その口紅ルージュの色は

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梗 概

その口紅ルージュの色は

彼女のお通夜の受付を担当した私達同期3人は、故人のお母様から、彼女に化粧をして欲しいと頼まれる。
私以外の2人は涙が止まらずできる状態ではなく、事前に入院先でステージ4であることを聞いていた私だけが願いに応えられる状況だった。
丁寧に化粧をしていくうちに彼女との思い出が甦り、涙が出そうになるが堪えて化粧を完了させる。
故人に施したルージュの色が深く心に残った。

後日、彼女に施したルージュのことを忘れていて、それを使った時に、死ぬ間際の彼女の思いがいくつか心に伝わってきた。
彼女は未練を残して亡くなっていた。その思いを晴らしてあげることが一番の供養となるように感じた。

まず彼女の部屋の引き出しから差出人不明の封書を手に入れる。
そこには故人への思いと不治の病であることを知らせてくれなかった故人をやんわりと責める言葉がしたためられていた。
手紙の差出人を特定し、彼女が自分の死後のその人の気持ちを思いつれない態度を取ったことを伝えようと試みる。

しかし差出人がなかなか特定できない。本命だと思った人物は彼女とは深い関係ではなかった。
彼女を調べる過程で何度も遭遇した年下の青年も彼の片思いだった。

思わぬ出来事から、彼女の父親の親友が手紙の主であることが判明する。しかも彼女はその人物の子供を宿していた。
手紙を見せて彼女の最後の気持ちを伝えようとしたが、末期の思いが伝わったことを信じてもらえない。
それどころか私を彼女をネタにその人物をゆすろうとしている者と判断され、監禁される。

彼女の恋人からの疑いは晴れたが、監禁を依頼された連中は私を釈放せずに人身売買組織に売ろうと算段していた。
売り払われる前日に、下っ端のチンピラに暴行されそうになった時、彼女の恋人が救出に現れ逃げだすことに成功する。

彼女の恋人の別荘に匿われているうちに、情が移り関係を持ちそうになるが彼女の顔が心に浮かび踏みとどまった。
その晩、生前に見たことがない彼女が激怒している夢を見て不吉な思いにとらわれる。

件のルージュをもう一度使った時、最初の時とは異なる思いが伝わってきた。それは恋人に対する激しい殺意だった。
殺意の原因を確かめようと、彼女の恋人とのきわどい言葉遊びを繰り広げる。
その過程で彼が殺人者であること、そして彼女がそれを知っていてかばっていたことが徐々に明確になってくる。

混乱した私は別荘を逃げ出して、都心をさまよっていたが線路のホームから突き落とされそうになり、
その相手が亡くなったはずの彼女てあることにショックを受けて意識を失う。

目覚めると見知らぬ病院の一室に横たわっていた。見舞客と思った故人の両親が私を娘として扱うことに衝撃を受け
鏡に映る姿を確認する。それは故人の顔だった。いつの間にか喋ることが出来なくなっている。
そして父親の親友であるその男が部屋に現れ例の手紙を残していく。私は手紙を見つけた時のように読みかけの本にはさむ。

文字数:1200

内容に関するアピール

友人の体験談をもとにホラー風の話を作ってみました。

文字数:25

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その口紅ルージュに託した思いは

 
「娘に化粧をしてあげてください」
 
 通夜の受付を担当するためにずっと早く葬祭場に着いていた私たち同期三人を、故人のご両親が棺の安置された葬祭室に招き入れた。そこでお願いされた言葉に激しく心を揺さぶられる。
お父様が棺の蓋を開けると、そこには見覚えのある白いワンピース姿の生きている時と少しも変わらない眠っているような麻里亜の姿があった。

私の右隣りの香菜が口元を押さえるようにして嗚咽しはじめる。
私の心にも、抑えきれない気持ちが湧きおこった。
〝こんなに綺麗なのに、こんなに若いのに……どうして……どうして〟
「装束はこちらで指定したものを着せてもらいました。でも今風のお化粧の仕方が判らなくて……一番きれいな姿で皆様に……お別れさせてあげたくて……」
お母さまは目頭を押さえながら、途切れ途切れに私たちに話しかける。

傍らの沙織の表情がぐしゃぐしゃに崩れていく。両目から堰を切ったように涙が溢れ出す。
「……無理です。私には……できません……」
沙織は泣きじゃくりながら、絞り出すようにそう答えた。
香菜も口元に当てた手で泣き声をこらえながら首を横に振るばかり。

お母さまが私に向き直り、覚悟をきめたように語り掛ける。
「由紀さん、あなたが一番仲良くしていただいたと聞いています。お願いできないでしょうか」
お母さまの言葉を聞きながら、麻里亜と過ごした日々の記憶を思い浮かべていた。

麻里亜との付き合いは入社以来、6年に及ぶ。負けず嫌いで理詰めな私と落ち着いた性格の彼女は、何故かとても馬が合った。
彼女の前では、いつもは押さえている感情を出すことができた。彼女の前で何度泣いたことか。そういう時はいつも笑いながら慰めてくれた。
最後のお見舞いに行った時、ステージ4で長くはないことを淡々と告げられて、彼女の前で涙を止められなかった。
〝由紀は泣き虫だね〟と弱々しく微笑みながら話かけた彼女の顔を思いだす。
〝だって、あなたがいなくなるんだよ! 泣かないなんて……無理だよ〟
そう言って泣いた時に、今日を迎える覚悟ができていたのかもしれない。

傍らの二人の気持ちは手に取るように判った。私も最初に顔を見た時に踏みとどまっていなければ、感情に押し流されていただろう。
今は不思議と心が落ち着いている。ここには私しかできる者がいないことも判っていた。
 
「私でよろしければ、お化粧させていただきます」

そう答えた時、記憶に残っている一番楽しそうに微笑んだ時の彼女の顔が心にうかんだ。
〝そうだ、あの時の顔にしてあげよう〟

ハンドバッグの中の手持ちの化粧品を心に思い浮かべて、化粧のプランを考える。
手持ちのウエットティッシュで肌を拭き、汚れと皮脂を落としていく。
化粧水は持ち歩いていないのでクリームを塗り保湿してから、ファンデーションで、青ざめた肌を明るい色に変えていく。

肌に直接指が触れるたびに、その冷たさが彼女の命がここにないことを思い起させ、感情の波が押し寄せてくる。
〝泣いてはダメ、綺麗にしておくってあげないと〟
手を止めてそうつぶやき、しばし心が静まるのを待つ。

