少女の夢

印刷

梗 概

少女の夢

夢は検閲されている。この半世紀で犯罪率は劇的に低下し、神経症は根絶され、ジークムント・フロイトの歴史的評価は最高潮に達する。思春期には誰もが通過儀礼として無意識の検閲に反抗するが、成長するにつれて受け入れるようになる。少子化の歯止めが効かなくなり、若者たちが中心となって異性愛への回帰を声高に叫ぶ。よって同性愛の夢は特に厳しく検閲される。

15歳の林ハチはいつもの少女の夢で目を覚ます。朝からにやけが止まらない。夢の中でとうとう少女とセックスまで至ったから、後頭部の超小型脳血流測定器(出生時に埋め込まれたそれを、ハチたちは”夜這い装置”と呼んでいた)が点滅してしまう。学校に到着したとたんに彼女は教師から矯正所行きを告げられ、そこで退屈な映像を浴びせられる。それでも少女の夢は毎晩止むことがない。

今朝も頭の後ろが赤く点滅しているハチに同級生の飛田飛雄が声をかける。なんでお前だけ間違った夢をみ続けられるんだろう、と。飛雄は父親のクリニックにハチを呼び出し脳波を測定する。入眠直後にレム睡眠が出現している。ハチは自分が根絶されたはずのナルコレプシーだと飛雄から知らされる。

飛雄は考える。ナルコレプシーに特徴的な入眠時幻覚=入眠直後のレム睡眠にみる夢は検閲に引っかかっても黒塗りされないのだと。「視覚野の超小型脳血流測定器は送信のみの単方向通信である」。それが嘘であることに少年少女達は勘付いている。時に夢が黒塗りされる感覚があるからだ。ふたりは確信する。やはり矯正所は隠れ蓑だ。夜這い装置は正しい夢を受信し、夢を上書きしている。どんな夜でも正しい夢がみれること。それが思春期の終わりの合図だった。

同時に装置が微弱な電流で線条体を刺激し、メチルフェニデート=ナルコレプシーの治療薬、として脳内で作用している可能性に飛雄は思い至る。ナルコレプシー根絶は夢の検閲と修正を行うために必須なのだ。ハチは最重症のナルコレプシーだった。100年前には世界中で睡眠薬として処方されていたスボレキサントが人工的にナルコレプシー類似状態を引き起こすことを飛雄は過去の論文から発見する。飛雄は強力なスボレキサントを合成し、ポンヒロと名付ける。

耳の裏が赤く明滅するハチの手を教師から奪い、飛雄は学校から彼女を連れ去る。ふたりはクリニックに逃げ込む。これがあればもっとナマの夢がみれる。飛雄はそう言って、ハチの口にポンヒロをねじ込む。ハチは少女がみれるなら何だってよかった。しばらくすると経験したことのない強烈な眠気がハチに襲いかかる。同じくらい強烈で、かつてなく鮮烈な夢と一緒に。少女は輪になって皆の前でハチをいじめる。ハチは自身の欲望に射抜かれる。飛雄に揺さぶられてハチは目を覚ます。いじめられた感覚はしっかり残っている。

にひひひひひひひひ。

ハチがはにかむ。ありえないスピードで点滅する夜這い装置と、真っ赤に染まる彼女の頬。

文字数:1200

内容に関するアピール

選択課題:2019年度第1回課題「「100年後の未来」の物語を書いてください」

「自分ならうまくできそうだという課題」がなかなか見つけられず、最後まで迷いました。何千年後の未来や、何百光年先の宇宙や銀河を想像することは苦手でも、100年後なら想像できるかもしれない。そう考えてこの課題を選択しました。

ブレイン・デコーディングの技術を発達させたディストピアに、向精神物質を嗜む少年少女、フロイト、バックラッシュ、管理社会の縮図としての学校、そこからの逃走、等々、個人的にグッと来る要素を詰め込みました。とにかく色気のある小説が書きたい。

タイトルは不世出のバンドの名曲から。『新記号論』、特に石田英敬氏の「無意識はシネマのように構造化されている」という定式に強く惹きつけられました。スタージョン『海を失った男』に衝撃を受け、こんな短編が書けたら死んじゃってもいいな、とか思いながらこの梗概を書き始めました。

文字数:400

印刷

あなたが、リアルでありますように

”わたしのなかに、わたしの存在の内部に、あかあかと燃える火床、すなわちイマージュの世界がひそみ息づいている。”
Henri Ey
”否定性を貫くこと、それが私たちの課題である。肯定性なら、すでに与えられているのだから” 
Franz Kafka

 

わっ。ちょん切られる。
 私は駅のホームで崩れ落ちる。その瞬間はいつも、思いっきり笑ったり泣いたりした後だから、今日の青空みたいに晴れやかな気持ちで膝をつく。

めり子の話がツボに入って、私は天を仰いでいる。
 ちょっと、ハチ、またなの。立って、ほら。どうしたの?最近。
 めり子の青白い腕がぬるっと私にのびて、それに掴まれた気分でいたけれど、実際には私がめり子の腕を掴んですくっと立ち上がる。
 曲げた膝に込めた力は立ち上がるだけには強すぎて、余った力でめり子にハグをする。この子は私のいちばんの友達。その証に、お互いの個人生体番号も教えあっている。
 めり子と私のあいだに秘密はない。私が女の子に興味があることも知っているし、こうやって急なハグにも応じてくれる。
 抱きしめためり子からいい匂いがする。潮の匂いみたいな、めり子の生っぽい匂い。この複雑な匂いがあっちの世界でも再現できるのなら、私は通学なんて時代遅れのことをしていないかもしれない。
 人前だよ。その言葉と一緒に、めり子の両腕が私の胸を押し返す。重そうな鉛色のヘルメットを被った小学生たちがこちらを見ている。
 女の子同士なんて、変。めり子は私に言ったのかと思ったけれど、どうもそれは独り言だったらしい。
 変じゃないよ。私が笑うと、めり子もつられて笑う。 

私やめり子みたいにこっちの世界でわざわざ学校に来て授業を受ける生徒は、意外と多い。学校も想定外だったみたいで、教室では古びた木製机を引っ張り出して使っている。私も木の机にしてもらった。
 席につくなり私はうつ伏せになる。
 横目で机の表面を眺めるとぼこぼことしていて、ところどころが黒ずんでいる。椅子はゴム製で、椅子も木製がいいと先生に伝えても取り合ってもらえなかった。
 二本の指を伸ばす。指先のざらりとした感覚をなぞってゆくと、文字が浮かび上がる。情ねつのばら。この文字を彫った人は情熱の薔薇と彫りたくて、けれど熱の字も薔薇の漢字も細かすぎて諦めたのだろう。私は何度もその文字を指先でなぞる。
 ずっと昔の、もうこの世界にはいない人が刻んだ、この文字にしか宿らない固有の質感。今の文字とは、確かさがぜんぜん違う。
 そういえば、めり子も文庫本を読みながら似たようなことを言っていた。めり子は今では貴重になったその紙の本に印刷された文字を、右手の人差し指でなぞりながら読むのが癖だった。だから彼女の人差し指の指先はインクでひどく黒ずんで、静脈認証には使えない。
 出来損ないの指、とめり子は嘆くけど、私はその黒い指先が好きだった。

午前は、歴史の授業だった。
 この時代に生まれてよかった。歴史の授業の度に、私はつくづくそう思う。
 アーカイブで見る昔の人達は、みんな沈んだ、辛そうな顔をしている。凶悪犯罪も、精神を病んでしまう人も、今よりもずっと多かったそうだ。
 それは悪い夢をみなくなったおかげだと、大人たちは私たちに言う。悪い夢をもしみてしまったら、良い夢で矯正してしまえばいい。悪い夢をみた朝は夜這い装置が赤く光って私たちに教えてくれる。
 それがかつて赤色灯と呼ばれていた光だと教えてくれたのも、めり子だった。
 フィジカルモードに切り替えられる。ゴム製のスーツから空気が抜けて、全身を強く抱きしめる。
 私たちは百年前、つまり二〇二二年にいた。こっちの世界を真似た、あっちの世界。
 私はかつて世界中から観光客が押し寄せた渋谷のスクランブル交差点、今では森林霊園になっている、の真ん中に立ってみる。均一なクラクションの音とざわめきは注意深く聞くと二分ほどでループしていた。
 平坦なディスプレイに映画の広告が流れていた。
 当時の人々が私を通り過ぎていく。その頃は、多くの人がマスクをしていて、口元が見えない。エロいな、と私は思う。
 この百年で肉体的な接触は激減した。そのおかげで性感染症も子供も激減した。あと何十年かすれば、あっちの世界で結婚も出産も、つまり人生を完結させられるようになるらしい。
 私たちは少子化のために妊娠を望まれながら、同時に感染対策にフェイジカルモードでの性交渉も推奨されていた。
 図書館で見つけた百年前の渋谷の写真は、アーカイブよりもずっと猥雑で、写真の隅々で男と女が、女同士が、男同士が、キスしたりハグしたりしていた。あの子はその中にいた。渋谷のパルコ前を歩いていた。風を切りながら、不機嫌そうな顔で。

