梗 概
スキット・スキャット・スキャタラー
惑星ソシュールは初めて人類の移民受け入れを表明した異星人の星だ。その第一回移民船団に青年アンリは乗り込んだ。この惑星の一番の特徴は来訪者の話す言葉を原住民が「外貨」として扱うことだ。原住民は既に三次元的な生活から卒業しており、データセンタに格納された純粋な思考体として存在している。彼らは種族として長い年月を経てあらゆる事を思考し尽くしてしまい、外部刺激として他者の「おしゃべり」を必要としていた。要するに人類は騒がしい隣人として彼らに招待されたのだ。
惑星に到着すると原住民の操るロボットが人類のため居住施設の最後のメンテをしているところだった。情報が古かったのか施設は21世紀のタワーマンションの形をしている。惑星代表が歓迎の挨拶のあとに人類にこう告げた。
「マンション各戸は最上階から順に競売となります」
新天地で良い暮らしがしたいと思っていたアンリは、マンション最上階への居住を目指して競売に参加する。資金は競売会場で言葉を語ることで「両替」してもらえる。言葉と引き換えにした通貨は、今後惑星から提供されるあらゆる三次元の行政サービスに利用することができる。一方原住民たちは受け取った言葉を取り込んで自身らの「おしゃべり」の話題にする。彼らのおしゃべりは人類も情報端末を介して聞くことができ、望めば会話に加わることも可能だ。
競売のライバルは、二十四カ国語を話す元外交官、即興ラップの達人、世界の神話を収集した人類学者など様々だったが、アンリも過去に役者経験があり、演じた役の台詞を駆使して勝ち残る。しかし最上階角部屋を賭けた最後の競りを前にネタ切れを迎えてしまった。窮して繰り出したのは亡き祖母との会話の録音の数々だった。
実はアンリの祖母は少数民族出身で、民族最後の母語話者でもあった。晩年の祖母は記憶の混濁で母語しか話さなくなり、アンリは翻訳機を片手に祖母と会話を重ねていた。しかし翻訳は不完全で会話がかみ合わないこともあった。
語彙も文法もユニークな祖母の言葉には高値がつき、アンリは見事理想の物件への入居権を得た。
後日、アンリの端末に原住民の一人からコンタクトがある。レヴィと名乗ったその個体はアンリと祖母の会話に興味があると言い、もっと話を聞かせて欲しいと依頼する。アンリは言葉の「両替」を目当てに残りの会話と翻訳機のデータを渡してやり、追加報酬目当てに家族の写真を見せて過去の思い出も語って聞かせた。するとやがてレヴィは祖母そっくりに会話ができるようになる。アンリはそれに驚き初めは拒絶するが、次第に故郷のことが懐かしくなる。さらに、当時翻訳機があっても分からなかった祖母の言葉の意味も分かるようになった。それは星外に移住したアンリの励みになる言葉だった。祖母の温かい言葉は惑星ソシュールの原住民の思考の中にも取り込まれ、拡散し、時々思い出したように彼らの間でも語られるようになる。
文字数:1200
内容に関するアピール
2018年講座第二回「スキットがなきゃ意味がない」(藤井太洋先生)をテーマに選びました。
知性を持つ存在が究極に暇になったら何を欲しがるか、それは他者とのおしゃべりではないか、というところから考えました。また、私自身は趣味程度に外国語を学ぶのが好きなのですが、語彙が増えたり異なる構造の文法を理解することは思考の幅が広がって面白いなと思っています。そういうことが好きな異星人がいたらどんな感じかなというのを梗概にしました。
名前はあれこれもじったりしていますが特に深い意味はありません。
文字数:241
スキット・スキャット・スキャタラー
「もういっぺん言うてみんかい!」
共用ラウンジでコーヒーを飲んでいたアンリの足元に何かが投げ込まれたのとほとんど同時に、少し離れたところから大層な物音がした。見ると誰かが尻もちをついていて、さらにもう一人がその相手に掴みかかろうとしているのを周囲の人間が止めているところだった。足元に落ちたきたのは日本語の辞書だった。随分使い込まれていて、小口のところは黒ずんで見だしの文字が消えかかっている。今どきこんなものも珍しい。
「だからそんな骨董品みたいな辞書じゃ、《両替》してもらえないって言ったんだ」
「直接交渉してみんと分からへんやろ! 親父の形見やぞ!」
どうやら辞書の持ち主は、みんなに取り押さえられている方の男らしい。アンリと同年代の青年だ。この移民船に乗り込んで20日ほどが経過しているが、まだ面識がない相手だった。拾った辞書を片手に青年の方に近づく。
「そんなに大事なものを投げ捨ててしまったんですか」
アンリが辞書を手にしているのを見て、青年は握り固めていた拳を解いてばつの悪そうな顔をした。
ようやくケンカの相手に飛びかかろうとするのを諦めたようだ。左右を固めていた乗客もほっとした表情で彼から手を放す。
「ああ、どうも……。ついカッとなってしもて」
青年に辞書を手渡してやる。その隙に、彼にすごまれて尻餅をついていた男は足早にラウンジから出て行った。
「俺、ケイって言います。お兄さん、初対面っすよね」
「アンリです。普通に話してくれていいよ」
距離を測りかねたケイのぎこちない敬語に苦笑しながらそう答えた。
「睡眠サイクルに少し問題があって、数日おきに起床グループを移動させてもらってるんだ。それで今まで会ったことがなかったのかも」