太く、大胆に眉を引くことで弛緩した表情に生きているかのような勢いを与えよう。
睫毛の化粧はカールさせようとしても、少し引くだけで抜けてしまうのであきらめた。
アイシャドーは、暖色系のものをごく薄くいれてみた。今にも目を開けそうな風情に仕上がり、涙で視界がにじむ。
淡いオレンジのチークで、自然な感じの血色を頬に与える。
ルージュはあえて濃い彩りのものを使ってみた。生前、地味なリップの色を好んだ彼女を、濃い色ならもっと綺麗に見えるのに、惜しいなと思っていた気持ちを込める。
 最後にもう一度、細かい部分を見直した時、白い服を着た黒髪の麻里亜の姿、モノトーンに近いその姿の中で唯一濃い紅色の色彩を放つ唇が、かすかに動いたように思えた。
不思議な感覚に驚き、首を振り、目元をこすってもう一度、麻里亜の顔を見つめる。化粧が終わった時とどこも変わりがないようだ。

深く呼吸をしてから、お母様に声をかける。
「麻里亜さんのお化粧が終わりました」
 
「あ……ありがとう……ございます。こんなに……こんなに綺麗に……していただいて」
これ以上一滴の涙もでないように思われた泣きはらしたお母様の双眸から、再び涙が溢れだす。
 
嗚咽するお母様の姿が、もう一刻も抗うことのできない感情の波を呼び起こした。
「失礼します」
そう言い残して、逃げるように葬祭室を後にして化粧室に駆け込む。
溢れだした涙はいつ果てるとも知れずに流れ続けた。

    **

麻里亜の葬儀から、凡そ一月が過ぎた。
喪失の寂しさを埋めるかのようにがむしゃらに働いている。疲れてて泥のように眠る時だけ、心を空にすることができた。
十分なリラクゼーションをせずにベッドに倒れこむようにして寝た翌日の目覚めは最悪だ。体中がだるくて、頭も重い。
こうして少しづつ命を無駄遣いして死に近づいていくのだろうか? 心から喜べるような日は二度とこないように感じられた。

洗面所の化粧鏡に映る姿は、去年より5歳は年老いたように見える。化粧ののりはあまりよくない。
寝不足の朦朧とした頭で、普段使いの口紅ルージュを切らしたことに気づき、コスメボックスの中から手探りで取り出した使いかけの濃い目の口紅ルージュを唇に当ててみる。
 
一瞬のめまいの後に、感覚が急変する。鼓動の音がひどく大きくはっきりと聞こえる。部屋が廻っているかのようだ。周囲の景色がぶれて、ぼやけてしまう。
目のまえの化粧鏡だけがはっきりと認識できるのだが、そこに映る顔は……そこに映る顔は……私ではない……そう亡くなった麻里亜のものだ!
 
『探してあの手紙を! そして伝えて、あの人に、誰よりも愛していたことを!
 仕事と家庭のことで苦しんできたあの人をこれ以上悩ませたくなかった。
 画期的な治療法ができて、病魔を克服して元気な姿であの人に会うことに一縷の希望をつないでいた。
 あの人に私の心が離れていったと思われていたことに……私は耐えられない!』
鏡の中の麻里亜が懇願している。その手紙の視覚イメージが、質感が頭の中に流れこんできた。
めまいとともに徐々に意識が薄れていき、崩れ落ちるように洗面所の床に倒れこむ。

意識が戻った時に握りしめていたものは、あの日、麻里亜に施した化粧で使った口紅ルージュのスティック。
鏡に映った彼女の顔と手紙のイメージが頭から離れない。
〝今のは夢ではない。幻覚でもない。彼女の最後の願いだ! 何故かは判らないけれど口紅ルージュから伝わったとしか思えない!〟
抜け殻のようだった私の心に、彼女の最後の願いを叶えようという気持ちが灯った。

    **

「あなたが来てくださって麻里亜も喜んでいることかと思います。部屋の中は最後に入院した時のままで何も手を入れていません。
お仕事で使っていた手帳類は机の上にあります」
四十九日法要で訪れた折に、仕事の上で確認が必要なことがあり麻里亜が仕事に使った手帳などが残っていたら見せて欲しい旨を伝え、お母さまに彼女の部屋に案内していただいた。

この部屋で将来の話をしながらお茶を飲んだことが、昨日のことのように思い起こされて、感傷で視界が滲む。
「少し、外していますから。ゆっくり確認なさってください」
私の表情から何か秘密めいたものを感じたのだろうか?
お母さまがそう言って部屋から出ていった。

目的の手紙のありかは判っていた。本棚から一冊の本を取り出す。彼女が病室に持ち込んでいたものだ。
栞をはさんだページにその手紙もはさまれていた。あの日の彼女の姿が夢や幻覚ではなかったことを確信する。
 
『麻理亜へ
 
ささいなことで離れてしまったけれど、私たちはお互いを深く理解していると思っていた、
少なくとも私は。
 
あなたと過ごした日々の記憶が私を苦しめる。何故、不治の病の床にいることを知らせてくれなかったのか?
 
あなたに伝えたいことが山のようにあったのに、あなたと話したいことがいくらでもあったのに。
 
あなたと会える機会は今日だけなのかもしれない。
そしてあなたへの思いをご両親の居られる病床で語ることはできない。だからこの手紙に託します。
 
あなたとの最後の時を、何もかも投げ捨てて、一緒に過ごしたかった。
 
でもあなたは私とのことがなかったかのように去ることを選んだ。
 
その決断が私の心に例えようのない痛みをもたらしている。
 
あなたをもう一度抱きしめたかった。
 
あなたを世界のだれよりも愛している。
 
そして私はもう二度とこれ程深く人を愛することはできないだろう。
 
さようなら、私のただ一人の、そして心からの思い人

K』

手紙はブルーブラックのインクの万年筆で書かれており、麻里亜の細く整った文字とは異なる、大胆で太い筆致だった。
この筆跡とイニシャルのKからこの人を見つけなければならない。

内容にざっと目を通してから、略式の喪服のポケットにそれをしまい、彼女の手帳を開く。
見慣れていたはずの几帳面で小さな万年筆の文字を見た時に、思わず涙がこぼれた。

住所録から、名前か名字にKが付く人物を探し、スマホで写真を撮っていく。
もしかして手紙そのままにKと記載された項目がないかと見直したがそれはなかった。

撮り終わってからお母さまに声をかけて、探していたものが見つかったことを伝え、お礼を述べてから退去した。
 
帰り道で手紙の内容を確認しながら呟く。
〝あなたの最後の願い、必ずかなえてあげるから。あなたの思いを手紙を書いたKという人に必ず伝えてあげるから〟

    **

手帳の住所録に記載されていたイニシャルがKの人物は14人、そのうち5人は女性であり、彼女の性格と嗜好からKではないと判断した。
うち4人は同期で共通の知人であり、既にパートナーがいるので彼女と深い関係にあるとは思えなかった。
2人はビジネス上のクライアントであり、公私の区別を明確にする彼女がプライベートな関係を持つようには思えなかった。
3人の同僚の男性がKの候補として残っている。
 
