梗 概
君と蹴鞠だけをしていたかった
山科の密庵にて、中大兄は敬愛する鎌足と蹴鞠をしつつ、近頃勢いを増す蘇我入鹿の暗殺計画を立てていた。夜半、ふたりで月を見ようと山に入ったが、不慮の事故で崖から落ちる。
落ちた先はアマテラスとも交わったことのある蛇神の窪だった。中大兄は現れた蛇神に瀕死の鎌足を救うよう願うと、蛇神は応じた。蛇窪内を歩く入鹿を見つけ後をつける。出た先は未来で、帝は現人神と崇められ、八紘一宇を謳う皇軍が戦果を上げていた。戻ると、鎌足と融合した蛇神が蛇窪は時空を貫いているのだと語った。
ふたりは蛇窪を辿り、入鹿の根城の法興寺に出た。入鹿の手の僧たちが蛇窪に出入りし、女を連れ帰り、邸に閉じ込め歴史を語らせていた。ふたりで協力し僧を捕らえると、蘇我の繁栄を記した〈国記〉の編纂だという。阿毘達磨の経典よれば時間は未来から過去に流れる。阿弥陀如来の涙を含む法墨を用い、未来の歴史を記せば、その通りに過去へ時間が流れるのだという。入鹿は蘇我一族が万世一系の現人神の帝となる未来史を書かせていた。
奪った極僅かな法墨で、中大兄が試しに酒の雨降ると書くと。翌日その通りになった。〈国記〉編纂を止めねば。都へ戻ると、宮中に何人も見知らぬ入鹿の種の子が出現していた。すでに〈国記〉に書かれた未来が過去へ流れ込んでいたのだ。
付け焼き刃の暗殺を決行し、入鹿の首を撥ねるも、首は飛び去った。入鹿の子千人に追われ、かろうじて蛇窪へ逃げ込み未来へ逃げる。天皇陛下万歳の三唱のあと、ラジオからは蘇我陸軍大臣の演説。紙幣には聖徳王の肖像の下、蘇我入鹿の名。中大兄が紙幣を破り捨てると、万世一系の蘇我皇家を冒涜するのかと憲兵隊に捕まり拷問される。
中大兄は民家で鎌足に手当される。本棚に並ぶ〈国記〉全14巻。その中にはふたりの名は一切ない。山科へ全巻を持ち帰ると、中大兄は〈国記〉の力を消すために、神代の力を覚醒させようと蛇神との融合を望む。蛇神は鎌足を通じて応じる。
鎌足と身体を重ねた恍惚のあと、アマテラスの力が覚醒する。蛇神はかつて愛したアマテラスの気配に歓び泣いた。鎌足の身体は消えた。蛇神と融合し、中大兄は無性生殖が可能な雌と化し、蛇の如く多くの子を産んだ。知略が欲しい時は鎌足の精子を受精させた。子らを蛇窪を通じて各時代に送り、〈国記〉の影響で入鹿の血族となった平氏を、北条を、後醍醐帝を、豊臣を、徳川を、あらゆる為政者を滅した。アマテラスの力で歴史を上書き直したのだ。
都に攻め入ると、隠れていた入鹿は未来へ逃げた。追うと帝都の宮城に出た。中大兄は陸海軍相と将校らを次々と斬り捨て、入鹿の首を一刀両断すると、玉座に座る万世一系の帝は崩れ落ちた。
中大兄は即位し天皇を称し、鎌足に藤原と諡した。永い戦いで限界に達した身体を引きずり山科で単為生殖し、最後の皇子を産んで死んだ。
それから今まで、皇位は常に単為生殖で継承されているのだよ。子を作れと男たちが言うたびに、今上帝はかの昔話をして笑うのだった。
文字数:1231
内容に関するアピール
選択した課題:『「天皇制」、または「元号」に関するSFを書きなさい(2018年第8回課題)』
天皇制というのは極めてフィクショナルな装置です。神話との接続をうたう家族であり、男系の男子が受け継ぎ続けてきたというファンタジーを立ち上がらせます。天皇を担う者も自らがフィクショナルな存在であることを自覚して振る舞っているきらいもあります。問題はベタに受け止める人が少なからずいるということだと思っています。天皇制というフィクションのどこにつけいれば、新たなフィクションが成立するかを考えた時に
- 天智天皇が扶桑略記において山城国山科で行方知れずになったと書かれていること
- 天智天皇は天皇を中心とする国家(というフィクション)を立ち上げた立役者
- 明仁上皇が天皇時代に高麗神社に参拝していること(祖先に詣でるという意味で)
に注目しました。過去に蛇の神と交わったことがあったとしたら、その神社に天皇は参拝するでしょう。参拝することで日本ないし日本人の由来に正統性が与えられてしまう装置が天皇制という不思議なのだと思います。
また、男系の男子が継いでいるというフィクションに対して、より強い毒をぶつけたいとかんがえました。無性生殖による継承は、万世一系よりも毒気のある、神そのものの継承になるのではないのでしょうか。
参考文献
- むずかしい天皇制
- フェミニズム・天皇制・歴史認識
- SNS天皇論 ポップカルチャー=スピリチュアリティと現代日本
- 感情天皇論
- 箱の中の天皇
- 太陽の帝国
- ご先祖様万歳
文字数:625
君と蹴鞠だけをしていたかった。
高く蹴り上げられた鞠が古い梅の木よりも高く上がり、一人の少年の背中の方へ飛んだ。少年を含む八人で、すでに二百回近く打ち上げられたそれを落とせば敗北だ。決して地に落とすことなく鞠を上げ続ける。どれだけ続けようと、朗らかに笑い、優雅な身のこなしで。蹴鞠とはそういう遊びで、できるだけ相手が受けやすいところに蹴ってやるのが習いと言われるが、血の気に有り余る少年たちにそんな作法など関係なかった。さながら取っ組み合いのように、鞠庭は落とせばただではすまないという様な熱気に包まれていた。
少年はとっさに振り返ったけれど、瞼をさけた汗が瞳に入って、目を開けていられなくなった。とん。鞠は乾いた音を立てて遠くへと転がった。よろめいて倒れた少年は他の七人に取り囲まれ、賭けに負けたのだから唱えろと、なにかの言葉を耳打ちされた。
一人の男が馬から降り、鞠を拾い上げた。にかわでよく磨かれている。手足に馴染む愛らしい軽さだ。
「やあ」
男は喉を絞った声でそう言うと、囲まれて怯えた表情を浮かべる少年の方へと鞠を蹴り上げた。覚えているつもりだったけれど、身体がついていかない。足先に伝わる久方ぶりの鞠の感触と共に、牛革張りの沓が脱げて飛んだ。
「二百を越えて鞠を打ち上げつづけるとは。大したものだよ。天へ祈りが届き、天地の均衡も保たれて、近々雨が降るだろうね。誰だ? やろうと言い出したのは? よい心がけだ」
少年たちは目を丸くして、顔を見合わせる。少し向こうからさらに別の大人が近づいているのを見て、みなバツが悪そうな顔をした。沓の脱げた男は片足のまま、軽やかに少年らに近づいて、爽やかにからっと笑ってから続けた。
「どうした? 蹴鞠は大陸より伝わった雨乞いの儀式だと知っている者がいるんじゃないのかい? 天と地の間に物をとどまらせ続けるのは、天地の均衡に干渉するためだち、大陸の殷王朝の時代から言われているよ。近頃雨が降らなくて皆困っているから、雨を願うために熱心に蹴鞠をしていると思ったのだけれど、もしや勝ち負けを競い、何かを賭けてやっているわけではないね?」
もう数歩寄ると、少年たちはお互い目配せをし、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。好みの餌がないと分かるとひょいと踵を返す鹿の子のようだった。囲まれていた少年に手を差し伸べ、白袴の膝についた土埃を払ってやると、少年は気恥ずかしそうにした。
「通りがかりの方、ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。私も昔、鞠を落とす度に咎められたり笑われたりしたものだ。それを思い出してね。遠目に君を見て、放っておけなかった。しかし、二百のうち、百五中以上は君が打ち上げている。百済から来た騾馬のように力強くしなやかな身のこなしだね。私の友を思い出させるよ」
「中大兄王子。沓を」