この移民船内では空間の利用効率を上げるため、睡眠と起床のサイクルをずらしたいくつかのグループ単位で生活をしている。
「不眠症か何か?」
「ううん、少し寝付きが悪いだけ」
「運動不足ちゃうか? 走ったらよう眠れるで」
「体質的なものだから。記憶の整理がうまくできないんだ」
「記憶?」
「そう。一度記憶したことを忘れられないんだ。どんなに些細なことでも」
「忘れない? すごい能力やんそれ!」
「でも、そのせいで一日が終わって目を閉じても色々な記憶が蘇ってしまって脳が休まらない。人が自然に忘れるような記憶は、ほとんど不要なものばかりだって思い知らされるよ」
「それは難儀やなあ。まああと半分、20日くらいやし。もう少しの辛抱や」
気が短いわりには人なつっこい性格なのか、ケイはもう少しアンリと話をしたそうな顔をしている。アンリの方も初対面の相手に思いがけず個人的な体質のことを話してしまった。せっかくだから何か一緒に飲むかと聞こうとした時に、ラウンジ内の人の間を縫ってロボットが一台こちらにやってくる。四つの車輪で駆動する円筒形のシンプルな形のロボットだ。長い船旅の間で誰かにイタズラされたのか、筐体には「レヴィ」という文字が落書きのように書き付けられている。それがこのロボットの中身の名前だ。レヴィは二人の前まで来たところで停止し、ケイの方を向いて一応顔と呼んでよさそうなディスプレイ部分に怒った顔の記号をポップさせる。
「ケイ・マルヤマ、また騒ぎを起こしましたね。これで三回目です」
ロボットの顔が特に意味もなく一回転する。
「今後も同じ頻度で問題が起こる場合、あなたの共用スペースの利用に制限をかける可能性があります」
「船から降ろされへんのやったら何でも大丈夫や」
ケイは悪びれもせずに笑顔を見せる。船内で与えられている私有スペースは睡眠用のキャビンだけだ。起床後、共有スペースで過ごせないとしたらかなり窮屈な思いをすることになる。レヴィがこの船内で提示できる罰則の中では最大級に重いものだ。
レヴィはそれ以上ケイを追及しなかったが、相変わらずディスプレイの表情は怒った顔のままだ。
「いや冗談やって。もうしません。すんませんでした」
「あなたの申告を受け取りますが、あまり信用はしていません。こういう時にどのような表情が適切なのかは興味があります」
「そしたら俺が描いたろか? 絵は得意やねん。そういうのも後で《両替》の対象になる?」
「それは本星に到着してみないとわかりません。船内では事前の《両替》は行いません」
「ケチやなあ。そもそもあんたらがさっさと値をつけてくれたら、さっきみたいにケンカせんでも済んだのに」
自分から騒ぎをおこしておきながら、ケイは涼しい顔だ。
レヴィはこの船内における唯一の「異星人」であり、この移民船の管理者を任されている存在だ。今は仮住まいとして地球で作られたロボット筐体の中に収まっているが、その「中身」は彼らの目的地――惑星ソシュールの市民の一人の頭脳であり、人類に初めて接触した惑星間の大使も兼ねていた。
人類が太陽系外の知的存在と最初に邂逅したのはアンリの両親がまだ若者だった頃の話だ。人類の新しい友人の列に惑星ソシュールの市民が並んだのはごく最近のことだが、その中で一番最初に人類に母星への移住を誘いかけたのは彼らだった。彼らが乗り込んでいるのはその記念すべき第1回の移民船だ。
種族として人類よりはるかに長い年月を経た惑星ソシュールの市民はすでに物理的な身体からは卒業を果たし、純粋な思考体として存続している。彼らの本体は惑星の北極と南極、さらに3つの衛星の地下に建設されたデータ・センタにあるというのがもっぱらの噂だったが、詳しいことは誰も知らない。彼らは長年の星間探索の結果、いたく人類を気に入ったらしい。その理由は人類の「おしゃべり」にあった。思考体として長らく存在した彼らは、およそ個々人で思いつく限りの思考をし尽くし、個体間で交換しうるすべての情報を交換しきってしまい、自分たちの間ではもう何もすることがなくなってしまった。早々に思考のデータ化に成功したことを見ても分かる通り、彼らの精神構造は比較的単純で、人類でいうところの創作活動にあたる文化が一切ない点が特徴的だった。だから彼らが人類を初めて「発見」したとき、一番最初に申し出たのは科学技術の知識と交換に地球上のあらゆるコンテンツのコピーを送って欲しいということだった。それらは数十年ほどの時間をかけて楽しまれ、やがて消費のスピードが供給に追いついてしまったのと時を同じくして、人類は彼らに授けられた知識によって、星間移動が可能な宇宙船を作ることができるようになっていた。
「アンリ、体調に問題はありませんか」
レヴィは律儀に少し筒状の筐体の正面をアンリの方に向けて訊ねた。
「うん、平気だよ。配慮に感謝してる」
「それはよかった」
船内での健康管理は医療用のプログラムがやってくれているが、レヴィはそのすべてを把握しており、必要があれば管理上の意志決定を下す権利を持っていた。
「レヴィは仕事がたくさんあって大変だね。もう少し仲間を連れて来ても良かったんじゃないか」
アンリが素朴な疑問を口にしたとき、ラウンジの反対側でロボットが横切るのが見えた。あれもレヴィだ。
「思考を分割して処理しているので問題ありません。単独で遂行可能な業務量と判断されたため、私が送られました」
「けど、あんたら死にそうなほどヒマしとるんやろ、もっと大勢で観光しに来ても良かったんちゃうか」