 『山崎 慶太』
 
彼女の部署の1年先輩で、彼女と付き合っているとの噂がたったこともある。
私は彼女の部署を訪ねた時に挨拶をする程度の仲だったが、彼女に噂のことを聞いた時に、
「さあ? 素敵な方だけれど、どうかしら?」
と意味ありげに笑ったことを覚えている。Kの本命のように思われる。
 
 『狩野 次郎』
 
営業職で私たちより3年年長の色黒でガタイのいいスポーツマン。若くて魅力的な女性を口説くことが礼儀と考えているような節がある。プレイボーイを絵に描いたような男だが、付き合った相手で悪く言う人がいないのは恋愛に対しては真摯なのだろうか? 
麻里亜もくどかれていて、一回くらいは食事に付き合ったようなことを話していた。私は口説かれたことがないと答えると、
「由紀はその……あれだから……隙がないから……かな?」
と笑いながら応えた麻里亜の言葉に、何か私のその方面での鈍感さを揶揄するようなニュアンスがあり、イラっとしたことを覚えている。
手紙のイメージとはかなり異なる人柄に思われるが、麻里亜の琴線にふれるものがあったのかもしれない。
 
 『藤崎 浩二』
 
彼女の2年後輩で同じフロアの、八重歯が可愛いい小柄で痩身の若者。彼女がOJTリーダーだった縁で、仕事でもプライベートでも色々と相談を受けていたらしい。
「頼りない感じで、放っておけないのよ!」と話しており、年下でも職場ではさんづけで呼ぶ麻里亜から、一人だけ『藤崎くん』と呼ばれて可愛がられていた。
本人もそれを意識しているようで、麻里亜に対して甘えたような態度をとるのが周囲の人間の癇に障る時がある。
万年筆は持っていないようだし、手紙も書きそうにないのでKではないと思うが、仲が良かったことは確かだ。

ここのところの働きづめで仕事のノルマをかなり前倒しで消化している。
心身の休養も兼ねてペースダウンして、K候補の3人と接触してみることにした。

    **
 
「営業部の忙しい時期にお時間を割いていただいてすみません。同期の麻里亜のことでお聞きしたいことがありまして……」
狩野と会社の近くのカフェで待ち合わせをして、要件を切りだした。
「目が回りそうに忙しいけど、由紀ちゃんみたいな美人の誘いを断るなんて野暮な真似ができる男じゃないよ!」
といいながら白い歯を見せて笑う狩野は、確かにある種の魅力がある男性と感じる。
「麻里亜か……いい娘だったよね。ことわざ通り、美人薄命だったのかな。本当に神様もひどいことをするよね」

ひとしきり彼女の早世を惜しむ挨拶を交わしてから、本題に入る。
狩野には単刀直入に質問した方が、よさそうだ。
「狩野さんは結構、麻里亜をくどいていたように見えましたけど、本当のところ、彼女と付き合っていたんですか?」
「誰がそんなこと言っているの? 確かに、何度も食事に誘って一回つきあってもらったことが……それだけだったと思うけど……」
記憶をたどるように視線を斜め上方向に漂わせている狩野の表情に、嘘はなさそうに思えた。
「うん、やはり一回だけだね。会話がとても楽しかったよ。彼女、虫も殺さないような顔していて実はスプラッター映画好きなんだよね。熱く映画愛を語られたよ!」
「そうですよ! 私もそうと知らずに映画に付き合わされて、館内で声を出さないようにするのが大変でした!」
狩野との会話は弾んだ。彼女の生前の思い出から始まった会話は、狩野の驚くべき体験談に引き込まれて小一時間続く。
この人がモテる理由がよく判る。自分を飾らず、相手を楽しませることだけを心掛けた会話はかなり心地よかった。
一区切りついたところで、少しの沈黙を挟んで狩野が最初の質問の意図をたずねてきた。
「ところで何で麻里亜と付き合っていたかを訊いたのかな?」
たわいない会話から一変しての直球の質問に、しどろもどろになり、ほとんど本音をもらしてしまう。
「その…麻里亜に伝言を頼まれていて……でもその人のイニシャルがKと言うことしか判らなくて……」
 
「……」狩野がそれまでとは異なる深刻な表情でなにやら思案している。
 
「麻里亜の相手は僕ではないけれど……彼女の相手の特徴は食事での会話で何となく判ったかな?」
「そんなこと一回の食事だけで判るんですか?」
「判るさ、簡単だよ! 由紀ちゃんが2年以上フリーで相手がいないことが、今日判ったようにね」
いきなり自身に話題を振られ、図星を突かれて、頭に血が昇った。
〝何でそれがわかるの? ほとんど話を聞きながら相槌を打っていただけなのに? 恥ずかしいな! 私、今きっと赤面している〟
 
「年齢は判らないけれど、精神的には大分成熟した大人の男性だね。そして彼女とは昔からの知り合いだと思う」
私が赤くなっているのを見て見ぬふりをして、麻里亜の思い人について語る狩野を憎らしく感じた。
それでも、彼の語った人物像が手紙の内容と整合性のあることには納得していた。

    **

藤崎浩二にコンタクトして狩野と同じカフェで麻里亜の話が聞きたい旨を電話で伝えたところ、
「麻里亜さんの思い出話を、素面でなんてできませんよ!」
と言い返されて、職場近くの高層ホテルの眺めの良いバーのカウンターで二人で飲んでいる。
 
「それで麻里亜さんの付き合っていた人を知りたいって、どういう風の吹き回しですか?」
昼間の職場でのいじられキャラ的な印象と異なり、夜の藤崎からはどこか会話の主導権を取ろうとする支配欲のようなものが感じられた。
「麻里亜から私宛のメッセージが残っていたことに最近気づいたの。それには大切な人への伝言が書かれていたわ。でも相手の名前の書かれたメッセージは送られていなかったの」
狩野との会話の教訓から、あらかじめ用意していた超常現象を含まない理由を伝える。
「それが僕かも知れないと?」
「判らない。イニシャルしか書いてなかったから」
 
「……」
藤崎はしばらく無言で何か考えを巡らせているように見えた。
 
「それ、僕のことかも知れない。麻里亜さんにいつも迷惑をかけて、心配させてばかりだったから、それが高じてそんなメッセージ残したのかもしれない。全部、僕が悪いんだ!」
そう話す藤崎の眼から、涙が一筋頬を伝って落ちた。
カウンターに肘をつき、両手で顔を覆うようにして嗚咽しながら麻里亜との思い出を語り始めた。
 
