通路にて
そうだ。大体の人はこの地下通路を都市伝説だと思っているね。
八十をゆうに過ぎていると思われる「所長」と名乗る男は言った。
「横浜の日吉にあるK高校の防空壕入り口は塞がれてしまったが、当時はちゃんと大倉山の精神文化研究所の地下まで繋がっていたし、軍の地下研究所も存在した。戦後は民間に払い下げられて、今に至るというわけだ」
若い僕と老いた男の足音が、白色蛍光灯に照らされた長い通路に響く。
もしかしたら、電気はこの男が引いたものだろうかなどと考えながら僕は歩いていた。
歩きながらも、男の話は続く。
今歩いている辺りは、明治時代には桃の産地だったのだよ。
西の岡山、東の神奈川とか言われてね。なんでも名主が品種改良を重ねて新品種を作り出し、一大産地になったそうだ。しかし水害と戦争で、今は表で桃を作っている農家は一軒だけになってしまった。
表ではね。
君は記者だが、学生時代は植物バイオテクノロジーを専攻していたそうだね。じゃあ、知っているかもしれないな。
桃は仙木と呼ばれ、邪気を払う効果があるとされている。伊邪那岐が投げて伊邪那美の追手を退けたことから、桃の実は意富加牟豆美命の神名を授かっていると古事記にも記されている。
三千歳の桃は、漢の武帝が西王母からもらったとい三千年に一度花が咲き実を結ぶ、食べれば不老長寿になる桃だ。これは蟠桃という品種の桃だと言われているが、もちろん現在存在する蟠桃にそんな力はない。
しかしね、伝説というのは何らかの真実を秘めている場合が多い。
ほんの僅か。もし、その遺伝子に、かつて持っていた力が残っていたとしたら?
君なら私の言っている意味がわかるだろう。
戦争中、馬鹿共は桃の木を全部切ってしまったが、ひそかに研究は続けられていた。
木を切られた時のことを思い出したのか、男は苛立たし気に爪を噛んだ。
その様子を見て、僕は彼から少し距離を取った。
かなり長く歩いて来たのに、目的の場所になかなか到着しない。前にも後ろにも、ただ長い通路が伸びているだけだ。
伝説の地下通路のことを知っているという人の話が聞きたかっただけなのに。ちょっと見せてやると言われて、民家の地下から通路に入っただけなのに。
どうしてこんなことになってしまったのか。
後悔がせり上がってくる。
そんな僕の気持ちなどお構いなしに、男は話を続けた。
「そういえば、この近くに関係者以外参拝できない神社があるのは知っているかい?」
「いえ。初耳です」
「天照大神を祀っている神社なのだが、渋沢栄一や東急を作った五島慶太も合祀されている。経済界の人間には大切な神社だ」
僕は、はあとか何とか曖昧な返事をした。
「わかるだろう?」
男は立ち止まると、急に僕の方に向かって言った。
「金と権力を手に入れた、もしくは手に入れようと試みる者が欲しがるものは何か!」
僕が返事をしなかったことなど、彼は気付いていなかっただろう。
男は、僕とは何か別のものに対する怒りで興奮していた。老いて細くなった肩を震わせながら、白く冷たい光に照らされた床を見つめて言った。見開かれた目は充血している。
「簡単な研究ではなかった! 結果を出すには長い時間と資本が必要だった! だが彼らはそれをわかっていなかった!」
男は、突然壁に手を触れた。
「君を呼んだのは他でもない。この研究を世に知らしめて、再び投資家から金を集めるためだ」
男の声が地下通路に響き渡る。
さあ! 見たまえ!
皺だらけの手が取っ手を掴み、ゆっくりと重い扉を開いた。いや、彼の老いた体では、ゆっくりしか開けなかった。
観音開きの扉の向こうは、かつて研究所だったと思われる廃墟で、錆びて朽ちた機械が転がっていた。その上に山積みにされた桃が腐って茶色く溶けて流れていた
逃げよう
だが、あの地下通路の長さを思い出すと足が動かなかった。
眩暈がして、僕は座り込んでしまった。
においで呼吸ができない。
甘く濃密な腐敗臭が、鼻を口を皮膚を覆いつくす。
僕はゆっくりと窒息していった。
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内容に関するアピール
横浜市在住です。
最近、横浜の歴史を調べていて、その時に見つけた横浜市港北区の町をテーマに書きました。
特定の企業や実在する農家が出てくるため、最初はもっと地名をぼかして書いていたのですが、クローズドな場所での公開なので、わかるやすさを優先して明記しました。
実は、ずっと文字数を1000字と勘違いしていました。
土壇場で伸ばしたため冗長な印象になってしまったことを反省しています。
文字数:189