも全部ミチルのことじゃん」
「だってイチカちゃんにはあたしのこと全部覚えててほしいんだもん」
ちらりと横目でミチルを見る。俯くミチルの白い頬には睫毛の影が落ちていた。わたしはミチルの手のひらをくすぐって、そっと握った。
 なまぬるい風の匂い、白い水しぶき、黒くてごつごつとした岩肌。海岸の風景はいつも変わらない。波音に混じって、校舎からピアノの音が聞こえてきた。この時間は音楽の授業だった。ミチルは、切れ切れに流れてくるメロディーに耳をすますと、
「イチカちゃんの好きな曲だね」
と言って笑った。わたしは踊ろう、とミチルの手を取って駆けだす。ミチルの手を離さないようにぎゅっと握った。わざと濡れてつるつるひかる岩の上で大きく回って、波しぶきを全身に浴びた。激しく身体を動かして、大きな声で笑った。わたしがこの曲をすっかり忘れてしまっていることをミチルに勘づかれないように。
 
2.
 波が穏やかな日は、暗くなるまで先生もわたしたちも海岸で過ごす。定期的な海水浴は殻体シェルにとって貴重なエネルギー補給の時間だ。今日はめずらしく雲が薄く、朝から明るい。風で小さく揺れる白い海面がゆらゆらと淡い太陽に照らされて、真珠のようにひかる。みんな水着になって殻体シェルを海や風に晒していた。水着の色は真っ黒で、首から下をぴったり覆う。表面はつるつるしていて柔らかいけれど、うそみたいに重い。浅瀬で波の感触を楽しんだり、ただ海面にたゆたってみたり、みなそれぞれの方法で海に触れている。わたしは波打ち際で日光浴をしたあと、ミチルと一緒に秘密の場所へ向かった。海岸に沿って、岬のある方へ泳いでいくと、途中に岩壁を匙で掬い取ったみたいな窪みがある。そこには平たい岩が突き出ていて、腰掛けたり、寝そべったりできる。ちょっとした洞窟みたいで、わたしたちはそこを勝手に秘密基地にしていた。大きくて平たい岩にふたりで腰掛ける。あたりは濃い海の匂いで満ちていた。ここは、岩のすぐ下が深くなっていて潜りやすい。水着で覆われた足先を波がそっと遠慮がちになでてゆく。素足の時よりくすぐったい。わたしたちはそのまま、するりと海面に吸いこまれるように身体を沈めた。海の中は光が届きにくくて、昼間でも薄暗い。ミチルは見惚れるほどきれいに泳いだ。海底に近づくほど、銀色にひかる触手をもった半透明のゼリー状の生物や、ぬらぬらひかる長い体をくねらせる生物などとすれ違う。どの生き物も動きがすばやくて、あっと思ったときにはもう薄闇のベールの中に吸いこまれていってしまう。ときどき、それがたまらなく寂しい。わたしは少し不安な気持ちになって、ミチルの背中を追いかけた。
 海底には、わたしたちの身長をゆうに超える大きな貝たちがひっそりと横たわっている。そのうちのひとつにミチルと並んでうつ伏せに寝そべった。貝の殻は静かで、小さく波打つような溝がいくつも刻まれている。貝のもつ静謐で澄んだ感触はいつも心を落ち着かせてくれた。わたしたちはしばらく貝の上で手を繫いで、ときおり仄明るくなる海面をぼんやり眺めていた。
 おかにあがると、やわらかな風が頬をなでた。わたしたちは海岸から離れて、岬に向かった。岬にはふかふかとした短い草が生えている。風が吹くとさざ波のように揺れる。それは寝そべるとビロードのように心地よい。わたしとミチルは水着を脱いで仰向けに寝転んだ。濡れた殻体シェルを風がやさしくなでてゆく。耳元でさらさらと草が涼やかに鳴った。