「麻里亜さんはいつも僕を守ってくれた。なんでも教えてくれた。僕がつらくてたまらない時にいつも慰めてくれた。彼女がいなくなって僕は寂しくてたまらない!」
涙をボロボロと流しながら彼女への思いを喋る藤崎の言動に、何故か冷めてしまっている自分に驚いていた。
藤崎の嗚咽する背中をさすりながら、この情緒過多な男をどうしたらいいのか判らずに困惑している自分がいた。
〝麻里亜が『由紀はあれだから』と言っていたの、こういうところかな? でも私は自分の弱さを見せて同情を買おうとするのは嫌いなんだ! 冷淡なのかもしれない。きっと麻里亜だったら適度に共感を示してうまく慰めているのだろうか?〟
 
「由紀さん、麻里亜さんがいなくなってからつらくてたまらない。由紀さんに麻里亜さんのように甘えさせてください」
そう言いながら肩に回してきた藤崎の腕と言葉が、私の中の一線を越えた。結構な力でその手を跳ねのける。
 
「いてえなあ! 何すんだよ! 麻里亜の親友だからって気を使ってやってるのに……」
藤崎の口調が急変した。痛みと拒絶されたことの悔しさで本性が出たようだ。
そう思いだした。この手の人間は決して弱くなんかない、弱さで人を操ろうとするとても自意識の強い存在だ。
そして自らが見せた弱さに共感しない相手を、陰で中傷するのだ。
本当に弱い人間は、誰にも頼ることさえできず、人知れず自らをこの世から消してしまう。
 
「俺のイニシャルの『F』が麻里亜のメッセージにあったんだろう? 麻里亜もいつまでも俺の誘いに煮え切らないから、後悔のメッセージをあんたに残すことになるんだ」
 
「ご愁傷様、今の言葉で私の探している麻里亜の思い人はあなたではないことがはっきり判りました。あなたの保護者替わりになる気は一切ありませんから!」
悔しそうににらみつける藤崎を後にして、飲み代、場所代相当の紙幣をカウンターにたたきつけ、バーの扉を乱暴に閉めて出ていく。

    **
 
 なかなか都合がつかず、3人のイニシャルKの中で本命でありながら最後に接触できた山崎慶太と、カフェで待ち合わせした。
藤崎の時と同じ内容で要件を切り出すと、意外な反応が返ってきた。
「俺は麻里亜とは付き合っていないんだよ。そういう噂が立っているのは知っているし、未だにそう思っている人も多いみたいだけれど」
 
「山崎さんが、本命だと思っていました。お二人が一緒にいるところを目撃した人も多いです。あなたにその気がなくても麻里亜はそう思っていたとか?」
 
「由紀ちゃんに麻里亜がそういったの?」
 
「いえ……『素敵な方だけれど』とは言ってましたが、曖昧な答えで煙に巻かれました」
 
「そうだろうね。親友の君だから打ち明けるけれど、彼女が入社3して年目くらいに、結婚を前提にした付き合いを申し込んで、断られているんだ」
 
「えっ、えっ、そうだったんですか! 全然知らなかったです。すみません、無神経なことを聞いてしまって……」
 
「いや、いいんだ。その頃はとても仲良くしていたし、僕の誘いにはいつも付き合ってくれたから当然、彼女も同じ気持ちだと思っていた」
 
「彼女が断った理由って?」
 好奇心と彼女への義務感で前のめりになっていた私は、これ以上にない失礼な問いをした。そのことに気づき、赤面する。
「直球、ド真ん中に160kmって感じの質問だね!」
山崎は苦笑いしながらそう応える。
「すみません! すみません! 今の質問は取り消します!」
 
「あはははっ! 豪快すぎて逆にすっきりしたよ。いいよ話すよ」
「本当にすみません……すみません」
〝多分、私の顔はこれまでの人生で一番、赤くなっているはずだ!〟
 
「彼女には、ずっと昔から心に決めた人がいたらしい。今の君みたいに真っ赤になって一生懸命謝っていたよ!」
「そんな昔から……どういう関係なんでしょう?」
「当時25歳くらいだから、高校か大学から付き合っている同年代の人だと思い、冗談で結婚式の二次会には呼んでよと言ったら……その……急に泣き出したんだ!」
「彼女が人前で泣くなんて、初めて聞きました」〝私は彼女の前で良く泣いたけど……〟
「僕も驚いたよ。何か訳がありそうだったけど、聞けなかったね。それから、これは僕の勘だけれど、ずっと年が離れた人のように思えたよ」
 山崎の勘は、手紙のイメージとも、狩野の推理ともぴたりと一致する人物像に思われた。

暫く世間話をしてから、協力してもらった礼をいい山崎と別れる。私には山崎が誠実で落ち着いていてユーモアのセンスもある、恋人としても結婚相手としても望ましい男性に思えた。
〝こんな素敵な人を袖にしてまで、思い続けているKってどれだけ魅力的なの?〟
良くないことと思いながら、Kに対して好奇心だけでなく、徐々に好意的な気持ちを持ち始めている自分に気が付いていた。

    **
 
 昔からの知り合いでかなり年上の男性という山崎と狩野の推理と、山崎との結婚式に関する会話で涙を流したという情報から、社内に偏っていた調査対象を一旦白紙に戻した。
思いつくことは中学か高校の教師との関係だ。麻里亜は中高一貫の私立女子高だったので、その可能性は考えられる。
彼女と同期の女子数人で旅行に行った際に、2人部屋で同室となったので昔話で結構盛り上がった時の記憶を思い起こしてみた。
首都圏の公立の共学校出身の私からしてみると、中高一貫の私立女子高は宝塚しかイメージできるものがなく、秘密の花園っぽくて、根掘り葉掘り女子高あるあるを聞き出そうとして彼女を閉口させたことを覚えている。
 素敵な先生がいて皆が纏わりついていたけれど、在学中に結婚して、滅茶苦茶恥ずかしい愛妻弁当を持参し始めてから急に太って、潮が引くように皆の熱が冷めた話とか、面白い話はそこそこにしてくれたのだが、自身の感想を聞くと、
「学校の先生には、あまり興味が湧かなかったな。何だろう、私の性格が変なのかもしれないけど、考えが見えてしまって……」
と言葉を濁していた。先生に熱を上げる方ではなく、口説かれる方だったことが何となく察せられる物言いだった。
 ネットの情報からも職員について調べてみた。
昨今の世相を反映してか個人を特定できる情報は、学校のWEBでは全て保護されていた。校長の名前と写真が載った教育理念のページ位だ。