「本星に戻れば、私の経験は他の市民に共有されます。わたしたちにとって、実体験と見聞きした体験の差はありません」
「ふうん、でもそれって、レヴィ一人だけが働いて他の人たちは休んでいるってことでしょ」
「ええ。しかし、他の市民に体験を共有することで追加の思考リソースを獲得することができます。それが私の労働の対価です」
「なんや、要するに今こうして俺らの世話を焼いとるんも、報酬目当てか」
「体験は面白くないと価値がありません。ケイ、あなたのように何度も同じ問題を起こすのは……」
「あーはいはい、俺も何回も同じ説教受けるんは嫌いやし、その気持ち分かるわ」
レヴィの言葉を遮ってケイはうんざりした表情で手をパタパタと振った。かと思ったら、急にニッと笑って得心顔になる。
「つまり、「鉄板ネタ」は良い値がつかへんっちゅうことやな。覚えとくわ」
ケイは大事にしているはずの辞書の後ろのページに何かを書き付けた。
「鉄板ネタとは何ですか」
「毎度おなじみの話のことや」
「可能性が高いことを「固い」と表現することがあって、確実に面白い話のことを鉄板のように固いネタ、と呼ぶことがあるんだ」
「なるほど、面白い比喩表現です」
「あっ! アンリあかんで。ここでこいつを面白がらせても一銭にもならへんのや」
場合によっては彼らを船から放り出す権限さえ持っている相手に「こいつ」も何もあったものではないが、そう言ってケイは子どものように頬をふくらませた。アンリとしては彼を見ているだけで充分面白いのだが、果たしてソシュールの市民たちは彼そのものに値段をつけることはあるのだろうか。
彼らが人類に求めた移住の条件はただひとつ。「おしゃべり」をすることだ。彼らはそれを評価し、値段をつけて《両替》をする。
つまり話された内容は彼らの間で拡散・共有され、思考のさざなみのひとつとして楽しまれる。一方で言葉の《両替》を受けたものは、支払われたそれを使って必要なサービスを受けることができるというわけだ。
『地上は完全にあなた方人類のものです。わたしたちは地上におけるあらゆるサービスを提供します。対価はあなた方の「おしゃべり」だけ。望まない労働から解放され、あなたがたは好きな活動に専念することができる。我々とあなたたちは完璧な共存関係を築くことができるでしょう』
地球のTV番組で放送されたレヴィの演説の記憶が蘇る。最初のコンタクトでは、レヴィは宇宙通信所のアンテナから施設のデータベースに入り込んできた。外部との通信ができない環境でしばらく過ごして研究所の職員と意思疎通する方法を会得したあと、何らかの交渉を経て地球上のネットワークを闊歩するようになったのだ。そして惑星移住の話を人々に喧伝するようになるころには、レヴィは人類にとってはネット上で話のできる異星人として既に人気者になった後だった。
*
あれからケイは妙にアンリを気に入ったらしく、顔を合わせれば声をかけてきてあれこれと雑談する仲になった。
性格も出自も全然違うから、移住後にライバルにならないだろうと思っているのかもしれない。
アンリはこれまで、一人で世界中の街を点々と旅していた。しかし次第に旅先で仕事を得るのが難しくなってきて、最後は故郷に暮らす祖母の家に居候することになってしまった。両親とは反りが合わず、勝手に家を出てしまった手前もう世話になりたくはなかった。今回の移住のことも告げずに来てしまったほどだ。
当時の祖母はもう高齢で、アンリが生活の介助を申し出ると大層喜んでくれた。だが実際には祖母は身の回りのことは介助ロボットを駆使してほとんど自分ですることができていた。祖母がただアンリが話し相手になってくれることが嬉しいようだった。老齢になって認知機能の落ちた祖母の話は場所も時間も飛び飛びで、話す内容も毎回少しずつ違っていたが話を聞くこと自体はアンリも楽しむことができた。惑星ソシュールへの移住の話を聞いたのは、そんな祖母を老衰で看取ったその日のことで、アンリは少しも迷うことなくそれに申し込んだのだった。
一方でケイはアンリでも知っているような大企業の息子だった。だが、父親と反目したことで跡を継ぐことはせず、自由に生きているのだという。惑星到着前から《両替》の話ばかり気にしているのも、社長だった父親譲りの商才がそうさせているのかもしれない。
「いよいよやな」
共用ラウンジの展望ディスプレイに釘付けになりながらケイが言った。船は惑星ソシュールの周回軌道上に入っており、着陸のためのシーケンスに入ろうとしていた。とはいえ乗員は着陸まで特別な体制は求められていない。ソシュールは地球より一回り大きいと聞いていたが、ディスプレイ上に映されたその星は海が少ない以外はほとんど彼らの故郷と変わらないように見えた。ある意味母星に別れを告げて出発した時に見た景色を逆回しにしているようでもあり、新天地に来たのだと意気込むほどの新鮮さは感じられない。
着陸に向けて、船内全体にレヴィのアナウンスが響く。下船は乗員名簿順になるが、降りた順番には地上での生活に一切影響はないこと、下船後にささやかだが歓迎のセレモニーをするので、それまでの間は全員待機していてほしいということなどが繰り返し案内された。
人間には一度言っただけでは指示を聞くことができない場合があるという事をレヴィが学んだのはこの船の中でのことだった。