背の高い男が遠くに飛んだ沓を拾い上げ、左足一本で立ち続ける男に差し出した。
「鎌足。その呼び方はよしてくれ」
中大兄はそう返した。従者を連れずに秘かな情報収集のため、従者を連れないで都のあちこちを巡っているのに、王子と呼ばれたら、居場所を宣言してるようなものだ。それに、古い知り合いなのだから、ふたりでいるときによそよそしく呼ばれたくはない。
沓を履き、梅の枝を見上げる。つぶらな花を夜に香らせるその花は梅だった。中華から持ち込まれたその花表す漢字は、木へんに次々に子を産む母を表す毎の字をつくりとして添える字だった。近頃の都の人間はやたらと梅をもてはやしているが、薫る風になびく白い藤の方が遥かにたおやかで美しいのにと、中大兄は思っていた。
鎌足は、あの日々を覚えているだろうか? 白と紫に染まる春の藤棚の下で、蹴鞠の最中に、悪意を持った貴族の子に烏帽子や沓を奪われて、高い藤棚の上に投げ乗せられて中大兄が困り果てるたび、鎌足が颯爽と現れて救ってくれたことを。そのあと、蹴鞠に混ざるたび、鎌足の山狗のような身のこなしに、生意気な蘇我氏の子らも目を剥いて驚いていた。
人の目の無いところでは、蘇我氏の者たちは幼い中大兄に苛烈な嫌がらせをした。いまや大臣として権勢を振るう蘇我蝦夷とその子の入鹿に、蹴鞠の儀で大恥をかかせたのがきっかけだった。
そのころよく、とある夢を見た。闇夜に歩み出たあとに祖神たちの前で蹴鞠を披露し、大いに喜ばれる夢だった。蹴鞠を見守る国つ神たちは蛇や馬、牛、鏡など様々な形をとり、飛鳥一の高さの古木より遥かに背の高い神もいた。
国つ神は鞠と同じ要領で、神々自身を天高く打ち上げるように言った。鎌足と中大兄はそれに従い、彼らを打ち上げ、天と地の境を往復させた。地の神を長い間天に浮かせ続けると、天地の均衡が崩れて大雨が降った。そういうときは、朝起きると褥も衣もぐっしょりと濡れていた。大王の祖神である天照大神ら天つ神がふたりを見に出てきて喜ぶこともあった。
貴族の子らや女官にその話をすると、すぐに蘇我蝦夷の耳に入った。
それほど喜ばれたのなら、王子が蹴鞠をすれば干ばつが治まりましょう。蝦夷がそう言って、蹴鞠の儀が執り行われることとなった。言ってみれば鞠を蹴るだけなのだが、蝦夷は大王の祖神を貶め、蘇我一族が大陸から熱心に輸入している御仏の威光を高めるよい機会としようとしていた。途中から七日七夜、法興寺の伽藍で念じさせた息子の入鹿に割り込みさせ、鞠を打たせ、仏の御慈悲で天の様子が変わったのだと、横取りをするつもりのようだった。
飛鳥宮の南門を出てすぐの広場で、儀は執り行われた。中大兄、鎌足、貴族の子らが鞠を打った。貴族だけではなく、飛鳥の町の者も集まって観覧した。門前に咲き乱れる藤はしなしなとして、雨を待ちわびていた。中大兄が蹴ると、跳ね回る若狼のような身のこなしの鎌足が受け、中大兄に返した。それを幾度もくり返す。強く冷たい風が吹き、鈍い雲が突如現れて、飛鳥中が霧雨に包まれた。
仏もいいが、やはり倭国の祖神の力を持つ大王は偉大なのだなあと。観衆から様々な高さの驚きの声が上がった。
焦った蝦夷は入鹿を蹴鞠に参加させた。これから雨が強くなるならば、入鹿も加わらせることで、手柄を横取りしようという魂胆だった。今度は鎌足が入鹿ばかりに鞠を蹴った。入鹿がどこへ打とうとも、蹴鞠を終わらせようと桃の木の枝にかかるように蹴り上げようと、南門の壁を蹴り、空中で鞠を受けてふわっと入鹿へと返した。
しかし、蹴れど蹴れども天気は一向に変わらない。
何百もの往復がされ、疲れ果てた少年入鹿が足を滑らせて怪我をしたあと、鎌足と中大兄でさらに続けると、やがて太陽は元の通り、さんさんと照るようになった。
やはり仏の力より祖神の力の方が強いのだなあ。観衆はうんうんと頷いた。
蝦夷は顔を真赤にして、烏帽子を叩きつけ、汚らしい犬のように手に持った笏をガジガジと噛みながら入鹿を引っ張り起こすと、頬を何度もうち、ふたりでその場を立ち去った。
そのあと三年ほど、蘇我一族の間で蹴鞠の話をすることは禁じられたらしい。
中大兄は雨が降ったのが自分によるものとは思っていなかった。実際、夢の中で祖神に気に入られたのは、自分ではなく、身のこなしの美しい少年だった。少年と自分は、同じ夢を見ていたのだ。夢の中でも、あの動きだけは忘れられない。少年が鎌足だと分かったのは、彼が中臣氏として正式に中大兄に仕えはじめてからのことだったけれど。
「王子はやめてくれ、と言っているんだ。鎌足。見てみろ、この少年は昔のお前のような身のこなしだぞ。お前の鞠捌きに瓜二つだ。遠目に見て、お前が子供たちに混ざっているのかと思って、共に蹴りたくなって近づいたら、お前ではなかった」
「そんな風に、覚えていられるものでしょうか?」
もちろんだ。覚えていたからこそ、法興寺の大伽藍の傍らで蹴鞠をする姿を見てすぐに、あの時のあの少年だと思い出すことができたのだ。朝廷に仕え、神事を担う中臣氏に知略に優れた鎌足という男がいると音に聞いていたが、それがまさか、かつて自分を助けに現れた麗しい少年だったとは夢にも思っていたなかったというのに。
「中大兄王子様と中臣鎌足様に助けていただくとは、大変おそれおおく。なんとお礼を申し上げたらよいやら。先ほどの子供たちは蘇我入鹿の子らです。ああやって様々な賭けをして、負けた者に不穏な言葉をと暗唱するように迫るのです」
蘇我入鹿と聞いて、中大兄と鎌足は目を細めた。入鹿に率いられる蘇我氏は日に日に権勢を増している。聖徳王の定めた憲法の下で、朝廷の最高位を表す紫冠を父親から勝手に継承し、常に被って片時も脱ぐことはない。飛鳥宮の東西南北の門をくぐるときはどんな者でも下馬し武器を預ける習いだが、近ごろはまったく従わず、女官の寝殿へ夜半に馬で訪れたりする始末だ。飛鳥宮を見下ろす高台に建てさせた邸では、どこからか連れてきた男児らに自身を神のように崇拝させ、その子らを王子と呼んでいるという。
その噂が真だとは中大兄は信じていなかったが、それがなくても忌々しいのは確かだった。
朝廷の大王をまったく恐れることのない入鹿に、もうすでに数名の王族が惨殺されていた。入鹿は理知の中に残忍さを隠す男で、年を重ねるごとにその残忍さが滲み出て、誰に向くのか全く読めなかった。矛先は聖徳王の后やその子の山背大兄王子もその一人だった。入鹿らに追われ、斑鳩寺で妻子共々自害させられ、首は塩漬けにされ入鹿の酒の肴にされた。
かつては夭逝した男子を溺愛していたというが、それ以後男子に恵まれない入鹿は、生まれた子が女子と見るや縊り殺したこともあった。その子はなかったことにされたが、女官のひとりがそう漏らした。その女官はある夜、飛鳥の外れで腹を抉られ死んでいるのが見つかった。
「少年よ。何を唱えさせられるのだ?」
「倭国の真の王は蘇我氏の血統である。万世一系の蘇我氏の血統の下、全世界を遍く日の本の天皇の御稜威の下とする。と」
「なんだ、貴様。すでに諳んじられるではないか。蘇我の手に落ちているな」
鎌足は苛立ちながらそう返す。少年は怯えた目をした。
「今日だけでなく、何度も迫られていますから」
天皇。それは中大兄にとっても、鎌足にとっても初めて聞く響きだった。聖徳王が随に遣わした書簡で天子を名乗り、随の煬帝の怒りを買ったのは記憶に新しい。天皇。天の字を冠するが、天子ではない。しかし、紫冠を勝手に被るだけではなく、勝手に皇を名乗るとはおこがましい。
他にも、飛鳥で蘇我一族の悪どさを上げればきりが無い。
刃向かうものはやがて殺される。それが当たり前になり、誰もなにも言わなくなった。