学校の裏サイトのようなページを見つけ当時の書き込みをROMしてみた。
彼女のことらしい書き込みが多数見つかった。彼女の通り名はMまたはマドンナで正体不明の謎の女として扱われている。
曰く、『学校中のアイドルだった体育教師からの誘いを多くの生徒の目の前で瞬殺した女M!』とか、
『アニメのキャラにそっくりな雪の女王の趣味はなんとスプラッター映画だった!』とか、いろいろらしきエピソードは残っていた。
下級生からの恋文めいた書き込みもかなりあって、〝もしかして百合だったのか?〟とも思ったが、どれも成就せずに玉砕しているようだ。

麻里亜の同学年の卒業生を装ってそのサイトに潜入し、Mことマドンナと関係のありそうな教師について質問を投げてみた。
15年前のサイトでここ5年は誰も書き込みをしていなかったけれど、2ヵ月ほどして、AAAというハンドルネームから返信があった。
彼女は麻里亜の中学高校の友人だが、社会人になってから転居が多く母校の連絡網から漏れていたようだ。少数の友人と年賀状だけをやりとりしていたらしい。
ご両親から年賀状相手への彼女の逝去を知らせる葉書が先日届き、それをきっかけにこのサイトを久しぶりに覗いてみたそうだ。
AAAと麻里亜に関する思い出話をチャットしながら、私が彼女の同僚で親しくしていたことを信じてもらうことに勤める。
頃合いを見計らってAAAに肝心なことはぼかしながら、Kに相当する人物がいなかったか確認してみた。
AAAからの返信では、そうした人物に心当たりがないこと、学校の男性教師はもともと少ない上に、イニシャルがKの人物はいなかったことが書かれていた。

近づいたよう思われたKの痕跡は蜃気楼のようにまた遠ざかっていった。

    **

ネット上の母校の情報が空振りしてから3か月が経過し、八方ふさがりに思えたKへの道が、一冊の本から突然つながった。
書店で何気なく手に取った『時代を担う日本の百人』という大手ビジネス雑誌の特集号のその人物のページで、雷に打たれたかのような衝撃を受ける。
掲載されたその人物の記事には、長文の直筆のメッセージが付けられていた。ブルーブラックのインクと太くて大胆な万年筆の筆致、特徴あるいくつかの文字、一目見てKのものではないかと引き付けられ、見れば見るほど、彼の筆跡としか思えなくなった!

その人物の名は、『金澤 龍大』。ついに遭遇したイニシャルKと思われる男性だ。

筆跡が似ているだけで、本人と断じるのは早計だ。ネットや雑誌で得られる情報から『金澤 龍大』の経歴を調べてみた。
年齢は46歳、麻里亜とは18歳離れている。既婚で子供はいないようだ『晩婚だから、子育てしていたらここまでこれなかったかもしれない』と記載されている。
職業は新興IT企業のCEO、世間一般にはまだ知名度は低いが、ITコンサルタントG社の4象限評価では、ビジョンの完全性への評価が高く、概念先行型とリーダーの境目あたりの位置づけとなっている。
経歴の中に麻里亜との接点らしい情報が見受けられた。新卒で彼女のお父さまが部長をしている大手IT企業に就職して、15年間勤めている。所属部署は判らなかったが、業績の記載からは同じ事業部で知り合いであった可能性が高いと思われた。
 
プロフィール写真の容貌は、眉や目の造作が大きく日に焼けて精悍だ。エネルギッシュな壮年CEOのイメージと合っている。半面、額と口元には落ち着いた知性を感じさせるのは、エンジニア出身の経営者らしい特徴だ。
黒目勝ちの大きな瞳が、年に合わない茶目っ気を感じさせる。年上の女性に若いころから可愛がられたいたような気がする。
金澤氏の容貌にはどこか既視感があった。何故かと考えていて思い当たったのは先日来、Kの候補として面談した3人、山崎、狩野、藤崎の特徴を併せ持ったような人物だということ。
金澤氏がKならば、麻理亜が彼の面影を3人の中に見て親しくしていたのかもしれない。
藤崎だけは御免被りたいが、他の二人と親しくすることには共感できるものがあった。

丁度、お彼岸で麻里亜のご実家に伺おうと思っていたので、お父さまに『金澤 龍大』氏のことを確認することにした。

    **
 
「あの金澤君が、『時代を担う日本の百人』なんて本に載るのだから、俺も年を取ったもんだ!」
「金澤さんは昔から立派でしたよ。あなたは新入社員の頃のイメージで若くて未熟に感じていたかもしれませんけど」
お彼岸でお線香をあげに訪れた麻里亜の実家で、お父さまとお母さまに歓迎され、お茶を振舞われて、世間話や昔の思い出話をしている。
ひとしきり麻里亜の話をした後に、例の雑誌を取り出して『金澤 龍大』氏をご存じか尋ねてみた。
予想通り、新入社員の時から、退職して起業するまで金澤氏はずっとお父さまの部下だった。そして麻里亜の実家には家族の一員のように足繁く訪れていたそうだ。
 
「麻里亜は本当に金澤さんが大好きでしたね。多分、初恋じゃないかしら?」
お母さまの言葉にお父さまが、不満げに口をはさむ。
「俺にはそうは見えなかったぞ。そっけない態度ばかり取っていたように覚えているが?」
「あなたがそんな風に、子供っぽく嫉妬するからわざとそうしてたんですよ。あなたがいないときは本当に楽しそうでしたよ」
お母さまにからかわれて落胆しているお父さまが何だか可愛らしかった。

「はじめて彼を連れてきたとき、麻里亜は10歳くらいだったかな? 訳のわからないことを言って俺を困らせたのを覚えている」
「なんて言われたの? その話は知らなかったわ」
「眉毛と額がパパとそっくりでブスなのが本当に嫌だとか、ママに似ていれば可愛かったのにとか言って、涙ぐんで俺を責めるんだ」
「あらあら、どうやら金澤さんには一目ぼれだったみたいね。そんなことも判らないんだから男親ってのは……」
その後も、お母さまに金澤氏と比べられて、ますます元気がなくなっていくお父さまが可哀そうで助け舟をだす。
「私は金澤さんより、おじ様の方がロマンスグレーで渋くて素敵だと思います。金澤さんは、目が私の苦手な人に似ていてタイプじゃないですよ」
「ほら、由紀さんはそう言ってくれているぞ!」
「……」
お母さまが無言で微笑んでいる。多分、心の中では〝由紀さん、おだてるのがお上手ね〟と思われているのだろう。
 
「金澤さんがご結婚されたのは、麻里亜が高校1年の頃だったかしら? 婚約者の方とご一緒に挨拶に見えられたわね」
「美男美女でお似合いのカップルだったな。麻里亜の奴、ほとんどあいさつもしないで試験があるからと二階に上がってしまったな」
「まあそれはね……多分……部屋で泣いていたみたいよ」
「今、言われると思いあたることばかりだな」
「本当に男親ってのは……」
金澤氏と麻里亜の思い出話で、お二人が談笑するのを、久しぶりに見たように思う。
 