最近の私はずっと眠い。生理前とか関係なく眠い。
 男の子の声がする。耳障りな演説口調で、私の昼寝を妨げる。私は小さく舌打ちをする。
 フロイトは、歴史上に類を見ない、稀代の詐欺師さ!二十二世紀になった今も、無意識と呼びうる空間は脳に見つかってないんだぜ。分子脳科学がこれだけ発展して、夜這い装置のおかげで僕たちの夢まで盗み見れるようになったってのに!
 よく通るその声の持ち主は人だかりの真ん中に立って、自分の後頭部をとんとんとタップしている。
 飛田飛雄。
 頭が良くて、背が高くて、顔もかっこよくて、何より昔から足が早い。

私は小さい頃から飛雄を知っていて、周りにつられて好きになっちゃったこともかつてあった。
 確か、十歳のバレンタインに、私は飛雄にキリンの絵の包装紙で包んだ丸いチョコレートをあげた。飛雄の前には女の子が列になっていて、私の三人前の子はクラスで一番かわいい子だった。飛雄はチョコレートを受け取ると、なにか耳打ちをしているように見えた。
 いよいよ私の順番が回ってきた。手汗が包装紙に滲んで、中身はぐにゃりと熱で柔らかくなっていた。それを両手で掴んで飛雄の目の前に差し出した。勢いが良すぎて、飛雄が少し後ろにのけぞったのを覚えている。飛雄はそれを片手で受け取ると、キリンじゃん、と笑い、机の上に丁寧に置いた。
 飛雄の薄い唇が私の耳元に近づいた。耳が付け根からかあっと熱くなって、その熱は一瞬で全身に回った。だけど飛雄は何も言ってくれなかった。
 後にわかったことだけど、飛雄は女の子たちの耳の裏を確認していただけなのだ。
 本当に、まったく、あのバカは。

なにもかも全部、夜這い装置の仕業なんだ!
 ファンの女の子と、信者の男の子に向けて、飛雄は続ける。
 聞いてくれ。みんな。聞いてくれ。
 飛雄が熱っぽく、身振り手振りを交えて話している。
 聞いてくれ。いいね。何度も言うよ。何度でも言うよ。聞いてくれ。夜這い装置、僕らが生まれたときに、僕らの承諾なく埋め込まれた、この超小型脳血流測定器のことだ!これをみてくれ。僕たちの親がサインした、サインしてしまった同意書だ。うちの病院から持ち出してきた。ここにはっきりと書かれている。いいね。読み上げるよ。これは一回しか読み上げないからね、静かにしてくれよ。
 波が引くように、急に静かになる。今年はじめての蝉の音が私の鼓膜を揺らす。

『……この測定器は脳情報の解析結果の集計目的にのみ使用され、有害または異常な解析結果にすばやい介入を可能にします。……測定器は後脳梁周囲動脈から栄養され、半永久的に駆動し、交換の必要は基本的にはありません。……また脳内血行動態や内分泌機能のモニタリングを行い、緊急時にはいちはやく介入し、生涯の健康増進の役割も果たします。……』

読み終えた飛雄は木の机に飛び乗る。頭が天井まで届きそうだ。
 僕たちは、常々、夜這い装置は単方向性の通信で、夢を受信する機能はないと説明されてきた。でも、少なくとも、この装置は僕たちの脳内をモニタリング、つまり監視している。監視してるんだ!それは政府も認めるところなんだ。いいかい。つまりだ。緊急時に介入できるってことは、向こうからも僕たちの頭にアクセスすることができるんだ。昨日の夢を、君は覚えているか?
 飛雄は一番前の男の子に質した。男の子は首を横に振った。
 そうだ、僕たちはだんだんと夢を思い出せなくなっている。けれど、ときどき、いやにはっきりした夢を見るだろう。夢なのに妙に現実臭くて、現実臭いのに妙に現実感のない。のっぺりとした夢。まるであっちの世界みたいな夢。僕たちはずっと言っている。僕たちはずっと気付いている。僕たちの夢は塗り替えられている。なのに政府はそれを認めない。矯正局で見せられる、あんな子供だましな映像だけで、犯罪が九割も減るわけがない!ヒステリーが根絶されるわけがない!政府は僕たちの無意識を検閲している。いいかい。僕たちはいつしかはっきりした夢しか見られなくなる。いいかい。その時、その時が、幼少期の終わりの合図だ。もう子供には二度と戻れない。より生産的な人間になって、異性を愛して、子供を増やすんだ。
 いいことばかりじゃん、と私は思う。飛雄の周りで奮い立っている彼や彼女らの熱っぽい表情に、私はひいてしまう。もちろん、恍惚とした飛雄にも。
 秘密だけど、私は毎晩、結構生々しい夢みてるよ。何もしないけど超エロい夢。しかも女の子同士。パルコ前のあの子との夢。

あの子とはフィジカルモードでセックスしたことがあった。
 あの子のモデリングはめり子にお願いした。完成したあの子は確かにあの子みたいで、だけど本当はもうちょっと蓮っ葉な感じなんだよね、と思った。
 モデリングされたキャラクターとのセックスは初めてだったから、最初はうまく行かなかった。私は自分にペニスを生やしてやってみたけど、全然興奮しなかった。めり子にあの子にペニスを付けてよってお願いしたかったけど、流石に恥ずかしくてやめた。
 あの子とのセックスは、だから、数回で終わった。
 回数を重ねるたびに目の前のあの子が本当のあの子から遠くなっていく感じがして、それが辛かった。

それで、今夜、とうとう、私はあの子とセックスをした。夢の中で。
 あの子は手荒れがひどくて、私の中でがさがさとしたあの子の人差し指が乱暴に動くと少し血が流れた。

ベッドで目を覚ますと、胸がドキドキしている。飛雄にチョコレートを渡すための列に並んでいたとき以来のドキドキだ。
 私はパンツの中を確認する。親指と人差指の間で粘菌のように伸びる私の透明な体液に朝の光が反射する。そこに血液が混じっていないことに安心と落胆が入り交じる。
 私は深くため息をついて制服に着替え、髪の毛をおろす。頭の後ろで夜這い装置が点滅していることはすぐにバレるけれど、いきなり矯正局に行くのは嫌だった。今日はいいお天気だし、めり子が今日も駅で私を待っている。
 ハチ、耳まで真っ赤になってる。めり子に指摘されて私は気付く。本当だ。私の耳たぶがちかちかと赤くなっている。こんなに激しい点滅は初めてだ。
 いったい全体、どんな夢をみたら、そんな風になるのよ?
 めり子が怪訝な目をして私を見る。
 んふふ、と私は照れて、実はね、と、めり子の耳に唇を近づける。めり子の右耳には塞がりかけのピアス穴があった。
 昔のめり子はめり子の秘密で、私だけが知っている。
 穴に息を吹き込んで、開通させるように私はささやく。
 とうとうセックスしちゃった。あの子と。
 その言葉に、めり子の耳がかあっと熱くなるのを私は感じる。それからめり子は不機嫌になって、口をきいてくれなくなった。
 今日の天気はひどく不安定だ。鼠色の空の下を私たちは黙って歩いた。いきなり、めり子が隣でぼそっと呟く。
 同性愛の夢は、いちばん悪い夢。
 またか、と私はげんなりする。なんでだろうね。私も独り言みたいに空を見上げながら言う。
 子供が足りないから、よ。めり子がこっちを見ている。私は気づかないふりをして、そちらを見ない。
 めり子は何かに配慮して言葉を続ける。私たちがツケを支払わされている。少子化も、このおかしな天気も。
 めり子も空を見ている。鼻先がうすく光っていた。
 私が子供を生んだときに、この子に寂しい思いをさせたくない。この子が可愛そう。めり子は本物のお母さんを演じるみたいにそう嘆いた。
 でもさあ、と私が少しムキになって言い返そうとしたところで、破裂音を合図に大雨が降ってくる。私たちは紫外線シェルターへ逃げ込む。
 巨大な雷と、機関銃みたいな雹の音がシェルター内に鳴り響いていた。
 めり子が私の腕をぎゅっと掴む。用意していた反論を飲み込んで私もめり子に寄りかかる。私とめり子の体温が均されていく。
 だだっ広いシェルターには私たちしかいなくて、小さなディスプレイには『紫外線はあなたの命も皮膚も焼き尽くす』『人工衛星でオゾンホールの再生を!』といった公共広告が流れ続けていた。