蘇我入鹿のこれ以上の横暴を許すわけにはいかない。
これ以上犠牲を出す前に、暗殺計画を決行し、殺さねばならない。
中大兄は覚悟を決めていた。
「私もアマテラスの力を自在に使うことができれば、天の字を冠しても恥じることがないのかもしれないな。私がいくら鞠を蹴っても、雨など降らぬから。私では天を戴くに値しないだろうね。でも、お前と蹴れば、話は違うのだけれど。なあ、ひとつ、久しぶりに蹴らないか?」
「そんな暇はありませんよ。例の話を進めなければいけませんし。入鹿の根城の法興寺も含め、都をもっと偵察しないと」
中大兄は少年に鞠を打たせ、沓が脱げないように気を使いながら鎌足の方に蹴り流した。鎌足はため息をつきつつ、それに応じた。気づくと上がりかけだった陽は真北の香久山を真っ直ぐに照らすところまで上がっていた。中大兄の根気は大したもので、先に音を上げた鎌足が鞠を地に落とした。
中大兄と鎌足は少年を連れ、少し西の飛鳥川の川べりの日陰に馬を留めると水浴びをして汗を流した。少年は下級氏族の者で、鯨と名乗った。自分に仕えたいという鯨に、中大兄は法興寺や蘇我の邸を偵察するように伝えた。
鯨に見送られながら、ふたりは北へ、山背国山科へと馬を向けた。
遠く西の空の向こうに黒々とした雲が膨らむのが見えた。じきに大粒の雨が降るに違いない。中大兄は鎌足に笑いかけた。ほら、お前と私で鞠を蹴れば、天地を整えることができるじゃないかと。
「神代より受け継いだアマテラスの力は私には乏しい。代を経るごとに衰えていくようだよ。ほら、あの雲を見てみろ。雨が降るぞ。お前の脚が鞠を何度も高く鞠を打ったからだ。お前の方が、蹴鞠の神の力を持っている」
「聖徳王は数え切れないくらいの人の声を同時に聞いて理解できる特異な耳を持っていたといいます。中大兄もきっと、特異な力を発揮できるはず。いまはまだ、目覚めていないだけなのですよ」
「お前と蹴鞠をしているうちに、目覚めるとよいのだがね」
「山科の庵で眠ると、よく中大兄と同じ夢を見ます。神代の景色を歩く夢です。あそこならば祖神とのつながりを刺激できましょう」
飛鳥から香久山の麓を通る中つ道を北へ進み大倭を抜ける間に、半分の月はすっかり満ちて青白く初夏の夜を照らした。山が近づくと、栗の花が青く薫った。大津から名産品を運ぶ行商人たちとすれ違ったが、彼らはみな入鹿のことを話していた。
入鹿一行は一里先でもいるのが分かるという。彼らが光り輝くからだ。
王子と呼ぶ子供たちと共に、金の装具を全身にまとった姿で、われ真の太陽神なりと高らかに宣言しながら闊歩する。治水工事に駆り出された民を集めては、鯨が暗唱していたいたのと同じ言葉を口ずさませる。
生来目立ちたがりなのは知っていたが、行き過ぎるようになったようだ。
民の中でから体格の良いものに声をかけ、徴用して都に連れているそうだが、連れられた者曰く、目隠しをされ、半日もかからぬうちに法興寺で目隠しを解かれるという。
馬をどう飛ばしても二日はかかる距離だというのに。
いったいどんな手を使っているというのか。
*
夜半、すっかり満ち足りた月に誘われ、ふたりで山に入った。山科に秘かに建てた庵の裏手は切り立った丘になっており、眺望の裏には滑落の危険が潜んでいる。
相当な高さから落ちたのだ。
まずはそれだけが分かった。
落ちた先は暗く湿っていて、全身にはくまなく痛むところがあり、熱を感じる。
爽やかな山藤の甘い香りを含む風に目覚めさせられた。白袴の麻布を抜けていくその風を感じながら、中大兄は目を見開いていた。ほとんど何も見えない。右腕を動かすと痛んだ。火照る右脚に手を這わせていくと、腿から臑が広く擦れて湿っていた。手を鼻に持っていくと、温い血の匂いに満たされた。
庵の場所を知る者は宮中にもごく僅かで、警護の者も従者もひとりもつけていなかった。鎌足とふたりきりの静かな場。入鹿の暗殺を計画するにはまたとない場所ではあるが、逆に言えば、刺客を送り込むのにもうってつけの場所であるとも言える。いくら月が明るいとはいえ、夜の山になど入るべきでなかったのだ。
雪解けのころ爛熟と咲き乱れるふたつの桃の木の間で、先をゆく鎌足が小刀で藪を刈った。時鳥がぎょぎょと鳴き、円い月が叢雲に遮られ、胸元で風になびく鎌足の黒髪が翳りに飲まれた。ふたりのときは、冠を被るための髻など結わなくてよかった。闇に見惚れて酔う前に、太刀に手をかけていればよかった。もっと闇を恐れるべきだったのだ。
複数の人の気配。小刀を振るう鎌足の抵抗も虚しく、よるべない闇夜を逃げ回った挙句、中大兄と鎌足は急峻な崖を転がり落ちた。
「オマエ、目覚めたようだな」
湿り気が口を得たような声が耳元でぬっと聞こえた。高く澄むその声は、懐かしくも聞こえた。中大兄は太刀の柄を握るが、腫れ膨らんだ肘は思うように力をかけることを許さない。
「そんなもので吾は切れん」
「お前は誰だ」
「国譲りのあと国つ神を率いてオマエたち大王の子らを守ってきたというのに、判らないとは嘆かわしい。恋しく懐かしいアマテラスの気配を感じたから、この窪のこんなところまで重い身体を引きずってやってきたというのに、やってきたオマエはアマテラスの力など露ほどしか残っていない人間らしい」
声の主が巨体をぬるりと動かし、中大兄の左脛の裏から右臀、腹を回って左脇へ抜け、上を包むようにまとわりついた。蛇の姿をした国つ神。大王の家の祖神のひとり。中大兄には覚えがあった。
「大物主大神か。しかし、飛鳥の北東、三輪山に奉られているはず、なぜここに」
「奉るのはオマエたちの勝手だが、吾があんな社にいつまでもとどまっているはずなかろう。この窪は時空を問わず、縦横無尽に走っておる。三輪山にも。山科にも。飛鳥にも、伊予にもな。近頃は金装具の者たちがきらきらしながら、行ったり来たりしておるが、あれはなんだ? そもそも、普通の者はこの窪には入れぬはずだが」
入鹿の一行はこの窪を通り、各地で目をつけた民を飛鳥へと連れているようだ。にわかには信じがたいが、飛鳥までの時間を考えるとそうなるだろう。
窪の中は、欠乏した光が闇の中で窒息していて、すでに死に絶えて久しいくらいに闇に浸されている。どこまで続くのか、どれくらいの深さに何があるのか、まるで見えなかった
「ほら聞け、奴らの一団が奥へ向かう足音が聞こえる」
闇の中、かすかな音が耳へと流れる奇跡をつまみ上げられそうなほど、遠くを歩く入鹿一行の足音と金装具が鳴る音と、入鹿様万歳、天皇陛下万歳と唱和する声が聞こえる。それらの音はどれも、一切混ざることなく、白磁の器に流された油と水を分けて掬い上げることができるように、はっきりと分かれて聞こえた。もし聖徳王が日々こんな心地だったら陰口に満ちた宮中はさぞかし暮らしづらかっただろうと、中大兄は思った。
遠くから近くへと耳の注意を寄せていく中大兄の耳に、かぼそく、断続的な痛みに喘ぐ吐息が入り込んだ。鎌足。音を頼りに歩み寄ると、暗闇の底の土が温い地で濡れていて脚を滑らせた。中大兄がよろめき手をつくと、冷たい肉の感触のあとに、痛みに耐えかねた鎌足の喚き声がした。
「鎌足。傷は深いのか? 動けるか?」
「中大兄。目が見えません。身体が痺れ、指一本動かすこともできません」
「全くの闇の中にいる。私にもお前の姿が見えない。大物主よ。お前の力で、せめてわずかでも明かりを灯してはくれないか」
「吾は灯りが苦手だ。目がちらついて叶わぬ。おや、その者は、いつぞや吾らの時に迷い込み、艶やかに鞠を打ってみせた幼子ではないか。お前に伴って来たこともあったな。あれは愉快だったぞ。須佐之男のやつが真似ようとしていたが、奴は粗野すぎて駄目だった。倒した者の首を蹴るほうが似合っていた」