「金澤さんが退職されて起業されてからは、どのようなお付き合いをされていたのですか?」
あまり記憶にないらしくお二人とも一生懸命思い出そうとしている。
 
「麻里亜が大学に入った翌年頃だったかしら? とても忙しくなったようでほとんどお見えにならなくなったわね」
「そりゃあ、そうだ。起業の真っ盛りだから昔の上司への義理どころではなかったろう」
「仕事が忙しい時は不義理でも理解を示すのね……男同士は……」
「そういうものだ。そうそう、麻里亜が入院してしばらくした頃、彼から突然連絡があり、私達に変わりないか訊かれて、麻里亜のことを伝えたよ」
「ああ、だから末期の頃に、お見舞いに来てくれたんですね」
お二人の目がこころなしか、潤んでいるように思えた。
 
「また来てくださいね、ご遠慮なく。麻里亜もきっと喜んでいると思います」

暫く歓談してから、退去しようとしたときのお母さまの言葉が胸にしみる。
多分、早世した一人娘の面影を私に重ねているのだろう。
訪問の目的を後ろめたく思いながらも、時間が許す限りまた訪れようと誓い、笑顔で肯定の返事をする。
 
この訪問で『金澤 龍大』氏がKであることを確信した。

    **

不用意だった! どこか金澤 龍大のことを麻里亜の家族のように錯覚していたのだろう。
私は今、手足を縛られて、口に手ぬぐいのようなものをかまされて、暗い倉庫のような部屋の床に転がされている。
部屋には覆面をした正体不明の男が3人、机を囲み椅子に腰かけて、スマホのゲームに興じている。雇い主からの連絡を待っているようだ。
時折、こちらに舐めるような視線を投げてくる。その度に全身に鳥肌が立った。

遡ること2週間前に、金澤 龍大氏の雑誌に記載されていたメールアドレスに
WEBメールアドレスから匿名のメールを送った。
 
『金澤 龍大様
 
麻里亜と生前、親しくしていたものです。
突然の連絡で驚かせてしまい申し訳ありません。
 
麻里亜から伝言を預かっています。
直接、お会いしてお伝えしたいので、
返信にて、待ち合わせ場所と日時を
お知らせいただけないでしょうか。

よろしくお願いいたします。

Y』

今、思えば、怪しさ満載のメールだ。こちらの素性を明らかにしてコンタクトすべきだった。
最後のYのイニシャルは、Kからの手紙を読んだものであることを暗に示したつもりだったが、金澤氏には正体不明の脅迫者に思えたのではなかろうか。

それでもこの対応は尋常なものではない。彼の裏の顔は危険な匂いで満ちている。
自分に降りかかるこの後の運命を思うと恐怖で胃がキリキリと締め付けられるようだ。口の中が乾いて嫌な味がする。

3日前に、返信が届き、待ち合わせ場所に都心のホテルのバーを指定された。
目印の紫色の造花を胸に挿し、カウンターで小一時間ほど待った。
年配のバーテンダーから急用で行けない旨の伝言を受け取り、気落ちして家路についた。
この時、年恰好や容貌を観察されて、家までつけられていたのだろう。

昨晩、帰宅途中に、一人暮らししているマンション近くの路上で、止まっていた黒いワゴン車の横を通り抜けようとした時、背後から抱きすくめられ頭から袋のようなかぶせられて車の中に投げ込まれた。抵抗する間もなく自由を奪った手際の良さは、この手の荒事に慣れている犯罪者のように思われた。

床に転がされている間に、縄がほどけないかいろいろと試してたみた。巧妙に縛られていて、もがけばもがくほど縄のしばりがきつくなる。
部屋の扉と対角線の隅に転がされている私との間に机と椅子を配置し、逃げ道をふさがれている。そして誰かが必ず私の方を見ている。

男たちが囲んでいる机からは2m程の距離があるが、小声ではなす彼らの会話が断片的に耳に入ってくる。
「……上玉だ、海外に売れば結構な……  ……幹部からの連絡は?  どっちにしても逃がす訳には……  上の許可が出れば好きしても?……  待ちきれねえな、早く連絡……  ここに来るらしい、まだ手をだすな……」

この後、こいつらから受けるであろう凌辱と、その後の人身売買らしき言葉が意味する運命を想像して、恐怖と悔しさで涙が溢れた。
〝金澤 龍大、こんな犯罪者たちを手足のように使うあなたの正体は何者なの!〟
そう心の中で叫んだ。

    **

扉が開き、大きな体の壮年の男が部屋に入ってきた。雑誌の写真で見飽きるほど観察した顔の主、金澤 龍大だ。
実物の存在感は圧倒的だった。この男であれば何をしてもその意志の強さだけで成功できるのではないか?
背後に部屋の男たちの組織の幹部と思われる黒ずくめのサングラスとマスクで顔を隠した大柄な男を従えている。

金澤氏は、部屋の中を見回して状況を把握しているようだ。私の方をじっと見つめている。表情からは考えが読めない。
「監視するだけの依頼のはずだが? 手荒な真似をしていないか?」
よく通る低くて太い声音で金澤が、部屋の男たちに問いかける。
「攫うときにちょっと、怪我はさせていないと思います」
部屋の男たちのリーダー格と思える男が応える。
「身元を押さえろと指示したんだが、そんな探偵みたいなことに慣れてないんで、こいつらいつものように身柄を押さえちゃったんだな! 面目ない!」
幹部らしき男が、笑いながらこのような顛末となった言い訳をしている。
〝『身元』は『押さえる』じゃなくて『洗う』だろう! そんな間違いで死ぬほど怖い目に会わされたの? ふざけんな!〟
「お前ら、顔は見られていないよな」
「ずっと覆面をしてましたので多分大丈夫かと……」
「よかろう」

金澤氏と幹部が部屋の対角線の隅で小声で話し合っている。さすがに今度は何も聞こえない。
会話が終わり金澤氏が私の方に近づいてきて、話しかける。
 
「由紀さんですね? 麻里亜のお友達の。手違いで大変怖い思いをさせてしまったようだ。申し訳ありません。深くお詫びします。
私に敵対する者達がスキャンダルを捏造して私を貶めようとしていた。あなたがそうした者の仲間ではないことを確認しているうちに間違いが起きてしまったのです」
「私はここから帰してもらえるのですか?」
「もちろんだ。でもいくつか約束して欲しいことがある」
「……判りました。どのような約束でしょう」
「昨晩から今日にかけて起きたことを口外しないで欲しい。そうでないと私の力でも彼らを説得することは難しい。警察にも行かないで欲しい。本音でいえば忘れたことにして欲しいのだが……」
「……」
予想はしていた。ここから逃れるにはここで条件を飲むしかないことも判っていた。でも言葉が出ない。頷くこともできない。
「即答できないのは判っている。死ぬほど怖かっただろうし悔しい思いをしただろうから。でもあなたのためを思って話している。今のところ怖い思いだけですんでいるが、このことが公にされたら、この程度ではすまない。なんとかこの条件を飲んで欲しい」

