最後の砂漠が死んだ

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梗 概

最後の砂漠が死んだ

二〇六六年、世界の砂漠は残り一か所となっている。AHBアンヒドロビオシス社の研究員リュシーは砂漠地域の小さな自治領ギルノスへ赴く。首長はリュシーの三度目の訪問を受け入れるものの砂漠緑化の提案には反意を示す。
 AHB社は乾燥耐性生物の模倣ミミクリー技術の開発をしている。二十年前に超保湿性の糖鎖高分子の合成に成功、これまで砂漠緑化を果たしてきた。リュシーは首長の子ハドを抱く。ギルノスの合意が得られれば、この世から砂漠がなくなる。
 リュシーは〈砂漠の船〉で領外へ送られる。〈砂漠の船〉はラクダの異名ではなくギルノスで開発された移動手段モビリティである。空気を送って砂を流動化させているようだが、詳しい推進機構は秘匿されている。一人が横になれる程度の小舟が砂漠を自在に駆け巡る。ギルノスの民は一人一艘の〈砂漠の船〉を持つ。
 砂風を受けリュシーは目を閉じる。ギルノスの民の科学リテラシーは高水準にある。母なる大地を守ると鎖国を維持し、厳しい砂漠生活を受け入れている。抱いたハドを思い浮かべる。成長した彼らは国を出たい、砂漠をなくしたいなどと微塵も思わないのだろうか。

二一〇六年、いまだ世界は唯一の砂漠を抱えている。AHB社は二〇八六年に宇宙開拓への技術転用に舵を切り、ギルノスへの関心を失った。AHB社を退職したリュシーはギルノスを訪ねる。ハドが〈砂漠の船〉で迎える。もう四十年来の友人だ。ひと月後、ギルノスは自治権を失う。十年前に突然死した父に代わり首長となったハドは若者の領外移住を推し進めた。若者の移住と老人の死によって、ギルノスの民はハドと側近を残すのみとなった。
 ハドはリュシーに砂漠緑化を依頼する。AHB社に頼むように促すが、ハドは内密に進めたいと首を横に振る。リュシーが断るとハドは銃を突きつける。ハドの瞳には怯えが宿っている気がした。緑化したい理由を問う。ギルノスを出た若者たちに祖国の罪を負わせないためだとハドは顔を歪める。詳細は分からなかったが切実だった。リュシーは引き受ける。
 ハドの〈砂漠の船〉からリュシーは乾眠状態のネムリユスリカの幼虫を撒く。水を見つけ眠りを解いた幼虫の場所を記録していく。やがて地下水脈に近い場所を見つけ緑化の拠点とした。ハドの表情は安堵に満ちていた。実はリュシーは水源の探索過程で砂中に沈んだ箱状の物体を検出していたがハドには告げなかった。墓地は領内に設けられている。祖国の罪の真実を悟る。

二一一八年、元ギルノスの砂漠は草木で覆われる。最後の砂漠が死んだ。緑化はいとも簡単に進んだ。砂中の箱が足場となったのだろう。世界からはギルノスの隠し技術だと信じられている。
 ハドはもういない。緑化の安定を見届けた後に自ら命を絶った。リュシーは考えを巡らせる。おそらくハドは父を殺害した。古くからギルノスは自治権と技術を守るために国を出ようとする異端児を排除してきたのだろう。ハドは歴史を清算することに決めたのだ。
 リュシーは〈砂漠の船〉に納められ埋葬されたハドを想う。そして失われた国と草木の下に眠る名もなき人々の安寧を願った。

文字数:1289

内容に関するアピール

過酷な環境はいくつもありますが、砂漠と死には強い結びつきを感じています。生物が産まれた海と対極なイメージを私が砂漠に対して抱いているためかもしれません。
 しかしそんな砂漠に存在する生物もいるわけで、作中に出したネムリユスリカの幼虫は昆虫で唯一の特殊能力を持っています。乾燥環境におかれると乾眠と呼ばれる仮死状態をとれる能力です。条件によっては数十年も仮死状態を保つ個体もいるそうです。さらに水を得ると乾眠状態から蘇生し、仮死状態前と同じように生きることが出来ます。この不思議な能力によって、仮死という死に近い状態によって死を遠ざけたのに、再び死に向かって有限を生きようとする強さや儚さを知って私は何とも言えない感覚に陥ります。
 本作は砂漠から緑化という変化自体を死としつつ、変化の前後にあった人、意志、社会、コミュニティ、技術、慶弔儀式など複数の軸で死/仮死/生を想起させたいと思って書きました。(396文字)

参考文献
・Yo Tanaka, Doudou Ma, Satoshi Amaya, Yusufu Aishan, Yigang Shen, Shun-ichi Funano, Tao Tang, Yoichiroh Hosokawa, Oleg Gusev, Takashi Okuda, Takahiro Kikawada, Yaxiaer Yalikun, “Anhydrobiotic chironomid larval motion-based multi-sensing microdevice for exploration of survivable locations”, iScience, 10.1016/j.isci.2022.104639
・的場やすし,菅谷諭,“流動床インタフェース:液体のようにふるまう砂を用いたインタラクションシステム”,情報処理学会インタラクション2017,2-510-28,2017,476-479