船の軌道が下がってゆき、やがて大気圏内に入ると船内にも少し揺れが伝わってきた。そこからはあっという間に大地が近づいてきて、船は予定通りのポートに着陸した。接地する時に今までで一番大きな揺れがあったが、座っていればどうということもない程度だ。総じて快適だったと言える船旅が終わり、ついに新しい生活が始まる。
「降りたら陸酔いするんとちゃうかな」
「宇宙船に船酔いはないから多分大丈夫だよ」
ようやく下船の順番が回ってきて、アンリはケイと共に船のタラップを降りる。降りた場所には、舗装されているだけのだだっ広い地面が広がっているだけだった。あたりを見渡すと、遠くの方に都市と思しき建築物のシルエットが肉眼でも見えた。この先はトラムで地上を移動するらしい。下船した人々の誘導をしていたロボットが二人の方にも来た。円筒形の見覚えのあるフォルムだ。
「レヴィ?」
「サピアと言います。レヴィはまだ船内です」
「そうなのか、ボディがそっくりだから」
「レヴィからの通信であなたたちの好みについて知りました」
「そんなに愛着のある筐体だったかな?」
「通信は限定的なものだったので、情報が断片的であった可能性はあります」
二人はサピアに案内されて他の乗客に混ざってトラムに乗り込んだ。一直線の道を気持ちよく走って行くそれに揺られながら前を見ていると、さっきの都市のシルエットがどんどん大きくなり、やがて全貌が見えてきた。
「なあ、あれってなんか見覚えあれへん?」
ケイが目を細めながら訊ねてくる。視線の先は目的地だ。
「タワーマンション……?」
都市のシルエットを形作っていた建築群は、いずれも高層のマンション棟のようにしか見えなかった。
それも、アンリたちの親世代が現役だった頃、つまり数十年ほど昔のデザインだ。せっかく新天地に来たというのに、心機一転どころかノスタルジーにちかい感情が喚起される。
「いや、似ているのは見た目だけかも」
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、目的地に到着するのを待った。都市の外周は高い壁に囲まれていて、トラムはその切れ目にあるゲートを通過して都市内部に入った。その瞬間、トラムの乗員から小さく歓声が上がる。ゲートのこちら側には市街地の全貌が広がっていた。トラムは速度を落として市街の中心部へとさらに進んでいく。まるでタイムズスクエアをバスで移動しているような気になってくるが、当然ながら派手な広告の看板やサイネージの類はない。建物内は当然ながらどこも無人だ。だがよく見るとレヴィに作業用のアームを取り付けたようなロボットが外装工事の仕上げをしていたりするのに気がつく。移民である人類のために、先住民たちが街全体をゼロから建設してくれたというわけだ。まるで写真や映画で見たような風景だが、おそらく実際地球から彼らが譲り受けた写真や映画のシーンが元になっているのだろう。惑星ソシュールの市民には創作やデザインができない。だが、人類が移住先のこの地で快適に暮らすためにはどうしたら良いかについては親身になって考えてくれたようだ。
トラムは市街の中で一番高くそびえ立つビルの前で停止し、そのエントランス前でアンリたちは下ろされた。
「どうみてもタワーマンションだ」
その建築物は外観だけでなく、エントランスから見えるロビーの作りもはやりタワーマンションのそれだった。豪奢な作りのそれは傷ひとつ無くピカピカに輝いているが、やはりどこか懐かしい感じがする。デザインが古いのだ。
『皆様、惑星ソシュールにようこそ』
マンション前の広場に声が響いた。皆あたりを見渡して声の主を探すが、姿は見えない。この惑星の持ち主たちには肉体がないのだということに気付くのには少し時間がかかった。
『惑星ソシュールの市民の代表として、あなた方人類に歓迎の意をお伝えします。そして、これからの新しい生活についてご案内します』
どうやら声の主は仲間をまとめる立場にあるようだ。思考体となり、お互いにほとんど同質化した状態でも社会的な階級は残るものなのだろうか。
『まずご存じの通り、わたしたちはあなた方の言葉を通貨に《両替》いたします。この街の至るところには、わたしたちと会話をすることが可能な通話用のインターフェースが設置されていますから、必要のあるときに「お話」を聞かせて下さい。わたしたちはそれを厳密に審査し、公正に値付けをします。交換した通貨はこの街のあらゆるサービスの利用にお使いいただけます。もちろん、人類の間で流通させても構いません。しかし他者との取引よりも、あなた自身の言葉という金脈を最大限活用する方が皆が豊かになることでしょう』
アナウンスの声が一度そこで途切れると、今度はマンションのエントランスの内側からまた円筒形のロボットが三体現れた。ガラス製の自動ドアが開いてそれらが出てきたのと同時に再び声が聞こえる。
『では早速ですが、あなた方の住まいについてです。居住区は、ご覧の通りの高級マンションと、一般家屋に分かれています。マンションへの居住をご希望の方は、これから入居審査を行いますので、エントランス前に集合してください。一般家屋をご希望の方は、これから案内します。住居は、今回の移住者全員分用意しておりますので安心してください』
「マンションへの入居審査?」
移住者の誰かが声を上げた。
『そうです。マンション各戸への入居は審査の上、その場で《両替》した資産を使って競売制となっています』