やっと学校について、校門をくぐった瞬間に通知が届く。教室に着くより前に、私の腕は先生に掴まれる。
 林さん。
 優しくて、敵意のかけらもない声。はあい、と私も愛想を振りまく。
 怖い夢をみたのね。大丈夫よ、あなたぐらいの年には悪夢をみるものなの。私もそうだった。だから、林さん、わかってるわね。今日は授業は休んで、矯正局に行くの。なにより今晩は、白い夜よ。そんな夜は、決まっていい夢がみれるわ。だから、ほら、こっちへいらっしゃい。大丈夫よ。こっちにいらっしゃい。
 私は先生に引っ張られて、そのままビークルの中に押し込まれる。
 すっかり晴れた空の下、窓から見える先生の顔はのっぺりと青白い。こっちの世界では教師で三児のお母さんのこの人が、あっちの世界ではペニスを生やした小汚いおっさんの姿であることを私は密かに知っている。
 大人たちはあっちで欲望を好き勝手に撒き散らし、こっちでは綺麗な夢ばかりをみたがる。
 先生は悪い夢をみない、きっともう見れない。私は遠ざかって消えてゆく先生を見ながら、飛雄のことを考える。飛雄が言っていた。
 あっちには、こっちが必要なんだ。こっちがあってこその、あっちなんだ。少なくとも、まだ。その非対称性は崩せなかった。だから老人たちは、こっちを諦められない。

矯正局に到着して旧式のヘッドセットを装着すると、聞き飽きたアナウンスが流れる。均質で、抑揚を欠いた、優しい声。
 このアナウンスをスキップする方法を飛雄は知っているらしいが、聞きそびれたままだ。

『……本日、あなたの脳情報解析の結果、治療介入が必要と判断されました。あなたの治療は国民の身体の健康の増進及び、精神の健康の保護に関する法律第百八条の規定による治療です。……治療上必要な場合はあなたの行動、または精神運動を制限することがあります。……この治療内容は世界精神分析学会の監修の下、ジークムント・フロイトの夢分析理論に基づき発展させたものです。……』

それから、矯正が始まった。

私はちいさな女の子だった。私が暮らす家は二階建てで、大きな玄関には大小色とりどりの靴が並び、下駄箱の上には青い花瓶の隣に家族写真が立てかけられていた。私は玄関に腰掛けながらドアノブが動くのをじっと待っていた。磨りガラスの向こうには背の高い黄色い花がみえた。お尻がだんだんと床に冷やされて、季節は春の手前だった。外から足音がしたかと思うと、家の前を通り過ぎて、どんどん上の方へと消えていった。この家は坂の途中にあった。急に扉が開いた。日差しよりもはやく外の冷たい空気が飛び込んできた。お母さんとお父さんが何かを抱えて立っていた。布にくるまれたそれが赤ちゃんだと、私にはすぐにわかった。みせて、赤ちゃん見せて。そういって私は飛び跳ねた。私の前に差し出されたそれは、くしゃくしゃな顔でふがふがと呼吸をして小さな私よりもずっとずっと小さかった。わあ、綺麗。私は本当にそう思った。それは心のずっと奥の方からやってきた言葉だった。今日からお姉ちゃんよ。お母さんの柔らかなふかふかとした手のひらが私の頬に触れた。私があなたのお姉ちゃんだよ、と赤ちゃんに語りかけると、全身がくすぐったくなって、たまらなくなって足をじたばたさせると玄関の埃が舞ってそれが外の光にきらきらと反射した。もしも、お父さんも、お母さんも、いなくなってしまったら。急にお父さんがそんなことを言い出した。私は毒が回ったようにその場から動けなくなった。お父さんは穏やかな顔のまま続けた。そう考えると、この子には、兄妹をたくさん残してあげたいと思うんだ。お父さんがお母さんの手を握った。可愛そう。お母さんは慈愛にみちた顔のまま、赤ちゃんと私を交互に見た。勝手に涙が溢れてきた。赤ちゃんも泣いていた。お母さんに可愛そうと言われると、なんだか自分たちがとても可愛そうな存在に思えて仕方がなかった。

終わりにまたあの声でアナウンスが流れた。私は泣きながらそれを聞いた。

『……お疲れさまでした。本日、治療介入中に取得したあなたの身体情報は静脈認証により個人生体番号に紐付けられ、あなたが住む地域の厚生局に提供されます。通常の保険診療とは異なり、本治療の情報提供については国民の身体の健康の増進及び、精神の健康の保護に関する法律第九八条の規定より義務とされています。……』

その夜に、私はまたあの子とセックスをした。何も生まないようなセックスをした。

洪水のような雨の音で目をさます。
 もうすぐ夏なのに、部屋の中は暗く冷たい。幽かに赤らんだ壁が明滅している。
 窓の外では黒い雲が渦を巻いて何重にも分厚くなっている。轟々とした水の音の切れ間に、機械が高速で回転するような音が交じる。それが私の頭に埋め込まれた夜這い装置が駆動する音だと気付く。
 私はその音に耳を傾ける。まるで赤ちゃんが泣いているみたい、と思う。
 可愛そうな赤ちゃん。決して生まれることのない、私の赤ちゃん。
 今日も私はめり子やみんなと授業が受けれない。
 昨日とまったく同じように私は先生に教室の前で捕らえられ、そのまま自動運転のビークルに乗って運ばれる。二日連続で矯正局行きなんて初めてのことだ。いよいようんざりした気分に私はなる。夢であの子に会えることが楽しみなように、私はめり子やクラスのみんなと授業を受けることを楽しみにしているのだ。
 帰り道。
 鈍重な雨雲が世界の果てまで覆い尽くしている。
 冷たく強い風が吹いて、私のお気に入りの黒い傘の骨をバキバキに折る。千年以上前から傘はその姿を変えていないそうだ。傘すらまともに進歩させられない人類が、もうひとつの現実を立ち上げようとしているなんて、馬鹿みたいだ。
 酸性の雨が私の頭皮に、半袖の腕に、顔に染み入ってくる。
 なにか食べたい。なにも食べたくない。寒い。眠たい。疲れた。だけど寮に帰りたくない。家も帰りたくない。本当のママも本当のパパもそんなに私に優しくない。寮母さんも優しくない。靴の中が濡れて気持ちが悪い。足の全体がねちゃねちゃとして、歩くたびに卑猥な音がする。前髪はもうめちゃくちゃで、くるくると重くなっておでこに張り付いている。
 雨がさらに強くなる。
 私はみじめな気持ちになる。
 この世界から可愛そうと言われているみたいで、ひどくみじめな気持ちになる。
 涙なのか雨なのか自分でも分からなくなって、足が動かせなくなる。

雨がやむ。
 雨がやんだわけじゃなかった。私の頭上に青い傘が咲いている。
 振り向くと飛雄がいた。

あ、あ、あ、あ、ありがとう。
 動揺して声が震えまくる。
 飛雄は鞄から清潔そうなタオルを取り出して私に渡してくれる。飛雄のタオルは私のタオルよりも随分と硬くて、男の子の肌はこんなに丈夫なんだって、私は小さく、だけれど深く、驚く。
 青い傘の下で私は身体と髪の毛を拭いて、タオルを飛雄に返すべきなのか迷っていると、それを察した飛雄が私の右手からタオルをさっと奪う。声が震えないか心配でお礼を言いそびれる。
 僕さ、実はずっと林のことが気になってたんだ。
 飛雄からいきなり告白されて、私は豪快にくしゃみをする。
 え、え、ちょっとまって。
 告白するにしてもこんな髪の毛もメイクも雨で洗い流されたときになんでするかな。むしろ、そうか、私を好きすぎると、逆にこのタイミングなのか。
 とりあえずはにかみながら、えへへへ、といちばん私の可愛い顔で飛雄に笑ってあげようとしたら、今から僕の家に一緒にきてほしい、と飛雄が私の手を掴む。
 私は心の準備ができていないし、ブラもパンツも今日に限ってクソださいのだし、というか私こっちでは処女だし、てゆうかレズというか、わかんないけど少なくともバイだし、でも飛雄ならいいかも、なんてどぎまぎしていると、飛雄が決心したように言う。
 どうしても林の脳波が見たいんだ。頼むよ。
 本当に、まったく、このバカは。