文字数:791

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最後の砂漠が死んだ

好奇心に溢れたハドの視線を受けて、リュシーは今回で三度目になるギルノス入国がなぜ許されたのかを悟った。砂漠を乗り越えた衣服にはギルノスの砂漠の細かな砂がまとわりついていた。胸元を叩くと、舞った砂はリュシーの髪に移って軋みへと変わる。
 ギルノス領主ラシッドは柔らかい表情を浮かべて息子のハドを見ており、こちらにはなんら関心を示していない。リュシーは漏れかけた溜息をぐっと飲み込んで意識的に口角を上げる。
「弊社が独自開発したネルロースパウダーがこちらになります」
 白い粉体が映えるようにテーブルに黒いラバーパットを敷く。その上にボトルからネルロースパウダーを振り出して小指の先ほどの小さな山を二つ作る。続いて精製水の入ったバイアル瓶を取り出すと、一方の山に傾けて注ぐ。
「わあ、もこもこだ」
 粉の変化にハドが声を弾ませる。
 ネルロースと名付けられた糖鎖ポリマーは自身の体積以上の水を抱え込んでゲル状に膨らんでいく。ハドはゲルから視線を外すとリュシーを上目遣いに見てくる。リュシーはその意図を察して首を縦に落とす。ハドは笑顔になって、ゲルを指先で突いては喜々と声をあげた。
「領主様もお近くでいかがで――」
「砂の中での振る舞いは?」
 乱暴な物言いではなかったが、ラシッドはリュシーの言葉に重ねるようにして疑問を言い放った。こちらに寄ろうともしない。
「ご用意しております」
 ラシッドは顎をしゃくり説明の続きを促す。呆気に取られて浮いた間をリュシーは咳払いで埋める。気を取り直し、手にしていた袋をハドに渡す。
「これはなに?」
「ギルノスの砂が入っています。ここに来る途中で少しばかり拝借させていただきました。ハド様、その砂をこちらの粉に混ぜて貰えますか」
「えっ、僕も実験していいの?」
「ええ、ぜひお手伝いください」
 リュシーの指示に従って、ハドはおそるおそる薬さじでネルロースに砂を加えて混ぜていく。およそネルロースの十倍量ほど砂を加えたところで作業を止めさせる。
「そのくらいで結構です。ありがとうございます。こちらもお願いできますか?」
 砂袋と引き換えに精製水の入ったバイアル瓶を渡す。ハドは容器を物珍しそうに眺めたのち、先ほどのリュシーを真似て水を山へと注ぐ。砂の間隙から流れ出るはずの水はパウダーに吸われ、砂がまるで土と化したように一つの塊として濡れている。
ハドが振り返る。
「父上、すごい」
「ほう」
 ラシッドが関心を寄せたこの瞬間を見逃してはならない。リュシーは離れたラシッドに向けて声を張る。
「数百度以上の高温に弱い以外は非常に安定性の高い素材です。こちらを使えばギルノスの砂漠は緑化することが可能です」
「良い品だ。ギルノス以外の砂漠がなくなったのも納得出来る」 
 ラシッドがこちらに歩み寄る。リュシーの身体が強ばる。長年の乾燥と炎症によって赤黒く変化したラシッドの顔、そこに浮かぶ二つの目は鋭さを増している。それはプレゼンテーションが失敗に終わったことを意味していた。
 ハドがやってきたラシッドの足をぎゅっと抱きしめた。父の怒りを少しでも抑えようとしたのか、もしくは単純な怯えかは分からない。
「砂漠を、殺すつもりか?」
「えっ」
 殺す、という強い言葉に思わず声が漏れた。ラシッドはゆっくりと首を横に振る。
「なぜ砂漠はあってはならないものと考える? 貴方の会社の利益のためか?」
「それは――」
 リュシーが所属するAHB社の歴史は五十年ほどさかのぼる。社名のAHBはアンヒドロビオシス――乾燥耐性生物――の頭文字を採ったものだ。乾燥耐性生物の多くは乾燥状態に置かれた時、トレハロースを生合成して身を守る。社名はそれに由来する。創業当時、AHB社はトレハロース製造を行う小さな後発企業だった。
 しかし三十年前に転機が訪れる。数人で細々とやっていたお飾りの基盤研究部門によってとある砂漠に生息する好塩菌が超保湿物質ネルロースを生合成していることが発見された。当時の社長はネルロース事業に活路を見出し、数年で量産化までこぎ着けた。
「確かに、砂漠緑化によって得られた利益は莫大です」
 砂漠緑化の利益を元手に今ではAHB社は乾燥耐性生物のバイオミミクリー技術の研究と応用技術開発を行う先端企業へ変貌を遂げている。
 二〇六六年、今では世界の砂漠はギルノスを残すのみだけである。
「しかしわたしたちは知っています。砂漠だった場所に植物が芽吹き、生命が溢れる場所となったり、街が生まれ多くの人々が交流している場所があったりすることを」
「なるほど、そこか」
 ラシッドはどこか腑に落ちた様子で頷いた。
「水は生命を司る。では死を司るのは何だと思う?」
 ラシッドの突然の問いはこちらの考えを聞きたい訳ではなく、単純な対比構造だった。リュシーは考えもなく呟く。
「乾燥、ですか?」
「豊富な水が生命を誕生させたことは確かだろう。しかしながら水の欠乏を死、すなわち我々生物が最も避けるべき忌むものと考えるのは横暴極まりない」
 リュシーは何か反論しよう思考を巡らせたが、すぐに諦めた。生死は極論だと思うが確かに水の多寡と様々な貧富をリュシーは紐付けていた。リュシーが理解したことを悟ったのか、ラシッドは歪めた顔を戻した。
「領主様のお父様が領国を閉じたのは、砂漠で見つけた技術が砂漠を消し去ることに危機感や憤りを感じて?」
 ラシッドは首を縦にも横にも振らなかった。二十五年前、当時の領主だったラシッドの父は他国との国交を絶つことを宣言した。小さな宣言だった。元々砂漠の奥地にある小国で他国との交流はほとんどなく、他国はギルノスと付き合うメリットを感じていなかった。
 思い返すと、その宣言はAHB社の介入を退ける程度の機能しか有していなかった。
「父の考えはそうだったのかもしれん」
「領主様は違うのですか?」
 ラシッドの表情は読めない。
「砂漠には砂漠の生があるんだ。トレハロースもこの粉も、水が無いからこそ生み出された。ギルノスという国も民も砂漠から生まれた。殺してくれるな」
 AHB社は最後の砂漠を消すことに躍起になっている。それこそが自分たちの存在意義だと信じて。なぜラシッドはAHB社の社員であるリュシーの訪問を許したのだろうか?
「父上、もう怒ってない? リュシー、大丈夫?」
 ハドは落ち着かない様子でラシッドとリュシーの顔を交互に見ている。ラシッドは節くれ立った手をハドの頭に置く。
「息子は貴方を気に入っている。何度だってギルノスに来てくれて構わない。貴方が望むなら砂漠についての議論にいくらでも付き合おう」
 ラシッドの顔は領主ではなく父親のそれだった。
「リュシー、また来てくれるの?」
 ハドはラシッドの足下を離れ、リュシーに向かって駆けてくる。
「やった!」
 リュシーはしゃがみ込んで両手を広げハドの体当たりを受ける。想定以上の勢いでぶつかりリュシーは後方に転がった。砂が舞いハドが笑う。ハドを抱き起こし、その乱れた髪を撫でる。細く柔らかく、砂漠の乾燥にまだ犯されていない。
「うん、また来る」
 やがて扉をノックする音が聞こえる。ラシッドの従者だった。
「船の準備が出来ました」
 ハドがリュシーの前に拳を突き出す。
「リュシーもグーを出して」
 ハドの拳と同じ高さに拳を構えると、ハドはこつこつと拳同士を二回ぶつける。
「お別れの挨拶。またねリュシー」