「あたしたち今日寝てばっかり」
ミチルが目を閉じながらぽつりとつぶやいた。
「うん」
「そんな日もあるよね」
「うん」
「ちゃんと聞いてないでしょ」
ミチルはそういって笑いながら、わたしのほうに寝返りをうった。
「聞いてなくても、覚えててくれたらそれでいいよ」
ミチルは時々、びっくりするほど寂しそうな声でそんなことを言う。おなかの奥がきゅっと締めつけられるような声。わたしはミチルの背中を抱き寄せて、「さざ波」をそっと指先でなぞった。さざ波は、昔、ミチルが背中を損傷したときにできたものだった。先生たちに修繕室のベッドに押さえつけられたのが嫌で逃げ出して、その時の修繕が不十分だったことで生まれた細かな溝。わたしたちはふたりともさざ波に愛着をもっていた。指先でさざ波をなぞりながら、覚えてるよと言うと、ミチルは満足げに笑って目を閉じた。
 目を覚ますと、空がほのかに藍色を帯びていた。空気が徐々に薄瑠璃色に染められてゆく。肩を叩くと、ミチルは小さく身じろぎをして目を開けた。ミチルは身体を起こすと、
「帰ろっか」
と伸びをしながら言った。
 わたしたちは、水着を抱えて歩き出した。まだ少し湿ったままの水着を着るのは億劫だった。ミチルがふらふらと崖のほうへ向かっていく。危ないよと声をかけると、片手に握った青い花をひらひらと振りながら、大丈夫と笑った。ふと、強い風がわたしたちの間に吹き抜けた。ほんの数メートル先でミチルの錫色の髪が大きくうねった。風に色がついたみたいに見えた。あっと叫ぶよりも早く、ミチルの身体は崖の下に吸いこまれてゆく。慌てて崖を覗き込んだけれど、暗くてミチルの姿はよく見えなかった。ただ、この前のわたしよりもはるかに高いところから落ちたということだけはわかった。
 わたしは無我夢中で走った。あちこちを岩壁にぶつけて殻体シェルは傷だらけになったけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。焦りと不安と何かよくわからないものが身体中にどろどろと溢れだし、思考を塗りつぶしてゆく。わたしは祈るように何度もミチルの名前を呼んだ。
 ミチルのもとにたどり着いたとき、頭と右腕以外の大半が波にさらわれてしまったあとだった。頭はちょうど、波よりも高い岩の上に転がっていて、両目は静かに閉じられている。右腕は岩と岩の間に挟まっていた。風が吹くたびにミチルの粉塵が巻き上げられてあたりがきらきら輝いた。こんなにバラバラに砕けた殻体シェルを見るのは初めてだった。元通りになおるのだろうか。不安な気持ちでいっぱいになる。
 岩の間に挟まったミチルの右腕を引き抜こうとするけれど、思いのほか深く挟まっていてなかなかとれない。うんと力をこめたら小指が折れてしまった。折れた小指の断面は鋭くとがっていて、ちらりと真珠のようにやわらかな虹色が見えた。小指はわたしの水着に包んで、頭だけを抱えて修繕室に向かう。もうあたりはすっかり真っ暗で、波の音がやけに遠く聞こえた。
 ヒナミ先生はわたしからミチルの頭を受け取ると、「大丈夫よ」と言って、わたしを抱きしめてくれた。それだけで、不安と恐怖でちぎれそうだった胸に仄かに明かりが灯った。その夜、わたしはミチルの小指を抱きしめて眠った。
 