「大物主よ。鎌足はどのような具合なのか」
「どれ。どうやら、肺には穴。腰は砕けている。長くは持たぬな」
「大物主の力で、救ってやることはできませんか? 救ってくださったあかつきには、都が見渡せる高台に、大物主を奉ります」
「社など退屈だと言っておろう。まあ、待て、助けてやらんこともない。この者を連れて行くぞ。ついてまいれ」
衣擦れの音のあと、痛みに耐える鎌足の吐息が聞こえ、風に木立がささめくような音が聞こえた。大物主の細やかな鱗が湿った地に擦れて立つ音だった。どろん粘るような闇の中へと音が引いていく。中大兄は付き従い足を進める。穴が空いていれば真っ逆さまだったが、不思議と恐怖はなかった。いつにない粒の大きさで音が聞こえているからに違いなかった。
爽やかに鱗擦れの音と足音が響く中に、じゃんじゃんと金のなる重たい音が混ざり始める。遠くから揺らめく松明の灯りが舞い込んで、大物主のどろり曲がった輪郭が現れる。
大きい。飛鳥宮の宮殿ほどの高さがあるのではないか。
幼き日に見た夢の記憶が蘇る。鎌足と中大兄の蹴鞠を見て楽しむ祖神たちはみな。たしかに背が高かった。その中で鎌足は、巨木に届こうという高さに悠々ふわりと鞠を打ち上げていた。
柔らかな記憶の風景を掻き消す低く野太い無粋な声が響き始める。
「万歳三唱で現人神たる蘇我一族を讚えよ」
「万歳!万歳!万歳!入鹿様とその一族を讃えよ。万歳!万歳!万歳!」
「万世一系、億兆一心!伸びる銀翼、輝く御陵威。進め一億火の玉だ。鋤が光れば、皇国が光る。金は政府へ、身は大君へ!祖国のためなら馬も死ぬ!一億一心皇軍感謝!」
大物主の行く窪は、梅の古木一本分くらい下を突き抜ける別の窪と合流していた。目下で何十もの松明が揺らめいて壁に影を作る。どの影も屈強な男たちの者であり、誰もが入鹿賞賛の耳障りな声を絶やすことなく唱えていた。
入鹿が先頭で男たちを率いているのが見え、中大兄は驚いた。多くの下級貴族を顎で使い、決して自分では計略に手をくださない性質の男であったはずだが、いつの間に心変わりしたのか。
この窪ならば、隙を見て討てるかもしれない。
男たちの陶酔的で間抜けな声が遠くへ去って、真に黒い暗闇が舞い戻ったころ、中大兄は下に降りて、耳を頼りに入鹿一行の後をつけた。
「行くなら、耳を澄ませて行け。神代より続くこの窪は過去から現在、未来までを貫いておる。見知らぬ時に迷い込めば帰れなくなるやもしれぬ。吾はこの鎌足とかいう者を救うためにここで待っておる」
耳を澄ますと幽かな音が中大兄を手招きするのが分かった。闇の中を真っ直ぐに差す光に付き従うようだ。これならば、迷うことはない。足裏に岩とも泥とも覚束ない感触がべっとりとはりつくようで、時空を跨ぎ歩くとはこのような感覚かと中大兄は息を飲み、歩き続けた。
にわかに、足元に確かな土の感触が戻る。身体をよじり、濡れた土壁に顔を擦り付けながら音の聞こえる方に向かうと、陽の光の元へ出た。
そこは開けた広場で、老若男女大勢が集まって、みんな小旗を振っていた。ひとびとの服装は中大兄には馴染みがなかったが、真っ白な地に赤く丸を染め上げる小旗の意匠には見覚えがあった。聖徳王が遣隋使を送った後、日出処と太陽を司る祖神アマテラスを簡素に象る文様として、機織部に考えさせていたものに似たものがあった。
振り返った赤い煉瓦造りの建物の壁には、東京驛と鉄板が掲げられている。大物主の言った通り、ここは時を経たいずれかの地点の都であるらしい。アズマとは恐らく近江国大津よりも東であるのだろう。栄えた様子を見るに、蝦夷の討伐は終わっていて、怯えることもないのだろうと、中大兄は思った。
馬にのった精悍な男たちが指揮する軍服を着た男たちの隊列が広場に入ると、ひとびとの熱気は最高潮に達した。歓声と共に轟く地鳴りのような万歳三唱に耳が破裂しそうになった。皇軍を讚えるのぼりを持つものが現れた。のぼりには加牟加是能、宇知弖志夜麻牟と書かれ、子供たちが朗らかな声で神風の、撃ちして止まんと詠み上げた。アマテラスの五世孫、初代大王が東征の際に戦意を鼓舞するために歌った言葉だった。
「皇軍は勝利を重ね、御陵威は輝き続けている。陛下の赤子は皆火の玉だ」
先頭の男が陶酔した様子で各地の戦果を読み上げるのを傍目に、中大兄は耳を抑えながらひとびとの一団から離れ、窪の方に戻ろうとすると、入鹿と側近に出くわして慌てて身を隠した。入鹿は羨望と感動に目を潤ませながら、名残惜しそうに何度も東京驛前の広場を見返していた。麻の葉を炊いたときのような深く陶酔した赤い目で、うっとりしながら万歳を連呼してから、口を開いた。
「あの王を見たか? あのように万世一系の男子が現人神として君臨すれば、これ程までに強い国を作ることができるのだ。これならば唐や新羅だけでなく、遍く万国に優位にたてるだろうな。しかし、この未来で崇められる帝はおれの血統ではない。歴史を記したあの書物、なんと言ったか」
「式部省の者らに解読をさせたところ、日本書紀と古事記という書物かと、いまの大王の祖は神武天皇と呼ばれ、そこから倭の国が造られるまでの歴史が記されています。そして、入鹿様含めた蘇我氏は」
「そうだ。悪名を着せられ、歴史から葬られている。許せるか?」
「いえ、許しがたいことです」
「おれは仏法の力を借り、歴史を書き換え、万世一系の祖となるぞ。全ての時代に俺の種を継いだ子を残し、倭国を俺の種の国にするのだ。お前の氏族も、蘇我氏に厚く仕えた一族として、末永く栄えることになる」
「入鹿様を信じています。すでに何名も、歴史に詳しそうな者を捕らえ、歴史書と共に持ち帰りました。阿弥陀仏の法力がとけぬうちに、アマテラスの窪を通って一度戻りましょう」
入鹿の一団の立てる音がはるか遠くになったあと、東京驛の地下深く、窪の闇に足を進めた。数百歩を数えると足元はまた覚束ない感触になって、前後左右上下もわからない時空のまどろみが中大兄を包んだ。光でも、匂いでも、音でも、ひとつの寄る辺もなければ、このままどの時間でもどの場所でもないところに放り出されてしまうだろう。
寄る辺はあった、軽やかなあの音を忘れることはないのだから。
とん。とん。ぽん。やあ。
遠くで沓が鞠を打つ音。続くのは鎌足の掛け声。
共に鞠を蹴りたいと、くすぐったく疼く足を進め続ける。
音が間近になり、蹴り上げるとき袴が肌に擦れる音がすぐそこに。鎌足がこちらに蹴る音を聞いて、中大兄は足を差し出す。闇の中、中大兄を呼んだ鞠が沓を打って高く飛んだ。
鎌足は救われたのだ。ああ、このまま闇の中、いつまでもこうして鞠を打ち続けたい。
「中大兄、入鹿一行はどうでした? 奴はこの先で何を?」
「鎌足。もうすっかり大丈夫なのか?」
「ええ」
「大物主はどこに」
「吾はこの者の身体に入り、融合した。鞠とはかのように蹴るのだな。蛇の姿では分かなかった感覚だが、高く蹴り続けるには中々に気を使うではないか。さあ、中大兄。この窪を進み、神代でアマテラスの前で蹴鞠を披露しようぞ。吾はもう一度、アマテラスと交わりたくてな」
沓の音が早足に向こうへ進む。
焦って中大兄が追うと、不意に鎌足が足を止め、中大兄の手を掴んだ。
指先の温もりが自分の知る鎌足のものと同じであることに安心しながら付き従うと目の裏が赤く明るくなった。
つるべの縄を手繰り井戸を上がると、蘇我氏の根城の法興寺の西門脇に出た。大陸から渡来した仏教を奉るため、飛鳥内外から屈強な民を徴用し、拡張が続けられている。飛鳥宮の北側に建ち、すでに飛鳥宮を凌ぐ広さと大きさになっていた。