ラシッドとハドの親子とは領主室で別れ、リュシーは従者とともに領主館のエントランスへと向かう。開けられた扉の隙間から砂塵が舞い込みリュシーはとっさに顔を逸らす。エントランスの扉の正面には階段が設けられていたが、そこを降りずに横手に設けられた専用通路を行く。
「本日はありがとうございました。この一週間、ハド様はリュシー様の訪問をとても楽しみにしていたもので」
「わたしもハド様に会えて嬉しかったです。まあ、ビジネスは失敗に終わったのですが」
 リュシーは苦笑いを浮かべる。従者もリュシーをハドの遊び相手とみなしている。
「大変失礼しました」
 従者はリュシーの当て付けに対して一応の謝罪はしたものの取り繕うことはしなかった。
「リュシー様のビジネスが成功する可能性は正直かなり低いですが、我々はリュシー様の訪問をいつでも歓迎いたします」
「正直すぎません?」
「素直な性分なのです」
 若い従者は笑みを携えていた。彼なりのリュシーに対する励ましなのだろう。
「従者さんの名前は?」
「ゾーラと申します」
「三回目なのに今更すみません。忘れない様にします。では帰りもよろしくお願いします」
 ゾーラは小さく頷き返す。ギルノスへ入国してから領主館へやってくるときもゾーラが案内してくれたが、こちらの身分の確認を一度したきりでほとんど会話らしい会話をしなかった。
 専用通路はギルノスの民が行き交う大通りをまたぐように設けられている。大通りの横断が終わった先は階段になっており、下ると領家専用の船着き場がある。船着き場には十隻ほどの〈砂漠の船〉が浮かび、その先は砂路になっている。ゾーラはもっとも遠い位置に置かれた船に向かう。ゾーラに与えられた〈砂漠の船〉だ。行きもこの船に乗ってきた。
 人ひとりが横になれる程度の長さしかない小舟で、一部が砂に埋もれて固定されている。乗り込むことは容易い。ゾーラ、リュシーの順に船の縁をまたいで船に乗り込む。
 ゾーラはリュシーの乗船を確認すると、船の前方に設けられたカメラに向かって数工程の印を結んでエンジンを起動させる。船の後方に腰掛けていたリュシーは、エンジンがかかった瞬間、船が浮力を持って揺れたことを知覚する。船の外に目をやると、〈砂漠の船〉の周囲二メートルの砂が流動化し、まるで水のように振る舞っている様を目にする。
「出発します。落ちないように気をつけてくださいね」
 リュシーは頷き、船の縁を持つ手に力を込める。船は船着き場を出て、街中に巡らされた砂路へ繰り出す。〈砂漠の船〉は砂中深くに空気を送り出し、砂を流動化させ推進する。ギルノスの民にとって砂路は生活の中心にある。水のような流れはなくとも砂は船や民のよって国を巡っていた。
 砂は船から離れると流動性を失う。船の後方には〈砂漠の船〉特有の波紋が形成されていく。幾筋にも重なった紋様を見つめながらリュシーはゾーラに問う。
「船を動かす認証が印の組み合わせであるのはなぜですか?」
 前方を走る船が少ないことを確認すると、ゾーラは砂漠の船を自動運転へと切り替える。くるりと身体を返しリュシーに正対すると左手を差し出してくる。ラシッドほど枯れてはいないが、ハドほど瑞々しくもいない。ギルノスの民は時間と乾燥の二重の加齢を受けているように感じられた。
「指紋も掌紋も顔さえも時とともに水を失い変化してしまうのです。補助的に特徴抽出をしていますが、主の認識機構は印と虹彩で、これらによって船の主人かどうかを同定します」
 ゾーラを見るリュシーの視界の端にちらちらと動くものが入ってきた。砂路と並行する道を幼い兄弟が走っている。ぶんぶんとリュシーに手を振っている。
「こら、危ないから止まりなさい」
 ゾーラが注意を促す。道はここから砂路を離れ右に折れていた。道の端で動きを止めた兄弟にリュシーはさらに大きく手を振りかぶる。
「鎖国をしているというのに国外の人に寛容ですね」
「砂漠に住む国民にとって外国は敵ではなく技術や作物をもたらしてくれる存在ですからね。領家にはリュシー様のように来賓も時折やってきます。ラシッド様が歓迎している様子は国民に伝えられます」
 ラシッドのリュシーに対する無関心な振る舞いはたとえハドのための個人的な行動であっても、お国のための行動として伝えられるのだろう。
「ハド様の遊び相手も必要ですしね」
「さあ、何のことでしょう? リュシー様も大切な国賓です」
 ゾーラは悪戯な表情を浮かべる。息子を国外の人物に触れさせることはラシッドなりの帝王学なのだろうか、それとも父親としての顔なのだろうか?
「そういえば奥様は?」
 ゾーラはゆっくりと首を横に振る。目には寂しげな影が宿っている。
「四年前に病気でお亡くなりに」
「そうなんですね……」
 ハドは次期領主になる。周囲はヘリ下って接するはずだ。ハドは対等に甘えられる存在を求めているのかもしれない。視界に入る建物がぽつぽつと散らばってきた。円形の街の外周あたりにきたのだろう。街の中央に比べると建物や民の衣服もみすぼらしい。彼らはリュシーに関心を示さなかった。
「ここからしばらく風の強いエリアになります。手動にしてスピードを上げますので落ち着くまで黙っていて下さいね。舌を噛むか口の中が砂だらけになります」
 駆動音が強くなり、流動化する砂の範囲が前方へ大きく伸びていく。船の速度が上がり、リュシーの身体は慣性でぐっと船の縁へ押しつけられる。ゾーラは口を横一文字に結んでいる。砂路はだんだんと道としての形を崩しながら幅を広げていく。気がつくと建物はなく、視界の全てを砂が覆っていた。地面の砂と風によって舞い上がった砂の境目ははっきりとしていなく、リュシーは船の外を見ることを止め足元をじっと見つめることにした。
 〈砂漠の船〉は砂を掻き分けるひと筋の荒い音だけを発しながら砂塵の中を進んでいく。リュシーは襟元を口まで引き寄せ細かな砂を吸い込まないように努めた。十五分ほど進んだ辺りで、はたと風が止む。
「抜けました。もう顔を上げても大丈夫です」
 リュシーは前髪に積もった砂を払いのけると顔を上げる。明瞭になった視界には、だだ広い砂漠があった。太陽がじりじりと砂を焼いている。遠くに視線をやると時折揺らめいて見えた。リュシーは水を取り出し口に含む。ぬるく、苦く、粘性をもったかのように感じられたがそれでも身体は水を欲していた。
「リュシー様! 休憩は適宜とりますので船が動いているときに水の摂取はお止め下さい」
 ゾーラの慌てふためいた声にリュシーはびくりと肩を強張らせる。リュシーの周辺を見やるも特に剥き出しの機器類はなく、水をこぼしても船を壊すようなことにはならないと思ったが、〈砂漠の船〉についてよく知っているわけではない。
「申し訳ありません」
 持ち主の意向を守るべきだろう。リュシーは素直に頭を下げる。
「いえ、こちらこそ急に叫んでしまい申し訳ありません。私も喉が乾きました。あの辺りで休憩しましょうか」
 ゾーラは小さな砂丘を二つ越えた辺りを指し示す。リュシーは頷く。目的の場所までたどり着くとゾーラは船のエンジンを止める。空気の供給が絶たれ、砂は流動性を失い普段の姿を取り戻す。
「休憩でエンジンまで切るんですね」