 ミチルは三日後の夜に帰ってきた。粉々になったはずの殻体シェルは傷ひとつなく、どこもかしこもなめらかだった。けれど、胸の奥がざわざわする。わたしはちりちりと燻ぶる疑念に抗うように、おそるおそるミチルを抱きしめた。なぜか、海の底みたいに静かで濃い匂いがする。いつも触れ合っていたはずの肌がどこかよそよそしくて、力をこめるほど、お互いの境界線を強く意識させられた。合わないパズルのピースを無理やり押し込めるような違和感があった。何かが決定的に違う。それでも、わたしは祈るような気持ちで、背中のさざ波を確かめようとした。しかし、わたしの指先はどこまでもなめらかな稜線をなぞるだけだった。ミチルの背中からさざ波が消えていた。わたしは咄嗟に目を閉じる。もうこれ以上なにも感じたくなかった。すると、ミチルはわたしの背中に回した腕に力をこめて、
「ごめんね、イチカ」
と耳元で言った。疑念は確信に変わり、わたしは咄嗟に相手の胸を強く押した。
「ちがう」
ひび割れみたいな声が出た。指先からすうっと感覚が遠ざかってゆく。
「ミチルじゃない」
ミチルと同じ錫色の瞳が不安げに揺れていた。
 
 毛布の中で、ふと、かつてミチルと一緒に、群れからはぐれて浅瀬に迷い込んできた魚の世話をしていたことを思い出した。全身をびっしりと硬い鱗に覆われた銀色の魚で、ミチルの髪の色に似ているから、わたしが「ミーコ」と名付けた。毎日会いに行ってたけれど、ミーコはある日突然、姿を消した。ミチルが探しに行くと言って聞かなかったけれど、結局どうしたんだっけ? 硬くてつるつるしたミーコの感触とミチルのさざ波の消えた背中の感触が重なる。もしかして、あれはミーコ? そう考えると少しだけ胸が軽くなった。あれはミーコだから、本当のミチルはいつかちゃんと帰ってくる。幼稚な妄想でもなんでもいい。この胸が圧し潰されそうな孤独から逃れられるのであればなんでも。
 
 まぶたの裏でミチルが床に、崖に、海に、次々と落ちてはバラバラ砕けてゆく。わたしは指一本動かせず、ただそれを見ていることしかできない。眩しくひかる錫色の髪の残像がゆらゆら揺れている。ミチルごめん、わたしは何度も叫ぶ。
「イチカ」
名前を呼ばれて、目を開ける。目の前にミチルの顔があった。ミチルが早起きなんて珍しい。
「青い花、あつめるの?」
「花?」
聞き返されて、はっと飛び起きる。そうだ、これはミチルじゃない。ミーコだ。自分に必死にミーコだと言い聞かせようとするが、なんの効果もなかった。やっぱり、青い花のことを、ふたりだけの秘密のことを忘れているミチルを見るのは悲しかった。〈朝〉の鐘が鳴った。窓から差し込むぼんやりしたひかりがミーコのなめらかな頬を白く縁取っている。かつてのミチルはこんな早起きしたことなかった。いつも毛布の中で丸くなっていつまでも微睡んでいるのが好きだったはずだ。わたしは起き上がって、ミーコのガラス玉のような瞳を覗き込んだ。もしかして、悪ふざけをしているのだろうか?
「もういちど呼んで」
わたしが掠れた声で頼むと、怪訝な顔をして「イチカ?」と不安そうにこたえた。淡い期待を抱いたことを後悔する。毛布の上にまだらに落ちたひかりが小さくふるえた。
 