飛雄の家、兼、飛雄の両親が経営するクリニックは学校を挟んで私の家とは反対方向にあった。
 飛雄のお父さんは有名なお医者さんで、髪の毛も服装もファンキーで飛雄とはあんまり似ていない。飛雄の長くて跳ねる睫毛や、女性的な腰回りはきっとお母さん譲りなんだろう。
 しばらく休診だから、と飛雄は入り口の虹彩認証をウインクで突破する。
 地上が住居スペースになっており、クリニックに入るには階段を下る必要があった。
 地下は、いかにも病院らしい大型の壁面ディスプレイに囲まれた空間になっていた。ディスプレイは休止モードになっていて、黒い巨大な鏡のようだった。それらが途切れる箇所に紫外線シェルターの入り口みたいな扉があった。非常口かと思ったけれど、扉の向こうは脳波室に続く階段だと飛雄は言う。
 この下に、まだあるの?私は驚く。そうだよ、と飛雄。飛雄が扉を開くと、古い階段が現れた。
 私は鉄製の手すりを伝って、地下へと潜ってゆく飛雄を追いかける。
 なんでこんな地下にあんのよ。私の文句が空間にエコーする。飛雄はなにも答えてくれない。
 冷たい空気が私の体温を奪う。振り返ると扉は随分と上の方にあって、地上に戻れるのか心細くなる。
 地下室の床には図書館やアーカイブでしか見たことない分厚い紙の本が積まれ、あちこちに茶色い遮光瓶が転がっていた。カウチやベッドが並び、部屋の真ん中には最先端の診療用チェアが場違いに鎮座していた。
 これ、何千万もするやつでしょ、蛹型の診療用チェアに侵入する私を飛雄は気にもとめなかった。
 内部は丸い空洞になっていて、私の両目の虹彩を認識すると過去の診療データと予想される現在の生体データが表示された。私は自分が生まれた日付をチェックして、その日の手術データにアクセスしようとするがリジェクトされてしまう。
 ねえ、飛雄。腰掛けたまま私は問いかける。私の声が空間にこだまする。
 夜這い装置の手術記録ってなんでプロテクトされてるか、どうせ知ってるんでしょ、教えて。飛雄からの返事はない。
 その間にチェアは現在の私の身体データを取得しようと指先の端末からまず私の心臓にアクセスする。個人生体番号を確認される。私は目で紐付けを拒絶する。
 入れ方が分かれば、入り方がわかっちゃうだろ。やっと飛雄の返事がする。
 前にさ、一度、実際に脳を調べてみたんだ。患者さんじゃないよ、僕の脳で。
 飛雄はきっと嬉しそうな顔で、何やら恐ろしい話している。
 私の眼球に注意事項と健康被害リスクが投影されて、あの優しい声で読み上げられる。飛雄の声が、それをつんざく。
 造影剤を流して、後脳梁周囲動脈を同定しても、そこからあの装置に分岐した血管なんてなかった。政府は嘘ばかりついている。だから、僕はその嘘を暴いてやりたい。
 政府の嘘と、私の脳波が、なんの関係があるのよ?
 関係あるなんて、まだ言ってないだろ。
 言ってるようなもんよ。
 私は蛹からスルッと脱出すると、けたたましくアラームが響いて、私に向けて警告をした。

『……あなたの身体情報と個人生体番号の結び付けがリジェクトされました。次回治療再開時に再度認証についての確認があります。定期的な身体情報のモニタリングによって健康寿命の長期化が証明されています。これら身体情報は医療機関に提供され、あなたへの適切なテーラーメイド医療の提供に役立ちます。これら身体情報の証明と提供について、承認いただけない場合は同意画面でいいえを選択してください。個人生体番号に結びつかない身体情報は法律に基づき一定時間後に完全に破棄されます。それらによって生じた健康被害については当社は一切の責任を負いません。ご了承ください。……』

飛雄は少し、緊張しているように見える。
 先にトイレ行っといた方がいい。一時間ぐらいかかるから。
 シャワーじゃなくて、トイレでいいんだ?
 私はふざける。飛雄は笑わない。
 トイレを済ませて、私はカウチに横になる。飛雄は緊張した面持ちで私を見下ろしている。
 私は思いきり強烈な変顔を飛雄にお見舞いする。
 うぐふっ、ペ。
 胃液を吐くみたいに飛雄が笑い、喉が酸で焼けて咽ている。
 なにしてんだよ、ちゃんとしてくれよ。
 涙目の飛雄が私を叱りつける。
 脳を差し出してるんだけど、と私は謝らない。
 飛雄はわざとらしく呆れて、透明なチューブを手に取る。
 これ、ちょっと冷たいし、入ると痛いから、目をつぶっといて。
 飛雄に言われなくても、もうすでに眠くて目は閉じている。どこでもすぐに寝れるのが最近の私の自慢だ。
 おーい、まだ寝ないで。うるさいなあ。どっちよ?目をつぶれだの、寝るなだの。目をつぶってって言っただけで、寝ていいなんて言ってないと思うけど。飛雄、もう、はやくしてよ。てゆうか頭に何塗ってんのよ?ジェル。はあ、ちょっと、あんた、何する気なのよ?いいから、黙ってて。動かないで、ひゃっ。冷たっ。ちょっと、終わったらシャワー貸してよね。帰りに雨で全部流れ落ちるから大丈夫だよ。サイテー、飛雄って本当にサイテー。嘘だよ、ごめん。終わったらちゃんと拭くから。ありがとう、林。本当に。協力してくれて。ふん、わかればいいのよ。だから、林さ、痛くないから、しばらくじっとしてて。うふふ、んふ。っふ。はあ、こんどはなんで笑ってるの?んふふ、だって、まるで今から私たちセックスするみたいだもん。電気も消すんでしょ、ちゃんと消してよね。はいはい。ねえ、飛雄。わたし、処女だからとことん優しくしてね、決して乱暴に扱わないでね、怯えていたら強く抱きしめてね、終わっても粗末にしないでね。
 ああ、もう、うっさい!寝てろ!
 飛雄にマジギレされて、私は普通に泣きそうになって、また目をつぶる。

あの子、じゃなくて、めり子が私にキスをした。私もめり子も目があってひどく驚いた。キスはだんだんと乱暴になって、私はめり子に捕食されるかと思った。
 それは、いままででいちばん恥ずかしい夢だった。

私の身体が揺らされる。
 飛雄が眼前にいて、私の顔を覗き込んでいる。
 おはよう。
 真剣な声のまま飛雄は続ける。林、目を覚ます直前、夢をみていた?
 ううん、という私のとっさの嘘の返事を待たずに、飛雄は私の脳波を読む作業に戻る。
 飛雄が静かに興奮しているのが私にもわかる。
 彼の内部で蠢いている巨大なエネルギーは脳と目の運動にだけ捧げられ、呼吸すら今は疎かになっている。
 浮力を発見したアルキメデスが裸で街中を走った話を聞いたことがある。
 今の飛雄にも、その時のアルキメデスのように、ほんの拍子でコントロール不能になっちゃいそうな落ち着かなさが全身に宿っている。
 彼の集中力、その反対の不注意、それら両方の純度の高さに感動、いや、感動よりももっと純粋な気持ち、に私は射抜かれて、硬い毛布をぎゅっと掴んでしばらくの間じっと息をこらす。この崇高な瞬間に、私の脳が貢献できたことの誇らしさが全身を行き渡るまで。

寮まで送るよ。私に背中を向けながらそう言って、飛雄はおそろいの深緑のレインコートを私に貸してくれる。

私たちは並んで夜の雨の中を歩いた。
 その時の飛雄はきっと自分の頭を冷やすために話し続けていた。
 私は、飛雄の長台詞を、その時間内の色々な質感も含めて、かなり正確に思い出すことができた。
 飛雄はレインコートのフードを深く被って、私よりもずっと小さい頭はその中にすっぽりと収まっていた。
 雨雲の隙間から七機の人工衛星が見えた。それらは雨粒に写り込んで、赤、青、紫、黄色に飛雄の袖の上で点滅していた。
 私は、たしか、フードを脱いで直に雨にうたれていた。髪の毛のジェルが雨に溶かされて、私の首元から侵入し胸にまとわりついた。
 川沿いの背の高い夏草が私たちの足に絡みついて、その泥を雨が洗い流した。
 飛雄は話していた。独り言みたいだったけれど、彼は確かに並んで歩く私に向けて話していた。