大王をなんとも思わない蘇我氏の横柄さの現れであり、中大兄にとっては邪魔でしかなかった。
「大物主、いや、鎌足か? お前はどちらなのだ」
「中大兄。わたしは鎌足です。わたしを救った大物主はわたしの中にいて、わたしの口で語ることがありますが、わたしはこの通り、救われました」
「入鹿暗殺を急ぐぞ。鎌足。入鹿は仏法を利用し、蘇我氏を祖とする王朝を作ろうとしている。あの窪で入鹿を追い、私は時を越え未来を見た。そこでは初代大王の歌が引かれ、民はおぞましい勢いで王の軍を讃えていた。王が現人神として崇められる姿に、入鹿は憧れ、自分を重ねたのだ。歴史を書き換える。などと言っていたが。何を言っているのか」
「蘇我馬子のときから、蘇我氏は仏教の輸入と歴史書の編纂に力を入れています。一説には、聖徳王に命じられて記し始めた歴史書〈国記〉は未完であり、公になっていませんが、近頃編纂が再開されたとか」
「勝手な歴史を書いているというのか」
恨めしそうに大伽藍の中央の仏殿に鎮座する視線を送り、大物主が口を開いた。
「神代に向かおうとした吾が道を見失ったのはその仏法とやらの仕業だな。仏法の加護で、あのやかましい奴らはアマテラスの窪の中でも道を見失わずにいられるようだな」
梵鐘が裏門の衛兵の交替の時を告げ、寝ぼけ眼だった衛兵が辺りを見回りに出始めた。土で全身が汚れたふたりを見る訝しげな目線から逃げ出し、二人は鎌足の邸に身を隠した。
アマテラスの窪で目覚めた聖徳王なみの耳で音を聞くと、飛鳥の路上で語られるあらゆる言葉が聞こえた。入鹿の動向を伺おうと耳を済ませたが、法興寺の中の音は読み上げられる経の音に遮られてまるで聞こえなかった。
倭国の真の王は蘇我氏である。そう唱える者が増えていた。
そればかりか、入鹿の子孫、赤子と名乗る者が飛鳥中に現れていた。
その数千人以上、どこから現れたか、定かではない。
入鹿を討ち、企みを止めなければならない。山科の庵に送られた刺客が、いつ鎌足の邸を訪れるか分からなかった。
暗殺決行の日を決めかねて七夜が経ったころ、野犬の遠吠えが雲に伸びる新月の夜、邸の門が強く叩かれた。深い傷を負った鯨だった。法興寺から逃げてきたという鯨は、息も絶え絶えに、法興寺から尼僧を一人逃がそうとしたが、衛兵に気づかれて失敗したと言った。尼僧の身が危ないから手を差し伸べてほしいと願い、鯨は深い眠りに落ちた。
*
百済・新羅・高句麗より使者が訪れ大王に謁見する三韓の儀。中大兄と鎌足はこの日を入鹿暗殺の日と決めた。外国からの使者の前で人殺しをするのは憚られたが、儀式のさなか、中大兄の母である斉明大王の御前で、使者らから書簡を受け取る瞬間以外、入鹿の警護が外れ、ひとりになる瞬間が訪れる気配はなかった。
入鹿は常に大勢の入鹿の子孫に囲まれていた。誰も彼も豪奢な金装具をまとっており、私物化した朝廷の宝物殿から次々と金細工を持ち出しては装具に加工させていた。昔から入鹿の言いなりであった斉明大王を中大兄はよく思っていなかったが、いよいよ朝廷の財産までも明け渡してしまったのだ。
入鹿の子孫を名乗る者たちは、法興寺の外れのアマテラスの窪から次々と現れている。黄昏時から振り始めた雨の中、鎌足の手で法興寺から救出された尼が白磁の碗で茶を飲みながら黙々と語り始めた。
「三千大千世界を統べる仏のおひとりである阿弥陀仏さまは無量寿、ひとには量り知れぬ寿命を持ち、遥か昔から涅槃にいたり、未来から過去まであらゆる時空を見通されています。無量寿の名をたった一度でも唱えれば、後戻りすることのない功徳が刻まれ、往生し必ず極楽へ到れると説きました。そして、その法力を持って、時が流れて法が滅しても、無量寿経だけは永遠に残り続けるようになさったのです。阿弥陀仏さまの力は、時をこえて法を定めることができるのです」
「阿弥陀仏のその力を使い、倭国の時の流れに干渉し、自らの血統の者を王として君臨させるつもりなのか。あの大伽藍の読経が日夜止まないのは、そういう理由なわけだね。法興寺では〈国記〉の編纂も行われていると聞いたのだけれど、それとの関係はどうなのだ」
「隋より持ち込まれた阿弥陀仏の涙で墨をとき、〈国記〉に倭国の未来の歴史を書かせているのです。あの窪を通じて、未来から歴史書と歴史を語る者たちを連れ帰り、式部省の者たちに読み解かせ、参照させながら未来の歴史を綴らせているのです。歴史の至るところに、国を統べる者として万世一系の蘇我王家の名を刻んでいるのです。長く下ったあと、倭国のあらゆる人間が蘇我一族を現人神の系譜だと崇めるようにと」
尼が啜り残した茶から薄白く湯気が立つ。万世一系と唱え、信じることはあまりにも簡単だ。甘い陶酔は儚い。苦い茶のもたらすひとときの覚醒のように、時がたてば誰もが覚めてしまう。しかし、時と共に幻想を刻み続けた果てでは、誰もがそれから目覚めることができなくなる。
結灯台の油を継ぎ足していた鎌足が渋い顔をした。
「しかし、わたしにはにわかには信じられない。阿弥陀仏がかの力をもっているなど」
「金装具を付けた可哀想な男子たちが大勢現れているのがその証拠です。蘇我王家の男系の男子が為政者となるように〈国記〉を書き加えるたび、水面に大輪の蓮の花が咲き乱れるように、書かれた時代に入鹿の子孫が大勢生まれます。為政者の周りからあぶれた行き場のない哀れな子らは窪を通り、法興寺へ連れられます。過去から未来へと、〈国記〉による法力の縛りは積み重なり続け、哀れな子らは際限のない地獄の餓鬼の如くです。入鹿がかけたこの呪縛、蘇我家男系男子による統治という呪縛から未来を解き放つには、過去から順に遡る必要がありましょう」
そう言って尼は手を合わせ、法衣の胸元から沈香の欠片を取り出し、火元に投げ込み経を唱えた。白檀満ちる翳りのなか、尼の両目に満ちた涙が床に落ち大粒の濡れ跡を残した。
「何をそこまで泣いているのだ」
「蘇我入鹿、あの方とその子たちが哀れでなりません。あの方は仏法を利用するけれど、心の底では仏様など信じていません。倭国の祖神も信じず、父や祖父が厚く信じた仏様も信じることができず。自ら神を称しようなど」
「あの者を憐れむとは」
「あなた様方の神々の力で討ち滅ぼして差し上げるのが、せめてもの救いかと思います。悲しいことに仏法はもう、ただ使われるのみです。できるのは経を唱えることだけ。ああ、哀れな子らが来ます。さあ、お逃げなさい」
窓の木枠の向こうに数え切れないくらいの人影。どの者も入鹿の血が濃く、顔つきや体格に入鹿の面影が見て取れた。雨音が男たちの音と気配をかき消していた。塀の外、篝火に照らされたのぼりに邸はすっかり取り囲まれていた。
「鎌足、馬で出るぞ」
「なりません。多勢に無勢。いま出ても、馬からすぐ引きずり降ろされましょう。鎌足さま。中大兄王子。法興寺でお救いくださった時のように、この尼を鞠のように天へお打ち上げください」
尼を救出した際、鎌足は尼を鞠のように打ち上げた。朝廷の儀について打ち合わせると門番を言いくるめ法興寺に入り込み、仏塔の下で待つ尼に近寄らせ、山門や塀の遥か上へと蹴り上げて、邸の庭で待つ中大兄の元へ送り、軽やかに受けさせたのだ。
鞠を打つのも人を打つのも同じ要領だ。そう言い出したのは大物主だった。第一、国つ神の前ですでに鞠以外を打つのを披露しているではないかとうそぶいた。
しかし、今度は勝手が違う。中大兄と鎌足どちらが打ち上げようと、打ち上げられた尼を受けることができないのだ。必然、打ち上げられた尼の身体は地に激突することになる。
「今度は受け手がいませんから、打ち上げればお助けできません」
鎌足は悔しそうに唇を歪めた。