「砂に浮いているままだと水も飲みにくいでしょうから。酔ってしまうかもしれませんし」
 前へ進んでいる時は感じにくいが流動化した砂の上に留まった船はかなりの揺れに襲われる。一人で乗っているならともかく、二人だと相手の動きが読めないので揺れを制御することがままならない。ゾーラがエンジンを切ってリュシーはほっとしていた。
「〈砂漠の船〉って、流動化した砂の中をどうやって進んでいるんですか」
 ゾーラはリュシーの問いにすぐに答えることはしなかった。水をひと口含み、ゆっくりと飲み下す。
「私も詳しくは存じ上げないのです。領家にお抱えの技術者がいて、彼らが全ての〈砂漠の船〉のメンテナンスを行います。私が聞いたところによると流動化領域の外にある砂を掴みながら進んでいるそうです」
 密度の差があるとはいえ、流動化していない部分も砂には違いない。それらに力を加え船を動かすことを可能にしているのならば、よほど特殊な技術が活用されているのだろう。
 リュシーは三度のギルノス訪問で感じた事がある。砂の都ギルノスは高い科学技術力によって支えられている。〈砂漠の船〉は十歳を越えた全国民に一艘与えられる。誰もが船を巧みに乗りこなすことから国民全体の技術リテラシーも他国に比べて高水準にあるだろう。
 リュシーは船外の砂をすくい採ろうと縁から両手を伸ばす。太陽に灼かれた砂は想像以上に熱く、触れた途端に伸ばした手を思わず引っ込める。砂が舞い上がり目に入る。指も袖も砂にまみれていて目を掻くことが叶わない。リュシーは飲み水を眼球にかけて砂を洗い流す。船底に水が落ちる。
 なぜギルノスは技術を砂漠との共存に使うのかだろうか? AHB社が入り込まずとも、時間さえかければ砂漠を消し去る知見を獲得出来るに違いない。ハドや街で追いかけてきた幼い兄弟を思い浮かべる。彼らにとって砂漠とはなんだろうか? 成長とともに砂を憎んだり、国を憎んだりはしないのだろうか。生まれ故郷の姿を愛しており変容など望まないのだろうか。
「どうなさいました?」
 ゾーラがリュシーの様子を心配して近寄ってくる。枯れた肌に水で艶めいた唇が浮いていてふと不気味さを覚える。砂漠のど真ん中の狭い箱の上に二人きりでいることの異質さを感じた。今に殺されて砂に埋められても誰も気がつかない。
「いえ、砂が目に入ったもので」
 ゾーラの手が顔へと伸びてくる。思わず背を反って距離をとる。
「ごめんなさい。もう大丈夫です」
 中途半端に伸びた左腕を申し訳なさそうに引っ込める。
「ごめんなさい」
 リュシーは理由もなくもう一度謝った。
「いえ、目が傷ついていないのであれば大丈夫です。こちらこそ驚かせてしまい申し訳ありません」
 ゾーラは丁寧に頭を下げる。
「飲み水は余っていますか?」
 リュシーは荷物から新しいボトルを取り出して見せると、ゾーラは頷く。
「では出発しましょうか。国境付近まで一気に行ってしまいましょう」
 ゾーラは船の前方に移動する。ふと船底を見ると先ほどリュシーが流した水が消え去っていた。乾いたのだろうか? その位置には近寄ってきたゾーラがいた。ゾーラが左腕を伸ばしていたことを思い出す。そっとゾーラの右腕を盗み見ると袖あたりが濡れているように見える。拭き取ったのだ。理由は分からない。ゾーラは船に水が落ちることをなぜか畏れている。ゾーラが幾つかの印を結ぶとエンジンがかかる。砂の流動化が始まる。
「あっ」
 リュシーは咄嗟に声が出る。ゾーラが慌ててこちらを振り返る。
「どうされました?」
「そこ。ゾーラさんの足元」
 リュシーが指の先には小さなネズミが流動化した砂に溺れるように身体をばたつかせている。ゾーラは急いでエンジンを切ろうと試みるが、ネズミは瞬く間に身体を砂中に飲み込まれてとぷんと姿を消した。手遅れだと判断したのかゾーラはエンジンを停止させなかった。
「ハリマウスです。かわいそうなことをしました」
「エンジンを止めるか、ここを離れるかして砂を固くしてあげれば助かるんじゃないですか」
「いえ、おそらく手遅れでしょう」
 ゾーラはハリマウスが沈んだ場所に向かって手を合わせ、祈りを捧げた。リュシーも細かい所作は分からないがゾーラを真似る。
「砂の中には多くの死が埋まっていると、よく父から諭されたものです。ギルノスの砂漠で生きたものは、どのような末路を迎えたとしてもギルノスの砂に還り、またギルノスの砂漠に生まれるのです」
 そこから国境付近にたどり着くまでゾーラはあまり口を開かなかった。砂漠に多くの死が埋まっているというゾーラの言葉とともに視界を流れる砂をぼんやりと見つめて過ごした。死があるということは生もある。水は生で善で、砂漠は死で悪で。ここまで極端な考えではなかったが、やはりそれはリュシーの中にこびりついた価値観だった。砂漠には砂漠の生があるとラシッドは言った。リュシーは〈砂漠の船〉に揺られながら自身の価値観の揺らぎを抑えることが出来なかった。
「そろそろお別れです」
 砂漠の先の水平線に沿って十メートルはあろうかという巨大な壁が現れる。ギルノスと他国の交流がもともと少ない理由はこのギルノスの壁にある。リュシーやゾーラが生まれるよりもはるか昔からギルノスの砂漠の周囲はこの分厚い壁によって完全に隔離されていたらしい。
 ゾーラは関所の前に船を止める。壁を貫通してギルノスと外を繋いでいる関所はいくつか設けられているが、空港を持つ隣国へ行くにはこの関所を通る必要がある。リュシーはシンガポールを経由してAHB本社のあるアメリカへと戻る予定だ。
「次はリュシー様のアドレスに直接連絡を入れるそうですので、それまでお待ちください」
 他国との連絡手段は領家のみが保有しているようでギルノスの民は外部と繋がる直接的な手段を持たない。リュシーは関所の役人に引き渡される。
「ありがとう」
 去って行く背中に声をかけると、ゾーラは深々と頭を下げて何も言わずに踵を返した。
 役人の指示に従い荷物を全て預ける。次いでリュシーは更衣室へと向かい借りていた衣類を全て脱ぐ。指定された無人の細い通路を全裸で進んでいく。エアシャワー、UV照射、水洗シャワー、乾燥室、いくつかの恒温室を経た先にリュシーが来国時に着ていた衣類が置いてある。砂に犯されていない柔らかい衣類が心地よい。役人と規定のやりとりを終えるとようやくギルノスの外へと出る。気温はそこまで変わらない。リュシーは砂のない空気を思い切り吸い込んだ。
 一年も経たないうちに四度目の訪問が叶ったが、ラシッドは砂漠緑化を了承しなかった。しかしラシッドはネルロースのサンプルを相当量求めた。AHB社を期待させるための行動なのか分からない。しかしその後も半年に一度のペースでネルロースのサンプルを持ってギルノスに赴くことになった。
 ラシッドのリュシーに対する態度が明確に軟化することはなかったが、リュシーがハドやゾーラと交流を深める様子を悪く思ってはいないようだった。リュシーもラシッドに倣いAHB社内で役員らに適度に期待を持たせてはギルノスへと飛んだ。ラシッドがリュシー以外の人物を拒んだため、その役目を外の人物に奪われることもなかった。