フロイト舐めんなって話(顔を歪めて)。僕さ、矯正局行くたびに、あのアナウンスに腹立つんだ。なにが、ジークムント・フロイトの夢分析理論に基づき発展させたもの、だよ。あんな直截的なメッセージとフロイトの夢理論なんてまったく無関係だから。でも、あいつら、それこそ無意識かもしれないけど、無意識が映像として人間に貯蔵されてるってことは隠そうとしないんだ。ねえ、林ハチ(演説口調で)。僕たちの欲望は映画みたいになっている。僕たちの映画は真夜中に製作されて、夢の場で上映される。昼間の僕らは無意識を言葉で捉えようとする。それは上滑りして、材料になってまた夢へと還元される。フロイトも映画も十九世紀に生まれた。だけどフロイトは映画についての文章をひとつも残さなかったらしい。きっと畏れていたんだと思う。自分が発見した無意識に、あまりにそのメディアが似通っていたから。戦争中に映画が検閲されたように、政府は僕たちの無意識を検閲している。その検閲から林が逃れられていたのは、偶然じゃない。ナルコレプシーって、知ってる?二十一世紀に根絶されたもの。その代表はヒステリーと睡眠障害、あとはホタルと映画産業(大げさに笑いながら)(雨は弱くなる)。人間は眠ると、まず最初にノンレム睡眠状態になる。眼球運動が完全に停止する深い眠り。生きながら最も死に近い状態。夜這い装置はそれを察知して目を覚ます。少なくともまだ、百年間、四六時中夜這い装置を活動させる技術はないんだろう(勝ち誇った顔で)。もしバッテリー切れで交換なんてことになったら、同意しない僕みたいな連中も沢山でてくることを連中も分かっている。けれど、もし、ノンレム睡眠を飛ばしていきなりレム睡眠になったとしたら、夜這い装置は夢に気が付けない。かつていたナルコレプシー患者はいきなりレム睡眠に突入して、鮮やかな夢をみた(それを入眠時幻覚と言うんだ、と本当に飛雄は言ったかは覚えていない)。神経症はともかく、ナルコレプシーが無意識への介入で治癒するなんて誰も本気で信じちゃいなかったはずだ。連中はナルコレプシーを警戒した。治療する必要があった(何故か小走りで)(息切れしながら)。治療薬のメチルフェニデートを真似て、夜這い装置から電流を流して線条体を刺激しているに違いない。これが、僕の仮説だった。そして、林の脳波がそれを証明した。どういうことか(落ち着いた口調で)(子供を諭すように)(生まれつき聡明な人物特有の冷酷さを振りかざしながら)。林は、君は、重度のナルコレプシーを発症している。君の脳波は入眠直後にレム睡眠の波形を示している。だから、最初に見る夢だけは検閲を免れる。その時間が、君の映画を他の誰よりも鮮烈なものにしている。僕は林を二回目のレム睡眠中に起こした。起きる直前、君は夢をみていなかったか、夢を検閲されて思い出せなくなっていた(夜が深くなる)(深呼吸)。もう一歩だ。あともう一歩なんだ。林のふたつのレム睡眠時の脳波を比べると、波形が変わっている場所が、夜這い装置があるはずの後頭部視覚野から相当に離れているんだ。これは、つまり、僕たちが夜這い装置だと思っている後頭部のこの機械さえ隠れ蓑だった(さらに深く息を吸って)。連中も相当用心深いね。僕の先輩で自己手術で夜這い装置を摘出した人がいるんだけど、何の意味もなかったわけだ。ありがとう、林ハチ。君は世界を変えた(再び勝ち誇った顔で)(人工衛星が強い光とともに白く瞬く)。

その夜に、またあの子とセックスをした。
 私は飛雄の家でみためり子の夢が忘れられなくて、罪悪感を覚えながらあの子に抱かれた。行為を誰かに覗かれている気がして、私はあの子に、恥ずかしいよ、と言った。
 誰も見てないよ、大丈夫。あの子は笑いながら私をイカせた。

目を覚ますと頬まで真っ赤になっている。
 夜這い装置はありえないスピードで点滅して、頭蓋骨の中から私を赤く照らしている。
 私はやけくそになって、通学には禁止されている夏服を着て外に飛び出す。夜の間にいつのまにか夏になっている。
 紫外線警報が出ていたから、警察が私に注意をする。ついでに私は尋問される。
 いったい全体、どんな夢をみたら、そんな風になるんだ?
 めり子にも同じことを聞かれたけど、こんな嫌な気分にはならなかった。
 やめてください、と私は警察から逃れようとする。半袖の私の腕に、おっさんの汚い手が直接触れる。硬い爪が肉にめり込んで血が流れる。
 私は力任せにそれを振りほどくと、その瞬間に、もう片方の手を誰かが掴んだ。
 さらさらで、柔らかい、けれど骨ばったその手は絶対に男の子の手だった。
 飛田飛雄。私の初恋の男の子。
 赤いゴーグルを付けた飛雄はありえない速度で私を警察官からひったくって、そのまま私の腕を引っ張って夏の空を翔けてゆく。
 飛雄が足が早いのは、男の子が足が早いのは、知っていたけれど、このスピードはどう考えてもこっちの世界のスピードじゃない。
 飛雄は私の手を掴んだまま一度の跳躍で木のてっぺんより高く上がったかと思うと、さらに空中でもう一度ジャンプする。
 分厚い夏の大気をぶち破って、どんどんと空と雲に近づいて、あと少しで太陽に手が届きそう。青の純度は高いところのほうが高いことを私は学ぶ。
 警察官は豆粒みたいに小さくなっている。私は青色の中で思わず飛雄に抱きつく。
 私たちの制服が擦れあい、ぴかっと光って、文字通信システムが起動する。空中では強い風で声がかき消されてしまうから、私たちは空中に指で文字を書いて会話をする。
  
「なんで?どうやって?あっちの世界の飛雄なの?」
「飛田飛雄は、こっちにしかいない」
「え、意味わからない。なら、いまの私がいるのは、あっちってこと?」
「林は、今はゴムスーツを着てないだろ」
「そうだけど、もう頭が混乱しちゃう。これ、夢じゃないよね」
「ここはこっち。ひとつしかないオリジナルの世界」
「こっちの世界では、こんなことできない」
「それができるんだよ、警察だって特殊部隊とかならできるらしい」
「どうやってよ」
「政府は、あっちの世界をこっちの世界にドッキングしようとしている。最終的にどちらの世界を選ぶつもりかは僕はわからない」
「え?」
「こっちをあっちに移すよりも、あっちをこっちに移すほうが楽なんだろ。当初の目的とは違うけれども」
「当初の目的って、不老不死のこと?」
「老人たちは本気だ。とにかく、フィジカルモードをこっちで起動させることを政府は技術的に可能にしている。やり方はある人に教えてもらった」
「誰?」
「秘密。トップシークレット」
「そのゴーグルも、その人にもらったの?」
「それも秘密」
「秘密ばっかり。昨日と今日でいろんなことがありすぎて頭パンクしそう」
「急がなきゃ」
「どこに?」
「ちがう、生き急がなきゃ」
「はあ?」
「僕には時間がないんだ。僕はもう夢が見れない。この気持ちだって、夜な夜な夜這い装置に何度も何度もファックされている」
「私だって、最初の夢以外はファックされてるんだよね」
「それでも、政府からすると脅威だろうね」
「夜這い装置がどこにあるか分かった?」
「多分、きっと。それを今から確かめる」
「どうやって?」
「林の脳で」
「は?」

私は二日連続でクリニックの地下で横になっていた。
 昨日みたいにカウチの上じゃなくて、今日は医療用チェアの中で。
 飛田飛雄は、こいつは、今度は私の脳を直接覗くつもりだ。
 私は逆らえない。逃げようとしたら、あのスピードで回り込まれたから。
 怖くないから、大丈夫。
 そう言って飛雄は私の両肩を掴んだ。
 男の子の力だ。男の子は力が強い。だから私は男の子が怖い。飛雄は男の子であり、男の子じゃないと思っていたけど、全然そんなことはなかった。
 球形のディスプレイが私の心拍数や呼吸数を表示しようとしている。蛹のお尻の方からぬっと伸びた飛雄の腕が私の顎を乱暴に掴んで、目の角度が調整される。そうやって私は個人生体番号への紐付け承認とデータ利用許可を虹彩認証させられる。
 私の身体なのにね。
 足元の点滴から精液みたいな白い液体が私の身体に侵入してくる。
 飛雄、怖いよ。身体が、なんか熱い。怖いよ。
 私の声は蛹の中で何重にもエコーしている。
 ディスプレイに黒い穴があいて、解像度の低い飛雄の姿が映し出される。音声はひび割れて、口の動きから少し遅れてやってくる。
 ダイジョウブ。
 やだよ。出してよ。
 イタクナイカラ。
 ここから出して!飛雄!
 コワクナイカラ。
 おい!出せよ!ゴーグル野郎!
 スグニオワルカラ。
 私の声と飛雄の声は混ざり合って響き合ってひとつの黒い塊みたいに膨らんで空間を私の頭蓋骨ごと圧殺しようとする。