 わたしたちが教室のドアを開けると、みんなが駆け寄ってきてミーコを囲んだ。みんなミーコの頬や身体に触れながら、口々によかったねと言って笑っている。ミーコもにこにこ笑っている。みんな気づいてないのだろうか。それとも、わたしだけがおかしいのだろうか。どうして平気でミチルと呼ぶのだろう。隣で繰り広げられている光景がひどく遠い世界のことのように見えた。よっぽどひどい顔をしていたのか、面倒見のよいユヅキがわたしに「大丈夫?」と声をかけてくれた。わたしは「大丈夫」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 
 「次の美術、一緒にやろ?」
と言って、ミーコは不安げな顔で錫色の髪に何度も触れた。ふいにミチルの姿が重なる。ミチルもわたしと喧嘩したあとは、何度も自分の髪を触った。わたしは、うんと答えながら、ミーコの奥にあるミチルの残像を見つめていた。
 薄曇りの空から零れてくるひかりがミーコの頬を白く縁取る。ミーコは椅子に深く腰かけて、わたしをまっすぐに見つめている。わたしはミーコの瞳に宿るやわらかなひかりや頬に落ちる睫毛の影、ふわふわと波打つ錫色の髪の一本一本まで紙に正確に描き写してゆく。木炭を紙の上にすべらせるかすかな音がふたりの間に揺蕩っていた。紙の上に写し取る姿はたしかにミチル以外の何者でもない。けれど、もうわたしのことを「イチカちゃん」と呼ぶミチルはもうどこにもいない。この世界でわたしだけがひとりぼっちになってしまった気がした。
 目の前でミーコが少し困ったみたいな顔で笑う。またミチルの姿と重なる。ミーコはほんの少し忘れているだけだ。受け入れてしまう方が楽なのかもしれない、と心がぐらりと傾く。
 ミーコに「ごめん」と言って、わたしは教室を飛び出した。修繕室のドアを開けると、ヒナミ先生はいつも通り穏やかに笑って出迎えてくれた。
「どうしたの?」
ヒナミ先生の視線がすばやくわたしの殻体シェルをなぞった。
「あ、その、損傷じゃなくて、ミチルのことで……」
口に出してみると、胸の奥から、やっぱり勘違いなのかもしれないという気持ちがどろりと溢れ出た。ローファーの甲にわたしの曖昧な影がぼんやりと映っている。ヒナミ先生は、俯いて押し黙るわたしの肩をいたわるように抱いて、サンルームに通してくれた。
 サンルームは二人掛けのソファがふたつ、向かい合うように置かれていて、その間に小さなテーブルがあった。明るいベージュのソファはおそろしく柔らかくて、わたしの身体を飲み込むみたいに包んだ。ヒナミ先生は、わたしと向き合って座ると、海を眺めながらわたしの言葉を待っていた。ヒナミ先生の瞳に水面のひかりが宿る。永遠みたいな時間が流れて、ようやくわたしは口を開いた。
「修繕で別人になることってある?」
ひどく掠れた声。ヒナミ先生は、たっぷり間を置いてからわたしの瞳を見つめた。
「いいえ。少し忘れてしまうだけよよ」
「大事な記憶がなくなっても、殻体シェルの感触が違っても、それでも?」
ヒナミ先生は、何も言わなかった。ただ、おいで、とわたしを隣に座らせた。ヒナミ先生はわたしの身体を抱きしめて、「ごめんね」と言った。わたしはヒナミ先生の腕の中で大きく頭を振った。ヒナミ先生のせいじゃないことはわかっていた。先生の肩越しに銀色の水平線がひかっている。
「はじめてだもんね」
ヒナミ先生の声音は相変わらず優しかったけれど、どこか不穏な響きがあった。胸騒ぎがする。わたしたちはまた、いや、これから何度もこういう経験をするのだろうか。いつかわたしも大切なことを忘れてしまうのだろうか。わたしはただ黙って水平線を見つめ続けた。
「またいつでもおいで」
ヒナミ先生の指がわたしの髪をそっとなでた。
 
 わたしは教室には戻らず、通りがかったユヅキに早退すると伝えて寮に帰った。ミチルみたいに頭から毛布をすっぽり被って目を閉じる。ミチルは一体どこに行ってしまったんだろう。もしかして、わたしも今までにたくさん忘れてきたのだろうか。今まで修繕してきた箇所に触れる。壊れる度に忘れて、わたしの身体は、わたしの記憶は本当にぜんぶわたしなのだろうか。まとまらない思考はどろどろとぬかるみのようで気持ちが悪い。ぽつんとひとり何もない闇の中に放り出されたような気がした。
 ドアが開く音がして、誰かが丸まったわたしの隣に腰かけた。わたしが毛布から顔を出すと案の定、ミーコがいた。
「大丈夫?」
ミーコが伸ばした手を振り払う。
「やめて」
「ねえ、変だよ。なんで冷たくするの?」
ミーコはひどく傷ついた顔をしていた。初めて見る顔だった。
「あたしがなんか悪いことしたなら謝るから。だから、前みたく仲よくしよ?」
掠れて今にも消えてしまいそうな声だった。窓から差し込む光がミーコの錫色の瞳や髪を照らしてきらきらひかる。あんたが勝手に全部わすれたくせに。どうしようもないとわかっていても、まるでわたしが丸ごと捨てられたみたいに胸が痛んだ。けれど、わたしのせいで不安そうなミーコを見ると罪悪感がじわりと広がる。
「ごめん」
絞り出すように拒絶の言葉を放って毛布の中に逃げた。ミーコの顔は見られなかった。気づいたらミーコの姿はいつの間にかなくなっていて、からっぽの陽だまりだけがぽつんと取り残されていた。
 それから、わたしは一方的にミーコを避けるようになった。教室でも寮でも口をきかず、別々に行動した。ミチルと違うところも、同じところも見つけたくなかった。次第にミーコも、わたしに必要以上に近づかなくなった。
 