「いいのです、この尼めは鞠のように、天と地の間に入りましょう。鞠とはちがって、天地の境に仏法を割り込ませることで、均衡を大いに乱してご覧に入れましょう」
「何を言うのですか。この鎌足にはできません」
私がやろう。そう言うと中大兄は尼を連れ部屋の裏手にまわり、裏庭へ続く渡り廊下の前で尼をしゃがませた。鎌足は止めようとしたが、中大兄が一度決断すれば決して引かない性格なのをよく知っていたから。拳を握って思いとどまった。
よう。と掛け声をかけ、天地の境を最も長く尼が飛ぶようにと力を込めて、外廊下の篝火が風に煽られてより一層明るく輝いた瞬間。中大兄は尼をそっと打ち上げた。
ああ、尼が飛ぶ。
邸の正門の方角、千名近い入鹿の子を名乗る者の群れの端、その向こう、灯された火の中ほのかに姿を見せる法興寺まで見渡せる。天地の調和が乱れ、雨足が弱まると、口ずさまれる経が中大兄の耳によく聞こえるようになった。それもつかの間、時間にしてごく数秒だった。稲光に雲間が満たされ、邸の周囲に光の牢獄のように何本もの柱を下ろした。地を裂く轟音と共に、人の群れの中に、成仏する間もなく焼かれた黒焦げの死体と、これから全員を焼こうとする火柱が残された。
入鹿の子らは悲鳴とともに散っていったが、敵味方を問わない、炎はすぐに鎌足の邸を燃やし尽くした。
鯨を抱えた鎌足と共に馬を駆り、中大兄は飛鳥宮の私邸へと移った。
現人神たる入鹿様に逆らったから神罰が下ったのだ。鎌足邸の焼け跡を見たひとびとがそう口にする声は毎日のように耳に入る。違うのだ。そう言って回りたかったが唇を噛んで潜むしかなかった。間違った風説の根源である入鹿を討たなければならない。
中大兄が止めるのも聞かずに、鎌足は邸の焼け跡に秘かに足を運び、法衣の燃え残り一欠片を手に戻ってきた。それを庭の隅に埋めてふたりで手を合わせると、翌朝すぐに梅の若木が生えた。
満ちた月を見ながら、眠れない中大兄は邸の外廊下に佇んでいた。入鹿殺しの決行日、三韓の儀は目前に迫っている。邸に私兵五百人近くを待機させていたが、いつそれ以上の人数で襲撃されてもおかしくはない。そう思うと目は冴え、遠くの少しの物音でも鳴るたびに緊張し、疲れ果ててしまった。
ぬっと音もなく現れた鎌足にしばらく気づかなかった。鎌足は中大兄と同じように胡座を書き、大きく息を吸ってうっとりと目を輝かせた。
「かつて吾や国つ神の前で鞠を打ってみせたときよりも、力強い蹴り振りになったではないか。オマエが鞠を打てば、天地を均衡させることも、動揺させることもできよう。陽を司ったアマテラスのようではないか。吾はいまオマエから、アマテラスの匂いすら感じるぞ。ああ懐かしい」
「祖神の力が私の中に滾っているのは分かる。でも、大勢に囲まれて脚を封じられれば何もできない。封じられる前に、飛びかかってくる者たちを全員蹴り上げでもすればいいのか?」
「吾を天高く打ち上げれば、吾の名、天と地の間から声をかけ、大物主の名の通り、この国に昔から住む物の怪たちを呼び覚ますこともできよう。やつらは後先考えず、暴れてくれる」
「蝦夷を倒すために暴れてもらうのは何よりだが、物の怪たちは止められるか?」
「いや、やつらは気まぐれだ。吾に従うわけでもない。気が済むまで暴れるだろう」
「それでは、都も民の家々も無事ではすまないかもしれないね」
中大兄は口ごもった。入鹿の子孫ら大勢と戦って、飛鳥自体を無事で済まそうというのは虫のいい話なのかもしれなかった。できれば入鹿だけを殺し、首を刎ねて終わりにしたい。
「何を不安そうな顔をしているのだ。そもそも、吾に頼らずとも、国つ神アマテラスの末裔であるオマエが物の怪たちを従えればいいのだ。蹴鞠を見せるなり、祈るなり、物の怪たちを満足させればよいのだ。アマテラスは岩戸に隠れるだけで天地を闇に浸して、神々を困らせたぞ。その意気を持て。ああ、オマエの弱気でアマテラスらしさが失せた。残念だ。吾は眠るぞ」
気の抜けた鎌足の身体が倒れ、中大兄に寄りかかった。中大兄は鎌足の頭を膝の上に載せてやった。前から吹き込む風が頬を撫でると藤の香りがした。寝室から起きてきた鯨に、庭の隅で鞠を蹴らせた。鯨が鞠を打つ姿は、やはり鎌足に似ていた。
鯨がひとりで百度近く鞠を打ったころ、鎌足は目を覚ました。鎌足は最後になるかもと言い、鯨を交えて三人で鞠を蹴ろうと言った。中大兄は黙ってうなずき、梅の若木の傍らで何度も鞠を打ち上げた。月が落ちきって空が白むまでずっと続けていたいと思った。
でも、満月はまたたく間に叢雲に覆われ、激しい雨が垂れ落ち始めてしまった。
「蹴れば必ず、天地に影響してしまうのかもしれませんね」
「入鹿の抹殺が成功しようと、失敗して私たちが殺されようと、どちらにしろもう、いつまでも蹴鞠を続けることはできないのだね」
「入鹿を倒したあと、アマテラスの力を弱め、私の中から大物主に出ていって貰えばいいのかもしれません。中大兄、気を落としてはいけません。また蹴鞠をする日が必ず来ます」
柱の陰で中大兄は無言で頷いた。
三韓の儀の日、河内国の住吉津に降り立った使者たちは、倭国の様子が唐から伝え聞いていたのとまるで違ったので驚いていた。神風の、撃ちして止まぬなどの標語がのぼりや立て札であちこちに掲げられ、大臣の蘇我入鹿の顔によく似た顔立ちの男たちがみな金装具をまとい闊歩していたからだ。住吉から飛鳥までの道中は男たちに護衛されていたが、男たちはみな蘇我家万歳と呟いて止まなかった。
中大兄は正装し、太刀を潜ませて宮城へと向かった。袍を羽織り、胸紐と腰の長紐を正して冠を被った麗しい姿に、入鹿の子らに役目を奪われ、邸に逃げ込んできた役人たちは目を見張った。
先に宮城に向かわせていた鯨が寄ってきて、宮城の様子を中大兄に耳打ちした。計画通り、警護する兵部の者たちが儀の開始と共に宮城を囲む十二の門を閉ざし、入鹿の子ら侵入を防ぎ孤立無援とする手はずは整っていた。使者たちが大王の前に贈り物を捧げるとき、大臣たる入鹿は大王の代理として、玉座の前で使者たちから宝物を受け取る。その隙を狙えばよい。宮城に入る際に刀剣を取り上げる予定だから、入鹿の抵抗に阻まれることもないだろう。
逆に言えば、それを逃すわけにはいかない。
邸の役人たちを連れ、三輪山へと逃げろ。そう鯨に告げて、中大兄は宮城へと入った。
儀が始まり、雅楽隊が笙と高麗笛で歓迎の音楽を奏でる。続いて、鉦鼓の鳴る中、踊り手たちが玉座の周りを待った。普段より紫冠を深く被った入鹿に踊り手が近づくたび、入鹿は何歩か下がった。表情は確かめられないが、近づかれるのを嫌がっているのだ。いつもの入鹿なら下がると同時に腰の太刀の柄に手をかける。でも今日は、無事に太刀を取り上げることができていた。三名の使者がそれぞれ、宝物を両手で掲げながら玉座の前へと歩き進む。会場の全員の視線が、彼らが持つ螺鈿の螺鈿の箱に向いた。
柱の脇に隠しておいた太刀に手をかける。
太刀を手に、玉座に近づく。金の冠を被り、大王以外が着ることを許されない禁色の青い頃もに身を包んだ斉明大王が座っている。母だ。入鹿に言いくるめられ、国を明け渡そうとしている母だ。その母がうっとりとした目で入鹿を見つめている。
打つべきは入鹿だ。中大兄には分かっていた。
しかし、身体はまるで意に反して動いた。操り人形のように、太刀を抜き、刀身を母の首にかけた。
儀の場からいくつも、役人たちの甲高い悲鳴が上がる。
「おや、おれを殺すつもりじゃなかったのか?」
