梗 概
魔術師たちの香り
調香師の彩乃は幼い頃より優れた嗅覚を持ち、香りから過去の記憶を呼び覚ますことが多くあった。彩乃の香料は顧客を魅了したが世に溢れることはなかった。席巻するのは消費材メーカーのマーケッターが決めた意識されない香り。クラシックと称される香水は世界を変えてきた。調香の価値を復興させることが彩乃の願いだった。
パリを訪れた彩乃はテルトル広場に行く。一人の老人が画家たちに紛れて座っている。彩乃は老人の懐から仄かな香りを嗅ぎ取る。動物性油脂、鉱物、樹皮、花。現代的ではないが惹かれる香り。そっと老人に近づく。老人は彩乃に気付くと手品のようにムエットを取り出す。漂う香りに彩乃は意識を失う。
吐き気がするほどの悪臭に彩乃は目を覚ます。テルトル広場ではなかった。パリのようだが街は入り組み、人々の身なりは貧相で糞尿の臭いがする。彼らに彩乃は見えないようだった。汚い街を巡り1834年のパリだと知る。花の都になる前の、世界で一番汚い場所。
悪臭から逃げるようにパリの中心街に着く。鯨蠟やジャスミンの香りがする。匂いの元は香水店。店内に入って彩乃は驚く。ピエール=フランソワ=パスカル・ゲラン、香水メーカーゲランの創業者がいた。ゲランもまた彩乃を見て驚いた。ひと悶着のあと、ゲランは鼻をひくつかせる。彩乃から未知の香りがすると言う。ゲランが合成香料を指しているのだと知る。作り方を教えてくれとゲランが請う。
何日経っても現代へ帰れない。彩乃はゲランに合成香料を伝える決意をする。二人は40年も早くクマリンとバニリンを誕生させる。数か月後、ゲランは〈ジッキー〉という香水を完成させ、彩乃は驚愕する。〈ジッキー〉はゲランの息子エメが1889年に生み出す近代香水の始まりとなる香水だった。〈ジッキー〉を嗅いだ彩乃は意識を失う。
気が付くとテルトル広場の老人の傍で倒れていた。初代に会えたか、と老人は言う。詰め寄る彩乃に老人はある情報を提示する。ゲラン社がルイヴィトンに買収されていない。歴史が変わっている。やがて落ち着きを取り戻した彩乃に一つの考えが浮かぶ。ペリー来航時には日本にフランスの香水が贈られている。原始的な香水ではなく、より近代化しかつ日本人に受け入れられる香水が贈られていたら日本の香水産業も変わるのではないか?
エメに会いたいと告げると老人はムエットを取り出した。彩乃は意識を失う。目を覚ました先は1864年、エメがゲラン社を引き継いで二年、かつ初代ゲランが亡くなった年だった。初代ゲランが合成香料をもたらした影響でパリの香水は正史より進歩していた。エメも父同様に彩乃の姿を見れた。父から彩乃のことを聞かされていたためさほど驚いていない。エメは彩乃と未来の香水を作りたいと考えていた。彩乃はエメに〈ミツコ〉を作ろうと言う。〈ミツコ〉は正史ではエメの甥で三代目調香師のジャックが生み出すゲラン最高傑作の香水だった。名の通り日本人をモチーフにしている。この香水であれば日本人に受け入れられるはず。やがてエメは〈ミツコ〉を完成させる。彩乃はエメに香料の処方二つと伝言を残した後に〈ミツコ〉を嗅いで、意識を失う。
目覚めた場所はテルトル広場ではなく、パリのホテルの一室だった。彩乃には並行する三つの記憶あって混濁していた。デスクの上の香水を嗅いで今の自分を思い出す。彩乃はゲラン社の八代目にして初めての東洋人調香師だった。2122年現在、彩乃が過去に飛ぶ前よりも香り物質の数は数倍に増え、世界は濃厚になっていた。彩乃が望んだ世界。いまや日本は世界最大の香水市場である。
彩乃は急いでゲラン家へと赴く。そこに以前の記憶ではテルトル広場にいた老人の姿があった。彼はエメから引き継がれた指示に従って、二つの香水を片手にテルトル広場に行こうとしていた。彩乃の説明をきいた彼は笑みを浮かべ、二代目には会えたか? と問うた。
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内容に関するアピール
クリスマスコフレの時期ですね。化粧品市場で世界三位の規模を持ちながら日本はスキンケア品ばかりが売れて、香水が全く売れません。歴史的に見ても比較的清潔さを求めてきた日本人にとって香水を使う必要性がなかったため輸入品こそあってもオリジナル香水の開発は発展しませんでした。先日嗅いだジョー・マローンの香水がすごく良い香りで、日本にも香水文化が芽生えていたらよかったのにと思って、香水の話を書こうと決めました。
実在のゲランを書くことにしたのは〈ミツコ〉の存在を知ったからに他なりません。これが日本の香水黎明期に輸入されて容認されたら日本も変わったのでは? と思いましたが、年代が合いません。なんとか彩乃に頑張ってもらって、江戸~明治にかけて日本に入れました。
梗概ではあまり書けませんでしたが、19世紀パリの臭いと匂いだったり、香水を構成する素材の匂いだったりを書き込んで、嗅覚を刺激する作品にしたいなと思います。 (401文字)
参考
・ロジャ・ダブ(新間美也 監修)『フォトグラフィー香水の歴史』原書房,2010
・アンヌ・ダヴィス,ベルトラン・メヤ=スタブレ(清水珠代 訳)『フランス香水伝説物語 文化、歴史からファッションまで』原書房,2018
・喜安朗『パリの聖月曜日 19世紀都市騒乱の舞台裏』平凡社,1982
・M・C・ペリー(F・L・ホークス 編纂,宮崎壽子 監訳)『ペリー提督日本遠征記 下』角川ソフィア文庫,2014
・ジュースキント・パトリック(池内紀 訳)『ある人殺しの物語 香水』文春文庫,2003
・レア・ミシウス 監督『ファイブ・デビルズ』ロングライド配給,2021
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