 しばらくたって、突然、放課後にユヅキに呼び出された。
「なんでミチルのこと避けるの?」
ユヅキはわたしをまっすぐ見つめた。
「別に」
ユヅキの視線を避けるように俯いた。日暮れを告げるひかりがわたしたちの白い殻体シェルを薄瑠璃色に染めてゆく。
「ミチルが不安になってるのわかんないの?」
そんなことユヅキに言われなくてもわかってる。わかってるけれど、どうしようもない。黙ったままのわたしを見て、ユヅキは大げさにため息をついた。
「ミチル、毎晩あたしたちの部屋に来るよ。あんたがミチルって呼んでくれないから不安だって。何を忘れちゃったのか思い出せないって。夜中にひとりでいると、自分が消えちゃいそうだって震えてた。ヒナミ先生のところにも毎日通ってるよ。あんたの前では普通にしなきゃって我慢して、無理してんだよ。かわいそうだと思わないの? ひどいことしてるって自覚ないの?」
ミーコがユヅキたちの部屋に行っているのは知っていたけれど、そんな風に悩みを打ち明けてるとは知らなかった。急にミーコが遠く思えた。たしかにユヅキの憤りは正しくて、わたしがミーコに対してひどいことをしているのはわかってる。けれど、ミチルを忘れるのも嫌だ。爪先をじっと見つめる。
「あんたさ、ミチルのこと傷つけんのやめなよ」
ユヅキはそう言い捨てて、さっさと教室を出て行った。わたしはどんどん暗くなる教室で、ぼんやり波の音を聞いていた。
 
 ミーコと距離を置くようになってから月日がたち、海水浴の日がきた。ミーコがユヅキと一緒にいるのを横目に見ながら、わたしは早々に秘密基地へ向かった。ひとりで岩に腰掛ける。波がわたしの足先をそってなでてゆく。海は吸いこまれそうになるほど広く、いちばん遠いところで水平線がぼんやりと銀色にひかる。白い海は、空からおちる淡い光を受けて時折ゆらゆらと真珠のように輝いている。わたしはぼんやりミチルの内側を思い出した。わたしは、とぷりと小さな音を立てて海の底へ沈んでいった。
 薄暗い海底はひとりだと余計に広く物悲しいところに思えた。ミチルのさざ波に似ている貝の溝を撫でながら、そっと目を閉じた。水が不自然にわたしの上をゆらめく。目を開けると、目の前にミーコがいた。ミチルと同じ長い錫色の髪をたなびかせながら、まっすぐにわたしのところまで泳いできた。ミーコはわたしの手を取るなり、すばやく自分の水着を脱ぎ捨てた。わたしたちの身体がふわりと浮く。ミーコはそのままわたしの水着も脱がせた。わたしたちは、いつか映像で見た蝶の羽化のように水着を脱ぎ捨てて、白い殻体シェルのまま海中を漂った。わたしたちは両手を繫いで、ぐんぐん浮上してゆく。殻体シェルは、海の中で仄かに白くひかって、生まれては消える泡に似ていた。ミーコは小さく笑った。わたしも笑いながら、ミチルのそれとは少し違うミーコの手のひらを感じる。ふと、この瞬間を忘れたくないと強く思った。
 ふたりで岬に寝そべって、濡れた殻体シェルを乾かす。
「なんであそこにいるってわかったの?」
ミーコの横顔を盗み見る。雲の隙間から明るい陽が差して、ミーコの頬を照らした。
「わかるよ。イチカの好きな場所くらい。覚えてるもの。イチカの好きな場所は、静かなところ、波が穏やかなところ、暗くてひかりがきれいなところ。だから、海の底かなって」
ミーコはわたしを見つめて、わたしの頬におそるおそる触れた。やさしい指先はミチルにそっくりで、心が揺れる。
「でも、イチカだけがあたしをひとりぼっちにする」
ミーコは顔を苦しげに歪めて、今にもぼろぼろと崩れていきそうだった。
「イチカがあたしをミチルって呼んでくれなきゃ、あたしはミチルになれない。イチカがミチルって言ってくれなきゃ、ミチルだと認めてくれなかったら、あたしはあたしを信じられない」
わたしは思わずミーコを抱きしめた。一番心細かったのはミーコのはずなのに、わたしもミーコをひとりぼっちにしたんだ。ミチルはこんな顔をしたことなかった。わたしの中のミチルの残像が薄らいでゆく。手のひらでミーコのなめらかな背中をなでた。
 
