梗 概
月うさぎは眠らない
月に旅行に来ていたフリーターの芹は、地球行きシャトルの搭乗券を買いに行く途中、リュックを盗まれ旅費を失くしてしまう。途方に暮れる芹の状況を知った通りがかりの男、ジンは近くの自分の店で働けばいいと提案。芹は住み込みバイトで旅費を稼ぐことにする。
その店とは、月うさぎの繁殖と販売をする「月うさぎ専門店」だった。月うさぎは仲間と協力して餅をつく性質があるため、地球うさぎに比べて前足が発達しており、餅に似た弾力のある、人間のお腹やふくらはぎを揉むのが好きだと言われている。
芹は世話をするうち月うさぎに心奪われていくが、ジンは彼らに愛着がない様子で扱いも雑だった。単純で素直な芹はこれまでの数多のバイト経験から接客も上手くこなすが、月うさぎに冷たいジンに対し次第に不審感を募らせていく。
ある日、芹は彩雲という珍しい種類の月うさぎの幼体が突然霧散してしまう瞬間を目にする。ジンに問いただすと、ジンは地球の古典である「メンデルの遺伝の法則」を示しながら、彩雲同士の組み合わせは効率よく人気の彩雲が発生するが、遺伝子異常を起こして消える個体が出る、と悪びれず答える。そして、販売済の彩雲月うさぎも異常が発現したら消えるかもしれない、という。芹はそれらの悪質な行為を咎めるが、ジンは「免責にサイン書かせてるし、売っちゃえばうちは関係ないから」と気にする様子もない。
呆れた芹はバイトを辞めようと考えるが、お金もなく月うさぎ達も気がかりで、悩みながら働き続ける。
しかし、1ヶ月経って手渡された給料が約束とはかけ離れた金額だったこと(色んな名目でお金が引かれていた)、ジンの付けている腕時計が、盗まれた自分のリュックに入っていたものだ、と気づいたことから、逃げることを決意する。
そして計画を実行に移す夜がやってきた。泥酔して床で寝ているジンの顔周りに、芹は慎重に月うさぎ達を並べていく。儀式のように恭しく、それぞれ毛色の違う月うさぎの前足をジンの顔の上にちょこんと置いて回った。
餅つきの始まりだ!
ふくよかなジンの顔を、月うさぎ達は前足でリズミカルにつきはじめた。
「えい」「やあ」「えい」「やあ」
芹にはそんな明るい掛け声すら聞こえてくるような気がした。
餅に近い弾力のものが足元にあると、つかずにはいられない。これが月うさぎの本能なのだ。
芹は月うさぎに埋もれるジンの腕から時計を取って自分の手首に付け直した。
そして、野生に戻せない彩雲月うさぎをキャリーに入れると、店内全てのケージと扉、窓を開け放ってまわり、各々跳ねて好きな方へ飛んでいく月うさぎを見送った。最後に、ジンがクローゼットに隠していた色とりどりの盗品の鞄や財布の中から自分のリュックを拾い上げ、床に倒れた男を跨いで店を出る。
彩雲月うさぎのキャリーを右手に、自分のリュックを背中に、芹は晴れやかな気持ちで地球行きのシャトル乗り場に向かうのだった。
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内容に関するアピール
2018年の第5回「来たるべき読者のための「初めてのSF」」を選択しました。
「普段積極的に本は読まないけれど、うさぎは好き」という人向けに、肩肘張らずに読めるうさぎSFを目指しました。うさぎ愛好家に安心してもらえるよう、うさぎにひどいことをする人間は作中で成敗します。
芹もジンも、基本的に自分中心のその場しのぎで生きてきた人間です。二人の差は(良い悪いは関係なく)うさぎに対して愛着や愛情を感じられるか、という点ぐらいかもしれません。人間のどうしようもなさは月うさぎの可愛さと、動きのコミカルさで中和したいです。
ちなみにうさぎの足の裏は毛に覆われているため、踏まれたり蹴られたりしてもフッカフカです。柔らかい毛が肌に触れるあの一瞬に病みつきになると、うさぎに日々りんごやいちごの欠片を献上して「踏んで!」と切実に頼み込むことになりますので、どうか気を付けてください。
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