「マンション入居のメリットは?」
『それはあなた方の方がよくご存じのはずですが。優れた眺望と高級な住環境、それに、競争を勝ち抜いたという優越感と自負心を得られるでしょう。我々はあなた方のことをよく知り、よく学び、こうした競争があなた方を活き活きとさせるだろうと予測しました。人類の活動の活性化は、わたしたちの望むところでもあります』
「どうして新天地に来てまで、地球と同じ事をしなくちゃいけないんだ」
アンリはため息をついた。到着早々、こんなに失望させられるとは。しかし隣に目をやると、ケイの方は「面白そうやんけ」とやる気満々の様子だった。
「どうした? アンリ」
「新しい生活を楽しみにしていたのに、いきなり競争だなんてうんざりだよ」
「そうか? けど、地球やったらありえへん競争や。元手がなくても、身ひとつで勝負できるんやからな。弁が立てば一発逆転や」
元々金持ちの息子だった彼の口から一発逆転などと聞くとおかしな感じがしたが、言っていることは確かにその通りだとアンリも思い直す。
マンション前に立つロボット立ちの姿を見て、アンリは子どもの頃のことを思い出す。アンリの家はごく平均的な家庭だった。深刻な不自由はない代わりに、夢を持てるほどの自由もない生活だった。親子三人で暮らすには少し狭い集合住宅から学校に通うまでの間に、やはりこうしたタワーマンションがいくつも建っていて、友だちのうちの何人かはそういう場所に住んでいたものだった。帰り道、友だちがこうした建物の中に吸い込まれていくのを見送ってから自宅に帰ったときに感じた気持ちにアンリは名前をつけないままでいたが、そうした記憶は大人になったアンリの心に憧憬を焼き付けていた。友だち自体はあんなに身近な存在だったのに、地球でアンリがあのマンションに暮らすことができる可能性は万に一つもなかった。高級マンションどころか、働いた賃金程度ではもはやろくな住居を手に入れることはできない時代だった。
それが今再び、あの時のマンションが彼に向かって扉を開いて待っている。手に入れたい、という素朴な思いがアンリの心の中にも生まれてきた。
「審査、うけるやろ?」
「うん。どこまでいけるか分からないけど、やるんだったら最上階に行きたい」
「ええな。お互いがんばろうや」
連れ立ってマンションのエントランス前に立つロボットのところに行く。入居審査を受けたい旨を伝えるとエントリーが許可され中のロビーに招き入れられた。挑戦者は移住者の半分より少ないくらいで、残りの人たちは早々に一般住居で妥協したようだ。この先どれくらいの言葉を《両替》できるか、自信がなければこんなところで無駄遣いはできないと判断するのもまた賢明だろう。
「あなたたち二人はきっと挑戦すると思っていました」
三体のロボットのうちの一体の正体はレヴィだった。
「まだ船にいたはずでは?」
「旅に出ていた間の記憶をマージして本体に戻りました。この体は遠隔操作です」
「他のロボットも?」
「そうです。今、こちらに出てきているのは三人だけですが、わたしたちの目を通して全ての市民があなた方のことを見ています」
「審査もあんたらがするのか?」
「それは後ほど説明します」
レヴィはエントランスホール奥の通路をの方指し示した。
「あちらに進んでください。地下に審査会場があります」
指示通りに進むと、パーティホールのような広い部屋があった。ここが審査会場になるらしい。
「アンリ、ケイ、こちらへ」
「あれ、またレヴィか」
会場の中でも複数のレヴィが参加者の案内役をしていた。船内で一緒に過ごしていただけあって全員の名前を呼びながらいくつかに分けたグループを会場の所々に集めている。
「そうやって分身できると便利そうやな」
「今は思考を16分割しても十分なパフォーマンスを得られる程度のリソースを得ています」
「それって、個体によって差があるものなの?」
「ええ。市民として働けばその分リソースが得られる制度になっています」
「でも、働くためにはリソースが必要なんだろ。現にレヴィは一人で何役も果たしてるけど、そんなに働けない個体もいるんじゃない?」
「そうです。しかし競争こそが社会の活性化の要因であるということはわれわれがあなたたちから学んだことの一つですよ」
「だからこんなふうに最初から差をつけるようなことを?」
『みなさま、これより審査を行います。最初の審査はグループ制とし、上位者はさらに上階の入居権のための審査を継続して受けることができます。落選者は審査で《両替》された通貨を以て低階層の購入を検討いただけます』
集められたグループは20人ほどで、評価によってこの中の5〜6人程度が勝ち抜けになるのだという説明を受けた。グループのメンツは老若男女ばらばらだった。同居者がいる場合は二人や三人組になっても良いそうだ。アンリとケイは同じグループだった。
輪になって集合した人々の中心にスピーチ台とマイクのようなものが置かれている。ここで話をして審査を受けるというわけか。他のグループでは早速審査が始まったのか、会場内がにわかに騒がしくなってゆく。
「一番乗りは俺がもらってもええ?」
そう言ってケイが物おじせずに中心に進み出た。手には例の父親の形見だという辞書を持っており、それをドンとスピーチ台の上に置いた。
「今どき珍しい年代ものの辞書や。もう使われへん言葉も乗ってるやろし、どうや。しゃべくりだけが言葉やないやろ」