 〈昼〉の鐘が鳴ったので、わたしたちは一度海岸に戻ることにした。途中、青い花の群生を見つけた。けれど、ミーコは見向きもせずに通り過ぎた。わたしは青い花を気にも留めないミーコを見てもそれほど驚かなかった自分に気づき、寂しい気持ちになった。わたしは自然にミーコのことを受け入れようとしている。けれど、青い花の蜜が好きで、わたしのことをイチカちゃんと呼んで、さざ波の背中をもつミチルのことも忘れたくなかった。それがわたしのエゴでしかないとしても。
 
 海岸ではユヅキたちが寝そべって日光浴をしていた。ユヅキはわたしたちに気づくと、心配そうな目をした。わたしはミーコと手をつないでにっこり笑った。
 そのままミーコと波打ち際を歩いた。わたしたちの足を波が静かに濡らしてゆく。
「いままでごめん」
ミーコが驚いた顔でわたしを見つめた。ミーコはゆっくり首を振った。
「でも、わたし、前のミチルのことも忘れたくないんだ。」
わたしは俯いて言った。ミーコは黙って波を見つめている。
「自分勝手でほんとごめん」
ミーコが立ち止まってわたしを抱きしめた。
「いいよ。あたしのことちゃんと覚えててくれてありがとう」
ミーコの腕の中は前よりずっと心地よかった。わたしはうれしくて、ミーコに頬を寄せた。
 
 わたしたちはサンルームのソファに並んで座った。窓から見える海は、ミーコの髪と同じ色で淡くひかっている。わたしはヒナミ先生に、どうしたらミチルを忘れずにいられるか訊いた。ヒナミ先生は、しばらく考え込んで、
「弔いかな」
とひとりごとみたいにつぶやいた。
「弔い?」
わたしは初めて聞く言葉に戸惑いを隠せない。ヒナミ先生は、わたしも詳しくは知らないんだけど、言いながら教えてくれた。
「かつてこの星にいた人間たちの身体が脆かったのは知ってるでしょ? 人間の身体はわたしたちのように修復できないから、ちぎれたり裂けたりしたら、死んでしまうの。死んでしまうと、その人の存在は世界から永遠に喪われてしまう。だからその人の身体や残した道具や装飾品なんかを使って、喪失を受け入れる儀式をするの。それが弔い。やり方はいろいろあるのだけれど、かつてこの星にいた人間は、死んでしまった人の身体を燃やしていたそうよ」
わたしは一生懸命想像する。死。身体を燃やすこと。弔い。波の音が静かにわたしたちを包んでいた。
「弔いは喪失を忘れないためにあるのかも」
ヒナミ先生はわたしたちの頬にそっと触れた。
「わたしたちは喪うのが怖くて、見ないふりをしてきたけれど、あなたたちは違うのね」
そう言って水平線の向こうを見つめるヒナミ先生の横顔は、知らない人みたいに見えた。ヒナミ先生は、帰り際に「今日の真夜中、海岸にいらっしゃい。絶対に誰にも見つからないようにね」と言ってわたしたちを送り出した。
 