そう言ってから顔を近づけて、耳元で聞き取れないくらい小さな声で語りかける。
『あなたの身の安全を最優先に考えています。私を信じください』
「……」
深く息をして気持ちを整理した。
〝闇の組織と繋がりがあるのは確かだけれど、攫えと命令したわけではないらしい。この人を信じてみよう。どっちみち断ったら無事ではいられないのだから!〟
 
「判りました。今日のことは忘れます。警察にも行かないから、家に帰してください」

「それでいいな?」
金澤氏が組織の男たちに念押しする。
「まあ、お姉さんが忘れてくれるなら、文句ないけどよ……本当かな?」
幹部らしき男が疑わしそうに首をかしげていたが、最後には親指をたててOKの意思表示をした。
目隠しをされて1時間ほどドライブした後に、都心から近い大手私鉄とJRの交差する駅のロータリーで降ろされた。
走り去る黒いワゴン車のナンバープレートはガムテープで巧妙に細工されており読めない。

安堵して緊張の糸が切れたせいか、強い疲労と睡魔に襲われ、ロータリーのベンチに倒れこむように腰かけて眠りに落ちた。
気が付くと、傍らのベンチに金澤 龍大が腰かけて、心配そうに私を見つめている。
「由紀さん、疲れたでしょう。近くに私のマンションがあります。軽食と飲み物くらいはお出しできるから、休まれていってはいかがですか? そしてよろしければ麻里亜からの伝言を教えてください」
〝それを伝える為にあなたを探していたのだから……断る理由なんてありません〟
そう思いながら、金澤氏の誘いに頷いた。

    **

金澤氏のマンションで、バスルームを借りてシャワーを浴びている。
攫われて、縛られて、床に転がされた昨日の服は。汗と泥にまみれていた。そして昨日のことを思い出すのでもう一瞬も身に着けていたくなかった。
「麻里亜の服がクローゼットにあるから着替えにつかうといい。僕は声をかけてもらうまでリビングから出ないから、ゆっくり過ごしてください」
そう言い残して金澤はリビングの扉を閉めた。

彼のマンションは有名なタワーマンションで、しかも最上階の広くて豪華な区分だった。
奥様とはかなり前から別居していてずっと一人暮らしとのこと。家事代行サービスを利用しているらしく、どの部屋もとても綺麗に保たれている。

服のサイズが合わないことに困惑する。大体同じ背格好だと思っていたけれど、高校時代からテニスに明け暮れて骨太で筋肉質の私の体には麻里亜の服は総じて窮屈だった。
クローゼットの麻里亜のものと思われる2,3着のカクテルドレスに興味が湧いて試着してみる。ウエストと肩はとてもきついのに、胸と腰には結構余裕がある。
〝きっと金澤さんに買ってもらった注文服だ。あの娘がスタイルいいのは知っていたけど、同じ服を着て違いを体感すると結構落ち込むよ!〟
同期で一緒に旅行に行って同じ部屋になった時、たわむれにハグした時の彼女の体の感触を思い出す。
〝色白で痩せて華奢に見えるのに、抱きしめると弾かれるような張りがあって、その癖、柔らかいその肌に沈み込むような感触もあって、女同志なのに変な気持ちになったよね〟

結局、サイズのミスマッチが目立たないように、ブラトップの下着の上に、ニットのワンピースを着ることにした。

リビングの扉をそっと開けて、忍びこむかのように部屋に入っていった。
ぴったりとフィットしたニットのワンピースで体の線が露わになっているのが恥ずかしい。
金澤と視線を合わさないように俯きながら、彼の斜め方向にあるソファに腰かけた。
視線を向けると、私を見つめる金澤の驚いたような顔が目に入った。
 
「不思議だ! 麻里亜とは全然違うタイプの女性なのに……部屋に入られた時、ありえないことだけど、彼女のように感じた」
「初対面の方の家で、シャワーと服をお借りしたこと、お詫びいたします。とても恥ずかしいです。でも昨日の服はどうしても着ていたくなかったので」
「それについては、全て私の責任です。償いをさせてください」
「いいえ、もういいんです。気にしないでください」
 
暫くの沈黙の後に、金澤が自らの身の上話と麻里亜との馴れ初めを語り始めた。
「起業して3年目に業績が悪化し、それを建て直す為に何日も家に戻らずに泊まり込みで働いくことを繰り返していました。妻のことを思いやる心の余裕など全くなかったのです。
そんな生活が何か月も続いた時に、家庭のことを顧みない態度を妻になじられ、お前の為に頑張っているのにとの気持ちから、彼女を怒鳴りつけてしまった。
また数日間帰れない日が続き、次に帰宅した時には、彼女は身の回りの荷物とともに去っていました。数か月後、なんとか業績が持ち直し、ご実家に迎えに行った時にはもう彼女の気持ちは戻りませんでした。その後、別居生活を5年間続け、2年前に正式に離婚しています。このことはふせているので親しい人でも知らない人は多い……。プロフィールは既婚のままにしています」
 
「麻里亜とはそのころ再会したのですか?」
「別居を始めて半年くらいたった頃、彼女から就職の相談をしたいとの連絡を受けました。それがきっかけでした。子供の頃の印象が強かった彼女が、大人のそれもとても魅力的な女性になっていたことに驚きました。私のマンションに頻繁に通ってきた彼女と、深い関係になるのにそれほど時間はかかりませんでした」
 
「彼女は子供の頃から、あなたのことが好きだったらしいですから……願いがかなったのですね」
 
「……」
 
沈黙の中で、伝えなればならないことの為に心の準備をする。
 
「麻里亜からの伝言をお伝えします」

金澤氏が居住まい正して、私の声に神経を集中していることが判る。
 
「あなたを誰よりも愛していたことを伝えて欲しい……
 仕事と家庭のことでいつも苦しんできたあなたを、私の病気のことでこれ以上苦しませたくなかった……
 画期的な治療法ができて、病魔を克服して元気な姿であなたに会うことに一縷の希望をつないでいた……
 あなたに、私の心が離れていったと思われていることが私には耐えられない……」