関所を抜けた先に待っている人物はいつものゾーラではなかった。
「ハド!」
 ギルノスへの初訪問から十年、幼かったハドは成人を迎えた。今では頭一つリュシーより背が高い。リュシーはハドのもとへ駆け寄り拳を二回突き合わせた。
「ゾーラさんは? 一緒じゃないの?」
 ハドは首を横に振る。
「ゾーラは親父の手伝いをしてこれなくなった。で、今日は俺が任された。ほら早く行こう」
 ハドに背中を押される。押された先には一艘の〈砂漠の船〉が砂上に停まっていた。ゾーラの船よりも装飾が多く美しい船だった。大きさは変わらず人ひとり分、以前ゾーラに聞いたところによると、技術的な要因で大きさを変えることが出来ないという。
「成人おめでとう。あんなに小さかったのに」
 リュシーはハドの頭を両手でくしゃくしゃに撫でる。
「ようやく俺も〈砂漠の船〉で街の外に出れるようになった。領家の人間として一人前と認められたんだから、これからは子供扱いしないでくれよ」
 ハドがはにかんで頭を掻く。リュシーは姿勢を整えてハドに頭を下げる。
「では、よろしくお願いします」
「お任せくださいませ。リュシー様」
 ハドの手を借りて船に乗り込むと、ハリマウスがハドの荷物を漁っていた。ハドは網を使ってハリマウスを捕まえると遠くへ投げ飛ばす。飛ばされたハリマウスは放物線を描いてやがて砂のクッションで一回弾むと、船から遠ざかるように走って逃げていった。船の近くにいると砂の流動化に巻き込まれる。
 ハドたどたどしくも丁寧に船を動かす工程を進めていき、最後に印を結ぶ。船にエンジンがかかり、周辺の砂が流動化して船が浮き上がる。
「よし、出発だ」
 船はゆっくりと進み出す。しかし速度を大きく上げることはなく、やがてハドは運転席から離れて後方のリュシーを向く。
「遅くない?」
「自動運転だからな。まだゾーラみたいに街の外の道を覚えていない」
 街から関所までは広大な砂漠が続く。刻々と姿を変える砂漠で道を違えずに進み続けることは容易ではない。
「むしろゾーラがおかしいんだよ。街の外で自動運転を解除して進めるほど砂漠の道を覚えているだなんて」
「自動運転ってどうやって進んでるの?」
「俺もよく知らない。砂漠の中に埋め込まれた機械かなにかを検出しているらしいけど」
「速度を出しすぎるとそのルートから外れるってことか」
「そういうこと。というわけで領主館までは長い。また外の世界の事を教えてくれ」
 リュシーから度々話を聞かされているせいか、ハドはギルノス国外への関心が強い。遠く小さくなる壁を見る。十年が経ってもギルノスの鎖国状態は解かれていない。次期領主を砂漠の檻で囲いながら、外へ憧れさせる。ラシッドの目的は分からない。しかしハドが国を継げば間違いなくギルノスを開国へと導くだろう。リュシーはギルノスの外の出来事をハドに話す。ハドは驚き、笑い、悲しみながら外の世界の話に熱中する。
「すごいな。もう人類は当たり前のように空の先まで飛ぶんだな。ギルノスのみんなは砂漠に縛られてるというのに」
 ハドは肩を落としている。いくら領主の息子であってもラシッドの意向に逆らって国の外を見ることなどできはしないのだろう。
「領主様は元気?」
「知らね。最近はゾーラとコソコソなにかやってるみたいだ。リュシーも今回は親父に呼びつけられたんだろう?」
 リュシーは首肯する。いつもは半年に一回の頻度でギルノスに来ていた。しかし今回に限っては前回の訪問から三ヶ月しか経っていない。さらにネルロースを持てる限り大量に持ってきてくれとの依頼もあった。
「領主様なりに色々考えてることがあるんじゃない?」
 ハドは無言だった。強い風が吹き砂塵がリュシーを襲う。首筋に砂がまとわりつく。大きな皺に入り込むとなかなか払う事が出来ずに厄介である。
「……友達がな、この前急に居なくなったんだ」
 ラシッドとゾーラが何やら忙しくしている中、暇を持て余したハドはギルノスの街中を散策することを日課としていた。
「名前はヒュー。街外れに住んでいた」
 リュシーは円形の街の外周部にある貧困街に住む人々の姿を思い出す。確かハドは貧困街に行くことを禁止されているはずだった。
「俺のこと領主の息子だって知らなかったみたいだ。いいやつでな。街の中心から来た俺を非難するようなことはせず仲良くしてくれて」
 幼い頃のハドは愛情に飢えていた。成長してもそれは変わらないのかもしれない。街の中心でハドが受ける待遇と、次期領主だと知らずに接するヒューの態度のどちらがハドを喜ばせるか、火を見るより明らかだった。
「ヒューは俺の知らない街の裏の顔をたくさん教えてくれた。こっそり俺の船で街を抜け出したりもした。リュシー、ちょっと見て欲しいものがあるんだ」
 ハドは飲み水が入った袋に右手を突っ込む。引き上げたハドの手には濡れた布があった。はどは布に金属製の重しを付けた。何をするつもりか想像もつかなかった。ハドは狙いを定め〈砂漠の船〉の進路の先にそれを投げる。船が進む。やがて濡れた布が砂の流動化領域に入ると布は重しによって瞬く間に沈む。リュシーが首を傾げていると一定速度で動くはずの船が急加速し、すぐに元の速度に戻る。
「えっ」
 バランスを崩したリュシーの腕をハドが掴み、支える。今一体何が起きたのだろうか? 船が布に引っ張られた? もしくは船を囲む砂の性状が変わった?
「これだけじゃない。リュシー、ちょっと危ないから座ってて」
 先ほどの水の入った袋の口を少し開けた状態にして、ハドは大きく腕を振りかぶる。そして船の後方に向かってそれを思いっきり投げる。袋が砂の上にぽふと落ちる。
「何も起こらないじゃ――」
「しっ、待って。水がこぼれ落ちるまで時間がかかる」
 最初はエンジン音が大きくなった気がした。しかしすぐにその認識が間違いだったことに気がつく。徐々に音が増す。何の音か? それは砂の動く音だった。砂漠の砂がうごめき、袋があった位置で盛り上がったのだ。
「逃げるぞ。ルートを外さない程度にちょっとの時間、手動に変えて速度を上げる。こっちに水があることを悟られるとやっかいだ」
 速度を上げたハドの〈砂漠の船〉は砂煙を上げて進んでいく。うごめく砂の場所が分からない位置までくるとハドは再び自動運転に切り替える。船はしばらく迷うように左右に頭を振りながら進むが、やがてルートを見つけて安定した動きに戻る。
「ハド、あれは一体?」
 ふとリュシーの脳裏に過去の記憶が戻る。ゾーラが〈砂漠の船〉を走らせている時に水の取り扱いに気を張っていたこと。リュシーが船底に溢した水をすぐさま拭き取っていたこと。
「なあリュシー、親父とゾーラは何を隠している? ギルノスの砂漠の下に何がいるんだ?」
 リュシーは答えることなど出来なかった。
「今回リュシーが呼ばれたのは、今のことに関係があるのか?」
 リュシーは首を振るしか出来なかった。
「分からない。わたしは何も知らされていない」
 事実だった。メッセージにはネルロースを多く持ってきて欲しい旨を除いていつもと同じ文言が記されていた。
「実はヒューはギルノスを出ようとしていた。貧困街に住む人たちも〈砂漠の船〉を持ってるけど、領家以外の船は街から先は進まないようになっている。俺がヒュー船に乗せたのはいつかヒューが抜け出すときのシミュレーションをやってたんだ」
「そこで水をうっかり砂に落とした」
 リュシーの言葉にハドは頷く。
「その時は船の真下に落としたせいで、気が付いた時には盛り上がる砂に船が捕まった。死ぬかと思ったけど運良く船は転覆せずに下に滑り落ちた。俺たちは大慌てで街に戻った。その三日後だ。ヒューが居なくなったのは」
 ヒューは酒浸りの父親と二人で暮らしていた。その父親もヒューが居なくなった日の明け方から姿を見てないと証言した。育ててやった恩を忘れて一人で国外に逃げ出したんだ、と父親は怒鳴り散らしたらしい。
「俺、見たんだ。夜中に領家の船着き場の近くに船が停まっている影を。今思えばあれはヒューの船だったのかもしれない」
 翌朝、船が停まっていた場所に行ったが目的の船がなかった。嫌な予感がして貧困街に行こうと船に乗り込もうとしたところ、ゾーラの船がないことに気がついた。しばらく待つとゾーラが帰って来た。ハドの姿を認めて驚いていた。
「ゾーラを問い詰めても、ヒューなどという人間は知らない、見ていない。自分は別の用事で出ていただけだと言ってそれっきりだ」
 どこへ行くのか、というゾーラを振り切って貧困街のヒューの家に行ったがヒューと船の姿はなく父親が居るのみだった。
「もしかして親父は砂漠の秘密を知ったヒューを殺害したんじゃないか? おかしいと思ってたんだ。鎖国以降、国外に出たいと思う民はいたはずなんだ。ヒューは言っていた。毎年数名は行方不明者がいるって」
 リュシーは緊張と乾燥で水分を失った唾を無理やり飲み込んだ。粘りつく感覚をやけに強く感じた。いなくなったギルノスの民、ギルノスの壁は容易に登れるものでもないし、関所を見つからずに通過することも無理だと思われる。神隠しにあった彼らはどこにいったのだろうか?
「ギルノスを出ようとした者や砂漠の秘密を知った者は、突然居なくなる……」
 ギルノスの砂の秘密、関所に設けられたいくつもの関門、それらは一粒たりともギルノスの砂を国外に出さないという意思の表れなのではないか。これまでギルノス滞在中のリュシーの傍には必ずラシッドかゾーラが居た。もし私が何かの秘密を掴んでしまったら? ぞわりとした感触が腕を波打つ。見るとプツプツと鳥肌が立っていた。
「リュシー、頼みがある。親父とゾーラが何をしているのか一緒に暴いて欲しい」
 街が見えてくる。リュシーはたどたどしく首を縦に落とした。