レヴィがスピーチ台の方へ来て、辞書の中身をスキャンした。
「評価額は0.005ラングです」
「ラング?それってどんくらいの価値なん」
「マンションの入居に必要な価格は3000ラングからです」
「そ、そんなんジュース一本買えへんやん!」
「ここでは食糧は無償で提供しますのでご心配なく」
「ものの例えや、このクソロボットが」
「惑星ソシュールの市民は機械ではありません。あなた方と同じ、思考する生命です」
「売り言葉に書い言葉ってやつや。辞書の中身を見たんなら知っとるやろ」
「こうして不自由なくお話ししている通り、わたしたちはあなた方の言語についてはよく熟知しています。よって、たとえヴィンテージ品であっても辞書に高値がつくことはありません」
レヴィの解説を聞いてどこからともなくフッと鼻で笑う声が聞こえてきた。見れば、以前ケイとこのことで取っ組み合いになった男が同じグループの中にいた。ケイはすごい形相でそちらを睨み付ける。
「ですが、辞書の中に書きつけられていたあなたの言葉には興味があります。”切磋琢磨:オヤジが好きだった言葉。俺は嫌い” “弱肉強食:俺はこういう言葉の方が好き” こうした一連の言葉から推察されるあなたとお父上との関係について語ってくだされば、その言葉は評価の対象となります」
「そんなこと書いたのも忘れとったわ……」
ケイはあらためて辞書を手に取ってパラパラとめくる。
「親父は努力家で、ずっと何かを勉強しとるか仕事に打ち込んどる姿しか見たことがないくらいやった。実際それで、祖父さんの代からの商売を大きくしたんは親父や。俺は一人息子で、親父は当然俺も同じ人間になると思ってたみたいやけどそれは期待外れやった。俺は気分にムラがあるし、一つのことにずっと打ち込むのは苦手やったから何をやっても中途半端で、家も裕福やったから結局遊んでばっかりや。親父はそんな俺を見ても直接叱ることはせえへんかったけど、代わりにこの辞書を俺にくれたんや。親父がガキの頃から使ってたもので、これを使って勉強の仕方を覚えたんやって言うとった。けどその時の俺は親父に反抗することしか頭になくて、これを受け取ろうとはせんかった。こんな古くさい辞書なんかなくても口八丁で何でもやれるわと思うててんな。だけどそのあと親父は急に倒れて、そのまま帰らん人になってしもうた。結局俺はまだダメな人間のままやけど、親父から受け継ぐものはこれだけにしてあとはいちから自分の力で成功したくてここに来たんや」
そこまで話終わるとケイは照れくさそうに後ろ頭を書いた。
「いやこんなくっさい話に値段はつかんやろ」
ケイの話が終わってもレヴィはすぐには反応しなかった。ネットワーク上で他の市民たちと審議をしているのかも知れない。
「今の話に、300ラングの値をつけたいという市民がいました」
「おおっ!結構いったやん!」
マンション入居のための3000には足りないが、ケイは嬉しそうだ。
「モノにまつわる思い出の話は我々の好むもののひとつです。それがフィクションではなく実体験であるならばなおさら。ケイ、面白いお話をありがとう。この話は値をつけた市民が買取り、あなたの人柄も含めて我々のネットワーク上のおしゃべりの種になるでしょう」
「お前らついでに俺の悪口も拡散する気か?」
ケイが移動船の中でレヴィにかけた迷惑を思えば無理からぬことだった。
続いてマイクを握ったのは即興ラッパーだった。
ラッパーは持ち込んだ機材を使ってトラックを流しながら自前のラップを披露する。
「来たぜ新天地 言葉で稼ぐ人件費
ここが震源地 うまくできない奴らは北京原人…」
一曲歌い通したところでレヴィはすぐに審査結果を提示した。
「50ラングの評価となりました」
「おいおい、安すぎるだろ!さっきの兄ちゃんのボロい本の話が300でこれが50?おまえら故障してんじゃねえのか」
「何やと!」「ケイ、やめろ」
アンリが肘でケイを小突いた。
「ラップとは楽曲の中でも特に言葉に重きが置かれていると言う点では《両替》に値しますが、しかし韻の一致した単語の組み合わせで言葉を作ることは私たちにもできることです」
そう言ってレヴィはその場でラッパーの歌い上げた歌詞の続きのようなものを披露した。いずれも確かに韻は踏めている。意味はよく分からなかったが、それはラッパーの楽曲も似たようなものなので雰囲気で聞けば全く遜色がない。たんにこの男がヘボなだけかもしれないが。
「クソッ……!またすぐに新作を披露してやるよ!」
「楽しみにしています。われわれは人類のあらゆる創作活動を歓迎します」
次に手を挙げたのは着物姿の女性だった。移住前は寄席で漫談をしていたと船の中で言っているのを聞いた覚えがある。今は首から三味線を下げている。
「それでは一席お付き合い願います」
三味線の演奏と共に朗々と話を始める。
「ええ松竹梅とかけまして、銭湯とときます。その心は、湯が熱ければ埋めろ、ぬるければもっと焚け、いい湯加減まで待つからさ、となるわけであります〜」
ジャカジャカと三味線をかき鳴らして次のネタへ行く。人前で仕事をしていただけあって、他の参加者も次第に彼女の話を楽しんで聞くようになっていた。
話が終わると、女性は頭を下げてレヴィの方を見た。
レヴィはまた審査結果をすぐには伝えなかった。ケイの時のように良い値がつくだろうか。
「一つ質問したいのですが」
評価の代わりにレヴィが発したのは問いかけだった。