金澤氏は無言で、その言葉を聞いていた。そして無言のまま、はらはらと涙を流した。
必死で嗚咽を堪えているのが口元にあてた手と、のどの動きで判る。

「私は……私は……死を目前にした麻里亜にひどいことをしてしまった! 私は……私は……自分が許せない……」

悲しみに耐えている金澤氏の目から溢れる滂沱の涙は止まらなかった。
私も彼が哀れに思えてしまい涙が溢れた、そして背後に回りそっと彼を抱きしめた。しばらく涙を流していた金澤も私を抱きしめかえす。
今日一日、あまりに色々なことがあった。涙と感傷でぐしゃぐしゃになった私達は、お互いの唇を貪り合った。

    **
 
感情の波が去った後、金澤は今日一日仕事が滞ったからと、PCに向かいメールなどを確認している。
作業しながら金澤が、背中をむけたままで私に問いかけてきた。
「由紀さん、先程の伝言はいつ麻里亜からきいたのですか?」

「麻里亜から残されたメッセージに最近になって気が付いたのです。直接聞いたわけではないのです」
予め用意した超常現象を含まない回答を答える。
「イニシャルKで書かれた私の手紙は読まれたのでしょう?」
「はい、それは四十九日に訪れた麻里亜の部屋で別の探し物をさせていただいた時に見つけました」
「そちらは、本当のことを話されるんだ」
「えっ、何かおかしなことを言いましたか?」

「麻里亜のご両親に問い合わせたメールの返事が先ほど届きました。私がお見舞いにき、イニシャルKの手紙を託した日からは
誰も見舞いに来られた方はいないし、昏睡状態を繰り返していた麻里亜の部屋では、スマホを含む情報機器は禁止されていて使えなかったそうです」
「そうだったのですか、知りませんでした」

金澤が背中を向けたまま語り続ける。声色が険しいものになっている。
「あなたは、いつどこで麻里亜の伝言をどうやって知ったのですか! まさか彼女のメッセージを捏造したのですか?」
 
「……」
応えることができなかった。
金澤が立ち上がり、こちらに怒りを込めた燃えるような視線を向けている。
「答えてください。私の納得がいくように! 答えてください! 答えてください! 答えろ!」
私の肩を両手で掴み、揺さぶりながら、圧倒的な意思を感じさせる声で命令し、最後は叫んだ。
「待ってください。答えます……答えますから……これ以上、怒らないで……あなたの怒りに私は耐えられません!」
そう絞り出すように言うのが精いっぱいだった。
 
「彼女のお通夜の時に、私が死化粧を施しました。その時、使った口紅ルージュに誤って唇を付けた時に、彼女の映像とともにメッセージが伝わりました」

金澤は、半信半疑といった風情で私の肩に手をおいたまま、思案している。
「その口紅ルージュは今どこに?」
 
「あの日からずっとポーチ中に入れて肌身離さず持っていました。釈放された時、返してもらったから……多分、バスルームの脱衣かごの横かと」
「それがあれば、麻里亜のメッセージを感じることができるのですか?」
 
「可能性はありますが、またあの現象が起こるかは判りません」
 
「試しましょう! 私はどんな形であろうとも麻里亜にもう一度会いたい。そして手紙のことを謝りたい!」

    **
 
私と金澤の前に、件の口紅ルージュのスティックが置かれている。

金澤が、蓋を取り、持ち手のねじを回して口紅本体を露出させた。ためらいがちにスティックを唇に当てる。
 
「何も起こらないようです」
落胆した表情で金澤が呟いた。
 
「由紀さん、あなたならまた起こるのでしょうか? そうであれば私が伝言を受け取ったことと手紙を詫びていることを伝えてもらえないでしょうか?」

先程、感情に任せて金澤と抱擁し、口づけしたことが引っかかっている。私はもう最初の時の私ではない。麻里亜が同じ反応をしてくれるとは思えなかった。
「私はもう麻里亜に会わせる顔がありません。無理だと思います……」
 
「由紀さん、お願いいします。一度だけ、一度だけでいいですから。それでだめなら諦めますから!」

先程、口紅ルージュを口につけた金澤に何も起こらなかったのだから、もう彼女の思いは消えてしまったのだろう。
私はそう自分を納得させて、口紅ルージュを唇に当てた。
 
『?』

その瞬間、豪華な金澤のマンションの部屋が全て消え去った。私はどこまでも広がる白く何もない空間にただ一人浮かんでいる。
その空間では体を動かすことができない。両腕を横に広げ、十字架に磔にされたような格好で固まっている。

そして目の前には……目の前には、憤怒の表情を浮かべた、麻里亜の姿があった。
彼女は見たことのない形状の血塗られた刀を握って、こちらに近づいてくる。

    **
 
「麻里亜、お願い許して、一時の気の迷いなの! 金澤さんがあまりに悲しそうだったから、つい抱きしめてしまったの!」

麻里亜が生前には一度も浮かべたことがないような憎しみに満ちた表情をして口を開く。
 
「私は、12年待ってやっと金澤と結ばれたの! そして金澤の離婚が成立するまで4年間、陰の存在として過ごしてきたの! やっと今度こそ、今度こそ幸せがつかめるはずだったのに! あと一歩、あと一歩のところで病魔に倒れた」
彼女の持つ刀の切っ先が、私の首筋に突き付けられている。
   
「それなのにあなたは、私の願いをかなえると誓いながら、いとも簡単に金澤に愛される存在になった。彼も私に謝って、気持ちの整理がついたら、あなたと結ばれることを望んでいる。だから私は悪魔に魂を売ったの! この刀であなたの魂を切ると、あなたと私の身体が入れ替わる。あなたは麻里亜として死んでいく。私は由紀として金澤と結ばれるけれど、死後に地獄に堕ちる。それでもいい、輪廻転生がここで断ち切られても私は金澤との一度きりの人生を生きることにしたの!」

麻里亜が私の首にあてた刀を軽く引いただけで、音もなく私の首が落ちた。無限の白い闇の中を落ちていきながら私は意識を失っていった。

    **
 
永い夢をから覚めた私は、病院のベッドの上で、何本もの点滴と検査器具を付けられて横たわっている。朦朧とした意識が少しづつもどってくるにつれて自分の名前を思い出しつつある。
〝私の名前は由紀……私の名前はユキ……私の名前ユ……私の名前は……私の名前は……私の名前はマ……私の名前はマリ……私の名前はマリア……私の名前は麻里亜!、そう私の名前は麻里亜!、私は余命僅かの癌患者だ。そして意識が混濁する前にやらなけれないけないことがある〟
痛む体を引きづるようにして上体を起こした。そして先ほど見舞いに来た金澤が枕の下に隠した手紙を取り出して読みかけの本に栞とともに挿み、その本を自宅に持ち帰って欲しいと頼んでいた数冊の本の入った箱に放り込んだ。

〔了〕

文字数:19978

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