船着き場に到着する。そこにゾーラの姿があった。
「お待ちしておりましたリュシー様。お久しぶり、というには短い期間でしたかね」
 十年の歳月を経て、若者だったゾーラにも貫禄が備わっていた。従者の一人に過ぎなかったが、以前からラシッドの信頼を得ていた人物だった。
「ハド様もお帰りなさいませ。お疲れ様でした」
「ああ。なんでいるんだよ」
 ハドはゾーラを睨みつけるが、ゾーラはどこ吹く風といった様子だった。先導するゾーラの後ろを付いていき階段を上る。専用通路から見下ろす街並みはここ十年で大きな変化がなかった。鎖国とは時の進みを鈍化させることなのだと改めて実感する。音も立てず静かに歩を進めるゾーラとリュシーに対して、ハドはさらに後方で荒々しくブーツについた砂を鳴らしながら歩いた。
 エントランスの扉を抜けると珍しくラシッドが出迎えにきていた。たった三ヶ月会っていないだけだったが、前回よりも枯れた印象を受けた。赤黒い肌のため目立ってはいなかったが、大きな隈を携えていた。
「ハドご苦労だった。積もる話もあるだろうが下がってくれ」
「もうリュシーを連れて行くのか? 長旅で疲れてるんだ。休ませてやれよ」
「いいから下がれ。今はお前の相手をしている場合じゃない」
 強い口調でラシッドはハドを退ける。ハドは怪訝な表情でラシッドを睨みつけると、やがて諦めたのか鼻をならし廊下の奥へと消えていった。
「見苦しいところを見せてすまない。ハドも反発したい年頃なのだろう」
 ヒューの件を知らないのか、とぼけているのか。ラシッドは子育てに苦労する父親然として息子を語る。
「それで、ネルロースは持ってきてくれたか?」
「はい、可能な限り」
 リュシーはネルロースの入ったジュラルミンケースを叩く。
「急なお呼び立てだったので、十分かどうかは分かりません。必要でしたら次回も持ってきます。領主様、単刀直入に聞きます。本日はどのようなご用件でしょうか? 砂漠緑化、ではないですよね?」
 ヒューの一件を聞いたからか、つい問い詰めるような口調で質問をぶつける。ラシッドがリュシーから視線を外し、後ろにいるゾーラへ視線を向けたことが分かる。
「折り入って砂漠について話がある。ついて来てくれ。ゾーラ、案内を」
 ゾーラが先頭に立って歩き出す。来賓室に行くのだろうというリュシーの予想に反し、来賓室へ向かうための通路を左に折れず、直進する。
「私の部屋へ行く。それに来賓室はハドが聞き耳を立てているだろうからな」
 三人は領主館一階の最南にある領主室へたどり着く。ゾーラが扉を開いて固定する。ラシッド、次いでリュシーが入りゾーラが最後に室内に入って鍵をかける。
「外に待機すると、ハド様にばれてしまいますからね」
 領主室は名に反して簡素な作りになっていた。扉を入って正面奥には石でできたテーブルがある。目を凝らしてみると、白い大理石の削り出しの様だ。部屋の左右は天井まで届く本棚によって一面が占められていた。背表紙の文字から鑑みるに様々な国の書物で、所狭しと並んでいる。英語の本も多くあった。ジャンルは政治や歴史、科学など多岐に渡っていた。
「私の父が集めた本が半分、もう半分は私が追加したものだ」
 本棚の一角に本が不揃いに刺さって目立つ箇所があった。近寄ってみると乾燥耐性生物やAHB社の成果をまとめたものであった。最近抜き差しして読んでいたのだろう。大理石のテーブルの奥には木製の椅子があったが、ラシッドが椅子に座ることはなかった。疑問に思っているとリュシーとラシッドの間をゾーラが横切ってテーブルの傍にいく。ゾーラはしゃがみ込むと、テーブルの脚をまさぐっている。やがて目的の箇所を見つけたのか、そこに捻るような動作を加える。
「ご準備ができました」
 ラシッドが頷き返すと、ゾーラは石のテーブルを長辺に沿うように推す。重たいテーブルは鈍い音をたてながら横にスライドする。現れたのは地下へと続く階段だった。
「こっちだ」
 ラシッドが階段へと向かい、リュシーはその背中を追う。先ほどテーブルがスライドされた時わずかに砂が舞った。中はどうなっているのだろうか。階段をある程度下りたところでリュシーの後ろにゾーラが着いてきていないことに気が付いた。頭上で先ほど聞いたばかりの鈍い音がし、狭い階段通路内に響いた。中は瞬く間に暗闇に包まれる。
「動かないでくれ。明かりを用意する。この場所を他の者に知られるわけにはいかないから閉めさせてもらった」
 ラシッドが手持ちのライトで暗闇を照らした。限定されたわずかな光を頼りに踏み面の狭い階段を慎重に降りていく。数分間は下っただろうか? ようやく階段がなくなり、まっすぐな通路が伸びている。通路の天井はラシッドよりも数十センチメートルは高い位置にあり余裕があった。
 通路の先に鉄製の扉が見えた。扉にはハンドルが付いている。ラシッドはハンドルを握ることはせず、まずハンドルの隣に設けられた模様のような突起を複雑な手順でスライドさせていった。その後、両手でハンドルを掴んで回転させた。
 扉の先は部屋になっていた。通路よりも幾分か天井が高い。部屋は八メートル四方の正方形。領主館の地下に箱のような空間が設けられている。電気は通っている様で、ラシッドがスイッチを押すと強い白色光に照らされる。リュシーは思わず目を細めた。
「この部屋がギルノスの砂漠の中心になっている。ここに鉄の板があるだろう。これを外せば下は砂漠だ」
 部屋の中央には二メートル四方の鉄の板が置かれ、ラシットはその板を足で小突いた。部屋の奥の壁に沿うようにして長方形の大理石のテーブルが設置してある。領主室の白いものとは反対にこの部屋のものは濃い黒を呈していた。ラシッドがそのテーブル傍へ移動する。リュシーも後をついてテーブルに向かう。
「これは」
 二つのものが目についた。一つは誰かが書きなぐったような文字が並んだ紙が束ねられている。もう一方は透明なケースで、中には砂の山と植物が収められていた。ラシッドは紙の束に目を向ける。
「父の手記だ。ギルノスの砂漠に起こった異変が記されている。日付はAHB社がネルロースの応用研究成果を発表した日、つまり貴方たちの手によって大きな砂漠の一つ目が世界から消された日だ」
 リュシーはラシッドの言葉に驚き、慌てて手記を手に取った。手記にはあつ一つの不可解な現象について記されていた。