「同音異義語の言葉を掛け合わせる「洒落」とは何が面白いのでしょうか?」
身もふたもないことを聞かれて女性の顔から表情が消える。
「何が……って、そりゃあクスッとしますでしょう?」
「「洒落」と判定されうる言葉のマッチングであれば、我々にも容易にできます。しかし、その組み合わせの面白さの評価ができないため、判断ができません」
「そ、そんな」
「あなたには奨励金として500ラング進呈します。その代わり、後日我々の生成した「洒落」の判定をしていただきたい」
「もちろん、喜んで!」
しかし後日この女性は後悔を語ることになる。来る日も来る日も、彼らの生成したナンセンスな洒落の評価をし続ける羽目になって、しばらく寝込んでしまうほどだったという。
それから何人かが持ち前の話をスピーチ形式で披露して、いよいよアンリの番になった。アンリは人前で話すのはあまり得意ではない。その代わり、演劇の経験があった。
「一人芝居をやります」
レヴィたちにもわかりやすいように簡単な背景説明をしてから演技を始める。明治時代の男が汽車賃もないのになんとか故郷に帰ろうと様々な人の手を借りる話だ。小劇場でひそやかに上演されただけの話だから、レヴィたちも事前にアーカイブを持っているということもないだろう。持ち前の記憶力の良さで、アンリは一字一句全て正確に再現ができる。脚本は彼自身が書いたものではなかったから、それを《両替》に出すのは申し訳ない気もしたが、今もまだ演劇を続けている彼らがこっちに移住してくる確率は低いだろうと考えた。
役に入り込むと、言葉がすらすらと出てきて堂々と振る舞うことができる。このままいつか役者になりたかったが、演劇をしながら生活をするには収入が足りなさすぎた。それに、他の役者の良い演技を完璧に真似ることは得意だったが、アンリ自身で新しい表現を生み出すことはできなかった。そういう意味では、人間より惑星ソシュールの市民たちの方が親近感を覚えるほどだ。
演じ終わると、周りからささやかな拍手が起こった。
「1500ラング。興味深い演劇でした」
レヴィの評価額を聞いてなぜか先にケイが「よっしゃ!」と叫んでくれた。
「次も頑張りや。お前にそんな才能があったなんて知らんかったわ」
そう言ってケイはアンリの背中を叩いた。
最初のグループをアンリは勝ち抜くことができた。ケイは敗退してしまったが、アンリがどうなるか最後まで一緒に見届けたいといって着いてきてくれた。選抜者だけが集められてまたさっきと同じように十数人のグループを形成する。
最初に審査を受けたのはまだ若い女の子だった。高校生くらいだろうか。学校の制服を身につけていた。
女の子はノートを片手に、自作の物語を披露するスタイルらしかった。
「赤ずきんちゃんver.3.0。これは赤ずきんちゃんが本当は男の子で、オオカミも本当の動物ではなくて危険な美青年の比喩だったと解釈しての物語です」
「いや二次創作かい。しかもごっつい趣味丸出しや」
ケイが本人には聞こえない程度の声でツッコんだ。
物語は荒唐無稽ながら、若い独特の感性で思いがけないストーリーラインになり、アンリたちでも楽しめた。過去に類似作がなさそうという点では優位性がある。1000ラングの値がついたところで次の被評価者が前に出てくる。
「面白いお話でしたが、事実は小説よりも奇なりと言いますからな」
そういって前に立ったのは恰幅のいいスーツ姿の男だった。
男は外交官をしていたと言い、過去にあった各国の要人のエピソードを次々に暴露していく。
「おい、あれって機密漏洩なんじゃないか…?」
「ここは地球じゃないし、罰則もないか」
男の話自体は他では聞いたことのない面白いものだったが、次第に周囲の人々の方がざわつき始めた。
もちろんそんな心配はレヴィたちには無関係のことで、
「2500ラングです。豊富なエピソードの中で、各国の文化によって人の反応が違うという点についても興味深く評価となるポイントでした」
「いやはやありがたい。ところでレヴィさん、私はマンション最上階でなくても良いので、地球の公安が私をスパイ容疑で逮捕しないように条約を結んでくれないかね。そうしてくれるなら面白い話をいくらでも無料で提供しますよ」
「なるほど、それは市民で協議の上あらためて通達します」
「頼むよ!ほんとに!住む場所はどこでもいいんだ!」
男が取り乱してレヴィにつかみかかろうとしたので、どこからともなくセキュリティ用のロボットがやってきて男を連れて行ってしまった。
次はアンリの番だ。
今回もまた同じように一人芝居を披露した。近くの女性からスカーフを借りて、今度は女役を演じる。しかし見ている人々の反応もさっきよりイマイチだ。しまった、面白くない話だったか、と思いながらも夢中で最後まで演じきって、不安な表情を隠さずにレヴィの方を見た。
「評価は800ラン……」
「待って!追加で話をさせてもらえないか」
「はい、一度の審査に盛り込む話題の数には制限がありません」
アンリは胸を撫で下ろし、息を吸いなおした。何度も一人芝居を見せても最初と同じような新鮮味はない。それなら最初にケイがやったみたいに、自分の言葉で語るしかなかった。それをせずに審査で敗退するくらいなら、今この場で全てを話しておきたかった。
「僕の祖母の話を聞いてください」