最後に大きく目を見開いて、私は意識を失う。
 夢をみる時間もなく、私は眠らされた。
 誰かが私を呼んでいる気がしたけれど、それが誰か分からなかった。

林ハチは並んでいた。
 たしか、前から三番目か四番目だった。
 先頭の女の子がチョコレートを渡したあとに、すました顔で髪をかきあげた。髪の奥から綺麗な三角形をした耳が姿を現して、僕はそれをもっと近くで見たいと思った。
 エッチな夢を見たら耳の裏が赤くなる、というのは子供だった僕らのいちばんの秘密であり関心事だった。
 彼女の三角形のいちばん尖った頂点を乱暴に掴んで丸め、その後ろを見た。真っ白な肌には細かな産毛が生えていただけだった。
 他の女の子も一緒だった。
 そして林ハチの順番になった。
 体温で溶けたチョコレートの食感はぶにぶにと気持ち悪くて、すぐに机に置いてしまった。
 頬を赤くした林ハチの耳の裏を僕は無断で覗いた。
 その時の彼女は身体をびくんと一度震わせて、終わったら僕を睨みつけていた。
 彼女の耳の裏は真っ赤で、僕はひどく興奮した。

林ハチは眠っている。
 呼吸が安定し、維持麻酔にオートモードに切り替える。
 裏フィジカルモードを起動させる。とある著名な脳外科医のデータベースにアクセスすると、こっちの世界の僕にエキスパートレベルの知識と技術が実装される。
 この裏技がオープンになれば、世界は文字通りひっくり返るだろう。
 僕は、自分が古い種族の生き残りのように感じることがある。僕は僕を秘匿することを、最上位の価値だと考えている。僕の無意識は夜這い装置で掠め取られ、データの砂漠のなかの一粒の砂のように管理され、誰でもアクセス可能となる。
 たったひとつの肉体に宿る、たったひとつのオリジナルの魂。
 その結びつきが切られてしまうことに、どうして耐えられるのだろう?僕は僕以外の人間が僕になれることに我慢がならない。
 あの子はあざ笑うように僕に言った。それは、あなたが病的なナルシストだからよ、と。
 本物の夜這い装置を同定して、アクセス履歴を暴けさえすれば、政府の嘘が証明される。それを全世界に告発すれば、きっと革命はなされる。
 夢を取り戻す必要がある。夜を取り戻す必要がある。
 僕たちの制御不能な無意識が再び動き出せば、僕たちのデータを撹乱させて、それはあっちの世界の均衡を崩すことになる。それぐらい、夢はやばいんだ。そんなやばいものを、政府が放っておくはずがない。
 夢や映画なんて、あんな危険なものを自由に見れていた百年前の世界のほうが、むしろ狂っていたのかもしれない。
 それでいい。僕はそれがいい。
 脳外科医の僕は麻酔で眠る林ハチの制服のスカートを捲る。
 右の太股の付け根に指をおいて脈拍を確認し、大腿動脈からカテーテルを挿入する。
 分厚い血管壁を突き破る感覚が右手に伝わり、あとは先端を脳に向けて進めてゆく。頸動脈に達すると内部のマイクロカテーテルを操作して脳血管内を進んでゆく。
 政府は嘘を付くけれど、真っ赤な嘘はつかない。
 僕はそのことを学んだ。
 だから同意書に書かれた後脳梁周囲動脈という情報も全くの嘘じゃない可能性は高い。後頭葉に埋め込まれているあの物体は夢を盗むための部分ではないけれど、だからといってただの赤色灯ではないだろう。脳内でメチルフェニデートの機能を果たしているのはあの部分のはずだ。
 だとすれば、それらは血管ではなく神経を通じて線条体に働きかけている。そして本物の夜這い装置は、やはり血管から栄養される位置のどこかに隠されている。
 マイクロカテーテルから更に細くしたカテーテルを耳の周囲の血管、林ハチの脳波データから推測されうる範囲に、隈なく広げる。このカテーテルは最も細い冠動脈枝からも心臓の電気刺激を感知し、アクセスすることが可能だった。老人たちの寿命はこの発明でさらに延びた。
 そうだ。そういえば、あのとき。
 僕は突然思い出した。幼い林ハチの耳のことだ。
 あのとき、彼女の耳は赤くなっていたけれど、彼女のうなじは白いままだった。子供の無意識はまだ未完成で、赤色灯を点滅させる閾値には達していなかったとすれば?生まれたての悪い夢で最初に赤くなるのが耳の周りなら、きっとそこに本物はある。
 おぼろげな記憶から始まった推論ほど、不思議と結論が強固に感じられる。
 人類最後のナルコレプシー患者。その脳波、その脳。世界の秘密の鍵が、僕の手の中に全て揃っていた。
 心は震え、熱情が全身を満たした。
 慎重に奥へと進んでいく。マッピングされた林ハチの鼓室の神経と血管走行に、蝸牛神経と前庭神経の複雑な分岐が描写される。ふたつの神経叢の間隙を走る上鼓室動脈から更に分岐する名もなき血管へと地球上で最も細いカテーテルを通す。
 そして乳突洞と呼ばれる空洞に沿って拡がる血管を通過する際に、カテーテルは反応し、アクセスポイントを探し始めた。
 ────こんなところに。
 僕は息を呑む。心臓の音だけが頭の中で鳴り響く。
 僕は大声で見つけた!と叫び、太陽の下を走り出したい気分になっていた。
 それをぐっと押さえ込んで、僕は考える。
 四方を骨に囲まれた場所に隠された装置まで届く強い電波の発信源について。 
 白い夜。次々に打ち上げられる人工衛星。
 

私は普通のベッドの上で目を覚ます。
 ベッドの隣に置かれた椅子に飛雄が座っている。優しそうな顔をしている。まるで手術を終えた娘が目覚ますのをずっと待っていた父親みたいな顔だった。
 地下室の上空にはホログラムの太陽が投影されて、私たちの顔を白く照らしている。
 おはよう、と白い歯をみせて飛雄が笑う。
 おはよう。
 私も微笑む。生きていてよかった。

まだ麻酔のせいで口がうまく動かない。なにか話そうとするとつばを飲み込んでしまい、私はひどく咽る。
 待って、と、飛雄は私の口に吸引用のチューブを突っ込み、変な味のスプレーをワンプッシュする。
 飛雄は勝手に私の制服に触れて、文字通信システムを開始する。
 私たちを纏う弱い光は偽物の太陽の中で目立たない。
 
「ごめんね。怖かったよね、本当にごめん」
「お目当てのものは見つかったの?」
「見つかった。とうとう見つけた。ありがとう、君のおかげだ」
「どういたしまして」
「これで世界はひっくり返る。ひっくり返った世界がひっくり返って、元へと戻る」
「良かったね。でも、どうやって?」
「解析したデータにはアクセス履歴がばっちり含まれている。番号から個人の特定はまだだけど、それも時間の問題だ」
「政府の役人かな」
「さあね。とにかく、僕たちの耳の空洞に骨と見紛うような装置が埋め込まれて、そこに誰かが無許可でアクセスしている事実が重要なんだ」
「私もみたい」
「何を?」
「データに決まってるじゃない。それ私のデータなんだから」
「それは、申し訳ないけれど、できない」
「はあ?なんでよ」
「言っただろ。世界をひっくり返す爆弾だからさ」
「じゃあ、昨日のアクセス履歴だけ。どれだけの人数が私の夢をファックしたのか、それだけでも見せてよ」
「……個人生体番号の抽出だけで構わないなら」
「オッケー」