玉座の裏から現れた入鹿に蹴り飛ばされ、中大兄は地に伏せた。宮城の十二の門より一気呵成に駆け込んできた入鹿の子らが中大兄を羽交い締めにした。玉座の近くに侍っていた男、中大兄が入鹿だと錯覚していた男が紫冠を脱ぎ、父である入鹿の前にひざまずき差し出した。入鹿の種の色が濃いのか、その顔は入鹿に瓜二つだった。
入鹿は紫冠を被ると、勝ち誇ったように笑った。
「皆見たな。中大兄王子はあろうことか儀の場で謀反を企てていたようだ。大王に刃を剥けたばかりか、王子がやろうとしていたのは母殺し。敬うべき家族を父や母を殺そうとするなどあってはならないこと。このおれがこの場で首を刎ねよう」
男たちの唱和が始まる。万世一系、億兆一心!伸びる銀翼、輝く御陵威。進め一億火の玉だ。鋤が光れば、皇国が光る。金は政府へ、身は大君へ!祖国のためなら馬も死ぬ!中大兄が何を口にしようとも、野太い声の群れにかき消されてしまい、参列者に訴えかけることはできなかった。
「入鹿。わたしに何をした」
「『中華、朝鮮の脅威を感じていた中大兄皇子と中臣鎌足は、三韓の儀で蘇我入鹿を暗殺し、天皇を中心とする倭国の国造りを始める』、アマテラスの窪の先、未来から持ち返った歴史の教書を式部の学者に解読させたところ、こう書かれていた。それから、倭国の成立を書いた〈日本書紀〉と〈古事記〉には神代からのこの国の成り立ちが記されていた。おれを含め、蘇我氏はその外に追いやられているのだ。おれが書く歴史はそうではない。天皇を中心とする国造りの役目はおれが引き継ぐ。万世一系のおれの男子らがこの国を強く安定させるのだ。おれの書く国の歴史、〈国記〉では、オマエが大王を殺すところからはじまるのだ。しかし、さすがは神代の力を引き継ぐ者だ。おれなどが御仏の力で未来を書こうとも、それにそのまま従うわけではないようだな」
「お前が望むのは、お前の子ばかりが崇め奉る陶酔に満ちたおぞましい世界ではないか。見ろ。強い血のつながりからか、わたしを押さえつけるこの者たちも、お前に似た顔の者ばかりだ。強い国ではなく、長い時間お前の血や種という毒に浸された哀れな国の歴史を書いて何になるというのか」
「黙れ。そう吠えるな。気まぐれな神々や仏がおれを救ってくれたことはなかった。恥をかかされ、奪われてきた。おれはおれこそを信じるのだ。おい、首はいい。王子の足を出させろ。中臣のやつもすぐに捕らえ、忌々しいお前らの足の皮で沓でも作らせよう」
男たちが中大兄の向きを向きを変え、足が入鹿の前に晒される。
入鹿が太刀を振りかぶる。
軽やかな打鞠の音とともに、三つの鞠が中を舞う。一つは高く伸びやかな流線を、一つは回転と共に緩やかな曲線を、一つは入鹿の顔に向かい飛んだ。
警戒した入鹿と男たちの視線が鞠に集まり、入鹿の太刀が顔に向けられた一つに振り下ろされ、鞠は地に叩きつけられ二つに割れる。
中大兄、すぐに駆けていきます。一瞬の躊躇もなく、蹴り上げてください。
入鹿の子らの声や参列席から上がる悲鳴にかき消されそうだったが、ささやきに近い鎌足の声を、中大兄の耳が逃すことはなかった。
隙をつき鎌足が駆けてくる。
中大兄が、鎌足の身体を蹴り上げる。四方を回廊に囲まれ開けた儀式の場の空高く、鎌足が打ち上がる。大物主と融合したその身体が飛ぶことに、天地はすぐに反応する。
地鳴りがして、地面が揺れる。男たちはみんなよろめいた。
轟音と共に突風が垂直に吹き降りて、男たちを吹き飛ばし地に伏せさせた。中大兄の身体も、四隅に植えられた梅の木の根本に飛ばされた。
大物主の呼びかけに応えて、古くから飛鳥中に祀られた巨石が集まってきて地に落ちる。落ちるたびに入鹿の子たちを押しつぶし、血飛沫が上がり、逃げ惑う貴族や役人たちの衣を赤く染めた。巨石からは何体もの鬼が現れ、鎌足の子らを捕まえては喰らっていく。
国つ神の蛙神タニグクと風神伊勢津彦も現れる。伊勢津彦は宮城を巻き込みながら、次々に入鹿の子たちを吹き飛ばし、ゆうに梅の木三本ほどの高さのあるヒキガエルの姿をしたタニグクは跳ね回り、舌を伸ばして刃を向ける者を捕らえて遠くへ投げた。
鎌足が落ち、入鹿の肩めがけて着地する。
足の砕ける痛みに顔を歪ませながら、鎌足が入鹿を押さえつける。
この期を逃すわけにはいかない。その元へ駆け込んだ中大兄は、入鹿の手から太刀を奪い取ると、それを振り下ろした。身体のうちのすべての力をかけた。
首が飛び、中大兄の全身が鮮血に塗り上げられる。
「〈国記〉はすでに書き終えられている。おれが死んでも。〈国記〉の歴史がおれを証明するのだ」
高笑いをしながら首だけで喋り続けようとした入鹿をタニググが舌を伸ばして飲み込んだ。その毒気はタニグクの腹を膨らませて、首と共に爆ぜさせた。跡には何万匹ものヒキガエルが残り、宮城の外へ向かいぴょんぴょんと跳ねて逃げていった。
「キリがない。倒しても倒しても現れる。入鹿の子らは際限がない。根本から絶たなければいけないね。鎌足、一旦逃げよう」
「足が砕けています。逃げられません。このままでは」
血に濡れた二人はほんのひととき、永遠にも似た赤く甘い視線を交わした。
あの藤の香りを忘れない。あの香りだけは、何が絶えようとも永遠に残っていて欲しいものだ。中大兄はそう口にしようと思った。けれど、言葉を発することができなかった。鎌足がその身を捨てることを決めてしまったからだ。
宮城の壁は風になぎ倒され、鬼に殴り飛ばされ殆ど残っていなかった。飛鳥宮はもはや都ではなかった。荒れ地に落とされた幾つもの巨石をかつて宮城だった木材の瓦礫の山が囲んでいる。見通しの良い四方八方から現れる入鹿の子らは、父の死を知り皆泣いていた。おいおいと泣いていた。泣く声が様々な高さに重なって調和し、聞くもの耳を悲しみに縛りつけた。
鎌足は目を閉じて、自らのうちの大物主に語りかけた。
鎌足の身体から、大物主が融合を解いてぬっと現れた。宮城跡をすべて囲い尽くせそうなほどの長い銅と尾を地に這わせ、泣く男たちを次々になぎ倒した。
そして、中大兄を咥えると、飛鳥宮の南、自身の社のある三輪山へと逃げた。
入鹿の子らは鎌足の身体を踏み潰しながら集まって、入鹿の首なし屍体を拾い上げると高く書かかげ、降り始めた大雨の中を法興寺へと帰っていった。
*
三輪山の社の付近は標高のせいか、平地の飛鳥よりもひやりとしていて、少し遅れた山藤が、色深くなりはじめた山の若葉の香りの間を縫って、いくつもたおやかに枝垂れていた。
呆け顔で風がそよぐのをいつまでも見ていたいと中大兄は思ったけれど、大物主に連れられて、社殿の床下に口を開けるアマテラスの窪へと入り込んだ。
時空を越えた先、〈国記〉に描かれた未来から、入鹿の子らと、入鹿の万世一系の男系男子である為政者の声を拾うことができた。馬鹿の二つ覚えのように題目を唱えている。
〈国記〉の影響を滅するために、この馬鹿げた音を頼りに、ひとりひとり、一つずつ殺して消さねばならない。
太刀を構えて息を飲む。すべてを殺し尽くすのに、どれだけの時間がかかるだろうか。
少年、少女、老婆、翁、嬰児まで、入鹿の子らを斬り捨てていかなければいけない。
「待て。焦るでない。あれを滅するなら、毒には毒ぞ」
そう言いながら、すでに大物主は中大兄の身体に胴体を巻き付け、ぎゅんと曲げた頭を顔の前に垂らして、人の手のひらほどの太さのある舌を中大兄の口の中にねじ込んだ。この方が好ましいか? 大物主はその姿を鎌足に瓜二つに変えて、舌を抜いてそう言った。肩に手を回し、強く抱いて、鼻先を首筋に押し当てながら息を吸った。匂いも、肉の付き方も、骨の硬さも、温もりも、髪の滑らかさも、何もかもが一つ残らず鎌足であった。しかし、それはどうしても鎌足ではないのだと、心の底が震えて嘶いた。中大兄は大きく首を振って、大物主の誘いを拒んだ。