両親と反りの合わなかったアンリは祖母に特別なつながりを感じていた。子供の頃に一緒に過ごした祖母はどちらかと言うと寡黙な人だと思っていたが、それは単に夫である祖父や子供たちに遠慮をしていたためだった。それを知ったのは大人になって再び祖母と暮らし始めてからのことで、年老いて身体の小さくなった祖母は時々少女にもみえるくらい純粋な心を見せるのだった。
「ただ」
アンリは続ける。
「晩年の祖母は認知機能が落ちてきて、ときどき意味の分からない言葉を繰り返しました。決してうわごとなどではなく、毎回同じ言葉です。しかし、言語学者に解析を頼んでもそれが何の言葉なのかすら分かりませんでした。学者が言うには、そこに並んでいる言葉には規則性がなく、主語さえそれらしいものが見つからないと言うのです。僕は祖母の言葉を一字一句覚えています。レヴィたちは地球上のあらゆる言語について詳しいかと言っていたよね。今から言う言葉の意味がわかるなら教えてほしい。そして、その上で君たちが評価する面白さのある言葉なら、それを《両替》させてください」
アンリは生前の祖母が繰り返していた言葉を再現する。
ほとんど同じ言葉の出てこないそれを祖母は少し抑揚をつけて歌うように口ずさんでいたのを思い出す。
「これで全部です」
アンリがそう言うと、レヴィの入っている筐体のインジケータがいかにも思案中といった様子で明滅した。
「アンリ、それは言語ではありません」
そう言われて、アンリは覚悟していたつもりだったのにはっきりと失望を感じた。
「では、やはりこれはただ祖母が意味もなく……」
「地球上の言語ではないと言う意味です」
「えっそれじゃあ意味を解析することが?」
「その言語は我々の座標で言うN2754、地球とは反対側にある惑星で使われているものです。その特徴は、直列にではなく二次元的に配置された言語であること。言語の最初の一節はマッピングする言語図…すなわち言葉を配置する枠組みの定義、次の一節はその配置の仕方を表します。あなたのお祖母様がなぜこの星の言葉を知っていたのかは分かりませんが」
「それで、その内容は…?」
「残念ながら分かりません。この言語は分割されています」
「途中までしかないってこと?」
「いいえ。おそらくもう一つ、対になる言葉のマップがあるはずです。その二つを重ね合わせることで、ようやく一つの意味の通る言葉になる。これはあなた方とN2754星の人々に関するわれわれの知りうるデータを突き合わせた結果に過ぎませんが、おそらくその言葉は恋文のたぐいではないでしょうか?」
アンリは目を瞬かせる。恋文?家庭もあり、孫までいた祖母が?
「おそらく非公式に地球に接触した異星人が、あなたのお祖母様に送ったものでしょう。二つ合わせることで意味が分かるものを分割してお互いに持っておく。あなた方の文化にも似たような事例はあるはずです」
レヴィの口ぶりはこころなしかはずんでいるように感じられた。
「これは非常に珍しい事例です。ぜひ、いつかその片割れの言葉も収集したい。その期待を込めて一万ラングを差し上げます」
会場がどよめいた。今までの審査の中で破格の金額だ。
「やったな、アンリ!これだけあれば残りの審査を飛ばしても最上階、お買い上げや!」
ケイが自分のことのように喜んでくれている。だが、アンリは考え込んだまま、その後の審査が終わるまでの間、笑顔を見せることはなかった。
*
アンリは船に乗り込む。これからまた長旅だ。今度は地球までの航路の2倍以上はかかる。それに小型船だから、船内のことは自分でやらなければならない。たとえ1/16のレヴィが同行してくれるとは言っても、頼ってばかりはいられない。
「何や狭っこい船やな。こんなんで長旅に耐えられるんかいな」
ケイが大荷物を抱えて乗り込んでくると、船がわずかに揺れた。
「快適な旅とは言えないけど、仕方がないよ。特別に作ってもらったんだから」
アンリは結局、マンション最上階での安穏な暮らしを希望しなかった。その代わりに、入居審査で得たラングを全て使ってN2754星への旅ができるように頼んだのだ。
新しい宇宙探査に惑星ソシュールの市民も賛成だった。アンリはその星に行って、祖母の言葉の片割れを持つ者、つまりは祖母と恋をしたかもしれない相手を探そうと思っている。
ケイが同行を願い出たのは、旅先で新しい話を仕入れてソシュールで高く売るためだ。地球からの移住者の話もやがては消費され尽くしていずれネタ切れになる。その時に新鮮な話を持ち込んで高値で売ろうというのが目論みだ。父親譲りの商材が少しずつ花開きかけているようだ。
道中、レヴィが時々思い出したようにアンリの祖母の言葉を繰り返す。買い取られた祖母の言葉はまだ意味がわからないながらも市民たちに好評で、たびたび話題にされていると言う。
彼らがその言葉から何を感じてどんなことを語っているのか知るよしもないが、惑星の北極だか衛星だかの彼らの居住するデータセンタ内で、アンリの祖母の言葉が囁かれ、広がっていくのは想像できた。その片割れを持ち帰って市民たちにも分け与えてやることができたなら、きっと惑星ソシュール中に祖母の交わした密かな恋のやりとりが広がっていくのだろう。そうなればきっと、アンリにとって惑星ソシュールはあの祖母の待つ小さな住まいにいた時と同じような暖かい故郷になってくれるような気がした。
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