羽根木ナイトクルージング
「陛下……陛下、見たままを申し上げるべきですが、あー、どう申し上げたらよいか……どう申し、どう……」
セリフを覚えるときは、深夜の公園を徘徊する。ルーティンというほどではないが、住んでいるマンションに公園が隣接しており、何となくそうなった。
公園の北側には軟式野球場があり、南側にはテニスコートや、その他球戯のための広場がある。それらを真砂土でできた幅五メートルほどの道がグルッと囲んでおり、周辺の住宅地との境には樹木が並んでいる。私の歩行速度だと、一周するのにかかる時間は約十分だ。
「バーナムの森を見ましたら……森が、動き出したように、見え……思えたのです」
日中はボルゾイを散歩させる人やジョギングする人、各施設でスポーツに精を出す人々やプレーパークで遊ぶ子供たちなどで賑わうが、丑の刻も過ぎると誰もおらず、一人でブツブツ呟きながら徘徊しても怪しまれることはない。たまにこんな時間でもランニングしているおじいさんがいるが、それはおじいさんなので別にいいだろう。
「違っていましたら、お怒りは受けます……ご覧くださいあ、猫」
猫が目の前を横切った。キジトラっぽい。私はいつもこの公園の道を逆時計回りに歩くが、今は三周目で、南側にある公衆トイレの前まで来たところだ。猫は向かって左手側の球戯広場の方から、右手側にある雑木林の方へ消えていった。
セリフの暗唱を中断しスマホを構え、にゃあ~んと声を発しながら雑木林へ近づくが、猫の姿を捉えることはできなかった。スマホをジーンズの尻ポケットに戻し、正規ルートへ帰還する。
「お怒りは受けます……ハァ……ご覧ください……」
以前、この雑木林は野良猫たちのちょっとした宿営地だったことを思い出す。この公園で見かけた猫はみなこの雑木林へ吸い込まれていった。雑木林のエリアは傾斜しており、中には遊歩道が数本整備されている。猫を追って下っていくと決まって餌やりをしている中年の女性とかち合い、気まずくなって引き返したものだ。
そういえば、あんなにいた野良猫たちもあの女性も、最近は見ていない。避難のあと、戻って来れなくなったのかもしれない。
「ご覧ください……森が迫ってきています……本当です、動く、ヤ、ヤギ」
ヤギが目の前を横切った。ヤギだ。
ヤギ。
ヒツジだっけ、と思ったが、これは「アルプスの少女ハイジ」でペーターが飼っているあの、名前は忘れたがあれだから多分ヤギだろう。あれ、ペーターって羊飼いだっけ? あれ? でもヒツジってモコモコしているイメージだし、あっ、手紙を読まずに食べたのってヤギだから、目の前のこれはそのイメージと合致しているので、ヤギのはずだ。ヤギで間違いない。ヤギだ。
現在地は、公園全体を真上からみた場合、四時の方向に位置する売店の辺りだ。右手側にはコンクリートの壁に仕切られた迷路があり、ヤギはそこから歩いてきて私の前をゆっくり横切ると、こちらに一瞥をくれることもなく、左手側の球戯広場の入口の柵を器用に潜り抜け、その先へ進んで行った。
ヤギのお尻姿を見送った後、とりあえず売店の自販機で缶コーヒーを買い、真向かいの道端に並べられたベンチの一つに腰を落ち着けた。
プルタブを起こし、一口すすり、一息ついてひとりごちた。
「なぜヤギ」
合理的に考えれば、どこかで飼われているヤギが逃げ出したのだろう。でもヤギってそんなにペットとして飼うことある? 営利目的でヤギを飼育していると考えるのも難しいけれど。田舎ならともかく、こんな都会でヤギ牧場を経営するなんてこと、あるだろうか。
やはり、ペットだろうか。ヤギってほら、何かオーガニックな雰囲気あるし、この辺りって市民の意識が高いイメージあるから、よく考えたらヤギとか飼ってそう。
「まあ、あるか、そういうことも」
もし逃げ出したのだったら、警察に連絡した方がよかったかな、と思いつつ立ち上がり、尻に着いた砂埃を払う。
空を見上げても、星は見えなかった。天気が悪くて見えないのか、都会なんていつもこんなものなのか、改めて考えてみるとよくわからなかった。
ヤギの正体については、案外早くわかった。
セリフの暗記にも飽きたので、「尼寺へ行け、尼寺へ」を様々なバリエーションで口ずさみながら歩いていると、公園の北側の入口付近がなにやら騒がしい。こんな深夜の公園で騒がしいのは穏やかではない。不安と好奇心がないまぜになった気持ちで近づいていく。
公園の入口には、大型のバンが三台止まっていた。白衣に身を包んだ者が十数名、慌ただしく動き回っている。しばらく眺めていると、そのうちの一人と目が合った。相手は何ともバツが悪そうな笑みを投げかけてきた。私も呆れ気味に愛想笑いを送る。
キープアウトが貼られる前に、さっさと公園を出てしまおう。今度は避難命令が出ないことを願いながら、踵を返してマンションへ向かった。
公園の入口には、大型のバンが三台止まっていた。白衣に身を包んだ者が十数名、慌ただしく動き回っている。しばらく眺めていると、そのうちの一人と目が合った。相手は何ともバツが悪そうな笑みを投げかけてきた。私も呆れ気味に愛想笑いを送る。
キープアウトが貼られる前に、さっさと公園を出てしまおう。今度は避難命令が出ないことを願いながら、踵を返してマンションへ向かった。
文字数:2000
内容に関するアピール
素直に、自分が暮らしている都市を題材に書きました。
家からドア・トゥー・ドアで30秒の物語です。
以前、家の近くの公園を通過する途中、ヤギを見かけました。
その時は日中で、ヤギはピョンピョン元気に飛び跳ねていました。最初は大型犬かなと思ったのですが、本当にヤギでした。この辺りに住んでまあまあ経ちますが、ヤギは初めてでした。
もちろん野良ヤギというわけではなく、その近くにレジャーシートの上に座ってヤギを眺めている男女がいたので、飼われているのだと思います。それでもどこからどうやって連れてきたのか、いろいろ謎でした。
といったことをTwitterで呟いたら、講座生の水住さんに「それ、実験動物かもしれませんよ」と言われました。大実験動物として飼っているヤギやウシを、研究室の人で散歩させることがあるそうです。
ヤギを眺めていた男女は、あまり研究者っぽくはありませんでしたが、なくはないかなと思います。
文字数:400