 《水をめがけて砂が動いた》

ハドとヒューが砂漠で見つけた現象のことだ。文字の隣には【水】と書かれた円に向かって【砂】と書いた山から矢印が伸びているイラストが描かれていた。紙を捲る。

 《日に日に砂の動きが強くなっていく。AHB社が世界の砂漠を消した影響か? なぜギルノスの砂漠の砂に?》

リュシーは次の紙を捲っる。書かれてある中で気になるフレーズを頭に留める。

 《ようやく原因を捉える。砂の中に微生物。相互に作用して力場を発生させている》
  《砂漠の船、ギルノスの壁、いつからある?》

手記はまだまだ続いている。丁寧に読むことを止めてパラパラと捲っていく。途中から字体が変わる。リュシーはラシッドを見やるとラシッドは頷いた。ラシッドが父の調査を引き継いだのだ。
「あくまで父と私の推測に過ぎないが」
 ラシッドは断りを入れた上で調査結果をリュシーに語っていった。
「ギルノスの砂漠には古代から特殊な微生物がいた。ギルノスの壁はなぜあるのか? 私たちが導いた結論は、この微生物を囲い適切な数量、濃度の調整していたのではないかということだ」
「いったい何のためにそんなことを?」
「二つある。身近なところで言えば我々の生活を支える《砂漠の船》を動かすため。実は、〈砂漠の船〉の動力部は古くからブラックボックスだった。石油燃料で動いているわけではない。父も祖父も知らなかった。はるか昔に作られた技術のようなのだ。砂中からこの微生物を取り込みエネルギーへと変換する技術が使われているのではないか、と考えているが正確なことは分からない」
 リュシーも感じていたが、ギルノスは世界の標準的な技術体系とは異なる独自の技術を構築している節があった。それが古から脈々と受け継がれてきたものだとラシッドは言っている。
「ギルノスのおこりに関する資料は国内外どこにも現存していない。もしかしたら貴方たちとギルノスの民では見た目は似ていても、とても遠い存在なのかも知れないな」
 絵空事のようにも、真実なようにも感じた。
「もう一つの理由はなんですか?」
「こちらの方が重要だと考えている。ギルノスの微生物、ひいてはギルノスの砂漠は地球という水の惑星の水分量の調整を行っているのではないかという仮説だ」
 ラシッドの突拍子の無い発言に、リュシーは顎に手を当てて考え込む。しばらく待ったのち、ラシッドは説明を続けることにしたようで、紙の束の隣に置かれた透明ケースを手に取り上面を外す。
「この微生物最大の特徴は水に飢え、貪欲に取り込もうとする点にある。この砂の山はギルノスの砂だ」
 ラシッドは砂の山の傍に水を一滴垂らす。しばらくすると静置状態で動くはずのないの砂の山が崩れ水滴を飲み込む。この部屋には風はない。
「父が見つけた動く砂がこれだ。父の観測によるとこの砂が動く現象は時とともに強まっていった。なぜだと思う?」
 動く原因は微生物だと言った。それならば頭に思いつく答えがある。
「数が増えている?」
 ラシッドは首肯する。
「隣の山は水を与えて内在する微生物を増やした砂だ。彼らは水環境下で増殖能を通常の細菌類よりもはるかに高める」
 ラシッドは先ほどと同じように水を垂らす。すると砂は一気に崩れ水を取り込んだ。
「彼らは貪欲だ。このような直接的な水がなくとも空気中の水分も喰らっているのではないかと考えられる。水の惑星とは名の通り常に水を発している。ギルノス砂漠によって恒常性が保たれていると考えた」
「地球の水の総量はある程度一定です。ギルノスの砂漠が水を放たずに喰らうだけであれば、総量は減り続けることになります」
「まだ見つかっていない水の源泉があるのではないだろうか? 君たちもそして私たちもギルノスの技術を十全には理解していないように、世の中にはまだ理解に及ばない現象も存在しうる、と考える方が我々にとっては自然な帰結だ」
 二つ目の山は未だ水を探してうごめいている。それは微生物の集合体などではなく、一匹の砂の怪物のようにも思える。そして現に巨大な怪物様の微生物集合体はギルノスの砂漠に存在している。
「ギルノスほどではないにしろ、他の砂漠にも水を減らす作用があったとは考えられないだろうか? 乾燥の結果、砂漠が生じるのではなく、砂漠があることで乾燥が作られていたとは考えられないか? 君たちの常識は本当に正しいのか?」
 リュシーは答えることが出来なかった。現に目の前で信じられないことが起こっている。
「AHB社が砂漠を消していったから、世界中の水がギルノスに集まった。と言う事ですか?」
「そうとも考えられる。結果、微生物たちは水を得て増殖し、ギルノスの砂漠は強く動く事が出来るようになった」
 鈍い痛みがリュシーの頭を襲う。AHB社は利益と間違った正義のために何かを犠牲にしたのではないか?
「わたしたちがギルノスの砂漠を、つまり地球の最後の砂漠をなくしてしまうと、どこからが放出されている水によって、地球の水が膨れ上がるということですね」
 それが淡水であればむしろ世界にとって喜ばしいことではないか、という考えがリュシーの頭をよぎったが、想定に反してラシッドは首を横に振る。リュシーは気付く。ラシッドはまだ隣の植物について説明をしていない。
「逆だ。貴方たちの技術を用いてギルノスの砂漠を殺したならば、地球全域が乾燥地帯になる。貴方たちが最も嫌う死の世界だ」
 リュシーの頭の中をいくつもの仮説が浮かんでは消える。なぜラシッドはネルロースを欲したのだろうか? ネルロース、乾燥耐性生物の中で生合成される物質――。
「あっ」
「気付いたか。彼らは貪欲だ。以前貴方がネルロースを含んで砂を固めただろう。この物質があればより凶暴に水が食えることに彼らは気付いた。生体内でネルロースを合成出来るように変異した。もう一つ、微生物に意思のようなものがあるとすれば増殖することへの執着だろう」
 ようやくラシッドは隣の植物に視線をよこす。
「ネルロースを含んだ砂で植物を育てた。出来た実の中に大量の微生物が存在していた。実を砂に移すとやはり動く砂が出来上がる」
 ラシッドの説明を聞いてようやく全てが腑に落ちる。現時点でギルノスの砂漠をなくすことは絶対にしてはならない。ネルロースを合成出来るようになった微生物はこれまで以上に体内に水を保持することが出来る。地球上の水が彼らに奪われる。砂漠の状態であれば砂中深くにいる彼らは移動することは出来ない。しかし植物の形状であれば? 動物や人を介していかようにでも遠くへ行くことが出来る。リュシーは膝をつく。
「ギルノスは砂漠のまま維持されなければならない。ギルノスの砂漠が貴方たちの技術によって失われれば本当の乾燥と死が地球を襲う。ギルノスは仮初めの死である砂漠を受け入れなければならない。微生物も民もここから出さない。人は新しいことを知れば悪用を考える。このことはギルノス領家だけの秘密に留める」
「ヒューのことは?」
リュシーはぼんやりした口調で問う。ハドはラシッドとゾーラが殺害したのだと言った。ラシッドは頷く。
「彼はギルノスの秘密に気がついた。犠牲は仕方がない」
 リュシーは無責任にラシッドを咎めることなど出来なかった。
「……ハドも砂の秘密を知っています」
「ああ。ハドには近いうちに全てを話す。今はヒューのことがあって気が立っているから落ち着いた頃に」
「なぜわたしをこうも頻繁に? わたしも秘密を知ってしまった」
 ラシッドは目を閉じる。
「これから先、最もギルノスに縛られることになるのは領家だ。縛られれば余計に逃げ出したくなる。父の鎖国で、私は書物でしか外を知ることが出来なかった。せめてハドにはわたしよりは外を知って欲しかった。君は信頼に足る人物だと判断して、こちらの都合を押し付けてしまった。本当に申し訳ない」
 リュシーは首を横に振った。リュシーにとってギルノスはなくてはならない存在になっていた。ラシッドの目論見など関係なかった。
「私も諦めている訳ではない。もしかしたら微生物を制御しつつ砂漠を緑化させる方法があるかもしれない。そのためにもネルロースを定期的に持ってきて欲しい」
 リュシーは立ち上がる。
「領主様を責めることは出来ません。でもわたしは殺人を犯した貴方を心の底から許せないかもしれない。もしかしたら、ではなく必ず制御技術を完成させてください。国民を解放してあげてください」
「約束する。いつでもギルノスに来てくれ。貴方の知見も必要なのだ」
 地下室を厳重に閉め、二人は領主室に戻る。ゾーラはリュシーを見て一番に頭を下げた。ゾーラがテーブルを戻したタイミングで扉がノックされる。息を弾ませたハドだった。扉を開けたゾーラを突き飛ばすようにして室内に入ってきたハドはリュシーの肩を掴む。
「リュシー、無事だったか」
 ハドはリュシーを背にしてラシッドに向き合う。
「リュシーに何をした?」
「何を? ネルロースについていくつか質問をしていただけだ」
 ハドはかぶりを振る。
「この部屋は静かで会話なんて聞こえなかった。リュシーに何かしたんだろう」
リュシーはハドの服を摘まむ。
「ハド、何もないよ。本当に話していただけだから。領主様、ありがとうございました。また次回来たときに詳しい説明とデモをさせていただきます」
「ああ、数日はゆっくりしていくといい。ハド、リュシー様をしっかりもてなしてくれ。ギルノスにとって大事なお客様だ」
「言われなくたってそんなこと分かってる。リュシー、行こう」
 部屋を出て、いつもの来賓室に行く。ハドから色々と問い詰められたが、何もなかったと言い続けるしかなかった。
「砂の秘密についても、それとなく聞いてみたけど領主様もゾーラさんもなにも知らない様子だった」
 リュシーの報告にハドは肩を落とした。残りの滞在はハドとともにギルノスの街をまわった。ゾーラが常に目を光らせていたため、うごめく砂を見るために〈砂漠の船〉で連れられることはなかった。
 帰路はハドの船に乗ったが、ゾーラも自身の船でついて来て監視を怠らなかった。秘密を告げる時期がくるまでハドを自由にはさせないつもりだろう。
「ハド、また来るね」
 関所で別れを告げる。ハドは上の空だった。

またすぐギルノスに行くだろうと踏んでいたリュシーだったが、ギルノスから連絡がくることはなかった。最後にギルノスに行ってから五年が経つ。
 ギルノスの情報が流れてくることもない。ラシッドもハドももう二度とリュシーに会うつもりはなかったのかもしれない。ラシッドの実験はうまくいっているのだろうか。
 リュシーの偽の報告も相まって、AHB社はギルノスの砂漠緑化を半ば諦めていた。ちょうど宇宙開拓への技術展用がうまくいき次期経営方針案で砂漠緑化事業の縮小が発表された。リュシーは頃合いだとAHB社を止める決意をする。
 ランチタイムは会社の外でゆっくりと食べることにした。ハンバーガーにかぶりつく。そのときリュシーの腕時計型デバイスが臨時ニュースを告げる。