 その日の夕暮れに、ヒナミ先生が岬から落ちた。
 
3.
 真夜中、ミーコと一緒に海岸へ向かう。夜の海は、たっぷりと湿り気を帯びた風と低く轟く波の音で満たされていて、なにか大きな獣の腹の中にいるみたいだった。ミーコがわたしの手をぎゅっと握った。手からミーコの不安が伝わってくるようで、強く握りしめて歩く。波の音を頼りに湿った岩肌を慎重に進んでゆくと、前方に煌々と輝く大きな焚火が見えた。わたしたちはそばにあった大きな岩の影に隠れて様子をうかがう。焚火の前には、先生と思われる姿が三つあった。けれど、三人とも顔には大きなゴーグルをつけていて、誰だかわからない。先生たちはなにやら大きな石のようなものを取り囲んでいる。ふと強い風が吹いて、一瞬、石のようなものが明るく照らし出された。それは、海底にたくさん横たわっていた貝だった。一人の先生が、殻と殻の合わせ目に、大きなナイフのようなものを差し込んだ。銀色のそれは炎を身に映してゆらゆらと燃えているようにひかった。ごりごりと、石と石をこすり合わせるみたいな音が海岸に響き渡る。わたしたちはどちらからともなく、お互いの強く手を握り直した。先生が動きを止めて、ナイフのようなものを引き抜く。あとの二人が一緒に貝の殻を押し開いた。殻の中には、ぶよぶよした半透明のゼリー状のものがあった。一人が、それをナイフで真ん中から引き裂く。ゼリーは、ナイフを刺されて一瞬、ぶるりとふるえた。三人はゼリーの中身をまさぐった。手でかき回されるたびに、ちぎれてぼとぼと地面に落ちてゆく。炎は風に揺られて気まぐれに落ちたゼリーの欠片を照らした。すると、唐突、ゼリーの中から、人の形をしたものが出てきた。それは、三人と同じくらいの大きさで、表面が淡い虹色にかがやいていた。どくんと胸が鳴る。殻体シェルの内側と同じ色だ。波の音がやけに大きく聞こえる。一人が傍らにあった袋の中身を地面に出した。艶のある長い黒髪が零れ、ヒナミ先生の頭がごろりと転がった。そのままヒナミ先生の頭を割って灰色の塊を取り出すと、貝のゼリーに包み、三人は残りを棒で粉々に砕き始めた。頭や腕、脚、バラバラになった殻体シェルをさらに細かくしてゆく。バキバキと不快な音がやがてしゃりしゃりと涼やかな音に変わってゆくまで、わたしたちは息を殺してじっと見つめていた。三人は、今度は淡い虹色に輝く頭を割って、ヒナミ先生の頭から取り出した灰色の塊を入れた。真珠色の頭はみるみるうちに塞がってゆく。そして、白くひかる粉になったヒナミ先生をそれに丁寧にまぶした。三人は流れるような手つきで、あっという間にヒナミ先生そっくりの殻体シェルを作り上げた。さいごに海水を振りかけると、殻体シェルは目を覚まし、ヒナミ先生と同じ顔で微笑んだ。三人は焚火を消すと、ヒナミ先生の殻体シェルを連れて足早に去っていった。
 わたしたちは、四人の背中が完全に見えなくなってもその場から動けずに、浅い呼吸を繰り返した。闇の中で、ひとつの生き物のようにぴったりと寄り添ったまま。わたしたちは、目を覚ました殻体シェルが自分たちの知っているヒナミ先生とは違うと感じていた。そして、ヒナミ先生がこれをわたしたちに見せてくれた理由も。わたしたちは勇気を出して、三人が作業をしていた場所まで歩き出した。そこには、ヒナミ先生のものと思われる、きらきらとした欠片がわずかに残っていた。わたしはそれをかき集めて手のひらで握った。
 焚火の残りを使って、小さな火を起こす。わたしは火の中にミチルの小指とヒナミ先生の欠片を投げ入れた。炎が一瞬、大きく唸ってヒナミ先生の欠片を少し巻き上げた。
「あたしの指も一緒に入れていい?」
ミーコが炎を見つめながらぽつりとつぶやいた。
「いいよ」
そう言って、わたしも自分の小指も折った。ぽきりと乾いた音が闇の中に吸いこまれていった。折れた小指の断面は鋭く、月明かりに照らされて内側が真珠のようにやわらかな虹色に輝いているのが見えた。わたしたちは一緒に小指を火の中に投げ入れた。指たちは、表面がみるみるうちに溶けてあっという間に消えていった。虹色に輝く内側の殻だけが炎に包まれたままずっとゆらゆらとひかっている。
「ミチル、わたしもいつか弔ってね」
わたしはミチルの手を強く握った。
「うん」
ミチルがわたしの手を同じ力で握り返す。わたしたちは燃える小指の感触を確かに感じていた。
 

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