私の前にいくつもの数字が差し出された。
 
「ありがとう」
「満足したかい?」
「何がなんだか、全然わからなかった」
「これだけだとね」
「これを世界中に公表するの?」
「ああ」
「いつ頃?」
「なるべく早く」
「どうやって?」
「この結果をあらゆる空間にばら撒けばいい」
「そんなにうまくいくかな」
「どうして?」
「勝手に人の脳を見たなんて大問題になる」
「構うもんか、それ以上の大問題を起こすつもりなんだから」
「てゆうかさ、そのデータが本物だってどうやって証明するの?」
「君の個人生体番号と紐付けられている。君の同意も得ている」
「私は同意してない」
「同意したことになっている」
「それは、飛雄が勝手に同意させただけ」
「仕方なかった」
「謝ってほしいんじゃない」
「悪かった。本当に、ごめん」
 
「違うの、飛雄、聞いて」
「あの時、飛雄が同意させたのは昨日の心臓のデータの紐付けだけ。それ以外の同意はまだ済んでいない」

飛雄の顔色が変わる。
 
「私は、今日のデータについては拒否しちゃった」
「眠る直前にね。飛雄はその時、私の身体に夢中だったから、全然気づかなかったでしょ」
「だからそのデータは匿名化されて、私の生体情報とは切り離されている」
「誰のものか、証明できなくなっちゃったね」
「釈迦の耳に念仏だけど、そんなデータはこの世界では意味がないからね」
「それは飛雄の心の中だけで、大切にしまっておいて」
「誰にも秘密にしてね。こんな可愛い女の子のスカートの中身も、頭の血管も、全部見たんだから」

麻酔が切れてきた。口に溜まった唾液をごくんと飲み込む。
 嫌な味。精液ってこんな味なのかも。そう思って私は顔をしかめた。
 飛雄は、初めてみせる表情をしていた。
 その表情からは、怒りとか、悔しさとか、強がりとか、そういった感情も読み取れたけれど、最も強力に彼の顔を歪めていたのは、明らかに軽蔑の気持ちだった。
 飛雄は私を軽蔑していた。
 私は初恋の男の子に軽蔑されていた。
 このまま私が黙っていれば、飛雄は私に軽蔑の言葉を投げつけるだろう。
 それは嫌だと思った。
 だから私は私から話しだした。全部伝えたかった。そうは言わなかったけれど、ごめんね、って気持ちもちゃんと込めて。

ねえ、飛雄。私が普通の女の子みたいだったら、もしかしたら男の子をいつのまにか好きになって、そうなっていたら、飛雄の言う通りにしていたかもね。好きだったら、きっと、私は好きな人の言うことに従うと思う。飛雄が壊そうとしている世界を、私はあんがい気に入っているんだ。それでも好きなら壊すと思う。飛雄は、私に興味がないかもしれないけれど、私は飛雄に興味津々よ。私は、ちゃんと、あなたのことが大嫌いなの。それが本当の気持ちだって、この私が言っているから、飛雄なら信じてもくれるよね。それは、私が女で、あなたが男で、だとか、それよりももっと手前の、基底的なことだと思う。なの。つまりね、私が飛雄のことが好きだった頃から、私はあなたが嫌いだったと思うの。変なこと言う女だって思っているでしょ?それは、周りの女の子が飛雄が好きだったから私も好きになっちゃったとか、まだ子供で自分のことも飛雄のこともよく分かっていなかったとか、そんなことでは決してないからね。飛雄が私に興味がないからとか、そんなことでもない。あなたがあなたの欲望のために私の身体を使ったことは許せないけれど、それすら関係ないの。あなたのことを嫌いになったのは、小学校の入学式の時。あなたは覚えていないだろうけど、ていうか、さっき私も思い出したところなんだけど、ということは、これは既にトラウマじゃないってことになるんだけど────

四月なのに桜が咲いていた。だから集合写真の場所が地下から変更になって、校庭に集められた。カメラマンのおじいさんがヘルメットを取ってと私たちに言った。私たちは戸惑って、あたりをキョロキョロと見渡した。大人はおじいさんしかいなかった。十歳になるまで外でヘルメットを脱いじゃだめ、皮膚癌になるから。そう教えられていた。おじいさんは怒り出した。せっかく入学式に桜が咲いてるのにって。そしたら一人の男の子がヘルメットを脱いだ。女の子みたいな男の子だった。地面から出てきたばかりのモグラみたいに、お母さんの袋から初めて顔を出してみたカンガルーの赤ちゃんみたいに、その男の子は長いまつ毛の目をぱちくりとして、桜の方をみた。わあ、綺麗。その子の小さな悲鳴に、次々と子どもたちはヘルメットを脱いで、きゃあきゃあと校庭中を走り出した。それなのに、私だけがヘルメットを被ったままだった。おじいさんと男の子が私に近づいて、どちらかの手が私の肩を掴んだ。私は動けなくなった。やめてって叫ぼうとしたけれど、からからに乾いた喉につまって出てこなかった。ヘルメットの青いガラスを隔てておじいさんと男の子と、満開の桜の木が見えた。私はふたりにヘルメットを剥ぎ取られた。私は生まれてはじめて本物の太陽を見た。目と皮膚が焼かれると思って、痛くなるぐらい強く目を瞑った。

────これもフロイトなら、ちゃんと説明してくれるのかな?フロイト舐めんなって言われちゃうかな。そのときの男の子は、飛雄、あなただった。なんでこのタイミングでそれを思い出したかはわからないけれど、それは、確実に、絶対に、あなただった。だから、私はあなたに強烈に惹かれて、強烈に憎んだ。もし、私が、夜這い装置にファックされていたら、この気持ちは治療されていたのかな?飛雄は頭がいいから、いつか答えがわかったら教えてね。あのレインコートは思い出に貰っておくね。それじゃ、バイバイ。くそくらえ。ファッキュー。ざまあみろ。

私は地下室の階段を駆け上がって、扉を開けた。
 地上はもう夜になっていた。それでも、どうしても会わなきゃいけない人がいた。
 私の夢にアクセスしていた生体番号に見間違いようのない番号があった。
 めり子。私のいちばんの友だち。

人いきれの駅のホームに夏服の女子高生が立っていた。
 優等生のめり子が夏服を着ているのを、私は初めて見た。
 遅いよ、遅刻。めり子は呆れた顔で私を見た。
 私は呼吸を整えるよりも先に、言いたいことを言った。
 めり子、私に秘密にしていることが、あるよね。
 めり子はくすっと笑う。何言ってるの、ハチ。私たちに秘密なんてないでしょ。
 めり子は手に持った文庫本を閉じた。それはめり子が好きな数百年前の小説家の文庫本だった。
 めり子の顔が私に近づいた。誰かに聞かれちゃうからね、って、めり子が私の耳にささやく。
 私たちは制服をすり合わせて文字通信システムを起動させた。
 私たちは夜の中で小さく発光した。絶滅したホタルみたいに。
 