――ギルノスが国交正常化を発表しました。また独自技術によって砂漠緑化に成功したとの発表もありました。

「えっ」
 ラシッドが微生物制御を成功させたのか、と慌てて詳細を調べ、リュシーを目を見張った。領主として話していたのはハドだったからだ。
 リュシーのアドレスにメールが入っていた。ハドからだった。
『ようやくここまで来た。リュシー、ギルノスに来て欲しい』
 しばらく戻れないかもしれない。社用の端末にはボスからのコールがひっきりなしに入っていた。端末の電源を落とし、タクシーを捕まえる。
「急いで! 空港まで」

関所の複雑な手続きはなくなっていた。迎えはゾーラではなかった。ハドの従者だという者がアメリカでも走っているオフロードモビリティで迎えに来ていた。
「船は?」
「全ての船は廃棄されました」
 リュシーの胸にわだかまりが生じる。ラシッドとゾーラについて尋ねるも従者は知らないと答える。
 行く道の途中に植物が生えているエリアを見つける。方法を尋ねてもやはり従者は首を振るだけ。リュシーは親指の爪を噛む。
「急いで!」

街中に張り巡らされた砂路は全てアスファルトで潰されていた。モビリティはエントランス傍に着く。リュシーは飛び出す。
 扉を乱暴に開ける。
「ハド! どこ」
 ギルノスの伝統的な衣類とは異なる西洋の警官風の制服を身にまとった男がエントランス傍から出てくる。手には銃を持っている。
「どちらさまでしょうか?」
「リュシーです。ハドに会いに来ました」
「リュシー様ですか。お待ちしておりました。ハド様から伺っております。ハド様は日本国の外務大臣とオンライン対談をしている最中でして、しばらくお待ち下さい」
 リュシーは待合室に通される。ハドに到着したことを伝えてくれと訴えたが、守衛らしき男は受け入れてくれない。待って居られない。リュシーは待合室を飛び出す。すぐに守衛に見つかる。
「おい、待て」
 守衛が追いかけてくる。腰に据えた銃に手を伸ばしている。リュシーは踵を返して駆け出す。リュシーが先ほどまで居た位置に銃弾が飛んでくる。彼はまだ建物になれていないのだろう。リュシーは射線を切りながら領主室を目指す。銃声のみが響く。
 領主室の前は長い廊下になっている。リュシーは息をあげながら必死に走る。扉の前にたどり着いた時、後ろから声が上がる。
「待てと言っただろう」
 銃がこちらを向く。当たるかもしれない。そう思ってしゃがみかけた時、扉が開いた。
「リュシー」
 ハドは満面の笑みを浮かべてリュシーに抱きつく。
「俺の大事な人に対してお前は何をしている」
 ハドは守衛に向けて銃を抜く。冷徹な目をしている。脅しではなく打つ気だ。
「ハド、止めて。わたしが待合室を抜け出したから貴方が危ないって彼は追いかけてきただけ」
 ハドは銃を下ろす。守衛は顔を真っ青にして頭を下げた。リュシーは守衛の傍に寄って謝る。守衛はリュシーの行動に驚き何も言わずに戻っていった。
「対談だった聞いたけど」
「もう終わったよ。入って」
 街とは異なり領主室は様変わりしてはいなかった。部屋の左右に様々な本、中央に大理石の白いテーブル。ハドはテーブルの上に腰を落とす。
「リュシーよく来てくれた。久しぶりだ」
「ええ、久しぶり。元気にしてた?」
「リュシーがこれるようになるまで結構大変だったよ。ようやく一息つける」
 リュシーは唾を飲み込む。そして睨みつけるようにハドに告げる。
「領主様、いえ貴方のお父様とゾーラはどうしたの」
 ハドは首を横に振る。
「ゾーラは突然居なくなった。親父は母上と同じ流行り病にかかって。半年ほど看病を続けたんだけど残念ながら」
「どうやって砂漠を緑化したの? まさかとは思うけど」
「まさかって何? 俺はちゃんと親父の意思を次いでリュシーの残していったネルロースを使ったよ。すごいな。瞬く間に砂が土に変わって植物が生えた」
「お父様は研究を完遂したの? ハドはちゃんと引き継いだの?」
 ハドの顔が困惑で歪む。
「リュシー何言ってんだよ。リュシーの望むとおり砂漠がなくなったんだ。アイツの戯れ言なんて信じなくていい。……アイツはヒューを殺したんだぞ」
 リュシーは懐に手を入れる。そして先ほど守衛から抜き取った銃をハドに突きつける。ハドは眉をハの字にする。
「リュシー、危ないから下ろすんだ」
「お父様はちゃんと告げなかった? そのテーブルの下にある現実を貴方は信じなかったの?」
 ハドは頭を掻く。ぼそぼそと呟くと、きっと鋭い視線をリュシーに返す。
「なんで信じなきゃいけないんだよ。なんだよギルノスの秘密って。なんでそんなもんが俺を縛るんだ。ギルノスを縛るんだ。ヒューが殺されていいわけがない! 世界なんて知ったこっちゃない。全部親父とゾーラの妄想でしかない」
「殺したのね?」
「ああ、今頃、草木の下だろうな。なあリュシー。植物はすぐに根付いたんだ。何でだと思う?」
 リュシーの背中を冷たい汗が伝う。
「親父やゾーラが殺した死体がたくさん埋まってたからだよ。〈砂漠の船〉で砂を流動化させて船の中に砂を入れれば、それだけで簡単に隠せる。微生物が船や死体をちょうどいい具合に腐敗させたんだろうな。足場と栄養になって驚くほど簡単に砂漠は森になった」
「まだ間に合う。渡航者もほとんどいないし、植物も実をつけて居なかった。砂漠を元に戻して」
 ハドはもの悲しげな顔を浮かべた。それは五年前に別れたときの顔と同じだった。
「ヒューを除いたらリュシーだけが俺の味方だって思ったんだけどな。やっぱり親父の味方をしてたんだな」
「味方とか、そんなんじゃない。このままだったら世界規模で大変なことが起こる」
 ハドも銃を取り出してリュシーに向ける。
「いがみ合っている場合じゃない。お願いハド」
「リュシーの正義とか、世界の正義とかそんなんを俺に押しつけんなよ。俺は外に出たかったし、ギルノスの国民に呪いの様な一生を送って欲しくなかっただけなんだ」
 ハドはリュシーに向けていた銃を自身のこめかみに当てる。
「ハド、止めて」
「あとはリュシーに任せる。好きにしてくれ」
 領主室に銃声が響いた。

貧困街、ヒューの家が会った場所の裏に一艘の〈砂漠の船〉があった。ハドの船だ。リュシーは船に従者が乗っていたオフロードモビリティに船を結び発進する。目的地は砂漠の緑化が最も進んでいるエリアだった。
 木々や草は生えてこそいたが、乾燥にやられている部位は多くあった。これならば燃やすことが出来る。
 リュシーはハドの船を最も大きい木の傍に置きその中にモビリティから抜き出した油を注ぐ。
「ハド、ごめんね」
 船の中に火を投げ入れるとハドの〈砂漠の船〉は大きく燃え上がる。周囲の木に火が移っていく。植物の真下は足場になった船やネルロースが緑化エリア全体に広がっている。おそらくほとんどの植物がこれで死ぬはずだ。ネルロースも熱によって切れる。あとは残りを少しずつ処理していけばよい。
 世界で最後の砂漠は一度死んだ。しかしまた砂漠へと戻る。
 モビリティの助手席が開く。中から出てきたのは銃を持つ手を打ち抜かれたハドだ。
「殺人を犯したハドを責めることは出来ない。心の底から許せないかもしれない」
 ハドの止血をしながらリュシーは告げた。
「だからこそ責任を持ってお父様の意思を次いで国民を解放してあげて。それがハドの願いでしょう」
 ハドにラシッドと同じ呪いをかけてしまった責任をリュシーは自分でも背負うつもりだ。ずっとハドの傍にいる。
 二人は燃えさかる草木に向かって祈りを捧げた。その下にいるラシッドやゾーラ、ヒュー、犠牲になった国民の安寧を願って。

(了)

文字数:23088

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