足先から銅に巻き付いた大物主の体が、少しずつ身体と融けあっていくのが分かった。身体の骨と輪郭の感覚は確かなのに、身体という皮に流れ込んだたっぷりの液の水面に骨は浮かんでしまっていて、骨の周りで輪郭も浮き踊っているように思えた。
高くに太陽を掲げた空が緩やかに落下し、同じような緩やかさで上に登る冷たい大地とが一体になって揺れるさま、天と地が交わる様を幻視した。幻視するたびに、懐かしい記憶が引きずり出された。それが自分の記憶か、大物主の記憶か、アマテラスの記憶かわからないぐらいに混濁するのを感じた。地が融合する時、天の方から立つ匂いに懐かしさを感じた。白橙の色が垂れ落ちて地に混ざるのは長い藤の花が地に触れるようにも見えた。
水の中で揺蕩っていた輪郭の感覚がより強くなり、骨の周りの肉に張り付いていくと感じられた、人の肌の感覚と蛇の鱗のざらつきの感覚が代わる代わる訪れて、最後には人の肌の感覚が残ったらしい。股間の性器は溶けて身体に埋まり、代わりにそこには大きな穴が開いた。
身体はアマテラスに近くなったようだな。大物主が言った。産んで殺すぞ。そう続けた。中大兄が少しいきむと、十の卵が続けて落ちた。卵はすぐに孵って、中大兄と瓜二つの男たちが現れた。蛇のようになったのか。中大兄は指先で腹をさすり、大きな穴に手首を入れて弄った。軽く濡れたそこには快楽も痛みも、なんの感触もなかった。産んで殺そう。中大兄は子らを窪に残し、外の光の元へ出た。
社の入り口に立つ石造りの鳥居の柱によりかかり、鯨と鯨の連れた役人たちが休んでいた。その中に〈国記〉を知る式部の者がいた。
「〈国記〉には、どれほどの数、入鹿の子について書かれている?」
「千歳を超える時の流れが刻まれ、大王百代以上、征夷大将軍五十あまり、時代ごとの豪族の長について合わせて千ほど、すべて合わせると千五百は下りません」
「分かった。では、お前の覚えている〈国記〉について、わたしに語り聞かせてくれ」
子らを過去へ送り込み、時の流れを順に巡らせた。入鹿の毒気が入った時代はすぐに分かった。入鹿の肖像画が至る所に掲げられ、入鹿に似た男たちが煌々と輝く金装具をまとって、喧しく蘇我家賛美を唱和しながら闊歩する。アマテラスの窪で耳をすませばどこに向かえばよいのかはすぐに分かった。
しかし、入鹿の子らはとにかく数が多かった。
ときに囲まれ打ち据えられ、大勢の子が死んだ。
未来から過去、飛鳥の法興寺に向けて歩く入鹿の子らも次々に斬り捨てた。ちょうど蘇我聖武帝を切り捨てた頃、法興寺の窪の入り口から出てくる子らが半分ほどになった。
中大兄は一度飛鳥に戻り、母である斉明王を廃し、残った役人たちを集めて難波への遷都を宣言した。自身は王位につかなかった。後始末が済むまではそのことを考えたくはなかった。
蘇我平氏を倒す時は蘇我源氏側につき、屋島、壇ノ浦では自ら船を漕ぎ屋を放って平氏滅亡に力を注いだ。蘇我平氏の滅亡を確認すると、今度は蘇我源氏三代をそれぞれ切った。そして蘇我北条歴代を切り、蘇我足利歴代を惨殺し、蘇我系後醍醐帝が南北朝に朝廷を割った際は、どちらも蘇我系であるのに争っているのを見て頭を抱えた。
諸国の蘇我系大名と順に戦う日々を終えると、即位せずに五年が経過していた。その間、王位をめぐり政争が起こった。ある王族の王子二人が、どちらのどちらの父が正統であるか争い始めたのだ。
くだらない。父が存在するから、正統で争わねばならないのだ。中大兄はそう思い。王子二人を飛鳥の寺院に幽閉した。
蘇我徳川家の歴代を順に時代を下り滅ぼすと、いよいよ法興寺の力も弱くなった。アマテラスの窪より攻め入って火を放つと、倭国最初の寺院はあっさりと灰燼に帰った。
最後まで他の時代よりもひときわ力強い万歳三唱を響かせている時代へと足を運ぶと、中大兄は懐かしい東京驛に出た。皇軍の戦果を賛美する蘇我海軍大臣の演説が流れ、襤褸を着たひとびとが熱心に耳を傾けていた。こんな時代などなければ、入鹿もああはならなかったかもしれないのに。中大兄は思った。しかし、いくらなければよかったと思っても、窪を通ってこの時代の雛形である時代を見てしまったことは偽りのない事実だった。
聖徳王の肖像が描かれた紙幣に太祖蘇我入鹿と書かれているのを見て、中大兄は笑いながらそれを破り、マッチを擦って火を点けて捨てた。万世一系の蘇我王家を冒涜するのかと寄ってきた憲兵隊を斬り伏せて、丸の内の真ん中を血まみれのまま歩み進み、帝都の宮城へ突入した。
陸海空軍の将校を斬り捨てて、玉座に座る帝の前に立つ。
太祖の肖像の前で弱々しく座す帝の首を刎ねると、〈国記〉の法力が開放されて宮城を激しく揺らした。〈国記〉により造られた時代は融けるように崩れ去った。
産み殺しを始めて十年目のことだった。
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飛鳥宮の宮城跡は入鹿との戦いのその日のままで、飛鳥中から飛び込んできた巨石が立ち並んでいる。長い年月の間に降った雨により、血生臭さはすっかり消えており、鎌足から大物主が抜け出たそのあたり一面に、いまでは数十もの藤の木が立っている。
そしてそこは、即位し天智帝と名乗った中大兄の許しがなければ立ち入れない場所だった。
ぽん。ぽん。やあ。と鞠を打つ音と掛け声が聞こえる。藤の木を四隅とする四角を鞠庭として、鯨が鞠を蹴っていた。遠目に見ると、山科の密庵のときの鎌足の身のこなしに似ている。
見るだけであの日々を思い出し、胸が飛び上がりそうになるほどだ。
中大兄は鯨を呼び、跪いて足をじっと眺めてから、さらしで沓の埃を拭き取って、ぽん、ぽん、ぽんと、右左右で鞠を打つと鯨の方に蹴った。鯨も同じように。やあ。と掛け声を出して、地に近い所で優雅に鞠をさばくと中大兄に返した。四隅の藤に鞠を当てても上手に跳ねさせて足元に戻した。そうして戻した鞠についた匂いを吸って、鎌足のことを思い出した。
お互いにそれを幾度も繰り返した。十、二十を数えたところで、中大兄は地に膝をついて息を荒くした。かつては百、千を越えても平気だったのに。
長き戦いで身体は限界を迎えていたのだ。誰にも言っていなかったが、誰よりも中大兄自身が、そのことを分かっていた。
中大兄は鯨に耳打ちし、この最後の子を産むと告げた。〈国記〉との血塗られた歴史を知らないその子を皇太子にしたいことを伝え、鯨に中臣家に入り、その子の面倒を見てくれるように言った。
「その子もまた、わたしと同じように子を産むから、ひとびとと違うことを伝えてほしい」
「中臣家が私をすんなり受け入れてくれるとは思いません」
「心配はない、誰もが鯨に、鎌足の蹴鞠の足が受け継がれていると思うだろうから。血筋ではなくて、身のこなしで受け継がれるという考えがあるべきだろうから」
二十あまりの打鞠でさえ、中大兄の蹴鞠は天地に動きをもたらす。中大兄は鞠を手に、遠くからやってくる雨雲を見つめ、雨で藤の花が流れてしまうことを悲しく思った。しかし、どれだけ雨が降ろうとも、あの日の匂いを忘れることはないのだと、抱いた鞠に花を寄せてもう一度思った。神にでも仏にでもなく、誰に誓うでもなく。友を思い祈った。
遷りたての大津宮へ戻ると、中大兄ははじめて鎌足の死を公に認め、中臣を藤原と諡した。鯨は藤原鯨となり、鞠打ちの足を見て継承する一族となった。それは他の貴族からは家だとは思われなかったが、問題はなかった。
子を産み落としたあと、中大兄は山科で消息を絶った。
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