「やっほ、ハチ」
「やっほ」
「文字のほうがのびのび話せるね」
「私は声のほうが好き」
「気が合わないね」
「ごめん…」
「いいよ、別に。で、秘密って何?」
「いや、秘密があるのは私じゃなくて、めり子でしょ?」
「秘密がありすぎてどれから話していいものやら」
「ガーン」
「何から聞きたい?」
「えっと、う〜ん、夢のこと」
「夢のことって?」
「めり子、私の夢覗いてたでしょ、しかも多分毎晩」
「うん」
「うわあ、あっさり」
「飛田くんに脳波を調べられている時も、麻酔で眠らされて脳でいじられている時も」
「え、怖い」
「怖がらないでよ!助けてあげたんだから」
「どういうこと?」
「ハチが麻酔で眠らされている間に、ちょっとした精神分析的な介入をね」
「?」
「麻酔中、誰かから話しかけられなかった?」
「!話しかけられた」
「あれ、私」
「そんなことまでできるの?」
「さすがに普段は夢にちょっと登場するとかしかできない」
「それはできるんだ」
「夢の内容ををちょっといじったり」
「そんなことまで…」
「でも長いおしゃべりとか、無意識の閲覧は、あの中みたいに脳内へ深くアクセスできる環境じゃなきゃ無理」
「そうなんだ…」
「そこでハチの無意識を全部みた。それで、これがトラウマなんだなって箇所を、こうヒョイッと、意識の上に」
「ヒョイッと」
「そしたら、無事にトラウマを克服しましたとさ。めでたしめでたし」
「ええっと、死ぬほど頭がパンクしそう、どういうこと?てゆうかなんでめり子はそんなことできるの?」
「それはね、簡単。理由はふたつある」
「両方教えて」
「ひとつは、私たちが個人生体番号をお互いに知っていたから」
「ああ、なるほど。もうひとつは?」
「ヒント。私のお父さんの仕事は?」
「政治家」
「ピンポーン」
「はあ?」
「娘を溺愛するあまり、その政治家は娘にいろいろな権限を与えてしまった、というわけ」
「闇を見た」
「闇っていうか、純愛だから、光って感じ」
「純愛?」
「私、レズビアンだから」
「知ってた」
「初めてカミングアウトしたと思うけど?」
「バレバレだったよ」
「そっか」
「でも、めり子は、それがいけないことだと思ってるでしょ?」
「そんなことない」
「いや、そんなことあるよ」
「違うの、ハチ。違うの」
「どう違うのよ」
「私が怖いのは、私のこの気持ちがだんだんと薄れていくこと」
「どうして?」
「私も夢がみれなくなるから」
「政治家の娘なのに?」
「政治家でも、ていうか政治家ほど税金からは逃れられない。それと一緒」
「…」
「私はあっちの世界では好き勝手にできても、こっちの生体管理は一層厳しい」
「どうにかならないの?こんなにハチャメチャなことができるのに」
「ハチはいいよね、ハチはずっと夢がみれる。ハチの無意識は本物の無意識」
「ただの病気だよ」
「ハチが羨ましい。私は、いつか私じゃなくなる」
「夢がみれないだけで?」
「夢がみれないからよ」
「それじゃ、めり子も、いつか、男の子を好きになっちゃうの?」
「うん」
「それじゃ、いつか、結婚して、お母さんになっちゃうの?」
「愛する夫の子供をたくさん生んで、孫たちに囲まれながら死ぬの。くそくらえだわ」
「私はずっと、渋谷のあの子と擬似セックスか。どっちが本当の幸せかわかんないね」
「ああ、渋谷の子、あれ、私だよ。えへへ」
「はい?」
「ハチがあっちの世界でセックスしていたのは、渋谷のあの子の皮を被ったわたし」
「そうなの?」
「プログラムがあんなに上手にハチをイかせられると思う?」
「思わない」
「私でした。モデリングしたついでに私の生体情報と同期するようにしたの」
「超恥ずかしいんだけど」
「ごめんね」
「え、てことはさ」
「うん」
「あのゴーグルさえあれば、こっちの世界でもあの子とセックスできるってこと?」
「う〜ん、ハチは変な子だなぁ…」
「ごめん…」
「肉体か、確定記述の束か、どちらを固有のその人と定義するか次第かな」
「難しいね」
「私は、肉体だな」
「ふーん。あと、飛雄にいろんなことを吹き込んだのも、めり子だよね?」
「もちのろん」
「私の初恋の人だから、嫌いになった?そういうこと?」
「ああいう革命を夢みる子はたくさんいる。私のパパもよく狙われている。飛田くんはちょっとやばすぎるけどね。人攫いして本当に脳の血管を調べた子は今までいなかったんじゃないかな」
「そうなんだ…」
「飛田くんも惜しかった。けれど、革命は絶対にうまく行かない」
「権力者側が言うと説得力がある」
「だから、ハチの言う通り、飛田くんはその意味だけで特別だった」
「私、あいつのこと嫌いだよ」
「でも実際にこっぴどく振ってくれないと信じられなかった」
「私の無意識を見たならわかったんじゃないの?」
「無意識なんて、比率はともかく、人間の一部だもん。ハチの行動の全部を無意識が決定するわけじゃない」
「そういうもんなんだね」
「ハチだけはずっと、ハチのまま。ずっと夢を見れるのは、この世界でハチだけかもしれない」
「それって、なんか寂しいね」
「ハチはずっとハチでいてね。お願い」
「めり子、この世界をぶっ壊そう」
「なにそれ、ウケる」
「だって、めり子をファックする世界なんて、そんなの滅んじゃえばいい」
「飛田くんも似たようなことを言ってたな」
「え?」
「私、実は何度も飛雄くんから告白されてるの」
「嘘でしょ…」
「毎回、心をへし折ってやったけどね」
「どんな風に?」
「ちょっとまってね、コピペするから」
「ん?」
「Im Kampf zwischen dir und der Welt sekundiere der Welt」
「??」
「ああ、ごめん、翻訳し忘れた」
「何語?」
「昔のドイツ語。ちょっとまってね」
「”君と世界の闘いにおいては、必ず世界の側に与すること”」
「日本語でもわかんない」
「勝ち目なんてないの」
「…」
「飛田くんも同じ顔してた」
「誰の言葉?」
「フランツ・カフカ」
「ずいぶん悲観的な人だね」
「でも、闘いにも抜け道ならある。あった。そんな小説を書く人」
「それが夢ってこと?」
「そう、夢。人間が世界に対峙するには夢が必要だった」
「めり子は、世界との闘いに負けちゃうの?」
「負けたことにすら私は気づけないんだろうね」
「未来は真っ暗だね」
「私は、こんな世界で未来なんていらない。でも、今この瞬間だけは、誰にも奪わせない」
「今の気持ちは、今の本当の気持ちだもんね」
「うん」
「めり子の本当の気持ちが知れてよかった。私たち、秘密ばっかりだったね」
「ごめん」

めり子はずっと表情を変えずに私にメッセージを贈り続けていた。
 けれど、今は泣きそうな顔になって、私に問いかける。
 
「ハチは、私のこと、本当に、好きでいてくれる?」
 
好きだよ、めり子。私は、あなたのことが大好き。
「ありがとう」
めり子も、声を聞かせてよ。
「だめ、私の発言はすべて声紋と紐付けられている」
「文字だけが、私から切り離されて、自由なの」
でも、文字はただの文字だから、めり子を感じられない。
「ハチの夢の中では、私たちは自由に話せる」
「だってそこは、人類最後の秘密のスペースだから」
「その時は、ちゃんと、声に出して伝えるからね」
めり子。聞こえますか?聞こえますか?こちら、林ハチ。
私はあなたが好き。大好き。これから先も、ずっと。ずっと本当に。
「そう、あなたはハチ。林ハチ。これからもずっと。聞こえますよ。聞こえますよ」

これは、私たちがやっと付き合ったあの日の夜に判明したことなんだけど、渋谷のあの子は本当にめり子だったらしい。
 あの夜、私たちはシェルターで過ごして、声を殺しながら、はじめて本物のセックスをした。
 私はめり子からゴーグルを借りて、小さなペニスを生やした。これで私たちは妊娠が期待できる模範的なセックスをしたことになる。
 終わった後に、伝え忘れていたけど、ってめり子が一枚の写真を私に手渡した。
 百年前の渋谷の写真。パルコ前を不機嫌そうな女の子が歩いている───、歩いているんだけど、全くの別人になっている。
 めり子の釈明はこうだ。
 その子は別人になったんじゃなくて、私の記憶をめり子が改ざんしたのだった。もし好きじゃなかったら許せない話だ。
 写真のその子が私の無意識に刻まれ、夢に頻繁に登場することに嫉妬しためり子は、夜な夜な私の無意識に現れて、徐々にその子の造形を変えていったそうだ。
 私はめり子に、なんであの子の顔をめり子そっくりにしなかったのか質問した。
 めり子は飛雄みたいなことを言った。
 フロイト、舐めんな。
 夢の構造や製作工程はどうも私が思っているよりも遥かに複雑に理論化されていて、めり子はその仕組を研究して、最も無意識にめり子となって刻まれやすい造形にあの子を変えてしまった。
 それは、つまり。過去だけが未来を変えるんじゃなくて、未来が過去を変えてしまうことだってあるのだ。
 え、ってことは。入学式のトラウマも、もしかして捏造の可能性があるってこと?
 ギョッとする私の隣で、めり子はくすすすと笑う。私はへんな奴ばかり好きになる。
 だから、夢は、危険って言ってるじゃない。めり子はそう声に出して、私にウインクする。

私は今日も夢をみる。
 夜更しして寝入りの夢に登場して好き勝手するめり子だったり、夜這い装置だったり、和姦だかレイプだかで私の夢はぐちゃぐちゃにされて、それでも私という存在をたしかに支えている。
 過去も未来も夢幻に拡散してしまうけれど、今という一点は名状しがたい力で私の身体へと固く結び付けられている。

私はめり子にキスをする。「私はハチにキスをする」。唇の形を彫刻するみたいに、「長く確かなキスを交わす」。
 私たちは、いまここにいる。
 「いまここでどこでもないスペースが、いまここを裏打ち」している。
 私たちは、「私たちが、いつまでも、確かなるものであってほしいと」、そう願う。
 「どうか」。どうか。

人工衛星が私たちの頭上で強く光り、闇夜がハレーションした。
 次の朝に、めり子は駅のホームで男の子と恋に落ちた。
 

文字数:24881

課題提出者一覧